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2026-02-11 26:16

第15章「日本史史上最も有名で優秀な敗北者"今川義元"‼️」

テーマをいただきましたコウ様誠にありがとうございました😭


今回は「今川義元」

について話しております


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サマリー

今川義元は、織田信長に桶狭間の戦いで敗れた「敗北者」としてのイメージが強いですが、実際には「東海道一の弓取り」と称えられた極めて優秀な戦国大名でした。名門今川家に生まれ、一度は仏門に入るも、軍師・太原雪斎の助けを得て家督争いを制し、駿河・遠江・三河を支配する大大名へと成長しました。 義元の真骨頂は、卓越した外交手腕と内政能力にあります。武田・北条との「甲相駿三国同盟」を締結して背後の憂いを断ち、分国法「今川仮名目録」を整備することで、幕府から独立した強固な領国経営を実現しました。彼の先進的な統治手法は、後の信長、秀吉、家康ら天下人たちにも多大な影響を与えています。 桶狭間での死は歴史の大きな転換点となりましたが、彼がいなければその後の天下統一の形も違っていたでしょう。本エピソードでは、公家のような風貌の裏に隠された、合理的で力強い戦国大名としての真の姿を詳しく解説しています。

イントロダクション:リスナーからのリクエスト
おはよう、こんにちは、こんばんは。
武将について喋るラジオ、略して武将ラジオのうっちーです。
この番組では、学生時代に学芸員を目指すとも考えていた歴史的である私、うっちーが、
毎月11日、ソロポートキャストの日に、さまざまな武将について話をするという番組です。
どうぞよろしくお願いしま〜す。
今回、リスナー様へのテーマを頂きました、まことであります。
今回、テーマを頂きました、甲様でございます。
頂きましたメッセージを早速読ませて頂きますと、
全国武将で聞いてみたい人物がいます。
その武将は、今川義元です。
桶狭間の戦いで負けたというイメージが強いんですけども、
実際には何をした人なのかよく分からないです。
よろしくお願いします。
ということで、今回は今川義元で話をさせて頂きます。
確かに、織田信長に桶狭間の戦いで負けた、このイメージ強いんじゃないかなと思います。
でも、この人、東海一の弓取り。
この弓取りは、武将として優秀であるという意味なんですけども、
東海一の方で一番の武将だよ、という風にも言われていた人物です。
では、この今川義元がどういった人物なのかということを、今回話をさせて頂きます。
それでは、今回話をさせて頂きます。
タイトルはこちら。
日本戦国史上、最も有名で優秀な敗北者、今川義元。
今川義元の虚像と実像:東海道一の弓取り
今川義元という名前、この名前を聞いて、桶狭間を連想する人大体じゃないかなと思います。
それくらい、桶狭間で敗れたというイメージが強すぎます。
また、桶狭間を連想しないような人ですと、
例えば、ゲームとか様々な作品でそうなんですけど、
クゲの格好をしている人、そんなイメージあるんじゃないかと思います。
様々な戦国時代を題材にしているゲームとかでも、よくこの人、クゲの格好をしていますよね、という。
なので、クゲの格好をしているとか、桶狭間で負けたという言葉もありまして、
なんとなく、戦とか下手そうだよ、と思われていることも多いんじゃないかと思います。
ただ、実際には東海一の弓取り。
この名に恥ずかしくない人物でございますし、
また、ゲームとかでは武将らしい格好ではなくて、
クゲの格好をしているのも仕方ないくらいのエリートな人物だったりもします。
そんな今川よしもとがどういう人物かということを、今回話をさせていただきます。
出自と血統:名門今川家と公家の血筋
西暦で1519年頃、今川よしもとは、今川内地下の産南として生まれます。
幼名は、ほうきくまると言ったりします。
今川よしもとの母は、今川内地下にとっての性質である、
中野御門信谷という方の娘でございまして、
後に受刑にと呼ばれたりする方です。
西暦には今川よしもとの子と、幼名幼きくまるは、
本来は側室の子で、後に受刑にと養子園組みをしたという説もあったりするんですけども、
ただ、性質の受刑にの子だよという説も根強いです。
また、中野御門信谷という、今川よしもとの母の父、いわゆるおじいさんですね。
