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2025-12-02 1:02:56

185菊池寛「恩讐の彼方に」(朗読)

185菊池寛「恩讐の彼方に」(朗読)

カタキとカタキ

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サマリー

菊池寛の短編小説『恩讐の彼方に』では、主人公の市九郎が罪と食材を通じて恩と恨みを乗り越えようとする過程が描かれています。彼は主人を殺して逃避行をし、出家して過去の罪と向き合う姿が展開されています。 『恩讐の彼方に』では、殺人犯の市九郎が内面的葛藤と選択の苦悩に直面します。彼は罪の意識と欲望の狭間で葛藤し、命を奪った男女の死骸を見つめながら自らの過去を受け入れます。 この短編では、一九郎が懺悔の心情を抱え、仏教の教えに従い人々を救おうとする姿が描かれています。彼は自らの罪を償うために行動し、困難な場所を越えて行人を助けるために奮闘します。 さらに、主人公の市九郎は激しい努力と執念をもって絶壁を掘り続けます。周囲の人々は彼の真剣な姿に気付き、支援を始めますが、彼は信念を貫き続けます。 このエピソードでは、『恩讐の彼方に』が朗読され、主人公美之助が父の仇を討つため苦難の旅をする過程が描かれています。彼の思いや葛藤、老僧との出会いが交錯し、復讐の意味について深く考えさせられます。 また、このエピソードでは、短編『恩讐の彼方に』を朗読し、仇討ちを通じた人間の感情や葛藤が描写されています。登場人物の美之助と市九郎の関係性が物語の中心となり、最終的な人間関係の解決が図られます。 朗読を通じて、喜びと感謝の心情が描かれ、登場人物の心の変化が強調されます。

00:04
寝落ちの本ポッドキャスト、こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
作品は、青皿文庫から選んでおります。
ご意見・ご感想・ご依頼は、公式Xまでどうぞ。
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ぜひ番組のフォローをよろしくお願いします。
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どうぞよろしくご検討ください。
市九郎の罪の始まり
さて、今日は、菊池寛さんの恩讐の彼方に、です。
ご存知でしょうか。ご存知ですかね、皆さんね。
文芸春秋を作った方ですね、菊池寛さんね。
あと、芥川賞も作ったんじゃなかったかな。
友人だった芥川君が亡くなって、それを偲んでといった形だったと思ってますが、
正しくはご自身でお調べください。ちょっと曖昧です。
で、今回の恩讐の彼方に初めて読むんですけど、
一応代表作の一つに数えられていてですね、
あらすじを一応調べてきたので、先に読み上げましょうかね。
概要
恩讐の彼方には菊池寛による短編小説で、
主人公市一九郎が罪と食材を通じて人間の恩と恨みを乗り越える姿を描く。
あらすじ概要です。
一九郎は旗元中川三郎兵衛の目掛け及美と密通し、
主人に手討ちされそうになったことで逆に主人を殺してしまいます。
罪の意識と恐怖から一九郎は及美と共に逃亡し、生活のために強盗まで犯してしまいます。
その後、知責の念と懺悔の思いから出家し了解と名乗り仏道修行に励みます。
やがてかつて殺した主人、中川三郎兵衛の息子である実之助が
父の仇討ちのために一九郎の前に現れる。
というお話だそうです。
実之助であっているのかな?
実之助?実之助?
ちょっと調べるか。
実之助が正しそうですね。
本文中、実之助と読もうと思いますが。
そんな形でございます。
文字数は二万四千字。
一時間はかかるでしょうね。
といったところですかね。
夏目漱石の心を読んだ直後なので、
短いので終わりたかったけど、
そこそこボリュームがあるのを選んでしまいました。
はい。
まあ、やっていきましょうかね。
どうかお付き合いください。
それでは参ります。
温州の彼方に。
一。
一九郎は主人の切り込んでくる太刀を受け損じて、
左の頬から顎へかけて、
微笑ではあるが一太刀受けた。
自分の罪を。
たとえ向こうから挑まれたとはいえ、
主人の長所と非道な恋をしたという
自分の致命的な罪を意識している一九郎は、
主人の振り上げた太刀を必死な刑罰として、
たとえその切先を探るに勤むるまでも
それに反抗する心持ちは少しも持っていなかった。
彼はただこうした自分の迷いから
命を捨てることがいかにも惜しまれたので、
できるだけは逃れてみたいと思っていた。
それで主人から不義を言い立てられて切りつけられたとき、
ありあわせた職大を早速の獲物として
主人の鋭い立ち先を避けていた。
が、五十に近いとはいえ、
まだ筋骨のたくましい主人が畳みかけて切り込む太刀を、
攻撃に出られない悲しさには一層なく受け損じて、
最初の人たちを左の頬に受けたのである。
が、一旦血を見ると一九郎の心はたちましに変わっていた。
彼の分別のあった心は闘牛者の槍を受けた
お牛のようにすさんでしまった。
どうせ死ぬのだ、と思うと、
そこに世間もなければ首従もなかった。
今までは主人だと思っていた相手の男が、
ただ自分の生命を討ずそうとしている一個の動物、
それも凶悪の動物としか見えなかった。
彼は憤然として攻撃に転じた。
彼は、「おお、おお。」とおめきながら
持っていた職大を相手の面上にめがけて投げ撃った。
一九郎が防御のための防御をしているのを見て
気を許してかかっていた主人のサブロベーは、
不意に投げつけられた職大を受けかねて、
その老家の人門がしたたかに彼の右目を打った。
一九郎は相手のたじろぐ隙に脇刺しをうぬくより早く飛びかかった。
「おのれ、手迎えするか。」とサブロベーは激怒した。
一九郎は無言でつけ入った。
主人の三尺に近い太刀と一九郎の短い脇刺しとが
二、三度激しく打ち負った。
主従が必死になって十数号太刀を合わす間に
主人の太刀先が二、三度低い天井をかすって
しばしば太刀を操る自由を失おうとした。
一九郎はそこへつけ入った。
主人はそのふりに気がつくと自由な戸外へ出ようとして
二、三歩あたずさりして縁の外へ出た。
その隙に一九郎がなおもつけ入れようとするのを主人は
「えい!」と苛立って斬り下した。
が、苛立ったあまりその太刀は縁側と座敷との間に
立ち下がっている鴨居に深くにも二、三寸切り込まれた。
「しまった!」とサウロベイが太刀を引こうとする隙に
一九郎は踏み込んで主人の脇腹を思う様横にないだのであった。
相手が倒れてしまった瞬間に一九郎は我に返った。
今まで興奮して朦朧としていた意識がようやく落ち着くと
彼は自分が主殺しの大罪を犯したことに気がついて
後悔と恐怖とのためにそこにへたばってしまった。
夜は諸行を過ぎていた。
御屋と仲間部屋とは遠く隔たっているので
主従の恐ろしい格闘は御屋に住んでいる女中以外
まだ誰にも知られなかったらしい。
その女中たちはこの激しい格闘に気を失い
ひと間のうちに集まってただ身を震わせているだけであった。
一九郎は深い戒魂にとらわれていた。
一個の当時であり、ぶらいの若節ではあったけれども
まだ悪事と名のつくことは何もしていなかった。
まして八百の第一なる主殺しの大罪を犯そうとは
彼の思いもつかぬことだった。
彼は血のついた脇差しを取り直した。
主人の眼かけと因銀を通じてそのために成敗を受けようとした時
かえってその主人を殺すということは
どう考えても彼にいいところはなかった。
彼はまたびくびくと動いている主人の死体を尻目にかけながら
静かに自殺の覚悟を固めていた。
ずっとその時、次の間から
今までの大きい圧迫から逃れるような声がした。
本当にまあ、どうなることかと思って心配したわ。
お前が真っ二つにやられた後は私の番じゃあるまいかと
さっきから秒分の後ろで息を凝らして見ていたのさ。
が本当にいい塩梅だったね。
こうなっちゃいい時も猶予はしていられないから
有金をさらって逃げるとしよう。
まだ仲間たちは気がついてないようだから
逃げるなら今のうちさ。
ウバや女中などは台所の方でガタガタ震えているらしいから
私が行ってジタパタ騒がないように行ってこようよ。
さあ、お前は有金を探してくださいよ。
というその声は確かに震えを帯びていた。
がそうした震えを女性としての強い意志で抑制して
努めて平気を装っているらしかった。
イチクローは、自分特有の動機をすっかりなくしていたイチクローは
女の声を聞くと、蘇ったように書きついた。
彼は自分の意志で働くというよりも
女の意志によって働く傀儡のように立ち上がると
座敷に置いてある霧の茶段室に手をかけた。
そしてその真白い木目に血に汚れた手形をつけながら
引き出しをあちらこちらと探し始めた。
が女、主人の眼かけのお弓が帰ってくるまでに
イチクローは2種銀の5両ずつみをただ一つ見つけたばかりであった。
お弓は台所からひっかえしてきてその金を見ると
そんな走った金がどうなるもんかねと言いながら
今度は自分でやけに引き出しをひっかき回した。
しまいには鎧筆の中まで探したが
小判は一枚も出てきはしなかった。
尚手の始末屋だから亀にでも入れて
土の中でも埋めてあるのかもしれない。
そう今今そうに言い切ると金目のありそうな衣類や
陰牢を手早く風呂敷包みにした。
こうしてこのカンプカンプが浅草田原町の旗的中川三郎兵衛の家を出たのは
安永三年の秋の初めであった。
後には当年三歳になる三郎兵衛の一子
美之助が父の非豪の死も知らず
馬の懐にすえすえは眠っているばかりであった。
2.
