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48|【城井谷編】城井も黒田も「盛っていた」? 名族の系譜を借りる戦国の知恵
2026-05-17 18:47

48|【城井谷編】城井も黒田も「盛っていた」? 名族の系譜を借りる戦国の知恵

福岡県内だけでも1000近くあったとされる戦国時代の山城の魅力をお届けする「西日本新聞 戦国山城ポッドキャスト」。城井谷シリーズ第3回は、城井氏の主城・大平城の入口へ。あいにくの雨で登城は断念しましたが、郷土史家の清田進さんの話は核心に迫ります。城井鎮房はなぜ黒田に抗ったのか。通説では秀吉から伊予への転封を持ちかけられたとされますが、清田さんは「同規模の原田氏や宗像氏が小早川隆景の与力にされている。城井だけ伊予一国というのはおかしい」と指摘。毛利家の軍記『陰徳太平記』の記述の方が実態に近いのではないかとの見解を示します。さらに話は城井氏の出自へ。「宇都宮氏が関東から西遷した確かな証拠がないようだ」と清田さん。こうした名族の系譜を借りる手法は珍しくなく、黒田家でも幕府の公式系図集で系譜の断絶が記録されているといいます。「歴史のロマン」と「盛られた家系図」のはざまを語ります。

◆出演:清田進(郷土史家)、中山 紘一郎(しかのすけ/販売部)、横山智徳(MC/メディア戦略局)/ 映像編集:中山 紘一郎/音声編集:中富一史(販売部)/ディレクション:坂本信博(メディア戦略局兼編集局上級専門委員)

◆収録日:2026年4月14日

◆「空から攻める」堀切凡夫Neo2(YouTube)
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◆城・ドローン+(関連記事)
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#戦国山城ポッドキャスト #城井谷 #城井鎮房 #黒田官兵衛 #山城 #西日本新聞mePodcast


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サマリー

今回のエピソードでは、城井谷城の大平城入口を訪れ、郷土史家の清田進氏と共に城井鎮房が黒田氏に抵抗した理由を探ります。通説とされる伊予への転封案に疑問を呈し、毛利家の軍記『陰徳太平記』の記述がより実態に近い可能性を指摘します。さらに、城井氏の出自についても、宇都宮氏の西遷の確かな証拠がないことを挙げ、名族の系譜を借りる手法が当時一般的であった可能性に言及します。黒田家においても、幕府の公式系図集で系譜の断絶が記録されている事例を紹介し、歴史のロマンと「盛られた家系図」の狭間について考察します。