祖父である方は、室町時代から続くクゲの方でございます。
なので、よくゲームとかで今川よしもとがクゲの格好しているのも、
バッチリクゲの血を引いているからです。
また、そもそもで今川家自体が結構な名門です。
今川よしもとにとっての父である、今川内地下。
今川内地下の母である北川殿は、伊勢家という室町幕府において、
強大な力を持っていた名門伊勢家の流れを組む方です。
この北川殿の兄弟には伊勢総随、後に北上総運と呼ばれたりしますけども、
最初の戦国大名と呼ばれ、関東における北上家の礎を築いた人物が伊勢総随で、
その兄弟であるのがこの北川殿でございます。
人物名が多かったので少し整理しますと、
今川よしもとの父である今川内地下は、
名門伊勢家の流れを組む人でありまして、
北上総運にとっての老いっ子。
その息子である今川よしもとは、
今川内地下とクゲの血を引いた方の間に生まれた子供でございます。
なので、今川よしもとは名門とかエリートと呼ばないでどうするのというくらいの両欠でございます。
仏門からの帰還:花倉の乱と家督継承
両欠ではあるんですけども、
もちろん今川よしもと三男ということで、上に二人兄がいました。
なので、的継候補と言っても、後継者候補はもうすでに上に二人いるしということで、
よしもとは今川家の後継者として最初は見られておりませんでした。
なので、生まれてすぐ4歳の時ですね、
西暦1523年頃には仏門に入れられました。
お坊さんになるために寺に入ったということですね。
このまま三男で家に残っても家を継ぎるわけではないし、
むしろ兄弟が後継者候補がたくさんいますと後々、
お家騒動の原因になることもあるので、
それだったら名門今川家の関係者でありますし、
若い頃から修行することでお坊さんとして名声を高められるという考えもありまして、
今川よしもとはお寺に預けられます。
まだ今川よしもとじゃなくて陽気熊ですけども。
その後、お寺でこの陽気熊を教育していた人物が1529年に亡くなってしまいます。
そうしますと、亡くなった方の弟子にあたる人、九条正玉。
後に大元節裁となるんですけども、
この人物が今川よしもと、この陽気熊の養育係となります。
この大元節裁となる後の人物、九条正玉はとてつもなく優秀な方でございます。
この九条正玉から教育を受けるんですけども、
この時、1530年頃には吉本は陽気熊と陽明から正宝という名前を与えられます。
お坊さんとしての名前ですね。
この頃から正宝と名乗るようになっております。
正宝こと吉本は大元節裁から様々な教育を受けるんですけども、
その中には兵法などをしっかり学んでいたと言われます。
ただそれはお坊さんとしての修行をしているうちなんですけども、
その後1536年に兄たちが急死します。
上二人とも亡くなってしまいます。
なので今川家としては混乱します。
急に後継者歩行法たちがバタバタと亡くなってしまいました。
そこで一度は仏門に入った陽気熊こと正宝と今名乗っている、
そして後に吉本となる人物を、彼を担ぎ上げようと今川家の獣神たちが現れます。
なので仏門に入っておりましたけども、そこから俗世に戻る、
いわゆる観俗を果たしまして、今川家に戻ってきます。
この時には仏門に入っていたこの名前正宝から吉本を名乗るようになっております。
ただ全ての家臣たちが吉本が家徳を継ぐことに納得していたわけではないです。
中には別の人物を担ぎ上げよう、それで今川家の後継者は別にしてしまおうという考えの家臣たちも出てきます。
この別の後継者となるのが玄光絵探という方なんですけども、
この玄光絵探と今川吉本の間で家徳争いの戦いが起きます。
これは花倉の乱なんて言われております。
この花倉の乱では吉本が観俗をした時に一緒にお師匠さんがついてきます。
お師匠さん、九条将棋局なんですけども、この九条将棋局が大元節細と名乗りまして、
この大元節細を筆頭に吉本側の武将の奮闘とか、あと吉本の外交戦略。
元々今川吉本の父である今川氏家は北条宗運の老いっ子でした。
北条宗運は関東における北条家の礎を築いた人でございます。
そういった血縁関係のこととかもありまして、今川吉本はこの花倉の乱の際に北条家からの支援を取り付けます。
そういったこともありまして、吉本はこの花倉の乱におきまして勝利を収めまして、今川家の党首となります。
すでにこの時から外交手腕などで才能の片鱗を見せておりました。
