西日本新聞Podcast
西日本新聞 戦国山城Podcast
この番組では、福岡県内だけでも戦地覚があったとされる、戦国時代の山城の魅力を、現地を歩きながらお話ししてまいります。
山城の研究は、地理や歴史だけでなく、軍事や地域経済など、いくつもの側面があります。
かつてその地で暮らした人々の息吹を、一緒に感じてみませんか。
こんにちは。福岡のニュースアプリ、西日本新聞民の横山智則です。
今日も前回に引き続きで、福岡城シリーズの第3話目でございまして、
西日本新聞の坂本さん、りょうさん、それと郷土地下の清田さんがご一緒です。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ここからは、武具櫓編です。
武具櫓を見に行く。
武具櫓だったところを見に行く。
探究するという。
ところで見るということですね。
今ずっと掘りの跡から三の丸、二の丸と上がってきまして、
黒田長政が天守の守りであると書上に書いてます、武具櫓を乗せてました石垣の下に参りました。
この石垣の上が本丸なんですけども、左手は天守台があります。
この石垣の上の左が天守がありまして、天守台の南西角。
天守台があります本丸の南西角の今下におります。
ここに三層の武具櫓がありまして、何度も言いますけど、
例えば比べますと愛媛県ですね、愛媛県伊予松山の松山城の天守閣の規模に相当する三層の武具櫓が立っておりました。
それは前もご説明しましたけども、大正時代には写真が残ってます。
具体的にこの石垣を築くにあたって、黒田長政がその頃の石垣武士の担当でありました舛添と野村という家臣に対して、
その時、実は長政はなかなか都から家康に返してもらえなくて、平朝6年の話なんですけども、
それは黒田家が西国の諸大名と関わりがありましたから、戦後処理の指紋が家康から黒田家にあったはずです。
なかなか家康の西国に対する戦後処理、石垣払うと、長政も父であります漢部も都から返してもらえずに、なかなか返ってこれなかったんですけども、
慶長6年でいよいよ石垣などの武士院を始めなくちゃいけないという時に、漢部は一足先に返ってきてたんですね。
長政は都から所条を増田と野村に与えまして、ブグヤグラを乗せる石垣について、
親父漢部がいろいろ言うけれども、当初打ち合わせしたとおりに急いで武士院を進めようという所蔵を残しています。
ですからこのブグヤグラの石垣、そしてブグヤグラ自体、具体的に長政が親父漢部との間で設計について考え方が違って、
急げという所蔵を残したという誘惑がある石垣であり、またブグヤグラであって、
歴史的に貴重な文書資料としても貴重なものを伝える石垣であり、ヤグラであるということが言えます。
石垣自体は福岡城内で最長の長さを持った石垣です。
ちょっとそれが見える方向に歩きましょう。
長いってことですか。
長いってことです。東西に一番長いんですね。長さが福岡城内で一番長い。
それと高さも20メートル近くあって、ブグヤグラを入れると30メートルになります。
高さも長さも最長最大の石垣はここです。福岡城内。
これが清朝6年、つまり1601年、関川春の翌年。
8月に建設が始まったということですね。
その建設するにあたって、勘弁、親父との意見が違うもんだから、
親父の言うことは無視してさっさとやれよという諸情が残っています。
これ約70メートルあります。
でかい。
高さも最高で、桜が綺麗ですけども、ヤグラの構造はですね、
こっちの多門ヤグラもそうですけども、角々にヤグラが立つわけです。
こっち側は西住ヤグラ、三層のヤグラがありまして、
向こう側に東住ヤグラ、ブグヤグラの東住ヤグラが向こう側に三層でありまして、
その間は平ヤグラがつないで、全部を総合して、
この72メートルの石垣に立っている、全部を総合してブグヤグラと言うんですけどね。
個別には西住ヤグラ、東住ヤグラ、平ヤグラと言います。
何度も言いますように、見上げます。
最高の高さの石垣の上にですね、
さらに他の大城では天使家クラスの大きさの規模のヤグラがどんと載っていたということです。
三層です。
三階建てですね。
とにかくこのブグヤグラはですね、
これは大正年間だったか、とにかく陸軍の兵衛ができまして、
それで払い下げがされましてですね、
このブグヤグラについては黒田港の別邸が今で言う浜の町にありまして、
その浜の町にですね、移されました。
それは全くここに建っていた状況と同じ形で移設されましてですね、
その写真も残っています。
移設する前の写真もこうして残っているわけですね。
この石垣があって。
1,2,3階建て。
1,2,3層で、西住ヤグラ、東住ヤグラがあって、
平ヤグラでつながっておって、全体はブグヤグラ。
ブグっていうことは…
武器は何の倉庫?