城井谷城への訪問と雨天による断念
西日本新聞Podcast
西日本新聞、戦国山城Podcast。
この番組は、福岡県内だけでも1000近くあったとされる、
戦国時代の山城の魅力をお話しします。
こんにちは、福岡のニュースアプリ西日本新聞Bの横山智則です。
こんにちは、西日本新聞の鹿之助こと中山小一郎です。
はい、中福岡の教育キューターでございます。よろしくお願いします。
第3回目です。
だいぶ山の中まで入ってきましたね。
相当標高あります。
確か大平城市ということで、大平城の入り口にやってまいりました。
確か標高は、この山城は600とか700とかちょっといい加減ですけども、
皆さんネットで調べてみてください。
築城町の大平城で出ます。
ここはですね、この山城はですね、
キイシ、シゲフサ、戦国末期のですね、
一番有名な、キイシの中で一番有名な都市ですけども、
キイシシゲフサ時代のですね、
キイシ時代のキイ谷の中のキイシの首城あったお城であります。
相当な傾斜でですね、荒れてるもんですから、
ここから先はちょっと入れないだろうということで、残念ながらですね。
地図には登山口って書いてあるけど、さすがにちょっと登れないですね。急ですもんね。
登ってもいいんでしょうけど、なかなか。
さらに今日は雨で。
ぬかるんでますし。
ぬかるんでますから、ここで妥協しようということでですね。
次の回からですね、今までこれまでですね、
このキイ谷の中にあるキイシの城郭を点々と紹介してまいりました。
城井鎮房と黒田氏の戦いの背景
次の回からですね、具体的にこのキイシが日本史に登場してきます、
黒寒兵衛、吉高と長政との戦いの話になっていきますけれども、
ちょうどここに書いてあるんですけど、戦いの理由なんですけども、
ちょっと遠回りして話しますと、何よりも豊臣秀吉が九州平定戦を戦いましてですね、
島づけが北上してきたのを南に追いやったと、その後国割りがありましてですね、
この武全の国はですね、
武全の国は黒田吉高、寒兵衛に与えられるわけであります。
これ六軍って書いてあるんですか、六つ国があったみたいなイメージですか?
六軍ですね、中津軍、どこかにメモしてたんですけど、ちょっと忘れました。
武全は全部で八軍があったんですけど、
北部の菊軍と香川軍はですね、毛利、吉成という人に与えられました。
南側の六軍はですね、中津軍をはじめ、
南側の六軍を黒田家に与えられたんですけども、
それ以前にですね、時座村居としてですね、
紀伊ですとか長野家もありましたし、
実は武全はですね、たくさんの中小勢力が戦国化できなかった時座村居が、
国衆と言われる人たちがおったわけであります。
おったわけであります。その中で、実はですね、
秀吉が九州に入ってくる前、この紀伊、重伏さんもそうですし、
その他の、例えばですね、野中という家もあります。
山田という家もあったんですけど、この武全にも、
それぞれですね、秀吉から直情をもらってたんですよ。
秀吉から直接、あんたの持っている領地はですね、
保証するよという直情を実はもらってました。
ところがそこにですね、そこに当然秀吉の命なんですけども、
黒田家が入ってきたわけであります。
城井氏の転封案と『陰徳太平記』の記述
で、これに対してですね、これに対して、
それぞれ秀吉から直情をもって領地を保証された侍、国衆たちはですね、
いや俺は黒田の家来にはならんぞということで、
反乱、彼らからすると反乱じゃないんですけどね。
聖なる戦いなんですけど、起こすわけであります。
特にですね、そういう中で、紀伊、重伏さんはですね、秀吉から、
伊予の国に転風をするんで、それで納得せんかという話があったということが言われてます。
これはもう本当通説になってまして。
伊予の国って四国ってこと?
そうですね四国です。現在の松山市を中心にしたところですね。
で、そうするとですね、おそらく、これ伊予の国転風だとですね、
どれぐらいの伊予のうちでも約束があったかというのはわかりませんけども、
伊予の国そのままだと、それまで紀伊、重伏さんが持ってた黒田家よりもですね、
おそらく2倍から3倍になるんですよ。
で、そもそも秀吉がですね、
格が違うってことですね。
そうです格が違うから、話としてはちょっとおかしいということで、
これは紀伊闘争記というですね、
江戸時代になって書かれたことにこれが書かれてます。
で、一方ですね、これも江戸時代に書かれたものですけども、
毛利家の記録で陰徳太平記というのがあるんですけども、
これ大変、江戸時代に書かれたものであるけども、
遡った歴史についてもですね、参考になるということで、
歴史家の方が結構参考にされる書物なんですけども、
その陰徳太平記についてはですね、
この紀伊茂夫さんは、国代をしっかり覚えてるんですけども、
1500億か2000億でですね、小林家高賀家の頼貴と言うんですけども、
元に預かりになると。
要するに小林家の侍になるということでですね、
命令が秀吉から下ったということが陰徳太平記に書かれてます。
