1. 寝落ちの本ポッドキャスト
  2. 112坂口安吾「桜の森の満開の..
2025-03-13 54:49

112坂口安吾「桜の森の満開の下」(朗読)

112坂口安吾「桜の森の満開の下」(朗読)

山賊の孤独。女の底なしの欲求。今回も寝落ちしてくれたら幸いです。


Spotify、Appleポッドキャスト、Amazonミュージックからもお聞きいただけます。フォローしてね


お便りはこちら

https://forms.gle/EtYeqaKrbeVbem3v7


ご意見・ご感想・ご依頼は公式X(旧Twitter)まで。「寝落ちの本」で検索してください。

サマリー

坂口安吾の小説『桜の森の満開の下』は、桜の下に隠れた恐怖と人間の孤独を描いている幻想的な物語です。物語は、山賊と美しい女性との出会いを通じて、桜の花が持つ恐ろしさと虚無感を探求しています。坂口安吾の作品『桜の森の満開の下』では、男と女の複雑な関係が桜の森を背景に描かれています。男は女の求めに応じて都へ行く決意をし、桜の木の下での体験が二人の運命を変えていく様子が表現されています。この作品では、女性の欲望が奇妙に具現化され、首を集めた遊びが描かれています。物語は、都での退屈と女性との関係を通して、男の内面に潜む葛藤や人間の本質を探求します。また、『桜の森の満開の下』では、男が女とともに桜の森を訪れ、彼女が鬼であることを知ってしまう悲劇が描かれています。この物語は孤独やノスタルジーをテーマにし、満開の桜の下での出来事が象徴的に描かれています。坂口安吾の短編『桜の森の満開の下』は、桜の美しさと人々の心に潜む暗い感情を描いています。

桜の森の設定
寝落ちの本ポッドキャスト、こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。
ご意見・ご感想・ご依頼は、公式エックスまでどうぞ。
寝落ちの本で検索してください。
または、最近投稿フォームもご用意しました。
合わせてご利用ください。
あと、それと番組フォローもどうぞよろしくお願いします。
さて、今日はですね、
坂口安吾さんの「桜の森の満開の下」という小説を読もうと思います。
坂口安吾さん、日本の小説家・評論家・随筆家。
戦後発表の「堕落論・白痴・裏が評価され、
太宰治と並んで無礼派と呼ばれる。」ということです。
坂口安吾さんね、よく読んでるんですけど、
最近は、西日本新聞での連載の
「明日は天気になれ。」という連載の中から
一節一節つまんで抱き合わせにして読み上げてるんですが、
今回は小説になりますね。
今日収録時点でまだギリギリ2月ですが、
公開される3月頃にはそろそろ
桜の開花とかも話が出てんじゃないかなと見込んで
花だとか桜だとかいうのをちょっとね
関連しそうなものを読んでるんですけど、
うちのベランダの…ベランダじゃないよ。
ベランダ際に置いてあるタニック植物
っていうんですかね、もうなんか花芽を少し伸ばしつつあるんでね、
春の訪れを必死と感じてますが、
それもあってちょっと春っぽいのをね、
読もうかと思いますが、
本日読み上げます桜の森の満開の下は
ちょっと怖い話かもしれませんね。
概要です。
あらすじです。グーグルユーザーによるあらすじ。
坂口の代表作の一つで傑作と称されることの多い作品である。
ある峠の山賊と怪しく美しい残酷な女との幻想的な怪奇物語。
桜の森の満開の下は恐ろしいと物語られる
節話形式の文体で花びらとなってかき消えた女と
冷たい虚空が張り詰めているばかりの花吹雪の中の
男の孤独が描かれていると。
正直何言ってるかわかりませんね。
怪しい女と男の孤独?
とりあえず最後までじゃないや、
目落ちまでお付き合いください。
それでは参ります。
桜の森の満開の下
桜の花が咲くと人々は酒をぶら下げたり団子を食べて花の下を歩いて
絶景だの春乱丸だのと浮かれて陽気になりますがこれは嘘です。
なぜ嘘かと申しますと桜の花の下へ人が寄り集まって
酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩してこれは江戸時代からの話で
大昔は桜の花の下は恐ろしいと思っても絶景だなとは誰も思いませんでした。
近頃は桜の花の下といえば人間が寄り集まって酒を飲んで喧嘩していますから
陽気で賑やかだと思い込んでいますが桜の花の下から人間を取り去ると恐ろしい景色になりますので
脳にも去る母親が愛人を一皿にさらわれて子供を探して発狂して
桜の花の満開の林の下へ聞かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を抱いて狂い死にして花びらに埋まってしまう。
このところ小生の多足という話もあり桜の林の花の下に人の姿がなければ恐ろしいばかりです。
昔鈴鹿峠にも旅人が桜の森の花の下を通らなければならないような道になっていました。
花の咲かない頃はよろしいのですが花の季節になると旅人はみんな森の花の下で気が変になりました。
できるだけ早く花の下から逃げようと思って青い木や枯れ木のある方へ一目散に走り出したものです。
一人だとまだ良いのでなぜかというと花の下を一目散に逃げて当たり前の木の下へ来るとほっとしてやれやれと思って済むからですが
二人連れは都合が悪い。なぜなら人間の足の速さは確信かくようで一人が遅れますからおい待ってくれ後から必死に叫んでもみんなきちがいで友達を捨てて走ります。
それで鈴鹿峠の桜の森の花の下を通過した途端に今まで仲の良かった旅人が仲が悪くなり相手の友情を信用しなくなります。
