信長の背景と初期の経歴
寝落ちの本ポッドキャスト。
こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには、面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。
ご意見・ご感想・ご依頼は、公式エックスまでどうぞ。
寝落ちの本で検索してください。
また別途投稿フォームをご用意しました。リクエストなどをお寄せください。
そして最後に番組フォローもどうぞよろしくお願いします。
さて、今日はですね、菊池寛さんの桶狭間合戦というテキストを読んでいこうと思います。
ちょっと最近スポーティファイの分析・アナリティクスを見ていると、
女性が、リスナーの分布で見ると女性が優位に立っていたので、
男の人にも聞いてほしいぞということで、少し男臭い文章を読んでみようかなということで、
こういう時代ものをね、読んでみたいと思います。
菊池寛さん。
日本文芸家協会を組織し、初代会長に就任。
芥川賞、直樹賞、菊池寛賞を創設。
代営社長として映画事業にも参画し、作家の育成、文芸の普及に勤めた。
芥川龍之介とは親友である。
代表作に、小説「真珠夫人」、
偽曲「父帰る」などがあるそうです。
本日収録時点7月17日ですが、
ちょうど昨日、要は日付的には16日のニュースで、
今回の直樹賞、芥川賞は共に該当作なしになりました、というニュースがね。
Yahooかなんかの通知でポーンと飛んできましたけども。
その創設者の人のテキストですね。
旧TwitterX上では、
受賞作なしって本屋さん大変じゃん、みたいな。
本屋さんどうなっちゃうの、みたいな叫んでる人いましたけど。
なんで受賞しないと本が売れねえと思ってんだよ、って思いましたけど。
読み合いじゃん、読み手本を読もうって。
右派だなあって。
何々賞受賞っていう指針がねえと本が選べねえのかっていうね。
こいつら著作権切れたら70年以上のテキストしか読んでねえぞっていうね。
そこと戦う気は別にないんですけど。
何年ぶりかに受賞作なしだって少し湧いてましたね。
僕のモチベーションは、
人間の声で昔の文章を音声化するみたいなところに軸足を置いているので、
今日も淡々とやっていければと思います。
先日、坂口安吾さんの「織田信長」というテキストを読みましたが、
それよりも菊池寛さんは一世代ぐらい上の方なので、
坂口安吾はこのテキストを参考にしたこともあるだろうなという、
ソースを当たるようなテキストになろうかと思います。
よろしければ、寝落ちまでお付き合いください。
それでは参ります。
桶狭間合戦
信長の屈起
天文18年3月のこと
宗延三、三河国の大名であった今川氏をはじめとし、
地方の豪族に対抗して、
終わりの国にお出しあることを知らしめた信秀が、
年四十二をもって死んだ。
信秀死する三年前に小当里城で原復して、
陽明を吉保氏を改めた三郎信長は、
直ちに父の後を継いで、和佐之助と合した。
信秀の法事が、
名古屋万象寺に委まれたときのことである。
住人はじめきらべやかに並んでいるところに、
信長、まず証拠のために仏前に進んだ。
今からは織田家の大将である信長が、
亡き父の前に立った姿を見て一同の者は驚いた。
名殻の立ち脇差しを締め縄でぐるぐる巻きにし、
車線にゆった紙は乱れたままである上に、
袴も履かないというありさまである。
そして末行を一つ紙に掴んで投げ入れると、
一敗して帰ってしまった。
信長の弟、
寛寿郎信行の織目正しい肩ぎぬ馬鹿まで
因義に礼拝したのと引き比べて人々は、
なるほど信長公は聞き死に勝る大馬鹿者だとあざけり合った。
心ある住人たちは織田家の将来を思って
沈んだ気持ちになっていたが、
その中に畜師からこの寺に客僧となってきている坊さんが、
信長公こそは名国寺となる人だと言ったと伝えられている。
この坊さん、なかなか人を見る目があったということになるわけだが、
何しろ幼年時代からこの年頃にかけての信長の行情は、
確かに普通には馬鹿に見られても文句の言いようがないほどであった。
終わりの寺木寺に手習いにやられたが、
もちろん手習いなんぞしようともしない。
川から船を取ってきて吹きの葉で生酢を作るくらいは罪のない方で、
ほうはいの弁当を略奪して頼らげたりした。
町を通りながら栗、柿、ウリをかじり、もちを頬張った。
桶狭間合戦の前兆
人があざけろうが指さそうがお構いなしである。
十六七までは別に遊びはしなかったが、ただ朝夕馬を駆けさせたり、
鷹の模様をしたり、春から秋にかけて川に飛び込んだりして日を暮らしていた。
しかし豊雄を集めて竹槍を持って戦わしめたりするときに、
褒美を先には少なく後から多く与えたことや、