書かれてまして、考えてみますとですね、
同じ規模の紀伊家と同じ規模の侍たち、
例えば筑前の糸島の原田ですね、
同じ筑前の室方氏、それから阿蘇氏あたりはですね、
やはり1500億から2000億でですね、小林家家の預かりになって、
筑後のどこどこにというのは、
これはですね、秀吉の直接の書上が残ってますから、
歴史的に間違いないことなんです。
その一時資料で確認できる、
室方とか原田とか阿蘇氏とかのですね、
秀吉の対応を考えますと、
同じ規模であった紀伊氏がですね、
紀伊・秀夫さんだけが伊予の国ではどうかって話はどうしてもおかしいんですよね。
おかしいんですね。
私は紀伊・秀夫さんもですね、
原田・阿蘇・室方氏あたりと一緒で、
小林家・高賀家のもとにですね、
預かり、領域として1500億から2000億を約束されたんだという、
陰徳大経壁に書かれていることは正しいのではないかと、
そのように思っております。
城井氏の出自と宇都宮氏の西遷説への疑問
それとですね、ちょっとこれはもうだいたいその紀伊家ファンの皆さんは強烈なんですけどね、
ここでちょっと今回また紀伊家のことを調べてですね、
前からちょっと私は疑念を抱いてたんですけど、
武蔵国のですね、鎌倉幕府よりともが幕府を作るのに大変活躍したご家人の一つの家である、
宇都宮家がですね、紀伊谷に下ってきて、
そしてその後、紀伊氏を名乗ったんだという話はですね、
ちょっと以前から私はいやちょっとそれは、
それもちょっと信用できん話じゃないかと思っておりました。
どうもですね、紀伊家、最先御家人都市の宇都宮、
信久がですね、紀伊谷に来る前のイラハラ谷というところで、
最初の海を取ったところですね。
そうですね。そこが最先御家人都市で宇都宮が下ってきた最初の地であると言いますけども、
こんな谷深いところにですね、なんで。
いやそりゃそうですよね。
東京からでしょ、言ってみたら。
例えば大友氏はですね、宇都宮とか現在の言えば大分市、海に面したところでですね、
ましても最盛期には対ポルトガル貿易もできるような築地があるところに、
拠点を置いたわけですね。
どうしてその武蔵国の宇都宮、明族の宇都宮がですね、
九州に下ってきて拠点を置くについてですね、
やっぱりそれはかっこいいですよ。
イラハラ谷っていう拠点を置くっていうのもかっこいいです。
木谷を拠点を置いたっていうのも大変、侍としていかにも拳という感じでかっこいいんですけども、
いやその最先御家人が果たしてですね、
そんなところを拠点にしたのだろうかというのは以前から思っていまして、
実はもともとですね、もともと地売でおりました、
その頃、紀伊氏と名乗ったかどうかは知れませんが、ある一つの勢力がですね、
そういえば武蔵国の宇都宮はですね、はっきりと九州に下った記録がないので、
この南は文豪大友がいましてですね、
大友氏はもうはっきりとですね、
最先御家人として大友義直という人がですね、
九州に下ったんだということがいろいろな資料で確認されています。
島津氏もそうです。
ただ宇都宮氏はですね、はっきりした、
なかったことを証明しろってのは難しいんですけども、
はっきりしたですね、証拠がないんですよ。
だから私は、いらはら谷、あるいは紀伊谷氏ですね、勢力を持っとった、
そこそこの実力を持った人たちの中で知恵がある人がいて、
宇都宮ははっきりした証拠がないから、
うちの先生はうちの女にしたらいいよということで、
系譜を借りる手法と黒田家の公式系図
まあ現在では、
博がつくみたいな話。
スマート記憶、そうですね。
うちのじいちゃんすごかったぞ、みたいな話っていう話かもしれない。
紀伊ファンっていうのは熱烈大ですからね。
こういう話は恐ろしいんですけど、
私はそうではないかと思っております。
統治するにもそういう正当性みたいなのがつきますし、
実際の実務にもちゃんと役立ったんじゃないかなと。
そうしたことはですね。
それはそうでしょうね。
なるほどね。
ただそういう、今回の紀伊家がどうだったかを置いておいて、
いわゆるその類の話ってあるんですか?
たくさんあります。
たくさんあるんですか。
じゃあそこでついでに、これは打ち合わせで、そこまではなかったんだけども、
そういうふうに横山さんが振ってきたかと思って喋るんですけども、
実はこの、わが地区での黒田、大見玄司ということで、
大見玄司からの佐々木家に系譜をつないでいます。
確かに黒田、飛鳥将軍家の家臣として、
黒田という家は大見にありまして、
そこの何代目かの子供がいなかった人、
ちょっと今もにわかにイレギュラーで話しますから名前は思い出しませんけど、
大見黒田家のほうの兄弟がいまして、
そして子供がいなかったほうに、
実は黒田官兵衛、吉高の祖祖父をつないでるんですよ。
祖父ですね。
祖祖父をつないで、吉高、仲正をつないでます。
実は黒田家の、はっきりした歴史がわかるのは、
茂高からなんですね。
茂高というのは黒田官兵衛の爺さんなんですけども、
でもはっきりした、
黒田家譜に字跡が書かれてるんですけど、
