まず北の方から文字港駅の方から見ていきたいと思います。
この文字港駅というのはですね、大正時代に建てられたレトロな駅舎が残っているということで、多くの福岡県民の方にも馴染み深いでしょうし、観光客の方もたくさん来られている場所でもあるんですけども、
この文字港というのは九州の鉄道の起点ということもあって、ホームもですね、いくつかあってですね。
今はですね、本州方面に鉄道で行くときは関門トンネルを通って、新幹線も在来線もトンネルを通って本州に渡るんですけども、
そのトンネルができる前までは本州との間、つまり下関との間は連絡線で結ばれてたんですね。
その当時は文字港が本当に九州の玄関口で、だから今もその後ということで結構広めの港内が残っているんですね。
ただですね、その文字港駅のホームというか駅舎の片隅の方にこういう場所があってですね、この階段で降りて行ってその先が行き止まりになっているところがあるんですよ。
この階段の先には以前はですね、船着き場というか港があって、列車を降りた人がそのままですね、ここを通って海外に向かう航路。
昔は飛行機がそんななかったので船で大陸の方に渡ったりとかしていた時代があったんですけれども、
そのお客さんがこの海外の航路の船に乗りに行くときはこの地下通路を通って行っていたそうなんですね。
その後が今も文字港駅の駅舎の片隅に残っているんですけれども、
ただですね、この駅の階段、今は通路の奥は封鎖されてて行き止まりなんですけども、その階段の左側の隅にちょっと傷んだコンクリートに穴が開いている。
ずっとちょっとこの写真見ながら気になってましたけど。
これはですね、何の穴かというと、先ほどから言ってますように文字港っていうのは外国から来た船が寄港するところだったんですけども、
この穴の中から怪しい人がいないかを監視していた窓だっていうふうに言われてるんですね。
確かに今もですね、国をまたいで移動するときはパスポートのチェックなんかもありますけど、こんなこそこそと隠れて見られていたっていうのが、
本当そういう戦時化っていうのは、戦争に向かう時代っていうのはそういった行動の自由がだんだんなくなっていくような時代で、
もちろん不審な人を日本の国の中に入れちゃいけないっていうのは今もそうなんでしょうけども、こんな隠れて監視されるっていうのがですね、すごく当時の空気というか時代を物語ってるなと。
しかもそれがですね、観光地でも有名な文字港にも残ってるなっていうのがですね、すごいなとは思うんですけども。
あと文字港っていうと、今駅舎が何年か前にリニューアルされて、昔の姿に復元されてましたけど、確かですね、文字港周辺も戦時中は結構空襲の被害とかも受けてて、
あの駅舎は幸い無事というかですね、残ったんですけれども、なので本当文字港っていうのは昔から重要な港だったので、やはり戦争とは無関係ではない地域だというふうに思います。
ということでですね、他にもですね、実際その文字港駅のこの監視される窓の側にもですね、こういった看板とかがあって、当時の歴史を伝えるものがあるので、
もし文字港に行かれた際にはですね、ちょっと本当に分かりにくいところ、改札に向かうルート上にはないので、ちょっと分かりにくいかもしれませんけども、
もし文字港に観光に行かれる際には、ここもぜひ見てほしいなというふうに思います。
文字港というと文字港レトロ焼きカレーとか、観光地というきらびやかなイメージがある一方で、その80年以上前の遺跡に残っているというところがすごいなと。
そうですね、だから決して文字港もですね、そういう華やかな歴史だけではないっていうのはやっぱり記憶しておきたいなというふうに思います。
次、ところ変わってですね、福岡県築志野市の築志駅ですね。ここはJRではなくて西鉄天神大本線の駅で、
築志行きの急行とかがあったりとかして、行き先表示でもなじみ深いところであるんですけども、この築志駅もですね、
実は戦時中、太平洋戦争終戦記念日8月15日のほんの1週間ほど前にですね、この築志駅に停車しようとしていた西鉄の電車2本が、
米軍機の機銃操車を受けて乗客などですね、約100人とも200人とも言われているんですけども、たくさんの方が亡くなられ、犠牲になったり傷ついたりしたというふうに言われております。
