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2022-09-20 30:02

【674GMV】超自我が自分をさいなむのを認めない

内部と外部を断裂させない

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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
テイク2です。
しかもですね、さっき30分くらい撮ったものをボツにしちゃったんですよ。
9月19日、今は19時5分ですね。
ボツにすることはないんじゃないかと、たぶんほとんど同じことをしゃべるんですよね、これから。
この辺りがやっぱりまだまだ、私もこう、イリュージョン。
最近、クラゾンさんは心象とおっしゃるんだけど、左右されちゃうんだよなと思うところですが、もう左右されちゃってるんで、今日はこのまま行くしかないなと思っています。
これなんでなのかっていうのは、なんかうまく説明できないんですけど、なんかこういうことをやっちゃうんだなっていうのがありますね。
まずCMをしたいんですけれども、本当に変わりたい人のためのタスク管理セミナー、スリーカードセミナーという、他のじゅんさんとぞえさんとやるセミナーですね。
オンラインセミナーで、スリーカードの購読の方には1000円引きで3000円でご参加いただけるという内容になっています。
内容はもうタスク管理系で、しかも岡野さんと私とぞえさんなので、タスクシュート系が中心になるだろうと。
じゅんさんが書いてくださったんですけど、岡野さんが、この妥協というものをどうやればいいかと。
私は全然違う文脈でほぼ同じことを多分喋ることになると思っているんですけれども。
妥協というよりですね、できないことをやろうとしないという話をしたいと思っています。
これがですね、グッドバイブスと同じではないし、私がずっと喋っている精神分析とほぼ何の関係もないんだけど、そこをちょっと僕は強引にくっつけてですね。
つまり自分の解釈なんですよ、これは。自分の解釈というものをしているんですよ。
私、この番組でいろんな話をしているんですけれども、実はですね、それらについての批評をしているつもりとか、そう聞こえてしまったら申し訳ないごめんなさいなんですけど、批判をしているつもりとかも全然なくて、結局私のセルフヘルプなんですよ。
私やっぱり決して見た目ほどと言いますか、誰がどう見ているのかはともかくとして、安定した人間ではないんですね。
だから常に自分というものを安定させておきたいというのがやっぱりあります。
例えば、誰も当然そんなことを知っているわけではないんですけど、僕は朝起きるとパッとですね、自分の指先を見ちゃうんですよ。
指先がものすごい、ものすごいってことはないんですけど、特に人差し指、中指、薬指の先の爪の下の付け根が荒れていて、これに薬塗りまくっていた時代とかがあって、歯が膨らんでいくんですよね。
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そしてジワッと血が滲み出ていくんです。血というのかな、血と汚い話ではないんですけどね、ブドウ糖の液がリンパ液みたいなのが出てくるんですよ。
両手ともなんですね。その癖がまだ残ってて、もうトラウマみたいになっちゃってて、しかもキーボードとか打つとき、そこがいちいち響くじゃないですか。
こういう僕にはですね、私これは大したあるんですよ。大したあるんだけど、やっぱり私のヒステリーは入ってるんですよ。
誰へのPRかっていうと非常にわかりにくいんですよね。父親なのか母親なのか本当ピンとこないんですけど、あるんですよね、これが。
だから不穏定な人間なんですよ。とりあえずずっと30年来心身傷を抱えて混んで生きてきて、そういう人はザラにいますけどね。ザラにいるんだけど、つまりザラにいようとザラにいまいと。
自分のことであればこれ安定させたいと思うじゃないですか。幸い私は今、指先は非常に安定していて、でも朝見ちゃうんですよ。
まず起きるとこれをパッと見てしまうと。こういうのがいろいろある。これだけなわけじゃないからね。
いろんなこういうのがあって、常に毎日が割と綱渡りを一輪車で綱渡りしてるみたいな心理状態っていうのが結構長い時間あるんですよね。
なんてことない人生なのに、もっともっと能天気に生きてきゃいいんだけど、それができないんですよね。
だからいろんな話をしてますけど、これ全部私の心の安定のためにやってる話なんですよ、結局は。
ということが最近非常にうまくいってきているから、これが使えるという人がいたら、これを使ってもらうに越したことはないと。
