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49|【城井谷編】谷が丸ごと要塞だった 天正15年・黒田長政を飲み込んだ城井谷の罠
2026-05-24 14:25

49|【城井谷編】谷が丸ごと要塞だった 天正15年・黒田長政を飲み込んだ城井谷の罠

福岡県内だけでも千近くあったとされる戦国時代の山城の魅力をお話しする「戦国山城ポッドキャスト」。郷土史家の清田進さんをお迎えしてお話しします。「城井谷編」の第4話は広畑山城。城井谷・小山田谷・岩丸谷と連なる三本の谷が、いかにして「天然の要塞」として機能したのかを、車で現地を移動しながら解説します。

 天正15年(1587年)10月9日、城井鎮房の挙兵を受け、黒田長政は居城・馬ヶ岳城から出陣。城井谷を正面から攻めず、調略した雨龍清長を道案内に岩丸谷を遡上し、城井谷中央部への突破を図ります。しかし谷の奥深くまで誘い込まれた黒田軍は、小山田城から駆け降りてきた城井軍の反撃を受け敗走。家臣の小野正重らが命を落とす結果に。清田さんは「谷の入り口にも砦がある、中腹にもある、奥にもある。どこから攻めても、んー……というところ」と、城井谷の恐るべき防御力を語ります。

#戦国山城ポッドキャスト #城井谷 #城井鎮房 #黒田長政 #広畑山城 #天正15年 #豊前 #山城 #西日本新聞me #西日本新聞mePodcast

◆出演:清田進(郷土史家)、中山 紘一郎(しかのすけ/販売部)、横山智徳(MC/メディア戦略局)/ 映像編集:中山 紘一郎/音声編集:中富一史(販売部)/ディレクション:坂本信博(メディア戦略局兼編集局上級専門委員)

◆収録日:2026年4月14日

◆「空から攻める」堀切凡夫Neo2(YouTube)

https://www.youtube.com/@horikiri

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https://www.nishinippon.co.jp/serialization/castles_in_kyushu/