逃亡と強盗生活
市九郎と及美は江戸を蓄田してから
東海道はわざと避けて人目を忍びながら
東三道を上方へと志した。
市九郎は主殺しの罪から絶えず両親の加釈を受けていた。
が顕碧者やの女中上がりの爆練者の及美は
市九郎が少しでも沈んだ様子を見せると
どうせ強情持ちになったからには
いくらこよこよしてもしょうがないじゃないか。
度胸を据えて世の中を面白く暮らすのが情分別さ。
と市九郎の心に明け暮れ
悪の白蛇を喰わえた。
が新州から木曽野の矢原の宿まで来た時には
二人の漏洋の金は百も残っていなかった。
二人は急するにつれて悪事を働かねばならなかった。
最初はこうした男女の組み合わせとしては
最もなしやすい筒持たせを嗅ぎようとした。
そして新州から美州へかけての宿々で
往来の町人百姓の漏洋の金を奪っていた。
初めの程は女からの激しい強さで
つい悪事を犯し始めていた市九郎も
ついには悪事の面白さを味わい始めた。
浪人姿をした市九郎に対して
被害者の町人や百姓は金を取られながら
すこぶる従順であった。
悪事がだんだん進歩していった市九郎は
筒持たせからもっと単純な手数のいらぬ揺すりをやり
最後には切り取り強盗を
正当な家業とさえ誇れるようになった。
彼はいつとなしに
品野から競いかかる鳥居峠に到着した。
そして店は茶店を開き
夜は強盗を働いた。
彼はもうそうした生活に
何の躊躇をも不安をも感じないようになっていた。
金のありそうな旅人を狙って
殺すと巧みにその死体を片付けた。
一年に三四度
そうした罪を犯すと
彼はゆうに一年の生活を支えることができた。
それは彼らが江戸を出てから
三年目になる春の頃であった。
三軒交代の北国大名の行列が
二つばかり続いて通ったため
木曽街道の宿々は近頃になくにぎわった。
ことにこの頃は
新州をはじめ
越後や越中からの伊勢三宮の客が
街道に続いた。
その中には
京から大阪へと
油産の旅を延ばすのが多かった。
一黒は彼らの二三人を倒して
その年の生活費を得たいと思っていた。
木曽街道にも杉やヒノキに混じって咲いた
山桜が散り始める夕暮れのことであった。
再会と復讐の予感
一黒の店に男女二人の旅人が
立ち寄った。
それは明らかに夫婦であった。
男は三十を越していた。
女は二十三歳であっただろう。
ともつれない気楽な旅に出た
新州の豪能の若夫婦らしかった。
一黒は
二人の見なりを見ると
彼はこの二人を
今年の犠牲者にしようかと思っていた。
もう八分原の窓まで
いくらもあるまいな。
こう言いながら
男の方は一黒の店の前で
わらじの紐を結び直そうとした。
一黒が返事をしようとする前に
お弓が台所から出てきながら
さようでございます。
もうこの峠を降り回すれば
半道もございません。
まあゆっくり休んで帰りなさいませ。
と言った。
一黒は
お弓のこの言葉を聞くと
お弓がすでに恐ろしい計画を
自分に進めようとしているのを覚えた。
八分原の宿までには
まだ二里に余る道を
もう何ほどもないように言いくるめて
旅人に気を許させ
彼らの皇帝が世に入るのに乗じて
貫道を走って
宿の入口で襲うのが
一黒王の譲渡の手段であった。
市九郎の決断
その男は
お弓の言葉を聞くと
ああ
それならば
茶後一杯所望しようか
と言いながら
もう彼らの大地の罠に
陥ってしまった。
女は赤い紐のついた
旅の杉傘を取り外しながら
夫のそばに寄り添って
腰をかけた。
彼らはここで
御飯の時も
峠を登り切った疲れを休めると
頂目を置いて
紫に暮れかかっている
荻草の谷に向かって
鳥居峠を降りていった。
二人の姿が見えなくなると
御弓はそれとばかり
合図をした。
一黒王は獲物を追う
漁師のように
脇差しを腰にすると
一惨に二人の跡を追うた。
本海道を右に降りて
荻草川の流れに沿って
険しい感動を急いだ。
一黒王が
やぶはらの宿手前の
並木道に来た時は
春の長い日が
全く暮れて
十日ばかりの月が
荻草の山の彼方に
昇ろうとしていて
この白い月白のみが
荻草の山々を
かすかに浮かばせていた。
一黒王は
街道に沿って
這えている
人村の丸廃穴木の下に
身を隠しながら
夫婦の近づくのを
おもむろに待っていた。
彼も心の底では
幸福な旅をしている
二人の男女の生命を
不当に奪うということが
どんなに罪深いか
ということを
考えずにはいなかった。
が、一旦
しかかった仕事を
中止して帰ることは
御弓の手前
彼の心に任せぬことであった。
彼はこの夫婦の血を
流したくはなかった。
なるべく相手が
自分の脅迫に
二言もなく
服従してくれれば
いいと思っていた。
もし彼らが
路用の金と
衣装等を出すなら
決して
折衝はしないと思っていた。
彼の決心が
ようやく固まった頃に
街道の彼方から
急ぎ足に近づいてくる
男女の姿が見えた。
二人は
峠からの道が
覚悟のほかに
遠かったため
疲れ切ったとみえ
お互いに助け合いながら
無言のままに急いできた。
二人が
丸廃穴木の
目に近づくと
石黒は不意に
街道の真ん中に
突っ立った。
そして
今までに
幾度も口に
しなれている
脅迫の言葉を
浴びせかけた。
すると
男は必死になったらしく
道中
竿を抜くと
妻を
後ろに
かばいながら
身構えした。
石黒は
ちょっと出花を
折られた。
が彼は声を
励まして
いやさ
旅の人
出迎えしてあったら
命を落とすまいぞ。
命までは
取ろうと
言ったんだ。
その顔を
相手の顔は
じっと見ていたが
いや
先ほどの
峠の茶屋の
主人ではないか
その男は
必死になって
飛びかかってきた。
石黒は
もうこれまで
と思った。
自分の顔を
見覚えられた以上
自分たちの
安全のため
もうこの
壇上を
生かすことは
できないと思った。
相手が
必死に切り込むのを
巧みに
引き外しながら
一刀を
相手の
刀を
下ろせなかった。
石黒は
女を殺すに
忍びなかった。
彼は自分の
気球には
帰られぬと思った。
男の方を
殺して
殺気立っている間に
と思って
血刀を
振りかざしながら
彼は
女に近づいた。
女は両手を
合わせて
石黒に
命を
こうた。
石黒は
その瞳に
見つめられると
どうしても
刀を
下ろせなかった。
そう思うと
彼は
腰に下げていた
手ぬぐいを
外して
女の首を
くった。
石黒は
二人を
殺してしまうと
急に
人を殺した恐怖を
感じて
一刻も
痛たまらないように
思った。
彼は
二人の
胴巻と衣類とを
奪うと
あたふたとして
その場から
一切に
内面的葛藤
逃れた。
彼は
今まで
十人に余る
人殺しを
したものの
ようだ。
彼は
深い良心の
過酌に
とらわれながら
帰ってきた。
そして
家に入ると
すぐさま
男女の
衣装と金等を
汚らわしいものの
ように
及美の方へ
投げ合った。
女は
悠然として
まず金の方を
調べてみた。
金は
思ったより少なく
二重量を
わずかに
越しているばかり
であった。
及美は
殺された女の
着物を
手に取ると
気発上に
市九郎を
帰りみた。
頭のもの
と市九郎は
半ば返事を
