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  2. 147太宰治「人間失格」(朗読)
2025-07-15 2:55:54

147太宰治「人間失格」(朗読)

147太宰治「人間失格」(朗読)

ただ一切は過ぎて行きます。

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サマリー

このエピソードでは、太宰治の作品『人間失格』が朗読され、主人公の生い立ちと内面的な苦悩が描かれています。物語は、主人公が他者との関係やアイデンティティに苦しむ様子を通じて、人間の本質について探求しています。彼は自己を失った人間の恐怖と孤独感を抱えており、内面の葛藤や周囲との関係について深く考察されています。『人間失格』は、作者自身の心の葛藤や人間関係の複雑さを反映しており、主人公は学校生活や友人との関係を通じて存在意義や孤独感について考察します。このエピソードでは、主人公の内面的葛藤や孤独感が描かれ、特に絵画を通じた自己表現の模索や周囲との関係、社会に対する不安が強調されています。彼は人間への恐怖や不安を抱えながら、人生の経験について語り、金銭的な困難や社会との関係についても考え、共産主義に触れるシーンも見られます。また、彼の心の闇や複雑な人間関係も描かれ、孤独や葛藤、愛憎が混じり合った深い心理描写が展開されます。主人公は愛するツネ子との禁断の関係や彼女の死を通じて自己認識と絶望に至る過程を辿ります。彼は過去の失敗や孤独に悩みつつ、存在や生き方を模索しており、心の葛藤や人間関係の変化によって深い絶望感が強調されています。主人公は友情や愛情の欠如を感じながら、堀木との再会を通して感情の深淵に迫ります。彼は静子や茂子との関わりを通じて内面的な苦痛を浮き彫りにし、人間関係の恐怖や孤独を感じつつ、周囲との関係を試みています。この朗読では、主人公が恐怖感と世の中への理解を深める過程が描かれ、酒を通じて自己を見つめ直し、周りとの関係を模索します。彼の苦悩や過去の罪、自己嫌悪などが描かれ、存在意義を問い直す内容となり、恐怖や孤独感が強調されています。主人公は信頼を裏切られた経験から生じる苦悩を語り、自身の内面的な葛藤を描写します。また、彼は薬物依存やアルコール中毒に苦しむ姿を描き、周囲との関係を断ちながら自分自身の罪や苦悩と向き合います。最終的には精神病院に入ることになります。この作品は、主人公が失敗や孤独を通じて自己を見つめ直し、人間存在の悲しみと喜びを探求する物語です。

導入と背景
寝落ちの本ポッドキャスト。こんばんは、Naotaroです。 このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、 それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。 作品はすべて青空文庫から選んでおります。
ご意見・ご感想・ご依頼は、公式エックスまでどうぞ。 寝落ちの本で検索してください。
また別途投稿フォームもご用意しました。リクエストなどお寄せください。 そして最後に番組フォローもどうぞよろしくお願いします。
さて、今日は、
太宰治さんの人間失格です。 ついにこれを読む日が来ました。
ずっと後回しにしてたんですが、長いのでね。 長い上に暗いと聞いてますのでね、なかなか手をつけられなかったんですが。
文字数が78000字なので、
1時間に2万字ぐらい読むんですよ。だから3時間超えると思うんですよね。 できれば1本のファイルで行こうと思っているので、
何日間か分けて収録することになろうかと思いますが、 後回自体は1本でゴロッと出そうと思っています。
はい。 長いんで、とっとと行きましょうか。
どうか寝落ちまでお付き合いください。 それでは参ります。
写真に込められた感情
人間失格 橋垣
私はその男の写真を3様見たことがある。 一様はその男の幼年時代とでも言うべきであろうか。
実際前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女の人に取り囲まれ、 過去それはその子供の姉たち、妹たち、それからいとこたちかと想像される。
庭園の池のほとりに荒い縞の袴を履いて立ち、首を30度ほど左に傾け、 醜く笑っている写真である。
見にくく? けれども、にぶい人たち、つまり美衆などに関心を持たぬ人たちは、面白くもなんともないような顔をして、「かわいいぼちゃんですね。」といい加減なお世辞を言っても、
まんざら空お世辞に聞こえないくらいの、いわば通俗の可愛らしさみたいな加減も、 その子供の笑顔にないわけではないのだが。
しかし、いささかでも美衆についての訓練を経てきた人なら、一目見てすぐ、
「なんて嫌な子供だ。」とすこぶる不快そうにつぶやき、けむしでも払い抜けるときのような手つきで、 その写真を放り投げるかもしれない。
まったくその子供の笑顔は、よく見れば見るほどなんとも知れず、 嫌な薄気味悪いものが感じられてくる。
土台それは笑顔でない。この子は少しも笑ってはいないのだ。 その証拠にはこの子は両方の拳を固く握って立っている。
