泉京佳と夢の分野
イタラジのお時間がやってまいりました。今日は、文学における現実と夢という題材からお話ししていきたいと思います。
一つ注意していただきたいのは、この現実と夢というのを、例えば、幻想性と現実性といったような言葉で表現してもいいのでありましょうけれども、
これは、現実と夢というより直載的な形で言わらすことによって、より単純に図式的に、
そういったことを言い表していきたいと思っております。
これを論じられるのは、日本の文学者の様々な人名が出てきますけれども、あくまで一個人の意見です。
何ら学問的だとか、実証的だとか、理論的だとか、そういうところはありませんので、皆さんもお暇のときの聞き流しというか、片手間に聞いていただければと思います。
私、思いますに、現実というのは、私が生きている現実、これですけれども、そして夢というのは、枕の上で見るという、寝ているときに見る夢、現実とは到底言えないようなことの集積、あるいは現実の断片が、
有名的な論理で包み重なった、組み合わされた、使い方を海外の文学者で言うなら、カフカフ、
文化のような作家、そういう作家が、カフカフや、ある種のドストエフスキーのある種の部分に代表されるような、無限的な部分、それが夢という世界というふうにしますと、我々日本文学、我が国の日本文学において、
それらの流れがどのように続いてきたかということを、
考えていきたいと思うんですけれども、
私、ここで当初予定していなかった人名をまず出したいと思いますけれども、
泉京佳という作家がいますけれども、この泉京佳という作家はですね、一般的には、まさに夢の分野で、夢の原理で、
文学を網羅した作家ということができるのかもしれませんけれども、しかし、これから名前が出てきますけれども、後にも、
三島幸男が言っている、
あの、
泉京佳の持っている、
文学の力というのは、非常に強大なものがあって、
もちろん、淡い、
過疎劇、
過疎劇、世界を表すような文学にもかかわらず、やはり、一種の、
幻想の世界、有限な境地を見せることを、その文体と叙述と、
あらゆるレトリックを駆使して、
書いている作家ですので、
泉京佳に、京風記という、京風記じゃないな、京風記は石川順でございまして、
風流船という長編小説がございます。
これは、俗風流船と合わせまして、一つの作品と見なしてよろしいんですけれども、
大長編小説、風流船というのを、読んだときに、ふと思ったんですけれども、
これは非常に、いわゆる昭和の作家らが、
目指した、昭和後期などの作家を目指した、
全体小説というものに近い、これはある意味で、私は、これが理想形ではないのか、全体小説の、
つまり、社会を描く、人の心理を描く、それらすべてを補括して描く、
そういう夢と現実を一緒に合わせたような、巨大な作品、
こういうものがあるのではないかと、もちろん、私個人として思ったのではないかと思います。
これは何を意味するかというと、つまり、
泉鏡花の場合は、夢の立場から現実を包括してしまったという、
夢の立場から現実を見て、
そして、あくまで夢の立場に立ちつつも、ロマンを交えつつも、
現実を描いてしまった、社会を描いてしまった、
そういう泉鏡花という作家、巨大な作家ですけれども、
そういうことが言えるのではないかと、
思いました。
夏目漱石の現実凝視
そして、同時代と言っていいと思うんですけれども、
ここに夏目漱石という、我らが夏目漱石、
いわゆる近代文学の大文豪と言われるような作家がいらっしゃいますけれども、
この夏目漱石はまた、夢の立場も踏まえつつも、やはりあくまで現実の世界を
凝視しようとして、進化していった作家ではないかと、思うのでございます。
私は、夏目漱石という作家は、子供の頃から少し読んで思いましたけれども、
だんだん作品が進むごとに、新規臭くなっていくような、
なんとなくの感じがしたしまして、しばらく読むのをよしていたんですけれども、
しかし、それに関わらず、夏目漱石という存在は、
日増しに大きくなるというよりは、何かわかるような気がする。
その深刻さにも、何か読み取るべきものがあるのではないか。
もちろん、深刻さに読み取るべきものがあるというのは、
日本文学の良き悪しきにつけ、良きにつけ悪しきにつけ伝統であり、
また、それが自然主義文学の勃興などとも、流星などとも、
変わってくるのではないかとも思うんですけれども、