した。
そうだよ。
頭のものだよ。
気発上に
もんちりめんの
着付けじゃ
頭のものだって
まがい者の
串や公害じゃ
あるまいじゃないか。
あたしは
さっきあの女が
すげ傘を
取ったときに
ちらとにらんで
おいたのさ。
たいまいの
そろえに
そういなかったよ
及美は
のしかかるように
言った。
おまえさん
まさか取るの
おわせたんじゃ
あるまいね。
たいまいだとすれば
七両や八両は
たしかだよ。
かけだしの
泥棒じゃあるまいし
なんのために
接触するんだよ。
あれだけの衣装を
着た女を
殺しておきながら
頭のものに
気がつかないとは。
おまえはいつから
泥棒家業に
おなりなんだえ。
なんという土地を
やる泥棒だろ。
なんとか
いってごらん。
と及美は
いたけたかになって
市九郎に
くってかかってきた。
頭まで侵されかけていた
市九郎は
女の言葉から
深く傷つけられた。
彼は
頭のものを
取ることを
忘れたという
盗賊としての失策を
あるいは無能を
悔ゆる心は
少しもなかった。
自分は
二人を殺したことを
悪いことと思えばこそ
殺すことに
肝同点して
女がその頭に
十両にも近い装飾を
つけていることを
まったく忘れていた。
市九郎は
今でも忘れていたことを
後悔する心は
起こらなかった。
強盗に見ようとして
利欲のために
人を殺しているものの
悪気のように
相手の骨までは
しゃぶらなかったことを
考えると
市九郎は
悪い気持ちはしなかった。
それにも関わらず
お弓は
自分の同性が
無惨にも殺されて
その身につけた下着までが
殺戮者に対する
見継ぎ者として
自分の目の前に
晒されているのを見ながら
なお
その飽きたらない
欲心は
さすが
悪人の市九郎の目を
こぼれた頭のものにまで
及んでいる。
そう考えると
市九郎は
お弓に対して
お弓は
市九郎の心に
こうした激変が
起こっているのを
全く知らないで
さあお前さん
ひとっ走り
行っておくれ
せっかく
こっちの手に入っているものを
遠慮するに当たらないじゃないか
と自分の言い分に
十分な条理があることを
信ずるように
かし怒った表情をした。
市九郎は
黙々として
応じなかった。
お弓は
いく度も
市九郎に迫った。
いつもは
お弓の言うことを
いいとして聞く
市九郎であったが
今彼の心は
激しい動乱の中にあって
お弓の言葉などは
耳に入らないほど
考え込んでいたのである。
お弓に対して
抑え難い嫌悪を
感じ始めていた市九郎は
お弓が
一時でも
自分のそばにいなくなることを
むしろ喜んだ。
と市九郎は
吐き出すように言った。
市九郎は
お弓の後ろ姿を見ていると
浅ましさで心が
いっぱいになってきた。
血まなこになって
駆け出していく
女の姿を見ると
市九郎は
その女に
かつて愛情を
持っていただけに
心の底から浅ましく
思わずにはいられなかった。
その上
自分が悪事を
している時
たとえ無惨にも
人を殺している時でも
金を盗んでいる時でも
自分がしている
ということが
常に不思議な
言い訳になって
その浅ましさを
感じることが
少なかったが
一旦人が
悪事をなしているのを
静かに傍観するとなると
その恐ろしさ
浅ましさが
人に映らずに
はいられなかった。
自分が
命をとしてまで
得た女が
わずか五両か十両の
怠慢のために
女性の優しさの
全てを捨てて
死骸につく
狼のように
殺された女の
死骸を
死闘って
駆けていくのを見ると
市九郎は
もう
この罪悪の隅かに
この女と一緒に
一時も
いたたまれなくなった。
そう考え出すと
自分の今までに
犯した悪事が
いちいち蘇って
自分の心を
喰い裂いた。
殺した女の瞳や
血みどろになった
眉商人の
うめき声や
人たち浴びせかけた
白髪の老人の
悲鳴などが
一打になって
市九郎の両親を
襲ってきた。
彼は
一刻も早く
自分の過去から
逃れたかった。
彼は
自分自身からさえも
逃れたかった。
まして
自分の全ての
罪悪のフォーガであった
女から
極力逃れたかった。
彼は
欠然として
立ち上がった。
彼は
二三枚の衣類を
さっきの男から
取った胴巻を
搭座の路用として
懐に入れたままで
支度も整えずに
郊外に飛び出した。
逃避と帰還
十軒ばかり
走り出したとき
ふと
自分の持っている
金も衣類も
ことごとく
盗んだものであるのに
気がつくと
跳ね返されたように
立ち戻って
自分の家の
上りかまちへ
衣類と金と
力いっぱい投げつけた。
彼は
お湯身に
合わないように
道でない道を
気底に沿って
一三に走った。
どこへ行くという
一寸でも
一部でも
遠いところへ
逃れたかった。
二十里に余る
道を
市九郎は
山野の別なく
唯一一気に馳せて
一九郎の懺悔
明る日の昼下がり
身のここの
大垣剤の
上元寺に
駆け込んだ。
彼は最初から
この寺を
志してきたのではない。
彼の
遁相の中と
偶然この寺の
前に出たとき
彼の
惑乱した
懺悔の心は
ふと
宗教的な
巧妙に
縋ってみたい
と言った。
一九郎は
大名変
大徳能の
袖に
縋って
懺悔の
誠を
いたした。
聖人は
さすがに
この
極重悪人を
も捨てなかった。
一九郎が
勇士の下に
自首しようか
というのを
止めて
重ね重ねの
悪行を
重ねた
汝じゃから
勇士の手によって
身を
恐怖に
晒され
現在の
人よりも
仏道に
きえし
衆事を
再度のために
神明を捨てて
人々を
救うとともに
汝自身を
救うのが
肝心じゃ
と強化した。
一九郎は
聖人の
言葉を
聞いて
またさらに
懺悔の
意に
心を
ただらせて
遠ざに
出家の
志を
定めた。
彼は
聖人の手によって
徳として
了解と
朝には
三密の
業法を
凝らし
夕には
秘密念仏の
暗座を
離れず
二行
頻々として
勝善知道の
心をきざし
あっぱれの
知識と
なりすました。
彼は
自分の
道心が定まって
もう動かないのを
自覚すると
死の傍の
許しを得て
聖人救済の
大願を
起こし
諸国
雲水の
旅に出たので
あった。
人々への救済
その自分が
生きながらえているのが
心苦しかった。
諸人のため
身を粉々に砕いて
自分の
罪証の万分の一をも
償いたいと
思っていた。
ことに自分が
奇想山中にあって
行人を悩ませたことを
思うと
道中の人々に対して
償いきれぬ負担を
持っているように
思われた。
行中坂にも
人のためを
思わぬことは
なかった。
道路に
何十の人を見ると
彼は手を引き
腰を押して
その道中を
助けた。
病に苦しむ
道主としなかった
こともあった。
本海道を離れた
村道の橋でも
破壊されている
時は
彼は自ら
山に行って
木を切り
石を運んで
修繕した。
道の崩れたのを
見れば
土砂を運び来たって
つくろうた。
かくして
機内から
中国を通して
ひたすら
禅金を積むことに
不審したが
身に重なれる
罪は空よりも
高く
積む禅金は
土地よりも
低きを思うと
彼は今さらに
藩床の
一苦労は
些細な禅金によって
自分の極悪が
償いきれぬことを知って
心を苦労した。
