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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
お馴染みなんですが、イリュージョンがあるじゃないですか。
先日、私全く見ませんが、ハリウッドの受賞式で平手打ち騒動があったじゃないですか。
あれ、どうしても私たちは、あの光景を意味づけるんですよ。
ああいう意味に満ち溢れたような光景に、意味が全くないとは信じられないんですね。
でも、あの段、いないと思うんですけど、どこかに猫が潜んでいたとするじゃないですか。
意味全くないですよね、あの光景に。
で、あれ、例えば私が見た場合、私は殴った人の俳優さんも、
名前を既にありきたりな名前だなと思った記憶があるんだけど、もはや名前を忘れてまして、
司会の人、そもそも司会者なのかどうかすらわかってないんですけど、私は。
お城の名前は知りません、という人間が見た場合と、
あれを興味津々でずっと見ている人とでは全く違って見えるはずなんですよね。
で、例えば、あれに対して意見も様々あるじゃないですか。
ツイッターでたまたま見かけたんだけど、すごく殴ったことに対して、
まあ、良くないかもしれないけども、基本的には良いことなんだという観点の人もいるわけじゃないですか。
当然その逆の人もいっぱいいるわけですよね。
全くやっぱり違って見えてますよね。
で、避けられないですよね、この意味付けというやつからは。
殴った人から見た視点もあるわけですよ、この世の中には。
その視点は我々には一切ないですよね。
で、殴られた人の視点もあるわけですよね。
一切ないですよね。
で、奥様の視点もあるはずなんですよ、もちろん。
で、壇上の一番近いところで見ていた人とか、遠くで見ていた人は違うわけですよね。
これが私たちの生きる世界だと思うんですよね。
たったこれだけのことを取り上げても、もう全然違う世界に生きちゃってるじゃないですか。
そしてこれは毎秒毎秒について同じことが起こってるわけです。
私の生きてる世界に生きてるのは私一人なんです。
この言い方は非常に誤解を招きがちだし、自分をも誤解させがちなんですが、
でも事実こうなら間違いないんですよね。
で、ひとつ私がまず思うことは、人と比較競争する意味は全くないということですね。
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なぜならば競争相手は同じ世界を生きてないわけだから。
しかも相当違うから。そっくり同じくらい近いところにいても違うんですよ。
例えば私とうちの奥さんとかね。比較したり競争する気持ちが全くわからない。
なぜならば実に全く違う世界に生きてるのは片目で見ててすぐわかる。
でも不思議じゃないですか。一番私とよく似た世界に生きてるのはうちの奥さんなんですよ。
決して私とおかし層さんじゃないんですよ。
彼と私の方が似た世界に生きてるように見える部分も多いんだけど、
住んでる場所はそもそも結構遠く離れてる。遠く離れてるって言ったら東京都とかなんだけど、離れてますからね。
うちの奥さんと私は同居してるわけですから。でも明らかに生きてる世界は違うんですよ。
うちの娘と私とじゃあますます違いますね。
ということがあって、じゃあ私と同じ世界に生きてる人とかっているのかというといないんですね。
なのに彼の方が収入が多いとか、彼の方が人生で得して見えるとか意味がないんですよね。
なぜならば違う世界に生きてるのに、仮に得をしていたとしても同じように得する方法は私にはないじゃないですか。
その世界に移り住むことができないから。
移り住むためには例えば平手打ちのシーンで全く同じように感じたりしなければならないんだけど、それは無理ってもんですよね。
同じ意見を持ちとかしちゃダメで、全く同じように感じないとダメなんだけど、そんなことありえないから最初から無理って話なわけです。
長々としてきた意味付けというやつですけど、ここから次に私たちは意味を素材にしてイリュージョンを作っていくということがやれちゃうわけですね。
上司に出席された後で、その苦しみが続く。この続いている苦しみは全部イリュージョンですよね。