当時から槍は三元柄が有利であるとの見解を持っていたことや、
さらにその頃主大に敵陣の間に威力を発揮してきた鉄砲の稽古に熱心であったことなどを見ると、
竹刀の坊さんの眼識を肯定できそうである。
このようにどこかに争われないところを見せながらも、その日常は以前と異なることがなかった。
平手中塚三政秀は信長の重り役であるが、
前々から主信長の行政を気にやんでいた。
いろいろ問いさめては見るものの一向に聞き目がない。
そのうちにあるとき、正秀の長男に五郎衛門というのがあって、
いい馬を持っていたのを馬好きの信長が見て所謀したところ、あっさりと断られてしまった。
親父も頑固なら息子も豪情だと信長の機嫌が甚だ良くない。
正秀、これを見て、今日までの保育が失敗しているのに、さらにまた息子のしくじりがある。
この上は死をもって勇める他に道はないと決意して、
天文二十二年売る正月十三日、六十幾歳かの柴原祭典果てた。
その遺書には、
心を正しくしなければ諸人を馬鹿と思って使えない。
ただ祭地ばかりでなく度量を広く持たれますように。
無欲にして恵固悲喜があってはならない。
納祭を見出さなければならない。
部のみでは立ちがたいものである。
文を納められますように。
礼節をからおんぜられませんように。
とうとうの過剰があった。
信長、涙を流して食いたけれども及ばない。
せめてというので西勝外郡小城の里に正秀寺という母大寺を建て、
寺廟二百穀を付した。
後に清寿に移し、今は名古屋にある。
信長、鷹の手小鳥を得ると、
正秀、この鳥を食えよと空に投げ、
小川のほとりにあっては、
正秀、この水を飲めよと叫び涙を流した。
正秀の監視によって信長大いに行状を改めたが同時にその天秤の部位を奮い出した。
十六歳の時から桶狭間合戦の二十七歳までは、
奇跡の休まる間もなく先陣を浴びて、
自らの地盤を確保するに余念がなかった。
元来尾田氏の一族は尾は立体に広がっていておのおの各居していたのだが、
信長清の主計尾田氏をしのぐ勢いであったので、
城主尾田彦五郎は柴吉本を奉じて、
同族松葉城主尾田伊賀の神、
深田城主尾田左衛門城等と通じて一挙に信長を滅争とした。
信長、森山にある尾次、
孫三郎信光と共に起戦を制して天文21年8月16日、
名古屋に居で三宝より清洲城を攻めた。
翌年になって遂に清洲を落として自ら移り住みし、
信光をして名古屋に、その弟信継を森山に居はしめた。
ところがこの森山、清洲から三里にいる信継が、
孔子元年の夏、家臣と共に川に釣りに出かけた時に、
一人の騎士が礼もしないで通り過ぎたのを起こって射殺したことがある。
殺してみた騎士が信長の弟秀鷹であったので、
信継は凝転してそのまま逃走してしまった。
秀鷹の兄の信行はこれを聞いて、
末森から馳せて森山に下り城下を焼き払い、
信長また清洲から馬を馳せつける騒ぎであった。
さて、またこの信行であるが、
末森城において中心、林道勝、
柴田勝家らに気喰々されていたが、
老臣どもは信長のそぼを嫌って、
信行に織田の跡を継がせようと企てた。
しかし信長との戦ではすぐに敗れたので一旦許しをこうた。
信長も許したが、なおも勝家らの諌めを聞かずして
そむこうとしたので、
ついに信長はがりごとをもってこれを暗殺した。
孔子二年、十一月のことである。
さらに伊保家にあたる織田信弘や、
岩倉城主織田信康らの反乱があったが、
皆信長に平定せられた。
以上は皆同族の反乱であるが、
このほかに東隣今川氏の武将との交渉がある。
戦国時代の動乱と英雄
愛知軍鳴海の城主で山口様之介という
織田信秀の将として今川氏に備えていた。
信秀が死んで信長の代になると、
信長頼むに足らぬと考えたかどうかそむいて
今川氏についてしまった。
そして愛知軍の笠寺と中村西郎を築き、
自分は中村に、今川の将戸部豊政を笠寺に、
自分の子の黒二郎を鳴海に織らせた。
信長、捨てておかれないので天問二十一年。
自ら来たって攻めたけれども、
かえって破られたので勢いを得たのは様之助である。
大鷹、靴掛東をも占領した。
信長は今度は笠寺を攻めてみたが、
豊政業勇にして落城しそうもない。
そこで信長は考えた末、
森義成を商人に化けさせて駿河に潜入させ、
吉本に豊政のことを残言させた。
吉本正直に受け取って豊政を呼び返して殺し、
ついで様之助をもう疑ってこれも呼び寄せて殺してしまった。
九州にそむいた様之助としてみれば因果応報であるが、
信長も相当に反感を用いている。
もっとも、乱世の英雄で反感を用いない
対象なんてないのであるから、
特別の不思議はないはずであるが。
とにかくこのような苦闘を経て、
ようやく勢いを四方に張ろうとしてきた信長と、
春・延・三。