人間は拳を固く握りながら笑えるものではないのである。 猿だ。猿の笑顔だ。
ただ顔に醜いシワを寄せているだけなのである。 シワくちゃぼっちゃんとでも言いたくなるくらいの、まことに奇妙な、そうしてどこかけがらわしく、
変に人をムカムカさせる表情の写真であった。 私はこれまでこんな不思議な表情の子供を見たことが一度もなかった。
第二様の写真の顔は、これはまたびっくりするくらい酷く変貌していた。 学生の姿である。高等学校時代の写真か大学時代の写真かはっきりしないけれども、
とにかく恐ろしく美貌の学生である。 しかしこれもまた不思議にも、生きている人間の感じはしなかった。
学生服を着て、胸のポケットから白いハンケチを覗かせ、 頭椅子に腰掛けて足を組み、そうしてやはり笑っている。
今度の笑顔は主役者の猿の笑いでなく、 かなり巧みな美少にはなっているが、しかし人間の笑いとどこやら違う。
血の重さとでもいようか、命の渋さとでもいようか、 そのような充実感は少しもなく、それこそ鳥のようではなく、
羽毛のように軽く、ただ白紙一枚、そうして笑っている。 つまり一から十まで作り物の感じなのである。
キザと言っても足りない。軽白と言っても足りない。 にやけと言っても足りない。おしゃれと言ってももちろん足りない。
しかもよく見ていると、やはりこの美貌の学生にも、 どこか怪談じみた気味悪いものが感じられてくるのである。
私はこれまでこんな不思議な美貌の青年を見たことが一度もなかった。 もう一様の写真は最も奇怪なものである。
まるでもう年の頃がわからない。 頭はいくぶん白髪のようである。それが酷く汚い部屋。
かっこ部屋の壁が3か所ほど崩れ落ちているのがその写真にはっきり映っている。 の片隅で、小さい火鉢に両手をかざし、今度は笑っていない。
どんな表情もない。いわば座って火鉢に両手をかざしながら自然に死んでいるような、 誠に忌まわしい不吉な匂いのする写真であった。
奇怪なのはそれだけではない。 その写真には割に顔が大きく映っていたので、私はつくづくその顔の構造を調べることができたのであるが、
額は平凡。額のシワも平凡。眉も平凡。目も平凡。鼻も口も顎も。 ああ、この顔には表情がないばかりか。印象さえない。
特徴がないのだ。 例えば私がこの写真を見て目をつぶる。
すでに私はこの顔を忘れている。 部屋の壁や小さい火鉢は思い出すことができるけれども、その部屋の主人公の顔の印象はすっと無償して、どうしても何としても思い出せない。
絵にならない顔である。 漫画にも何もならない顔である。
目を開く。 ああ、こんな顔だったのか。思い出した。というような喜びさえない。
極端な言い方をすれば、目を開いてその写真を再び見ても思い出せない。 そしてただもう不愉快。
イライラしてつい目を背けたくなる。 いわゆる思想というものにだって、もっと何か表情なり印象なりがあるものだろうに。
人間の体に駄馬の首でもくっつけたなら、こんな感じのものになるであろうか。 とにかく、とこということなく見るものをしてゾッとさせ、嫌な気持ちにさせるのだ。
私はこれまでこんな不思議な男の顔を見たことが、やはり一度もなかった。
第一の手記 恥の多い生涯を送ってきました。
内面的な葛藤
自分には人間の生活というものが見当つかないのです。 自分は東北の田舎に生まれましたので、汽車を初めて見たのは、よほど大きくなってからでした。
自分は停車場のブリッジを登って降りて、そしてそれが線路を跨ぎ越えるために作られたものだということには全然気づかず、
ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに複雑に楽しくハイカラにするためにのみ設備せられてあるものだとばかり思っていました。
しかも、かなり長い間そう思っていたのです。 ブリッジの登ったり降りたりは自分にはむしろずいぶん垢抜けのした遊戯で、
それは鉄道のサービスの中でも最も気の利いたサービスの一つだと思っていたのですが、後にそれはただ旅客が線路を跨ぎ越えるための
すこぶる実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに今日が覚めました。
また自分は子供の頃絵本で地下鉄道というものを見て、これもやはり実利的な必要から暗出せられたものではなく、地上の車に乗るよりは地下の車に乗った方が風変わりで面白い遊びだからとばかり思っていました。
自分は子供の頃から病弱でよく寝込みましたが、 寝ながら敷布の枕のカバー、掛け布団のカバーをつくづくつまらない装飾だと思い、
それが案外に実用品になったことを二十歳近くになってわかって、人間のつますさに安全とし、悲しい思いをしました。
また自分は空腹ということを知りませんでした。 いやそれは自分が衣食中に困らない家に育ったという意味ではなく、
そんな馬鹿な意味ではなく、自分には空腹という感覚はどんなものだかさっぱりわからなかったのです。
変な言い方ですが、お腹が空いていても自分でそれに気がつかないのです。 中学校、中学校、自分が学校から帰ってくると周囲の人たちが、「それ、お腹が空いたろ。