激怒の寝覚めには
かかる頼もしからぬ
報奨をしながら
なお
生を貪っていることが
はなはだ不甲斐ないように
思われて
自ら殺したいと思った
ことさえあった。
その度ごとに
不退転の優を
ひるがえし
諸人九歳の大業を
成すべき機縁の
至らぬことを
記念した。
強法九年の
秋であった。
彼は
山が関から
小倉にわたり
武善の国
宇佐八幡宮を
這いし
山国側を
さかのぼって
貴社屈千
羅漢寺に
茂殿ものと
四日市から
南に
赤土の
茫々たる野原を
過ぎ
道を
山国側の
渓谷に
沿って
たどった。
畜種の秋は
益時の
泊りごとに
ふけて
雑木の森には
葉地赤く
ただれ
野には稲
黄色く
咲いて
まもないある日で
あった。
彼は
秋の朝の光の輝く
山国側の
清烈な流れを
右に見ながら
三口から
仏坂の三堂を
越えて
昼ちきかき頃
平野駅に
着いた。
淋しい駅で
昼食の時に
やり着いた後
再び
山国谷に
沿って
南を
指した。
平野駅から
出外れると
道はまた
山国側に
沿って
火山岩の
川岸を
行った。
道のそばに
この辺の
農夫であろう
四五人の
人々が
ののしり騒いで
いるのを
見た。
市九郎が
近づくと
その中の
一人は
早くも
市九郎の
姿を
見つけて
ああ
これは
良い所へ
来られた。
非合の死を
遂げた
哀れな
亡者じゃ。
通りかかられた
縁に
一片の
栄光を
与える
用足の
すくむのを
覚えた。
見れば
水死人の
ようじゃが
所々川に
行くのを
敗れているのは
如何した
死災じゃ。
と市九郎は
恐る恐る
聞いた。
五宿家は
旅の人と
見えて
ご存じある
まえが。
この川を
半丁も
上れば
鎖渡し
という難所が
ある。
山国谷第一の
霧城で
南北往来の
鎖渡しの中途で
馬が狂ったため
五城に近いところを
真逆さまに
落ちて見られる
通りの
無残な
最後じゃ。
とその中の
一人が
言った。
鎖渡しと
申せば
かねがね難所とは
聞いていたが
かような哀れを
見ることは
たびたび
ござるのか。
と市九郎は
死災を
見守りながら
打ちしめって
聞いた。
一年に
三四人
多ければ
十人も
風雨に
架け橋が
朽ちても
終前も
思うに
まかせんじゃ。
と答えながら
百姓たちは
死災の始末に
かかっていた。
市九郎は
この不幸な
遭難者に
一遍の経を
読むと
足を早めて
その鎖渡しへと
急いだ。
そこまでは
もう一町も
なかった。
見ると
川の左にそびえる
荒削りされたような
山が
山国側に
望むところで
十条に近い
絶壁に
山国側の水は
その絶壁に
吸い寄せられたように
ここに下寄って
絶壁の裾を
洗いながら
能力の色を
たたえて
渦巻いている。
里人らが
鎖渡しと言ったのは
これだろうと
彼は思った。
道は
その絶壁に
立たれ
その絶壁の
中腹を
待つ
杉などの
丸太を
鎖で重ねた
山道が
危なげに
伝っている。
か弱い
扶助師でなくとも
扶して五条に
余る水面を見
ると
尾ののくも
断りであった。
市九郎は
岩壁に
すがりながら
尾ののく足を
踏みしめて
ようやく渡り終わって
その絶壁を
振り向いた刹那
彼の心には
とっさに
大聖岩が
没前として
膝した。
積むべき
食材の
余りに
小さかった
彼は
自分が
精神勇猛の気を
試すべき
難行に
あうことを
祈っていた。
目前に
その難所を
覗こうという
思いつきが
往々として
起こったのも
無理では
なかった。
二百余軒に
余る絶壁を
掘り貫いて
道を通じよう
という不敵な
聖岩が
彼の心に
浮かんできたのである。
市九郎は
自分が
求め歩いたものが
ようやく
ここで見つかった
と思った。
一年に
十人を
救えば
十年には
百人
百年
千年と
経つうちには
その日から
羅漢寺の
宿坊に
泊まりながら
山国側に
添った村々を
歓迎して
随道改策の
対応の
寄進を
求めた。
が、何人も
この風雷草の
言葉に
耳を傾ける
ものは
無かった。
三丁も
超える
大万尺を
掘り貫こう
という
風狂人じゃ
ははははは
と笑う
ものは
まだよかった。
大語りじゃ
もっと
中には
市九郎の
漢勢に
迫害を
加えるもの
さえあった。
市九郎は
十日の間
いたずらな
漢人に
勤めたが、
何人も
耳を傾ける
のを知ると
憤然として
毒力
この大業に
当たることを
決心した。
彼は
遺宿の持つ
土と
のみとを
手に入れて
この大
絶壁の
一端に
立った。
困難な場所の克服
ふん。
とうとう気が
狂った。
と、行人は
市九郎の姿を
さしながら
笑った。
が、市九郎は
屈しなかった。
山国側の
西流に目浴して、
完全御札を
祈りながら
渾身の力を
込めて
第一の土を
下した。
それに応じて、
ただ
二三平の
祭片が
飛び散ったばかりで
あった。
が、再び力を
込めて第二の
土を下した。
さらに、
二三平の
第三、第四、第五と
市九郎は
懸命に
土を下した。
空腹を
かんずれば、
金剛を
たかはつし、
腹みつれば、
絶壁に向かって
土を下した。
気体の心を
しょうずれば、
ただ心音を
唱えて、
幽夢の心を
ふるい起こした。
一日、
市九郎の努力の始まり
二日、
三日。
市九郎の
努力は
感断なく
続いた。
旅人は、
そのそばを
通るたびに、
長生の声を
送った。
やがて、
市九郎は、
雨露をしのぐために、
絶壁に近く
木小屋を建てた。
朝は、
山国川の流れが、
星の光を映すころから
起き出て、
湯は、
せなりの音が、
静寂の天地に
澄みかえるころまでも
止めなかった。
が、
航路の人々は、
なお、
師匠の言葉を
止めなかった。
身の程知らぬ
たわけじゃ。
と、
市九郎の努力を
眼中に置かなかった。
が、
市九郎は、
一心不乱に
思えば、
彼の心には、
何の雑念も
起こらなかった。
人を殺した
快婚も、
そこにはなかった。
極楽に生まれよう
という言語も
なかった。
ただ、
そこに生成した
精進の心が
あるばかりであった。
彼は、
出家して以来、
夜ごとの目覚めに
身を苦しめた
自分の悪行の
記憶が、
日に薄らいでいくのを
感じた。
彼は、
ますます有毛の
心を奮い起こして、
ひたすら千年に
土を振った。
新しい年が来た。
春が来て、
イチクローの
努力は、
虚しくはなかった。
大絶壁の
一端に、
深さ一畳に近き
洞窟が
穿たれていた。
それは、
ほんの小さい洞窟
ではあったが、
イチクローの
強い意志は、
最初の相婚を
明らかに
とめていた。
が、
金剛の人々は、
またイチクローを
笑った。
あれ見られ、
狂人坊主が
あれだけ掘り寄った。
一年の間
もがいて、
たったあれだけじゃ。
と笑った。
が、
イチクローは、
それはいかに浅くとも、
自分が精進の力の
如実に
現れているものに、
そういなかった。
イチクローは、
年を重ねて、
またさらに古いたった。
夜は、
如宝の闇に、
昼もなお薄暗い洞窟の内に
端座して、
ただ右の腕のみを
狂気のごとくに
振っていた。
イチクローにとって、
右の腕を振ることのみが、