外交の苦闘:武田・北条との対立と和睦
ただ、今川家の党首となった戸の子が平穏というわけではありませんでした。
1537年に入りまして、今川家と高層城田にありました、貝の国の武田信寅。
よく武田信寅の父親ですね。
この武田信寅の娘を今川吉本は聖室に迎えます。
聖室奥さんですね。奥さんの流れも卒出とかなくて、一番の奥さんとして迎えます。
これによりまして、武田と今川の間で同盟を結びます。
高層同盟なんて言われるんですけども。
これは武田家との高層状態を収めるための同盟ということもあるんですけども、
だから今川家にとっては、これで戦争の種が一つ消えたなというふうに思われたんですけども、
この高層同盟に対して怒りを覚える人物が現れます。
それは北条家。北条家は花久田の乱におきまして、今川吉本の支援をするぐらい、
それぐらい仲が良かったんですけども、また今川家は北条宗恩のルーツもありますし、
北条家も北条宗恩のルーツがあるということで、同じルーツを持つ者同士、
北条宗恩のルーツを持つ者同士ということで仲も良かったんですけども、
それで同盟も結んでいたんですけども、この北条家が武田家と争っていました。
なので自分たちと争っている武田家の同盟を結ぶってどういうこと?ということで、
北条家が今川家に対して怒りを覚えまして、ここで今川家と北条家での対立が起きてしまいます。
また吉本と家族を争った玄光絵探、その玄光絵探側にいた武将たちが、
やっぱり吉本の元では働けないわ。もともと確かに吉本に反旗を翻していたこともありまして、
吉本のところで働こう、家臣として働こうと思っても、やはりどうしても出世コースから外れていることもありまして、
吉本の元から離れたいということで離反しておりました。
この家臣たちの反乱、玄光絵探側にいた武将たちの反乱は今川家の領土におきまして西側で起きておりました。
北条氏、北条家は東側ということで、東と西側両方からのトラブルがありまして今川家は悩まされることになります。
これによりまして北条側からの侵攻もありまして、領土の東側の一部を北条家に奪われるというぐらいに今川家は困ってしまいます。
さらに困難が続きます。
この今川家の混乱を見まして、尾張の国の織田信秀が1540年に三河の国に侵攻を開始します。
今川家の家臣の反乱が起きている、さらに西側から敵の勢力が襲ってきたという形になります。
これによりまして今川家の領土としても西側の一部が織田家に取られたりもしてしまいます。
ということで東も西も領土を取られているという苦しい状況が続きます。
今川家としましてもこれ以上苦しい状況にはしたくないということもありまして、竹田家がさらに攻めてきたらとんでもなくやばい状況なので竹田家との同盟はせめて維持しようともありまして
こんな苦しい状況の中でも竹田家が村上家への侵攻をするようという時には竹田家への支援をしたりなど。
それで竹田家との同盟関係は何度か続けておりました。
竹田家としましても今川家が潰れてしまうといろいろ面倒くさいなということもありまして、竹田からもある程度支援があったとは言われるんですけども
それでも西は織田、東は北条、さらに領土内での家臣の反乱などが苦しい状況が続きまして今川家の滅亡もありえるかもという状況になるんですけども
1545年に吉本はこの状況を打開します。
東側で北条家と敵対してましたけども、北条家と敵対する山内の植杉家と同盟を結びます。
山内植杉家は北条家にとって東側の領土でございます。
なので今川家と植杉家で北条氏を挟み打ちにしてやろうというふうになります。
さらに今川家は竹田のほうに沿空を得ましてここで北条のほう側に進行します。
ずっと苦しい状況ですけどここで反撃に出ます。
また関東にいる様々な代名たちの協力、大木がや津植杉家や足利晴寿、こういった人たちの協力も得まして北条家を滅亡の危機にもなっていきます。
もう一時期は今川がやばい、今川がやばいという状況だったんですけども
吉本が外交の戦略によりまして味方をつけましてそれによって逆に今までずっと攻められていた北条家を滅亡の危機まで持っていきます。
そして困り晴れた北条としましても何とか竹田家の仲介の下、今川吉本に和牧の願いを出します。
吉本としましては北条家が今川から奪った領土全て返せよ。
その全て返還してもらったらいいよということで和牧に応じます。
これによりまして北条家に奪われた領土はすべて今川家に返還されました。