それが入り口はこれもライフハックだったんだけど、まあライフハックは入り口ではないな、途中経過にライフハックもあったと。
ライフハックもまた特にタスクシュートはそうですけど、やっぱり私にとってはですね、私の心の安定のためのものだったんですね。
だから私の話っていうのは、メインストリームからずれたような話を盛んにすることになるんだけど、
これ先日ボートキャストで倉園圭三さんもおっしゃってたんですけどね、この心の安定、倉園さんはもっと先行って平安なんですが、
平安って平安になってどうするんですかという程度のものに思えるかもしれないですよね。
これは心の安定も同じで、長らく不安定によっぽど悩んでなければですね、心が安定して何になるんですか、
もっと先へ行かせてくださいと。ちょうど先日これも倉園さんとエフタさんがボートキャストで、
エフタさんがおっしゃってたんですよね、湯船に札束を浮かべて、そういう湯船に使ってみたい。
やっぱりそれはなんだろうな、僕とはやっぱり違うんですよね。
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そういうことも思うことがあった。別にエフタさんが豪欲だとか、主旋徒だとかいう話じゃないですよ。
こういう願望って自然に持つことあるんだろうなって、僕なんか聞いてて思ったんですね。
でも私は指先側の皮膚が安定していれば、札束よりずっと大事だなってなるんですよ。
これは不安定だった人間の発想なんですよね。札束が大事じゃないとか、札束羨ましくないじゃないんですよ。
札束あってもどうにもならないことが多すぎるんですよ、この世の中には。
私が湯船に札束浮かべられるほどお金持ちになったことがあるって話ではないですよ。
もしかするとそういうお金の力を使って、もっともっとアトピーもいいアプローチができるのかもしれないんですが、信じられないんですよね、なかなか。
うちは寺だったということもあり、お金って寺ってそこそこ恵まれてるんですよ。
お金の力で治せるものなら何でもできたとは言いませんけれども、
まあまあそれなりに両親は私のアトピーもすごい頑張って、まあ頑張ってというか非常にトンチンカンなのも多かったけど、
まあすごい気にかけてはくれたんですよね。それが良し悪しな面もあって非常に難しいんですけどね。
でもこういう問題ってやっぱりですね、かければかけるほど悪化するとかね、そういう事態を招くもので、
なかなかやっぱりね、お金ないと困りますが、そんなに札束あるよりは毎日の指が綺麗でなくてもいいから、
とにかく腫れないでくれると嬉しいなってのがあるんですよね。
こういうのが私にはいくつかあるんですね。だから毎日を安定させていきたいと思うわけです。
で私の中にやっぱりこう長らくですね、この不安定要因はでかかったっていうのが、
最近使ってる言葉で言うとですね、超自我なんですね。
超自我というものとの格闘は長くありました。
格闘というか超自我というものの導こうとする先に私も行こう行こうとしていて、
それをやればやるほど事態が悪化していくという事態を招いてたわけですね。
でその自我心理学っていうアンナフロイト、フロイトの娘さんのアンナフロイトがアメリカで大いに流行らせた、
かなり洗練された精神分析の考え方と言ってもいいと思うんですけれども、
その自我心理学といったものの中のその超自我の位置づけっていうのは非常にある意味わかりやすいもので、
自我心理学全体先週言った通りわかりやすいものでして、
例えば防衛メカニズムなんですね。
この防衛メカニズムっていうのは心の中を防衛するっていう意味ですよ。
外ではないですからね。
ここ本当防衛というと普通は外だから、
これ防衛規制って日本人訳しちゃったんですけど誰かが防衛メカニズムね。
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心の中の超自我と欲動をうまく防衛して適応しないとまずいことになるよと。
そこら辺で考えてみればすぐ何がどうまずくなるかは一目瞭然だと思うんですよ。
例えば欲動の中にちょっとグッドバイオスと違うんですけど、
攻撃ってのが原型的にあるみたいな考え方があります。
攻撃したいってことは起こるじゃないですか。
誰かを怒鳴りつけたいとかやっつけたいとかある動詞でも出てきますよね。
そのまんまの形で出ていったら多分逮捕されますよ。
人の欲動における攻撃性って結構強いものがありますからね。
気に食わないからって人の頭を石とかで殴っちゃダメなわけじゃないですか。
絶対ダメなわけじゃないですか。
これを防衛するわけです。
これを防衛っていうんですよ。
誰かに殴られることを防ぐんじゃなくて自分が殴り出すのを防ぐのが防衛なんですね。
精神分析では。
防衛してどうするのっていうと適応するわけです。