自分たちにも覚えがある。学校から帰ってきた時の空腹は全くひどいからなぁ。 アマナットはどう?カステラもおパンもあるよ。」
などと言って騒ぎますので、自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、お腹が空いたと呟いて、アマナットを10粒ばかり口に放り込むのですが、
空腹感とはどんなものだか、ちっともわかっていいやしなかったのです。 自分だってそれはもちろん大いに物を食べますが、しかし空腹感から物を食べた記憶はほとんどありません。
珍しいと思われたものを食べます。豪華と思われたものを食べます。 また、よそへ行って出されたものも無理をしてまで大抵食べます。
そして子供の頃の自分にとって最も苦痛な時刻は、実に自分の家の食事の時間でした。 自分の田舎の家では10人くらいの家族全部、
命名のお膳を2列に向かい合わせに並べて、末っ子の自分はもちろん一番下の座でしたが、その食事の部屋は薄暗く、
昼ご飯の時など、10幾人の家族がただ黙々として飯を食っている有様には、自分はいつも肌寒い思いをしました。
それに田舎の昔片木の家でしたので、おかずも大抵決まっていて、珍しいもの豪華なもの、そんなものは望むべくもなかったので、いよいよ自分は食事の時刻を恐怖しました。
自分はその薄暗い部屋の末席に、寒さにガタガタ震える思いで口にご飯を少量ずつ運び、押し込み、
人間はどうして一日に3度3度ご飯を食べるのだろう、実にみんな厳粛な顔をして食べている。
これも一種の儀式のようなもので、家族が日に3度3度時刻を決めて、薄暗い一部屋に集まり、お膳を順序正しく並べ、食べたくなくても無言でご飯を噛みながらうつむき、
家中にうごめいている霊たちに祈るためのものかもしれない、とさえ考えたことがあるくらいでした。
飯を食べなければ死ぬ。 という言葉は自分の耳にはただ嫌な脅しとしか聞こえませんでした。
その迷信は、 今でも自分にはなんだか迷信のように思われてならないのですが。
しかしいつも自分に不安と恐怖を与えました。 人間は飯を食べなければ死ぬから、そのために働いて、飯を食べなければならぬ、
という言葉ほど自分にとって難解で怪獣で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉はなかったのです。
つまり自分には人間の営みというものが未だに何もわかっていないということになりそうです。
自分の幸福の観念と世のすべての人たちの幸福の観念とがまるで食い違っているような不安。
自分はその不安のために世の世の転々し、進言し、発狂しかけたことさえあります。 自分は一体幸福なのでしょうか。
自分は小さい時から実にしばしば幸せ者だと人に言われてきましたが、自分ではいつも地獄の思いで、
かえって自分を幸せ者だと言った人たちの方が、比較にもならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。
自分には災いの塊が10個あって、その中の1個でも隣人が背負ったら、
その1個だけでも十分に隣人の命取りになるのではあるまいかと思ったことさえありました。
つまりわからないのです。 隣人の苦しみの性質、程度がまるで見当つかないのです。
プラクティカルな苦しみ。ただ、飯を食えたらそれで解決できる苦しみ。
しかしそれこそ最も強い痛苦で、自分の例の10個の災いなど吹っ飛んでしまうほどの精算な浴び地獄なのかもしれない。
それはわからない。しかしそれにしてはよく自殺もせず発狂もせず、正当を論じ、絶望せず屈せず生活の戦いを続けていける。
苦しくないんじゃないか。エゴイストになりきって、しかもそれを当然のことと確信し、一度も自分を疑ったことがないんじゃないか。
それなら楽だ。しかし人間というものはみんなそんなもので、またそれで満点なのではないかしら。わからない。
夜はぐっすり眠り、朝は爽快なのかしら。どんな夢を見ていたのだろう。道を歩きながら何を考えているのだろう。
金?まさか、それだけでもないだろう。人間は飯を食うために生きているのだという説は聞いたことがあるような気がするけれども、
金のために生きているという言葉は耳にしたことがない。いやしかしことによると、いやそれもわからない。
考えれば考えるほど自分にはわからなくなり、自分一人全く変わっているような不安と恐怖に襲われるばかりなのです。
自分は隣人とほとんど会話ができません。何をどう言ったらいいのかわからないのです。
そこで考え出したのは同家でした。それは自分の人間に対する最古の旧愛でした。
自分は人間を極度に恐れていながら、それでいて人間をどうしても思い切れなかったらしいのです。
そして自分はこの同家の一戦で、わずかに人間につながることができたのでした。
表では絶えず笑顔を作りながらも、内心は必死の、それこそ戦犯に一番の兼ね合いとでも言うべき
一気一発の油汗流してのサービスでした。自分は子供の頃から自分の家族の者たちに対してさえ、
彼らがどんなに苦しく、またどんなことを考えて生きているのか、まるでちっとも見当つかず、ただ恐ろしくその気まずさに耐えることができず、
既に同家の上手になっていました。 つまり自分はいつの間にやら一言も本当のことを言わない子になっていたのです。