三家国を要して正常の気をうかがっていた今川吉本とが
衝突するに至るのは、
それこそ歴史上の必然であったわけだ。
今川吉本の精神。
軍友各家の戦国時代は、
いたずらに混乱した暗黒時代のように見られるけれども、
この混乱の中に自ら統一に向かおうとする機運が動いているのを
見逃してはなるまい。
英雄豪傑が東西に戦って、
天下の主たろうという望みを各自が抱いているのは、
彼らの単なる英雄主義の力占めたことではなくて、
現実に政治上からも経済上からも
統一の機運に乗じようと考えたところからである。
この時代になって兵農の分離は全く明らかになり、
地方的な商業も起こり、
足利時代に盛んになった堺をはじめとして、
合戦の背景
東の小田原、西の大阪、山口と
次第に都会の形成をもきたしてきたのであるが、
この時にあたって小さく地方に
自分だけの持ち前を持っていようなどと考えている者たちは、
より大なろうとしている強者のために揉みつぶされてしまうことになる。
志ある者は必ず上落して、
天使のもとに政治経済の剣を握って
不況を致そうと望むのが当然である。
こうして西城の志あった者に、
武田信玄があり、植杉謙信があった。
今川義元もまた三大国を要して西城の志、
中るべからなやである。
義元まず、皇后の憂いを断つために、
自らの娘を武田春信の子、義信に訪がせしめた。
北条氏とも和した。
さて、いよいよ西城の段取りであるが、
三河の西辺の諸豪族、
特に尾張の信長を破らなければ、
京に至ることはできない。
そこで義元は、当時駿河の国府に居らせた松平竹千代に、
その戦法を命じた。
竹千代すなわち、後年の徳川家康である。
竹千代不遇であって、
はじめは厚見厳室村、戦国の地しか与えられず、
家臣を十分に養うことにさえ苦しんだ。
家臣を多く、松平家のために費やしたとさえ伝えられている。
後年、三河武士と称された家臣たちは、
何事をも偲んで、気の至るを待っていた。
義元の命のままに、西城の全軍を受けたもあって、
多くの功績を示したが、
義元、西城の志が粉砕されたことによって、
竹千代、後二年末、義元の偽邸、
関口、近中の娘を埋め取る。
後、本康と称し、さらに家康と改む。
の運命が開かれようとは、当人も思いつかなかったであろう。
松平本康がどんなに優秀な全軍を務めたかを
簡単に示すならば、後二三年四月には、
狩野を攻め、七月王府に向かい、
翌英六元年二月には、義元に背き、
信長に通じた寺部城主、鈴木重則を攻め、
同じく四月には兵廊を大高城に入れた。
もちろん、この頃には信長の方でも準備
おさおさおこたりなく手配しておるのであって、
他の大高城の如きも十分に監視して
兵廊のいることを厳重に警戒した。
もし、今川方から大高に兵廊を入れる気配があったら、
大高に間近い和室、丸根の二条は、
ほら貝を吹き立てよ。その貝を聞いたら、
寺部の諸鳥では、速やかに大高表に馳せつけよ。
単下、中島二条の兵は、丸根和室の
五爪をせよと命じて、手ぐすに聞いて待ち構えていた。
4月17日、夜に入ると、
共に支度をしていた松平二郎三郎本康は、
十八の若武者ながら退任を果たすべく、
出発しようとした。
堺義郎正近、どう心をたたつぎ、
石川義郎和政らが、
信長ならば必ずや城への手配を計画しているはずである。
とても兵廊入れなどは思いもよらぬ。
と諌めたけれども、
力ある本康だから聞くはずがない。
一条八尺の陣に、黒の青いのも三つ付けた
戦の準備
白綿七本を仕立てて四千四騎、
祝祝として進発した。
家康は兵八百を率き、小二打千二百打を守って、
大高城二十四町のところに控えていた。
全軍は和室、丸根、大高を側に見て、
寺部の城に向かい不意にこれを攻めた。
ちょうど丑三時という時刻なので、
信長勢は大いに驚いて不正だが、
松平勢はすでに一の軌道を押し破って入り、
火を放ったと思うとさっと引き上げた。
引き上げたと思うとさらに梅勝坊城に向かい、
二の丸、三の丸まで打ち入って同じように火の手を上げる。
厳重に大高城を監視していた丸根和室の蛮兵たちは、
遥かにおたけびの声がすると思っているうちに、
寺部梅勝坊の城に闇を貫いて火が上がるのを見て、
驚きかつ怯かった。
大高城に最も近い丸根和室を差し置いて、
寺部などの松次郎を先に攻める方はないと
独りがてんしていたからである。
哀しんで見たものの見方の気急である。
取るものも取りあえず城をほとんど空にしてはせめかった。
我計略図に当たれりと、
闇の内に北疎遠だのは本康である。
この隙に、いいとして兵廊を大高城に入れてしまった。
この大高城兵廊入れこそ、
平安の出征撒き中の第一形である。
大高城兵廊入れに成功した本康は、
5月さらに往復に向かい、8月には衣城を下した。
