場所はどこにあるんですか?
これは浅倉市の覇喜市場と山田というところのあたりで、
イメージといったら九州自動車道の山田サービスエリアの近くにあるあたりの山底になります。
なるほど。
本当、筑後川のすぐそばに立つ場所、標高356mの山頂部にある山底ですかね。
これで6つ目ですけど、やっぱり堀木さん言われるように、福岡城から見て全部東側なんですね。
そうですね。
六波城というのは。西は良かったんですか?みたいな。
西はどうだったんですかね。西も南もそれぞれ色々いたんですけど、結構どこも緊張状態だったと思うんですけど、
徳庭はっていうところの代表する例ではここもあったんでしょうね。
どんなお城ですか?
遠隔で言いますと、ここは旧浅倉城の東端にあたる真寺山というところに位置するところでございまして、
秋月種が吉祥寺という人物を城番とした城の城主としたとされております。
その後、秋月の後に小林川氏が地区前を支配した時には小林川氏の持ち城となって、
高崎の代には二宝上門とか秀明の代には伊藤氏が入城したとされていまして、
慶長年間には地区前六波城となったということで、
城跡自体はもっと古くからあって、色々この点々と城主が変わって、
六波城の時にまた石垣が回収されたんじゃないかと思われるんですが、
栗山氏が一万五千石で入った後に、一国一城で廃城になったとされております。
昔からいわゆるそういった軍事拠点でありというような場所だったんでしょうね。
現在は山頂部にはマテラ神社がありまして、
その神社があるところの山頂部が主格とされて、東西の尾根に桑原が廃棄された構造となっています。
桑原の周囲には河原を伴う石垣の痕跡が随所に確認できたので、
そういう石垣でもあり、おそらく河原吹きの建物があったとされています。
特に石垣は参儀積みとして積まれているので、
石垣の角ってあったらコーナーの積み方がブロック…
ジェンガとかのゲームがあるじゃないですか。
あんな感じで折り重なった感じで積まれているのが参儀積みという積み方なんですけど。
参儀積みの進化というか完成度合いというので、
戦国の終わりから江戸時代というのが完成されていくんですよ。
上手になっていく。
面白いんですが、クルメ城とかがどんどんまた、
クルメ城はもうちょっと後に積まれているんですけど、
それもまただんだん出来上がっていくみたいな参儀積みなんです。
参数の参に木ですね、木ですね。
ウッドの木に積むと、参儀積みという。
参儀積み。
例えば、比善名古屋城とか。
参儀積みの途中みたいなのがあったりして、
結構面白い。
慶長年間に築かれていっただろうというのを感じることができるのが参儀積みだと。
参儀積みはいろんな形があるんですけど。
同じような感じの参儀積みが福岡城に残された。
福岡ですね。
天守台にもあるので、そういった部分では結構天守台の石垣っていうのはとても貴重。
個人的にはあのままでずっとこれからもあってほしいという。
あんまり建ってほしくないというのがそういう思いもありますね。
そうですね。
特に、マテラ城長張図というのがあって、
これちょっと見にくいんですけど、上が西側になっていて、下が東側なんですけど。
東側を中心に石垣がしっかり築かれているんですね。
東側なので、細川市の方向というか、そういうのを意識しているんじゃないかという。
やっぱりそうなんですね。
そうですね、おそらくではないかと。
図にはちょっと出てないんですけど、西側の方にさらに堀切とか、
土の城っていう感じの意向がいくつか残されておりまして。
ただ、秋月市が持っていた、かつて所有していた城跡であるんですけど、
いわゆるウネ城空掘り群とかそういったのは確認はされていないそうでございます。
ちなみにこの三陸一帯、残ってはないんですけど、確かに麓に行ったことなんですけど、
麓にはあざ名で里二郎っていうあざ名だったり、
政治のせいに場所の所って書いてあるマンドコロっていう地名があったりして。
なので、結構あざ名で、実は当時こうやったんじゃないかって感じられる場所っていうのは全国各地に残っていると言われておりまして。
もしかしたらここに三陸の辺りに巨漢があったんじゃないかっていう想像させる場所があるそうでございまして。
さらにこの南側の今あざ名に杉場場っていう場所があって、
おそらく一般兵士の資分のされる集約が想定されたと言われています。
いずれにしても、慶長年間の栗山氏が入った時にこういう町が形成されたのかもしれないと思います。
その里二郎であるとかマンドコロ、いわゆる丸々場場ですよね。
というような地名がついているっていうのは、何となくそういう昔お城があった跡であるとか。
ということなんですね。
全然場所は違うんですけど、例えば中津とかの山本とかで山二郎があって、
ふもとに戸野屋敷っていうあざ名があって、
そういう中二郎の地名があって、
ふもとに戸野屋敷っていうあざ名があって、
そういう名残があると思われるところが。
戸野屋敷、お殿様の屋敷、戸野屋敷。
そうですね。
内堀っていうあざ名もあったり、
あとは古い城で古城っていうあざ名もあったり、
そういう何らか関連性があるという、
一概にそれが全て総理ではないんですけども、
そういうのであざ名で見ていくっていうのがとても面白いのかなと思っています。
そうなんですね。
うちの近所にも弓の婆の交差点っていうのがあるんですけども。
そうしたら福岡城から近い。
福岡市内ですからね。近いといえば近い。
すいません、勘弁いたしていました。
そうですね。
最初の方でも売れてますけど、
やっぱりこの場所自体が、
ちなみにこのマテラ城のクルワとか、
クルワ自体が結構面積が1個1個とても大きいんです。
上域っていうところで言ったら、
今回の前半の方にあったマスドミ城とか圧倒的に広いんですけど、
クルワっていう面積では結構1個1個が広いお城ですね。
特にはこのマテラ城が文物の国境にあたる覇気っていう、
今で言ったら夏季とか。
有名ですよね。
覇気の地域の支配拠点とされていたとともに、
慶長年間に六波城が存続していたという一つの理由を示しているのかもしれないですね。
このクルワの広さが。
鹿本助さん。
そうですね。クルワが1つ1つ大きいので、
面積が大きいので結構大規模な大人数を収容できたんじゃないかなと。
これ上にはどんなものが建っていたっていうのは分かっているものなんですか?
あんまりないですね。
そうですね。ここはまだそういう調査をしたとかっていうのは、
もしかしたら資料が別にあるのかもしれないんですけど、
おそらく河原が出ていたりするので、
河原向きのものがあったのかもしれないですね。
たぶんこれは神社じゃない場所にもあったそうなんで。
神社だったら神社の河原かもしれんけど、
そうじゃないところにも河原を伴う石垣の跡が随所に確認できるからそういうことなんですね。
そうなんです。別の山城とかでよく山頂部に河原があったりして、
一瞬そういう河原向きの戦後記があったんじゃないかとなったりするんですけど、
意外と調べていったら明治時期とかで、
ちゃんと河原向きの神社があって、
ここは神社が老朽化して畳んで、
どうか別の場所に神社が移してっていうので、
名残で残っている場合があったりするので。
なるほど。
違いになってもっていうのはあるのですか?
そうですよ。
おそらくここは純粋にそういう神社とかではなくて、
当時の何かしらあった痕跡が石垣と一緒にあるので、
だったのではないかと思われます。
そういうことですね。
そんなところですかね。
そんなところですかね。
わかりました。ありがとうございます。
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