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51|【城井谷編完結】「谷全体が城だった」全6話完結 城井ノ城で辿る鎮房最期の真実
2026-06-07 14:49

51|【城井谷編完結】「谷全体が城だった」全6話完結 城井ノ城で辿る鎮房最期の真実

福岡県内だけでも千近くあったとされる戦国時代の山城の魅力をお話しする「戦国山城ポッドキャスト」。「城井谷編」の最終回となる第6話の舞台は、城井鎮房が最後に逃れたとされる城井ノ城(きいこのじょう)。登り口には、2014年NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で鎮房を演じた俳優・村田雄浩さんの記念碑が立ちます。

「人工的な施設はなく、山城の跡とは言えない」とし、緊急避難の場所だったと評価する研究者がいる一方、築上町教育委員会は、鎮房が発した書状をもとに「女子供を預かる人質の場所」と位置づけます。清田さんはその書状を現代語で紹介。「前から決まっていることだろう、さっさと女子供を入れろ」と焦る鎮房の声がにじむ内容で、城井谷が追い詰められていく様子が伝わります。

そして最大の注目は、鎮房の最期をめぐる新説。通説では「中津城に呼び出されて惨殺」とされてきましたが、城井谷に古くから住む新家(しんけ)に伝わる文書には「馬ヶ岳城にて切られる」と記されていたのです。しかのすけも「中津城の建設時期を考えれば、呼び出して暗殺というのは合わないのでは?」と指摘。清田さんは「断言はできないが、まだ中津城が使える状態じゃなかったのだから、馬ヶ岳城が正しいのではないか?」と話します。

全6回にわたって城井谷を縦断した一行。しかのすけは「まさか谷全体が城だったとは。福岡にこんなスケールの大きい話があったとは」と振り返ります。清田さんからは次回予告として「博多の茶人・神谷宗湛の日記に出てくる豊臣秀長の話をしたい」とのお知らせも。さらに「秀長はかつて"長秀"と名乗っていた。なぜ逆転したのか?」という歴史クイズが出題されました。答えは次の出演回で——。城井谷シリーズ完結です。

#戦国山城ポッドキャスト #城井谷 #城井鎮房 #黒田長政 #城井ノ城 #軍師官兵衛 #馬ヶ岳城 #山城 #豊前 #西日本新聞me #西日本新聞mePodcast

◆出演:清田進(郷土史家)、中山 紘一郎(しかのすけ/販売部)、横山智徳(MC/メディア戦略局)/ 映像編集:中山 紘一郎/音声編集:中富一史(販売部)/ディレクション:坂本信博(メディア戦略局兼編集局上級専門委員)

◆収録日:2026年4月14日

◆「空から攻める」堀切凡夫Neo2(YouTube)
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◆城・ドローン+(関連記事)
https://www.nishinippon.co.jp/serialization/castles_in_kyushu/

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サマリー

本エピソードでは、城井谷編の完結として、城井鎮房が最後に逃れたとされる城井ノ城を訪れる。研究者によって見解が分かれる城井ノ城の性質や、城井鎮房が家臣に宛てた書状から当時の緊迫した状況が明らかになる。さらに、城井鎮房の最期に関する通説(中津城での惨殺)に対し、馬ヶ岳城で最期を迎えたとする新説が提示され、中津城の築城時期との整合性から考察が深められる。全6話にわたる城井谷編の締めくくりとして、谷全体が城であったというスケールの大きさが語られ、次回の予告として博多の茶人・神谷宗湛の日記に登場する豊臣秀長の話が予告される。

