物語の導入
寝落ちの本ポッドキャスト
こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには、面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。
ご意見・ご感想・ご依頼は、公式Xマでどうぞ。
寝落ちの本で検索してください。
また、最近投稿フォームも別途ご用意しました。
あわせてご利用ください。
あ、それから番組フォローもどうぞよろしくお願いします。
さて、今日はですね、横光利一さんの
春は馬車に乗ってというテキストを読もうと思います。
なんかここのところ、ホラーだったり胸クソだったり、
不気味だったりみたいなテキストが立て続けに続いていて、
江戸川乱法の黒猫に至っては、
はーい黒猫ちゃんだと思ったら胸クソだったので、
なんかね、くらった感じでしたけど、
今回は春は馬車に乗ってって、
なんかね素敵っぽい感じかなと思って手に取りましたが、
内容は全然知らないので、また裏切られるかもしれません。
はい、横光利一さん、過去にも読んだことがあります。
水蓮っていうのをね、シャープいくつかちょっとわからないですけど読みました。
横光利一さん、日本の小説家、俳人、評論家、
菊池寛に支持し、片岡鉄平、川端康成だとともに文芸時代を創刊し、
新感覚派文学の運動を起こす。
代表作にハエ、機械、領収などがあるそうです。
そんな横光利一さんの今日を読み上げるテキストは、
春は馬車に乗ってです。
素敵だといいな。どうなんでしょうか。
どうか寝落ちまでお付き合いください。
夫婦の対話
それでは参ります。
春は馬車に乗って、開品の松が小枯らしになり始めた。
庭の片隅で人村の小さなダリヤが縮んでいった。
彼は妻の寝ている寝台のそばから、
潜水の中の鈍い亀の姿を眺めていた。
亀が泳ぐと、水面から照り返された明るい水泳が、
乾いた石の上で揺れていた。
「まあね、あなた、あの松の葉が、この頃それはきれいに光るのよ。」
と、妻は言った。
お前は松の木を見ていたんだな。
ええ。
俺は亀を見ていたんだ。
二人はまたそのまま黙り出そうとした。
お前はそこで長い間寝ていて、
お前の感想はたった松の葉が美しく光るということだけなのか?
ええ。だって私、もう何も考えないことにしているの。
人間は何も考えないで寝ていられるはずがない。
そりゃ考えることは考えるわ。
私、早く良くなって、シャッシャと井戸で洗濯がしたくってならないの。
洗濯がしたい?
彼はこの異相外の妻の欲望に笑い出した。
お前はおかしな奴だね。
俺に長い間苦労をかけておいて、洗濯がしたいとは変わった奴だ。
でも、あんなに丈夫な時が羨ましいの。
あなたは不幸な方だわね。
うん。
と、彼は言った。
彼は妻をもらうまでの四五年にわたる彼女の家庭との長い相当を考えた。
それから妻と結婚してから、母と妻との間に挟まれた二年間の苦痛な時間を考えた。
彼は母が死に妻と二人となると、急に妻が胸の病気で寝てしまったこの一年間の患難を思い出した。
なるほど。俺ももう洗濯がしたくなった。
あたし、今死んだってもういいわ。
だけどもあたし、あなたにもっと恩を返してから死にたいの。
この頃あたし、そればかり苦になって、俺に恩を返すってどんなことをするんだね。
それあたし、あなたを大切にして…
どういうから?