防衛することでこの攻撃欲求をなんとかなだめて、
長寺賀にお伺いを立てて、
それは皮肉を言うぐらいにしなさいと。
大丈夫でしょうね。皮肉を言うぐらいなら。
ちょっと皮肉を言って攻撃欲求を満たすと。
これが防衛適応のメカニズムっていうものなんですね。
この中で私がやっぱり長寺賀っていうもののやり方に沿っていき、
私たちがよくやる防衛適応のメカニズムに知性化っていうのがあるんです。
隔離知性化っていうのがよくて、
この隔離と知性化両方脅迫防衛っていうもののサブだっていう考え方の人もいらっしゃるんですけど、
脅迫ってのはオブセッションなんですか。
なんでオブセッションなのって言われるかもしれませんけど、
例えば、先日私がちょっとセミナーで準備云々でトラブったみたいな話をしましたけど、
ああいう時なんですよ。
準備というのは長寺賀がやれっていうことなんですね。
なんで長寺賀は準備しろっていうのかというと、
その時その場で自分が言いたいことを言うと、
準備もしたくないというSの気持ちに沿って自由気ままにやっていると、
準備もできずに変なことを喋り、
その時90分の持ち時間のうち10分しか喋らず、
80分を無駄にしてみんなの怒りを買うと、
そういうことにならないためにもスライド100枚用意して、
原稿もバッチリ用意して段取りを十分にやっておいて、
つまりSの働きをさっきの攻撃とはだいぶ違う形なんですけど、
やっぱりSの動きというものを止めるわけですね。
少なくともSそのままの形にはしておかない。
調整をかけると。
さっきの攻撃を皮肉に切り替えたみたいにですね、
まず最初ある程度抑制して、
サボりたいというSの気持ちを抑制してスライドを用意すると。
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そういう形にして、受け入れられる形にしてから出しなさいと。
これ普通にみんなやってますよね。
何がこれいけないのって思われるじゃないですか。
私はこのいわゆる脅迫、隔離、知性化というこのやり方をですね、
いつもいつもやっているということはどういうことになるかというと、
内と外の間に分裂が生まれると思うんですね。
つまり、結婚式とかお葬式とかそれこそ思い浮かべセレモニーってそうですよね。
脅迫とセレモニーって非常に深い関係があるわけです。
なぜ脅迫ということ?脅迫というのはつまりセレモニックになるってことなんです。
同じことを同じ手順でいつも同じようにやると。
つまり、言ってみれば浄土行動みたいな、ちょっとそこまではいかないにしても、
いつもいつも同じように見えるようにやると。
それはそうすることによってSがおかしな動きを、
Sというのは要するに自由なんですね。
その都度その都度の気分に気ままに動くということをさせずに置くことによって、
思わぬ展開を見ないで済むっていうのが脅迫なんですよ。
これは確かに長寿が、つまり一つの文化に受け入れられるやり方として大事なやり方なんですけれども、
これをやることによって、家に帰ってきた時にみんながピシッとした、
例えばタキシードみたいなのを脱いで、家に帰ってきた時テレビパッとつけて、
アーッとかってやるじゃないですか。これ何ですかね。
外と内が断裂してるじゃないですか。
外に出てる時は長寿が主導ですごく緊張し、
内に帰ってきたら長寿がは一旦お休みモードに入って、
自画とSだけになって、手を繋いで子供がワーッて遊んでるようなモードになるわけですよ。
どっち好きっていう話なんですよ。私は断然後者が好きですね。
長寿がの目光らせていて、セレモニックにやってる。
あんなにつまんないことはある意味ないと思うんですね。
家が寺だったから余計思うんですよ。
これは一体みんな何が楽しくてこういうことやってんだろうって思うわけですね。
私はですね、私はってことはないと思うんだけど、
この校長先生のお話の時間帯みたいにですね、
いつもいつもやってたんじゃたまったもんじゃないと思うのと、
なぜセミナーとかの時にあれをやんなきゃならないのかと。
もちろん文化的に受け入れられやすい形を取ることで、
今私が喋ってるように気ままに喋って、自由自在に喋っているといった状態に歯止めをかけるためですよね。
これをやってると、私がトラブったように準備不足だとか炎上するとかいろんなことが起こるんですよ。
でもそんなのは怖がるに足りない、足らないだろうって思うんですよ。
いつもいつもセレモニックにですね、長寿が主導でやっていて、
内と外は全く違う顔をするっていうことのデメリットを考えれば、
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私の感じではですね、そこで炎上しないという程度のメリットでは全く割に合わないなっていうふうに私は思うんですよね。
