今回は「かめめろんぱん」様からテーマをいただきまして
「上杉家」
について話しております
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サマリー
このエピソードでは、リスナーからのリクエストに応え、戦国時代に数多くの有力者や大名を輩出した名門「上杉家」に焦点を当てています。上杉家は、その名門ゆえの苦悩や、各地に分家が生まれた背景、そしてそれぞれの分家の特徴について詳しく解説されます。物語は、上杉重房が貴族(公家)から武士となり、鎌倉幕府の有力者として台頭する経緯から始まります。足利将軍家との親戚関係や、関東管領としての権力掌握、そして上杉家内部での対立や分家間の複雑な関係性が、応仁の乱以降の戦国時代へと繋がっていく様子が描かれます。特に、山内上杉家、大木戸上杉家、犬懸上杉家など、各地に生まれた上杉家の分家が、それぞれどのように発展し、時には対立しながらも、上杉家全体の歴史を形成していったのかが詳細に語られます。最終的には、後北条氏の台頭などにより上杉家が衰退していく過程と、その中で生き残った系統についても触れられています。
はじめに:上杉家をテーマにした理由とリクエストへの謝罪
おはよう、こんにちは、こんばんは。 武将について喋るラジオ、略して武将ラジオのうっちーです。
この番組では、学生時代に学芸人を目指そうとも考えていた、歴史的である私、うっちーが、
毎月11日、ソロポッドキャストの日に、様々な武将について話をするという番組です。 どうぞよろしくお願いしま〜す。
今回テーマなんですけども、リスナー様から頂いておりまして、だいぶ放置しておりました。 本当に申し訳ございませんでした。
えっと、Appleポッドキャストの方でお聞き頂いた方から、リクエスト頂いたんですけども、
僕がそのリクエストに気づいておりませんでして、長々と放置させてしまいました。 申し訳ございませんでした。
今回テーマを頂きましたのは、カメメロンパン様でございます。
リクエストの内容を読ませて頂きますと、
リクエストです。
山の内植え過ぎし、大木がやつ植え過ぎし、犬がけ植え過ぎし、タクマ植え過ぎし、
エチゴ植え過ぎし、深谷植え過ぎしを紹介してください。 いつも楽しく聞いています。
といったリクエスト頂きまして、誠に申し訳ございませんでした。
確かに最近Spotify以外から聞かれている回数増えてるなと思ったんですけども、
もうそれでAppleポッドキャストの方の質問を放置してしまいました。 誠に申し訳ございませんでした。
今回植え過ぎしなんですけども、今挙げさせて頂きましたけども、
山の内植え過ぎし、大木がやつ植え過ぎし、犬がけ植え過ぎしなど、
こういった植え過ぎしって、いくつも植え過ぎという苗字、戦国時代とかよく出てきますけども、
これもともとはみんな親戚だったりもします。
でも親戚同士の争いもありまして、最終的には力を失っていくというのもあるんですけども、
これだけ多くの大名とか有力者を出せたのも植え過ぎが名門だったからでございます。
今回この植え過ぎしについて話をさせて頂きまして、
それぞれ今回リクエスト頂きました植え過ぎしってどういった違いがあったのか、
そんな話をさせて頂きます。
上杉家の起源と鎌倉幕府での台頭
それでは今回話をさせて頂きます。タイトルはこちら。
超名門だからこその難しさ植え過ぎしの苦悩とは。
ということで今回植え過ぎしで話をさせて頂きますけども、
先ほども亀部論パンさんからテーマ頂きましたけども、
山の内植え過ぎ、大木がやつ植え過ぎ、犬がけ植え過ぎ、たくま植え過ぎ、栄一郷植え過ぎ、深谷植え過ぎなど、
他にも越前とかに関しては地方の有力者の一つという形でもあるんですけども、
この各地に植え過ぎという有力者とか、それこそ大名のになるような人たちがたくさんいました。
よく戦国時代特には応仁の乱から始まるところとかですと、応仁の乱はすごいあの、
京でもバチバチと兄弟同士とかで親戚同士の戦いが起きてたりするんですけども、
関東とかでもそこから派生をしまして植え過ぎ同士の戦いとかが起きてたりするんですよね。
だからこそすごい戦国時代が分かりにくいってされてるんですけども、
いくつも植え過ぎがあって、これ結局何が違うのってなるかもしれませんけども、
もともとこの植え過ぎっていうのは同じ家から生まれてるんだよ。
そこから何でこんなにも対立するようになったのか、そんな話をさせていただこうかなと思います。
これだけ各地に植え過ぎという家ができておりまして、しかもみんなそれぞれ有力なんですよね。
何でこんなにも植え過ぎが有力になったのか、まず大物の話をさせていただこうかなと思います。
そもそもこの各地に植え過ぎが生まれる階層、大元の人としましては、
植え過ぎシゲフサという方がスタートだと言われております。
この植え過ぎシゲフサなんですけども、もともとはクゲです。
言ってしまえば貴族様の生まれでございます。
その貴族様から武士になったという、武家になったという方でございます。
クゲだし貴族だろう、だから有力になるよなと思われるかもしれませんけども、
この植え過ぎシゲフサという方、結構な苦労になったりします。
もともとこの植え過ぎシゲフサがどういった経緯で、
クゲから武家になるのかと話をさせていただきますと、
もともとこの植え過ぎシゲフサは、時は1252年とか1250年ぐらい、
まだ鎌倉幕府の頃なんですけども、この鎌倉幕府の頃に
宗高信濃という方が鎌倉で将軍になるために、
京から関東へ行きます。
その時に側近としてついてきたのが植え過ぎシゲフサという方でございます。
じゃあこの宗高信濃って誰よとなりますと、この方、
当時のトップ中のトップ、天皇の長男にあたる人でございます。
この人が将軍になるために関東に来たというところから話は始まります。
ざっとですけども、ここで天皇系と将軍系の関係性とのざっと話させていただきますと、
もともとこの鎌倉幕府、源頼朝が開いたと言われます鎌倉幕府でございますけども、
これは正位大将軍という将軍になりまして、天皇様からお墨付きをもらいまして、
日本中の武士のトップになっていいですよというお墨付きをもらったような形でございます。
なので形としましては、将軍系よりもあくまでお墨付きを与えることができる天皇系とか、
朝廷の方が上という立ち位置でございます。