ただこの時あと一歩で北条家を滅亡まで持ち込めた領土を取り返すだけでなくてうまくいきは今川家の領土ももっと増やせたんじゃないか
北条の領土を奪えたんじゃないかと思われるかもしれませんけども
なぜこの和牧に追い詰められたのか、諸説ありますけども今回二つ紹介させていただきますと
一つには北条家は追い詰められたとはいえまだ力を隠し持っている
その北条とこれ以上戦うのは危険と判断したという説
事実この北条と今川の和牧後になるんですけども
今川家以外の大名たちはその後も北条家との戦いを続けておりました
ただこの後に北条家の野収などもありまして連合軍は壊滅されます
両上杉家とか足利晴氏の軍は壊滅させられます
川小屋以上の戦いと呼ばれたりもするんですけども
なので北条家がまだまだ力があるよという今川家の判断は正しかったと言われております
また諸説のうちのもう一つでなぜ和牧に追い詰められたかという話をさせていただきますと
あえて北条家を残した方がいいという判断をしたから北条家との和牧に追い詰められたという説もあります
元は今川家と北条家は北条宗運と同じルーツを持っております
中を元のように戻すことが可能と考えていたとも思われますし
もしも北条家がいなくなった場合
北条の領土をいろんな大名たちがどんどん切り取っていきます
そうしますと北条以外の大名たちと東側が今川家としては隣接してしまうことになります
そうしますと今川家にとってもいつ敵になるかわからない
そんな大名たちに常に気をつけなきゃいけないそういう緊張状態が生まれてしまいます
それであればまだ仲良くできる可能性の高い北条家を残した方がいいよね
それで東側は安心して今度は下針の反乱とか起きたり
あと織田家との戦いがある西側に集中したいよね
だから東側は安全が欲しかったそれで和牧の道を選んだと言われております
ここで北条と今川が和牧を結びました
そしてここで北条家にも恩を打っておいたことで
実際に今川家は東側との戦いは気にしなくていいようになりました
西側の下針の反乱であるとか織田家との戦いに今川吉本は集中できる状況を作り出しました
実際北条家としましても西側今川家との和牧が済んだということで
今度は北条側としても両上杉家とあるとか
足利晴二との戦い関東の戦い集中ができるということで
両家にとってこの和牧は特攻する形となりました
西への進出:三河支配と竹千代の人質交換
そして今川吉本は東の脅威がなくなったことで西側の攻略をどんどんしていきます
元々今川家は主に駿河の国とか東島の国という今でいう静岡県中心の領土を主に持っておりました
そこから今でいう愛知県あたりの一部三河であるとか
その三河の中でも西三河あたりに勢力を誇る松平博多を下針と言いますか支配下に置きます
従属させるという表現の方が正しいですかね
ちなみに松平博多の着難が竹千代後の徳川家康でございます
松平博多としましては今川家に教授の意を示すためにも
今川家に自分の着地である竹千代を人質で出そうとするんですけども
ここを織田信英の策略によりまして竹千代を織田家の人質とされてしまいます
今三河を争っているので織田家と今川家としましては
三河で強大な権力を持っている松平家の着地である竹千代を奪ってしまおう
そうすればいずれ三河を自分のものとした時に竹千代とか松平家の地があった方が
色々便利だろうなというのは織田も今川も考えておりました
そして織田としましてもこの竹千代を奪いました
よく竹千代が織田家で人質として生活していたのもこのことでございます
約2年間1547年頃から約2年間竹千代は織田家で人質として生活をしています
他はいっても西三河において力を持った松平家が教授の意を示したということもありましたので
三河の人たちはどんどんと今川家に従っていくようになります
そして三河を支配下に置くように今川義元は動いていきます
そして皇城との争いがなくなったことや三河を支配を置くことで
家臣たちからの評価も高まっていきまして家臣たちの反乱も静まっていきます
領土が取られたはずだったんですけど
むしろ領土を奪い返していくというのが今川義元の働きでございました
今川家を西から苦しめていた織田家もいつの間にか劣勢になっておりました
織田家としましてもだんだんと三河の領土を奪っていく今川家の脅威を感じておりました
そして1548年この状況を打破するために織田信秀が今川家へ進行していきます
ただここで今川義元の軍師である節細やあるとか重心の朝日奈良を対象とした今川軍は