しかし、夏目漱石という作家の凝視しようとしていたもの、
俗に言う人間の自意識とか、エゴ泉とかいうもの、
もっと違う人のような儚さとか、人間の性のどうしようもなさというか、
そういうものとすれば、夏目漱石というのは、
現実をあくまで凝視した作家と言えると思いますけれども、
この夏目漱石という、これもまた泉京華に勝ると思っておらないような大作家が、
明治に大正と生きたのでございますけれども、
これらの作家の、
現実、夢、こういうものの格闘、こういうものに対する共感、
こういうものに対する端的、こういうものがどう変化していくのか、
それを考えいきたいと、語りながら考えきっていきたいと思っております。
私は、個人的には、太宰治という作家には、
生堅い文学臭さというものを感じないことでございます。
もちろん、そう感じる方も、それを感じる方もいらっしゃるかもしれません。
私は太宰治という作家は、とても巨大な作家であると同時に、
何か楽しめるという、ただ単に純粋に楽しめるという、そういう作家でございまして、
才能のある面白い小説を書く人だという印象が常にありまして、
私は太宰治という作家を非常に尊敬しているのですが、
しかし、この太宰治という作家は、非常にその面白さより難しい、
文学的に読むことが難しい部分があるのではないかと、私は思っております。
つまりそれは、よく対比される三島由紀ような、
ちょっといざこざのあった志賀直哉や、
また違った難しさがある、非常に難しい、
それは何かベールに包まれているような、
我々が追いすがろうとすると、やはり笑いと自虐の中に隠されてしまうような、
そういった神秘性が太宰治にあると思います。
そういう宗教性、そういう神秘性、そういう倒戒さがあると思います。
これは太宰治だけでなく、新下作家、つまり浦江派の文学者にも一種言えることかと思いますけれども、
石川淳の『狂風記』を見ましたとき、やはり私は面白いと思うと同時に、
浦江派と現実逆転の文学
この面白さ、この上手さ、この娯楽性、この文学性、これは何か途方もないものがあると、
こう思ったときに、やはりそこに太宰治の影を感じるのであります。
太宰治がもし生きていたら、どんな作品を描いていたか。
もしかしたら、途方もない作品を描いていたかもしれない。
人間失格や社養異常の作品を描いていたかもしれない。
いや、まずそれは間違いないだろうと、そういう石川淳たちの思いを感じるところもあるのでございますけれども、
浦江派、浦江派のもう一つの流れに、
やはり志賀直哉の流れを継ぐ、
横光理一、森淳、小島信夫らの、
これはむしろ現実ありきの、そして夢に遊ぶかのような、
まず現実、私、小説的な現実です、あるかもしれませんけれども、
そういったものからのアプローチ、こういったものがあると思います。
もちろん、浦江派の現実というのは、あくまで浦江派も現実の文学とみれば、
浦江派の文学も、やはり現実を見るのですけれども、そこに見ているものが違う。
やはり浦江派の文学がどこか、性と俗を逆転させるということ、
俗を性に変え、性を俗に変え、
きれいは汚い、汚いはきれいという、マクベスの魔女の言葉を引くまでもなく、
そういった浦江派の文学を、
文学世界、これを、ある種のディストピア、ユートピア、これを権限制しめるという、
狙いを根底に、価値逆転の狙いを根底に含んでいるものだと思いますけれども、
やはり、志賀直哉や、志賀直哉の現実的な生活のスタイルや、
また横光理一が、大日本帝国において、太平洋戦争において、
戦争協力をしたという話や、
森安氏が戦後、放浪したという話や、
児島信夫が、陸軍の情報隊に入っていて、
戦後は、まあ、和訳小説のような、創作のような、和訳小説ではないような、独特の文学世界を築いたといったような、そういうことを見ますに、
やはり、この志賀、横光理一、森、児島ら、後藤明星も入れてもいいかもしれませんが、
非常に我々に、我々に何か、日常的に、いわゆる人生というものを語りかけてくる文学、
こういった、価値逆転というよりは、その価値の奥にある闇の部分、深い部分を、また夢の世界と接続させようとするような、そういった無意識的な文学、そういったものに思うのであります。
こういった、志賀直哉やら、
プライ派の流れ、こういったものに、また関係してくる文学者、それは大江健三郎であります。