朝廷の方が上ではあるんですけども、ただ実質的に実務とかそういった
実質的なトップとなりますと将軍系という立ち位置でございます。
鎌倉幕府、昔は良い国作ろうで、今は1185年良い派行なんていうふうに教えられますけども、
この鎌倉幕府、1250年頃になっておりますと、源頼朝の直径が途絶えておりました。
ここらへんに関しましては結構色々と黒い話があったりするので、
北条が実権握るために源頼朝の直径どうにかしちゃったんじゃないかとかそういうのはありますけども、
とりあえずその源頼朝の直径が途絶えてしまいましたと。
でなりまして、次の将軍どうしましょうかってなった時に、
ここで朝廷の方から将軍を出した方が迫がつくんじゃない。
あくまで朝廷の方が上ですから、その朝廷に関係する人間を将軍に捨てた方が、
朝廷との関係性も良くなるし、将軍家としても迫がつくよねということで、
鎌倉幕府としましては、その朝廷から将軍を出すようにということで、朝廷と交渉しました。
で、その時なんですけども、その宗高親王、
宗高親王は第88代天皇、後佐賀天皇の長男。
長男ということは将来的に天皇を継ぐんじゃないと。
将軍家よりも朝廷とか天皇の方が上なんだから、
そっちの方を継いだ方が良いんじゃないかと思われるかもしれませんけども、
ただこの宗高親王のお母さん、身分が低かったということもありまして、
長男ではあるんですけども、天皇を継げないんじゃないかという風になっておりました。
で、そこに目をつけました鎌倉幕府の従一臣たち。
ここで朝廷に働きかけます。
宗高親王を将軍にしませんか。
天皇の長男という立ち位置になりながらも、天皇を継ぐことはできない。
宗ぐらりになってしまう状況で良くないですよね。
後に反乱とかの種になりかねないですよね。
だったら将軍というポジションに収めませんかっていう。
天皇ではありませんけども、
将軍家であれば実的な権力者になることができますので、
ちょうどいい落とし所になりませんかという話を持ちかけます。
それによりまして、朝廷としても強化を出しまして、
宗高親王が次の鎌倉幕府の将軍になりなさいということで、
宗高親王は鎌倉幕府の将軍という風に形になります。
その時に宗高親王に上杉重夫様を突きしたがって呼びます。
なので宗高親王は側近として上杉重夫様を関東にやってきます。
ただ実質的な権力者ではあるって言ったんですけども、宗高親王が。
ただ鎌倉の重臣たち、例えば北条家とかの人たちは、
言ってしまえば将軍家はお飾りにしようとしておりました。
もともと鎌倉幕府を建てた時も、
源頼朝が鎌倉幕府を建てたと言いましても、
源頼朝とかはお飾りのようなものでして、
実質的な政治は北条であるとか、
頼朝の直系ではないんですけど、源家との関係性もありました。
足利家とかが実質的な政治を行っておりました。
北条家とかとしましては、朝廷から将軍を迎えたとなりまして、
お飾りになってもらって、
実質的な政治は私たちでやりますよと思っていたんですけども、
宗高親王、自分で政治を行おうとしておりました。
宗高親王が考えている政治のこととかを北条北条とかにも話しますし、
また宗高親王と合わないなっていう武将たちを首にしてしまうとか、
敵地にしてしまうとか、そういうのもありまして、
宗高親王が自分で政治を行おうとしました。
これをしてくると北条としては困ります。
いやいや本当はお飾りの将軍になってほしかったのに、
自分で政治やっちゃってるよ、
それじゃ俺たちが権力握れないじゃんっていう風に困ってしまいました。
結果的にこの宗高親王を北条たちが追い出します。
なので宗高親王というのは将軍について、
わずか14年で追放される形になります。
そしてこの宗高親王を追い出した後で追放した後で、
その土作作とかもありまして、
実的に鎌倉幕府というのは北条が権力を握っていくという形になります。
ここで北条が権力を握りすぎたがために後に足利に反乱を起こされて、
足利高内とかに北条は滅ぼされることになったりするんですけど、
そこは置いときまして、
じゃあここで宗高親王に突きしたがっていた上杉重久は何してたのかと言いますと、
上杉重久としましては北条の指示に従って、
ちゃんと実務を行っておりました。
なので北条の家来というような形で働いておりました。
なので北条からしましても、
宗高親王を追放したとなりましても、
この上杉重久というのが実務的にも有能な方だし、
この人は別に追放しないで残しておこうということで、
なおかつさらに一応家臣として取り立てようということで、
土地とかも与えて、身分も与えておりました。
なので北条の下で上杉重久と仕事をしていたんですけども、
ここで上杉重久は、ただ北条に従っているだけではありませんでした。
足利とも仲良くするようにしておりました。
この時足利の立ち位置というのを簡単に話させていただきますと、
実質的な鎌倉幕府の頂点となりましたのは北条家になっております。
北条が実際の権力とかを握っておりました。
その北条にいろんな武家たちが従っているという中なんですけども、
その中でも北条は足利は格別に扱っておりました。
他の武家よりは足利を優遇していたという形ですね。
これはなぜかと言いますと、足利が元々源氏の血筋を引いている。
頼朝とかの直系とかではないにしても、源氏の血筋を引いているので、
元々鎌倉幕府というのは源頼朝が作った幕府というのもありますから、
そういった源氏は大切にしなきゃいけないよねということもありまして、
足利は格別な扱いをしておりました。
格別な扱いをしていたとは言いましても、北条が権力を握りすぎたがために、
足利としましてもいつ自分たちが追放されるかわからない。
特に室高信濃という朝廷から頂いた将軍を追放するぐらいの北条となりますと、
いつ自分たちも根首かかれるかわからないということもありまして、
足利の地に反乱を起こしたりもしますけども、
とりあえず足利というのは北条家の中、まずは鎌倉幕府の中では、
それなりに高い地位におりました。
上杉しげふさとしましては、北条の指示に従うのはもちろんのこと、
この足利とも仲良くしておこうということで、
足利と、例えば娘を足利家のところに嫁に出したりとか、
そういった親戚関係を結んでおりました。
なので、上杉しげふさという人物は、
北条とも足利とも仲良くしていたという立ち位置になります。
この足利とも仲良くしていたというのが、後に身を結びます。
