00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
やっと1週間が終わった感が僕にもあります。
勤めてるわけじゃないんですけどね。
娘が今日も学校に行っていて、
こんな日くらい休みにすりゃいいのにと勝手に思っちゃうんですけど、
なかなかそういうわけにもなぜか行かないみたい。
たぶんこれ、私たち日本人の昭和の頃からの癖なんでしょうけど、
どんな日でも会社とか学校とかに行くことは一定の意義があって、
それも結構高い意義があるって信じているようなところがあるんですが、
どうしてなのかの説明がもうつかなくなってきてる感じがしますよね。
コロナ禍でそれが明らかにわかったような気もするんですが、
一向に変わる気配がなくて、
今朝もこういう天候だから駅とかも長蛇の列になるわけですよ、いろんなものが。
そしてみんな傘を斜めにさして頑張ってるわけだけど、
なんでこうしてまでどこそこに行くことに意味があるんだろうっていうのに、
きちんと答えられる人って多くはないんじゃないかなって感じがしますね。
私たちは群れで生きていますから、昨日から繰り返し言ってるように、
これはしょうがないんですけれどもね、ある程度は。
文化的な規範ってやつは極めて大事。
昨日、チンパンジーの甘噛みの話をしましたけど、
チンパンジーはそれでもまだいいんですよ。
受け入れられてるとわかればいいわけですからね。
人間の厄介なところは言葉があるので、言葉があるから便利なんだけど、
言葉があるので受け入れられてるということの意味が抽象化してしまって、
評判が良い悪いになっちゃうんですよね、これは。
この評判が良いっていうのは外視で主観的なものでしかないんだけど、
本人は特に受け入れられてないと思った時に必ずそうなるパターンを感じて、
必ずそうなるように評判が良い悪いっていうのは客観だと思ってしまう癖があるんですよね。
チンパンジーなら甘噛みしてもらえばわかるわけですよ。
ガチンと噛まれなかったということは受け入れられたということが異常でいいんですよ。
評判の良し悪しとかは彼らは考えつけませんから、そんなものないですからね。
人間社会にも本当はないと思うんですけどね、
何か集団的な規範があるんですよね。
人間社会にも本当はないと思うんですけどね、
何か集団イリュージョンとはこういうものを言うんだっていう集団幻想ですよね。
思うんだけど、私たちは評判というものが良いか悪いか評判社会っていう言葉があるんだけど、
そういう考え方を持っちゃっていますから、
受け入れられているかどうかが一段と抽象化してわけわかんないものになりやすいんですね。
03:04
良いと思っている人の評判だって大したことなかったりしますし、
悪いと思っているのは完全に誤解だったりするんで、
そんな実験は社会心理学にいっぱいあるんで、
でもそんなの実験するまでもなくわかることですよね。
本当はみんな知っていると思うんだけど、気にはすると。
この気にするっていうのもずいぶん前にいっぱい話題にしましたけどね。
その評判なんですが、評判というか甘えなんですが、評判を良くしたいって甘えですよね。
なぜなら他人の気持ちというものをこっちでコントロールしたいと思っているわけですから、
他人の気持ちをコントロールする本質的な権利って僕らないと思うんですよ。
だから評判を良くしたいっていうのは甘えだと思うんですが、
甘えということはつまりですね、甘えはいいものなんですよ。
というか甘えというのは僕らの本能的に満たされていなければならない欲求。
僕はここを気球と言いたいんですけど、本当は希望の木に求めるですね。
この気球というと同音異義語で特に空飛んでいくやつになっちゃいそうな気がするので、
欲求と言っておきます。
愛されること、愛されたいと願う欲求っていうのかな。
バリントの定義だから甘えと少し違うのかもしれないけど、ほぼ同じだと思いますね。
まず赤ちゃんがとにかく母親に甘えたいと思っているという意味なんですよ。
そこにはいろんな意味がありますけど、そんなこと赤ちゃんが分かっているかどうか分からないわけじゃないですか。
でもおそらく本能的にあるだろうと。
愛されたいと思うとか言葉はないからそれは分からない。
愛されたいと願うというのも分からない。
でも多分そういう求めているんだろうと。
つまりこれはニュートラルではないということですね。何度も言いますが。
そういう渇望はあるという意味です。
どう満たせばいいのかというのは、抱っこしなければいいんだけど、