大江健三郎は、本人の知質を、私は考えますに、大江健三郎自身の本当の知質は、有名な文学者、つまり現実を描くというよりは、やはりどうしようもない、
どうしようもなく、イマジナリーな、イマジネーションな、ビジュアリーな、
文学者であると、私は考えております。
それは、自ら我が涙を拭いたまう日などを読んで、非常に感銘を受けた、その思いが、そう言わせているのでありますけれども、私の。
大江健三郎は、しかし、その文学的思想裏腹に、その生活、人生態度においては、人生設計においては、現実重視、やはり生活を重視する生き方を、
どうするかという、偶像的な生き方を模索、創造、創作にも、その力を導入したという、これは、三島由紀夫に批判された部分なのかもしれませんけれども。
しかし、私は、大江健三郎のすべての作品を読んでいるわけでもないし、また、そこまでの興味はないのでございます。
というのは、つまり、私は、その、
夢の資質を持った作家が、現実を重視する、その、
日本文学の特徴
夢の資質を持った作家が、現実を重視する、その、
夢の資質を持った作家が、現実を重視していくほど、私は、何かもったいないことはないという感じがいたしまして、
すごく、私は、そこは、非常に何か惜しい気持ちになっているんですけれども。
というのは、つまり、日本文学というものの、というか、日本人というものの本質が、やはり、どこか夢見がちで、しかし、実理的であるという民族、
本質的には、夢見がちなロマンチックな部分もありつつも、やはり、この、
ロマンチックな部分もありつつも、やはり、行動によっては、実理的、現実的なものを持つ、行動する人種。
人種といっては、あれですね。
民族というか、そういう文化構造。
文化、文化こそを持っている、物立ち。人々。
ですから、それは、別に日本に住んでいなく、日本で生まれていなくたって、そういう人がいれば、
それは、ある意味でシンパシーがある、あるのかも知れません。
それは、ある意味でシンパシーがある、あるのかもしれません。
あるのかもしれません
そういう日本的なものに
そういうことはあるのかもしれませんけど
そういうものに典型的に
コミットしているような気がして
つながっているような気がして
私はあまり興味が逆に持てないですね
しかしもちろん
それによって生まれてくるものもありますし
夢を夢見る人間が
現実を見ていくということに
つまりそれはドン・キホート的な
ものであるかもしれないし
その逆かもしれませんけど
そういう道を
生きていく
それは
どういうことなのかというと
極めて日本人的だということに
私は解消してしまうんですけど
それは大井健三郎だけではなく
流行作家の村上春樹
村上春樹も
夢を表現することしか
いやにこそ
その進化がある
作家なんでございますけれども
村上春樹は大井健三郎よりも
いくつか見てきましたけれども
やはり現実に
何か照準を合わせて
現実を生きていくという風に
変化していくこの態度
日本人的態度
これは私は非常に
もったいない気がするんですけども
しかしこれを喜ぶ人もいると思います
つまりどんどん進化していくという
でも私はそうは思いません
それは彼らの変化
進化というよりは
プログレッシブというよりは
もちろん彼女たちも
進化しなくてもいいのですけれども
現実的になっていく過程の変化であって
我々の未知のものから
既視のものへと変化していく
新たに土地を開くというよりは
その土地を開墾して米を植えるという
米を育てる
田畑にして
そういう極めて土着的な
何というか
腰を据える文学
そういう
もちろんその重厚さとかは関係なく
その土地
日本という土地に腰を据えていく
日本化していく文学という感じが
いたします
それは別に
考えが日本主義であるとか
そういうことでは全然なく
その型が
スタイルが日本主義だということですね
日本的だということです
これは夢と現実のパラドックスの中で
非常に難しいところでありまして
夏目漱石は
そこをうまく渡ったような気がいたします
つまり
ロマン主義的な部分を持ちつつも
現実を強視した
しかしそのアイバランスは日本すらも
冷然と眺めている
それは三四郎などを見ましても
それでありますけど
それからを見てもそうです
心を見てもいろいろな作品を見ても
やはり日本にも落ち着けないような
西洋にも落ち着けない
