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2025-10-17 15:20

明治大学平和教育登戸研究所資料館

展示されていた風船爆弾の模型

 

サマリー

明治大学平和教育登戸研究所資料館は、戦前の軍の研究施設であった登戸研究所を基にしており、当時の研究実態が展示されている。資料館では、科学研究の歴史を振り返るとともに、新しい兵器の研究についても解説されており、特に風船爆弾の研究成果が注目されている。この資料館では、戦争の加害者側の視点から展示が行われており、歴史を掘り下げるための高校生たちの取り組みを通じて、その存在意義が示されている。

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こんにちは、ninjinkunです。 また別の博物館に行ってきまして、昨日は
資料館の歴史と目的
明治大学平和教育登戸研究所資料館に行ってきました。 これは前もNTT資料館の回とかで
お話ししたのと同じ、友人のチョヨンゴが休暇中に行ってきてよかった
博物館シリーズの中から一つ、私も紹介されてきてきたんですけど、 ここはですね
戦前に作られた軍の研究施設、登戸研究所というところの
遺構というか、残った建物を利用して、当時の研究の実態を展示している資料館になっています。
明治大学がこれを展示している理由は、もともとここは軍の施設だった1930年代から
その後、この跡地を最初は慶応大学が借りて、その後で明治大学が買って、
今の明治大学のイクタキャンパスになっているという経緯があって、
当時の建物とかもそのまま丸っと転移をして、 もともとそういう科学系の研究をしている設備とかがあったので、
それを使って、農学部の設備として、さらにそこに他の学部も読んできて、今のキャンパスになっていますという感じで。
それをずっと使っていたんですけど、その後おそらく80年代から割といろんな周囲の人たちとか、
平和市民運動みたいなものが盛り上がった時代があって、おそらくこれが私が前、ピース大阪で見た各地の平和記念宣言みたいなものに繋がった時代だと思うんですけど、
そういう市民運動が盛り上がって、農技との跡を何とかして残せないかということで、
明治大学と一緒にこの資料館を作ったという感じっぽいですね。
ここ自体は2010年に開館しているという、割と比較的新しい資料館になります。
この中では、実際どういう研究がされたかということが中心になって展示されていて、
私が行った時はたまたま、当時の歴史の研究員の方が、当時の歴史を研究している若手の人だと思います。
高齢の方々のグループ向けに解説をしているところがあって、そこにピッと混ざって、後ろで聞いていたんですけど、
そこで色々解説を聞くことができて面白くて、
風船爆弾の研究
主に3つぐらいの課があったのかな、大規模な研究所で1000人ぐらい働いていたので、でかいところがあったんですけど、
その中で主に、新しい兵器を研究しているグループと、
重砲活動を研究しているグループと、
二戦発の研究をしているグループというのが3つあって、それぞれにフィーチャーされているんですけど、
兵器の方では風船爆弾というのがすごくフィーチャーされていて、
これ私の名前だけは知っていたんですけど、どういうものかとか、実際にどんな効果があったかとかは全然知らなくて、
どっちかというと、後頭無形な白物だと思ったんですけど、
実際にこれが研究されて、気球に爆弾をつけて、この気球もかなり大きくて、
そこに10分の1の模型があったんですけど、それでも結構大きかったので、相当大きな気球を1万個も作って、
実際に米国本土に10%は到達したらしいということになっていて、
要するに日本が劣勢なので、米国本土に直接攻撃を加えて、
向こうに心理的なダメージを与えようと、もっと遠征気分を盛り上げようという目的で作られた、なかなかすごい発想ですよね。
日本から太平洋を越えて米国本土を攻撃しようという、今でいう弾道ミサイルみたいな発想の兵器なんですけど、
これは本当にそんなことが可能なのかと思ったんですけど、実際にちゃんと10%も到達したというのはなかなかすごいくて、
仕組みとしては、日本とアメリカの間にはジェット気流が流れていて、
これは我々も飛行機に乗るときに体感できて、日本からアメリカに行くときはすごく早く行けるけど、帰りは1時間ぐらい遅くなるんですよね。
それで実際気流があることが、我々と体感的にも分かっているんですけど、
これを使って日本から気球を上げて、途中にバラスト重りを積んでいるんですよね。
これで高度が下がってきたのを検知して、このバラストを適宜捨てることで高度を維持するという仕組みが入っていて、
もちろんコンピューター的な仕組みはゼロなんで、全部機械式な感じで行われているんですけど、
一部電気的な部分が用いられている部分もあるんですけど、それが非常にメカニカルな仕組みで実現されていて、
それによってアメリカ本土まで行くと。
最後は爆弾を下に投下して、本体は自爆してなくなると。
これは機密保持のためらしいです。という凄まじい仕組みですね。
どうやって最後の爆弾投下をやるのかはよく分からなかったんですけど、
ちゃんと見ていると、おそらく気球の向こうに到達するまでの時間を計算して、
もしかして何かしら仕組みがあるのかなという感じがしましたね。
あと多分、届きさえすればいいという精密的な射撃というか、爆撃は無理だということは最初から分かったと思うので、
おそらく大まかにアメリカ本土の上空まで到達したら、何かしら行うような仕組みになったんじゃないかなと私は推察します。
その詳細は分からなかったです。
とにかく到達しました。
実際の戦果はというと、気の毒なアメリカの米国市民を6人殺したという戦果があるのが一番それだけで、