どう満たせばいいのかというのは自明ではないですね。
ご飯をやればいいって話ではないですもんね。
食欲を満たすというのほどはっきりはしていない。
でもある意味誰にでも分かるとも言えます。
甘えたいという欲求がだんだんといろんな形で言語化されたりして明らかになっていくんですが、
昨日の話は同一化したいという形にこれが治っていく。
だからクレームを入れるわけですよ。
自分は同一化できていないと。
要するにそういうことですからね。
甘えが満たされていないときだけがこれは問題になる。
満たされているときは自分が甘えていないと思っていますから。
私はもう全然誰にも甘えずに生きているぞって。
ここが甘えが非常に厄介なところで、
06:02
基本受け身的な欲求であるためにネガティブなときにだけ自覚が強くなるという、
当然構造的にそうなるんですが、当然そうなってしまって、
だから甘えて良くないものだと思われているんですよ。
そんなに甘えるなって人は言うじゃないですか。
これが甘えの態度なんですよ。
甘えるなって人に言うっていうのは甘えですよね。
なぜならば、さっきも言ったのと同じですが、
人の気持ちを動向する権利は僕ら本質的にないので、
人に甘えるなと言うということはその人に甘えているんですよ。
あるいはそうじゃない何かに甘えてもいるんですね。
甘えるなという話が出るときって必ず、
同一化できていませんという構造があるはずです。
同一化と甘えが同じである以上は。
同一化できていないわけですよね。
甘えるなと言っているということは、
君のその態度は私にとって同一化できる態度ではないと、
細かく言うとそういう話になりますね。
あなたの甘えようとしている態度に、
私は同一化できない。
だから、同一化できるあなたの態度に変えなさいと。
実にこれをこういうふうに言ってみると、
エゴイスティックであることがよくわかるわけですよ。
俺にとって都合のいいお前になれというのと
全く同じなんですよね、これは。
大人の子供を叱るときもほぼほぼこれが出ています。
出ているはずです。
あなたのその態度は私には受け入れられないから、
受け入れられる態度はあなたにとっては
自分の態度に改めなさいというわけですから。
でも、これをやらないわけにいかないときもあるわけですよね。
子供を持ち、かつ子供が自分がどうしてもやらないことを
公衆の面前でガンガンやったときは、
これをやらないで済ませるのが本当に難しいところがあります。
文化的規範というものです。
ということはつまり、やややややこしい話をするなら
文化的規範は人に甘えているんですよ。
文化的規範というものに従ってほしいわけですよ。
人々に対して。
この人々に対して従ってほしいと言っている文化的規範というものは
生身には存在できないので、人々が持っているんですよ。
つまり、こうやって人というのは
集合社会では、集団社会ではですね、
集団で生きている以上、相互には甘えないわけにいかないんですよね。
少なくとも、多分霊長類はみんなそうです。
アンドロイドだったらそうじゃないんでしょうけどね。
霊長類だとこれをやらないと多分到底持たないというところがあるんだと思います。
だから、あいつは甘えてるねって言っている人は
十分甘えているわけですね。
で、あいつはわかっていないと言っている人は
十分甘えているわけですよ。
わかっているのかもしれないですけどね。
で、自分が受け入れられていないと思っている人、
これは思っているのによさくて本当に受け入れられていないのかもしれませんが、
09:00
どっちにしても受け入れられていないと感じている人は
自己肯定感が低いと。
だから、昨日言った通りで
クレームを出すと、昨日は塔をバタバタ閉めるところの近くに座らされた人が
セミナーで運営側にクレームを出したというお話をしました。
で、それはですね、その人は多分自己肯定感が低いと思っていらっしゃるわけです。
つまり、自己肯定感が低いということは
自分は自分でなくなりたいわけです。
自己肯定感が低いんだから。
もっといい自分になりたいわけだから、現状の自分では不満なわけですね。
で、現状の自分では不満な人が
塔をバタバタ開け閉めされるところに置かれると
まず一番最初に感じそうなことはですね、やっぱり私は舐められているんだと
こういう妄想を抱きがちですね。
この話を昨日はもっと構造的にしたんだけど
単純に感じることとしては、やっぱり私はこの運営側とか
初めて会う運営側なんでしょうけど、つまり運営側って私たちのことなんだけど