もっといろいろすることがあるわ。
しかし、もうこの女は助からない、と彼は思った。
俺はそういうことはどうだっていいんだ。ただ俺は…そうだね。
ドイツのミュウヘン辺りへ一遍行って、それも雨の降っているところでなくちゃ行く気がしない。
あたしも行きたい、と妻は言うと、急に寝台の上で腹を波のようにうねらせた。
いや、お前は絶対安静だ。
いやいや、あたし歩きたい。起こしてよ。ねえ、ねえ。
だめだ。あたし死んだっていいから。
死んだって始まんない。
いいわよ。いいわよ。
まあ、じっとしてるんだ。
それから一生の仕事に松の葉がどんなに美しく光るかっていう形容詞をたった一つ考え出すのだね。
妻は黙ってしまった。
彼は妻の気持ちを転換さすために柔らかな話題を選択しようとして立ち上がった。
海では午後の波が遠く岩に当たって散っていた。
一艘の船が傾きながら鋭い岬の先端を回って行った。
渚では逆まく濃乱色の背景の上で子供が二人湯気の立った芋を持って紙くずのように座っていた。
彼は自分に向かって次々に来る苦痛の波を避けようと思ったことはまだなかった。
このそれぞれに質を違えて襲ってくる苦痛の波の原因は、自分の肉体の存在の最初において働いていたように思われたからである。
彼は苦痛を、例えば砂糖を舐める舌のように、あらゆる感覚の芽を光らせて吟味しながら舐め尽くしてやろうと決心した。
そして最後にどの味がうまかったか。
俺の体は一本のフラスコだ。
何物よりもまず透明でなければならんと彼は考えた。
ダリアの茎が干からびた縄のように地の上で結ぼれ出した。
潮風が水平線の上から終日吹きつけてきて冬になった。
彼は砂風の巻き上がる中を、一日に二度ずつ妻の食べたがる新鮮な鳥の雑物を探しに出かけて行った。
彼は海岸町の鳥屋という鳥屋を片っ端から訪ねて行って、そこの黄色いまな板の上から一応庭の中を眺め回してから聞くのである。
雑物はないか、雑物は。
彼は運よく目の尾のような雑物を氷の中から出されると、勇敢な足取りで家に帰って妻の枕元に並べるのだ。
このマガタマのようなのは鳩の腎臓だ。
この光沢のある肝臓を、これはアヒルの生肝だ。
これはまるで噛み切った一片の唇のようで、この小さな青い卵はこれはコンロンザンの鼻水のようで。
すると、彼の饒舌に扇動させられた彼の妻は、最初の接吻を迫るように華やかに床の上で食欲のために身も題した。
彼は残酷に雑物を奪い上げると、すぐ鍋の中へ投げ込んでしまうのが常であった。
理論と感情の葛藤
妻は、檻のような寝台の格子の中から微笑しながら絶えず沸き立つ鍋の中を眺めていた。
「お前はここから見ていると実に不思議な獣だね。」
と彼は言った。
「まあ獣だって、あたしこれでも奥さんよ。」
「うーん、雑物を食べたがっている檻の中の奥さんだ。お前はいつの場合においてもどこかほのかに残忍性をたたいている。」
「それはあなたよ。あなたは理智的で残忍性を持っていて、いつでも私のそばから離れたがろうとばかり考えていらして。」
「それは檻の中の理論である。」
彼は、彼の額にいぶり出す片縁のようなシワさえも敏感に見逃さない妻の感覚をごまかすために、この頃いつもこの結論を用意していなければならなかった。
それでも時には妻の理論は急激に傾きながら、彼の急所を突き通して旋回することが度々あった。
「実際、俺はお前のそばに座っているのは、そりゃ嫌だ。排病というものは決して幸福なものではないからだ。」
彼はそう直接妻に向かって逆襲することがあった。
「そうではないか。俺はお前から離れたとしても、この庭をぐるぐる回っているだけだ。
俺はいつでもお前の寝ている寝台から網をつけられていて、その網の描く円周の中で回っているより仕方がない。
これは哀れな状態である以外の何者でもないではないか。」
「あなたは、あなたは遊びたいからよ。」と妻は悔しそうに言った。
「お前は遊びたくないのかね。」