織田軍に対象します
この結果織田家としても今川家への進行をまともにできなくなってきます
それぐらいボロボロにされたと言われております
そして織田家の脅威も減ったことで今川義元はさらに地盤を固めていきます
1549年に松平寛が死去
これ暗殺説が強いんですけども三河の有力者である松平寛が亡くなったことで
西三河の地域も今川家の領土にしようとします
この時には松平寛の着手である竹千代
後の徳川家康は織田の人質であったんですけども
やはりここで竹千代とか松平家の着手が味方にいるよということは
西三河たちを味方にするために大事だと考えていた今川義元は
織田家との戦いの中で織田信秀の息子を人質として手に入れていました
その人質交換という形で織田信秀の息子を返すよ
だから竹千代をこっちによこせよという交渉をします
またこの頃に今川家としましては織田方の三河安城城を攻略したりなどで
織田家の勢力を実用三河から駆逐することに成功しまして
三河の領土を今川のもとにするというのもこの時点でほぼ成功しております
人質交換によって竹千代を手に入れた今川家は
竹千代の優秀さに目をつけまして今川義元や大元節裁は
後の今川家を支えてもらうためにも
英才教育を施しまして優秀な家臣になってもらおうとしていたと言われますし
また三河を長く支配するためにも三河の殿様松平家の長所を重宝しておりました
そして三河の領土も安定させていきますと今川義元としましては
織田家の領土である尾張への進行を今度は準備していきます
尾張を進めるためにもまずは自分の領土を安定させなければいけないということで
戦国大名としての自立:今川仮名目録と法整備
自分の領土、駿河や東東、三河などの法整備をしていきます
1553年には亡き父今川氏家を定めた今川金目録という今川家の法律の基礎
さらに追加で法律を加えたりしまして今川家の法整備をしっかりと行っていきます
この法整備によりまして様々なルール
商売はこういうところでやっていいよといったルール付けを決め付けたりだとか
自分の領土内での戦が起きない反乱が起きないような法整備などを整えていきます
またこの今川金目録への追加
この中には今川の領土の秩序維持を行っているのは足利将軍家ではないよ
今川氏そのもので行っているよということを明確にします
本音と建前というところもあったりするんですけども
室町幕府とか幕府におきましてはその地域を治めるのに守護
守護とか守護大名という表現での方がいいですかねという
そういった役職をおきまして室町幕府がこの地域を治めていいよという人を決めているというのが建前上ではありました
守護大名というのがまさにそれでして室町幕府がこの地域を治めていいですよというふうに派遣された人が守護大名です
ただ今今川の領土を持っているのは守護大名
室町幕府の命令で受けた人たちじゃなくて
今川の領土を治めているのはあくまで今川だよ
今川家が治めているんだよということを明確に文書の中で発行しております
これはあくまで幕府の命令でなく自分たちの意思でこの町を治めているんだということで
幕府からの自立とか独立を宣言しています
ここで戦国大名であることを明確にしております
その後1554年には吉本の託師である今川宇島さんに
北条宇治康の娘を縁組みしたりだとか
また武田氏北条氏と互いに婚姻関係を結んでいくなどもありまして
甲斐の武田、相模の北条、駿河の今川家での交争する三国同盟を結成します
三国ともが同盟となりまして
それぞれの国が別の国との戦いに集中できるようにします
北条は関東の東側との戦い、武田は上杉との戦い
そして今川は小田との戦いに集中できるような形を作ります
ただこの三国同盟、たて役者とも言えるんですけども大元節裁
彼はこの同盟が設立した後ほどに1555年に亡くなってしまいます
吉本の師匠でありまして吉本にとっては重要な右腕とも言える人物がこの時代に亡くなってしまいます
運命の桶狭間:想定外の敗北と義元の最期
その後1558年には吉本は息子ですね
片子を譲って形の上では今川吉本はこの1558年の時点では隠居しています
息子に領土の経営を任せながら本人は小田家への進行の準備をしていきます
そして1560年5月、名古屋城などの攻略を目指しまして
2万余りの軍を率いて尾張の国への進行を開始していきます
若き家臣松平本康、徳川家康の活躍などもありまして
順調に尾張を攻める今川軍ですけどもその途中