室町幕府と関東管領職の創設
この上杉しげふさにとって孫にあたる人物が足利隆氏となっております。
この足利隆氏が室町幕府を起こします。
鎌倉幕府、北条の時代を終わらせます。
足利隆氏によって室町幕府が作られた時、
そして室町幕府というのは基本的に京、当時はどうしても京都、
京で言い方もしますけども、京が政治の中心地ということもありまして、
室町幕府も主に京で政治を行おうということになります。
今までは関東だったけども、やっぱり朝廷と結びつき近い方がいいよね。
朝廷と近い方が仲良くした方がいいよねということで、
京でまた政治が行われるようになります。
ただこの足利隆氏としましては、
ここで関東をおろそかにするのは危険だなというふうになります。
と言いますのも、もともと鎌倉幕府というのは、
関東を中心に将軍とか武家が集まってできたり幕府でございました。
自分たちは京で中心にするけども、関東を野放しにしすぎて、
関東がまた一致団結して自分たちを倒そうとすると、
それめんどくさいなとなりまして、
関東にもしっかりと目を見張らないといけないなというふうになってきます。
そこで考えたのは足利政権としましては、
植杉氏家族たち、植杉家に関東を見張らせようとなります。
植杉と足利は親戚関係だったということになって、
結びつきも強いと。植杉に権力を与えるから、
お前らが関東を治めろというふうになります。
これが関東官令という関東の政治を取りまとめろよというふうになるんですけども、
関東官令という職を与えるから植杉が関東を治めてねとなります。
そうすれば関東は反乱を起こさないようにしてくれ。
そしたら俺たちも京でしっかりと政治が行えるからというふうになります。
ということもありまして、植杉氏家族を外しました。
植杉氏に関しましては関東で絶大な権力を握ることになります。
この時に植杉が得た領土につきましては、
当時の関東の開拓が十分でないこともありまして、
戦国時代のような南蛮国の領土というものは表せないんですけども、
ただそれでも植杉家の力が及ぶのは関東全域であったり、
他にも新州や欧州、東海の一部にも影響を持っていること、
それなどの権力を手に入れておりました。
で、強大な権力を得ました植杉氏は、その後いくつもの分家が生まれていきます。
今回テーマでいただきましたけれども、
山の内植杉家、大木がやつ植杉家、犬がけ植杉家、
匠植杉家、深谷植杉家、越後植杉家などが出てきます。
ただなぜこんなにもいくつもの植杉氏が生まれてきたのか、
疑問に持つ方がいらっしゃるかもしれません。
しかも山の内植杉氏や大木がやつ植杉氏、犬がけ植杉氏など、
それぞれが同じような規模だったりもします。
もちろん衰退とかもあるので、
最終的にどうかというのを置いておくにしても、
それぞれがかなり大きな規模を持っておりました。
戦後後時代とかになりますと、
基本的には兄弟がいたとしても家は一つだったりします。
尾田家とか北条家、武田家とか、
代々妙達でも家を分けたりというのはあまりないです。
もちろん兄弟や子供たち、親戚に領土を渡すということはありますけれども、
例えばですけれども、本家が300万石持っていたとなっても、
本家の兄弟はどれくらいかとなりますと、
3万石くらいという形で、本家とそれくらいで、
国高とかに明らかな差をつけておりました。
ただこの時の植杉氏の場合ですとも、
本家と文家という表現で正しくない部分も出てきてしまうんですけれども、
あえてそういう本家と文家で表現させていただきますと、
本家ともいえる山の内植杉氏以外の文家でも、
庄木がやつ植杉、犬がけ植杉家なども規模が大きいとなっております。
だからこそといいますか、戦国時代のことを勉強する時とかに、
いくつもの植杉氏、植杉家が出てきて迷うことになります。
なぜこんなにもいくつもの植杉家が出てきて、
しかもそれぞれ力を持っていたのかといいますと、
その昔、だいたい鎌倉時代から南北朝時代の時ですけれども、
この頃は家の領土は息子たちとかみんなで分けようねというのが基本でございました。
当時の家に対する考え方としましては、
一族全体で土地を守ることと、
当主が死んでも大丈夫なように保険かけましょうねということがありました。
例えばですけれども、当主が領土を100持っていました。
子供が3人いたとしますとなりますと、
長男に40、次男に30、三男に30ねという、
こういうふうに分けることが珍しくなかったです。
多少長男が多いということがありましたが、
だいたい平等に領土を分け与えられました。
もちろん多少の違いはあったとしても、
兄弟みんなで分けましょうねというのが主流の考え方でありました。
これはみんなで協力して一族全体で頑張ろうねという意味もあったのと、
また戦であるとか流行病、こういったことで命を落とすことも多かったという昔。
それであれば長男とかがたくさんの領土を受け継いでも、
その長男が死んでしまったらどうしよう。
誰かに負けてしまって領土を取られてしまったらどうしよう。
そうすると一族みんながピンチだよねとなってしまいますので、
長男の領土が奪われてもいいようにというのもありまして、
次男とか三男の領土もある程度残しておりました。
それによってまたお家を再興しようねというきっかけを作るようにとしておりました。
というように長男とか当初への全突破というよりは、
あえて分割することによるリスク管理も兼ねておりました。
ただこの考えは戦国時代、特に黄泉の乱以降に事情が変わってきます。
上杉家の分家と領土分割の考え方
戦国の世が始まってきますと強い家が弱い家を倒して領土を奪ってしまうというのが
どんどんどんどん激化していきます。
各地で戦いが激しくなっていきました。
そうなりますと土地を分けることで家が弱くなってしまう、
そんな現象が起きてきました。
例えば100万石を持っていた大名が息子さんにいました。
息子3人に33万石分けましたとなったときに、
仮に100万石のライバルが出てきたとします。
そうしますと本来であれば100万石対100万石で互角に戦えるんですけども、
各家ずつで見てしまいますと33万石ずつとなってしまいますと、
100万石の大名と33万石の大名ではやはり100万石の大名が強いよねという風になってしまいまして、
強い方が弱い方を倒すのがどんどんどんどん起きてきます。