私もその一員なんですけれども、舐められているんだと
私その人が来たのに気づいてもいなかったんで申し訳ないんだけど
途中だったような気がするんですよね。
舐めるとかは一切ないんだけど、そこはもう妄想が入るわけですね。
日頃からこう、自分は受け入れられていないんだから
受け入れられる私になりたいっていう意味なんですけどね。
何のにもかかわらず、こういうところに平気で私を座らせるということは
やっぱり私はそういう、これですね、先日ツイッターで読んだんですけど
モラハラ体質っていうらしいんですよ。
モラハラ体質っていうと、モラルハラスメントする人の体質みたいに思うんだけど
一部では逆に使われていて、モラハラな人たちに出会ってしまいやすい体質っていうんですよね。
すでにこう、イリュージョン感があるんですよ。
そんな体質は僕はないと思うんですけれども、
そういうことをおっしゃる方って、ものすごく僕は多く知っている気がして
皆さん頭がいいんで、とても僕は不思議なんですよね。
完全にオカルトが入ってしまっているんだけども
多分オカルトとかは受け付けないだろうし、
信仰宗教なんてもってのほかっていう感じがするんだけど
でもおっしゃっていることは、完全にオカルト感があって
信仰宗教でいっぱいな感じがするんですよ。
つまりそれは、ハラスメントな人たちが寄ってくる自力のようなものを私は備えていて
例えば佐々木のような運営者側の人間が
あなたは扉がバタバタ閉まるところでいて、我慢してねって言うような
そういう体質を私は持っているらしいということで
クレームを出さなきゃならないということになるわけです。
そんなふうに扱わないでくださいと。
12:01
これはですね、もうちょっと僕は今のはただ原証明を言っただけなんですけど
要は同一化したいと、自分に同一化していたくないから
他者に同一化したいと。
セミナーとかに行っても受け入れられたいと。
一番受け入れてほしいのは運営側の人たちにだと。
極めて当然ですよね。
これは我々が新しいテニススクールとか
今は最近パッと思い浮かながら行っていないテニススクールなんだけど
行けばもう絶対思いますよ。
他の人たちに良くしてほしいって。
みんなコーチとかにめちゃくちゃいじめられて
来ている人もみんな嫌な人。
すぐ辞めますよね。
2万何千円とか払って入会金1万円とか払って
テニスとか行って
列の一番最後に常に並ばされられるとか
組む人もボール出しして組んないとか
すんげえ嫌じゃないですか。
だからこれは我々の自然な欲求だとみなしていいと思うんですよね。
同一化したいと。
行った先の集団に同一化したいという風に考えるのは
これは当然甘えたいということとイコールだと結んで
全く問題ないと思うんですね。
相手がどういう態度に出るかというのは
本質的にこちらでは決めることができないわけですから
甘えられるかどうかは相手次第で決まるっていう
土井さんのは全く当然のことです。
ここで普通はってのが出るわけですよね。
だからこの文脈をですね
普通はそんな新しく新規に入ってきたテニススクール生を
しごいたりいじめたりいびったりしないでしょうと
するやつはハラスメントでしょうというのが
現代的なものの言い方なんですけれども
これはちょっとですね
私の感じからするとニュートラルに寄ったんですよね。
相手に対して好意を持っていようといまいと
人間というのはそういう風にきちんとちゃんと
ハラスメントせずにやるのが正常な人間だと
その通りなんだけど
この考え方というのはどこかですね
アンドロイドチックなんですよ。
人間というのはもっと冗長的に動いている感じが私はして
はっきり言えば好き嫌いで行動しちゃうと
好き嫌いで行動してしまうということはですね
ベースにやっぱり愛情というものが強くあるんだろうなと
だから愛せるか愛せないかということを
ことさら問題にするし
そこのところがそんなにドライじゃないと思うんですよ。
普通に扱ってくれればいいという
普通といった時に僕らはよく扱ってくれる
丁寧に扱ってくれるというのが
自然と染み込んでいる感じがあるんですね。
普通というのが非常に事務的でビジネスライクで
もういいって思っているかもしれないですけど
そのビジネスライクにすでに僕にはですね
自然というものが十分潜んでいるような感じがするんですよね。
15:04
だからハラスメットというのがむしろ
簡単に言われちゃうんじゃないかなと思うんですよ。
それにやっぱり自分は自分って思えると
さっきのニュートラルという話もそうなんだけど