もうちょっとあるのが、もうちょっと苦しいのが、何かミスをしたと思って、しかもそのことを報告しなければならない。
この時に言うんですよね。脳内シミュレーションで100%嫌な目に遭う。多分100%嫌な目に遭いますよね。
ただ、その100%嫌な目に遭うというのは、これから上司が何を言い、自分がどういう気持ちになり、その時どういう胸の痛みが走り、あるいはお腹の痛みが走りっていうのは100%正確に予想することはできないんですよ。
この時、脳内でやっているのはイリュージョンなんですよ。それは非常に簡単にわかることなんですよ。
なぜなら脳内に上司がいて、それと現実にいる上司は同じ振る舞いを今現在行ってないからなんですよ。
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このことを端的に書いたタイトルがあれですよ。そいつ今頃パフェでも食ってるよってやつですよ。
あれはよく売れましたし、私もいいタイトルだと思ったけど全部は読んでないですが、今頃パフェでも食ってるわけですよ、本体は。
脳内のイリュージョンで私たちを苦しめたり、私たちを怒ったり、私たちに嫌味を言ったりしている脳内の存在はパフェを食ってないじゃないですか。
だからイリュージョンなんですよ。これからその人は100%自分を嫌な目に合わせるっていう程度の予測は当たるかもしれませんが、
だからといって脳内にいるやつが本体であるというわけにはいかないんですね。ここがすごい大事なんですよ。
脳内にいるということはですね、例えばその上司が報告してもニコニコしていいよいいよ大丈夫だよ、しすぎちゃったことは仕方ないよって言うかもしれないんですよ。
絶対言わないと、そんなのはそれこそ幻覚でイリュージョンだって思うじゃないですか。
ということはつまり同じだってことなんですよ。そうは思えないんですけどね私たちは。
だいぶ前に私がここのキッチンで瓶を粉々に割った時に、いいよいいよしょうがないよと奥さんが言うというイリュージョンは脳内に描けないんだけど、
本当は描けないというのはおかしいんですよ。描けるはずなんですよ。絶対に腹を立ててカナキリ声を上げるだろうという予測は当たるんだけど、
でもカナキリ声を上げる前に上げている空想を脳内に作ったこれは空想なんですよ。本体じゃないから。
だから空想は書き換えられるはずなんですね。それがどんなに困難に思えたとしてもやっぱり空想なんだから。
肌場の中で描いたんだから。消すこともできれば書き直すこともできるんです。
これを私は最近やるようにしているんですね。イリュージョンですよもちろん。脳内で私が描く全ての人は好意的であると。
好意的に私に接し、好意的な眼差ししか私に向けないというのを今やっているんです。
もしそれができないんだったら一切彼に彼女について空想するのはやめる。
それができれば苦労はないと思われるかもしれませんが、これはできるんですよ。
なぜならそいつは今頃パフェでも食ってるからです。つまり本体じゃないからってことなんです。
本体じゃないってことが受け入れられるかどうかですよね。
本体じゃないのは確実なんだから、あとはもう本体じゃないってことを受け入れるだけなんです。
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本体に後で必ずこういう目に合わされるという予測を100%に正確に立てることに意味はあるでしょうって思われるかもしれませんが、これは意味がないはずです。
たとえそれが100%当たるシミュレーションをする意味があるって私も言われることはあるんですが、
100%当たるシミュレーションだとして、たとえば粉々に割ったとするじゃないですか。
シミュレーションしておけば怒られないようにする手立てはあるか?ないんですよそんなもんは。100%なんだから。
つまりこれをやる意味っていうのはたぶん私たちが最後の最後の取り出として持ちたいと思っているのはどういうことかというと、
怒られた時の心の心構えをしておいて、その痛みを和らげたいってことなんだと思うんです。
で、私はそれも散々もちろんやってきている人間なわけですよ。散々やってきているわけです。
母親に対するシミュレーションとかはたぶん私の人生中最大再生回数ですよね。100万回とか優に突破しているわけですが、意味が全くない。意味が全くないんですよ。