またライバルに対抗するために兄弟たちみんなで力を合わせようと集まってくるとき、
その隙を突いて他の大名が襲ってきてしまう、そんなこともありました。
そうなってきますと100万石の大名を3人で分けて33万石ずつ、
本来ではみんな合わせれば100万石の力を持っているんですけども、
33万石しか持っていないので隙を突かれて50万石の大名に負けてしまうとか、
そんなことも全然ありました。
こういったことからも家を分けてしまいますと弱くなってしまうよねというのがありまして、
戦国時代には家は一つという考えが強まりました。
なので基本的には長男とか当初となる人物が全領土を相続しまして、
次男以下はその長男の家臣になるとか、また別の家のお家が断絶したところの養子に出るとか、
また寺に入るってお坊さんになる、そういったことが増えてきました。
例えば武田信玄とかも弟たちはその家臣となっておりまして、武田家そのものは分割されませんでした。
なので戦国時代の各大名家では家を大きく分けるということはなくなっていきました。
ちなみにこの家を大きく分けるのはなくなっていったと考え方ですけども、
豊臣とか徳川によって天下が統一された後も続いておりました。
天下統一された後なんだから争いが減ってきたんだから、
家は一つという考えをやめて、またリスク管理のためにもみんな分けたらいいじゃん、
長男が死んだ時のために次男とか三男に平等に分けたらいいじゃないかと思われるかもしれませんけども、
こういうふうに一つの家で分割分割となりますと統治する側、
例えば豊臣とか徳川のような統治をする側からするととても面倒。
そういった経緯もありまして豊臣とか徳川は各大名家の分裂を起こさないようにしていたという背景もあります。
ではなぜ上杉氏のようにいくつもの分家しかも強力な分家が生まれていったのかと言いますと、
まず上杉家、上杉氏が活躍した14世紀頃というのは戦国時代よりもまだ前の時期なので、
一族で領土を分けましょうねという考えが当たり前だった時期に上杉家は成り上がっていきました。
そしてさらに上杉家が名門すぎました。だからこそ分家がみんな栄えていきました。
普通の家とかであれば家を分けたとしましても力がない家とかでは後継ぎができなくなってしまったとか戦で弱くなってしまったとか、
そういったのもありましてお家断絶なんてこともありました。
ただ名門上杉、足利将軍家とも親戚関係がありますし、関東関連という絶大な力を持っている一族ということもありまして、
本家の山の内上杉はもちろんのこと、たとえ分家でも仲良くしたいという分子たちがどんどん上杉氏のもとに集まってきました。
なので婚姻関係を結ぶ有力者とかもいますので、お家断絶とかの心配も少ないとか、
また敗戒になる有力者とも集まってくるので戦に負けることも少ない。
そういったこともありまして分裂していった上杉氏はそれぞれ分裂した後でもどんどんどんどん力をつけていきました。
なのでいくつもの有名な上杉家が生まれていきました。
で、ちなみにとしましてはそれぞれの上杉家、たとえば山の内とか扇貝奴とかですけども、これらはそれぞれ地名に由来していたりします。
たとえば山の内上杉氏の山の内は現在の群馬県付近ですよねとか、
扇貝奴上杉氏の扇貝奴は鎌倉の地名の中にありますよねとか、
犬がけも鎌倉の地名だったりしますね。
そのようにそれぞれ拠点としている場所を仮名として名乗るようになっていました。
ではこの強大な力を持ちました上杉氏が戦国の世でどういった運命をたどっていったのかをここから話させていただくんですけども、
各上杉家の特徴と歴史的役割
まず今回テーマでいただきましたそれぞれの上杉、たとえば山の内とか扇貝奴とかですけども、
こういった数々の上杉氏についてざっとした特徴をまず触れさせていただきます。
こんな違いがあるんだなーくらいに感じていただけると、
その後の上杉氏の戦国の立ち位置が分かりやすくなるかなと思います。
まず山の内上杉家、ここが上杉にとっての本流と言えます。
ここの党首が関東関連を名乗ることも多かったりもします。
あとで越後上杉家のところでも触れますけども、かの有名な上杉謙信。
その上杉謙信を養子にして関東関連を継がせた上杉則正もこの山の内上杉家の人物だったりもします。
なので上杉氏となりますと一番有名なのがこの山の内上杉家かなと思います。
その次に紹介しますのは大井家康上杉家。
この家は山の内県に位置する有力な分家でございます。
戦国時代初期の頃には山の内上杉家と並んで関東を支配しておりましたし、
実際山の内上杉家と関東の覇権を争っておりました。
有名な家臣で太田道館などがいます。
この太田道館によってさらなる力をつけていったという家でもございます。
ただご法上とも言われるんですけども、いわゆる法上家。
法上宗文こと伊勢宗瑞が立ち上げました法上家。
その法上家との戦いでだんだんと衰退していきまして、特に川越野戦でほぼ滅亡までしてしまいました。
次に犬垣上杉家。
この家は南北朝時代にはかなり強力でした。
特に上杉氏乃こと上杉禅宗が有名な方かと思います。
この禅宗の名でおなじみであります禅宗の乱。
これを起こしたことでも有名なんですけども、この禅宗の乱できっかけで没落をしてしまいました。
それ以降は山の内、扇返すほどの勢力を持つことはできませんでした。
他にも巧馬上杉家。
この巧馬上杉家は関東でというよりは京都下の中央政界で活躍をしておりました。
なので関東での戦いとなりますと山の内とか扇返すほど有名なものではないんですけども、目立つ戦いもあまりないんですけども、
ただ地味に主家である山の内家を支えていたというところもありますし、
でまた室町幕府ができたばかりの頃。
みんなでこれから室町幕府として政治を行っていこうねという、もう始まったばかりの頃。
この頃の政治を取りまとめる集団の中には、この巧馬上杉氏の流れを組む者が多かったです。
この室町幕府ができたばかりの頃に活躍しました人物で上杉範久。
この上杉範久が巧馬上杉家の人物なんですけども、
この上杉範久の子であります上杉範明が山の内上杉家の階層となります。
でまた別の上杉範久の子供であります上杉範久。
彼は犬がけ上杉家の階層となります。
なのでこの巧馬上杉家から出てきてそれぞれ有力な家も出てきたりもしております。
なので上杉家にとってはあまり有名ではないですけど、
とても重要な家が巧馬上杉家だったりもします。