彼の宗教的生活の
すべてになってしまった。
洞窟の外には、
日が輝き、
月が照り、
雨が降り、
が、
洞窟の中には、
寒暖なき土の音のみがあった。
二年の終わりにも、
里人はなお、
師匠を止めなかった。
が、
それはもう、
声にまでは出てこなかった。
ただ、
イチクローの姿を見たとき、
顔を見合わせて、
互いに笑い合うだけであった。
が、
さらに一年経った。
イチクローの土の音は、
山国川の水声と同じく、
不断に響いていた。
村の人たちは、
もう何とも言わなかった。
彼らが師匠の表情は、
いつの間にか、
脅威のそれに変わっていた。
イチクローは、
くじけづらざれば、
頭髪はいつの間にか伸びて、
双剣を覆い、
弱みせざれば、
赤づきて人間とも見えなかった。
が、
彼は自分が保留があった、
洞窟の内に、
獣のごとくうごめきながら、
狂気のごとく、
その土を振るい続けていたのである。
里人の脅威は、
いつの間にか、
道場に変わっていた。
イチクローが、
しばしの暇を盗んで、
タクハツのアンギアに出かけようとすると、
洞窟の出口に、
思いがけなく、
一晩の時を見出すことが多くなった。
イチクローは、
そのために、
タクハツに費やすべき時間を、
さらに絶壁に向かうことができた。
四年目の終わりが来た。
イチクローの掘りゆがった洞窟は、
もはや五畳の深さに達していた。
が、
その山頂を越える絶壁に比べれば、
そこになお、
応用の端があった。
里人は、
周囲の反応と支援
イチクローの熱心に驚いたものの、
未だ、
殻ばかり見えすぎた虎狼に
強力する者は、
一人もなかった。
イチクローは、
ただ一人、
その努力を続けねばならなかった。
が、
もう掘りゆがつ仕事において、
ざんまいに入ったイチクローは、
ただ、
土を振るうほかは、
何の存念もなかった。
ただ、
もぐらのように、
命のある限り、
掘りゆがっていくほかには、
何の他念もなかった。
彼はただ一人、
きつきつとして掘り進んだ。
洞窟の外には、
春去って秋来たり、
四時の風物が移り変わったが、
洞窟の中には、
普段の土の音のみが響いた。
かわいそうな坊さまじゃ、
ものに狂ったとみえ、
あの大万尺をうがっていくわ。
十の一もうがち得ないで、
己が命を終わろうものを。
と、
狼狼の人々は、
イチクローのむなしい努力を悲しみ始めた。
が、
一年経ち、
二年経ち、
ちょうど九年目の終わりに、
穴の入り口より奥まで
二十二軒をはかるまでに掘りゆがった。
日田の郷の里人は、
はじめて、
イチクローの事業の可能性に気がついた。
一人の痩せた小路貴僧が、
九年の力でこれまで掘りうがち得るものならば、
人を増し、
歳月を重ねたならば、
この大絶壁をうがち貫くことも、
必ずしも不思議なことではないという考えが、
里人らの胸の中に銘じられてきた。
九年前、
イチクローの漢人をこぞって知り続けた
山国側に沿う七里の里人は、
今度は自発的に改札の起身につながった。
数人の遺宿がイチクローの事業を
助けるために雇われた。
もうイチクローは孤独ではなかった。
岸壁に下す多数の土の根は、
勇ましく賑やかに洞窟の中から漏れ始めた。
が、翌年になって里人たちが
工事の進み方を測ったとき、
それがまだ絶壁の四分の一にも達していないのを
発見すると、
里人たちは再び楽壇疑惑の声を漏らした。
人を増してもとても成就はせんことじゃ。
あたら、領海殿にたぶらかされて
いらぬ物入りをしている。
と、彼らははかどらぬ工事に
いつの間にか飽き切っておった。
イチクローはまた一人取り残されねば
ならぬくなった。
彼は自分の傍に土を振る者が
一人減り、二人減り、
ついには一人もいなくなったのに気がついた。
が、彼は決して去る者を追わなかった。
黙々として自分一人、
その土を振るい続けたのみである。
里人の注意は全くイチクローの
身辺から離れてしまった。
ことによって、
イチクローは、
土を振る者の身辺から離れてしまった。
ことに洞窟が深く
市九郎の信念の貫徹
穿たれれば穿たれるほど、
その奥深く土を振る
イチクローの姿は
行人の目から遠ざかっていた。
人々は闇の内に閉ざされた
洞窟の中をすかし見ながら
了解さんはまだやっているのかなと疑った。
が、そうした注意も
姉妹にはだんだん薄れてしまって
イチクローの存在は
里人の念頭からしばしば消失せんとした。
が、イチクローの存在が
里人に対して没交渉であるが如く
里人の存在はまた
イチクローに没交渉であった。
彼にはただ眼前の大岩壁のみが
存在するばかりであった。
しかし、イチクローは洞窟の中に淡座してから
もはや十年にも余る間
暗淡たる冷たい石の上に
そらり続けていたために
顔は色青ざめ、層の目が窪んで
肉は落ち、骨現れ
このように生ける人とも見えなかった。
が、イチクローの心には
二重点の勇猛心がしきりんに燃え盛って
ただ一年に穿ち進む他は何者もなかった。
一部でも一寸でも
眼壁の削り取られるごとに
彼は歓喜の声をあげた。
イチクローはただ一人
取り残されたままにまた三年を経た。
すると里人たちの注意は
再びイチクローの上に返りかけていた。
彼らがほんの好奇心から
洞窟の深さを測ってみると
全長六十五軒、川に面する眼壁には
最高の窓が一つ受かたれ
もはやこの大岩壁の三分の一は
主としてイチクローの痩せ腕によって
貫かれていることがわかった。
彼らは再び脅威の目を見開いた。
彼らは過去の無知を恥じた。
イチクローに対する損失の心は
再び彼らの心に復活した。
やがて寄進された十人に近い
遺宿の土の根が
再びイチクローのそれに和した。
また一年経った。
一年の次日が経つうちに
里人たちはいつかしら
目先の遠い出費を食い始めていた。
寄進の妊婦はいつのまにか
一人減り二人減って
おしまいにはイチクローの土の根のみが
洞窟の闇を打ち震わしていた。
が、そばに人がいてもいなくても
イチクローの土の力は変わらなかった。
彼はただ機械の如く
渾身の力を入れて土を挙げ
渾身の力をもってこれを振り下ろした。
彼は自分の一心をさえ忘れていた。
主を殺したことも
氷底を働いたことも
人を殺したことも
全ては彼の記憶の他に薄れてしまっていた。
一年経ち二年経った。
一年の動くところ
彼の痩せた腕は鉄の如く屈しなかった。
ちょうど十八年目の終わりであった。
彼はいつのまにか岩壁の二分の一を穿った。
里人はこの恐ろしき奇跡を見ると
もはやイチクローの仕事を少しも疑わなかった。
彼らは前二階の家帯を心から恥じ
七里の人々の強力の誠を尽くし
こぞってイチクローを助け始めた。
その年、中津藩の氷部行が殉死して
イチクローに対して既得の言葉を下した。
元号近在から三十人に近い遺宿が集められた。
工事は枯葉を焼く火のように進んだ。
一人の家族が
イチクローの仕事を少しも疑わなかった。
一人の家族が
元号近在から三十人に近い遺宿が集められた。
工事は枯葉を焼く火のように進んだ。
人々は水山の姿を痛々しいイチクローに