翌3年3月には狩野を攻め、
7月東広瀬、寺部の二城を落とし、
12月に村木の砦を占領して、
翌年正月にこれを壊している。
もうこうなると正面衝突よりないわけである。
A63年5月1日、今川義元いよいよ全軍出発の命を下した。
全軍は10日にすでに発したが、
一日置いた12日、義元、後、宇治谷を留守として、
自ら今の静岡、府中を絶った。
総勢2万5千、4万と合している。
掛け根をするところは今の品の大将たちと同じである。
義元出発に際して、いくつかの協調があったことが伝えられている。
元来義元は兄、宇治寺が家徳を継いでいるので、
自分は前僧となって富士禅徳寺に住んでおった。
宇治寺に子がなかったので、
二十歳の義元を原俗させて家徳を譲った。
今川二郎大夫、義元である。
ところがこの時横槍を入れたのが義元の次兄で、
花倉の寺主、両親である。
両親のつもりでは兄である自分が家を継ぐべきなのに、
自分だけが討じている義元と母を孤兎にしているために
のけ者にされたのだと、とうとう義元と戦ったが、
敗れて花倉寺で自殺したということがあった。
その花倉寺両親が義元出発の夜に現れ入れた。
義元、枕元の名刀を松倉豪を抜いて切り払った。
幽霊だから切り払われても大したことはないのであろうが、
両親は飛びのいて曰く、
「汝の運命尽きたのを告げに来たのだ。」と。
出陣間際に縁起でもないことをわざわざ報告に来たわけである。
義元も負けていずに、
「汝は我が恩敵である。どうして我に喫嫖を告げよう。」
人間でなくても嘘をつくかもしれないとやり込めた。
両親は、
「なるほど。汝は我が恩敵だ。
しかし今川の家が滅びるのが悲しくて告げに来たのだ。」
と言いもあえず消えて亡くなった。
その他に、
春秋の珍獣、草爵大明神に、
紳士として目されていた白狐がいたのだが、
義元出発の日、胸が裂けて死んでいたとも伝える。
どれも陽後猛胆だから真偽のほどはわからない。
義元この戦に勝ったならば、
このような話は伝わらずにおめでたい話が伝わっただろう。
漢和九代。
15日には全軍、千里雲。
17日、鳴海に行き立って村々に火を放った。
義元は16日に岡崎について左のように配軍せしめた。
18日には今村を経て靴掛けに来たり陣し、
ここで全軍の部署を定めた。
丸根都里で攻撃、松平、本康、2500人。
和室都里で攻撃、浅雛、康雄、2000人。
援軍、三浦、美子、野上、3000人。
清洲方面前進、崑山、信貞、5000人。
本軍、今川、吉本、5000人。
鳴海城守備、大壁、光信、7、800人。
靴掛け城守備、浅井、正俊、1500人。
さらに大鷹城の宇戸野長寺をして、丸根、和室攻撃の応援をさせる。
この宇戸野は、先に信長の兵が来たりせめて兵廊に飛ぶしかったときに、
城内の倉庫んぼっかを取って、戦なき火はこれを持ち、
戦の日には本当の米を与えたという勇士である。
この今川勢の行進に対して小田勢も準備を全く整えてあった。
すなわち、和室都里で小田、信平、4、500人。
丸根都里で佐久間、森茂、右に同じ。
田毛都里で水野、忠光、右に同じ。
禅章寺都里で佐久間、信達、右に同じ。
中島都里で梶川、和秀、右に同じ。
これらの都里では、田毛の都里でで40軒司法に対して、あとはみなわずかに14、5軒司法のものに過ぎない。
兵も今川勢に比べると比べ物にならないくらいに小勢であるが、
各部署以下、死を決して少しも恐るる色がなかった。
丸根都里で野佐久間大学、森茂は、
いたずらに死を殺すを惜しんで、
5人の旗頭、
服部玄馬之助、
渡辺大蔵、
太田左行、
早川大善、
菊川沖之上に退いて後軍に合するように進めたけれども、
誰一人聞かなかった。
A6、3年。
5月18日の夜は、
殺気を、
三夜に満たしたまま更けていった。
蒸し暑い夜であった。
両軍の接戦。
桶狭間駅。
蒸し暑い18日の夜が明けて、
19日の早朝、
本康の部署、
松嶋三典、
同、
正地下、
同、
正田田羅が率いる兵がまず、
丸根の都里に迫った。
かねて覚悟の、
作間、
森茂、
以下の守兵は猛烈に防ぎ戦った。
正地下、
正田田、
倒れ。
三つのりまで傷ついたというから、
その反撃のほどが察せられる。
隊長たちがそんな風になったので、
子卒らはたちまちにためらってしりぞき出した。
隙を与えず森茂ら、
門を十文字に開いて突出してきた。
もとやすこれを望み見て、
これは決勝の兵だから接戦してはかなわない。
遠巻きにして、
弓十を放てと命じたので、
森茂らはたちまちにして、
矢玉の真っ只中にさらされて、
その子卒とともに倒れた。
もとやすの死、
加計正森らがこれに常日で進み、
門を閉ざす糸も与えずに渡り合い、
松平義太田の死、
左右打摩擦な一番のりをし、