「あなたは他の女の方と遊びたいのよ。」
「しかしそういうことを言い出して、もしそうだったらどうするんだ。」
そこで妻が泣き出してしまうのが習いであった。
彼はハッとして、また逆に理論を極めて、もの柔らかに解きほぐしていかねばならなかった。
「なるほど俺は朝から晩までお前の枕元にいなければならないというのは嫌なのだ。
それで俺は一刻も早くお前を良くしてやるためにこうしてぐるぐる同じ庭の中を回っているのではないか。これには俺とて一通りのことじゃないさ。」
「それはあなたのためだからよ。私のことをちょっとも良く思ってしてくださるんじゃないんだわ。」
彼はここまで妻から憎白されてくると、当然彼女の檻の中の理論に取引しがれた。
だが果たして自分は自分のためにのみこの苦痛を噛み殺しているのだろうか。
「それはそうだ。俺はお前の言うように俺のために何事も忍耐しているのに違いない。
しかしだ。俺が俺のために忍耐しているということは、一体誰ゆえにこんなことをしていなければならないんだ。
俺はお前さえいなければこんな馬鹿な動物園の真似はしていたくないんだ。
そこをしているというのは誰のためだ。お前以外の俺のためだとでも言うのか。馬鹿馬鹿しい。」
こういう夜になると妻の熱は決まって九度近くまで上り出した。
彼は一本の理論を鮮明にしたために、表納の口を開けたり閉めたり、夜通ししなければならなかった。
しかしなお彼は、自分の休息する理由の説明を明瞭にするために、この懲りるべき理由の整理をほとんど日々し続けなければならなかった。
彼は食うためと病人を養うためとに別室で仕事をした。
すると彼女はまた、檻の中の理論を持ち出して彼を責め立ててくるのである。
「あなたは私のそばをどうしてそう離れたいんでしょう。今日はたった三度よりこの部屋へ来てくださらないんですもの。わかっていてよ。あなたはそういう人なんですもの。」
「お前という奴は俺がどうすればいいと言うんだ。俺はお前の病気を良くするために薬と食物を買わなければならないんだ。
誰がじっとしていて金をくれる奴があるもんか。お前は俺に手品でも使えと言うんだね。」
「だって仕事ならここでもできるでしょう。」と妻は言った。
「いやここではできない。俺はほんの少しでもお前のことを忘れている時でなければできないんだ。」
「そりゃそうですわ。あなたは二十四時間仕事のことより何も考えない人なんですもの。私なんかどうだっていいんですわ。」
「お前の敵は俺の仕事だ。しかしお前の敵は実は絶えずお前を助けているんだよ。」
「私寂しいの。」
「いずれ誰だって寂しいに違いない。」
「あなたはいわ仕事があるんですもの。私は何もないんだわ。」
「探せばいいじゃないか。」
「私はあなた以外に探せないんです。私はじっと天井を見て寝てばかりいるんです。」
「もうそこらでやめてくれ。どちらも寂しいとしておこう。」
「俺には締め切りがある。今日かき上げないと向こうがどんなに困るか知れないんだ。」
「どうせあなたはそうよ。私より締め切りのほうが大切なんですから。」
「いや締め切りということは相手のいかなる事情も知りづけるという針札なんだ。俺はこの針札を見て引き受けてしまった以上、自分の事情なんか考えてはいられない。」
「そうよ。あなたはそれほど理智的なのよ。いつでもそうなの。私、そういう理智的な人は大嫌い。」
「お前は俺の家のものである以上、他から来た針札に対しては俺と同じ責任を持たなければならないんだ。」
「そんなものに引き受けなければいいじゃありませんか。」
「しかし俺とお前の生活はどうなるんだ。」
「私、あんたがそんなに霊体になるくらいなら死んだほうがいいの。」
すると彼は黙って庭へ飛び降りて深呼吸をした。
それから彼はまた風呂敷を持ってその日の造物を買いにこっそりと街の中へ出かけていった。