そんなことから旅人も自然に桜の森の下を通らないでわざわざ遠回りの別の山道を歩くようになりやがて桜の森は街道を外れて人の声一人通らない山の静寂へ取り残されてしまいました。
女との出会い
そうなって何年か後にこの山に一人の山賊が住み始めましたがこの山賊はずいぶん無言らしい男で街道へ出て情け容赦なく着物をはぎ人の命も経ちましたがこんな男でも桜の森の花の下へ来るとやっぱり恐ろしくなって気が変になりました。
そこで山賊はそれ以来花が嫌いで花というものは恐ろしいものだななんだか嫌なものだそういうふうに腹の中では呟いていました。
花の下では風がないのにゴーゴー風が鳴っているような気がしました。
そのくせ風がちっともなく一つも物音がありません。
自分の姿と足音ばかりでそれがひっそり冷たいそして動かない風の中に包まれていました。
花びらがポソポソ散るように魂が散って命がだんだん衰えていくように思われます。
それで目をつぶって何か叫んで逃げたくなりますが目をつぶると桜の木にぶつかるので目をつぶるわけにもいきませんから一層きちがいになるのでした。
けれども山賊は落ち着いた男で後悔というところを知らない男ですからこれはおかしいと考えたのです。
一つ来年考えてやろうそう思いました。
今年は考える気がしなかったのです。
そして来年花が咲いたらその時じっくり考えようと思いました。
毎年そう考えてもう十何年も経ち今年もまた来年になったら考えてやろうと思ってまた年が暮れてしまいました。
そう考えているうちに初めは一人だった女房がもう七人にもなり八人目の女房をまた街道から女の邸主の着物と一緒にさらってきました。
女の邸主は殺してきました。
山賊は女の邸主を殺す時からどうも変だと思っていました。
いつもと勝手が違うのです。
どこということはわからぬけれども変抵抗でけれども彼の心は物にこだわることになれませんのでその時も格別深く心に留めませんでした。
山賊は初めは男を殺す気はなかったので身ぐるみ脱がせていつもするようにとっととうせろと蹴飛ばしてやるつもりでしたが女が美しすぎたのでふと男を切り捨てていました。
彼自身に思いがけない出来事であったばかりでなく女にとっても思いがけない出来事だった印に山賊が振り向くと女は腰を抜かして彼の顔をぼんやり見つめました。
今日からお前は俺の女房だというと女はうなずきました。
手を取って女を引き起こすと女は歩けないからおぶっておくれと言います。
山賊は承知承知と女を軽々と背負って歩きましたが険しい上り坂へ来てここは危ないから降りて歩いてもらおうと言っても女はしがみついていやいやいやよと言っておりません。
お前のような山男が苦しがるほどの坂道をどうして私が歩けるものか考えてごらんよ。
そうかどうかよしよしと男は疲れて苦しくても好機嫌でした。
でも一度だけ降りておくれ私は強いのだから苦しくて一休みしたいというわけじゃないぜ。
目の玉が頭の後ろ側にあるというわけのものじゃないからさっきからお前さんをおぶっていてもなんとなくもどかしくて仕方がないのだよ。
一度だけ下へ降りて可愛い顔を拝ましてもらいたいもんだ。
いやよいやよとまた女はやけにくびったまにしがみつきました。
私はこんな寂しいところに一時もじっとしていられないよ。
お前の家のあるところまで一時も休まず急いでおくれさもないと私はお前の女房になってやらないよ。
私にこんな寂しい思いをさせるなら私は舌を噛んで死んでしまうから。
よしよしわかったお前の頼みは何でも聞いてやろう。
山賊はこの美しい女房を相手に未来の楽しみを考えて溶けるような幸福を感じました。
彼は尾張り返って肩を張って前の山後ろの山右の山左の山くるりと一回転して女に見せて
これだけの山という山がみんな俺のものなんだぜと言いましたが女はそんなことには天で取り合えません。
恐ろしい結末
彼は意外にまた残念で
いいかいお前の目に見える山という山木という木谷という谷その谷から湧く雲までみんな俺のものなんだぜ。
早く歩いておくれ私はこんな横ぶだらけの崖の下にいたくないんだから。
よしよし今に家に着くととびきりのご馳走をこしらえてやるよ。
お前はもっと急げないのかい走っておくれ。
なかなかこの坂道は俺が一人でも相場かけられない難所だよ。
お前も見かけに言わないくじなしだね私としたことがとんだ解消なしの女房になってしまった。
ああこれから何を頼りに暮らしたらいいんだろう。
何を馬鹿なこれぐらいの坂道が。
ああもどかしいねお前はもう疲れたのかい。
馬鹿なことこの坂道を突き抜けるとしかもかなわぬように走ってみせるから。
でもお前の息は苦しそうだよ顔色が青いじゃないか。
何でも物事の始めのうちはそういうもんさ。
今に勢いの弾みがつけばお前が背中で目を回すぐらい早く走るよ。
けれども山賊は体がふしぶしからばらばらに分かれてしまったように疲れていました。
そして我が家の前へたどり着いたときには目もくらみ耳も鳴りしわがれ声の一切れを振り絞る力もありません。
家の中から七人の女房が迎えに出てきましたが山賊は石のようにこわばった体をほぐして背中の女を下ろすだけで精一杯でした。
七人の女房は今までに見かけたことものない女の美しさに打たれましたが、
女は七人の女房の汚さに驚きました。
七人の女房の中には昔はかなり綺麗な女もいたのですが今は見る影もありません。
女は薄気味悪がって男のせいへ退いて
この山女は何なのよ。これは俺の昔の女房なんだよ。
と男は困って昔のという文句を考えついて加えたのはとっその返事にしてはよくできていましたが女は容赦がありません。
まあこれがお前の女房かい。
それはお前、俺はお前のような可愛い女がいいよとは知らなかったんだからね。
あの女を斬り殺しておくれ。