ちなみに上杉が後に衰退していく中で、
巧馬上杉氏の流れを組む子孫は徳川の世でも生き続けていたりもします。
次に紹介しますのは深谷上杉家。
こちらは今の埼玉県深谷辺りを拠点としておりましたけれども、
この家は北関東の安定を担当しておりました。
元々は上杉範明という上杉範生の子でありまして、
山の内上杉家の階層となる上杉範明。
彼が初代関東官礼となった際なんですけれども、
その上杉範明の息子が発信でこの深谷上杉家はどんどん盛り上がっていくんですけれども、
関東の安定、特に北関東付近の氾濫を抑える目的の家だったりもします。
上杉対孤学坊の戦いでも拠点となります深谷城を築いたりということで、
深谷上杉家も有名だったりもします。
深谷上杉家自身がとても有名で何かを先頭に立っていたというよりは、
主家を支える屋台掘れのような活躍をしていたのが深谷上杉家でございます。
そして最後に越後上杉。
越後で上杉と言いますと上杉謙信を想像する方も多いかもしれません。
ただこの越後上杉は上杉謙信の系統ではないです。
むしろ上杉謙信こと長尾賭虎の長尾家に負けたことで
老いで断絶となったのがこの越後上杉でございます。
もともと越後上杉氏が越後の支配権を持っておりました。
ただその越後上杉氏の輩下であります長尾家がどんどんどんどん力を付けていきまして、
そして長尾家と越後上杉氏で対立をしました。
その結果長尾家が越後の支配権を実際的に勝ち取ったという経緯があります。
なので面倒な感じになりますけれども越後上杉氏は長尾家に負けました。
でその長尾家の一族であります長尾賭虎が山尾氏上杉家の養子となりまして、
関連となりまして上杉謙信と名乗るようになっていきます。
といった感じで今ざっと各上杉家の紹介をさせていただきましたけれども、
ここらへんを含めまして上杉家の絡んだ大きな出来事を絡めながら、
ここから上杉家の流れについて話をさせていただこうと思います。
鎌倉公方と関東管領の対立:禅宗の乱
まず先ほどの部分で触れておりましたけれども、
上杉氏、上杉家としましては足利将軍家との親戚関係ということもありましたし、
室町幕府の創立に多大なる貢献をしておりました。
去年室町幕府が運営される際、初めの頃ですね、その頃上杉家の人員、
特に拓磨上杉氏の流れを組む方から協力もしたりしまして、
室町幕府はスタートをしております。
その功績もありまして上杉氏には関東官礼という役職を与えられます。
で、この今日で活躍しました拓磨上杉家の上杉典夫さん、
その子であります上杉典明の山の内上杉家を中心として、
関東官礼を務めていくようになっていきます。
ただ確かに関東官礼というのは、実質的な関東における権力者ではあるんですけれども、
実際には関東において一番の権力者が関東官礼というわけではありませんでした。
関東官礼の上としまして、まず将軍家、京に本拠地を置きます足利将軍ですね。
やっぱり将軍の方が関東官礼は偉いようとなっています。
ただ将軍は京にいますので、関東の方には目が届かないので関東官礼が働きますようとなっているんですけども、
ただ実はこの京にいる足利将軍と関東官礼の間に、
つまり関東官礼にはもう一個上のポジションの方がいます。
それは鎌倉工房と言われる方でございます。
足利将軍家としましても、さすがに他の家に関東全域全て任せるのは危険性がありすぎると、
その家が反乱とか起こすと危険だなと。
室町幕府は京を中心に起こっておりますけれども、
その前の鎌倉幕府は関東、鎌倉を中心に起きたということもありまして、
関東にはまだまだ有力者たちがいました。
そこがみんなで一致団結して反乱を起こされると面倒だなというのもありまして、
関東における足利将軍の代理という立ち位置で鎌倉工房というポジションを作りました。
この鎌倉工房は初代は足利孝二の四男、足利元氏がなっておりまして、
足利一族の血縁関係でこの鎌倉工房というのも役職を引き継いでいくことになります。
将軍の代理人で鎌倉にいるから鎌倉工房ということでございます。
本来としましては、今日にいる将軍をトップとしまして、
次に鎌倉工房、その次に関東官礼という順で関東の権利を持っておりまして、
関東官礼は鎌倉工房の補佐という立ち位置でございました。
とは言いましても、鎌倉工房は若いうちから鎌倉工房になるという一族の血縁関係になっていくので、
初代がなくなってその次に子供が引き継いでいくとか血縁関係の中で選ばれるんですけども、
そこまで政治能力がまだないとか若い方が就任することも多いので、
実際に実務を行っているのは関東官礼で、鎌倉工房はお飾りに近い形にもなっておりました。
そういったこともありまして、軍事とか財政人事の権利、
こういったのは関東官礼である上杉家が握るようになっていきました。
ただこの関係性が後に問題となっていきます。
第4代鎌倉工房足利募中寺と第19代関東官礼である上杉氏子と上杉全衆、
この足利募中寺と上杉全衆の2人の対立が起きます。
これなぜ対立が起きたかと言いますと、ずっとお飾りでありました鎌倉工房、
この足利募中寺が独自の考えで政治を行おうとしていきます。
募中寺と考えの違う部首を次々と処罰したりしましたし、
自分の考えに近い人物を取りがてるようにしていきました。
実際に関東の政治を行っていこうとしていきました。
この時に募中寺によって処罰された人物の中には上杉全衆とも親しい部首たちもおりました。
ただ本来は鎌倉工房の方が関東官礼よりも上なので、
鎌倉工房に従うのが関東官礼として正しい姿なんですけれども、
ここで今日にいる将軍が関わってきます。
当時の将軍は第4代将軍足利義持でございました。
この足利義持将軍は鎌倉工房の募中寺の強硬姿勢を望んではいませんでした。
募中寺が強硬的な姿勢を見せて関東を変えていこうとして、
それで関東官礼とも対立をしているようだなとなっていた時も、
なんとかオンビに済んでくれないかな。
関東官礼がある程度リズムを握るのは仕方ないんじゃないかなという考えを持っておりました。
また鎌倉工房の足利募中寺の考えは将軍義持とは違ったところもあったりしました。
本来は義持はこういうふうに政治を行ってほしいんだけどなというところに対して、
募中寺は将軍ともまた違う考え方で政治を行おうとしていた面もありました。
そういったところもありまして、将軍としましては鎌倉工房の考え方あまり好きじゃないなというところがありました。