実は黒田茂高についても、黒田官兵衛、吉高の爺さんについても、
黒田家譜の中に字跡が書かれてますけど、
実はそれ一つ一つはあんまり確かめられないことなんです。
はっきり言って、もっとはっきり言いますと、
後藤氏様がまだおられますから言いにくいんですけど、
黒田家の、本当にはっきりした歴史というのは、
ようやく吉高、黒田官兵衛の親父、本高からなんですよね。
それで、官政の時と官営の時に、
幕府は全国の大名家に対して、
警府を提出しろと。
官営処刑刑図伝と、官政処科家譜というのを、
幕府公認の刑図数があるんです。
ですから、諸大名が自分の資料を持ち寄って、
自分のところは現時の誰々にさまごります、みたいな刑図を作りました。
これが、この2つが、官営処刑刑図伝と官政処科譜が、
幕府公認の刑図数なんです。
その中で黒田家は、
黒田家譜の中に、官兵衛吉高のひいじいさんとして出てきます。
黒田家の公式の師匠ですけども、
黒田官兵衛吉高のひいじいさんと呼ばれる高政の起流を認められませんでした。
だから、まず官営処刑刑図伝のほうが先にできるんですけども、
この時は、黒田家のほうは、二代藩主の忠行だったんですけども、
結局、幕府の担当との間で資料をやり取りする中で、認められないということで、
この時の銀味方担当は、責任者は林羅さんだったんですけども、
林羅さんがとにかく、あんたのところの資料に、いろいろ売ってきてるという、老中盛いの所情が残ってます。
結局、最終的に黒田家は、
あり的に言えば、黒田高政っていうのは、
実在者の人物じゃないかということを、検証できなかったということですね、実在を。
それで、官営処刑刑図伝の中には、
黒田高政という名前はなくてですね、名前は書き入れられずに、
この間、大見黒田のほうのですね、こっちは実在の事務所ですよ。
大見黒田のほうの名前と、それと黒田官部吉高のじいさん、しげたかとの間はですね、
この間、不明ということでですね、
実は、黒田家の刑図はですね、幕府公式刑務署には断絶した形で、
掲載されてます。
ずいぶんと、キー、キー、キーかな、話が飛びましたけど。
歴史における系譜の操作と現代への影響
それこそ、しかとつけもさっき車の中で似たようなというか。
そうなんですね、結構そういう、名族の子孫でしたって名乗る人は結構いろんな、
結構たくさんいて、
そうよね、いろんな時代で、
勢力を持った人。
わからんじゃないよね。
これは特定の人のことを言ってるわけじゃないんですけど、
例えば、平家を中土伝説とか、各地にあるじゃないですか。
あります。九州は多いですよ。
この村はね、昔平家のねっていう話は、結構それこそ、
山の森なんかしてたら、山のふもとの集落はそうだったのよなんていう話は、よく聞きますよね。
そういう人たちも、それもちょっとにわかに考えづらい話も中にはあるじゃないですか。
そういった中で、明治時代ぐらいにですね、
源氏の子孫と名乗る人たちと、平家の子孫と名乗る人たちが、
本当かもしれないですけど、和睦の調印式を結んだっていう写真があってですね、
冷静に考えたら、関係ない人たちが、源氏と平氏を代表して和睦を結んでるって、
ちょっと不思議な写真があってですね、
それ自体は見てたら面白いんですけども、
比較的木石とか黒だけが、
そういう昔の人の意向を借りてたっていうわけじゃなくて、
比較的ポピュラーに使われていた手段でしたっていう話は、
ちょっと補足でフォローしておきたいなと思います。
昔の人だからどうのこうのというよりも、
今でもよくあるってあれですけど、
例えばですよ、僕の子供の孫のそのまた先のみたいな子たちがさ、
うちのじいさん、ひいじいさんは、西日本新聞に勤めておって、
バンバントクダネ書いて、いずれは会社で、
社長にこそなりきらんかったけど、なかなかいいところまで行ったとよって、
100年後の子孫たちが言い寄るみたいな話でしょ?
まあ、その類の話ですよね。
よく遡ったら、なかなかうたずのほうが、
まあまあ、そこが歴史というのは面白おかしくというか、
まあってことですよね。
必ずしも悪意があってとか、
ちょっと共鳴心が出てしまったから、そういう話だとは思います。
なるほど。ということで。
番組からのお知らせ
長くなりましたけど。
聞いた話が外れたので長くなりましたけど。
ということで、
せっかくなんで長くなったんですけど、一つお知らせさせてください。
番組へのメッセージを寄せください。
番組でメッセージが紹介されました方から、
抽選で毎月3名様に、
移動販売のお豆腐屋さんトウキ市場の
900円分のギフト券をプレゼントしております。
ぜひメッセージをください。
西日本新聞、白戦国ドローンプラスは、
西日本新聞とスマホアプリ西日本新聞ミーで連載中です。
これもぜひご購読をお願いいたします。
本日はありがとうございました。
ありがとうございました。
どうも西日本新聞ミーです。
このアプリではあなたの知りたい記事から、
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