自分が自分だって思えるという時の感覚
それが一番問題なんだけど
自分が自分だと思えるという時の感じもですね
私は全然ニュートラルな感じはしないんですよね。
人は人、自分は自分って言った時
まるでアンドロイドがそう言っているような感じがするかというと
僕はそうは思えないんですね。
つまり自分は自分って言った時は
相当自分によっかかっているなあって感じがするんですよ。
つまり自分にすごく甘えているなって感じがするんですよ。
自分にすごく甘えられる時の自分ってのは
つまり良いものじゃないとダメじゃないですか。
ニュートラルなものじゃないと思うし
良くても悪くてもそこは問題じゃないってことではないと思うんですよ。
やっぱり自分に甘えられる
自分は自分だと思って安心していられるというのは
相当結局ここにはウェットなものがあり
情緒的なところがあってですね
それがわからない限りはですね
自己肯定感というのは結局
つまり自己肯定感というのは
クラゾノさんじゃないですけども
グッドバイブスですけどこれ結局
クラゾノさんじゃないんじゃなくて
クラゾノさんなんですけど
マックスなんですよね。
ここのところが不思議に思われるのかもしれませんが
自己肯定感が高いとか低いとかだから
そうじゃないんですね。
何か自己肯定感というものに対して
一定の猜疑心が挟まれるかどうかが全てで
やっぱり僕は自分が自分だって言えていて
安心しきることができた時ってのは
自分の信頼度は100になっている感じがします。
ここはグラデーションじゃない気がするんですよ。
だから私は低いとか高いとか
自己肯定感という言葉そのものが
おそらくはイリュージョンなんだろうなって感じがしちゃうんですね。
99と0はあまり変わらない気がするんです。
0なんて人はいませんけどね。
100がもう基本であって
そうじゃないと安心してなんていられないと思います。
だからここが100じゃないような気がするというのが
一気にややこしくして
自信はないんだけれども
運営者側にはいっぱい言いたいことがあるっていう
その客観的にというか外側から見ると
不思議にも見える光景なんだけど
内面から見ると何も不思議なことはないわけですよね。
受け入れられる私でありたいんだから
受け入れてくれないこの人たちは善か悪かって話になるわけですよ。
この人たちが善であるならば
受け入れられない私は何かを正さなければいけない
という話になってくるし
18:00
この人たちが悪であるならば
つまりハラスメントならば
この人たちを正さなければいけないから
クレームをつけなければいけないという話になっているわけですね。
大体は後者である。
なぜならば自分は何もしてないですからね。
言っただけだから。
普通に考えれば当然受け入れられてしかるべきなわけです。
その心理状態のままいけば
受け入れられていないというサインのほうが
はるかに大事です。
受け入れてくれているというサインは
ここが難しいんですけどね。
どうでもよくなってしまうんですよね。
生存というのはみんなそういうところがあります。
生きていく上で困ってない部分には
人は着目しないはずです。
生きていく上でやっぱり大事なのは
困ってしまう部分だと思うんですね。
食料は豊富にある。
友達もいる。屋根もある。
でも水が足りないとなったら
水が足りないということが一番大事ですよね。
ないと死んじゃいますから。
つまり生きていくことが大事なんだけど
生きていくために必要なものというのは
大事に見えないんですよ。
生きていくことが大事なんだけれども
生きていくことということに
フォーカスは立っているんだけど
だからこそ死んじゃいかねないことこそが
注意を引くんですよね。
受け入れられてないということが問題である以上
受け入れられている部分は
どうでもよくなってしまうんですよ。
例えば一応運営側だって全員が
全員がというかみんな丁寧に接したはずなんだけど
丁寧に接してくれてた部分は
ほぼ目に入らないんですね。
自分の名前を間違わなかったとかは
全然注意に止まらない。
自分の名前が間違われたということになると
大きく響くんです。
そしてこれは受け入れられないと思っている
程度が高ければ高いほど
当然厳しく響くはずなんですよ。
だからどうしても
自己肯定感が低いという方向こそが大事であって
クレームを出すべきであるという刺激だけが大事だ
というお話に
だんだんなっていきやすいんですね。
ここまではですね
自分が相手に同一化できるかどうか
という話をずっとしてきたんですね。
今週は。