女は一番顔形の整った一人を刺して叫びました。
だってお前殺さなくても女中だと思えばいいじゃないか。
お前は私の弟子を殺したくせに自分の女房が殺せないのかい。
お前はそれでも私を女房にするつもりなのかい。
男の結ばれた口からうめきが漏れました。
男は飛び上がるように人を取りして刺された女を斬り倒していました。
しかし息つく暇もありません。
この女よ今度は。それこの女よ。
男はためらいましたがすぐずかずか歩いていって女の首へザクリとダンビーラを切り込みました。
首がまだコロコロと止まらぬうちに女のふっくら艶のある透き通る声は次の女を刺して美しく響いていました。
この女よ今度は。
刺された女は両手に顔を隠してキャーという叫び声を張り上げました。
その叫びにふりかぶってダンビーラは宙をひらめいて走りました。
残る女たちはにわかに一時に立ち上がって四方に散りました。
一人でも逃したら承知しないよ。
やぶの影にも一人いるよ。
あ、神手一人逃げて行くよ。
男は血刀を振り上げて山の林を駆けぐるいました。
たった一人逃げ遅れて腰を抜かした女がいました。
それは一番醜くてびっこの女でしたが。
男が逃げた女を一人余さず切り捨てて戻ってきて無造作にダンビーラを振り上げますと。
いいのよこの女だけは。
これは私が女中に使うから。
ついでどころ寄ってしまおうよ。
馬鹿だね私が殺さないでおくれと言うんだよ。
ああそうか本当だ。
男は血刀を投げ捨てて尻餅をつきました。
疲れがどっとこみ上げて目がくらみ土から生えた尻のように重みがわかってきました。
ふと静寂に気がつきました。
飛び立つような恐ろしさがこみ上げ
ひょっとして振り向くと女はそこにいくらかやるせない風情で佇んでいます。
男は悪夢から覚めたような気がしました。
そして目も魂も自然に女の美しさに吸い寄せられて動かなくなってしまいました。
けれども男は不安でした。
どういう不安だか、なぜ不安だか、何が不安だか彼にはわからんのです。
桜の森の思い出
女が美しすぎて彼の魂がそれに吸い寄せられていたので
胸の不安の涙血をさして気にせずにいられただけです。
なんだか似ているようだなと彼は思いました。
似たことがいつかあった。
それは。
と彼は考えました。
ああそうだあれだ。
気がつくと彼はびっくりしました。
桜の森の満開の下です。
あの下を通るときに似ていました。
どこが何がどんな風に似ているのだかわかりません。
けれども何か似ていることは確かでした。
彼にはいつもそれぐらいのことしかわからず、
それから先はわからなくても気にならぬたちの男でした。
山の長い冬が終わり、山のてっぺんの方や谷のくぼみに、
木の陰に雪はポツポツ残っていましたが、
やがて花の季節が訪れようとして春のきざしが空一面に輝いていました。
今年桜の花が咲いたらと彼は考えました。
花の下に差し掛かるときはまだそれほどではありません。
それで思い切って花の下へ歩き込みます。
だんだん歩くうちに気が変になり、
前も後ろも右も左もどっちを見ても上にかぶさる花ばかり。
森の真ん中に近づくと恐ろしさにもう寝っぽをたまらなくなるのでした。
今年は一つあの花盛りの林の真ん中でじっと動かずに、
いや思い切って地べたに座ってやろうと彼は考えました。
そのときこの女も連れて行こうか。
彼はふと考えて女の顔をちらと見ると胸騒ぎがしてあわてて目をそらしました。
自分の腹が女に知れては大変だという気持ちがなぜだか胸にやけ残りました。
女は大変なわがまま者でした。
どんなに心を込めた御馳走をおこしらえてやっても必ず不服を言いました。
彼は小鳥や鹿をとりに山を走りました。
イノシシもクマもとりました。
びっこの女は木の芽や草の根をさがしてヒネモス林間をさまよいました。
しかし女は満足を示したことはありません。
毎日こんなものをあたしに食えというのかい?
だってとびきりの御馳走なんだぜ。
お前がここへ来るまでは十日に一度ぐらいしかこれだけのものは食わなかったもんだ。
お前は山男だからそれでいいのだろうさ。
私ののどはとらないよ。
こんなさびしい山奥で夜の夜中に聞くものといえばフクロウの声ばかり。
せめて食べるものでも都には劣らぬおいしいものが食べられないもんかね。
都の風がどんなもんか。
その都の風をせきとめられた私の思いのせつなさがどんなもんか。
お前には察することもできないのだね。
お前は私から都の風をもぎとってそのかわりにお前のくれたものといえばカラスやフクロウの鳴く声ばかり。
お前はそれを恥ずかしいともむごたらしいとも思わないんだよ。
女のなじる言葉の通りが男にはのみ込めなかったのです。
なぜなら男は都の風がどんなもんだか知りません。
見当もつかないのです。
この生活、この幸福に足りないものがあるという事実について思い当たるものがない。
彼はただ、女のなじる風情のせつなさに問惑し、
それをどのように処置してよいか、
目当について何の事実も知らないので、もどかしさに苦しみました。
今までには都からの旅人を何人殺したか知れません。
都からの旅人は金持ちで、
所持品も豪華ですから、
都は彼の良いかもで、
せっかく所持品を奪ってみても中身がつまらなかったりすると、
「チェッ、この田舎者め!」とか、
「土百姓め!」とか罵ったもので、
つまり彼は都についてはそれだけが知識の全部で、
豪華な所持品を持つ人たちのいるところであり、
彼はそれを巻き上げるという考え以外に余念はありませんでした。
都の空がどっちの方角だということすらも考えてみる必要がなかったのです。
女は串など郊外など、かんざしなど紅などを大事にしました。
彼が泥の手や山の獣の血に濡れた手で、