桶狭間におきまして休息を取っている最中に小田信長の奇襲が起きます
この時家臣らのともに吉本は奮戦したと言われるんですけども
小田家区の家臣毛利義勝に殺されたと言われます
去年42歳
このことについても大変切細とか言えばこうはならなかったと言われますし
また小田信長もこの桶狭間で今川吉本の首を取れるとまで思っていなかったと言われております
小田信長も桶狭間の戦いが始まる前
家臣たちをこぶす時の言葉の中には
あくまで今川君をしりどかせるための戦いということしか話しておらず
吉本の首を取ろうとまでは言っていなかったと言われております
実際本来今川軍が軍をしりどいたというのであれば
そこで小田軍が追撃をして
それで今川軍に被害を与えて
今川軍がもう終わりへの進行をしないようにという風に
追撃をしていくのが本来の戦の習いなんですけども
今川吉本の首を取ったということで
小田軍は今川軍への追撃をしておりません
想定以上の戦果が出てしまった
今川吉本の首を取れたという想定以上の戦果が得られたことで
小田家も動揺していた
追撃をするところじゃなかったんじゃないかと言われております
それほど桶狭間の戦いは小田家にとっても大きなことでありまして
事実大大名であった今川吉本を打ち取ったことで
小田信長の名声は高まっていきます
今川吉本が亡くなった後
家族は既に息子に譲られていたということもありまして
その後も今川家は数年間存続するんですけども
ただ今川家の元から離れた松田家の独立であるとか
同盟関係だったはずの竹田家の進行などもありまして
今川家の領土が削られていきまして
吉本の死後8年後には全ての領土を奪われてしまいます
吉本の死後今川家は衰退してしまったというのは間違いありません
義元の遺産:三英傑に与えた多大な影響
ただ今川家一時は竹田や北条小田田の峡谷に囲まれました
領土を失うこともありました
ただ卓越した外交力や戦の上手さ
これによりまして領土を奪い返しむしろ領土を広げました
駿河、東東美、三河南など東海の支配者になりましたのが
今川吉本でございます
桶狭間の戦いで負けたダメな大名というイメージがあるかもしれませんが
そうではなくて
あの今川吉本を打ち取った織田信長はすごいよね
そう言われるほど今川吉本はまた優秀な人物でございました
もしも桶狭間で今川吉本が死ぬまではなかったら
おそらく松平元康の離敗もなかったです
織田信長の上落もうまくいかなかったです
そして織田家の天下統一事業は起こらなかったのではないかと言われます
その後の秀吉や家康の天下統一もなかったのではないかと言われております
今川吉本は死んだことで歴史上に大きな名を残しました
ただ死んだことでここまで名を残せる
これもまた有能人物の証でございます
実際今川吉本が追及した今川金目録
これは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった後の天下部たちも
この今川金目録から影響を受けている
そういった政治を行ったりもしております
例えばルールの整備、法整備の大切さであるとか
統治した国内で反乱が起きないようにするための法の整備の仕方
領土経営の仕方など
三英傑たちも考え方、しっかりと今川金目録から得られているものがあったりします
後の天下部たちに与えた影響力の大きさなどからも
今川吉本は優秀な人物でありますし
日本戦国史上でも最も有名でありかつ影響力のある敗北者
それが今川吉本という人物ではないかなとも思われます
エンディング:敗れて名を残した偉大な武将
今回はここまでです
改めましてテーマをいただきました、こうさんの真言でございました
負けて名を残すというのもそれだけすごい人物だなと思われます
ゲームや漫画とかで何となく
いやこの今川吉本って無能っぽいよねって描かれていますけども
本当にもったいないと思います
織田豊穣武田に囲まれて
そこから領土をさらに増やすというのは本当にすごいなと思います
また息子も息子で本当に面白い人物なんですよね
息子のこともまた機会があれば話せればなと思っております
武士ラジでは月に1回の配信でございますけども
テーマをいつも募集しております
また気になる武士ラジあればいつでもご連絡お待ちしております
今回も最後までご期待くださって誠にありがとうございました
26:16

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