ずっとじゃないかもしれない。
昨日のことぐらいしか僕は覚えてないですからね。
運営者側に私は
同一化できなかった。
とても残念だ。
こういう残念な運営者側に
同一化するわけにはいかないから
だから私はまた寂しく帰ってかなきゃならない。
大変荒々しい話です。
この問題を一発で解消する
あらわざがあるんですよ。
それがですね
運営者側を
自分に同一化させるという方法なんですね。
ただこれは
自己肯定感が低い人にとっては
最後の切り札的になってくるんですよ。
だって自分
結局のところ
同一化というのはどういうことかというと
ここは非常に一つ意識と似てくるんですけど
21:00
同じになりたいんですよ。
一つ意識というのは
グッドバイブスで蔵直さんが言う
一つ意識というのは
一つになりたいのであって
一つじゃないんですけど
というか一つであるという認識に
戻るという感じなんですけどね
グッドバイブスでは
同一化の場合は
それを究極的には目指してのことなんだけど
同じになりたいんですよ。
一つだからね。
同じになりたいという時に
これはあくまでも構図だけれども
私が相手になるのか
自己肯定感が低いんだから
まず普通の人はそれを望むでしょう。
私が相手になる。
しかし相手を私にするという考え方も
当然ありますよね。
ただこの場合
相手が私でないことが
そんなに気になる人っていうのは
私が私であるってことが
大好きなわけじゃないから
相手が私になるにしても
自分も情報する余地はあるよっていう
意識が強くあると思います。
つまり歩み寄るべきだという
考え方なんですね。
ハラスメントという言葉が
これほど問題になっているのは
相手はちっとも歩み寄って
くれてないっていう問題が
問題になっているんですよ。
で、これが
自己肯定感が低いって言われている人から
強く打ち出されるのは
ごく当然のことです。
なぜならば
自己肯定感が低いと思っていらっしゃる方は
自分が自分でありたくないと思うから
歩み寄りやすいんだけれども
そうじゃなく見える人たちは
自分が自分でいて満足なので
もうこの瞬間にハラスメントなんですよ。
相手は歩み寄ってきてくれない。
あいつは自己満足が
大変高くて
ひどいやつだってことに
見えるはずなんですよね。
この図式で説明した方が
ある意味では私には
わかりやすく感じることが
多いんです。
あいつは自己満だと
ハラスメントだと
これがパッとイコールになるはずは
ないと思うんですけど
感覚的には
敏感な人にはどうしても
お前はお前なんかで
満足して嫌がるのか
私は私では満足できないんだよ。
そして相手は非常に
モラル的にどうか問題があるところを
探し出したくなるわけですね。
なぜならば
自分に満足しているということが
許せないからですね。
今の話どうして許せないかというと
同じになれないからです。
私は私でありたくない。
だから歩み寄ってくれれば
同じになれるのに
相手は歩み寄ってくれない。
これは自己犠牲だ
ということになってしまう。
どうして自己肯定感が低いのに
自己犠牲はいけないのか
という話もなんかないんですけど
そうなってくるとちょっと厳しく
なりすぎるので
この歩み寄るという話だけに
フォーカスするとですね
この歩み寄るという問題を
問題視しているときの
心理的な気分の悪さが
あれなんですよ。
24:00
温度差ってやつなんですね。
認識を一致させたいという風に
思うはずです。
つまり同じになるということ
同一化するということは
私が相手になっても
相手が私になっても
基本どちらでもいいわけですよね。
しかしここで多くの場合
問題になるのは
同じになりたいというときに
自分でありたくないと言っている人
だからどちらかといえば
やっぱり認識を統一するという場合
お互いが自分であることを
やめるという意味になっていくんです。
しかし多くの人は
自分が自分であることは
好きなのではっきり言って
自己肯定感が低いが
今これほど問題になっているかもしれないけど
低いという人は
あくまでもマイノリティなので
自分が自分であることは
みんな好きなんですよ。
だからマジュリティとしては
自分が自分であるわけですね。
だから歩み寄ってはくれないんですよね。
温度差といったときも
温度差が問題になっているのは
だいたい自分と相手の考え方が
違うという話です。
これを主観から見ると
やっぱり非常に非対照的なんですよ。
私が正しいんですよ。
これもう面白いじゃないですか。
自己肯定感が低いにもかかわらず
私が正しいという話には