もはやそなたは遺宿どもの束根をなさりませ
自ら土を振るうには及びませぬ
と勧めたが
イチクローは頑として応じなかった。
彼は倒るれば土を握ったままと思っているらしかった。
彼は三十の遺宿が傍に働くのも知らぬように
新職を忘れ
懸命の力を尽くすこと
少しも前と変わらなかった。
復讐の旅の始まり
が、一人の家族が
イチクローに休息を進めたのも無理ではなかった。
二十年にも近い間
火の光も刺さぬ岩壁の奥深く
座り続けたためであろう。
彼の両足は長い短座に痛み
いつの間にか屈伸の自在を欠いていた。
彼は僅かな歩行にも杖にすがらねばならなかった。
その上
長い間闇に挫して日光を見なかったためでもあろう。
また、不断に彼の身辺に飛び散る
砕けた石のかけらが
その目を傷つけたためでもあろう。
彼は三十の遺宿で
もう二年の辛抱じゃ。
と、彼は心の内に叫んで
身の狼狽を忘れようと
懸命に土を振るうのであった。
二十年にも近い間
火の光も刺さぬ岩壁の奥深く
座り続けたためでもあろう。
彼は僅かな歩行にも杖にすがらねばならなかった。
その上
長い間闇に挫して日光を見なかった。
その上
二十年の辛抱じゃ。
と、彼は心の内に叫んで
身の狼狽を忘れようと
懸命に土を振るうのであった。
おかしがたき大自然の威厳を示して
市九郎の前に立ちふさがっていた岩壁は
いつの間にか水山の小敷層を
一人の腕に貫かれて
その中腹を穿つ洞窟は
命ある者のごとく
一路その核心を貫かんとしているのであった。
市九郎の健康は
過度の疲労によって
痛ましく傷つけられていたが
彼にとってそれよりももっと恐ろしい敵が
彼の生命を狙っているのであった。
市九郎のために非業の王子を遂げた
長川三郎兵衛は
父親のために殺害されたため
火事・太り締まりとあって
家は取り潰され
その時三歳であった一子
美之助は
縁者のために養い育てられることになった。
美之助は十三になったとき
初めて自分の父が
非業の死を遂げたことを聞いた。
ことに相手が
大統の詩人でなくして
自分の家に養われた
ぬぼこであることを知ると
少年の心は無念の行き通りに燃えた。
彼は即座に復讐の一儀を
開伝を許されると
彼は直ちに復讐の旅に
上ったのである。
もし守備役本会を達して帰れば
一家最高の肝入りもしようという
神霊一堂の激励の言葉に送られながら
美之助は慣れぬ旅路に
多くの患難を苦しみながら
諸国を遍歴して
ひたすら敵市九郎の所在を求めた。
市九郎はただ一度さえ見たこともない
美之助にとっては
それは蜘蛛を掴むが如き
おぼつかなき創作であった。
東山、山陰、山陽、北陸、南海と
彼はさすらいの旅路に年を送り
年を迎え
運命の出会い
二十七の年まで空虚な遍歴の旅を続けた。
敵に対する恨みも意気通りも
旅路の患難に生ませんとすることが
度々であった。
が、悲号に倒れた父の無念を思い
中掛最高の住人を考えると
憤然と志を奮い起こすのであった。
江戸を経ってから
ちょうど九年目の春を
彼は福岡の城下に迎えた。
本土をむなしく訪ね歩いたのしに
変水の九州をも探ってみる気になったのである。
福岡の城下から
中津の城下に移った彼は
二月に入った一日
宇佐八幡宮に際して
本会の一日も早く達せられんことを記念した。
美之助は参拝を終えてから
兄弟の茶店に行こうた。
その時にふと
彼はそばの百姓邸の男が
言わせた参景客に
その御宿家は
元は江戸から来たお人じゃげな
人を殺したのを懺悔して
諸人再度の大願を起こしたそうじゃが
今言えた日田の股間は
この御宿家一人の力でできたもんじゃ
と語るのを耳にした。
この話を聞いた美之助は
九年この方は未だ感じなかったような
興味を覚えた。
彼はやや咳き込みながら
卒児ながら少々物を尋ねるが
その宿家と申すは
年の頃はどれぐらいじゃ
と聞いた。
その男は自分の男話が
武士の注意を引いたことを
御宿家の御宿家でございますな
私はその御宿家を拝んだことは
ございませんが
人の噂ではもう六十に近いと申します。
竹は高いか低いか
と美之助は畳みかけて聞いた。
ああそれもしかとはわかりません。
何様は洞窟の奥深くいられるゆえ
しかとはわかりません。
その者の俗名は何と申したか存ぜぬか。
ああそれもとんとわかりませんが
お生まれは越後の柏崎で
若い時に江戸へ出られた
そうでございます。
と百姓は答えた。
ここまで聞いた美之助は
踊り上がって喜んだ。
彼が江戸を絶つ時に
親類の一人は
敵は越後柏崎の生れゆえ
故郷へ立ち回るかも計りがたい
越後は人種を心を入れて探索せよ
という注意を受けていたのであった。
美之助はこれぞまさしく
宇佐八幡宮の神託なりと勇み立った。
彼はその老僧の名と
山国谷に向かう道を聞くと
もはや八つ時を過ぎていたにもかかわらず
必死の力を送客に込めて
敵の在処へと急いだ。
そこを近く
雛村に着いた美之助は
直ちに洞窟へ立ち向かおうと思ったが
焦ってはならぬと思い返して
その上は雛行の宿に
少量の一夜を明かすと
翌日は早く起き入れて
軽装して雛の湖間へと向かった。
湖間の入口に着いた時
彼はそこに石の欠片を運び出している
遺宿に尋ねた。
この洞窟には
領海といわれる五色家が終わすそうじゃが
それにそういないか。
ははは、終わさないで何としよう
領海様はこの祠の主も同様な方じゃ
ははははは
と、遺宿は心投げに笑った。
美之助は本会を達すること
早、眼前にありと喜びいさんだ
が、彼は慌ててはならぬと思った。
して、出入口はここ一箇所か
と聞いた。
敵に逃げられてはならぬと思ったからである。
はあ、それは知れたことじゃ
向こうへ口を開けるために
領海様は途端の苦しみをなさっているんじゃ
と遺宿が答えた。
美之助は多年の恩敵が
農中のネズミのごとく
目前に置かれてあるのを喜んだ。
たといその元に使われる遺宿が幾人いようとも
斬り殺すに何の造作もあるべきと勇み立った。
内面の葛藤
そっちに少し頼みがある。
領海殿に御意得たいため
はるばると尋ねて参ったもんじゃと伝えてくれ
と言った。
遺宿が洞窟の中へ入った後で
美之助は一刀の目釘を絞め出した。
彼は心の内で
将来初めてめぐり合う
敵の養母を想像した。
同盟の改札を統領しているといえば
五十は過ぎているとはいえ
筋骨たくましき男であろう。
ことに若年の頃には
兵法に疎からざりしというのであるから
ゆめ、油断はならぬと思っていた。
が、しばらくして美之助の面前へと
同盟から出てきた
一人の小敷層があった。
それは出てくるというよりも
釜のごとく這い出てきたという方が適当だった。
それは人間というよりもむしろ
人間の残骸というべきであった。
肉、ことごとく落ちて骨現れ
足の関節以下は所々ただれて
長く生死するに絶えなかった。
破れた方へによって
創業とは知れぬものの
刀髪は長く伸びて
皺だらけの額を覆っていた。
老僧は灰色をなした目を
縛たたきながら美之助を見上げて
老眼、衰え果てまして
いずれの方とも脇前かねまする
と言った。
美之助の極度にまで
張り詰めてきた心は