大体ですね、ヤグラのランパイアだとその通りで、
何に使っていたかが使うんです。
例えば革ヤグラというのもあります。
この下に革ヤグラというのがあります。
それは革製品を入れていたそうで。
特記ヤグラ、今電子読みヤグラになってしまったかわいそうなヤグラですね。
おそらく特記ヤグラから取ろうと言われているんですけど、
特記ヤグラはそこで金をついて時間を知らせたというみたいです。
大体用途でヤグラの名前が呼ばれますね。
ここはとにかくですね、発掘調査も終わっているんです。
検索すればブグヤグラ発掘調査がヒットしますけど、
いろいろ資料が揃っていますから、写真もある。
発掘調査も終わっている。
おあつらえ向きに異設寺、異設寺前か異設寺か、
骨組みの写真も残っている。
だから文化庁に対して再検を求めればですね、
間違いなくやれと呼ばれるだろうと言われます。
ここはできるんだ、やろうと思えば。
ブグヤグラを再検するみたいな話も市の計画として上がったこともあるんですか?
整備計画の中でですね、ランクが付けられています。
再検の可能性の。
優先度みたいな。
ブグヤグラは2番目のランクにあります。
当然再検がなった、しおみやぐら1番目のランクだったんですけども、
次はいろいろあった建設物、建築物の中でですね、
2番手はやっぱりしおみやぐらの次はブグヤグラですよね。
諸資料が残っているという点ではですね、その上その規模としては、
福岡県のヤグラの中では当然最大規模ですし、
その対外的に見ればですね、何度も言いますけど、
愛媛県の伊予松山城の店主各クラスの規模があるという点では、
当然早々にですね、文化庁に対しての摂証を、検証をですね、
始めたほうがいいのではないかと、私は思う画面であります。
かなり立派なものができますね。
かなり立派なものができます。
再検するとですね。
1位、歴史に興味があるものとしてはですね、
最初の時にお話ししました、この奥村玉蘭の絵ですね。
これがブグヤグラを再検しますと、絵の中心、丘の上にあります山荘のブグヤグラ。
左手には潮宮グラグラ大堀公園の西側から見える。
それはですね、この風景自体は神谷総担が神谷総担日記に残してます。
黒田寛兵衛とあるいは黒田長政と3者でですね、
この大堀公園の西側、黒田家の茶室でですね、茶室を行った。
そこから見た、黒田寛兵衛と黒田長政、あるいは神谷総担が見た
風景をですね、再現することになって、大変意味があると私はそう思うわけであります。
慶長6年、1601年に黒田寛兵衛、長政親子と神谷総担が見た景色が再現できる。
その時にはこのブグヤグラを再現する必要がある。
意味がありますね。大変歴史的に深い意味がありますよね。
それプラス、このブグヤグラを塗られた石垣の設計については、
親父の寛兵衛と長政の間の意見の相違があって、
でもとにかく長政が親父を無視してやれと、現場のマスターとのごらんに言ったと。
この絵にもある話。
その書上、どこでもありそうですけど。
その書上あたりもお渡しした資料のあたりに書いてますけども、
ここは総担任期中のここから見た茶会の記録。
簡単にどんな内容が?
茶会記はあれなんですよ。道具。道具がずっと書いてあるだけです。
景色の感想などはないですけどね。
当時松原の茶屋と言ってたんですけどね。
現在で言えば大堀公園の西側に松原の茶屋と呼んでた茶屋がありまして、
そこで茶会をやってたわけですから、こういう風景を見てたということですね。
この石垣の上っていうのは入れるんですか?
ぐるっと回りますから。では今から柳原が建ってた床のとこまで。
行けるんですね。楽しみですね。
これをロッククライミングで。
この岩も本当にロッククライミングできそうな岩形ってことでしょ?
僕の時はよく登ってましたね。
僕も登ってました。
登っていいですか?
いや、行かんけど。怒られるけど。
でもみんな登るやん。小学生同士だって。
やっぱり登れそうですね。
小学生だったら落ちても。
体やばいし。頭をたんぽけに知らないから。
じゃあ行きましょう。
先ほど石垣の下から見てましたブグヤグラの上まで上がってきました。
ここに建ってたってことになる。ブグヤグラがね。
そこにブグヤグラ、あと音ブグラだとですね。
ヤグラとかオゴブはみんな音をつけますから。
音っていう字はどういう字ですか?
魚ですね。
尊敬を持って。
さっと見ますと、石垣の下でも説明してましたけど、
今立っているところに山荘のブグヤグラの西隅ヤグラ。西側ですから。
向こうを見ますとアブラ山とかセブリーが見える方向ですね。
植栽がなければ大堀根が見えて、
当時は西側の大堀が見えたということですね。
東側に目を転じますと、70メートル近い石垣の上に平ヤグラがあって、
向こう側にブグヤグラの東隅ヤグラがあったということです。