この築志駅は今新しくなって、駅舎もですね、新しく建て替わっているんですけども、その建て替わる前にこの築志駅のホームにあった待合室が、この築志駅から歩いて5分もかからないところの広場の脇にですね、
築志平和記念館という建物が建てられて、実はこの記念館の中にその待合室の一部ごと移築されています。
この待合室が何で当時のことを物語っているのかというと、この待合室の屋根にですね、当時の機銃操車を受けた弾痕が残っているんですね。
この待合室は木造なので、建物の中ですっぽり建屋で覆う形で保存されているんですけども、ガラス越しにしか見えないんですけれども、
ガラス越しにその中を覗き込むと確かに弾痕があったところにはですね、赤い印がつけられてて築志駅が実際に銃撃されたという歴史を今に伝えてるんですね。
この築志平和記念館のすぐそばにはですね、看板も建てられてて、その当時どういう状況で列車が、西鉄の電車が狙われたのかというのも含めてですね、解説されています。
市民の足として当たり前に使ってますけど、もっと遡るとそういう歴史的な背景があったというのはあまり知らなかったですね。
そうですね、特にやっぱり築志駅っていうのは福岡県の方は詳しいと思うんですけど、福岡と久留米を結ぶ途中の駅なんですよね。
だから当時もやっぱり福岡と久留米っていうのは大きい街なので、やっぱり当然お客さんもたくさん使っていたであろうことは想像に難くないですし、
実際に亡くなった方の中には学徒動員で動員されていた方とか会社勤めの方とかも多くいらっしゃったそうなんですね。
だからもちろん鉄道っていうのはそういう形で兵隊運んだりであるとか、軍銃操に使うっていうのは役割があるのはそれはそうだと思うんですけど、
だけどそんな形で一般市民の生活の足でも、当時も今もそうですけどあったわけですね。
ただそういった一般市民の生活の足であった電車が狙われて銃撃されて、駅も含めて銃撃されたっていう歴史はこれもまた記憶として留めておいておかないといけないなっていうのは思います。
そしてまた場所が少し変わって、佐賀県鳥栖駅ですね。
この鳥栖駅っていうのは明治時代の駅舎が今も残っているということでなんですけども、
ご承知のように鹿児島本線と長崎本線が分岐するところで、昔から機関車の車両基地があったりとかして鉄道の要所として栄えてきたところなんですけれども、
この駅舎自体は本当に明治時代からあるんですけど、この駅舎も一歩間違えば空襲の被害でこっぱみじになってたかもしれないですね。
というのもやっぱり鉄道の車両基地や機関車の車両基地があるので当然狙われやすいと。
実際この鳥栖駅の今の駅舎はそれほど大きい被害を受けなかったんですけれども、
この鳥栖駅の周りには当時車両基地が広がっていて、その車両基地、今は佐賀鳥栖の本拠地のベストアメリティスタジアムですかね。
スタジアムがあるんですけども、その周りはもともと鉄道の基地だったんです。
ただその基地の一角にこちらも終戦の数日前に爆弾が落とされて、そこで勤労動員されていた若い方も含めてたくさんの方が亡くなられるという悲劇があったということで、
今はこのスタジアムのすぐ近くの一角に当時の犠牲者を傷む日が経っております。
本当に小さい日なので見落としちゃいそうなんですけれども、確かに当時の方のどんな方が亡くなられたのかも含めて、この日のそばに行くと別れるようになっているということで、
なので鳥栖駅も今は明治時代の駅舎があって、周りも住宅マンションとか建ってどんどん変わっていってはいるんですけども、
やっぱりかつてそういうことがあったというのは、やっぱりこの日が今に当時の悲劇を伝えているんだというのは現地に行ってみて思いましたね。
そもそもどうやってこの駅を狙おうみたいな、その駅の場所であるとか、米軍機からするとターゲットにしようってどうやって見つけていたんでしょう。
やはり米軍って結構偵察とか情報収集力は今もそうですけどたけてるので、当時もやっぱり偵察という形でたびたび日本の上空に現れてきていたようなんですね。
だから当然どこに駅があるか、どこに基地があるのかっていうのは米軍にとっては把握が容易かったんだろうと思います。
という形で今回は福岡県と佐賀県にある戦争にまつわる駅の場所をご紹介しました。