かすかに着物に触れただけでも女は彼を叱りました。
まるで着物が女の命であるように、
そしてそれを守ることが自分の務めであるように。
身の回りを清潔にさせ、家の手入れを命じます。
その着物は一枚の小袖と細紐だけでは事足りず、
何枚かの着物といくつかもの紐と、
そしてその紐は妙な形に結ばれ、不必要に垂れ流されて、
いろいろの飾り物を付け足すことによって一つの姿が完成されてゆくのでした。
男は眼を見張りました。
そして歓声を漏らしました。
彼は納得させられたのです。
かくして一つの美が成り立ち、その美に彼が満たされている。
それは疑る余地がない、子としては意味を持たない、
不完全かつ不可解な断片が集まることによって一つのものを完成する。
そのものを分解すれば無意味になる断片に帰する。
女の要求
それを彼は彼らしく一つの妙なる魔術として納得させられたのでした。
男は山の木を切り出して女の命じるものを作ります。
何者が、そして何用に作られるのか、
彼自身それを作りつつあるうちは知ることができないのでした。
それは腰掌と肘掛けでした。
腰掌はつまり椅子です。
お天気の日、女はこれを外へ出させて、
日向にまた木陰に腰掛けて目をつぶります。
部屋の中では肘掛けにもたれて物思いにふけるような、
そしてそれはそれを見る男の目には全てが異様な生めかしく悩ましい姿にほかならんのでした。
魔術は現実に行われており、
彼自らがその魔術の助手でありながら、
その行われる魔術の結果に常に思かり、そして嘆笑するのでした。
腰掛けの女は朝ごとに女の長い黒髪を櫛削ります。
そのために用いる水を男は谷川の特に遠い清水から汲み取り、
そして特別そのように注意を払う自分のロークを懐かしみました。
自分自身が魔術の一つの力になりたいということが男の願いになっていました。
そして彼自身、櫛削られる黒髪に我が手を加えてみたいものだと思います。
いやよそんな手は、と女は男を払い抜けて叱ります。
男は子供のように手を引っ込めて照れながら、
黒髪に艶がたち、結ばれ、そして顔が現れ、
一つの美が描かれ、生まれてくることを見果てぬ夢に思うのでした。
こんなものがなあ。
彼は模様のある櫛や飾りのある鉱害をいじり回しました。
それは彼が今までは意味も値打ちも認めることのできなかったものでしたが、
今もなお、物と物との調和や関係、
飾りという意味の批判はありません。
けれども魔力がわかります。
魔力は物の命でした。
物の中にも命があります。
お前がいじってはいけないよ。
なぜ毎日決まったように手を出すのだろうね。
不思議なものだなあ。
何が不思議なのさ。
何がってこともないけどさ。
と男は照れました。
彼には驚きがありましたが、その対象はわからんのです。
そして男に都を恐れる心が生まれていました。
それの恐れは恐怖ではなく、知らないということに対する周知と不安で、
物知りが未知の事柄に抱く不安と周知に似ていました。
女が都というたびに彼の心は怯えおののきました。
けれども彼は目に見える何者も恐れたことがなかったので、
恐れの心に馴染みがなく恥じる心にもなれていません。
そして彼は都に対して敵意だけを持ちました。
何百何千の都からの旅人を襲ったが、
手に立つものがなかったのだからと彼は満足して考えました。
どんな過去を思い出しても裏切られ、傷つけられる不安がありません。
それに気づくと彼は常に愉快でまた誇りやかでした。
彼は女の美に対して自分の強さを対比しました。
そして強さの自覚の上で多少の苦手とみられるものはイノシシだけでした。
そのイノシシも実際はさして恐るべき敵でもないので彼はゆとりがありました。
都には牙のある人間がいるかい?
指を持った侍がいるよ。
弓なら俺は谷の向こうのスズメの子でも落とすんだからな。
都には刀が折れてしまうような皮の硬い人間はいないだろう?
鎧を着た侍がいるよ。
鎧は刀が折れるのか?
折れるよ。
俺はクモもイノシシも組み伏せてしまうんだからな。
お前が本当に強い男なら私を都へ連れて行っておくれ。
お前の力で私の欲しいもの都の錐を私の身の回りに飾っておくれ。
そして私に真から楽しい思いを授けてくれることができるならお前は本当に強い男なのさ。
わけのないことだ。
男は都へ行くことを心に決めました。
彼は都にありとあらゆる串や鋼鎧やかんざしや着物や鏡や紅を
三日三晩と経たないうちに女の周りへ積み上げてみせるつもりでした。
桜の満開
何の気がかりもありません。
一つだけ気にかかることは全く都に関係のない別なことでした。
それは桜の森でした。
二日か三日の後に森の満開が訪れようとしていました。
今年こそと彼は決意していました。
桜の森の花盛りの真ん中で身動きもせずにじっと座っていてみせる。
彼は毎日ひそかに桜の森へ出かけてつぼみのふくらみをはかっていました。
あと三日。
彼は出発を急ぐ女に言いました。
お前に支度の面倒があるものかね。
と女は眉を寄せました。
じなさないでおくれ。都が私を呼んでいるんだよ。
それでも約束があるからね。
お前がかい?この山奥に約束した誰がいるのさ。
それは誰もいないけれどもね。けれども約束があるんだよ。
それはまあ珍しいことがあるもんだね。
誰もいなくって誰と約束するんだい?
男は嘘がつけなくなりました。
桜の花が咲くのだよ。
桜の花と約束したのかい?
桜の花が咲くから、それを見てから出かけなければならないのだよ。
どういうわけで?
桜の森の下へ行ってみなければならないからだよ。
だから、なぜ行ってみなければならないのよ。
花が咲くからだよ。
花が咲くからなぜさ?
花の下は冷たい風がはりつめているからだよ。
花の下にかえ?