そうすることで、もしかするとなかなか人が安心して一緒にやってくれる人がいなくなって、
自分一人でやることになるかもしれないんですけど、
だいたいそういうのも起由で、そうはなかなかならないんですよね。
だから、私は準備しないっていうのは非常にいろんな意味があると思ってるんだけど、
逆に準備するっていうのは、準備するのはいいんだと思うんですよ、準備するには。
私もその時以来準備というものについてもうちょっと考えるようになった、こういう展開を見るべきだと思うんですね。
ただ、反省はしないと。
なんで反省しないかというと、結局長寿が主導で反省するっていう話になってしまうとですね、
この断裂をますます深めることになるしかないと思うんですね。
外には向かって適応することが全てになってしまうと、極力内側の防衛はきつくなっていくわけですよ。
Sは抑え込むと、そして自由もうんと減らすと。
特に、例えばセミナーの最中に、この自我死肉の言葉をそのまま使えば、
全意識ですね、全意識。
その時にパッと思いつく、思い出そうと思えば思い出せることを思い出して、
遠い側妙にやっていくという能力を私持っているにも関わらず、長寿がそれは危ういということで、
事前に書いておくわけですね。
書いておくことの方がいいようで、書いておくっていうやり方を取ると、
この全意識使う能力ってものがだんだん損なわれていくんですね。
これは私がもう経験済みの話なんです。
で、こういったいろんなことがですね、多くの部分、時間の節約みたいな話にだんだんつながっていくんだけど、
だってそうですよね。
例えばセミナーの真っ最中に、全意識を使って思い出すっていうのにあるためには、
一瞬空白が生まれたりするじゃないですか。
その一瞬の空白は、いい時間だと私は思うんだけど、そういうのが嫌だっていう人は、
縦板に水って言いますけど、だーっと調べるほうがいいって。
そうするためにはですね、だーっと調べるほうがいいと思う方は、ずーっと原稿を読むのがいいって話になるから、
全くその事前の準備ってものが欠かせなくなるわけですよね。
その事前の準備をするってのが、自分の内側に、自由自在に出てくる自分の内側と、
外に見せる自分の乖離ってものを生み出すわけですよ。
アイソレーションの乖離ってのは、まさにそういうことを言うのだと思います。
アイソレーションってのもやっぱり防衛メカニズムの一つなわけです。
そうすることでその縦板に水のほうがいいっていう文化にはむしろ迎合しやすくなる。
つまりそれが適応だという話なわけですね。
で、代わりに私たちが失うのは、内と外の乖離なんですよ。
私の外の顔というものは、内の本質的本性である顔とは全く違うほうがいいっていうことですもんね。
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もちろん受け入れられないものが出ちゃまずいんで、
さっきの一番冒頭で言ったような石で殴るみたいなね、
受け入れられないのがいきなり出ていっちゃうのはまずいから、そこを防衛するのは当然なんだけれども、
必要以上にあまりにも防衛してしまうんですね。
この脅迫というメカニズム、何でもそうなんですけどね。
防衛がうまくいくということになってくると、どんどんどんどん防衛が進んでいくわけです。
で、気がつくとですね、私が確かにそうだったと思うんだけど、
気がつくと防衛のしすぎで適応障害を起こすんですよ。
Sを抑圧しすぎて、ことはうまくいくはずがないんですね。
最近になって、非常にいろんなところが滑らかに回るようになってきたわけです。
滑らかに回るようになってみると不思議なくらい、
かつて自分はこんなことをあんなに警戒していたんだなっていうのに驚かされるんですよ。
中でもですね、良くないのはやっぱりやらかすってやつなんですね。
やらかしてしまったという意識なんです。
超自我がつまり、さっきの言ったような話なんですけれども、
外に外語というのかな、適応していくために受け入れられるようにするためには、
受け入れられなかったっていう事態を招いたときに、超自我が一番やっぱり敏感に反応しちゃうんですね。
超自我が敏感に反応しちゃうと、私はやらかしたという気持ちになって、
罪悪感を持って、超自我と罪悪感っていうのはセットなんで、
超自我に絶え間なく罰されると、これが心が凹むとか言っているやつなんですね。
この時代を招いちゃうと、ものすごく私の能力は低下するんですよ。
その状態を私に実はずっと引きずっていたのに、気づいていなかったんですよ。
今自分、昔に比べてえらく色々できるようになったなと思うんだけれども、
別に有能になったわけじゃないんですよ。
例えば元々持っていた善意識、善意識って元々持ってるじゃないですか。