しかしこの彼女の檻の中の理論は、その檻に繋がれて回っている彼の理論を絶えず全身的な興奮を持って、ほとんど間髪の隙間を抑えも漏らさず追っかけてくるのである。
このため彼女は、彼女の檻の中で製造する病的な理論の鋭利さのために、自身の肺の組織を一日加速度的に破壊していった。
妻の苦しみと夫の使命感
彼女のかつて丸く張った滑らかな足と手は、竹のように痩せてきた。
胸を叩けば軽いハリコのような音を立てた。
そして彼女は、彼女の好きな鳥の造物さえももう振り向きもしなくなった。
彼は彼女の食欲を勧めるために、海から獲れた新鮮な魚の数々を縁側に並べて説明した。
これはアンコで踊り疲れた海のピエロ。
これはエビで車エビ。
エビは甲冑をつけて倒れた海の武者。
このアジは暴風で吹き上げられた木の葉である。
私、それより聖書を読んでほしい。
と彼女は言った。
彼はポウロのように魚を持ったまま不吉な予感に打たれて妻の顔を見た。
私、もう何も食べたくないの。
私、一日に一度ずつ聖書を読んでもらいたいの。
そこで彼は仕方なく、その日から汚れたバイブルを取り出して読むことにした。
エホバヨ、我が祈りを聞きたまえ。
願わけば叫びの声の御前に至らんことを。
我が悩みの日、ミカオオオイタモウナカレ。
汝の耳を我に傾け、我が呼ぶ日に速やかに我に答えたまえ。
我が諸々の火は煙のごとく消え、我が骨は竹木のごとく焼かるるなり。
我が心は草のごとく打たれてしおれたり。
我、糧を喰らうを忘れ死による。
しかし不吉なことはまた続いた。
ある日暴風の夜が明けた翌日、庭の池の中からあの鈍い亀が逃げてしまっていた。
彼は妻の病勢が進むにつれて、彼女の寝台のそばからますます離れることができなくなった。
彼女の口から痰が一分ごとに出始めた。
彼女は自分でそれを取ることができない以上、彼が取ってやるより取るものがなかった。
また彼女は激しい腹痛を訴え出した。
咳の大きな発作が昼夜を分かたず五回ほど突発した。
その度に彼女は自分の胸をひっかき回して苦しんだ。
彼は病人とは反対に落ち着かなければならないと考えた。
しかし彼女は彼が冷静になればなるほどその苦悶の最中に咳を続けながら彼を罵った。
人の苦しんでいるときにあなたは、あなたは他のことを考えて。
まあ、静まれ。今はどうなっちゃう。
あなたが落ち着いているから憎らしいのよ。
いや、俺が今慌てては。
やかましい。
彼女は彼の持っている紙をひったけてと自分の胆を横殴りに拭き取って彼に投げつけた。
彼は片手で彼女の全身から流れ出す汗を所を選ばず拭きながら、
片手で彼女の口から咳出す痰を絶えず拭き取っていなければならなかった。
彼のしゃがんだ腰は痺れてきた。
彼女は苦し紛れに天井を睨んだまま両手を振って彼の胸を叩き出した。
汗を拭き取る彼のタオルが彼女の寝巻きに引っかかった。
すると彼女は布団を蹴りつけ、体をバタバタ波打たせて起き上がろうとした。
ああ、だめだ、だめだ、動いちゃう。
苦しい、苦しい。
落ち着け。
苦しい。
やられるぞ。
うるさい。
彼は盾のように打たれながら、彼女のザラザラした胸を撫で、さすった。
しかし彼はこの苦痛な頂点においてさえ、
妻の健康なときに彼女から与えられた自分の嫉妬の苦しみよりも、むしろ数段の柔らかさがあると思った。
してみると彼は、妻の健康の肉体よりも、この腐った肺臓を持ち出した彼女の病態の方が、
自分にとってはより幸福を与えられているということに気がついた。
これは新鮮だ。
俺はもうこの新鮮な解釈に寄りすがっているより仕方がない。
彼はこの解釈を思い出すたびに、海を眺めながら、突然アハアハと大きな声で笑い出した。
すると妻はまた、檻の中の理論を引きずり出して、にがにがしそうに彼を見た。
いいわ、あたし、あなたが何で笑ったのかちゃんと知ってるんですもの。
いや、俺はお前が良くなって、様相をきたがってピンピンはしゃがれるよりは、
静かに寝ていられる方がどんなに有利は高いか知らないんだ。