ついに火を放って焼くことができた。
もとやすはそこで、
松平家継に旗頭の首七つを、
本陣の吉本のもとに板差しめて勝ちを報告させた。
吉本、我すでに勝ったと喜びしをして、
宇都の長寺に代わって大鷹城に入り、
陣場を急速させるように命じ、
長寺には笠寺の全軍に合するよう命じた。
これが両軍接戦のきっかけであるが、
清洲にある信長は悠々たるものであった。
決戦と勝利
前夜、信長は獣神を集めたが、
一向に戦事を議する様子もなく、
語るのは世俗のことであった。
気が気で亡くなった林道勝は進み出て行った。
すでに丸根の作間から献上を告げてきたが、
吉本の大軍にはとても歯向かいがたい。
幸いに清洲城は天下の名城であるから、
ここに立てこもられるがよかろう、と。
信長はあっさり答えた。
昔から楼上して運の開けた試しはない。
明日は未明に鳴海表に出動して、
我死ぬか彼殺すかの決戦をするのみだ、と。
信長の準備と戦略
これを聞いた森さんざいもん吉成、
柴田玄六勝家などは喜びさんで、
馬前に牛死に捕まつろうと答えた。
信仰になった自分。
信長広間に居で、
妻という女房に何時かと尋ねた。
夜半過ぎましたと答えると馬に蔵を置き、
湯漬けを出せと命じた。
女房賢もって昆布、かつくりを添えて出すと
悠々と食し終った。
腹ごしらえも十分である。
食事が済むと将棋に腰をかけて小包を取り寄せ、
東向きになって歌い曲、厚森を歌い出した。
この厚森は信長の常に好んで歌ったところである。
この世は常の住処にあらず。
草場に置く白露、
水に宿る月よりなお妖しい。
花屋に花を栄じし栄賀は咲き立って、
無情の風に誘われる南楼の月をもてあそぶ矢からも
月に咲き立てういの雲に隠れり。
人間五十年、下天の内を比べれば夢幻の如くなり、
ひとたび生を受け滅せぬもののあるべきか。
牢牢として迫らない信長の歌声が
林のように静まり返った陣営に響き渡る。
部下の将士たちも大将の決死の歩道を
胸に染み渡らせたことであろう。
本城正宗の大刀を腰にすると、
たちまち栗毛の馬に乗った。
城内から出たときは、
故将の岩室長人の紙、長瀬川京介、
佐藤東八、山口平の紙、
加藤八三郎の語機に過ぎない。
そのまま大手口に差し掛かると
黒黒と一段がひかえている。
見ると森、
柴田をしょうとした三百余騎である。
両人とも早いぞ早いぞと声をかけておいて、
ひた走りにかけて厚田の宮前に着いたときは、
その数千八百となっていた。
厚田の町口には、
加藤図書之助頼森が迎えに出てきていて、
出陣式法の歌詞を備えた。
信長はよろこんで宮に参り、
願文を報じ御見記をのんだ。
願文は、
武井入土を関安に命じて作らしめたと伝うるもので、
玄金の世相、
渾沌太郎を憂えて、
自ら天下を平定しようと考えていますところ、
吉本を横暴にしてきたり、
犯しています。
敵味方の宗家は、
あだかも灯籠の書説にあたるごとく、
文章の鉄牛を噛むがごときものがあります。
願わくば天下のために心情あらんことを。
といった意味のものであるが、
はたしてこのような願文を出したかどうか、
多少あやしいところはあるが、
この戦をもって、
天下平定の第一歩であると考えていたことは、
戦の進行と苦悩
疑いやるまいと思われる。
信長、
このとき最善を心善に投げながら、
表が出れば我が勝ちなりといった。
信官に調べさせると、
みんなが表が出たので、
将士が言う訳した。
これは、
ゼリーの裏と裏とのりでくっつけておいたもので、
みんな表が出るわけである。
すでにこのころは夜は全く明け放たれて、
きょうの暑さを思わせるような太陽が、
山の葉をかなり高くのぼっている。
信長、
かえりみれば、
決死の将士千八百。
祝祝としてついてきているが、
今川勢は何しろ十倍起こす大軍である。
少しでも味方を多勢に見せなければならないというので、
加藤をよりもりに命じて、
長架から正部のぼり、
桃面切れ等を集めさせ、
篤田の者に竹竿をつけて一本ずつ持たせ、
高いところに差し物のように立たせて義兵を作った。
桶狭勝戦記に、
篤田出馬の時、
信長、
城場の蔵の前輪と静和とへ両手をかけ、
横ざまに乗りて後輪によりかかり、
鼻歌を歌う。
とある。
大方、
例の厚森と同じように好んでいた、
首脳は一条、
忍び草には何をしようぞ、
一条語り残すようの、
という小歌でも口ずさんでいたのであろう。
決戦間近に控えてのこの余裕ぶりは、
何といっても天才的な武将である。
こんな格好で神宮を出立つと、
道路の脇に、
年の頃、
二重ばかりの若者が羽織を着、
膝をつけて、
信長に声をかけられるのを待っている様子である。
信長が見ると、
免偵すぐれているので、
何者だと問うと、
桑原陣内といい、
かつて吉本が度々遊びに来た寺の小僧をしたことがあって、