なるんですよね。
だから例えば評判の件に関しても
そうで佐々木の運営している
セミナーの評判は悪い。
悪いというふうに
自分が主観的に思ったら
それはもうイコール客観であり
悪い証拠をいっぱい
探さなければいけないわけですね。
それはそこかしこに見つかります。
座ったところがトガバタバタ言うとかね。
そこかしこに見つかりますよ。
会場の空気が良くないとか
運営者がおしゃべりしているとかも
いくらでも見つかります。
こんなに悪いんだから
当然評判は悪いに決まっているにもかかわらず
運営者側はそれを気にも止めていないようだと
温度差があるわけです。
温度差なんてもんじゃないですけどね。
そこで相手は
私はもともとこのセミナーが
評判が悪いと思ってなかったんだけど
悪いとこのように思うようになったということは
情報なのであるから
相手も情報してですね
反省してほしいと
こうして歩み寄るというのは
全然至って健全で
モラル的な話だと思われる感じがするんですよね。
抽象的には。
ところが相手は
じっともそうする気配がないので
この歩み寄りというのが成立しなくなるというのは
非常に厳しいわけですね。
で、いろいろ言ってきているんですけれども
この自己同一化
あ、自己同一化じゃない。
同一化という問題は
やっぱりこう
自己同一化というのをベースに置かないと
成り立たないと思います。
この話ずっとしてきて
27:00
やっぱりそういう風な結論になるよなと思ったのは
どこかに自分は自分というのがないと
どうしようもない。
で、結局自分が自分であるということが
落ち着くか落ち着かないかという問題だと思うんですよ。
自分が自分であるということが
落ち着ければ
今言ったような問題は
一つも発生させずに済みます。
ただ、それが
要育歴等々の関係で
カウンセリングで要育歴を問題にするのは
これが理由ですが
要育歴等々の問題で
自分が自分であるということが
到底落ち着かないないしは
ほとんど理解できない。
ここがもうボーダーですね。
到底落ち着かないというのは
神経症水準です。
とても理解できないというのは
精神病水準になっていくと思います。
そのボーダーがあるんだけれども
何にしても自分が自分であることに
落ち着くしかないと思うんですよ。
同一化がいけないわけではないんですよ。
私たちは同一化はします。
本を読んだり、人と会ったりするたびに
同一化はするんだけど
必要であれば
ある程度戻って来れること
戻っていく必要がある
自分が自分であるということに
自分が自分であるというのは
今のように考えてみると
非常に簡単な話じゃないですか。
本を読んでない時
人と会ってない時ですよ。
つまり何にもしてない時ですね。
ここに落ち着けないと
いけないわけですよ。
これも今のように考えないと
自分が自分であるということに
落ち着けないと
これも今のように考えないと
わけわからんことになっちゃうと思うんですよ。
なぜテニススクールに行って
自分が溶け込めないという問題が
発生している時に
そこでコミュニケーション術でもなければ
対人会話術でもなくて
あくまでも何もしないという状態に
落ち着けるかどうかが問題というのは
そう言われてもピンとこないと思うんですけれども
僕は結局それしかないと思うんですね。
同一化に向かおうとしていない時に
自分は自分だから
自分が自分に一番同一化しやすいのは
何にもしてない時だから
何にもしてない時に
何にもせずにいられるかどうかが
やるならばトレーニングのしどころで
ここにあるじゃないですか。
フラザ野さんのグッドバイブスにもあります。
ワークがありますよね。
何もしないという練習が
そういう本あったじゃないですか。
何もしないという練習みたいな本が
マインドフルネスも同じことを言っているし
禅の修行みたいなのも
全く同じですよね。
これが必要になるんですよ。
対話術じゃなくて。
自分が自分でないという状態が
作り出されるわけです。
同一化を望む人は特にですね。
他人への同一化を望む人は
赤ちゃんは多分絶え間なく
母親に同一化しています。
だからあそこでは
内的対象としての母親という表現が
30:00
出てくるんですね。
自分は母親だと思っちゃってる
わけですよね。
それをやってても
何ら差し支えのない相手ばかりだったら
いいんですが
そうはいかないし
多分何の差し支えもない人ばかりだとしても
結構この状態だと
心理的にはハードだと思います。
だから赤ちゃんは
取り乱してすぐに泣くわけです。
取り乱しているわけですよね。