なんだけどやるんですよね。やって心構えを持っておけば痛みが軽減できるような気がしてしまう。
そういうイリュージョン、これもまた一つのイリュージョンなんだけど、私が根深く持っているということ。
これがたぶん一番私がなんとかしなければならない課題なんだろうなってずっと思っています。
イリュージョンそのものとか怒られることの怖さとかに比べても遥かに立ちが悪いのはこの心構えを持っておけば痛みが和らぐはずだというこの強い思い込み。
この思い込みのせいで私は四六時中一歩間違うと心構えまくるわけですよ。意味が全くない感じがするんですね。
なぜならこの種の心構えをたとえばうちの娘とかはあんまりしてません。してないように見える。わからないからですね。
ただ私に比べればしてません。で、してない娘の方が心が痛んでいるかというととんでもないわけですよ。
明らかに私の方が痛んでいる。それは彼女の絵を見ればすぐわかるわけです。
明らかにそういう世界には生きていない。私みたいな世界には生きていないということは絵を見るとわかるんですよ。
これがたぶんアートセラピーと呼ばれているもの。私のような人間が絵を描くと、絵を描けないからあれなんだけど、
遊戯療法とか絵画療法とかいろんな言い方があるんですけど、絵を描けば必ずこの心構えで痛みを和らげようとしている面というのが絵に現れるんですね。
あるテーマを与えられればたぶんノンジャンルで何を描いても出てしまうんですが、
これを出ているということを例えばユングハムカウンセラーの人とかは結局わかるんですよ。絵を見ただけでわかっちゃうんですね。
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別に箱庭でもなんでもいいんですけどね。これが出ているということがわかって、なおかつ私にもわかれば、
これが出ないような絵を描きましょうという指示は出ませんけどね。そんなことを言っても無駄なんで。
出ちゃうんだけど、出ちゃうということがわかることによって表現として外在化されることによって、
外在化することによって何とかする心の持ちようみたいなものを心が探り出すということなんだと思います。
そういう指示は出ないと言ったんですけど、脱線ついでに、支持的療法と非支持的療法という、
これもひどく今しゃべってみて説明用語的だなと思ったんですが、あるんですよね、カウンセリングの世界には。
非支持的がいいとされているし、日本の主流だし、一番非支持的だとされているのがロジャースという人の考え方なんですが、
全く指示を出さないわけです。支持的療法というのは指示を差し示す方の指示です。
支持的療法というのはあんまりこの国では流行りませんが、
割とこのポッドキャストで話題に取り上げていた、平気で嘘をつく人たちのあの先生は非常に支持的なんですよ。
アメリカだなと思うし、それにしてもこれを言っちゃうかというような、
あなたは卑怯者です。心を強くしなさい、みたいなことを言うんですよね。
でも効果を上げているわけだから、支持的か非支持的かがどっちでなきゃいけないということではやっぱりなくて、
あれがカウンセラーの腕ってやつなんだと思うんですけど、
アドバイスと提案はどう違うんだというのもあるけど、少なくとも命令みたいにはならないと思うんですよね。
1960-70年代にアメリカのアルコール病患者に対して、
アルコール病患者に対してアルコール病患者に対してアルコール病患者に対して
アルコール病患者に対してアルコール病患者に対して
高いところが怖いんだったら、階段を一段ずつ登るようにしなさいと。
登ったら何でもいいんですけど、ポイントを上げますとかそういう考え方です。
あれですよ、スキナーボックスと同じで、レバーを倒したらご褒美がもらえるから倒せっていうわけですよ。
これが最も私は支持的だと思うんですね。
カウンセラーに対してアルコール病患者に対してアルコール病患者に対して
アルコール病患者に対してアルコール病患者に対して
これは完全に支持的だと思うんですね。
カウンセリングじゃないという感じもしますけれども、
何をしろって言うわけですから、克服しろって言うわけですから、
