庭のガーデニング。このコーナーでは私、庭の好きなものをお話しするコーナーです。
7月からの間で映画館に見に行った映画の話、あ、そもそもあんまり多分2025年になってから映画の話をここでしてないような気がするんですが、
というよりも自分自身が多分2025年に4本しか映画館で映画見てなくて、なんかでも満足度は全部高いせいかわかんないんですけど、
なんかすごい映画見たなーって感じに全部なってて、映画好きやなーっていうかまた見に行きたいなーってなんか思い出す率が全部高い映画。
なんかそうやって映画好きを錯覚させられるような映画をすごい見に行ってたなーって思いますね。
そうか、なんか冷静に見たら4本しか見てなくてちょっとびっくりはしてますけど。
今年見た映画は4本中2本が松井大吾監督のもの、で、あと2本は八番出口と国宝なんですけど。
今日はミーツザワールドの話をすごいしたいなーと思いながらいて、なんとなく映画記録見てたら2025年4本しか見てないってなって、
あー、なんかちょっと自分では意外で結構見に行ってるような、なんだろう、心持ちではいたんですけど。
だから映画すごいですねやっぱり、なんか今年のその国宝しかり、八番出口しかり、結構ロングランで話題作が多かったりして、
満足度というか映画好きやなーってさせるものが多かったなと思います。
なんか本当に4本しか見てないのが意外、なんかアニメ見た記憶あるけど、あれはアマプラとかで放送のアニメを追ってただけなのかな。
それも自分としては珍しいことではあったんで、なんだろう、なんか不思議な感じですけど。
私が2025年映画館で一発目に見た映画はリライトという松井大吾監督の映画で、
SFモノというより時間モノで、時間モノの報道、サマータイムマシンブルースとかを手掛けた上田誠さん、ヨーロッパ企画の客本をしてて、
私は好きな映画で、もうなんかこの松井大吾と上田誠ってだけでもうワクワクしてたんですけど、
なんだ、ヨーロッパ企画のyoutubeとかをコロナ禍に結構見てて、そこに松井監督が出てる回とかがなんかあって、
なんかすごい好きな2人組だったんで、めっちゃ嬉しいなぁと思いながら見に行って、上田誠監督ならではのというか、
時間モノの、なんていうんだろう、あの、設定をついてくるところがすごい面白いし、
あと松井大吾監督っぽいなぁというか、うまく言えないんですけど、その応答のベタな展開の部分が、
なんかちょうど癖になるぐらいの良くて、なんかすごい面白かったなぁっていう印象があって、
なんかその後、米田で時間を潰して、あれはこういうことだったのかなぁとか、いろいろ考えたりとかもすごいした映画でしたね。
次に見たのが、まぁ今年の一番の話題作、国宝ですよ。
国宝私いつ見たんだろう、7月末ぐらいかな、なんかこれね、ナイターで見て、
あ、なんだっけな、なんか三連休の一番最終日のところで見たような記憶があります。
鬼滅キッズたち、こんな遅い時間に映画館来るんだ、とか思った記憶ありながら、
国宝を夜の部で見てて、で帰り終わって真っ暗になってるんだけど、余韻に浸りたくて、
なんかここ東方シネマズ二条っていう、京都のあの二条城近くというか、二条駅の近くにある、
あのビビ二条っていう建物、ショッピングモールみたいなところの中にある枯れ山水とかが、こう床に通路のとこなってるようなすごい立派な東方シネマズなんですけど、
そこで見終わって、ナイターだったんで、もう終わりしまる、閉まってて、周りのショッピングモールの中のショップが閉まってたんだけど、
なんかわかんないけど、ショッピングモールを一周して出た記憶がありますね。
全然感想じゃないんだけど、なんか国宝の感想を噛み締める感じずっと、そういう映画だったなぁと思います。
なんか私個人としては、すごい話題作を見に行くとか、名作名作言われているものを見に行くことに、
なんかこう、自分がその名作と思えなかったらとか、感動しなかったらどうしようっていう不安が結構つきまとうから、見に行かないタイプなんですけど、
国宝はその告知、CM的なものはほぼない状態のSNSの声だけで広まって、
で、そのSNSの声が、私が見た7月ぐらいはそんなにネタバレが多かったわけじゃないから、なんかすごい興味そそられて、
まあ単純な、本当に珍しくて、自分もそうやって話題作者に構えてみたいな理由と、
まあ話題なのに自分が理解できなかったらどうしようの不安等の情報で見に行けないタイプなんだけど、
国宝に関してはそれを飛び越えてきた部分が大きくて、それで見に行って、それで良い日にしたてたので、
で、なんか映画体験としてすごい良いものだったなぁっていう記憶があります。