その頃の家族たちと一緒に写した写真などを見ると、他の者たちは皆真面目な顔をしているのに、自分一人必ず奇妙に顔を歪めて笑っているのです。
これもまた自分の幼く悲しい同家の一種でした。 また自分は憎しんたちに何か言われて口応えしたことは一度もありませんでした。
そのわずかなおこごとは、自分には霹靂のごとく強く感じられ、狂うみたいになり、口応えどころかそのおこごとこそ、いわば万世一継の人間の真理とかいうものに違いない、
自分にはその真理を行う力がないのだから、もはや人間と一緒に住めないのではないかしらと思い込んでしまうのでした。
自己の恐怖と絶望
だから自分には言い争いも自己弁解もできないのでした。 人から悪く言われると、いかにももっとも自分が酷い思い違いをしているような気がしてきて、
いつもその攻撃を目視して受け、内心狂うほどの恐怖を感じました。 それは誰でも人から非難せられたり、
怒られたりしていい気持ちがするものではないかもしれませんが、自分は怒っている人間の顔に、獅子よりもワニよりも竜よりも、もっと恐ろしい動物の本性を見るのです。
普段はその本性を隠しているようですけれども、何かの機会に、例えば牛が草原でおっとりした形で寝ていて、
突如尻尾でピシッと腹のアブを打ち殺すみたいに、不意に人間の恐ろしい正体を怒りによって暴露する様子を見て、自分はいつも神の逆立つほどの戦慄を覚え、
この本性もまた人間の生きていく資格の一つなのかもしれないと思えば、ほとんど自分に絶望を感じるのでした。
人間に対していつも恐怖に古い斧の木、また人間としての自分の現像に未人も自信を持てず、そして自分一人の大脳は胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、
ナーバスネスをひた隠しに隠してひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はおどけたお偏人として次第に完成されてゆきました。
何でもいいから笑わせておけばいいのだ。 そうすると人間たちは、自分が彼らのいわゆる生活の他にいてもあまりそれを気にしないのではないかしら。
とにかく彼ら人間たちの目障りになってはいけない。自分は無だ、風だ、空だ、というような思いばかりが募り、自分はおどけによって家族を笑わせ、
また家族よりももっと不可解で恐ろしい下男や下女にまで必死のおどけのサービスをしたのです。 自分は夏に浴衣の下に赤い毛糸のセーターを着て廊下を
歩き、家中の者を笑わせました。 滅多に笑わない長兄もそれを見て吹き出し、
そら、洋ちゃん似合わない、と可愛くてたまらないような口調で言いました。 何、自分だって真夏に毛糸のセーターを着て歩くほど、いくら何でもそんな暑さ寒さを知らぬお偏人ではありません。
姉のレギンスを両腕にはめて浴衣の袖口から覗かせ、もってセーターを着ているように見せかけていたのです。
自分の父は東京に用事の多い人でしたので、上野の桜木町に別荘を持っていて、月の大半は東京のその別荘で暮らしていました。
そして帰る時には家族の者たち、また親戚の者たちにまで実におびただしくお土産を買ってくるのが、まあ父の趣味みたいなものでした。
いつかの父の状況の前夜、父は子供たちを客前に集め、今度帰る時にはどんなお土産がいいか一人一人に笑いながら尋ね、それに対する子供たちの答えをいちいち手帳に書き留めるのでした。
父がこんなに子供たちと親しくするのは珍しいことでした。
「用造は?」と聞かれて自分は口御もってしまいました。
何が欲しいと聞かれると途端に何も欲しくなくなるのでした。どうでもいい。
どうせ自分を楽しくさせてくれるものなんかないんだという思いがちらと動くのです。
と同時に人から与えられるものをどんなに自分の好みに合わなくても、それを拒むこともできませんでした。
嫌なことを嫌と言えず、また好きなこともオズオズと盗むように極めて苦く味わい、そうして言い知れぬ恐怖感にも耐えるのでした。
つまり自分には二者戦一の力さえなかったのです。
これが後年に至り、いよいよ自分のいわゆる恥の多い生涯の重大な原因ともなる聖壁の一つだったように思われます。
自分が黙ってもじもじしているので父はちょっと不機嫌な顔になり、
やはり本か。
浅草の中店にお正月のししまいのおしし、子供がかぶって遊ぶのには手頃な大きさのが売っていたけど、欲しくないか。
欲しくないかと言われるともうダメなんです。おどけた返事も何もできやしないんです。おどけ役者は完全に落題でした。
本がいいでしょ、長兄は真面目な顔をして言いました。
そうか。 父はきょうざめ顔に手帳に書き留めもせず、パチと手帳を閉じました。
なんという失敗。自分は父を怒らせた。 父の復讐はきっと恐るべきものに違いない。
今のうちに何とかして取り返しのつかぬものか、とその夜、布団の中でガタガタ震えながら考え、そっと起きて客間に行き、
父が先刻手帳をしまい込んだはずの机の引き出しを開けて手帳を取り上げ、パラパラめくってお土産の注文記入の箇所を見つけ、
手帳の鉛筆をなめてししまいと書いて寝ました。 自分はそのししまいのおししをちっとも欲しくはなかったのです。