第一、お前はそうしていると、青ざめていて気品がある。
まあ、ゆっくり寝ていてくれ。
あなたはそういう人なんだから。
そういう人なればこそ、ありがたがって看病ができるのだ。
看病、看病って。
あなたは二言目には看病を持ち出すのね。
これは俺の誇りだよ。
あたしこんな看病なら、してほしかないの。
ところが、俺が例えば3分間向こうの部屋へ行っていたとする。
すると、お前は3日もほったらかされたように言うではないか。
さあ、何とか返答してくれ。
あたしは何も文句を言わずに看病がしてもらいたいの。
嫌な顔をされたり、うるさがられたりして看病されたって、
ちっともありがたいと思うなよ。
しかし看病というのは本来うるさい性質のものとして出来上がってるんだぜ。
そりゃ分かってるわ。そこはあたし黙ってしてもらいたいの。
そうだ。お前の看病をするためには一族老頭を引き連れて来ておいて、
金を100万円ほど積み上げて、それから博士を10人ほどと看護婦を100人ほどと。
あたしはそんなことなんかしてもらえたがないの。
あたしはあなた一人にしてもらいたいの。
つまり俺が一人で10人の博士の真似と100人の看護婦と100万円の盗取りの真似をしろって言うんだね。
あたしそんなこと言ってなんか嫌しない。
あたしはあなたにじっと側にいてもらえば安心できるの。
そりゃ見ろ。だから少々俺の顔が歪んだり文句を言ったりするくらいは我慢しろ。
あたし死んだらあなたを恨んで恨んで恨んで、そして死ぬの。
それぐらいのことなら平気だね。
妻は黙ってしまった。
しかし妻はまだ何か彼に切りつけたくてならないように黙って必死に頭を研ぎ澄ましているのを彼は感じた。
しかし彼は彼女の病成を進ます彼自身の仕事と生活のことを考えねばならなかった。
だが彼は妻の看病と睡眠の不足からだんだんと疲れてきた。
彼は疲れれば疲れるほど彼の仕事ができなくなるのはわかっていた。
彼の仕事ができなければできないほど彼の生活が困り出すのも決まっていた。
それにもかかわらず更新してくる病人の費用は彼の生活の困り出すのに比例して増してくるのは明らかなことであった。
しかもなおいかなることがあろうとも彼がますます疲労していくことだけは事実である。
それなら俺はどうすればいいのか。
もうここらで俺もやられたい。
そしたら俺は何不足なく死んでみせる。
彼はそう思うことも時々あった。
しかしまた彼はこの生活の難局をいかにして切り抜けるか、その自分の手腕を一度はっきり見たくもあった。
病の終焉と別れの覚悟
彼は夜中起こされて妻の痛む腹をさすりながら、
なおうれきことのつれかし、なおうれきことのつれかし、とつぶやくの学生になった。
ふと彼がそういう時、ぼうぼうとした青い羅車の上をつかれた玉が一人、ひょうひょうとして転がっていくのが目に浮かんだ。
あれはおれの玉だ。
しかしあのおれの玉を誰がこんなでたらめについたのか。
あなた、もっと強くさすってよ。
あなたはどうしてそうめんどくさがりになったのでしょう。
もとはそうじゃなかったわ。もっと親切に。
あたしのおなかをさすってくださったわ。
それなのにこのごろは…
あいた、あいた、と彼女は言った。
俺もだんだん疲れてきた。
もうすぐ俺も参るだろう。
そしたら二人がここでのんきに寝ころんでいようじゃないか。
すると彼女は急に静かになって、床の下から泣き出した虫のような哀れな声でつぶやいた。
あたし、もうあなたにさんざん我慢を言ったわね。
もうあたし、これでいつ死んだっていいわ。
あたし満足よ。
あなた、もう寝てちょうだいな。
あたし我慢をしてるから。
彼はそう言われると深くにも涙が出てきて撫でてる腹の手を休める気がしなくなった。
庭の芝生が冬の潮風に枯れてきた。
ガラス戸は終日辻柱の扉のようにガタガタと震えていた。
もう彼は家の前に大きな海のひかれているのを長い間忘れていた。