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これは完全に支持的な世界だと思います。
これとロジャースが一番対極な感じがやっぱりしますよね。
ロジャースは怖いという話を聞いたからといって、
怖くなくなりなさいとすら言いませんから、言わないはずだと思うんで。
どっちの方が優しいとか温かいっていうのは非常に微妙な問題だと思うんですよ。
カイハンさんも書いてましたけど、
支持的が優しいかどうかは疑わしいですよね。
ものすごく突き放した世界なようなところもあるわけです。
何をやってもそれをやめなさいとすら言ってくれないわけですから、
アルコール飲みまくっていてとても辛いんですって言ったからといって、
一緒に減らしなさいとすら言わないのが非支持的ですからね。
徹底したところでは。
そうするとそれって何ら寄り添われている感じがしない、
この辺から始まるんだと思うんだけれども、
非支持的の世界の究極形というのは、
結局ものすごく突き放された世界かなというような感じを、
私はロジャースの本を読んだ時にすごく思いました。
つまり最初の話に戻ると、
僕らはイリュージョンを作るんだけど、
何のために作るかというと、
僕の場合は心構えのためなんだと思うんです。
脳内シュミレーションというのも完全にそのことを意味していて、
この事態が発生したとき、
自分の心が痛めつけられすぎないようにするために、
言ってみればシュミレーションといえば、
ワクチンみたいなところもあるわけですよね。
免疫をつけたいわけですよ。
体制を、心の中にこの怖い光景を何度も再生することで、
体制をつけたいと。
だけれども、これは何かあれなんですよ。
事前に痛みを予知しておけば痛みが少なくなる気がするというのは、
身体においては100%嘘かどうかは断言できないんですが、
心について言えば、こんなことはしなくていいです。
私はこれをするよりは遥かに、
これをやめるかさもなくば、
少なくとも今私がやっている限り、
こっちの方がマシだと思うのが、
良いイリュージョンを作る。
良いイリュージョンも、主戦はイリュージョンだから、
無い方が良いかもしれないなと自分は思うんだけど、
少なくとも良いイリュージョンの面白いところは、
もちろんイリュージョンです。
つまり、笑って許してくれるというのも嘘っぱしなんだけど、
非常に面白いところなんですけど、
これは、笑って許してくれる光景を事前に何度も何度も描いていくことですね。
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この予測が100%裏切られたとしても、
その相手の中には、どこか笑って許してくれている感じというものが
見えてくるんですよ。
これが最初に平手打ちの意味は、
見ている人の数だけあるということと関係があるはずなんです。
イリュージョンと意味付けは深く関わっています。
言ってみれば、光景そのものにイリュージョンを被せているのが
意味付けみたいなものです、私の解釈では。
この良く見ようとしていれば、笑って許してはくれてませんが、
笑って許してくれているイリュージョンを繰り返し
自分の中で脳内再生しておくとですね、
笑って許してくれているように見える怒られ方というものが見つけられるんですよ。
それも意味付けだと思うんだけれども、
そういうことが可能になるんですね。
ここですごく大事なのが、その光景を見ているのは
世界で私一人だということなんです。
これを人に向かって証明したり、
イリュージョンが現実になりましたと言い切る必要はないんですね。
僕はこれがイリュージョンが現実化していくという流れの中にあると思うんだけれども、
これをやればですね、ある程度そういうふうに知覚が動いてくれるんです。
それは知覚が歪んでいるんだって思った人はですね、
このことを考えてほしいんですよ。
でも、ハリウッドのあの光景を他の人と同じように見ている人は一人もいないんですよ。
それは知覚の歪みなのかと、もしそういう言い方をするのであればですね、
全ての知覚は歪んでいるんですよ。
ここを僕らはきっと忘れているんですよ。
哲学者なりがそういうことを指摘すればですね、
今の時代は全ての知覚は歪んでいるんだというのに対するコンセンサスは取れていると思うんです。