城井ノ城への到着と城郭としての評価
西日本新聞Podcast
西日本新聞 戦国山城Podcast
この番組は、福岡県内だけでも戦地核あったとされる 戦国時代の山城の魅力をお話しします。
こんにちは、福岡のニュースアプリ 西日本新聞Bの横山智則です。
こんにちは、西日本新聞の鹿之助こと中山吾一郎です。
はい、こんにちは、中岡大野教授、京都でございます。
今日もよろしくお願いします。
お願いします。
6話目です。
6話目です。
最終回です。
最終回でございます。
奥の奥まで来ましたね。
はい。
ちょうどここを登ってくる、下りたところにですね、
2014年のNHK大学軍師官兵衛の キー・シゲ・フサ役をやりました
村田勝博さんの記念碑が建ってましたけども、
まさにそのキー・シゲ・フサの最終的な 避難の場所と言われてるんですけども、
大きいこの城にやってまいりました。
江戸時代に描かれた図面に 逃れ隠れるところって書かれてたりしますから、
城郭があったわけではなくてですね、 最終的な避難の場所としてあったようでございます。
福岡県の中勤生聴覚種の著者、岡寺さんはですね、
この施設について、この施設と言いますか、 このキーのこの城についてですね、
これでずっと入っていきますと、自然地形でですね、
50分歩きますと裏門と言われるところに出ます。
裏門と言われるところはですね、この岩壁の上にですね、
この10倍ぐらいの銅門が裏門と言われるところに 50分歩くとあります。
岡寺さんに言わせるとですね、 その間全く人工的な施設はないと。
だから言ってみれば山城の跡だと言えるものでもないだろう というのが岡寺さんの意見です。
ただですね、おそらくこの黒田とキーの戦い、 長政とキー・シゲフさんの戦いの中でですね、
最終的にここに追い込まれて、 キー市が逃れたという事実はあったのではないかと。
そのことが仕方なくていいます。緊急的に逃れた場所が、 現在キーこの城と言われている場所であって、
そのことが長らく語りさえられてくる間にですね、 爪代と言われるようになったのではないかというのが、
岡寺さんの所感と言いますか。
爪代として整備されていたわけではなく、 成り行きとして?
そうですね。何もしたくなくても突如というか、
緊急的に逃れてきた場所ではないかというのが 岡寺さんの意見もございまして。
城井鎮房の書状と人質問題
あとですね、実はこの前、ずっと今日ですね、
後半は黒中正とキー・シゲフさんとの戦いをですね、
実際、要塞としての木谷がどう使われたかというのを話してきました。
その中でですね、このキーこの城に関するですね、
実際のキー・シゲフさんが発行した書上が残ってまして、
それはですね、日付が11月27日になってます。
黒中正との戦いがですね、12月9日と。
それとまた第1次鬼谷戦が11月9日で、数日後がその2で。
10月9日。
11月です。
鬼谷戦が10月9日ありまして、
その後は1月、鬼谷を封鎖しましてですね、
河口の城をダッシュして、
また向こう側の北側のいらはら谷方面の峰にある大口城などをダッシュしてですね、
鬼谷を封鎖する形をとって、
ひと月ほどですね、言ってみれば共同戦に入ったわけですよね。
ちょうどその最中のですね、最終的に12月に入って、
キー・シゲフさんが降参しましたということで和睦するんですけども、
その最中の12月7日の日付がある書上がありましてですね、
それにはですね、かなりシゲフさんが焦ってたんだろうと思われる内容があります。
それはですね、現代語で重複しますと、
前から言ってるだろうと、さっさと女子供をキー・コノ城に置けと言いますか、
連れて入れということは、それはもう前々から決まってることではないかと。
怒ってるわけですから、決まってることを多分履行してないってことですよね、
家臣たちがですね、周りがですね、同盟者とか家臣たちが。
女子供をここに入れない。事実上、これ預かると、
キー・シゲフさんが預かることになりますから、人質なんですよね。
だから前々から決まってるキー・コノ城にですね、女子供を入れろと言ってる。
合意したわけではないかと。
いまだに入れないってことでなれば、それはもう無本の心があるというふうに、
私としては取るしかないと。とにかく今月中にですね、
戦いは来年まで及ぶかもしれないから、とにかく
今月中に女子供をキー・コノ城に預けて。
キー・コノ城というかですね、表現としては沢山に預けろって書いてあるんですけどね、実際は。
それを沢山に預けるということは、キー・コノ城に預けろということだろうと、
九条町の学芸員さんが言われまして、ということだと解釈してありましてですね。
だからかなり岡田れいさんは緊急的に逃げ込んで、
最終的な戦いの場だったんだろうという仮説です。
九条町の教育委員会の学芸員さんは、
人質を預かる場所という理解をされております。
そんな話がキー・コノ城にはあります。
城井鎮房の最期に関する新説
実は入ると、炭焼きのための石積みの窯がポコンポコンとたくさんあるんですよ。
ただ戦国時代の遺構だろうと思われるものも全くありません。
今日は50歩歩きまして、よく言う裏門というところまで来たかったんですけど、
さっき地元の人に来ましたところ、どうも水害が流されているから、
危ないかもしれないということで残念ながら、ここで終わりということになりました。
言ってみれば黒田、それからキーの戦いの最終点ともいえる地でもあるわけであります。
ご存知のように、2014年の大河でも、
村田勝博さん、キー、しげ夫さんが中津城に呼び出されまして、