この将軍としての考え方は鎌倉工房の考え方を否定しているんだなというふうに捉えた植杉全州は、
きっと将軍家は自分たち関東官礼を支持してくれると期待しまして拒否します。
植杉全州たちが鎌倉工房に対して反乱を起こす形になります。
なのでこの戦いは植杉全州から取って全州の乱と呼ばれたりもします。
この時全州の味方としましては山直内植杉家の一部の人だったりとか、
また植杉全州は犬がけ植杉の出身ということもありまして犬がけ植杉の面々も協力をしました。
また他にも有力な関東の武士たちも加わって反乱を起こします。
その結果全州たちは鎌倉を攻め込みまして募中寺たちを倒します。
鎌倉工房の足利募中寺は鎌倉から脱出しなければいけないほどになります。
全州たちは鎌倉を掌握することができましてそしてここで募中寺の弟であります足利持中という人物、
この人物を新たに鎌倉工房にしようというふうにいたします。
なのでこれは単なる反乱というだけでなくて鎌倉工房を交代しようという意味でのクーデターに近いものでございました。
実際この時には募中寺の弟である持中の軍も全州に協力をしておりました。
これで新たに鎌倉工房が変わりました。
関東としましても植杉家のいいようにできるかなと思いきやなんですけれども、
ここで植杉全州の思惑が外れます。
全州は将軍吉餅は自分のことを支持してくれると考えておりました。
が吉餅としましてはクーデターを起こされた、反乱を起こされたとなりますとこれ関東大混乱になるだろうということで、
結果的にはここで将軍は元の鎌倉工房募中寺の支持の方へ動きます。
植杉全州としましては将軍の支持を期待していたのにまさかで将軍は鎌倉工房方を支持するということになります。
そして将軍と元々の鎌倉工房の考えが一致したとなりますと、
関東各地の武士たちはこれだったら関東管理側でなくて鎌倉工房足利募中寺の方を支持するべきだよね。
だって将軍の隅付きもあるんだからという風になっていきます。
この結果形成は大逆転を起こしまして足利募中寺たちの方が圧倒的な強さとなりました。
そして最終的には植杉全州は敗北をしまして自害に追い込まれます。
こうして全州の乱というのが終わるんですけども、
この時に植杉全州側にいました犬がけ植杉などは全州が亡くなったこともありまして、
その責任などもありまして犬がけ植杉はだんだんだんだんと衰退をたどっていくことになります。
永享の乱と結城合戦:幕府と鎌倉公方の争い
またこの時なんですけども山の内植杉などの他の植杉県に関しましては、
植杉全州側ではなくて最終的に鎌倉工房足利募中寺側の支援をしておりました。
もちろん山の内植杉でも一部は全州側のサポートをしておりましたけども、
多くは鎌倉工房側の兵として動いておりました。
これもともと理由としましては植杉全州が関東関連になる際も、
もともと山の内植杉家の人物が失脚をしました。
その時に対立をしていた犬がけ植杉家の人物が関東関連を引き継ぐということになりまして、
もともと山の内植杉と犬がけ植杉の間で関係性が悪化しておりました。
そこにさらにこういった全州の乱が起きたことで、
山の内植杉としましては鎌倉工房方についたということもありまして、
山の内植杉と犬がけ植杉の対立は圧倒的になりました。
犬がけ植杉は衰退をしていきましたけども、結果的に関東関連の役職などは
山の内植杉などの他の植杉家の方に戻っていくことになっていきます。
ただ植杉家の中でも、もともとは一族みんなで土地を守ろうね、
一族みんなで頑張って植杉みんなで協力しなきゃねということだったんですけども、
ただ残念ながらこの全州の乱などが植杉市内部の対立を激しくいいものにしていきました。
またこの全州の乱の後なんですけども、勝利をしました足利藻中治としましては、
以前よりもさらに自分の考えを進めるようになりました。政治的に強硬化していくことになります。
自分に反対する人物たちを倒すことができたということもありまして、
だったら自分の考えをどんどんどんどん進めていきたいよねとなりまして、
どんどんどんどん考えが強硬化していきまして、
反対派をどんどんどんどん粛清していくという風にもなっていきます。
この鎌倉久保が独自にどんどんどんどん自分の考えを出していくということが、
後にまた別の乱につながっていきます。
それは1438年頃から起きたといわれます、英帝の乱につながっていきます。
全州の乱から約20年後に起きたこの乱なんですけども、
鎌倉久保足利藻中治は独自の考えで政治を取り行っておりましたけども、
この頃京都では新しい将軍足利義則が将軍となっておりました。
この足利義則という人物は、将軍に逆らうものは許さないというタイプでございました。
その結果、独自で政治を行いたい藻中治と将軍義則の間で反発が起きます。
将軍義則としましては、自分の息子、自分の考えに従うような人物を
新たな鎌倉久保に据えようかという考えすら起きておりました。
その結果、完全にこの鎌倉久保と将軍の間で対立が起きます。
その結果、将軍としましては、今度は関東関連上杉に
正式に鎌倉久保を足利藻中治を打ち倒せという命令が下るようになります。
20年の時をひまして、鎌倉久保対関東関連ということがまた起きました。
この時将軍は関東関連側だったということもありまして、
この戦いは関東関連側上杉軍が勝利を収めます。
この閉店の乱、1438年の夏頃から始まった乱と言われておりますけども、
翌年、1439年の1月か2月頃と言われているんですけども、
足利藻中治は自害に追い込まれております。
ということで、鎌倉久保が自害をしたということで、
幕府の意向、将軍の意向を継ぐ関東関連が勝ったであれば、
ここからは将軍の意向が強い鎌倉久保などが置かれて、
将軍と鎌倉久保、関東関連、みんなが同じ考えになっていくんだろうと思いきや、
ここから戦いはまだ続きます。
この次に勇気合戦と言われる戦が起きていきます。
1440年頃、足利藻中治を自害した翌年ですね、
志望者の有力代名、雄寺内友が足利藻中治の子供たちを保護しておりました。
幕府としましては、藻中治の子を差し出せと命令をします。
ただ、勇気側としましてはこれは拒否します。
幕府としましては、この藻中治の子が生きているとなりますと、
またそこから反乱の目になるかもしれないと。
だから藻中治の子も何とか処罰するなり、いろいろしなければいけないんだ。