ある日彼は医者のところへ妻の薬をもらいに行った。
そうそう、もっと前からあなたに言おう言おうと思ってたんですが、
と医者は言った。
あなたの奥さんは、
もうだめですよ。
はあ。
彼は自分の顔がだんだん青ざめていくのをはっきりと感じた。
もう左の肺がありませんし、
それに右ももうよほど進んでおります。
彼は貝品に沿って車に揺られながら荷物のように帰ってきた。
晴れ渡った明るい海が、
彼の顔の前で死をかくまっている単調な膜のようにだらりとしていた。
彼はもうこのままいつまでも妻を見たくないと思った。
もし見なければ、
いつまでも妻が生きているのを感じていられるに違いないのだ。
彼は帰るとすぐ自分の部屋へ入った。
そこで彼はどうすれば妻の顔を見なくて済まされるかを考えた。
彼は空から庭へ出ると芝生の上へ寝転んだ。
体が重くぐったりと疲れていた。
涙が力なく流れてくると、
彼は枯れた芝生の葉を丹念にむしっていた。
死とは何だ。
ただ見えなくなるだけだと彼は思った。
しばらくして彼は乱れた心を整えて妻の病室へ入っていった。
妻は黙って彼の顔を見つめていた。
何か冬の花でもいらないか。
あなた、泣いていたのね。
と妻は言った。
いや、そうよ。
泣く理由がないじゃないか。
もうわかっていてよ。お医者さんが何か言ったの。
妻はそう一人定めてかかると、
別に悲しそうな顔もせずに黙って天井を眺め出した。
彼は妻の枕元の遠い椅子に腰を下ろすと、
彼女の顔を改めて見覚えておくようにじっと見た。
もうすぐ二人の間の扉は閉められるのだ。
しかし彼女も俺も、
もうどちらもお互いに与えるものは与えてしまった。
今は残っているものは何ものもない。
その日から彼は彼女の言うままに機械のように動き出した。
そして彼はそれが彼女に与える最後の選別だと思っていた。
ある日、妻はひどく苦しんだ後で彼に言った。
「ねえあなた、今度モルヒネを買ってきてよ。」
「どうするんだね?」
「あたし飲むの。モルヒネを飲むと、
もう目が覚めずにこのままずっと眠ってしまうんですって。」
「つまり死ぬことかい?」
「ええ、あたし死ぬことなんかちょっとも怖くないわ。
もう死んだらどんなにいいか知れないわ。」
「お前もいつの間にか偉くなったもんだね。
そこまで行けばもう人間もいつ死んだって大丈夫だ。」
「でもあたしね、あなたにすまないと思うのよ。
あなたを苦しめてばっかりいたんですもの。ごめんなさいな。」
「うん。」と彼は言った。
「あたし、あなたの心はそれはよくわかっているの。
だけどあたしこんなにわがままを言ったのも、
あたしが言うんじゃないわ。病気が言わすんだから。」
「そうだ、病気だ。
あたしね、もう遺言も何も書いてあるの。
だけど今は見せないわ。
あたしの床の下にあるから、死んだら見てちょうだい。」
彼は黙ってしまった。
事実は悲しむべきことなのだ。
日常の影と憩いの場所
それにまだ悲しむべきことを言うのはやめてもらいたいと彼は思った。
カダンの石のそばで、
ダリアの吸魂が掘り出されたまま下に腐っていった。
亀に代わってどこかから来た野の猫が、
彼の空いた書斎の中をのびやかに歩き出した。
妻はほとんど終日苦しさのために何も言わずに黙っていた。
彼女は絶えず水平線を狙って、
海面に突き出している遠くの光った岬ばかりを眺めていた。
彼は妻のそばで彼女に課せられた聖書を時々読み上げた。
エホバヨ。
願けば息通りをもて我を責め、
激しき怒りをもて懲らしめ給うなかれ。
エホバヨ。
我を憐れ見たまえ。
我しぼみ衰をなり。
エホバヨ。
我を癒したまえ。
我が骨罠なき古う。
我が魂さえも痛く古い罠なく。
エホバヨ。
かくて幾その時を経たもうや。
死にありては汝を思いずることもなし。
彼は妻のすすり泣くのを聞いた。
彼は聖書を読むのをやめて妻を見た。
おまえ今何を考えていたんだね。