残殺されるという場面が丁寧に描かれておりました。
そして家臣たちは近くのゴーガン寺というお寺に留めておかれまして、
しげ夫さんを中津城で残殺した後は、黒田の家臣たちを襲って、
斬り殺してしまうということになっておりますけども、
実はここの研究で、いろんな歴史研究というのはよくあることですけども、
新たに発見された書上等の解読が進んだりしまして、
この西川ですとか、キー谷に古くから住んでいます新という親があります。
進家ということなんですけど、進むと書いて新家、その親に伝わる文書がありまして、
随分とキー、しげ夫さん時代の文書が伝わっています。
その中でキー、しげ夫さんは中津城で残殺されたということになってますけど、
実は馬畳城ですね。
当初、無税の国に黒田が育ってきた時に長政が入っていた。
今回ずっと案内してきましたキー谷戦でも長政が拠点として、
そこから兵を出して、このキー谷に攻めた。
その馬畳城でキー、しげ夫さんは馬畳にいて、斬られるという記述があります。
これは顔物、偽物でなければ同時代資料、一時資料でありますから、
これまで中津城で斬り殺されたんだと言われてきたキー、しげ夫さんですけどね。
実は馬畳城。
さっき道々、ずっと今日は車で動いてますけども、
鹿之助殿も中津城の建設の時期と考えれば、
中津城に呼び出して斬殺するというのは、
ちょっと時期としては合わないのではないかということを鹿之助殿も言ってありましたけども、
新資料によりますと、実は馬畳城。
ここを攻めてくるのも馬畳城を走って攻めてきてますからね。
まだ中津城は使われなかった、使っている状態ではなかったということでありますから、
それが正しいんじゃないですかね、私は。
断言はできないですけどね。
身長がね、断言的に。
なるほどね。
中津城はまだ作られてなかったってこと?今の形じゃなかった?
これだけの記録では、
天正十五年の7月に黒田が入るんですよ。
だけど建前は、建前というかお城は、建前はですね。
建前の建築のための木塔は、
天正十六年の1月に地震災。
地震災は天正十六年翌年の1月なんです。
そしてしげふさが暗殺されるのが4月。
3ヶ月でどうなんでしょうね。
できる、どこまで城郭として成り立っているかは、かなり。
そういうことなんですね。
城井谷編の総括と次回予告
私の今回、木谷をご案内しました。
情報はこれで全てで。
話し尽くしました。
ありがとうございました。
鹿之助さんいかがでございましたでしょうか。6回にわたって。
そうですね。結構我々移動してきたので。
そうです。
そういう一つの山城の主覚があって、
ずらーっとくるわがあるのかなと思ったら、
まさかの谷というか山全体がですね、城だったということで。
我々は福岡住んでますけども、
福岡でこんな規模の大きいというか、スケールの大きい話があったんだなっていうのは。
確かにそうやね。
それでいうと今回、ちゃんとバッチリビデオも回してますんで。
ポッドキャストをポッドキャストと言ってやっておりますが、
今回に関してはYouTubeで見てくださいと言いたくなる。
たぶんね、地図とか資料とかを鹿之助さんがちょっと上手にレイアウトしたりしてもらいながら、
見てもらうと、よりたぶん楽しめるんじゃないかなと正直思いますんで。
手数かけます。
手数かけますね。
ちょっと頑張ってもらおうかなと。
あのデータがいるとか、このデータがいるとか、どんどん言ってもらったらいくらでも。
すぐ対応しますのでよろしくお願いします。
朝の8時に集合して、今もう4時12分でございますんで、おくたびれましたね。
僕は北九州を新聞社の販売部時代に担当しておりまして、
ここら辺の所長がよく言うとったんですよ。
配達が大変だよって。田舎やけん大変ですねっていう話にはなるんですけど、そうじゃないと。
全部谷だから配達するのに、僕らも今回そうでしたけども、
一筋一筋一回、かなり下まで降りて次の筋、降りて次の筋に行かないといけないから、
行かんとよっていうのを今日身をもって体験したというか、
そんなこと言われてたなというふうなのを思い出した次第でございます。
ありがとうございました。
お疲れ様でした。
ということで、今日は何かお知らせがもしあれば。
秋にですね、今タイガで豊臣秀奈が会ってますから、
博多の神谷総担の日記の中に出てくる豊臣秀奈の話をしたいと思います。
秋ですけどね。それでちょっとついでながら、今のタイガに関係してですね、
問題を出して終わりたいと思います。
実はですね、今活躍してます豊臣秀奈がですね、
明智光秀が信長をやっつけまして、
そしてその後秀吉が柴田勝家をやっつけました。
政権を掌握するまでの間はですね、実は豊臣長秀でありました。
ちょっと意外な話なんですけど、
なぜ豊臣長秀が信長が死んで、柴田勝家を秀吉がやっつけまして、
秀吉政権が成立するしますと、
秀長に長戸秀が逆転したわけですけども、
これはなぜでございますでしょう。
そのうちまた私がですね、出る機会があれば答えをですね、
その機会に、その回に喋りたいと思います。
以上でございました。
ありがとうございました。
6回にわたってお疲れ様でした。
お疲れでございました。
西日本新聞の城戦国ドローンプラスは、
西日本新聞とスマホアプリ西日本新聞MEで連載中です。
ぜひご購読をお願いいたします。
本日はありがとうございました。
ありがとうございました。
お疲れ様でした。
どうも西日本新聞MEです。
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