かえって本のほうがいいくらいでした。 けれども自分は父がそのおししを自分に買って与えたいのだということに気がつき、
父のその意向に迎合して父の機嫌を直したいばかりに、深夜客間に忍び込むという冒険をあえて犯したのでした。
そうしてこの自分の非常の手段は果たして思い通りの大成功をもって報いられました。 やがて父は東京から帰ってきて母に大声で言っているのを自分は子供部屋で聞いていました。
中店のおもちゃ屋でこの手帳を開いてみたら、これ、ここにししまいと書いてある。 これは私の字ではない。
はてな、と首をかしげて思い当たりました。 これは洋蔵のいたずらですよ。
人間関係の虚構
あいつは私が聞いた時にはニヤニヤして黙っていたが、あとでどうしてもおししが欲しくてたまらなくなったんだね。
なにせどうもあれは変わった坊主ですからね。知らんぷりしてちゃんと書いている。 そんなに欲しかったのならそう言えばいいのに。私はおもちゃ屋の店先で笑いましたよ。
ああ、洋蔵を早くここへ呼びなさい。 また一方自分は下男や下女たちを洋室に集めて、下男の一人にめちゃくちゃにピアノのキーを叩かせ、
田舎ではありましたがその家には大抵のものが揃っていました。 自分はそのでたらめの曲に合わせてインディアンの踊りを踊ってみせてみんなを大笑いさせました。
時計はフラッシュを焚いて自分のインディアン踊りを撮影してその写真ができたのを見ると自分の腰布、 それはサラサの風呂敷でした。
の合わせ目から小さいおちんぽが見えていたので、これがまた家中の大笑いでした。 自分にとってこれがまた意外の成功というべきものだったかもしれません。
自分は毎月新刊の少年雑誌を10冊以上も撮っていて、 またその他にも様々な本を東京から取り寄せて黙って読んでいましたので、
めちゃらくちゃら博士だの、またなんじゃもんじゃ博士などとは大変な馴染みで、 また怪談、講談、落語、江戸小話などの類にもかなり通じていましたから、
ひょうきんなことを真面目な顔をして言って家の者たちを笑わせるのにはことをかきませんでした。 しかし、ああ、学校。
自分はそこでは尊敬されかけていたのです。尊敬されるという観念もまたはなはな自分を怯えさせました。
ほとんど完全に近く人を騙して、そうしてある一人の全知全能の者に見破られ、 コッパみじんにやられて死ぬる以上の赤恥をかかせられる、それが尊敬されるという状態の自分の定義でありました。
人間を騙して尊敬されても誰か一人が知っている。 そして人間たちもやがてその一人から教えられて騙されたことに気がついたとき、
その時の人間たちの怒り、復讐は一体今はどんなでしょうか。 想像してさえ身の毛がよだつ心地がするのです。
自分は金持ちの家に生まれたということよりも、底に言うできることによって学校中の尊敬を得そうになりました。
自分は子供の頃から病弱で、よく一月二月、また一学年近くも寝込んで学校を休んだことさえあったのですが、
それでも病み上がりの体で人力車に乗って学校へ行き、学年末の試験を受けてみると、クラスの誰よりもいわゆるできているようでした。
体具合の良い時でも自分はさっぱり勉強せず、学校へ行っても授業時間に漫画などを書き、
休憩時間にはそれをクラスの者たちに説明して聞かせて笑わせてやりました。 また、綴り方には滑稽話ばかり書き、先生から注意されても、しかし自分はやめませんでした。
先生は実はこっそり自分のその滑稽話を楽しみにしていることを自分は知っていたからでした。
ある日自分は例によって自分が母に連れられて、状況の途中の汽車でおしっこを汽車の通路にあるタンツボにしてしまった失敗談。
しかしその状況の時に自分はタンツボと知らずにしたのではありませんでした。 子供の無邪気を照らってわざとそうしたのでした。
を、ことさらに悲しそうな筆記で書いて提出し、先生はきっと笑うという自信がありましたので、職員室に引き上げていく先生の後をそっとつけていきましたら、
先生は教室を出るとすぐ自分のその綴り方を他のクラスの者たちの綴り方の中から選び出し、廊下を歩きながら読み始めてくすくす笑い、
やがて職員室に入って読み終えたのか顔を真っ赤にして大声を上げて笑い、他の先生に早速それを読ませているのを見届け自分は大変満足でした。
お茶目。 自分はいわゆるお茶目に見られることに成功しました。
尊敬されることから逃れることに成功しました。通信棒は全学科とも10点でしたが、総考というものだけは7点だったり6点だったりして、それもまた家中の大笑いの種でした。
けれども自分の本性はそんなお茶目さんなどとはおよそ体積的なものでした。とどころすでに自分は助中や下難から悲しいことを教えられ、犯されていました。
幼少の者に対してそのようなことを行うのは、人間の行い得る犯罪の中で最も醜悪で過等で残酷な犯罪だと自分は今では思っています。
しかし自分は忍びました。 これでまた一つ、人間の特質を見たというような気持ちさえして、そうして力なく笑っていました。
もし自分に本当のことを言う習慣がついていたなら、悪びれず彼らの犯罪を父や母に訴えることができたのかもしれませんが、しかし自分はその父や母をも全部は理解することができなかったのです。