花の下は果てがないからだよ。
花の下がかえ。
男はわからなくなってくしゃくしゃしました。
私も花の下へ連れて行っておくれ。
それはだめだ。
男はきっぱり言いました。
一人でなくちゃだめなんだ。
女は苦笑しました。
男は苦笑というものをはじめてみました。
そんな意地の悪い笑いを彼は今まで知らなかったのでした。
そしてそれを彼は意地の悪いというふうには判断せずに、
刀で切っても切れないようにと判断しました。
その証拠には、苦笑は彼の頭に刃を押したように刻みつけられてしまったからです。
それは刀の刃のように思い出すたびにちくちく頭を切りました。
そして彼がそれを切ることはできないのでした。
三日目が来ました。
彼はひそかに出かけました。
桜の森は満開でした。
一足踏み込むとき、彼は女の苦笑いを思い出しました。
それは今までに覚えのない鋭さで頭を切りました。
それだけでも彼は混乱していました。
鼻の下の冷たさは果てのない四方からどっと押し寄せてきました。
彼の体はたちまちその風に吹きさらされて透明になり、
四方の風はごうごうと吹き通り、すでに風だけが張り詰めているのでした。
彼の声のみが叫びました。
彼は走りました。何という虚空でしょう。
彼は泣き、祈り、もがき、ただ逃げ去ろうとしていました。
そして鼻の下を抜け出したことが分かったとき、
夢の中から我に帰った同じ気持ちを思い出しました。
夢と違っていることは本当に息も絶え絶えになっている身の苦しさでありました。
男と女とびっこの女は都に住み始めました。
男は夜ごとに女の命じる邸宅へ忍び入りました。
女性の欲望と首遊び
着物や宝石や送信具も持ち出しましたが、
それのみが女の心を満たすものではありませんでした。
女の何より欲しがるものはその家に住む人の首でした。
彼らの家にはすでに何十の邸宅の首が集められていました。
部屋の四方のついた手に仕切られて首は並べられ、ある首は吊るされ、
男には首の数が多すぎてどれがどれやらわからなくとも女はいちいち覚えており、
すでに毛が抜け肉が腐り白骨になってもどこのたれということを覚えていました。
男やびっこの女が首の場所を変えると怒り、
ここはどこの家族、ここは誰の家族とやかましく言いました。
女は毎日首遊びをしました。
首は家来を連れて散歩に出ます。
首の家族へ別の首の家族が遊びに行きます。
首が恋をします。
女の首が男の首を振り、
また男の首が女の首を捨てて女の首を泣かせることもありました。
姫君の首はダイナゴンの首にだまされました。
ダイナゴンの首は月のない夜、
姫君の首の恋する人の首の振りをして忍んで行って千切りを結びます。
千切りの後に姫君の首が気づきます。
姫君の首はダイナゴンの首を憎むことができず、
我神の定めの悲しさに泣いて天になるのでした。
するとダイナゴンの首は天寺へ行って、
天になった姫君の首を犯します。
姫君の首は死のうとしますが、
ダイナゴンの囁きに負けて天寺を逃げて、
山城の里へ隠れてダイナゴンの首の囲いものとなって髪の毛を生やします。
姫君の首もダイナゴンの首も、
もはや毛が抜け肉が腐り、
渦蟲が湧き骨が覗けていました。
二人の首は逆漏れをして鯉に戯れ、
歯の骨と歯の骨と噛み合ってカチカチ鳴り、
腐った肉がぺちゃぺちゃくっつきあい、
鼻もつぶれ、目の玉もくり抜けていました。
ぺちゃぺちゃとくっつき、
二人の顔の形が崩れるたびに女は仰う喜びで、
けたたましく笑いさざめきました。
ほれ、ほっぺたを食べてやりなさい。
ああ、おいしい。
姫君の喉も食べてやりましょう。
はい、目の玉もかじりましょう。
つづってやりましょうね。
はい、ぺろぺろ。
あら、おいしいね。もうたまんないのよ。
ねえ、ほら、うんとかじりついてやれ。
女はからから笑います。
きれいな澄んだ笑い声です。
薄い陶器が鳴るような爽やかな声でした。
坊主の首もありました。
坊主の首は女に憎がられていました。
いつも悪い役を振られ、
憎まれてなぶり殺しにされたり、
役人に処刑されたりしました。
坊主の首は首になって後にかえって毛が生え、
やがてその毛も抜けて腐り果て白骨になりました。
白骨になると女は別の坊主の首を持ってくるように命じました。
新しい坊主の首はまだ裏若いみずみずしい
乳後の美しさが残っていました。
女はよろこんで机にのせ酒を含ませ
頬ずりしてなめたりくすぐったりしましたが、
じき飽きました。
もっと太った憎ったらしい首よ。
女は命じました。
男は面倒になって五つほどぶら下げてきました。
よぼよぼの老僧の首も、
眉の太いほっぺたの厚い、
カエルがしがみついているような花の形の顔もありました。
耳の尖った馬のような坊主の首も、
ひどく神妙な首の坊主もあります。
けれども女の気に入ったのは一つでした。
それは五十ぐらいの大坊主の首で武男で、
目尻が垂れ、頬がたるみ、
くちびるが厚くてその重さで口が開いているようなだらしのない首でした。
女は垂れた目尻の両端を両手の指の先で押さえて、
くりくりとつり上げて回したり、
シシバナの穴へ二本の棒を差し込んだり、
逆さに立てて転がしたり、
抱きしめて自分の父を厚いくちびるの間へ押し込んで、
しゃぶらせたりして大笑いしました。
けれどもじきに飽きました。
美しい娘の首がありました。
清らかな静かな高貴な首でした。
子供っぽくてそのくせ死んだ顔ですから妙に大人びた憂いがあり、
閉じられたまぶたの奥に楽しい思いも悲しい思いも
ませた思いも一度にごっちゃに隠されているようでした。
女はその首を自分の娘か妹のように可愛がりました。
黒い髪の毛をすいてやり顔にお化粧をしてやりました。
ああでもないこうでもないと念を入れて、
鼻のかわりのむら立つような優しい顔が浮き上がりました。
娘の首のために一人の若い気候主の首が必要でした。
気候主の首も念入りにお化粧され、