吉本をよく見知っているから、
願えることなら今度の戦に、
吉本と引き組んで首を取りたいと答えた。
信長、
刀を与えて友に加えた。
毛利新助、
服部小平との両人がこれを聞いて、
この若者に突き沿っていて、
吉本に出会おうと考えた。
今の時間でちょうど八時頃、
神宮の南、
上千賀山の屋城の前で、
遥か南方にあたって一錠の煙が、
織柄の朝日の光に濃い紫色に輝きながら立ち上るのが見られた。
丸根の砦の、
やけ落ちつつある煙だったのである。
陣場を急がせて、
小丸見の手前の街道まで来ると、
先陣にまみれた飛脚の兵に出会った。
丸根落ちて佐久間大学、
いいよ、この絵の紙、ただいま、
うち時にと告げるのを信長聞いて、
大学、われより一時先に死んだのだと言って、
金銃の師に銀の術を持って来させ、
肩にすじ違いにかけ前後を返り見て叫んだ。
今は各地の命をくれよ、
と、優が早いか、
栗毛に鞭くれて走り出した。
従師たちも、われ劣らずと後を追うて、
上の街道をたちまち馬人が渦巻いた。
丸根が落ちた後の和室も、
同様に悪戦苦闘である。
今川勢は丸根に対したごとく、
火を放って攻めたので、
信平をはじめ防戦の甲斐なく打ち維持にして、
残兵ことごとく気を沿うさせて、
落ちざるを得ない状態になった。
時に午前十時ごろ。
鳴海の方面へ田室していた笹正次、
千秋末忠、前田利家、岩室重吉らは、
信長が丹義から前庄寺に進むのを見て、
三百四人を率いて、
鳴海方面の今川勢に掛け合ったが、
宗家は敵せずして、
正次、重吉、末忠以下五十四名が戦死した。
末忠はこの時二十何歳であったが、
信長は憐れんで、
その子孫を暑さの大偶事になしたという。
前田利家はこの戦い前に、
信長の怒りに触れていることがあったので、
その償いをするのはこの時とはかり。
直ちに敵の首を一つ得て、
けんざんに入れたが、
信長は許さない。
そこで、その首を沼に投げ捨てて、
さらに一首をひっさげてきたが、
なお許されなかった。
後、森部の戦に一番乗りをして、
初めて許されたという。
笠寺の岩佐神介直宗という十四歳の若武者は、
軍の声を聞いてじっとして折れずに、
信長の乗り換えの馬を前次失敬して、
馳せきたり、
敵の一首を倒して首を得たので、
大喜びして信長に見せたところが、
みなりに部署を離れたとて失敬された。
小泉五郎財門の氏、
安井信財門家本は、
鳴海の戦に十七騎を射落している。
このように信長の将士は前世しておるのだが、
何分にも今川勢は大勢であるから、
成功の戦では、
勝利への決定的瞬間
大局すでに信長に不利である。
正次、
重吉、
末忠三子の首が、
今川の本営に送られたことを、
前将士に会って聞いた信長が、
切羽してすぐに、
その本軍を持って今川をより向かわんとしたのも、
無理はない。
林道勝、
池田信寺、
柴田勝い偉が、
流行る馬の口を押さえて、
敵多く味方少なく、
余さえ道狭くて、
一時に他勢を押し出すことができないのに、
どうして正面からの戦ができよう、
と諌めたか。
いささか出陣前の余裕を失った信長は、
聞かずして中島を渡ろうとした。
この時、もし信長が、
中島に渡って正面の戦をしたならば、
おそろくは、
右大臣信長の名を天下に知らしめずに、
終わったことであろう。
ちょうどその時、
柳田勝が放った石膏が、
靴掛方面から帰って、
吉本は今から大高に移ろうとして、
桶狭間に向かった、
旨を報じた。
まもなくさらに一人が、
吉本の殿岳狭間にたむろしたことを、
告げ来たった。
勝、
信長に進めるには、
吉本は今までの勝利に心をごって、
おそろくは油断しておることだろうから、
この機を逃さず、
関東から不意をつけば、
吉本の首を得るであろうと。
今まで駄々をこねていた信長は、
さすが名将だけに、
直ちに摩薩那の言に従って、
前将時には、
若干兵を止め、
規制を多くして義兵をたらしめ、
自らは関東より殿岳狭間に向かって進んだ。
この日は朝から暑かったが、
昼ごろになって雷鳴とともに豪雨が、
はいぜんと降り下り、
風はやまやまの木をゆるがせた。
ために群馬の音を今川勢に知られることもないので、
暑さの信長とばかり喜びいさんで、
山城を分け進んだ。
外志士山陽が後に読んだのに、
将士羽梅を含み、
馬は舌を結べ。
桶狭間、
桶のごとく雷壁です。
恐竜もとを失い、
灰林飛ぶ。
面を打つ西風、
雨、勝ちか。
一線初めて開くは、
鶴の木。
万古街道、
千分滅し、
ただ見る結婚くれないに、
分欠するを。
笠寺の山地ゆすりし優たちの、
雨の下にもかかりいけるかな。
これは幕末の井上文雄の歌である。
信長らが予想していた通り、
吉本、
頻々たる商法に心よろこんで、
附近の士官、僧侶が、