人間に訴える。自分はその手段には少しも期待できませんでした。 父に訴えても、母に訴えても、おまわりに訴えても、政府に訴えても、結局は弱たりに強い人の、世間に通りの良い言い分に言いまくられるだけのことではないかしら。
必ず片手落ちのあるのがわかりきっている。所詮人間に訴えるのは無駄である。自分はやはり本当のことは何も言わず、しのんでそうしておどけを続けているより他ない気持ちなのでした。
何だ、人間への不信を言っているのか。 えー、お前はいつクリスチャンになったんだい。
と嘲笑する人もあるいはいるかもしれませんが、しかし人間への不信は必ずしもすぐに宗教の道に通じているとは限らないと自分には思われるのですけど。
現にその嘲笑する人をも含めて、人間はお互い不信の中で、エホバも何も念頭に置かず平気で生きているではありませんか。
やはり自分の幼少の頃のことでありましたが、父の俗していたある青棟の有名人がこの町に演説に来て、自分は下男たちに連れられて劇場に聞きに行きました。
満員で、そうしてこの町の特に父と親しくしている人たちの顔は皆、見えて大いに拍手などをしていました。
演説が済んで長州は雪の夜道を三三五五固まって家路に着き、クソみそに今夜の演説会の悪口を言っているのでした。
中には父と特に親しい人の声も混じっていました。
父の開会の字も下手、例の有名人の演説も何が何やら訳がわからぬ、とそのいわゆる父の同志たちが土星に居た口調で言っているのです。
そうしてその人たちは自分の家に立ち寄って客間に上がり込み、今夜の演説会は大成功だったと真から嬉しそうな顔をして父に言っていました。
下男たちまで今夜の演説会はどうだったと母に聞かれ、とても面白かったと言ってケロリとしているのです。
演説会ほど面白いものはないと帰る道々、下男たちが嘆き合っていたのです。
しかしこんなのはほんのささやかな一例にすぎません。
互いに欺き合って、しかもいずれも不思議に何の傷もつかず、欺き合っていることにさえ気がついていないみたいに、実に鮮やかな、それこそ清く明るくほからかな不審の例が人間の生活に充満しているように思われます。
けれども自分には、欺き合っているということにはさして特別の興味もありません。
自分だっておどけによって朝から晩まで人間を欺いているのです。
自分は終身教科書的な正義とか何とかという道徳にはあまり関心を持っていないのです。
自分には欺き合っていながら清く明るくほからかに生きている、あるいは生きうる自信を持っているみたいな人間が難解なのです。
人間はついに自分のその妙程を教えてはくれませんでした。
それさえわかったら自分は人間をこんなに恐怖し、また必死のサービスなどしなくて済んだのでしょう。
人間の生活と対立してしまって、よねあなの地獄のこれほどの苦しみをなめずに済んだのでしょう。
つまり自分が下男下女たちの憎むべきあの犯罪をさえ誰にも訴えなかったのは、
人間への不信からではなく、またもちろんクリスト主義のためでもなく、
人間が妖像という自分に対して信用の殻を固く閉じていたからだったと思います。
父母でさえ、自分にとって難解なものを時折見せることがあったのですから。
そうしてその誰にも訴えない、自分の孤独の匂いが多くの女性に本能によって嗅ぎ当てられ、
後年様々自分がつけ込まれる誘因の一つになったような気もするのです。
つまり自分は女性にとって恋の秘密を守れる男であったというわけなのでした。
第二の主旗。
海の波打ち際といってもいいくらいに海に近い岸辺に、
真っ黒い木肌の山桜のかなり大きいのが20本以上も立ち並び、
新たな環境への適応
新学年が始まると山桜は褐色の根ばっかりのような若葉と共に、
青い海を背景にしてその絢爛たる花を開き、
やがて花吹雪の時には花びらが帯正しく海に散り込み、海面を散りばめて漂い、
波に乗せられ再び波打ち際に打ち返されるその桜の砂浜が、
そのまま校庭として使用されている東北のある中学校に、
自分は受験勉強も6日しなかったのにどうやら無事に入学できました。
そうして、その中学の制防の気象にも制服のボタンにも桜の花が図案化せられて咲いていました。
その中学校のすぐ近くに自分の家と遠い親戚にあたるものの家がありましたので、
その理由もあって父がその海と桜の中学校を自分に選んでくれたのでした。
自分はその家に預けられ、何せ学校のすぐ近くなので朝礼の鐘の鳴るのを聞いてから走って登校するというような、
かなり怠惰な中学生でしたが、それでも礼のおどけによって日一日とクラスの人気を得ていました。
生まれて初めていわば他教へ出たわけなのですが、
自分にはその他教の方が自分の生まれ故郷よりもずっと気楽な場所のように思われました。
それは自分のおどけもその頃にはいよいよぴったり身についてきて、
人を欺くのに以前ほどの苦労を必要としなくなっていたからである、と解説してもいいでしょうが。
しかしそれよりも、肉親と他人、故郷と他教、
そこには抜くべからざる縁起の難易の差が、どのような転産にとっても、たとい神の子のイエスにとっても存在しているものではないでしょうか。
俳優にとって最も演じにくい場所は故郷の劇場であって、
しかも肉親県族全部そろって座っている一部屋の中にあってはいかな名優も演技どころではなくなるのではないでしょうか。