私が今、おじいちゃんの名前を思い出そうと思えば思い出せる。
母方のおじいちゃんの名前、今思い出せませんけれども、
あと5秒ぐらいかければ思い出せますよ。
これが私の持ってる能力なんですよ。
例えばですけれども、河合駿さんの書いた
カウンセリングの実際問題っていう非常に面白い本があるんだけど、
ああいう本を今すぐ読むこともできますよね。
読んで思い出すってこともできます。
この話どこにつながっていくかというと、
例えばですが、これができないと思っているとき、
つまり長寿がお前は人にダメなことを言って炎上したんだから、
しばらくそのSを止めておけみたいなことになると、
善意識とかはまるで使えなくなるわけです。
無意識もほとんど無意識から何かが出てくるってことはほぼなくなるわけです。
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そうすると私は徹底的に欲物的になっちゃうんですね。
罰されると人は欲物的になるんですよ。
欲物的になるということは一歩間違うとベッドから起きるのも辛いっていう事態を招くんです。
こうして私は指先が腫れてみたりしても、
何にも体の中で有効な手立てが打てなくなるんですね。
長寿が常に警戒モードいっぱいになっているので、
止めること以外はあまり考えられなくなってしまうんですよ。
あとはオブセッションですよね。今までうまくいっているオブセッション。
昔のやり方をひたすら儀式的に繰り返す。
当日になって言うべき言葉を全部原稿に書いておくっていう。
この路線以外はこれといった有効な手立てが考えつくことができなくなる。
考えつこうとしているのは基本的にSと自我の自由な活動の結果なので、
その自由な活動というものが奪われるとそういった事態を招くんですよ。
招いてたんですよ私は。それが今よく分かるんです。
奥さんが私から見ると、あんまり収益状況も良くないような事をやれと言っても、
全然苦にならずにできる。
それはSの価値判断であればできるんですよ。
Sは奥さんと仲良くするぐらいな事に全然普通に向かうんで、
長寿がのようにそれは時間対効果はどうなのかとか、
そういうことを僕は考えちゃいますし、口走っちゃいますけれども、
でも長寿がが以前みたいに圧倒的に強いわけじゃないのでできるんですよ。
で、やるじゃないですか。
で、やった上で本を書くとか、そういうことをしようとしても、
夜の遅くの時間にMPもなくなってるからっていう、
そういう長寿が的な発想はないわけですよ。
Sは知ってますから、無意識にそれができる力があるっていうことは、
無意識と欲動のエネルギーが一体ですからね。
そこにあるのはわかってるんで、できるんですよ。やろうと思えばですね。
で、例えばですけれども、さらにその後100日チャレンジで、
2、30人の方のコメントを読みながら必要なスタンプをしたり、
コメントをつけたりするというのも、くもなくやれるわけですね。
くもなくってのはみんなどうしても不思議だって話になってくるんだけど、
私も不思議です。つけていると。
でもトータルで考えてみると、とにかくできちゃうわけですよ。
出てきちゃった後で考えてみると、これに私は警戒してたんだなって思うんですね。
でも警戒していて当然なんですよ。だって長寿がやることなんですから。
長寿が警戒していたわけですからね。
例えばそのスタンプはどうなの?スタンプで済ませるの?みたいな、
そういう長寿がの言葉があるわけですよ。
エネルギーはくれないんだけど長寿がは。
抑止はしてくるわけですよ。
コメントももっと効率的につけたほうがいいんではないのかと。
例えばテキストエキスパンダーとかに入れておいて、
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子供の組み合わせをもっと素早くつけたほうが、
この後寝る時間が短くなるのも防げるんじゃないかとか、
そういうことをずっと意識させられるわけですね。
なぜならば外と内が断裂しているからなんです。
昔の長寿が主導でやってたときは、外面だけはひどくいいわけですよ。
そうするためにある意味やってるわけだから、文化的に言語をするために、
いいコメントをつけてくれるとか、素早くコメントをつけてくれるとか、
あざコメントをつけてくれるとか、
そういうことに一道を挙げるために、
素の自分では何もできないわけですね。
素の自分を出してくれないわけですから。
今素の自分でやってるんで、やらかすわけですよ。
素の自分がやらかす場合には、
それを有効に止める警戒心というものは以前の半分もないので、
でも代わりに自由にやれるんで、
警戒モードマッシュグラの時に比べれば、
実ははるかにスムーズだし、
疲労度というのも全く少なくて済むんです。
