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2025-08-14 15:04

41|【戦後80年】駅にも戦争があった②長崎編~被爆者救援「311列車」を追う&「戦後の第一歩」踏み出したホーム

ご乗車ありがとうございます。この番組では西日本新聞の“乗り鉄”記者が鉄道旅の魅力について広く深くマニアックに語っていきます。

80年前の太平洋戦争では、鉄道の駅も戦禍に見舞われました。戦後80年企画として「駅にも戦争があった」と題して、当時の記憶が残る九州各地の駅をご紹介します。2回目は長崎編。長崎原爆の爆心地から最も近い浦上駅のほか、被爆者を救出するために原爆投下当日に走った救援列車ゆかりの長与駅や道ノ尾駅(いずれも長崎本線)、外地から引き揚げてきた人々が故郷へ向かう列車に乗り込んだJR大村線・南風崎(はえのさき)駅についてお伝えします。

なおこの配信回は、過去に西日本新聞朝刊「もっと九州面」で連載した「鉄ガクの旅」の記事内容にオリジナル要素を加えたものです。連載記事も併せてご覧ください。

【動画あり】鉄道記者が訪ねる戦争遺構 駅舎に弾痕、九州各地に(2020年7月15日配信)
https://www.nishinippon.co.jp/item/626117/

【動画】ホームに弾痕、戦争刻む駅を訪ねる 第2章(2021年7月14日配信)
https://www.nishinippon.co.jp/item/769746/

長崎原爆の被爆者救援「311列車」を追体験【鉄道の戦争遺構第3弾】(2022年7月13日付)
https://www.nishinippon.co.jp/item/955418/

長崎線が伝える原爆禍…未来への活用法を思う【鉄道の戦争遺構第3弾】
https://www.nishinippon.co.jp/item/955966/

◆旅人=中原岳(筑豊総局記者)、車掌=宮下雅太郎(MC/お客さまセンター) /音声編集:中富一史(販売部)/映像編集:井上知哉(ビジネスマーケティング部)

◆収録日:2025年6月13日

◆中原岳記者の記事一覧
https://www.nishinippon.co.jp/writer/show/79/

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サマリー

このエピソードでは、長崎における原爆救援列車の重要性とその歴史的背景が探られています。特に、311列車がどのように被爆者を救援したのか、また長代駅や道納駅の果たした役割について詳しく解説されています。また、浦上駅と早野崎駅に関しても、原爆と戦後の歴史が探求されています。浦上駅の慰霊碑の移転や、早野崎駅が戦後に故郷へ帰る人々にとっていかに重要な場所であったかが語られています。