けれども自分は演じてきました。しかもそれがかなりの成功を収めたのです。
心の闇との葛藤
それほどの癖ものが他教に出て、万が一にも演じ損ねるなどということはないわけでした。
自分の人間恐怖は、それは以前に勝るとも劣らぬくらい激しく胸の底で前導していましたが、しかし演技は実にのびのびとしてきて、教室にあってはいつもクラスの者たちを笑わせ、
教師もこのクラスは大葉さえいないととてもいいクラスなんだが、と言葉では嘆じながら、手で口を覆って笑っていました。
自分はあの雷のごとき万世を張り上げる俳俗症候を抑え、実に容易に吹き出させることができたのです。
もはや自分の正体を完全に隠蔽し得たのではあるまいか、とほっとしかけた矢先に自分は実に意外にも背後から突き刺されました。
それは背後から突き刺す男のご多分に漏れず、クラスで最も貧弱な肉体をして顔も青ぶくれで、
そして確かに不敬のお古と思われる袖が聖徳太子の袖みたいに長すぎる上着を着て、学科は少しもできず、教練や体操はいつも見学という白痴にいた生徒でした。
自分もさすがにその生徒にさえ警戒する必要は認めていなかったのでした。
その日体操の時間にその生徒、生は今記憶していませんが名は竹市と言ったかと覚えています。
その竹市は例によって見学、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。
自分はわざとできるだけ厳粛な顔をして、鉄棒をめがけてえいと叫んで飛び、そのまま幅跳びのように前方へ飛んでしまって、すなじにどすんと尻餅をつきました。
すべて計画的な失敗でした。
果たしてみんなの大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上がってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか竹市が、自分の背中を突き低い声でこうささやきました。
わざ、わざ、自分は心感しました。
わざと失敗したということを、人もあろうに竹市に見破られるとは全く思いもかけないことでした。
自分は世界が一瞬にして地獄の豪華に包まれて燃え上がるのを眼前で見るような心地がして、わーっと叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。
それからの日々の自分の不安と恐怖。
表面は相変わらず悲しいおどけを演じてみんなを笑わせていましたが、ふっと思わず重苦しいため息が出て、
何をしたってすべて竹市にこっぱみじんに見破られていて、そうしてあればそのうちにきっと誰彼となくそれを言いふらして歩くに違いないのだ、と考えると、
額にじっとり油汗が湧いてきて、狂人みたいに妙の目つきで辺りを虚力のむらしく見回したりしました。
できることなら朝昼晩、四六時中、竹市のそばから離れず、彼が秘密をくちばしらないように監視していたい気持ちでした。
そうして自分が彼にまつわりついている間に、自分のおどけはいわゆる技ではなくて、本物であったというように思い込ませるようにあらゆる努力を払い、
あわよくば彼と無二の親友になってしまいたいものだ。もしそのことが皆不可能なら、もはや彼の死を祈るより他はない、とさえ思い詰めました。
しかしさすがに彼を殺そうという気だけは起こりませんでした。自分はこれまでの生涯において、人に殺されたいと願望したことは幾度となくありましたが、
人を殺したいと思ったことは一度もありませんでした。それは、おするべき相手にかえって幸福を与えるだけのことだと考えていたからです。
自分は彼を手名付けるため、まず顔にニセクリスチャンのような優しい微笑をたたえ、
首を三十度ぐらい左に曲げて彼の小さい肩を軽くたたき、そして猫なで声に似た甘ったるい声で彼を自分の寄宿している家に遊びに来るようしばしば誘いましたが、
彼はいつもぼんやりした目つきをして黙っていました。 しかし自分はある日の放課後、確か初夏の頃のことでした。
夕立が白く降って、生徒たちは帰宅に困っていたようでしたが、自分は家がすぐ近くなので平気で外へ飛び出そうとして、ふと下駄箱の影に竹市がしょんぼり立っているのを見つけ、
「行こう。傘を貸してあげるといい。」
臆する竹市の手を引っ張って一緒に夕立の中を走り、家に着いて二人の上衣をおばさんに乾かしてもらうように頼み、竹市を二階の自分の部屋に誘い込むのに成功しました。
その家には五十過ぎのおばさんと三十ぐらいの眼鏡をかけて両親らしい背の高い姉娘。
この娘は一度よそへお嫁に行って、それからまた家へ帰っている人でした。
自分はこの人をここの家の人たちに習って姉さと呼んでいました。
それと最近女学校を卒業したばかりらしい節ちゃんという姉に似ず、背が低く丸顔の妹娘と三人だけの家族で、
下の店には文房具やら運動用具を少々並べていましたが、主な収入は亡くなった主人が盾で残していった五六棟の長屋の家賃のようでした。
「耳が痛い。」
竹市は立ったままでそう言いました。
「雨に濡れたら痛くなったよ。」
自分が見てみると両方の耳がひどい耳だれでした。
耳が今にも自覚の外に流れ出ようとしていました。
「ああ、これはいけない。痛いだろう。」
と自分は大げさに驚いて見せて、