お祝いの酒魚を取りそろえてきたのに、
気をよくして、
主演を催していた。
この時の吉本の軍曹は、
赤地の錦のひたたれ、
胸代の具足、
八龍打った五枚兜をいただき、
松倉号、
第三文字の立ち脇座しを帯びていた。
この第三文字はすぐに、
信長にぶんどられた上に、
その目に、
表には、
A63年5月19日、
吉本を討ち取る彼の諸侍の兜にこくす。
裏には、
織田、
終わりの神信長、
と刻み込まれてしまった。
吉本の主演竹縄である頃、
信長の兵は、
天閣狭間を真下に見る、
大志金の丘にあった。
天閣狭間は、
小毛狭間へ通ずる一本道のほかは、
両側ともに山で囲まれている。
信長の奇襲
こうなると吉本は、
袋の中のネズミである。
丘上で信長、
馬から降りて切り込むかと疑すると、
森吉典、
馬のまま馳せ下るがよろしいと答えたが、
ちょうど昼頃になって、
風雨がやや静まったのを見計らって、
一度にどっと切り込んだ。
吉本の本映では、
まさか信長がこのような不意に出ようとは思っていないので、
味方同士の争いが起こったくらいに最初は考えていたが、
騒ぎはますます大きくなるばかりである。
吉本、兵を制しようと胃袋を掲げたところを、
例の桑原陣内が見つけて掛かったが、
金獣の死のために遮られて斬られた。
陣内に突きまとってきた服部小平太がこの中に紛れ込んだのを、
吉本は味方と間違えて馬をひけと命じたので、
さてこそ大将と槍で脇腹を突いた。
吉本さすがに屈せずに、
槍の青貝の柄を切り寄るとともに、
小平太の膝を割ったので、
小平太はのめってしまった。
同じく吉本の首を狙った毛利新助が、
名乗って出るや吉本に組みついて首を取ろうと焦った。
頭を押さえざまと焦った新助は、
左手の人差し指を吉本の口に押し込んだのを噛み切られながら、
とうとう首をあげた。
不意を打たれた上に大将が打ち死にしては、
衆もかもない。
今川勢は全く浮き足立ってしまった。
今川の部将、松井宗信。
いい忠盛らが本営の前方十丁ばかりのところに耽露していたが、
急を聞いて馳せたたかったがことごとく打ち死にして果てた。
一節には、本営敗れた時、
与原左魂、同将次郎が馳せ来たり、
時休であるから吉本に大高に移られるようにといって、
十二三騎で行くのを襲われたとも伝えられる。
一急に勝ちを収めた信長は、
あえて今川勢を遠く追わずに、
他地に兵を間込山に集め、
吉本の首を馬の左脇に下げて日暮れには清洲に引き上げた。
まさに迅速なる行動である。
篤田の宮では拝謝して馬を献辞、
吉本の運命
八代を修善することを誓った。
凱旋の翌日、得た首を献辞したのに二千五百余あった。
下方黒細山が生け取りにしたゴン編みをして首をなざさしめた。
清洲から二十丁南菅、
篤田へ行く街道に吉本塚を築き、
大札戸場を建て千武経を読ませたという。
吉本の野心煙と散じた一方、
信長は地方の豪族からして一躍天下に直しられた。
吉本が意思した天下取りのチャンスは計らずも、
信長の手に転がり込んできたのである。
結末並びに予説
この戦において敗軍に属しながら、
かえって不思議に運を開いたのが松平本康。
後の徳川家康である。
本康は五月十九日の朝、丸寝を落とした後、大鷹におったが、
晩勤になって吉本の配奉が達した。
諸子大軍を進めたが、
本康もし吉本生きていたらあわす顔がないとて聞かない。
ところに応じ、水野信本が浅井道忠を使いとして配奉をもたらしてきたので、
本康は部下をしてその真実であることを確かめた後、
十九日の午後十一時過ぎ、
月の伝を待って三社田を案内として三河に退陣したが、
土管に苦しめられながらやっと岡崎に着いた。
着いてみると岡崎城の今川勢は騒いで城を明けしりぞいていたので、
本康、捨て城ならば入ろうといってここにおった。
後、鋭六五年五月、水野信本の取りなしで信長と清須城に返して連合を約し、
幼少から因縁した会合って次第に勢いを伸ばす基礎を得た。
文武の道
もとやす吉本への義を思って、
この宇治山根に弔い合戦を進めたけれども、応ずる景色もなかった。
吉本は信長のために一杯血にまみれたとはいえ、
三大国を領するに至っただけに、
どこか統領の才ある部将であったが、
この宇治山根に至っては全く杏具であるといっていよい。
吉本が文字を愛した話の一つに、
ある戦に一首を石膏に出したところが、まもなくその詩が首を一つ得て帰った。
吉本は勝せずして、かえって石膏の役を怠ったとして軍法をもって処置しようとした。
その詩、唸られたまま華流の歌。
軽かやに、身にしむ色はなけれども、
見て捨てがたき梅雨の霜降り。
と呟いたのを聞いて、たちまち顔の色を和らげたということである。
地方の大豪族であるところから、
今日の久下衆が来往することがしばしばあったらしく、