MPとか考えてもいませんし。
だからやれるんですね。
やれてしまえばですね、
これやれるんだなということが分かりますよね。
やれるということが分かれば、
以前みたいに長寿が夜遅くではできないから、
今のうちにやっといたほうがいいんじゃないかと。
長寿がのそういう話は付き合っているととんでもないことになりますから。
原稿も朝に書いておいたほうがいいんじゃないかとか、
このポッドキャストも朝のうちにやっといたほうがいいんじゃないかと。
全部朝やることになっちゃうわけですよ。
そんなことはできないですからね。
できないから何をやりだすかというと、
これ不思議なんですけどね。
長寿がというのは懸命なようで狂ったところがあるんで、
朝4時に起きてやればいいんだという話になっていくわけですよ。
くったくたになりますよね。
特にこの2つの理由、
つまり文化的な要求は実はそういうところにはないのに、
あるということにしてしまって、
そして最終的に訴えてくるのは不安と、
いわゆる恐怖と、
僕はこれはGood Vibesの言い方でいいんだけれども、
私の場合に限って言えば恐怖なんだなって、
不安ってものじゃないなって思います。
恐怖なんですね。炎上する。
炎上してどうなるのかな。
食いっぱむれるっていうふうには思わないですね。
炎上してみんなに嫌われて、
そのあたりがもうすでに私の恐怖なんですよね。
自分の痛いコミュニティという数少ないコミュニティにいられなくなって、
なんだろうな。
最終的には死ぬとかではないんですね。
私が懸念していたのは気が狂うみたいな感じなんですね。
気が狂うわけじゃないんだけど、
うつうつとして退屈割りをして、
部屋の隅の方で縮こまっちゃう。
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そこから動き出せなくなるみたいな。
そしてアトピーがひどいみたいな。
すごい嫌なんですよ、そのイメージは私にとって。
けどね、コミュニティ、今意識してないんですよ。
どういうコミュニティいるだいないだは別に。
そして何よりも大きいなと思うのは、
以前に比べて私は人に嫌われてるって感覚がないんですよね。
これ多分長寿が作ってたものなんです。
長寿がっていうのは内的対象ですからね。
内的対象じゃないですか。
有名な名著がありますよね。
名著っていうかタイトルが素晴らしい本ね。
そいつ今頃パフェでも食ってるよって。
あれは全体対象だよって言ってるんですよ。
その対象は内部にはいないんだよと言ってるわけです。
私が嫌われると恐れていた誰だか知らない
ライフハッカーみたいな人たちの顔?
違うな。
とにかく私が属していると思っているコミュニティの顔。
あるいはそれと結局父親の顔みたいなのが結びついちゃうんだけど、
それらって内的対象じゃないですか。
部分対象じゃないですか。
だから私の心の中にいられるわけじゃないですか。
でも私の父はパフェは食いませんけれども、
今頃納豆でも食ってるわけですよ。
それが外在するってことですよね。
絶対に全体対象は自分の中にいるはずないんですよね。
自分の中にいて、
本体は今頃風呂にでも入ってるのに、
私の横でガーガー私に文句言ってるとすれば、
それはその人が言ってるわけ、
相手がどこかにいて言ってるわけじゃないんですよ。
あくまでも自分で自分をいじめて災難でるだけなんですよ。
端的に言ってしまえば、
自分の左手で自分の右手をつねってるってやり方なんですよ。
ただアトピーの時の私がそうであったように、
寝てる最中無意識に自分をつねるっていうのはやめられませんから。
やり始めちゃったら。
だからそこに難しさあるんだけど、
自分で自分をつねってることは間違いなくて、
人は私をつねらないんですよ。
文句言ったりはしますよ。
でも人は私の心に直接、
ダイレクトにダメージを与えることは絶対できないんですよね。
これは倉殿さんによく聞いた話なんですよ。
よく学んだ話なんですよね、私が。
それを私はただ今、精神分析と、
特に自我心理学の言葉を使って、
再解釈し直しているに過ぎなくて、
この点間違いなく、
私を再反省させ、傷つけ、
罪悪感を持たせて、
抜して欲打つにするのは全部、
私の長自我の暴走なんですね。
つまり私の左手の暴走なんですよ。
これをやめることができさえすれば、
滑らかに何事も回っていくんだなと。
そこに難しさみたいなものって、
実はほとんどないんだなと。
疲れはしますけどね、結局。
でも以前に疲れていたその疲れとは、
全く質が違う、
もっと遥かに御しやすいものになっていく。
そういったことが今起きているのを、
お伝えしたいわけですね。
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