何でも聞いてくださいね。
お聞きしたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いしますということで、
まず社長の入社前のお話などから聞くことがあるので、
お伺いしてみたいなと思うんですけれども、
もともと文章を書くのはお得意だったんですか?
得意というか、文章はですね、小学校の時から作文はよく書いてましたね。得意でしたね。
書けば書くほど、書くたびにコンクールで入賞するという、
もう嫌な子供ですよ。嫌な子供。
だって大人がね、何を書けば喜ぶ、評価が上がるというのを熟知して、分かって書くもんだから。
とね、今振り返ったらね、嫌な子供だったなと思いますね。
こういうの言うのはあれですけど、嫌な子供ですね。
いやいやって言った。
そうなんですね。
なんかちょっとちらっと噂を聞いたんですけど、
そのコンクールで優勝した賞金で、
文庫?
そうそうそう。当時通っていた金山小学校にですね、
大チャン文庫というのができて、
それ私のいろんな賞金で本を買ってできたわけですよ。
嫌でしょ。
素晴らしい。
ずっと今も残ってた?
いや、もういつの間にか無くなってましたね。
そうなんですね。
当時は。
なんか当時の新聞記事もちょっと資料で見せていただいて、
なんか子供たちの人気もなかなかいいみたいな、
なんかちょっと評判がいいみたいな、
ちょっと一文があったりして、
なんかいい取り組みだなという感じですね。
そうですね。
この時取材を受けられた?
その時いろいろ取材を受けましたよ。
西日本新聞とか、福日新聞とかですね。
あ、なるほど。
テレビも出ましたよ。
そうなんですね。
テレビに出て、その賞金、副賞で東京の往復航空券をもらった。
そんなこともありましたよ。
すごいですね、小学校で。
文化かけるというのは、それだけのやっぱり強いところがあるんですね。
ただ一方でね、作文以外は大嫌いですね。
まず体育が全くダメ。
幼稚園の時からドッジボールがまず嫌い。
野球とかとんでもない。
あと算数がダメ。理科がダメ。図工がダメ。
中学に入ったら英語もダメになりましたね。
理科も。
国語特化型の…
だけどね、国語も漢字はダメなんですよ。漢字は全くできませんでしたね。
どうして辞書を引いたら分かるのに覚えないといけないんだろうと。
辞書を引いて書いているうちにいつの間にか覚えるだろうと。
なぜ今覚えるのと。
だから国語の点数もよくはなかったんですよ。
なかなか発想が…
そこから就職かつ大学に行って…
みんな飛びますね。
すみません、飛んでしまいましたね。
ちょっと一つ聞きたい噂があるんですけど、
高校時代にいろいろ苦労されたということもありますか?
高校の時は今言ったように成績がずっと悪いからですね。
高校の1年生から2年生に上がれずに留年しましたよ。
私は西南学院高校に行ったんだけど、
当時の、今は西南学院高校、大失望が圧倒的です。
今は西南学院高校、大失望が圧倒的に増えましたけど、
当時はいろんな公立高校の滑り止めとしてみんな受ける人が多かったんですよね。
そうなんですね。
ただ私は勉強できなかったんで、西南学院に通ったら
どうせ公立を受けても落ちるに違いないと。
どうせ落ちるならもう受けんめえと思って、
受けずに西南学院高校に行ったわけですよ。
そしたら勉強しないまま行くからついていけなくて、
1年生から2年生に上がれずに落台生になりました。
4年通ったんですよ。
そうなんですね。
知ってました?