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ご乗車ありがとうございます。この番組では、西日本新聞の乗り鉄記者が、鉄道旅の魅力について広く深くマニアックに語っていきます。
ご案内します車掌は宮下正太郎、旅人は中原岳さんです。中原さん今回もよろしくお願いします。
はい、よろしくお願い致します。中原さん今回のテーマについて教えてください。
前回は、2025年が戦後80年の節目ということで、九州各地にある駅の戦争意向についてご紹介しました。
題して駅にも戦争があったという形で、前回は福岡県と佐賀県の駅の戦争意向をご紹介したんですけども、今回は長崎県の駅にある戦争意向をご紹介しようと思っております。
では早速お話を進めていきたいと思います。長崎県でご紹介した駅は4駅あります。
長代駅、道の大駅、浦上駅、これらはいずれも長崎市の近郊にある駅ですね。
あと佐世保市の郊外にある早野崎駅っていうところにも触れたいと思います。
何駅?早野崎。
一番上のやつですね。
南風崎駅と書いて早野崎というんですけど。
これ難読な感じですね。
難読ですね。
長代駅の歴史
まずはですね、長崎市近郊にあるこの3つの駅についてですね、ご紹介しようと思います。
まず長代駅ですね。長代駅っていうのは長崎本線の旧線、長崎本線はですね、
諫早と長崎の間で2つに分かれて、戦前からある旧線と戦後にできた新線というのに分かれてるんですけども、
この長代駅っていうのは旧線、戦前からある旧線のところに長代駅っていうところがあります。
この長代駅なんですけども、駅前にですね、機関車の動輪が置かれてます。車輪ですね、大きい車輪ですね。
なぜ長代駅の前にこの機関車の車輪が置かれているのかというと、その側に看板があるんですが原爆救援列車って書かれてますね。
原爆救援列車ですか?
はい、救うという意味での救援ですね。
ご承知の通り長崎市というのは1945年昭和20年の8月9日に原爆が投下されて、大勢の方が亡くなられたんですけども、
当然線路も長崎本線も被害にあったんですけども、その際ですね、一部の列車が爆心地の近くまでなんとか入れて、
傷ついた方を列車に乗せて長崎県内だとかの病院に運んでいったという歴史があるんですね。
それが原爆救援列車と呼ばれていて、8月9日だけで4本運行されたというふうに言われております。
この長代駅と原爆救援列車がどういう関係にあるかというと、まさにですね、長崎に原爆が投下された時に、長代駅に1本の列車が停まってたんです。
当時はですね、普通列車しか基本的に走ってなかったので、列車の番号で言うと311列車って言うんですけども、
この311列車は長崎に原爆が投下されていた当時、長代駅に停まっておりました。
長代駅に停まっていたこの311列車が後々ですね、被爆者の方を救うために爆心地近くまで入っていって、
繰り返して伊佐原とか川棚とかそういった長崎県内の病院に傷ついた方を運んでいった。
そのまさに救援列車の第一号となった列車が停まっていたのはこの長代駅だったというところになります。
あとですね、この長代駅がもう1個重要だったのは、この戦時中、戦争末期の頃ですね、長崎の鉄道を管轄する部署、今で言うJR九州さんで言えば長崎支社にあたる組織が、
部署がですね、空襲を避けるために長崎駅の側、長崎市内からこの長代の方に疎開という形で移ってたんです。
だから長崎の鉄道の司令塔機能が長代駅の前にあったので被爆者を救うために列車を出しなさいっていうそういう司令が出せたっていうのもある意味、
不幸中の幸いというかですね、そういう歴史もあるというふうに。
たられ場ですけど、長崎のままであればその指示機能そのものがやられていた可能性が。
その可能性もあります。あとですね、この救援列車がもう1個ですね、不幸中の幸いだったのが、帝国より15分遅れていたんですね。
もしですね、当時の時刻表を探して福岡市の総合図書館で見つけて、当時の時刻表を見たんですけども、この列車はですね、
確か長崎駅の到着時刻が時刻表通りだと11時10分だったんですよ。長崎で原爆が投下された時間、炸裂された時間とも言われますけども、
それが11時2分で、それが長崎駅のちょっと手前のホール、浦上地区なんですよね。
だからもしこの311列車が帝国を通り走っていれば爆心地のそばを走っていた可能性があったんです。
だけどもたまたま15分その日遅れていて、長洋駅で止まっていた時に原爆が投下されたと。