そういうものの人間の作画というもの
夏目漱石はうまく生きた
しかし今あまりにも早く
49歳で亡くなったので
あまりにも文学が未完に終わった
しかしその未完が偉大なあるである
というところがあると思います
これはドストイスキーなどもそうですけど
未完成の凄さという
弱さというものがあります
こういう作家たち
誠に世界文学
たりロシア文学
日本文学であるという
その土着でもあるという
そういうもの
こういうものがナショナルであり
インターナショナルであるというもの
グローバルであり
ローガルであるというものが
こういうもの
文学者というのはなかなか
稀に見るものであります
今まで太宰治や
今よるプライ派や
安倍公保の作品世界
私小説作家
私小説作家
そして売れっ子作家というような
流れを見てきましたけど
ここで私が問題としたいというか
語ってみたいのが
安倍公保という作家ですね
安倍公保という作家は
まるで一見
こう夢の中にいるような
イルカのような
夢の論理のような
まあカフカ的とよく言われるような
実音的雰囲気の中で
展開される話を
小説を書いている作家ですけれど
しかしやはりよく見ていくと
彼の文学というか
事故と現実
そして他者の愛憎を
そして他者の愛憎を
取り持つ素材として
夢というものを選んだ
という
部分がある
思われます
つまり
彼はあくまで現実を見た作家であり
現実の作家である
素材として夢という
夢の論理を選んだ
夢というフィールドを選んだ
これは泉京からの
無限的にロマンチックな世界的世界を
構築する作家とは
質的に違うものです
これは非常に
興味深い現象でございまして
この阿部康夫という作家は
日本でも数少ない
真にシュルレアリズム的な
つまり現実を超現実的に見る
精細に
超目を凝らして現実を見る
それによって夢的な世界が
そこに顕現するという
ビジョンをしてしまう
こういった資質を持った作家が
こういった資質を持った作家が
こういった資質を持った作家が
そういう仕事をした作家だと
私は思われるのです
これはもちろん
羽根谷豊や石川淳らの
君遁ありということですけれども
その羽根谷豊や石川淳ら自体も
やはり現実をあくまで直視し
その思考によって
その考えによって
考えに考えることによって
その現実を
羽根豊が抽象的な世界を
石川淳は見たての世界を構築したと
そういったパロディ的な世界を構築したという
そういった分があると思われますけれども
これは非常に
安倍公暴の血肉となって
彼の資質に寄与したのではないかと
思われるのであります
三島由紀夫の作品世界
ここで
安倍公暴と好一対を成すものが
やはりこれは事故と夢をつなぐ素材として 現実に他者を求めた三島由紀夫でございます
三島由紀夫は大井健三郎や村上春樹と同じく 明らかに夢を描くのに適した資質を持って作る
夢を描くことにこそ真骨頂がある
それは遺作の法上の海という作品を読んでいる
これは描きたかったという作品の法上の海のように 分かるのではないかと
ああいった現実否定
あそこまでの徹底した現実否定というのは あまりないんですけど
そういった文学者でございます
彼は大井や村上のように道は誤らなかったと言うと 伊佐坂小平がございます
一緒に
三島由紀夫はあくまで現実と夢との二項対立に 悩むことはなかったと私は思いたいのです
つまりもちろん政治構造などはありますけれど
晩年の政治構造や言説などはありますが
しかしあくまで彼の思いを持っていたのは夢の世界 生きていたのは夢の世界だというふうに仮定した
特に文学の世界で言います
文学の世界においては 文学は儚くか弱く移ろいやすいものだと言う
彼の精明なものだと言う彼の文学観をどこかで語っておりますけれど
これは安倍公保とはまた違った
つまり安倍公保は現実を直視し夢を選んだのにも関わらず
三島由紀夫は夢を見るために現実に他者を求めたのだと思います
私はそう思います
現実を描くことで他者を作り出す
彼の夢見る力によって
そういうふうに私は三島由紀夫を思います
夢の作家だと思います
そして彼らは彼はやはり非常に彼らが三島由紀夫が英雄英英賢三郎や三河春樹に影響を与えたと言われるのは
やはり彼が夢の世界を生ききってしまった
つまり夢の世界に行き着く先は夢から覚めることでございますから
しかし彼は夢の世界に生きるものですから
つまり夢から覚めるということは死であります