あたしの骨は何処へ行くんでしょう。
あたしそれが気になるの。
彼女の心は今自分の骨を気にしている。
彼は答えることができなかった。
もうだめだ。
彼は頭を垂れるように心を垂れた。
すると妻の眼から涙が一層激しく流れてきた。
どうしたな。
あたしの骨の行き場がないんだわ。
あたしどうすればいいんでしょう。
彼は答えの代わりにまた聖書を急いで読み上げた。
神よ願わくば我を救いたまえ。
大水流れ来たりて我が魂にまで泳べり。
我立ちどなき深き泥の中に沈めり。
我深水に落ち入る。
我が水我が上をあふれすぐ。
我長きによりて疲れたり。
我が喉は渇き。
我が眼は我が神を待ちわびて衰えぬ。
彼と妻とはもうしおれた一錐の茎のように
日々黙って並んでいた。
しかし今は二人は完全に死の準備をしてしまった。
もう何事が起ころうとも怖がるものはなくなった。
そして彼の暗く落ち着いた家の中では
山から運ばれて来る水亀の水が
いつも静まった心のように清らかに満ちていた。
彼の妻の眠っている朝は
朝ごとに彼は海面から頭を持たげる
新しい陸地の上を素足で歩いた。
前夜満潮に打ち上げられた海藻は
冷たく彼の足に絡まりついた。
時には風に吹かれたようにさまよい出て来た海辺の童子が
生々しい緑の海苔に滑りながら岩角をよじ登っていた。
海面にはだんだん白穂が増していった。
海際の白い道が日増しに賑やかになってきた。
ある日彼のところへ
自陣から思わぬスイートピーの花束が
岬を回って届けられた。
長らく寒風にさびれ続けた家の中に
初めて早春がにおやかに訪れて来たのである。
彼は花粉にまみれた手で花束を捧げるように持ちながら
妻の部屋へ入って行った。
とうとう春がやって来た。
「まあ綺麗だわね。」と妻は言うと
微笑みながら野生をとろえた手を花の方へ差し出した。
「これは実に綺麗じゃないか?」
「どこから来たの?」
この花は馬車に乗って海の岸を真っ先に
聖書と救いの探求
春をまきまきやって来たのさ。
妻は彼から花束を受け取ると
両手で胸いっぱいに抱きしめた。
そして彼女はその明るい花束の中へ
青ざめた顔を埋めると
黄骨として目を閉じた。
1969年発行
新庁舎 新庁文庫
機械 春は馬車に乗って
より独領を読み終わりです。
明るい話かと思ったら
もういきなり妻が死にかけてた。
なんだよー
そうなのかよー
ねぇ
春と馬車つったらなんかルンルンな感じかと思ったら
そうですか
うーん
なんかどんどんダリヤが枯れていく感じとかね
あとなんかビリヤードっぽい描写がありましたね
ラシャの上を…なんだっけどの辺だっけ
青いラシャの上を疲れた玉が一人ひょひょとして転がっていく
これはビリヤードだろうな
うーん
どういう表現なんだろうか
どういう意味なんだろうか
そしてやっとこの時代の人は聖書を読みますね
うーん
芥川龍之介とかも出てくるしね
中原忠也にも聖書出てきますもんね
キリスト教が結構はびこってるっていうか
はびこってるって言い方あるんだけど
救いを求める先に聖書がっていうのがよく出てきますね
うーんどうですか
春目いった作品が青空文庫にはないのか
詩とかになるのかな
詩は読んでてもな
はいということで
最後はなんかね
棺桶に入って
その周りがお花で埋まってるような映像を
浮かべましたけどね
本の名前機械っていうのも途中で出てきましたけど
機械のように
嫁の優雅ままに動いたっていうことなんだろうな
機械って
と思ってしまいました
代表作に機械ってあるんですけどこの人
そのうち読むか機械も
でも暗いんだろうなこんな感じだと
はいということで
明るく素敵っぽい話かと思っていたら
裏切られてしまいました
まあそういうこともありますね
はいということで無事寝落ちできた方も
最後までお付き合いいただいた方も
大変にお疲れ様でございました
といったところで今日のところはこの辺で
また次回お会いしましょう
おやすみなさい