で、その評判が広まった上で国宝を見て、それで楽しかったっていうこの映画体験がすごい良かったっていうのがあって、
でもなんかその日も、あー読んじゃったなーっていう余韻もありながら晩酌をしました。みかんの、みかんピールと片手に、なんだっけあれ、なんかお酒を飲みました。
本当は焼肉が食べたかったなってずっと思ってましたね。はい。一人焼肉行こうかな。どんぐらいお金かかるんだろう。なんか全然その焼肉の流儀みたいなのがわかってなくて、1回も行ったことがないようなレベル。
多分親とかとは言ってるんでしょうけど、記憶がないので、なんかカルビーはいつ食べて、まずはタンから食べなきゃいけなくてとか、なんかタンは塩だとか、タレだとか、そういうの本当にわかんないので、
なんかなんか全然その焼肉ってどんななのかなレベルの人が一人でまず行けるものじゃないなって思って行けないって言うんですけど、
知り合いに最近一人焼肉行った人がいて、どんななんですかって話題になったりしながら、なんか本当にすごい食欲の映画であり、本であり、その場その場の感覚が大好きになる映画であり、小説でありって感じでした。
この主人公が、焼肉擬人化漫画Meat is Mineを声なく愛する婦女子のゆかり、恋愛経験ゼロで人生2度目の高校も失敗したかえり、新宿歌舞伎町で美しいキャバ女ライと出会う。
で、もうこれだけなんですよ。正直、この映画もこの小説も出会うだけ、なんかそっからまあ展開あるんですけど、もう出会ったことが全てというか、出会ったおかげでこの世界の広さをどんどん知っていくんですよ、ゆかりは。
まあその、婦女子だから、オタクだから世界を知らなかったとかいう感じで、まあ小説もまあまあ進んではいて、でもなんとなく自分の立ち位置とかはよくわかってるんですよ、この主人公のゆかり、杉崎花演じるゆかりは。
自分はこのレベルでこういう感じで、で、婦女子であることをアウティングしたらこうなるだろう、みたいなところまではわかって、なんかこう、世界はこう、で、小説、映画じゃやっぱり足りなかったなって思うのが、小説はずっとゆかり目線だけで進んでいって、で、すごいゆかりの頭の中が小説で書かれるんですね。
映画を見てから小説を読んだので、映画見てた時には本当にゆかりはオタクの子で、オタクというか婦女子で、なんか会話中にもそのミートイズマインのキャラクターがこう、ぽわぽわぽわって浮き上がってきちゃって、会話があんまり噛み合わないみたいな描写が何回か出てきたりとか、
自分を鼓舞する時もミートイズマインが出てきてとか、そういうシーンが結構あって、なんか自分がない子なのかなって、なんか見えたりもしたんですね、映画だと。
でも小説はゆかりが主人公でずっとしてもゆかりのまま動かないので、ぽわぽわぽわってそのミートイズマインが会話中に出てくるみたいな、もちろん小説だとそんな風には書けないような気もするんで出てこないっていうのもあるんですけど、
なんかもっとすごくいろいろ考えていて、まあ小説のナレーションも語りも、まあ進行も全部ゆかりがやってて、頭の中のゆかりもちゃんと書かれていて、
なんかこの時ここで思ってたのはゆかりこんなだったんだとか、本当はもっとこう解釈がブワーッと広がって、ゆかりの解釈がブワーッと広がっていたシーンだったんだとかが、小説読むことでわかって、なんかグーッとなってました。
その歌舞伎町で出会ったキャバ嬢のライに対しても、スカラサキーでライの友達として出会うホストのアサヒンに対しても、その2人がよく行っていた静寂っていうバーのおシーンに対しても、
映画だとそこにいる設定になってたユキっていう女性に対しても、映画だとその本当にゆかりの頭の中のおしゃべりは出てこなくて、だからただただ、まあ冒頭でそういう作品だったみたいにも言ったけど、ただただ歌舞伎町のキャバ嬢のライと出会って奇跡的に。
で、そこからゆかりの世界が行動的になった、広がっていったみたいな映画だって。
で、このいろんな登場人物たちに、歌舞伎町の人物たちに対して、ある意味巻き込まれていってる感もありながら、って感じてたんだけど。
でも小説を読んだら、その巻き込まれていってる感っていうよりかは、出会って何を思ったかがわーっと書かれてて、その映画ではミッドイズマインのカップリングがパーパーパーってなっちゃうんですけど、
それというよりかは、ごめん、語弊があるかもしれないけど、なんかこう、オタク特有の、というかその、そういう、難しい、オタク特有の内省癖というか、
まあそういう観点がすごいちゃんと小説だと書かれてて、出会って、巻き込まれてはいるんだけど、今までの自分じゃ考えられなくてキャパオーバーだなっていう、そのキャパオーバーさがすごい書かれてて、小説だと。