びっくりしました。
奥深いでしょ。
人生が。
こんな時じゃないと伺えないですね。
後ほどもうちょっと触れるんですが、そこでキリスト教とか出会うという。
西南学院っていうのはキリスト教の学校ですからね。
そこでの出会いっていうのは非常に大きかったですね。
特に、いわゆる宗教っていうのは、
信じたら救われるとか楽になるではなくて、
考えること、古典を通して。
それがやっぱり大事だなと思うんですよ。
特に聖書っていうのは逆説、パラドックスがたくさんあって、
弱いときにこそ強いとか、
ところの貧しい人は幸いとか、
あとは愚かなもの、取るに足りないものの選びとか。
一体これは何を言ってるんだろうかとかいうのを思いながら、
世の中を出来事を自分を見ていくという。
それは記者になってからも一つの大きな視点になりました。
だから留年はしたけども、そういう得るものもありましたね。
大きかったと思います。
プラスの方が大きいですね。
留年は一時の恥ですからね。
そこで得たということですね。
そうそう。
なんかそこから新聞社に行った経緯の中で、
大学時代にいろいろ新聞に触れるとかいうのもあったのかなと思ったんですけど、
就職の時とかってどうでした?
まず新聞に触れるって言ったら一つ、今思い出しましたよ。
中学校1年生の時に、遡るけど、
当時新聞係っていうのがあったんですよ。
新聞係。
いわゆる学級新聞を書いて、それをわらばん紙、
わらばん紙って今知らないかな。
ザラガメに印刷して、学校で配るという。
その新聞係になって、私が書いた記事。
全部書いたのが。
これ結構評判だったんですよ。
当時担任の比較的若い大原先生という女性が、
4月家庭訪問の時期でしょ。
家庭訪問で家庭をずっと回っていく。
ある人が、先生が車で家に家庭訪問に来てさ、
親と話した間に先生の車が劣化移動されとっちゃう。
これは面白いな、みんなに知らせたいと思って、
学級新聞の頭に大原先生、劣化移動されって書いて、
下手くそ内容を添えてね、車が持って行かれてるところを泣きながら、
待ってーって追いかけていく先生の絵を書いて、
それを印刷して配ったんですよ。
泣き笑いのようにして怒られました。
大スクープだし。
すごいですよね。
死亡記事もあったんですよ、その新聞記事。
そうなんですか、ちゃんとしっかり書いてたんですか。
学校の犬走り、知ってます?
校舎の一番下のところを犬走りって言ってたんですよ。
校舎の犬走りでヤモリが死んでいた。
ヤモリ氏って言って、ヤモリの絵を書いて、死亡記事付きでしたよ。
なかなか本格的でしょ。
本格的ですね。
今覚えだしたよ。
読んでみたい。
すごいですね。
じゃあ新聞読まれたりしてたってことですね、ちっちゃい頃から。
新聞は身近にあったからですね、家でも2支は取ってたので。
ずっとね。
読まなくても眺めてはいましたね。
そうなんですね。
当時、ホノボノ君っていうのが西日本新聞の漫画でしたけどね。
これのどこが面白いんだろうと思って見てましたよ。
ちょっと嫌な子供が続きますよ。
そういったこともあって、身近に新聞がある中で、就活の時。
就活、そうですね。
大学も、いわゆる大学生の中で、
国際文化学科と言いながら、現代日本文学のセブンに入って、
卒論は遠藤修作の沈黙なんですけど、
そういう日本文学を学ぶ中で、
さてと、就職どうしたもんかなと。
多分営業がしきらんやろうし、
今さらいろんな免許を取るのも成績が高いし、
大学に入って、
大学に入って、
大学に入って、
大学に入って、
今さらいろんな免許を取るのも成績が足りんし、
悶々としてたわけですよ。
その時に、西日本新聞社が、
西日本マスコミ入門講座というのを、
当時の水木学園予備校で、大教室で開いて、
それを聞きに行った。
親からこれぐらい行ってきなさいと言ったわけ。
結構これが面白かったんですよ。
当時の編集局長の講学があって、
その後、当時の社会部かな、
キャップと記者たちが前に並んで、
いろんな日頃の仕事のこと、苦労とかを話し合うわけですよね。
そのお互い話し合う目と目を見ながらの、
その姿を見て、