長洋駅っていうのは爆心地から5キロほど離れていたので、当然爆風でガラスが割れたりとかもしてるんですけども、
幸い機関車とか客車の走ること自体はですね、牛だったので原爆救援列車にできたというのがあるんですね。
あともう1個エピソードがあって、なぜこの列車は15分遅れていたのかというところなんですけども、
確かに戦争末期の頃って鉄道が物資不足で、乗務員も戦争に取られたりとかして、列車を走らせる体制が疲弊していたんですね。
そういった問題もあったのかもしれませんけども、実はこの日の8月9日の前の日に北九州の八幡地区が大空襲を受けてるんですよ。
八幡大空襲といって、実は福岡県内で一番大きい戦争被害になってるんですけども、
なので前日の昼間に八幡大空襲があったので、当然線路は鹿児島本線を通じて長崎本線まで繋がってるので、
九州北部の列車のダイヤが相当乱れていたのは想像で固くないんですよね。
だからもしかすると八幡大空襲の列車の乱れの影響が長崎まで繋がってて、結果的にこの列車を救うことになったのかもしれない。
よく八幡大空襲というか長崎に落とされた原爆って最初の投下目標って北九州の小倉ってよく言われてますけども、
小倉に原爆が投下できなかったのは小倉の街が視界不良だった、上空から見えにくかったため長崎に目標を変更したっていうふうな話はよく言われてます。
その原因の一つとして以前から八幡大空襲の煙が、その前の日に8月8日に起きた八幡大空襲の煙が何らかの作用をしたんじゃないかっていう説もあるんですけども、
結果的に八幡大空襲が長崎に煙がもし影響させたとすると、列車をするとこの311列車もある意味八幡大空襲の影響を受けたかもしれない。
結果的にその列車が長崎の被爆者を救援する列車になってしまったという歴史の偶然というか、皮肉なものもちょっと感じたりはするんですけども。
なかなか今はもう推測することしかできないと思うんですが、もし今の中原さんの話が本当であれば、かなり運命のずるみというかですね。
そしてですね、この原爆救援列車なんですけども、先ほど言いましたように、当然この長屋のあたりも原爆の爆風とか届いたんで、当然何かが起きたことはわかったんですけども、やっぱり先ほど言いましたように、長崎の鉄道の部署が救援列車を出した方がいいということで、
原爆が投下されて間もない頃に行けるところまで行こうという方針でですね、さらに長崎市内の方にですね、列車を進めていったんですね。
道納駅の役割
長崎市方面に向かったところに道納という駅があります。ここは爆心地から3.5キロぐらいでより近いところなんですね。
ただこの道納は今もですね、木造の駅舎が残ってるんですけど、実はこれは原爆にあった駅舎なんですね。
この爆心地から3.5キロというと、ちょっと離れているように思えるかもしれませんけども、当時のですね、証言だとこの道納駅の周りの民家はかやぶき屋根が燃えてたそうなんです。
だからそれくらいの熱線が届いていたんですけども、この道納駅に関しては木造の駅舎だったんですけども、幸い元気をとどめて無事だったそうなんですね。
ちょっと前聞いた話では、この道納駅も実は爆心地とは反対方向に爆風の影響で歪んでるというふうにも聞いたことがあるんですけど、
ただこれはJR九州さんにも前取材で聞いたことがあるんですけど、残念ながらそれを示す証拠だとか、
その歪みを修正したというような記録は見つからなかったということだったんですけど、
ただこの駅舎が原爆投下前からここにあるのは確かで、実際あの原爆が落とされた直後は先ほどの救援列車となった311列車もここに泊まってました。
次の駅ということで泊まりましたし、原爆が投下されてしばらくの間、この駅前の広場とかが臨時の救護所になったんですね。
だからそういった意味でも、この駅舎そのものには大きい被害はなかったんですけれども、
そういった被爆者の方が列車に乗って避難していく、そういう一つの拠点になったという重要な歴史がある場所というふうに思います。
実際駅舎の壁には当時の道の駅に置かれた臨時救護所と救援列車の話が紹介されたプレートが置かれていて、そこには船舶が飾られていたりとかして、
そういったところからもこの歴史を忍ぶことができるなと思います。
原爆の救援列車は爆心地の1キロ圏内までなんとか進めたんですけれども、
それ以上先は鉄橋が爆風でずれてて進めなかったということで、結局そこで折り返していったということで、
ただその爆心地から1キロ地点は駅じゃなかったところなので、結構人が乗り込むには大変だったそうで危なかったということで、