この老僧を一目見た刹那
たじたじとなってしまっていた。
彼は心の底から憎悪を感じ得るような
悪想を欲していた。
然るに彼の目の前には
人間とも死骸ともつかぬ
半死の老僧が
疼くまっているのである。
美之助は失望し始めた
自分の心を励まして
そのもとが了解と言われるか
と意気込んだ。
いかにも左様でございます。
してそのもとは
と老僧はいぶかしげに
美之助を見上げた。
了解とやら
いかに喪行に身をやつすとも
よも忘れはいたすまい。
汝一九郎と呼ばれし
若年の身切り
主人中川三郎兵衛を撃って
立ちしぞいた覚えがあろう。
それがしは三郎兵衛の一師
美之助と申すもんじゃ。
もはや
逃れぬところと覚悟せよ。
と美之助の言葉は
あくまで落ち着いていたが
そこに一歩も
許すまじき厳正さがあった。
が一九郎は美之助の言葉を聞いて
少しも驚かなかった。
いかさま
中川様の御子息美之助様か。
いや御父兵衛を撃って立ちしぞいたもの
この了解に
そういござりません。
あれは自分を敵と狙うものに
あったというよりも
一九郎にあった親しさを持って答えたが
美之助は一九郎の小姉に
欺かれてはならぬと思った。
主を撃って立ちしぞいた非道の男児を撃つために
十年に近い年月を
患難のうちに過ごしたわ。
ここで会うからはもはや逃れぬところと
尋常に勝負せよ。
と言った。
一九郎は少しも悪びれなかった。
もはや紀年のうちに成就すべき大願を見果てずして
死ぬことがやや悲しまれたが
それも己が悪行の報いであると思うと
彼は死すべき心を定めた。
美之助様、いざ起きりなされ。
お聞き及びもなされたろうが
これは両会目が
罪滅ぼしに保留が当と存じた童文でござるが
十九年の歳月を費やして
久部までは竣工いたした。
両会身を張つとも
もはや年を重ねずして成り申そう。
御身の手にかかり
この童文の入口に血を流して
人柱と成り申さば
はや思い残すこともござりません。
一九郎は
一九郎は
はや思い残すこともござりません。
と言いながら
彼は見えぬ目をしばたたいたのである。
美之助は
この藩主の老僧に接していると
親の仇に対して懐いていた憎しみが
いつの間にか消え失せているのを覚えた。
仇は父を殺した罪の懺悔に
心身を子に砕いて
反省を苦しみ抜いている。
しかも自分が一度名乗りかけると
いいとして命を捨てようとしているのである。
かかる藩主の老僧の命を取ることが
何の復讐であるかと美之助様は
考えたのである。
しかしこの仇を討たざる限りは
多年の放浪を切り上げて
江戸へ帰るべき様子がはなかった。
まして亀への最高なのは
思いも及ばぬことであったのである。
美之助は憎悪よりもむしろ
駄心の心から
この老僧の命を縮めようかと思った。
が、激しい燃えるが如き憎悪を歓絶して
駄惨から人間を殺すことは
美之助にとって忍びかたいことであった。
彼は消えかかろうとする憎悪の心を励ましながら
内側への憎悪を
仇を討とうとしたのである。
その時であった。
遺宿の襲来
洞窟の中から走り出てきた
五六人の遺宿は
市九郎の貴族を見ると
停止にして彼を構えながら
了解様を何とするのじゃ
と美之助を咎めた。
彼らの面には
慈悲によっては許すまじき色が
ありありと見えた。
司祭あってその老僧を
仇とを狙い
短なくも今日巡り終えて
本会を達するものじゃ。
と美之助は臨前と言った。
がそのうちに
遺宿の数は増え
航路の人々が幾人となく立ち止まって
彼らは美之助を取り巻きながら
市九郎の身体に指の一本も振りさせまいと
明々に息巻き始めた。
仇を討つ貴族などは
それはまだ世にあるうちのことじゃ。
見られるとおり医療界殿は
千一発の実である上に
この山国らに七里の者にとっては
十字菩薩の再来とも仰がれる方じゃ。
とそのうちのある者は
美之助の仇討ちを
一方に言い張った。
がこう周囲の者から妨げられると
美之助の仇に対する怒りは
いつの間にか蘇っていた。
彼は武士の意地として
手をこまねいて立ち去るべきではなかった。
たとえ社紋のみないとも
主殺しの大罪は免れんぞ。
親の仇を討つ者を妨げ出す者は
一人も容赦はない。
と美之助は一刀の鞘を払った。
美之助を囲う群衆も
皆ことごとく身を構えた。
するとその時
市九郎はしわがれた声を張り上げ
た。
皆の衆、お控えなされ。
了解。
討たれるべき覚え十分ござる。
この同盟を穿つことも
ただその罪滅ぼしのためじゃ。
今、かかる孔子の御手にかかり
藩主の身を終わること
了解が一期の願いじゃ。
皆の衆、妨げ無用じゃ。
こう言いながら市九郎は身を挺して
美之助の側にいざり寄ろうとした。
かねがね市九郎の強豪なる意志を
知り抜いている周囲の人々は
彼の決心をひるがえすべき
よしもないのを知った。
市九郎の命、ここに終わるかと思われた。
その時、異宿の頭領が
美之助の前に進み入れながら。
おぶけ様もお聞きお呼びでもござろうが、
この股間は了解様一生の大誠願にて
二十年に近き御身苦に
心身を砕かれたのじゃ。
いかに御自身の悪行とはいえ
大元上場を目前に起きながら
お果てなさること
いかばかり無念であろう。
我らのこぞってのお願いは
長くとはもうさん
この股間の通じ申すあいだ
了解様の御命を
我らに預けては下さらんか。
股間さえ通じした不死は
即座に了解様を存分にいなされませ。
と彼は誠をあらわして哀願した。
群衆は口々に
断りじゃ断りじゃ
と賛成した。
美之助もそう言われてみると
その哀願を聞かぬわけにはいかなかった。
今ここで仇を討とうとして
群衆の妨害を受けて不覚を討るよりも
骨痛の瞬効を持ったならば
今でさえ自ら進んで討たれようと
いう市苦労が義理に感じて
首を授けるのは必要であると思った。
またそうした打算から離れても
仇とは言いながら
この老僧の大誠願を
遂げさせてやるのも
決して不快なことではなかった。
美之助は市苦労と群衆とを
当分に見ながら
了解の創業にめでて
その願い許してとらそう。
継がれた言葉は忘れないぞ。
と言った。
念もないことでござる。
一部の穴でも一寸の穴でも
その場を去らず
了解様を討たさせ猛走。
それまではゆるると
この辺りにご滞在なされません。
と、異宿の頭領は
穏やかな口調で言った。
市苦労はこの紛争が無事に解決がつくと
それによって逃避した時間が
いかにも惜しまれるように
にじりながら洞窟の中へ入っていった。
美之助は大切の場合に
思わぬ邪魔が入って
目的が達しえなかったことを意気通った。
彼はいかんともし難い鬱憤を抑えながら
自分一人に案内せられて
木小屋の内へ入った。
自分一人になって考えると
仇を目前に起きながら
討ちええなかった自分の不甲斐なさを
無念と思わずにはいられなかった。
彼の心はいつの間にか
苛立たしい息通りでいっぱいになっていた。
彼はもう
故官の春勢を待つといったような
仇に対する緩やかな心を
全く失ってしまった。
彼は今宵にも洞窟の中へ忍び入って
市苦労を討って立ち寄こうと
決心のホゾを固めた。
彼は三月を見張っていた。