吉本の風邸も自らみやびやかに、
髪は総髪に、歯は金で染めるという有様であった。
その一方には、今度の戦で靴掛けで落馬した話も忘れられてはならない。
しかしともかく、文武両道に心がけたのは吉本であるが、
宇治山根ときては父の悪い方だけしか次いでいなかった。
吉本氏後も、朝日那、平田雄のほか立派な家老も四五人はいるのであるが、
宇治山根、少しも崇敬せずして、
三浦上門義元という乳若の氏のみを用いて踊り主演に明け暮れした。
自分が昔書いた小説に三浦上門の氏というのがあるが、
あんな少年ではなかったらしい。
自分の気に入ったものには自らの眼かけを与え、
妻弁にさして人の娘の美しいのに歌をつけたり、
まるで武士の家に生まれたことなどは忘却の体である。
かの三浦上門のごときは、
桶狭間の勇士、子の良い畳森の所領を望んだり、
さらにはなはだしくは吉本の愛称だった菊鶴という女を
ひそかに妻にしたりしながら国政に当たるというのだから、
心ある氏が次第に離れて今が明け水房の源を作りつつあったわけである。
天文二十二年に吉本が宇治山根を諌めた手紙がある。
御編の功績何とも無分別に候。
業末になるべき覚悟にや。
弓馬は男の技なり、器用も不器用も要らず候べく稽古語となり、
国を治む文武二度なくてはさらにかなうべからず候。
その上、君子おもからんずばすなわちいいあらず。
吉本、ことは不良のため身体軽々しき心持候。
さあるからに心類異化さんざんに治療ほかの体身及び候えども、
われ一体は都各の儀に及ばず候と思い、
上下の分もなきほどに候へとも各御前ならば苦しからず候。
宇治山根まで格の如くにては無国主となるべく候。
欲々これ分別これあるべし。
吉本が自らの欠点をさらけ出して宇治山根を諌めている心持ちは察するに余りある。
吉本が文に勝っていた章とすれば信長はむしろ真の武将であった。
戦国騒乱のときには文字派より武断派のほうが勝ちを制するのは無理のない話である。
信長、陰陽を作らせたことがあるが、
みずから野には天下不武。
信高野には河献兵天下。
信尾野には海大に加わるとした。
もって信長の異の一端を伺うに足りる。
しかし武断一点張りでなかったことは、
暗殺しようとした稲葉一徹が、
彼の雪波乱漢を要しの死をよく返したという一点で許したことき、
吉本が一種の和歌のゆえに部下を許した行為というのいつは思っても知られる。
要所よりそぼうであったという非難があるが、
もちろん性格的なところもあるにしろ、
自らそこに最新な用意が造されていたのを知らなければならぬ。
また一方からは足利末期の形式化された生活に対する革命的な精神の発露とみられる点もあるのである。
最新であったことは人を夢中るところにも現れている。
信長の成功と吉本の失敗とはその一般を能在の拒否に期してもよかろう。
近い例でこの桶狭間の駅には、
やだ出羽の神には良き一縁、良く大量栄占めたといって、
桶狭間三千間の地を与えたが、
吉本の首を得た毛利新助はその賞をやだには及ばなかった。
諸余の末においてさえ人の形状を見るを誤らなかった。
徳氏世論の著者新井博史がその中で信長成功の理由をいろいろ挙げたうちに、
王人の乱後の人、戦闘を試みて民、力、日々に疲れ、
国財日々乏し借りしに、
美後の神信秀、浴場の地によって不況の術を行い、
好戦をこととし、兵財共に豊かなりしに信長これ技を継ぎ、
英雄の志をもって百戦の功を立つ。
祖国、失踪の地にして、啓史に近く、
かつ羅釈迦都の数十代の予功を借りて怒られしかば、
以降天下に及ぶ。
と言っているが、
とを得た評論であろう。
1987年発行。文芸春秋。文春文庫。
日本活先端。より読了。読み終わりです。
はい。想像の3倍ぐらい大変でした、これ。
人の名前まじ大変だわ。読み方、読み方よ。
あとあれね。
苗字、どこそこの紙、誰それ、みたいなやつね。
たくさん出てくるからさ。
で、1回目は読み仮名振ってあるから読めるんだけど、
2回目以降はもう読めるでしょ、振り仮名なくなるから。
はぁーって。これなんて名前だっけって。
はぁー大変でした。すげー苦労しました。
はい。いかがだったでしょうか。
時間にして45分ぐらい?
いやもうこれ3日かかったって、まじで。
全然進まなかった。難しくて。
ずどずど名前調べる苦労があって、大変でした。
そんな苦労は皆さんには関係ないんですけど、
お楽しみいただけたら良かったと思います。
寝落ちできてたら良かったと思います。
こっちだな。
よし終わりにしよう。4回もあった。
無事に寝落ちできた方も、最後までお付き合い頂いた方も大変にお疲れ様でした。
といったところで、今日のところはこの辺で。
また次回お会いしましょう。
おやすみなさい。