自分が自分であるとしても
自分が自分であるとしても
自分が自分であるという状態は
何にもしないという状態だから
この何にもしていない時に
何かしちゃいけないと思うんですね。
この自分が自分でなくなるというか
もっと言うならば
簡単に言うならば
自己肯定感を高めたいと思ったら
何にもしない時間を
持つことですね。
1日に何回かでいいんで
最悪なら1回でもいいんで
寝るんじゃダメなんですよ。
寝ちゃダメです。
寝ちゃダメです。
寝ちゃダメなんです。
寝た時は確かに自分は自分なんだけど
寝ちゃダメなんですよね。
起きてて何にもしない。
だからちょっと前に
どこで読んだか忘れちゃいましたけど
成功読、漫画本で読んだのかな
とかじゃダメなんですよ。
雨の日に読書してちゃいけないわけですよ。
読書がいけないわけじゃないんですよ。
成功読でもいいんですよ。
雨の日に本読んで
畑に晴れたら耕すってわけでしょ。
全然いいんだけど
この生活スタイルで
自立感を持って
プラグマティックな感じがするじゃないですか。
自立感が強いですよね。
これは自己肯定感が十分高い人が
やってることであって
自己肯定感を高くするためとか
何かの訓練でやることじゃないと思うんですよね。
何にもしないという時は
何にもしちゃダメで
特に読書ってまずいと僕は思うんですよね。
あれは同一化を促すためのツールですから
自分が自分でありたくない時に
むしろやるじゃないですか。
物語にのめり込む子って
大体そうだと思うんですよね。
あるいはマインドマップ書くとか
もうやめないとほうがいいと思うんですよ。
マインドマップがいけないんじゃないんですよ。
こういう話ってどうしても誤解を招きやすいんだけど
何にもすることがないから
マインドマップを書くっていうのは
おかしいと思うんですよね。
あれはやっぱり何かに
同一化していくことを促していくはずなんですよ。
何にもしないではいられないっていう人ほど
何にもしないでいるっていう時間を
頑張って持つ。
この中で一番やっぱり最後にネックになるのが
思考のはずなんですよね。
考え事をしてしまうとするわけじゃないですか。
ここが非常にライフハック的になっていきやすいんですよね。
でも思考をすると
本を読むもそうだけど
マインドマップを書くもそうですね。
これらのことって
自分のためにやってしまうでしょう。
最終的には。
それがいけないわけではないんだけど
何か仕事のためだったりするじゃないですか。
計画というのは。
33:01
つまりある程度にせよ他人に
同一化していくはずですよね。
読書などというのは
本を書いた人にある程度同一化せずには
できっこない作業だから
つまり社会的なんですよ。
それらの行為は全て。
孤独に一人だけでやっていたとしても
そういうことをやる限り
自分が自分でなくなるという事態を
止めることは困難だと思うので
だからあれですよね。
思考している自分を見張りましょうとかって
マインドフルネスなどでは
言うわけですよ。
他人になっていってしまっていますよ
という話なんですね。
他人にならないようにするためには
習慣になっちゃっている人には
難しいんですけど
意味付けしないと
そういうような話なんですよ。
パッとこれを見て
iPhoneだと思ってしまうというのは
既に自分が自分で
なくなりかけているわけです。
そういうことをやめるってことです。
アリさんだったら
このiPhoneが貼ってても
これiPhoneだなとは思わないわけですよ。
だからこれはiPhoneじゃないわけです。
こういう話って
わけわからんというところも
あると思うんですけども
要は赤ちゃんに戻るってことでもいいんですよ。
赤ちゃんは
私は私でしょう
そういう概念すらないですよね。
存在そのものに戻っていく
というのはそういうことですよね。
何かを見ても
それが何かはわからない
だってそのはずなんですから
それは何かである
というふうにわかるということは
それは何かであるということを
決めるということですよね。
それを決めるというのは
自分じゃないですよね。
これiPhoneだって決めたのは
私じゃない。
こうやって私は
私であることを
自分であることから避けると
多分ですが
3分でも厳しいって人は
結構いるんじゃないかと思うんですよね。
パッと見たものを
何かであるってすぐ思ってしまう。
それすらやめるっていうことですね。
やめようとしてみると
やってみると気づくんですけども
この種のことって
マインドフロディスでも
それこそ禅でも