二人の若者の首は燃え狂うような恋の遊びにふけります。
すねたり怒ったり憎んだり、
嘘をついたり騙したり、
悲しい顔をしてみせたり、
けれども二人の情熱が一度に燃え上がるときは、
一人の火がめいめい他の一人を焼き焦がして
どっちも焼かれて舞い上がる火炎になって燃え混じりました。
けれどもまもなく、悪侍だの、色好みの大人だの、
悪相だの、汚い首が邪魔に出て、
気候主の首は蹴られて打たれたあげくに殺されて、
右から左から、前から後ろから、
汚い首がごちゃごちゃ娘に挑みかかって、
娘の首には汚い首の腐った肉がへばりつき、
牙のような歯に食いつかれ、
鼻の先が欠けたり毛がむしられたりします。
すると女は娘の首を針でつついて穴をあけ、
小刀で切ったりえぐったり、
誰の首よりも汚らしい目も当てられない首にして投げ出すのでした。
男は都を嫌いました。
都の珍しさも慣れてしまうと、
都の退屈と男の葛藤
なじめない気持ちばかりが残りました。
彼も都では人並みに水管を着てもすねを出して歩いていました。
白昼は刀を刺すこともできません。
市へ買い物に行かなければなりませんし、
白首のいる居酒屋で酒を飲んでも金を払わねばなりません。
市の亜勤土は彼をなぶりました。
野菜を摘んで売りに来る田舎女も子供までなぶりました。
白首も彼を笑いました。
都では貴族は義者で道の真ん中を通ります。
水管を着た裸足の家来は大概振舞先に顔を赤くして
いばり散らして歩いていきました。
彼はまぬけだの、ばかだの、のろまだのと
市でも路上でもお寺の庭でも怒鳴られていました。
それでもうそれぐらいのことには腹が立たなくなっていました。
男は何よりも退屈に苦しみました。
人間どもというものは退屈なものだと彼はつくづく思いました。
彼はつまり人間がうるさいのでした。
大きな犬が歩いていると小さな犬が吠えます。
男は吠えられる犬のようなものでした。
彼は悲願だりねたんだりすねたり考えたりすることが嫌いでした。
山の獣や木や川や鳥はうるさくはなかったがなと彼は思いました。
都は退屈なところだなと彼はびっこの女に言いました。
お前は山へ帰りたいと思わないか。
私は都は退屈ではないからねとびっこの女は答えました。
びっこの女は一日中料理をこしらえ、洗濯し、近所の人たちとおしゃべりしていました。
都ではおしゃべりができるから退屈しないよ。私は山は退屈で嫌いさ。
お前はおしゃべりが退屈ではないのか。
当たり前さ。誰だってしゃべっていれば退屈しないもんだよ。
俺はしゃべればしゃべるほど退屈するのになぁ。
お前はしゃべらないから退屈なのさ。
そんなことがあるもんか。しゃべると退屈するからしゃべらないんだ。
でもしゃべってごらんよ。きっと退屈を忘れるから。
何を。
何でもしゃべりたいことをさ。
しゃべりたいことなんかあるもんか。
男はいまいましがってあくびをしました。
都にも山がありました。
しかし山の上には寺があったり、いおりがあったり、そしてそこにはかえって多くの人の往来がありました。
山から都が一目に見えます。
なんというたくさんの家だろう。そしてなんという汚い眺めだろうと思いました。
彼は毎晩人を殺していることを昼はほとんど忘れていました。
なぜなら彼は人を殺すことにも退屈しているからでした。
何も興味はありません。
刀でたたくと首がポロリと落ちているだけでした。
首は柔らかいものでした。
骨の手応えはまったく感じることがないもので、大根を切るのと同じようなものでした。
その首の重さのほうが彼にはよほど意外でした。
彼には女の気持がわかるような気がしました。
金つき堂では一人の坊主がやけになって金をついています。
なんという馬鹿げたことをやるのだろうと彼は思いました。
何をやりだすかわかりません。
こういう奴らと顔を見合って暮らすとしたら、
俺でも奴らを首にして一緒に暮らすことを選ぶだろうさと思うのでした。
けれども彼は女の欲望に霧がないのでそのことにも退屈していたのでした。
女の欲望はいわば常に霧もなく空を直線に飛び続けている鳥のようなものでした。
休む暇なく常に直線に飛び続けているのです。
その鳥は疲れません。
常に爽快に風を切り、すいすいと小気味よく無限に飛び続けているのでした。
けれども彼はただの鳥でした。
枝から枝を飛び回り、たまに谷を渡るぐらいがせいぜいで、
枝に止まってうたた寝しているフクロウにも似ていました。
彼は便称でした。
全身がよく動き、よく歩き、動作は生き生きしていました。
彼の心はしかし尻の重たい鳥なのでした。
彼は無限に直線に飛ぶことなどは思いもよらないのです。
男は山の上から都の空を眺めています。
その鳥を一羽の鳥が直線に飛んでいきます。
空は昼から夜になり、夜から昼になり、無限の明暗が繰り返し続きます。
その果てに何もなく、いつまでたってもただ無限の明暗があるだけ。
男は無限を事実において納得することができません。
その先の日、その先の日、そのまた先の日。
明暗の無限の繰り返しを考えます。
彼の頭は割れそうになりました。
それは考えの疲れてなしに考えの苦しさのためでした。
家へ帰ると女はいつものように首遊びにふけていました。
彼の姿を見ると女は待ち構えていたのでした。
今夜は白拍子の首を持ってきておくれ。
とびきり美しい白拍子の首だよ。
舞を舞わせるのだから。私が今夜を歌って聞かせてあげるよ。
男はさっき山の上から見つめていた無限の明暗を思い出そうとしました。
この部屋があのいつまでも果てのない無限の明暗の繰り返しの空のはずですが、
それはもう思い出すことができません。
そして女はとりでなしにやっぱり美しいいつもの女でありました。
けれども彼は答えました。
俺は嫌だよ。
女はびっくりしました。その挙句に笑い出しました。
おやおや、お前も臆病風邪に吹かれたの?