あとは送電網に引っかかって一撃送電を止めたというのが目立った戦果であるということらしいです。
人が死んでいますので、それを本当に気の毒というほうがないんですけど、
それも爆撃のせいかというよりは、下に落ちた爆弾を、この風船爆弾が落とした爆弾が風発で、
これ何だろうというふうに触った子供が亡くなったという、それはそれで痛ましいことではあるんですけど、
それで子供を置くとそれに巻き込まれた大人が亡くなったという感じで、
もともと狙っていた軍事的な攻撃としての意味はほとんどなかったというふうに言えるんじゃないかなと思います。
ちなみに送電網を止めたのはどうもウランの濃縮やったところの施設をしばらく止めて、
それによって原爆投下が2、3日遅れた効果があったのではないかと言われているという説があるらしいですけど、
説があるレベルっぽいですね。
という感じで日本軍は陸軍に相当なお金を投じて、何しろでかい飛機を1万個も作っていますので飛ばしたらしいんですけど、
言うほどの戦果はなかったと言えるんじゃないかなと思います。
こんなものにすごくお金を投じてしまうということ自体がなかなか当時の兵器的な感じを物語っていると思いますけど、
根気球は和紙で作られていて、和紙は国内調達できるし結構丈夫だからというふうに使われて、
さらにこの和紙を張り合わせるためにこんにゃく糊というのが使われて、
このために全国の家庭からこんにゃくが一時期消えたということですね。
それ時代は聞くと面白いだけの話みたいに聞こえますけど、
これを全国の軍事工場で生産して、何しろ1万機ですからね、
作って勤労学生たちがこれをこしらえて打ち上げたということらしいです。
奇抜な兵器の発展
他にもこの川はなかなか奇抜な兵器をいろいろ作って、
マイクロウェーブですね、電子レンジと同じ仕組みでこれを人に当てて殺せないかという実験をしていて、
小さな動物なら殺せたけど人体に有効なところまでいかなかったとかね、
なんで戦前の日本の兵器研究がこんなに奇妙なものばっかりなのかみたいな解説もちょっとあって、
結論はよく分からなかったんですけど、
相手に直接害を与えたいという方になぜか特化していったみたいなことが書かれてて、
そうかという感じですね。
今から思うと見ると若干トンデモ感はあるんですけど、
当時の人たちは真面目に研究していたらしいし、
この研究所自体は給料もいいし、
非常にちゃんとバックグラウンドチェックが行われて選ばれた人しか入れなかったんで、
しかも入ると徴兵に取られないということで、
かなり人気がある研究所だったらしいです。
さっき言った通り最小規模は1000人働いていて、
今の明治大学のキャンパスの2倍の広さがあったという解説でした。
この資料館は、
普通の日本にあるいろんな戦争の資料館というのは被害者側からの展示が多いけど、
ここは加害者側からの展示になっているのが特徴ですということで、
確かにそういうのってあまり見ていないので、なるほどなという感じでしたね。
あとはその重宝に使われたスパイ道具みたいなものを実際に作っていて、
相手に刺すと毒が回って死ぬペンとか、
ライター型カメラとか、まさに映画の世界みたいなことをやっていたり、
あとは偽札を作って、
特に日中戦争の時に中国の経済を混乱させようという意図で、
頑張ってその偽札を作って、
しかしその偽札作りはかなり難航して、
イギリスとアメリカの技術で作られていたおかげで、
その中国の紙幣が、それをコピーするのは大変だった。
しかしコピーに成功してうまく作れたと思ったら、
中国がめちゃくちゃインフレになってしまって、
作ったお札の価値がどんどん下がってしまったというね、
なので実質的な効果はあまりなかったみたいなことが展示されていて、
今から見ると全てが割と裏目に出たというか、
結果君とそんなに効果はなかったように見えるというね、
感じの悲哀を感じました。
高校生たちの取り組みと資料館の成り立ち
あとはどういうふうにしてこの研究所の資料館ができたかというストーリーも語られていて、
これはすごく興味深かった、良かったですね。
80年代の時に、
高校生たちがこの学園さんに展示するために、
この研究所のことに興味を持って調べ始めて、
そこで2つの高校、
この川崎市にある、
何だっけな、
高校の研究所に行って、
その研究所に行って、
大学の法政大学の高校、
法政大学2校という高校と、
あとは長野県のこの研究所が疎開先に
長野県に行っていたんですけど、
戦中疎開で、その時の疎開先の高校の生徒たちが、
両方が同じ時代にこの研究所に興味を持って、
その生き残りの人たちに話を聞いていって、
その結果、なかなか当時は喋ってくれなかった人たちが、
高校生たちをついにフォアされて、
君たちなら喋ってもいいということで、
喋り始めて、実態が明らかになっていたと。
そういう感じで、80年代に入ってから、
実際の何が研究されたかが明らかになっていた。
今の資料館になっていますということが語られていて、
そのストーリーもすごく興味深かったし、
そういうことがちゃんと当時の人のインタビューで、
ドキュメンタリーにまとまっていて、実際に映像も入れましたので、
それも良かったですね。
というわけで、結構喋りましたけど、
神奈川県にあります、
これは小田急小田原線で、
生田という駅で、降りると歩いて入れます。
明治大学のコーナーにある、
明治大学平和教育のぼりと研究所資料館に行ってきました。
誰でも無料で入れるみたいです。
ただ、水木金土だけ営業かな、
日数は限られているので、そこだけ要注意ですけど、
という感じですね。
久しぶりに大学の感じが味わえたのも良かったですね。
大学生ってこんな感じだったなっていうのを横目に見ながら、
資料館まで歩くことができました。
というわけで、ありがとうございました。
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