あの、認識理学でも全く同じことを常に言います。
目の錯覚ってそうじゃないですか。
知覚は歪んでいるんですよ。
正しい知覚というものがそもそもないんです。
この話、みんな頭では受け入れているようでいて、すぐ忘れてしまう。
僕もすぐ忘れちゃうんですよ。
この光景を見ているのは私一人で、
しかもその光景は私の意味付けの仕方によって変動するんです。
知覚がそういうものであったら困るという人もいるかもしれませんが、
そうでなかった知覚はこの世に一つもないということを忘れちゃいけないんですよ。
正しい正確な知覚があると、写真に撮ったようだと言うじゃないですか。
でも僕らは写真を知覚することしかできないんですよ。
写真を撮ったように物を見ることはできないんですね。
写真を撮った後でそれを見るということをしているから、結局知覚なんですね。
その知覚は歪んでいるんですよ。
写真がどんなに正確であったとしても。
この必ず歪んでいるものを見ている以上ですね、
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私がどのようなイリュージョンを知覚にかぶせようとも、
これも誤解を招く言い方ですが、私の勝手なんですよ。
ただそんなに自由自在にはできませんけどね。
でも間違いなく怒られるというシミュレーションをしているときと、
許されるというシミュレーションを事前にしていたときでは、
知覚した内容が遥かに事前のシミュレーション、事前のイリュージョンに
強い影響を受けるんだということは、最近私がよくよく学んだことなんです。
このこと一つとればですね、絶対事前に最悪のシミュレーションをしておくのは最悪だということですよ。
実現してしまうという言い方をすると強すぎるのであれば、
知覚したものは事前のシミュレーションに近いものになると言っておきます。
例えば、青信号ってあるじゃないですか。
緑だって強く思ってみると緑に見えるんです。
これは実験があるんですよ、そういう認知心理学が。
青だって強く思ってみれば青く見えるんです。
こういうことに近いですね。
事前に強く思い描いた光景に近いものを知覚の中に見出すという能力が人間にはあります。
能力というか脳がそういうふうに自分をアジャストしちゃうんだと思うんですね。
つまり脳内シミュレーションというのは最初から客観性がないものなので、
事前に悪い予測をしてしまうと、それに近い現実が実現したとき、
悪い予測に近い現実を自分が受け止めなければならないし、
良い予測をしておくと良くはなんないでしょうけれども、
それよりはマシな現実を自分が受け止める。
怒っていることは変わらないんですよ、これ。
でもそれって今のように説明すると受け入れ難いかもしれませんが、
平手打ちって私はそう言われてみるといい案、事例だったなと思うんですが、
あれ、ものすごく嫌われる人に叩かれた場合と、ものすごく好きな人に叩かれた場合とでは、
まあこれはシチュエーションによるけどね、
多分後者の方が全然痛くないと思いますよ。
で、叩いた力が後者の方が強くても後者の方が痛くないと思いますね。
こういうことって僕らの近くでは起こってしまうんですよ。
絶対に会いたくない目に会ったときの方が厳しいわけですよ。
これは許容できるとか、これは悪くないとか、あるじゃないですか。
好きな人同士で叩き合ったときに、結構痛いのにもかかわらず全然痛くないということってあるじゃないですか。
それに比べて、ろくでもない人との喧嘩だと、手が触れただけでもすごい腹が立つじゃないですか。
あると思うんです、そういうことって。
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これは事前に私たちがどういう意味付けをその近くに対して成すかによって、
その近くの意味そのものが変動せざるを得ないんですね。
近くは中立ではないですから、絶対ニュートラルなものではないので、
近くというのはすごく選択的なものですから、
どういう選択をするかによって全然違うものが経験されてしまうんですね。
結局近くというのは最終的には経験なので。
だから、脳内シミュレーションで最悪の事態を想定するようになるものはやめたほうがいいと思うんですよ。
これは病気とかでも全く同じ事態が生じるだろうと。