グッドバイブスでもそうなんですけど
驚くほど私は緊張感が取れるんですよ。
これを7、8分やると
7、8分でも
もう終わった時は
そうですね
何かこう
その例えも不適切なんだけれども
サムナからパッと出た時の
開放感みたいなものがあります。
というのはどういうことかというと
すごく日頃緊張しているということです。
なぜかというと
緊張を強いられているんですよ。
これを見てiPhoneだと思えと
結局これは私が決めたことじゃないですからね。
あれを見て赤信号だと思えと
赤信号だと思ったら止まれと
これ全部命令に従っているので
私たちがもう意味づけですけれども
グッドバイブスでいう
意味づけというものは
実は自分だけではできないので
普通は社会の意味づけに従うので
36:00
常に従属的に
ある意味命令されて生きているんですよ。
だから私は
これに関して私は自明だと
昔から割と思っていたので
不思議だったんですよ。
なぜライフハックとか
エンジニアという人たち
私はそういう風に本を書いた時に
書かれたことがあるんですね。
タスクシュートの本を書いた時に
エンジニアというのは
自由を愛する人間だから
こういう囚人みたいな生活をするのは
ごめんなんだと
言う割には
成功不得とかになっちゃうじゃないですか。
マインドマップを書いたり
計画されたりしているということが
あるじゃないですか。
あれは他人が強いていることですよ。
多少は絶対に。
でもマインドマップを発明したのは
自分じゃないですよね。
つまり自由を失っていると思うんですよ。
そういうことをした瞬間に。
意味付けに従ったり
社会の規範に従ったり
マインドマップって他の人が見ても
マインドマップだと分かるはずですよね。
もちろんそれを知っている人ですけれども
つまりそれは他人と共通の何かの
枠組みの中での活動ですよね。
計画もそうじゃないですか。
計画というものは
カレンダーに従ったりするんですよね。
カレンダーって自分で
作るんですよね。
私が作るんだったら
絶対1月を冬にはしないですよ。
寒いんですからね。
いろんなイベントなり
入学式なり
冬にやるなんて
そんなことをしたくないです。
私だったらね。
だからカレンダー1月に作ったって
とんでもないことのような
気がするんですよ。
0時を真夜中にするのも
どうかと思うしね。
そういう話なんですよ。
何か便利だから
使うんですけれども
やると。
雨の日は本を読むと。
本なんて他人の書いたものじゃないですか。
だからこういうものが
僕らに緊張しいるわけですよね。
何かしらの精神的努力をし
場合によっては
自分に禁止命令を出す。
おかしんごで泊まるなんて
完全に禁止命令ですよね。
トイレもそこら辺では
今や絶対できないんですよ。
ここでやれと。
そうすると当然そうですよ。
そうじゃないとダメですからね。
社会も文化も家庭も
全てがそうして回っているわけだから
当然そうするしかないんだけれども
ただそれは
好きでやってるわけじゃない
ってことですよね。
好きでやってるわけじゃない時間は
そんなに1日24時間のうちの
おそらく23時間59分以上は
そうなっちゃってるっていうのは
やっぱつらいですよ。
だから私は
今一番やってた
倉園さんのワークですけれども
1日の中でとにかく何もしない。
何もしないということは
つまり自分自身が
一番最初に生まれたところまで戻る。
この状態で過ごす時間も
いかに多くも出るかな
と思うんですよ。
39:00
そういう訓練をするように
最近ずっと心がけるようになってきて
ようやくですね
人と
それこそ喧嘩になりそうな
とき
つまり最も相手と
同一化をするかしないかの葛藤で
相手になろうとしてるのに
相手は拒絶する。
拒絶されてる自分で
ありたくないから
自分が中裏になって
大変困る。
これが人が喧嘩するときの
心理状態なんだけれども
あとはもう相手を
同一化させるか自分にね
これを屈服させるという意味ですけど
相手に同一化した
そういう風になって
しまいそうになったときでも
戻っていける自分がいる
っていうのは
訓練の成果なんだなと
残念ながら現代人にとっては
10分なり
何にもしない
自分でいるということだけしか
しないという状態を
ある程度体に叩き込んで
ようやく喧嘩になりそう
なったとき
ああいけない
私は私であればいいだけなんだと
いう風に
慣れるようになってきたんですよ
で、これを
全くできない生き方というのが
つまり自己肯定感が低いという
辛い生き方なんだという話ですね