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西日本新聞Podcast
西日本新聞戦国山城Podcast
この番組は、福岡県内だけでも戦近くあったとされる、戦国時代の山城の魅力をお話しします。
こんにちは、福岡のニュースアプリ、西日本新聞民の横山智則です。
こんにちは、西日本新聞の鹿之助こと中山光一郎です。
はい、こんにちは、福岡の教室の清太です。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。4話目です。
はい、4話目ですね。広畑城市というところに来ました。
この広畑城というのは、前回まで桐谷に寄ったんですけども、
桐谷から南に小山田谷がありまして、そのまた南に岩丸谷っていうのがあるんですが、
この岩丸谷と小山谷の間の、ずっと丘陵を降りてきた一番先に
設けられました山城であります。
そういう意味が近いですね。
ここからは、これまで紹介してきました桐谷の山城各々、
そしてこの広畑山城を含めて、
キー・シゲフサと天章十五年の黒田長政の戦いを、
具体的にこの桐谷の周辺にあった山城をどのように使って戦われたかということをお話しします。
それはつまり、桐谷全体が要塞であると、
いかに要塞として機能したかということをお伝えすることになるので、
そういうことで話していきます。
ここからまた車に乗りまして、この岩丸谷を車で移動しながら見ていただく方には、
実感してもらいながら、車で喋りながら案内させていただきます。
いきましょうかね。
はい、お願いします。
ここは、広畑山城ですね。
桐谷から小山田谷、そしてまた広畑山城を出て、
もう一つ向こうの谷の岩丸谷を上流へ遡っております。
はい。
転生15年の10月9日に、
キー・シゲフさんが巨兵したということで、
キー谷で巨兵するわけですけども、
黒田永政は巨城馬畳城から、この岩丸谷を遡っていきます。
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というのは、キー谷を正面から攻めるのではなくて、
この岩丸谷を詰めて、岩丸谷の一番奥から、
岩丸谷の一番奥の部分が、キー谷とつながっていまして、
そこまで至って、岩丸谷の最奥まで至って、
そこから山を登って、キー谷の中央部に出ようとしたわけであります。
まず、先ほどの広畑山城にはウリュウ・キヨナガー。
この時代の話で、上司はウリュウ・キヨナガーって人がいました、
なんて書いてあるのはほとんど当てにならないんですけど、
一応、ウリュウ・キヨナガーという人がいたということで、
上司がウリュウ・キヨナガーを調略しまして、
味方に引き入れて、ウリュウ・キヨナガーを道案内に、
この岩丸谷を登ったということになっております。
案外距離があるんやな。
それでですね。
言い頼みますか。
もうちょっとしゃべりましょうかね。
キヨマサは引き込まれるような人たちの谷の中に侵害していくわけですね。
結局は山岳戦を挑まれるわけですけども、
当然不慣れでありまして、
例えば、この後、これが転生15年10月9日なんですけども、
数日後の戦いでは、馬をのまたに引き入れてしまって、
命からがら、家臣に助けられて、
本拠の馬畳に戻るという失態をやっております。
だいたい黒田仲正という人は馬での失敗が多くて、
関原の合戦に時代は飛びますけども、
関原の合戦の時は、関原本線の前哨戦として、
岐阜城を攻める党軍があったんですけど、
その時に川を渡らないかんということがあって、
岐上下馬は川を渡る最中に、
長松は流されそうになって、やっぱり家臣に助けられたという話があります。
親父がそうだからなのか、息子の藩主としては2代の黒田忠幸は、
馬術の名人で、
原朴の年に、もうすでに将軍を辞めておりました家康の前と、
06:05
2代将軍秀田の前で乗馬を見せまして、
まさに高射で、忠幸は馬の高射であると褒められて、
お前の乗馬の先生は誰だと聞かれて、
それは実は荒木村重のいとこだったんですね。
荒木村重はお茶の名人でしたけど、
馬術の名人とか坊術の名人とか荒木家にはいまして、
そのうちの村重のいとこの一人が馬術の名人で、
黒田家に救われてたもんですから、
黒田家に仕えてですね、忠幸に馬を教えてたということがあるんですよ。
荒木、ちょっとまた話はとりますけど、
もうすぐ大河でも、もうすぐじゃないから、まだ今のところ大河は現地転生ですから、
転生年間になってですね、荒木村重が信長の家臣でしたけども、
反旗を翻して有岡城に籠ったときに、
それをですね、もともと荒木村重との関係が強かった黒田官兵衛義隆でしたから、
いやいやなんてことするんだみたいな感じで、
ちょっと考え直せよって説得に行ったらそこで捕まってしまってですね、
泥に閉じ込められたというんですけども、
結構黒田官兵衛義隆はですね、
荒木家の人々をですね、黒田家に仕えさせておりまして、
馬術の師範の田崎先生以外にもですね、
たくさん実は荒木家の方がおられます。
あと三成の三男とかですね、小西幸永の子孫はですね、
やっぱり三男とか四男でしょうけど、
苗字を変えて黒田家幕末までおりましたりですね、
結構その黒田家は関原のとき当軍でしたけど、
西軍の将王の家族を助けてますね。不思議な話なんですけど。
で谷はですね、なかなかあれですね、ちょっと一旦切りますか。
切きましたね、ここでいいんですね場所は。
はい、岩丸谷の一番奥であります。
岩丸谷の奥なんですけどね、一つの谷は小山田谷っていうのが来てまして、
小山田谷が終わって、そこのところ岩丸谷が迫ってるというか、
その向こうは木谷であります。
天正十五年の10月9日ですね、木谷中央部に出ようということで、
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黒田家幕末はですね、馬畑からわざわざ木谷を越えて小山田谷を越えて、
岩丸谷に入りましてですね、こっちまで来たわけであります。
でここから、この辺りからだろうと思われますけど、木谷に向かって登るわけなんですけども、
実はですね、それ最初からわかってたろうと思うんですけど、
小山田谷の隣の小山田谷の上には小山田城があったんですよ。
それ知らなかったのか、長政の情報の無さなのか。
ここからですね、木谷方面に山を登ったところでですね、
黒田軍は小山田城から突出してきました。
紀伊軍にやられまして、結局もう慌ててたんでしょうね。
この一つ向こうの紀伊谷と岩丸谷の間の小山田谷を配送していきます。
海に向かってですね。
そこで黒田株に書いてある、悲劇として書いてあります、
黒田長政の子害の家臣であります尾野正重という人とですね。
あとこの時の戦いは、毛利一族の吉川家が援軍に来てましてですね、
もう一人、勝馬重春という人がですね、これは吉川家の家臣なんですけどね。
向こう側のここから登っていったところ、小山田城からの紀伊軍が駆け下りてきまして、
それやられたもんですから、おそらく対立を崩してしまって、
向こう側の小山田谷の方を配送していく中でですね、
尾野正重と勝馬重春だったかな、この二人がやられて、
向こうには火があるんですよ、小山田谷の方には。
結局その、まあ今日とにかくテーマであります、
紀伊谷に点々と点在するですね、点在するその砦山次郎がですね、
どう機能したかという点ではですね、
深々とこの馬形城を出ましてですね、馬形城は行く橋ですから、
ずっと紀伊谷も回って、もう一つ小山田谷も回って、
この岩丸谷にですね、入ってきた黒田仲正軍をですね、
深々と谷の奥まで誘い込んどいて、谷の上部でですね、
そこに黒田軍が問いかかった時に一気にですね、小山田城から兵を出して、
黒田軍を追い払ったという、
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紀伊谷全体が要塞であることのですね、機能と言いますか、
実力を発揮した第一戦ですね、であります。
ここまでが私が第一次紀伊谷戦と言ってます。
第一次紀伊谷戦のその1なんですけど。
次は第一次紀伊谷戦のその2。
2があるんです。
この後、これが終わった後ですね、ご案内いたします。
以上でした。
ありがとうございます。
鹿之助さんどうでしたか。
そうですね、地図がないと、
そうね、わかりにくいかもしれない。
見ていらっしゃる方にはわからないと思うんですけど、
後でテロップで表示しようと思うんですけど、
ここ細長い谷がですね、3本通ってますんで、
そこがいかにして天然の要害として機能したかっていうのが、
わかっていただけるんじゃないかと思います。
そうですね、確かに。
全部谷の入り口にも城がある、
砦がある、中区にもある、奥にももちろんっていうことになると、
確かにどこから攻めてもっていうところなんですね。
そうですね。
ということで、いよいよキー攻めなんですけど、
キー攻め1-1終わりみたいな感じですかね。
そうです。
次は1-2ですね。
9月はうまく…10月か。
10月はうまくいきませんでしたと。
寒米を配送しておりますというところまでですね。
寒米じゃなくて息子の仲間さんが。
息子の仲間さんが今配送しておりますってところで、
一旦切りましょうかね。
ということで、西日本新聞シロ戦国ドローンプラスは、
西日本新聞とスマホアプリ西日本新聞ミーで連載中です。
ぜひご購読お願いします。
本日はありがとうございました。
ありがとうございました。
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