最初の二、三日を
心にもなく無意に過ごしたが
ちょうど五日目の晩であった。
毎夜のことなおで
市苦たちも警戒の目を緩めたとみえ
牛に近いころに何人も
いぎたない眠りに入っていた。
三月は今宵こそと思いたった。
彼はがばと起き上がると
枕元の一頭を引き寄せて
静かに木小屋の外に出た。
それは早春の夜の月が冴えた晩であった。
山国川の水は月光の下に
青く渦巻きながら流れていた。
牛には目もくれず
三月は足をしのばせて
ひそかに童文に近づいた。
削り取った石灰が
ところどころに散らばって
頬を運ぶ度ごとに足を痛めた。
洞窟の中は入口から来たる月光と
ところどころにくり開けられた窓から
差し入る月光とで
ところどころ炎白く光っているばかりであった。
彼は右肩の岩壁を
たぐりたぐり奥へ奥へと進んだ。
入口から二丁ばかり進んだころ
ふと彼は洞窟の底から
クワックワッと間を置いて
響いてくる音を耳にした。
彼は最初それが何であるかわからなかったが
一歩進むに従って
その音は拡大していって
おしまいには洞窟の中の夜の
若情のうちにこだまするまでになった。
それは明らかに岩壁に向かって
鉄槌を下す音に相違なかった。
水之介はその悲壮な凄みを帯びた音によって
自分の胸が激しく打たれるのを感じた。
奥に近づくに従って
弾を砕くような鋭い音は
洞窟の周囲にこだまして
水之介の聴覚を
呆然と襲ってくるのであった。
彼はこの音を頼りに
這いながら近づいて行った。
この土の根の主こそ
敵梁介に相違あるまいと思った。
ひそかに一頭の漕い口をしめらしながら
身を潜めて寄り添った。
その時ふと彼は
土の根の間々に
ささやくがごとくうめくがごとく
梁介が凶悶を受する声を聞いたのである。
そのしわがれた悲壮な声が
水を浴びせるように水之介に徹してきた。
深夜一去り
草木眠っている中に
ただ暗中に端座して
鉄椎を振っている梁介の姿が
隅のごとき闇にあってなお
水之介の心眼にありありとして映ってきた。
それはもはや人間の心ではなかった。
喜怒哀楽の城の上にあって
ただ鉄椎を振るっている
有名精進の菩薩神であった。
水之介は握りしめた太刀の柄が
いつのまにか歪んでいるのを覚えた。
彼はふと我に返った。
すでに仏心を得て
仏教のために最深の苦を舐めている
光徳の秘塵に対し
深夜の闇に乗じて
非覇儀のごとく獣のごとく
真意の剣を抜きそばめている自分をおかえでみると
彼は強い旋律が体を通って流れるのを感じた。
洞窟を揺るがせるその力強い土の音と
悲壮な念仏の声とは
水之介の心をさんざんに打ち砕いてしまった。
彼は潔く春勢の日を待ち
その約束の果たさるるのを待つより
他はないと思った。
水之介は深い感激をなつきながら
道外の月光を目指し
洞窟の外に這い出たのである。
そのことがあってから間もなく
股間の工事に従う意識のうちに
武家姿の水之介の姿が見られた。
彼はもう老僧を闇討ちにして立ち退こうというような
険しい心は少しも持っていなかった。
了解が逃げも隠れもせぬことを知ると
彼は後援をもって了解が
その一生の大願を成就する日を
待ってやろうと思っていた。
が、それにしても
呆然と待っているよりも
自分もこの大業に
一備の力を尽くすことによって
幾泊かでも復讐の期日が
短縮せられるはずであることを悟ると
水之介は自ら意識に越して
土を奮い始めたのである。
敵と敵とが相並んで土を下した。
水之介は本会を達する日の一日でも早かれと
懸命に土を奮った。
了解は水之介が出現してからは
美之助の決心
一日も早く大願を成就して
孔子の願いを叶えてやりたいと思ったのであろう。
彼はまたさらに
精進の優を奮って
強靭のように岩壁を打ち砕いていた。
そのうちに月が去り月が来た。
水之介の心は了解の
大優猛進に動かされて
彼自ら股間の大業に
終的の恨みを忘れようとしがちであった。
石窟どもが昼の疲れを休めている真夜中にも
敵と敵とは相並んで
黙々と土を奮っていた。
それは了解が
ひだの股間に大地の土を下してから
二十一年目。
水之介が了解に巡り合ってから
一年六ヶ月を経た
遠郷三年九月十日の夜であった。
この夜も石窟どもは
ことごとく小屋に退いて
了解と水之介のみ
終日の疲労にめげず
懸命に土を奮っていた。
その夜、九月に近き頃、
了解が力を込めて振り下ろした土が
口気を打つがごとく
何の手応えもなく力余って
土を持った右の手のひだが岩に当たったので
彼はあっと思わず声を上げた。
その時であった。
了解の朦朧たる老眼にも
紛れなくその土に破られている
小さき穴から
月の光に照らされたる
山国川の姿が
ありありと映ったのである。
了解は
「おお!」と全身を震わせるような
銘状しがたき叫び声を上げたかと思うと
それに続いて
凶したかと思われるような
歓喜の泣き笑いが
洞窟をものすごくうごめかしたのである。
みのすけ殿
ごらんなされ
二十一年の大誓願
丹那くも今宵
成就いたした。
こう言いながら了解は
みのすけの手を取って
小さい穴から山国川の流れを見せた。
その穴の真下に黒ずんだ土の見えるのは
岸に沿う海道に紛れもなかった。
敵と敵とは
そこに手を取りおうて
大歓喜の涙に目線だのである。
が、しばらくすると了解は身を刺さって
いざ、みのすけ殿
約束の日じゃ
起きりなされ
かかる方への真ん中に王女を致すなれば
極楽浄土に生まれること
必需を疑いなしじゃ
いざ、起きりなされ
明日ともなれば
石駆どもが妨げ致そう
いざ、起きりなされ
と、彼のしわがれた声が
洞窟の夜の空気に響いた。
大願の成就
が、みのすけは了解の前に手をこまねいて
さらに、
涙に目線でいるばかりであった。
心の底から湧きいずる歓喜に泣く
忍びた老僧を見ていると
彼を仇として殺すことなどは
思い及ばぬことであった。
仇を討つなどという心よりも
このか弱い人間の僧の患者によって
成し遂げられた異様に対する
脅威と感激の心とで
胸がいっぱいであった。
彼はいざり寄りながら
再び老僧の手を取った。
大歓喜の涙に目線だのである。
が、しばらくすると
明日ともなれば
二人はそこに全てを忘れて
歓喜の涙に
むせびを頼であった。
朗読の感想
1988年発行
文芸春秋
菊池寛短編と儀曲
より独了
読み終わりです。
いい話だったなー
なんか後半ちょっと涙ぐみながら読みました
なんか映像浮かべちゃったからさ
脳内で
いい話ですねー
はいはいはい
この回が放送される頃には
12月に入っているでしょうねー
今年もあっという間でしたねー
残り一月弱ぐらいの
タイミングで公開になると思います
はー
12月って早いんだよなー
夏すぎたら早いですね
うん
それでは終わりにしていきましょうか
無事に寝落ちできた方も
最後までお付き合いいただけた方も
大変にお疲れ様でした
といったところで
今日のところはこの辺で
また次回お会いしましょう
バイバイ
01:02:56

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