だから幕府が差し出せよと話をするんですけども、
勇気側としましては、いやいや、もともとの鎌倉久保の子供ですよ。
守らなきゃダメでしょということになりまして、
勇気側としましては幕府の命令を拒否します。
そこでここは戦争となります。
勇気士側としましては足利藻中治と考えが近かったとなりまして、
足利藻中治の子供たちがまた鎌倉久保になって、
自分たちを取り立ててくれたらいいなというのもありまして、
幕府側に反乱を起こしたとも言われております。
この結果なんですけども、幕府側としましては激怒しまして、
幕府の命令もありまして、
城であります勇気城を取り囲みます。
1年近くの牢城戦が行われるんですけども、
結果的には勇気士側の敗北、幕府側の勝利というふうになります。
この時には元々の藻中治の子供たちも幕府側に囚われます。
藻中治の子供であります旬大丸や安大丸は殺されたと言われておりますし、
永寿大丸、万寿大丸という説もあるんですけども、
という子供も捕らえられまして、その子は京都に送られていきました。
これで藻中治の子供を囲って反乱を起こすという子供も亡くなりました。
これで一件落着かなと思いきやなんですけども、
藻中治にとっての最後の位置とも言いますが、
永寿大丸か万寿大丸というものを京都に送っている最中に、
将軍足利義典が暗殺されます。
この足利義典という人物の評価はすごい難しいところであるんですけども、
政治的にはすごい戦権の命があったという意見もあるんですけども、
ただ強硬的な政治、自分の考えに従わないものは処罰するようという、
その強硬的な姿勢が怖かった、恐怖政治を生んでいたということもあったと言われておりまして、
守護大名の赤町氏に暗殺をされることになります。
この将軍が暗殺をされたことによりまして、
京都に送られていた藻中治の子供は生き延びることになります。
このことがまた火種となります。
享徳の乱と堀越公方・小栗公方の対立
ただその後に左になるんですけども、
とりあえず将軍が暗殺されてしまったということもありまして、
幕府側としましてもバタバタすることになります。
とりあえず新しい鎌倉工房どうしようかという状況になるんですけども、
仕方ない、ここはもうバタバタしてる相手はそれどころじゃないと。
まず京都の方を安定させなきゃいけないということで、
とりあえず鎌倉工房に関しましては藻中治の子供にさせようと。
なので藻中治の子供、足利義典というふうに名乗るんですけども、
足利義典が第5代鎌倉工房、第4代鎌倉工房の息子が第5代鎌倉工房となりまして、
それが足利義典となるんですけども、
足利義典としましてはただこの時に自分の父親を殺されたということもありまして、
幕府であるとか関東関連を恨んでおりました。
そして事件は起きます。
1454年、関東関連が暗殺されます。
1454年か1455年と言われるんですけども、
足利義典は関東関連植杉典を殺害します。
これによりまして鎌倉工房対関東関連という大戦争がまた起きます。
ただこの時の関東関連を暗殺したことなんですけども、
ただ鎌倉工房内でも政治的にドタバタしていたこともありまして、
これは関東関連側、植杉側が優勢となります。
その結果鎌倉の中を植杉側が取ることになります。
これで植杉が鎌倉を取った終わりかと思いきや、
ここで足利義典は小賀という地域に逃れます。
そしてその小賀に移り住んで、そして関東を守るという、
今まで鎌倉に住んでいる工房ということで鎌倉工房なんですけど、
今度は小賀で政治を行うということで今度は小賀工房となります。
将軍としましても確かに義典の父親は殺害したとかそういった経緯で、
自分たちの将軍も死んでしまったといろいろバタバタしておりましたけども、
もともとは鎌倉工房はしげいさんの父親も
宇宙人から変えようとか思っていたということもありまして、
そもそも鎌倉工房って生徒性ないよねというふうにも考えておりました。
なので鎌倉工房が小賀工房に移ったところで、
それって幕府としても支援しにくいなという面がありました。
なので幕府としましては、とりあえず鎌倉工房から小賀工房になったので、
それとまた別で工房を置くよということもありまして、
幕府としましては新たに堀越工房、堀越工房という言い方もしますけども、
堀越工房という立ち位置を置きます。
この堀越工房に関東の管理させるよという立ち位置を置きます。
ただここで将軍としましても、実際には関東の実権を堀越工房に与えることまでできませんでした。
将軍家内部でバタバタしてしまっていたということもありましたし、
小賀工房は元々鎌倉工房の正当性を引いているところもありまして、
小賀工房の方が正当性あるんじゃないというふうに考えてしまっていた関東の武士たちも多かったということもありまして、
堀越工房派、小賀工房派で意見が分かれるようになります。
ちなみに関東関連の上杉は堀越工房側につきます。
この堀越工房対小賀工房という形で、工房同士の対決で30年近くの戦が起きることになります。
その間関東におきましては、どっちが正しいの?ということで、武士たちが迷うことになります。
幕府は堀越工房が正しいと言うけれども、でも実際に堀越工房に全権与えてないじゃん。
だったら小賀工房の方が正しいんじゃない?でも幕府は小賀工房よりも堀越工房を支持してるんだよなというふうに、
宙ぶらりんの状態になります。それによって戦が長く続きます。
約30年もの間、乱が続いた結果、関東としましてはボロボロになります。
上杉家の衰退と後北条氏の台頭
もう誰に従えばいいのかというのに秩序も乱れます。
しかもこの頃、1467年から、大体この教徳の乱と言われるんですけども、
この2人の工房が対決しているのが1454年から1482年と言われてるんですけども、
この間1467年、黄泥の乱が始まっております。
ということでまいりまして、今日の方もボロボロになっております。
誰の命令を聞けばいいの?どうなっていくの?というのもボロボロの状態が続きますので、
そして戦乱の世に入っていきます。いわばここから戦国時代へ突入していきます。
実際には工房様、工房様ということで、もちろん工房たちも書料を持っていたりはするんですけども、
ただ実権の握っていた植杉家としましても、植杉家が関東の全域を握っているような形であったんですけども、
ただ植杉内でも対立が起きておりました。
もともと山の内植杉家が本家ということもありまして、