それが良くて。でも映画でもその、なんだろう、キャパオーバーで、みたいなところはすごい伝わるし、でもなんか、なんでここまでこう、ライ達に対して執着していくのか、ただただ見えない世界が見えていったからっていう理由だけなんだけど、小説でもまあそれだけっちゃそれだけなんですけど、
小説の方がこう、より、まあでもこれ映画ありきじゃないと私は多分難しかったなとは思うから、まあどっちの優劣とかなくて、なんかこうどっちも見て読んだ上で、この行動ああいう思考になってたんだとか色々わかって、めっちゃ楽しい。
これも一個の映画と読書の体験だったなと思ってて、なんかすごい登場人物、というかカタカナの登場人物、全員好きになるなーっていう感じです。
さっき多分ユカリの主人公の紹介しかしてないけど、キャパ城のライは私はこの世界から消えなきゃいけない、そういうギフト、ギフテッドだっていう感じで、まあ生活をしているわけで、たまたまのきっかけでユカリと出会って、
ユカリはそんな、消えるギフトだって言い張るライに、綺麗だからっていう理由だけで生きててほしい、生きてなきゃ、みたいに最初はずっと言ってるんですよ。
これ映画で見た時も、なんかすごい思った違和感というか、なんかなんでキャパ城をやってるのかは問い詰めないんですね。
生きてなきゃダメだとは言うんですけど、なんかそれ、なんかこの穿った見方なんだろうなって自分はすごい反省した部分でもありつつ、キャパ城なんかやってるからだろうとか、なんかそのね、今までどういうことして過ごしてきたのとか、そういうのはほぼ聞かなくてユカリちゃん、なんかね、そこが東京やなーってめっちゃ思ってました。
で、それは小説では、なんかこういうこと言っては本当に消えてしまうんじゃないかということで、一歩踏み込めなかったみたいな部分はあと書かれてはいるんですけど、なんだろう、自分のに反省をさせられた部分ですごいあって、
で、だからずっとその、なんでこうなったのか、なんかどうしてとか、どうしてキャパ城やってるんだとか、キャパ城やってるからじゃないのかとか、そういうこう思っちゃったりとか、こう、ある意味一般的な眼鏡をかけてしまっていることに、なんかこう、自覚をだんだんさせられていくんですよ、この、ずっとこう、なんか大事なところ聞いてないような感じで進む話を見ていると。
うわーって思っていたら、そのさっきちらっと言った、静寂っていうお寺の経営する場によく来ている、映画ではね、小説ではちょっと違うんですけど、まあよく来てるユキっていう女性と、まあユカリがこう、その朝日の紹介で出会うんですけど、で、このユキの話になって、で、ユキがこう打ち上げたこと。
まあユキも、ユキは40歳いかないぐらいなのかな。で、若い時は、まあ、雷みたいにではないんだけど厳密に言えば、ユキは死にたかったって言うんですよ。
雷はこの世から消えなきゃいけないっていう、死にたいとは言わないっちゃ言わないっていう、そのなんか微妙な違いがあるんですけど、ユキはその若い時の死にたさの話をずっと知ってくれて、
そんなきっかけで、それに対してはユカリはどうしてって聞くんですね。で、まあいろいろ聞いて、いろいろ感情的になって、でもユキは淡々と喋ってみたいな。
で、なんかそのシーンは、なんかこう、何もこう、映画ではなんというかこの無言の間というか、そういうのでなんかこうグッとくるものがあって、やっぱ印象的だったんですよ。ユキは青井優さんが映画では演じてて、
とにかくこのユキという女性の、あの雰囲気というかあの感じ、そしてあのなんというか無言ではないんだけど、この演技がわーってなってて、まあ映画でもこのシーンはすごい重要なシーンだとは思ったんだけど、
小説でこのシーン読んだ時に、まあ映画ではそんな詳しくは書かれてなかったけど、とにかく重要なシーンであることは変わりなくて、そこで感情が、主人公ユカリの感情が大きく変わったっていうのをグッとこの静かな感じでこう受け止めざるを得ないシーンで、
これ小説で読んだらユカリの頭の中でいっぱいいろんなことを考えてて、でこの考えている部分の描写というかが、そのずっと持ってた違和感、なんでライはキャバ状なの?とか聞きたくなるこの一般的なというかこの感性、バイアスというか、
にすごい釘を刺してくるんですよ。この、だからユカリはいろんな人と、歌舞伎町のいろんな人と出会うことによってユキのその行動に対しての頭の中でいろんなことを考えてて、
これ考えなきゃいけないことだよなーっていう風になるっていうか、なんかちょっとだけ、なんかもう読み終わったんだけど、ここの部分にしおり挟んでて、ちょっとだけ読むと、
ユキの自分らしさ、個性とはまさに不幸であることなのではないだろうか。