お前はただの弱虫ね。
そんな弱虫じゃないんだ。
じゃあ何さ。
霧がないから嫌になったのさ。
あらおかしいね。何でも霧がないものよ。
毎日毎日ご飯を食べて霧がないじゃないか。
毎日毎日眠って霧がないじゃないか。
それと違うのだ。
どんな風に違うのよ。
男は返事に詰まりました。けれども違うと思いました。
それで言いくるめられる苦しさを逃れて外へ出ました。
白拍子の首を持っておいで。
女の声が後ろから呼びかけましたが彼は答えませんでした。
彼はなぜ、どんな風に違うのだろうと考えましたがわかりません。
だんだん夜になりました。
彼はまた山の上へ登りました。
もう空も見えなくなっていました。
彼は気がつくと空が落ちてくることを考えていました。
空が落ちてきます。
彼は首を締め付けられるように苦しんでいました。
それは女を殺すことでした。
苦悩と桜の思い出
空の無限の明暗を走り続けることは女を殺すことによって止めることができます。
そして空は落ちてきます。
彼はほっとすることができます。
しかし彼の心臓には穴が開いているのでした。
彼の胸から鳥の姿が飛び去りかき消えているのでした。
あの女が俺なんだろうか。
そして空を無限に直線に飛ぶ鳥が俺自身だったのだろうかと彼は疑りました。
女を殺すと俺を殺してしまうのだろうか。
俺は何を考えているのだろう。
なぜ空を落とさねばならないのだかそれもわからなくなっていました。
あらゆる想念がとらえがたいものでありました。
そして想念の引いた跡に残るものは苦痛のみでした。
夜が明けました。
彼は女のいる家へ戻る勇気が失われていました。
そして数日山中をさまよいました。
ある朝目が覚めると彼は桜の花の下に寝ていました。
その桜の木は一本でした。
桜の木は満開でした。
彼は驚いて飛び起きましたがそれは逃げ出すためではありません。
なぜならたった一本の桜の木でしたから。
彼は鈴鹿の山の桜の森のことを突然思い出していたのでした。
あの山の桜の森も花盛りに違いありません。
彼は懐かしさに我を忘れ深い物思いに沈みました。
山へ帰ろう山へ帰るのだ。
なぜこの単純なことを忘れていたんだろう。
そしてなぜ空を落とすことなどを考えふけていたんだろう。
帰郷と愛の葛藤
彼は悪夢の覚めた思いがしました。
救われた思いがしました。
今までその近くまで失っていた山の早春の匂いが身に迫って強く冷たくわかるのでした。
男は家へ帰りました。
女は嬉しげに彼を迎えました。
どこへ行っていたのさ。無理なことを言ってお前を苦しめてすまなかったわね。
でもお前がいなくなってから私の寂しさを察しておくれな。
女がこんなに優しいことは今までにないことでした。
男の胸は痛みました。
もう少しで彼の決意は溶けて消えてしまいそうです。
けれども彼は思い決しました。
俺は山へ帰ることにしたよ。
私を残して帰え。
そんな無事らしいことがどうしてお前の心に住むようになったんだろう。
女の目は怒りに燃えました。
その顔は裏切られた口寄しさでいっぱいでした。
お前はいつからそんな白状者になったのよ。
だからさ、俺は都が嫌いなんだ。
私というものがいても帰え。
俺は都に住んでいたくないだけなんだ。
でも私がいるじゃないか。
お前は私が嫌いになったのかい。
私はお前のいない留守はお前のことばかり考えていたんだよ。
女の目に涙の雫が宿りました。
女の目に涙の宿ったのは初めてのことでした。
女の顔にはもはや怒りは消えていました。
つれなさを恨む切なさのみがあふれていました。
だってお前は都でなきゃ住むことができないんだろう。
俺は山でなきゃ住んでいられないんだ。
私はお前と一緒でなきゃ生きていられないんだよ。
私の思いがお前にはわからないのかね。
でも俺は山でなきゃ住んでいられないのだぜ。
だからお前が山へ帰るのなら私も一緒に山へ帰るよ。
私はたとえ一日でもお前と離れて生きていられないんだもの。
女の目は涙に濡れていました。
男の胸に顔を押し当てて熱い涙を流しました。
涙の熱さは男の胸にしみました。
確かに女は男なしでは生きられなくなっていました。
新しい首は女の命でした。
そしてその首を女のためにもたらすものは彼のほかにはなかったからです。
彼は女の一部でした。
女はそれを話すわけにはいきません。
男のノスタルジーが満たされたとき、再び都へ連れ戻す確信が女にはあるのでした。
でもお前は山で暮らせるかい?
お前と一緒ならどこででも暮らすことができるよ。
山にはお前の欲しがるような首がないんだぜ。
お前と首とどっちか一つを選ばなきゃならないなら私は首をあきらめるよ。
夢ではないかと男は疑りました。
あまり嬉しすぎて信じられないからでした。
夢にすらこんな願ってもないことは考えることができなかったのでした。
彼の胸は新たな希望でいっぱいでした。
その訪れは唐突で乱暴で、今のさっきまでの苦しい思いがもはやとらえがたい彼方へ隔てられていました。
彼はこんなに優しくはなかった昨日までの女のことも忘れました。
今と明日があるだけでした。
二人は直ちに出発しました。
ビッコの女は残すことにしました。
そして出発のとき女はビッコの女に向かって、
じき帰ってくるから待っておいでとひそかに言い残しました。
目の前に昔の山々の姿が現れました。
呼べば答えるようでした。
急道をとることにしました。
その道はもう踏む人がなく、道の姿は消えうせてただの林、ただの山坂になっていました。
その道を行くと桜の森の下を通ることになるのでした。
背負っておくれ。こんな道のない山坂は私は歩くことができないよ。
ああいいとも。
男は軽々と女を背負いました。
運命の最終章
男は初めて女を得た日のことを思い出しました。
その日も彼は女を背負って峠のあちら側の山道を登ったのでした。
その日も幸せでいっぱいでしたが、きょうの幸せはさらに豊かなものでした。
初めてお前に会った日もおんぶしてもらったわね。
と女も思い出して言いました。
俺もそれを思い出していたんだぜ。
男はうれしそうに笑いました。
ほら見えるだろう。あれがみんな俺の山だ。
谷も木も鳥も雲まで俺の山さ。
山はいいなあ。走ってみたくなるじゃないか。
