なるほど、そういうことなんですね。で、今回11月の記事では、そのペシャワール会の会長を長く勤められた村上先生が退任されるというニュースになってたんですけども、
それこそ今ここまでの話で中村哲さんがやってたのがペシャワール会か、そうだそうだと思っていただいた方多いと思うんですけども、
一方でペシャワール会っていうのはアフガニスタンでの中村哲さんの活動を支援するための日本の団体、福岡の団体なんだけども、その会長を長年されてた村上さんという人もいるんですよっていうお話ですもんね。
そうですね。村上麻里先生は10年前からペシャワール会の会長されてるんですけど、ペシャワール会は資金を集めて現地での活動のための資金を集める団体なんですけど、
また現地にPMSという現地団体がありまして、PMSが実際アフガニスタンで要するに掘ったり侵略したりということをやってる団体、現地の人、アフガンの人がもうたくさんいらっしゃるんですけど、
もともとはPMSの代表を中村哲先生がされてたんですね。ペシャワール会が村上先生が会長されて、なんですけど2019年に中村先生が亡くなってからは村上先生がペシャワール会の会長をしながらPMSの総委員長っていう形でトップが同じっていう形になっていたんですよ。
これは中村先生が亡くなったっていう事態が起きたんで仕方なかったんですけど、ちょっとこのいびつな団体を解消したいっていうこともあって、ペシャワール会の会長の方は世代交代が必要ということで退かれるっていう形でね。
写真なんかで見たらすごいお若いけどもう76歳になられるんですね。そういうことなんですね。それこそ村上さんと中村哲さんっていうのは古い仲間でってことなんでしょ。出会いはいつ?
もともと中村哲先生は九州大学医学部のご出身なんですけども、村上先生も九州大学医学部なんですけど卒業でいうと村上先生は中村先生の人学年下。
下。先輩後輩なんですね。
後輩の関係で、大学時代はそこまで接点がなかったということなんですけど、大学で同じ精神科なんですけど、精神科の医師なんですけど、卒業した後に最初に研修医として入られたのが佐賀県にある当時は国立肥前療養所。今でいう国立病院機構肥前精神医療センターなんですけど、こちらでお二人とも医師としてのスタートを切った。
なるほど。大学の先輩と後輩で、その当時はそこまで知らなかったけども、同じ病院でスタートを切った。
そこから一番接点のつながりとなりましたね。お二人とも中村先生も有名なんですけど、登山が趣味で、中村先生も登山がお好きで、1979年まだペシャワルカリの活動が始まる前なんですけど、一緒にパキスタンの山に登ったり。
すごいですよね、動きですよね。
その時に、夜通し医療の現実とかに語り合って、命の不平等があるんじゃないかと。いわゆる日本だったら治る病気でも、アフガニスタンとかパキスタンだったら、薬も届かずに患者が亡くなってしまう、そういう現状がある。
この命の不平等に意思として自分たちはどう向き合うか、そういう話で意見をぶつけ合った。それがペシャワルカリの活動のその後の原点になっているということでした。
若きお医者さん二人がパキスタンの山小屋でみたいな話なんですかね。
そうですね。
そういうことなんですね。それがやっぱり後に、いわゆるパキスタンだったりアフガニスタンの市につながっていく。
そうですね。山登りとかされた後に中村先生が84年にパキスタンの病院に赴任されるんですけども、その前年にペシャワルカリが作られています。
村上先生は発足の時から関わられていますね。40年以上ですかね。会の活動で右腕相棒のような形で二人三脚でこうやって来られた方です。
それこそ僕もちょっと台本に赤字で書いてるんですけど、中村先生の言葉、いくつか象徴的な紹介していただいていいですか。
そうですね。皆さん中村先生の言葉に影響を受けた方もいると思うんですけど、記事で取り上げた言葉に、心ない戦争に不動の良心を退治する。
暗ければこそ明かりの価値がある。違いや矛盾を挙げつらって拳を挙げるよりも血の通った共通の人間を見出す努力が先。
いろんな言葉を残されていますけど、村上先生自身も人生のいろんなところで、やっぱりこの中村先生の言葉を支えにしてきたということをお話しされていました。
そうですね。改めてですけど、最初にペシャワール会とか中村哲さんの話を知った、聞いた時っていうのは、水路が先なんですよね。
そうですね。私もそうだったかも。
アフガニスタンで用水路を作って砂漠を野口に変える取り組みをされているすごい人がいるんだよ。出身は福岡なんだよっていうことを聞いてわーっと思ったら、よくよく多分新聞記事だと思うけど読むと、お医者さんでとかいう話で。
そうですね。
多分当時だったかもその後の記憶とごちゃごちゃになってますけども、トラクターに乗ってるちょっと背の低いかっこいいお医ちゃんが、この人お医者さんなのみたいな。そうなんですよね。
そうそうそう。で、あーってすげーなーとか思ったのがやっぱり覚えてますし、そうなんですよね。でなんですよね。村上先生っていうのは実はそのペシャワール会の立ち上げある種のメンバーで中村先生と一緒にそうやって活動を続けてきただけではなくてっていうところが今回記事であって。
僕は本当にこの話は全然知らなかったんですけど、精神科の医療の分野でもいわゆる尽力されていらっしゃる。
そうですね。精神科医としても村上先生は有名な方で、ちょうど1970年代からペシャワール会が立ち上がるぐらいまでの間は、今以上に精神科の患者さん、精神障害の患者さんっていうのは人権が過論じられてた時代があるんですけど。
その差別を受けたり。
偏見も非常に強かったし、重症の方は隔離されるっていうような時代があった中で、村上先生は研修一代から旧世紀の患者さんの入院先を閉鎖病棟から開放病棟に変える取り組みを肥前で行われていたりですね。
あとその依存症の問題でも積極的に取り組まれていらっしゃって、アルコール依存症だったり薬物の依存症の方たちの当事者団体を設立されたり、そういう医師としての活動と並行してペシャワール会の活動もされてきたという方でした。
スーパーマンですよね。
そうですね。私も詳しく初めてこの取材で知りましたけど。
そうですよね。お医者さんしてるだけでもすごくて、ペシャワール会してるだけでもすごくて、この足し算だけでもスーパーマンなのに、その上っていういわゆる活動にも取り組まれていらっしゃるってことなんですね。
そうですね。しかも現在もまだ医師として勢力が動いていらっしゃいまして、国立病院機構、魔法的な病院の建て直しに奔走されてますが、なかなか経営が厳しくて潰れてしまうような全国の国立病院機構も回られてですね、建て直しをするという活動を今もされてて、
今も岩手の病院国立病院機構の方に勤務しながら2拠点3拠点生活っていうのをずっと続けてらっしゃる方ですね。
そうなんですね。そうなんだ。
76歳で。
そうですね。やっぱお医者さんはよくおっしゃってたんですけど、医師は都市部に集中する傾向があって、どうしても地方の病院になかなか医師が行かないという現状があると、そうするとやっぱ地方の病院はすごく厳しくなるんですけど、そうなると地方で暮らす人たちの医療が十分な医療が受けられない。
そういう状況は違うんじゃないかということで、地方の公立の病院をしっかり建て直すってことを志して進めてるってことでした。
最近もううちの記事だったかな。いわゆる離島からお医者さんがやっぱり減っているとか。
そうです。