この原爆投下翌日からはこの道のほうが実質的な前線基地というかここまでは列車で行く、そこからは歩いてくださいという形で、
ここが道のほうが実質的な折り返し地点になったというふうに記録されております。
長崎駅と浦上駅
一方で長崎市内には他にももちろん長崎駅もありますし、爆心地に一番近い駅としては浦上駅があるんですね。
この浦上駅ではちょうど原爆が投下された当時貨物列車が止まっていたそうで、
当然駅にもたくさん人がいらっしゃったそうなんですけども、70人ぐらいいた職員のうち無事生き残れた人は数人しかいなかったということで、
本当爆心地から1キロぐらいしか離れてなかったのでほぼ壊滅地帯になるんですね。
なので浦上駅には原爆の犠牲になった方を慰霊する慰霊碑があります。
この浦上駅というのは原爆が投下された直後に、数日後に撮影された写真にもホームで黒焦げになって横たわる親子の写真が残っていたりとかするので、
鉄道の職員、駅員さんとか機関車の乗務員だけじゃなくてホームで列車を待ってた人も巻き込まれたっていうのはそういった写真からもわかるんですね。
ただこの浦上駅にある慰霊碑なんですけども、実は今数年前に場所がちょっと移転しまして、
ちょっとひっそりとした場所にかかっちゃったんですね。
もともと浦上駅の周りって近年再開発が進んでいて、浦上駅の前に原爆犠牲者の慰霊碑があった場所は今コンビニになってるんです。
その慰霊碑がどこに行ったのかというとですね、少し浦上駅から100メートルか200メートルか離れたところの線路脇の駐車場の脇に位置くというかですね、
デザインは一緒なんですけど少しピカピカになったように見えるので作り直したのかもしれませんけども、
いずれにしても前は駅の出入口のそばにあった慰霊碑が大幅に移動して、今はひっそりとした裏通りのようなところに移転しちゃったんですね。
だからこれだけ原爆の歴史が記憶が忘れつつある時代の中では、
再開発のためとはいえ慰霊碑をこういう目立たない場所に持ってきてしまったのはちょっと私としては疑問を感じはするんですけども。
そうですね、だからこの長崎も被爆地とはいえ少しずつですね、やっぱりそういった昔の歴史を伝える場所が分かりにくくなったりなくなってしまったりしてるのは実態としてあるのかなというふうには思います。
早野崎駅と戦後の第一歩
ということでですね、長崎原爆にまつわる3つの駅をご紹介したんですけれども、もう一つですね、冒頭少し南北の駅名ですねって言っていただいた早野崎、ここもですね、原爆とは直接は関係はないんですけれども、
この早野崎っていうところも80年前の戦争を語る上では重要な場所なんですね。
というのもですね、戦争が終わって大陸とか戦地からたくさんの人が引き上げてくるわけですよね。
その引き上げてきた人が上陸する港としては福岡の片甲とかもそうなんですけども、一方で佐世保の港もですね、そういった外国というか外地、外地、外の地域から福音してきたりとか引き上げてきた人が上陸する場所になったんですね。
その一旦上陸する場所があったのが今のハウステンモスの周りだっていうふうに言われてるんですけども、この早野崎っていうのはハウステンモスのすぐ隣の駅なんですね。
この早野崎が実は日本に戻ってきた人が自分たちの故郷に行くために列車に乗り込んだ場所なんですよ。
なので早野崎のホームには昭和20年、つまり1945年の10月から昭和25年4月までの間に海外から佐世保を裏頭に引き上げてきた方々がそれぞれの故郷へ向かわれた思い出の駅ですという看板があるんですね。
なので今は基本的にJR大村線の列車が行き交うような小さな駅なんですけども、
まさに戦争が終わって外国外地から帰ってきて日本に帰ってきて、その人たちがほっと一息つくというか、命からがらがら日本に帰ってきて自分たちの故郷へ向かう、つまり戦後の第一歩を踏み出した場所がこの早野崎だったというところになるんですね。
だから今ではハウステンモスがあれだけ有名ですけど、このハウステンモスの周りにもそういう歴史があったんだというのは、こういった駅を訪ねるとわかるというところになります。
ということで今回は長崎県内にある戦争にまつわる駅を4カ所ご紹介しました。
次回は熊本と大分の駅についてご紹介しようと思いますので、次回もご乗車お待ちしております。
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