関東関連を継ぐことが山の内植杉家から出すことが通常になっておりましたけども、
戦乱の世でバタバタしているうちに、山の内植杉家と大木がやつ植杉家の間で力関係がどんどん急設計していきます。
特に大木がやつ植杉家の中には名称大田道館が現れます。
大田道館、戦をすれば連戦連勝、政治面などでも江戸城の建築など、城の整備などもとても得意、
さらには和歌や煉瓦、そういったのも文化的なところもありまして、巨峰の偉人たちとも仲が良くしていた。
そんなスーパーマンが現れたことで、大木がやつ植杉家としてはどんどんどんどん力をつけていきます。
その結果、大木がやつ植杉の方がむしろ山の内植杉よりも上なんじゃないかということにもなってきます。
そういった力関係の対立もありまして、植杉の中でも対立が起きていくことになります。
ただ結果的にこの大田道館に関しましては、あまりにもこの名称を過ぎたことによりまして、
自身の主君を軽んじれるんじゃないかというところもあったと言われております。
実際に主君のためにとても行動していた人物なんですけども、
あまりにも校を建てすぎたことで、自分より目上の人たちなどを軽んじていたところがあったと言われております。
その結果、いつか反乱を起こされるんじゃないかと怖くなったということもありまして、
大木がやつ植杉家、この主君の命令によって大田道館は暗殺されます。
ただこの時に大木がやつ植杉家の当初に対して、山の内植杉家からも
大田道館は危険じゃないという話もあって、それを鵜呑みにしてしまった面もあるとも言われますけども、
結果的には大木がやつ植杉の主君の命令によって大田道館は暗殺をされたと言われております。
この時大田道館は暗殺される時に、自分が死ぬことは党法滅亡、大木がやつ植杉家の未来はないぞと言ったと言われております。
自分を失うことはこの家の滅亡を意味するということで、
それだけ大田道館は自分自身に力があることを自負していた。
自身からあったということは伺える言葉なんですけども、
事実、この大田道館を失った後、大木がやつ植杉家はだんだんと衰退をしていくことになります。
この大田道館の亡くなった後に伊勢壮瑞、後の北条壮雲という人物がだんだんと力をつけていきます。
堀越久保は伊豆にいましたけども、この堀越久保の書類をやり伊豆を奪いまして堀越久保を滅亡。
その後、北条はどんどんどんどん力をつけていきまして関東を支配していくことになっていきます。
鎌倉幕府の時とかに力をつけていた北条家とはまた別なので後北条家なんとも言われますけども、
伊勢壮瑞が起こした北条家、この後北条家に対しまして植杉家としても対立を深めていくと思います。
元々の関東の支配は植杉家のものだよということで植杉としましても圧力をかけていくと思います。
この時には山内植杉、大木がやつ植杉としても協力をするんですけども、
ただ大田道館、名城屋と力を失っていった大木がやつ植杉。
また山内植杉としましても関東を支配していると自負があったものの長年関東が荒廃してしまったということもありましてだんだんと衰退をしておりました。
戦続きでだんだんと力を失っていました。
ただそれでも名門植杉家、名門植杉の名のもとに北条家を倒そうということで関東の武士たちは多くが集まります。
多くが集まって植杉家の方が北条家を圧倒していたんですけども川越谷戦、戦いこれにおいて北条家が大勝したことになりまして植杉家としましてはボロボロになります。
圧倒的な負けを起死することになりまして大木がやつ植杉がこのまま滅亡の一途をたどりますし、
山内植杉としましても関東の多くの武士たちを集めたにも変わらず大敗をしたということで求心力を急激に失っていきます。
その結果山内植杉としましても関東の支配者の顔をすることができないとなりましてそのまま結果的には越後の方へ逃げまして越後にいる長尾陰虎に山内植杉の養子となっておりまして後の植杉県心の誕生となります。
もちろんこの山内植杉家の名席を継ぎました植杉家元の長尾家としましてはこのまま徳川家康に敵対したことによりまして後に領土を減らされると言いましてもそれでも幕末まで米沢藩として残ることになります。
そういった形で山内植杉家としましては植杉県心の力もありまして生き延びることができますけどもただ関東の支配としましては法上に取られていくことになります。
関東関連という圧倒的な力を持っていた植杉家ですが幕府にも頼られていたこともありまして大きな戦いをするようになっていきました。
ただその結果自分たちの領土を荒廃することになりまして力を失っていくきっかけも作ることになりました。
名門で営業を極めておりました。でも名門だからこそ難しい舵取りをさせられた植杉家。戦国における重大な家の一つでございます。
まとめとおすすめ漫画
といったところは今回話をさせていただきました植杉家でございました。今回はここまでです。
改めましてテーマをいただきました。
亀メロンパン様
お断りございました。今回かなりはしょって喋ってるんですけどそれもやっぱり1時間近く喋ってるなと。
それだけどうしても植杉家っていうのは家のそれぞれの特徴もありますしまた名門だからこそいろんな事件に絡んでるんですよねっていう。
とても面白い家であるのは本当間違いないなと。
だいたいこの大木がやつ植え過ぎとかと山の内植え過ぎとかの関係性とかがすっごいめんどくさいんですよねっていう。
最近ここらへんのことで何か分かりやすい資料ないかなと思ったんですけども本当あの別のところでも話しますけどシンクロひた走りでしたっけ。
あの漫画はマジで分かりやすいっす。
応仁の乱がそもそもねどういった経緯とかもそのごちゃごちゃしてるのがよく分かりますし。
でまた関東関連とかの話もどうしても伊勢草津の話なんで関東がかかってるんですけどもここらへんの関係性とも分かりやすいので
シンクロを走るという漫画はめちゃくちゃお勧めでございます。
でまた今回テーマいただきまして本当ありがとうございましたそして放置してしまいました誠に申し訳ございませんでした。
なるべくチェックするようにいたします。
なのでまだ皆様これに懲りずまたテーマいただけると助かりますのでどうぞよろしくお願い致します。
今回も最後までご期待いただきまして誠にありがとうございました。
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