都ではそんなことはなかったからなあ。
初めての日はおんぶしてお前を走らせたもんだったわね。
ほんとだ。ずいぶん疲れて目がまわったおんさ。
男は桜の森の花盛りを忘れてはいませんでした。
しかしこの幸福な日にあの森の花盛りの下が何ほどのものでしょうか。
彼は恐れていませんでした。
そして桜の森が彼の眼前に現れてきました。
まさしく一面の満開でした。
風に吹かれた花びらがパラパラと落ちています。
土肌の上は一面に花びらが敷かれていました。
この花びらはどこから落ちてきたのだろう。
なぜなら花びらのひとひらが落ちたとも思われぬ満開の花の下が
見はるかす頭上に広がっているからでした。
男は満開の花の下へ歩き込みました。
辺りはひっそりとだんだん冷たくなるようでした。
彼はふと女の手が冷たくなっていることに気がつきました。
にわかに不安になりました。
とっさに彼はわかりました。
女が鬼であることを。
突然どっという冷たい風が花の下の四方の果てから吹き寄せていました。
男の背中にしがみついているのは全身が紫色の顔の大きな老婆でした。
その口は耳まで裂け、ちじくれた髪の毛は緑でした。
男は走りました。振り落そうとしました。
鬼の手に力がこもり彼の喉に食い込みました。
彼の目は見えなくなろうとしました。
彼は夢中でした。全身の力を込めて鬼の手を緩めました。
その手の隙間から首を抜くと、背中を滑ってどさりと鬼は落ちました。
今度は彼が鬼に組みつく番でした。
鬼の首を締めました。
そして彼がふと気づいたとき、
彼は全身の力を込めて女の首を締め付け、そして女はすでに生き絶えていました。
彼の目はかすんでいました。
彼はより大きく目を見開くことを試みましたが、
それによって視覚が戻ってきたように感じることができませんでした。
なぜなら、彼の締め殺したのは、さっきと変わらずやはり女で、
同じ女の死体がそこにあるばかりだからでありました。
彼の呼吸は止まりました。
彼の力も、彼の思念も、すべてが同時に止まりました。
女の死体の上には、すでにいくつかの桜の花びらが落ちてきました。
彼は女を揺さぶりました。
呼びました。抱きました。
虎王でした。
彼はわっと泣き伏しました。
たぶん彼がこの山に住みついてからこの日まで泣いたことはなかったでしょう。
そして彼が自然に我に帰ったとき、
彼の背には白い花びらが積もっていました。
そこは桜の森のちょうど真ん中のあたりでした。
四方の果ては、花に隠れて奥が見えませんでした。
日頃のような恐れや不安は消えていました。
花の果てから吹き寄せる冷たい風もありません。
ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散り続けているばかりでした。
彼は初めて桜の森の満開の下に座っていました。
いつまでもそこに座っていることができます。
彼はもう帰るところがないのですから。
桜の森の満開の下の秘密は誰にも今もわかりません。
あるいは孤独というものであったのかもしれません。
なぜなら男はもはや孤独を恐れる必要がなかったのです。
彼自らが孤独自体でありました。
彼は初めて四方を見まわしました。
頭上に花がありました。
その下にひっそりと無限の虚空が満ちていました。
ひそひそと花があふります。
それだけのことです。
他には何の秘密もないのでした。
ほどへて彼はただ一つの生温かな何ものかを感じました。
そしてそれが彼自身の胸の悲しみであることに気がつきました。
花と虚空の冴えた冷たさに包まれて、
ほの暖かい膨らみが少しずつわかりかけてくるのでした。
彼は女の顔の上の花びらを取ってやろうとしました。
彼の手が女の顔に届こうとしたときに、
何か変わったことが起こったように思われました。
すると彼の手の下には降り積もった花びらばかりで、
女の姿はかき消えてただいくつかの花びらになっていました。
そしてその花びらをかき分けようとした彼の手も
彼の体も伸ばしたときにはもはや消えていました。
あとに花びらと冷たい虚空が張り詰めているばかりでした。
1990年発行。
ちくま書房。
ちくま文庫。
坂口安吾全集5。
より独了を読み終わりです。
うーん、何ですかこれは。
何を言いたいんですか。
うーん、花びらだったのね。
鬼だと思ったら女で、女だと思ったら花びらだったのね。
で桜の下が怖いのね。
で、何のメタファーかってことですよ。
わかりませんね。
これどうやって解釈するんだろうか。
うーん、みなさんはどう感じたでしょうか。
あの本、何だっけ、首遊び。
あんなにだらだらなかなか書く必要あったかね。細かく。
腐った肉はどうとかさ。
目玉がどうとかさ。
はー。
怖い、怖くはないけど。
怖くはないけど、何ていうか不気味というか不思議というか。
ね。
いかがでしたでしょうか。
はい、桜と入ってたので読みましたが、そんなに明るい話でもないですね。
んふふふふ。ね。
そういえば好きなラジオ番組に東京ポッド許可局というのがあるんですが、
もともとポッドキャストやってたのがTBSラジオに昇格してやってる番組なんですけど、
おじさんたち3人が、ああでもね、こうでもないってグダグダやってる感じなんですけど、
なんかダラッと聞いててすごく良くて。
でそのイベントが2月にやって、
あ、ちょっと現地にはいけないので配信チケットで見たんですけど、すごく面白くてね。
まあこのポッドキャストが上がる頃にはもう配信の視聴期間、期限が来ちゃってると思いますけど、
その勢いでグッズTシャツを買ってしまいました。
日本口笛おじさんTシャツっていう、
街中で時々ご機嫌に口笛吹いてるおじさんいるでしょ。
それの目撃報告をするっていうコーナーから生まれたTシャツなんですけど、
Lが全部売り切れてたんで、
XLオーバーサイズを買ってみましたが、
今年の夏はそれを着て生活しようかなと思っています。
といったところで、
無事に値落ちできた方も、最後までお付き合いいただいた方も大変お疲れ様でございました。
といったところで、今日のところはこの辺で、また次回お会いしましょう。
おやすみなさい。
54:49

コメント

スクロール