つまり死んでしまったと
そういった文学的あくまで解釈の一つにすぎませんけど
そういった死を死の道を走った
死の道を歩いた
そういった状況
これが非常に大山中美にとって生き方として驚異を与えた
彼らが現実を重視する生き方に変わってしまった
ジョギングしたり水泳したりする
そういう生き方に変わってしまった
あくまで死ぬためのボディービルではなく
政治活動で縦の階などではなくて
そういう
彼らの異常さを
覆い隠すような生き方を選ぶようになってくる
これは彼らの
ある意味で異類としての宿泊でございますけど
釈迦でございますけど
そういう狡猾さも必要であるかという
そういうことはありますけど
日本文学の夢と現実の狭間
非常に私はそれをなかなか
じくじたる思いで考えているのがあります
つまりそれはまだ日本人というか
つまりそれはまだ日本人というか
現代的なのがありますね
先人を見るというか
先人になろうというのは
先人のことをやるのであって
先人を見て振り直すということですけど
そういうことを考えるのであります
これは非常に悲惨的だと思います
一方で阿部広報は
そういった
現実の作家でございますから
現実を直視する
そして夢で紡ぐ作家でございますから
あるとしても
それは彼の本質的な危機的な問題ではないと思います
彼はもっと違った問題を考えていたのだと思います
それは彼の白仏の後を見ると
非常に今でも
今でもアクチュアルな作品
こういうものを書いた阿部広報は
誠に非常に稀な作家だったと
日本文学において
非常に大きな影響を受けたと思います
私は思いますけれど
このように現実と夢の文学という面から
彼らの構図を見ていくと
やはり微妙に
それらが相交わり屈折し反射し
そして結合し
いろいろな形態を帯びていく
この過程が非常に面白い
面白いと言ったら彼らも本気ですからなんですけども
非常に面白いというか
非常に興味深いものになっていると私は思います
そしてここで我々はまた夏目漱石に戻ってきたいと思うのであります
夏目漱石は夢十夜という作品を登しましたけれど
この夢十夜という作品の中に
我々日本文学の夢が凝縮されているというふうに
私は考えています
十話の中に我々日本文学のプロトタイプが
現実があるというふうに考えています
もう既に隠されていると
内包されていると言ってもいいように
巨大な作品でございますけれど
小さく巨大な作品でございますけれど
夏目漱石という作家として
この作家を
作家という
夏目漱石という作家という
巨峰をこれを
どう我々は見ていくとか
そこが非常に我々の
これからの課題になると
思っております
それは我々に
今度は我々同士が語り合うのもいいですし
作品と向き合い
語り合うことによって
その
日本文学の150年の夢を
今後も考えていく
夢見ていく
もちろんここにはたまたま
女性の文学者はいませんでしたが
夏目漱石と阿部広報の作品
しかしそれは
たまたまであって
ここに女性の文学者
いやもうもはや
今やジェンダーレスの時代と言われていますけれど
そういった色彩が
さまざまなセクシュアリティの
作家が
現れる
三島由紀夫もそういう
同性愛的な
作品を残していて
私は今金色という作品を読んでいますけど
こういった作品
などを含め
さまざまな夢と現実が
渡り合う
平星のごとき日本文学の
可能性が
夢と現実という
地平から
見渡せるのであります
そして我々はまとめといたしまして
このように思います
つまり我々は
文学者とは
自分の生き方を
夢にかけるか現実にかけるかを
あらかじめまたは
好転的に決めなければいい
しかしそれを
その両方を拒否したり
両方を肯定する文学者は
その狭間で
例えば夏目漱石や
そこに
また阿部浩文を入れていいかもしれませんが
そういった作家は
そこに非常に架け橋として
自ら架け橋となるために
非常に悩み苦しみ
創作の苦しみや
人生の苦しみを
味わう必要がある
こういった作家を
我々は
まさに文豪と呼ぶ
ふさわしい作家である
生き方と書き方が
この二つが夢と現実の
狭間で
揺れ動く苦悩する
突き進む
こういう作家を
我々は見ていくべきだと思います
またこれからも現れる
そういう作家に向けてのエールを
全力を込めて送りたいと思います
それでは今回はここらで
終わりにしたいと思います
いたらじでした
ありがとうございました