私がだから、この今の私の状態は調子が少々悪くても後遺症とは見なさないと言っているのには、
一定の効力があると信じているからなんです。
だいたい調子が良いだと悪いだと言ってみたところで、
これはタスクシューター的な言い方になりますが、
2月の状態を見てみると、返してできるわけじゃないんですよ。
調子が良くてもコロナの前でも。
後遺症だというのも平気で言うというのは、
調子が悪いような原因を全部後遺症のせいにしてしまうんですよ。
そうすると、近くしている中で後遺症的なものは全部後遺症になってしまうんですよ。
喉がイガラっぽいとか、この季節ですからね。
花粉症かどうかなんて、どうやったって完全に区別はつかないですよね。
微熱が出るとか、これもこの季節ですから、出る人はいますからね、花粉症で。
で、花粉症で出ようと、喉がイガラっぽいかどうと、
気分が悪いことに違いはないですよね。
そして、めんどくさい仕事をするというのが、めんどくさいこともあるんですよ。
何かの理由をつけて、やらずに済ませたいじゃないですか。
で、やらないという、できないという時に、ちょっと頭が重い、
コロナにかかったからだという展開を脳内で作ってしまうと、
そういう現実を経験しなければならなくなるんですよ。
それも毎日毎日、そんなことをしなければならなくなるじゃないですか。
で、何かの理由をつけて、やらずに済ませたいじゃないですか。
それも毎日毎日、そんなことをしなければならなくなるじゃないですか。
もしかして、ある日、調子は悪くなかったかもしれないし、
雨が降って、花粉があんまり飛んでなかったかもしれない日も、
取り逃すじゃないですか、一歩間違うと。
繰り返し繰り返し、自分にそう言い聞かせてしまえばですね。
だから、これをやることで、痛みへの心構えが万が一できるとしてもですね、
そのコストとしては高いと思うんですね。
この心構えによって、痛みがなくなるとでも言うならば、
またちょっと検討の余地があるかもしれませんが、
なくなるわけじゃないじゃないですか。
100あった痛みが98.5ぐらいになるっていう話をしたいだけなんですよ。
この事前に心構えをしておけば。
ここまで自分で喋っておいても、自分は心構えを対している瞬間が、
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何度も目撃できますけれども、
それでもですね、この事前に良いイリュージョンを何度か作っておくというのは、
悪くないなと最近思うようになりました。
あんまり仏教的に見ると、仏教的に見る必要はないんだけど別に、
仏教的に見ると良い方法論ではないんですけれども、
まあ、あれですね、緊急時みたいな、
どうしてもこの現実にだけは遭遇したくない、
どうしてもこの現実にだけは遭遇したくないという問題、
そういう時は放っておくと勝手に悪いイリュージョンしか作れなくなってしまうので、
それぐらいだったら、それを振り払ってなくしておくということができない時には、
つまり結構いつめられている時ですが、
良いイリュージョンというのはですね、平安なイリュージョンなんですよね。
相手が笑って許してくれるというよりは、
仏教的に見てくれるレベルで留めておく。
私はイマジネーションの能力が高くないので、
そういう素っぽいシミュレーションをするとなると、
そもそもそんなぐらいのことしかできないということもあります。
でも、それこそ心について言っていますけれども、
戸畑海人さんの何でも見つかる夜に心だけが見つからないの中にも、
敵対的な他者が心の中にいると眠れなくなると、
あれが大きなヒントにもなっています。
つまり、だったらばその敵対的な他者を敵対的でなくしてしまえばいいんですよ。
これも今こうやって言うと、そんなことができるなら苦労しないと思うかもしれませんが、
心の中の話なんですよ。
しかも何なら寝る前だけやってみればいいわけですよ。
その人が優しく見てくれていると。
難しいかもしれないけれども、不可能だとは思わないんですよね。
なぜならそいつは今頃パフェでも食ってるからなんですよ。
ウイスキー半瓶あけて無理矢理寝ようとするというよりは、
やってみる価値があるんじゃないかと、
あの本を読んでつくづく思った、そんな感じの話です。