「雨の中を引っ張り出したりしてごめんね。」
と女の言葉みたいな言葉を使って優しく謝り、それから下へ行って綿とアルコールをもらってきて、
竹市を自分の膝を枕にして寝かせ、念入りに耳の掃除をしてやりました。
竹市もさすがにこれが偽善の悪形であることには気づかなかったようで、
「お前はきっと女に惚れられるよ。」
と自分の膝枕で寝ながら無知なお世辞を言ったくらいでした。
しかしこれはおそらくあの竹市も意識しなかったほどの恐ろしい悪魔の予言のようなものだったということを自分は後年に至って思い知りました。
人間関係の複雑さ
「惚れるといい、惚れられるといい。」
その言葉はひどく下品で、ふざけていかにも矢に下がったものの感じで、
どんなにいわゆる厳粛の場であっても、そこへこの言葉が一言でもひょいと顔を出すと、
みるみる憂鬱のがらんが崩壊し、ただのっぺら棒になってしまうような心地がするものですけれども、
惚れられる辛さ、などという俗語でなく、
愛せるある不安とでもいう文学語を用いると、
あながち憂鬱のがらんをぶち壊すことにはならないようですから、奇妙なものだと思います。
竹市が自分の身乱れの海の始末をしてもらって、「お前は惚れられる。」という馬鹿なお世辞を言い、
自分はその時、ただ顔をあからめて笑って何も答えませんでしたけれども、
しかし実はかすかに思い当たるところもあったのでした。
でも、惚れられるというようなやひな言葉によって生じる矢に下がった雰囲気に対して、
そう言われると思い当たるところもある。
なおと書くのは、ほとんど落語の我が旦那のセリフにさえならぬくらい、
愚かしい感慨を示すようなもので、
まさか自分はそんなふざけた矢に下がった気持ちで思い当たるところもあったわけではないのです。
自分には人間の女性の方が男性よりもさらに数倍何回でした。
自分の家族は女性の方が男性よりも数が多く、また親戚にも女の子がたくさんあり、
また例の犯罪の女中などもいまして、
自分は幼い時から女とばかり遊んで育ったと言っても過言ではないと思っていますが、
それはまたしかし実に白標を踏む思いで、その女の人たちと付き合ってきたのです。
ほとんどまるで見当がつかないのです。
ごり夢中でそうして時たま虎の王を踏む失敗をしてひどい板で覆い、
それがまた男性から受ける鞭と違って内出血みたいに極度に不快に内行して、なかなか治癒しがたい傷でした。
女は引き寄せて突っ放す。
あるいはまた女は人のいるところでは自分を避けすみ邪見にし、
誰もいなくなると皮脂と抱きしめる。
女は死んだように深く眠る。
女は眠るために生きているのではないかしら。
その他、女についての様々な観察を既に自分は幼年時代から得ていたのですが、
同じ人類のようでありながら、男とはまた全く異なった生き物のような感じで、
そしてまたこの不可解で油断のならぬ生き物は奇妙に自分を構うのでした。
惚れられるなんていう言葉も、また好かれるという言葉も、
自分の場合にはちっともふさわしくなく、
構われるとでも言った方がまだしも実情の説明に適しているかもしれません。
女は男よりもさらに動機にはくつろぐようでした。
自分がおどけを演じ、男はさすがにいつまでもゲラゲラ笑ってもいませんし、
それに自分も男の人に対し調子に乗ってあまりおどけを演じすぎると失敗するということを知っていましたので、
必ず適当なところで切り上げるように心がけていましたが、
女は適度ということを知らず、いつまでもいつまでも自分のおどけを要求し、
自分はその限りないアンコールに応えてヘトヘトになるのでした。
実によく笑うのです。
いったい女は男よりも快力を余計に頬張ることができるようです。
自分が中学時代に世話になったその家の姉娘も妹娘も、
暇さえあれば2階の自分の部屋にやってきて、
自分はその度ごとに飛び上がらんばかりにギョッとして、
そうしてひたすら怯え、
「お勉強?」
「いいえ。」と微笑して本を閉じ、
「今日ね、学校でね、こんぼうという地理の先生がね。」
とスルスル口から流れ出るものは心にもない滑稽話でした。
「ようちゃん、眼鏡をかけてごらん。」
ある晩、妹娘の節ちゃんが姉さと一緒に自分の部屋へ遊びに来て、
さんざん自分におどけを演じさせた挙句の果てにそんなことを言い出しました。
「なぜ?」
「いいからかけてごらん。姉さの眼鏡を借りなさい。」
いつまでもこんな乱暴な命令口調で言うのでした。
同家子は素直に姉さの眼鏡をかけました。
途端に2人の娘は笑いころげました。
「そっくり。ロイドにそっくり。」
当時、ハロルド・ロイドとかいう外国の映画の喜劇役者が日本で人気がありました。
自分は立って片手を挙げ、
「諸君。」と言い、
「神戸美日本のファンの皆様方に。」と一場の挨拶を試み、
さらに大笑いさせて、
それからロイドの映画がその街の劇場に来る度ごとに見に行って、
ひそかに彼の表情などを研究しました。
また、ある秋の夜、
自分が寝ながら本を読んでいると、
姉さが鳥のように素早く部屋へ入ってきて、
いきなり自分の掛け布団の上に倒れて泣き、
「洋ちゃんが私を助けてくれるのだわね。そうだわね。
こんな家、一緒に出てしまった方がいいのだわ。
助けてね。助けて。」
などと激しいことを口走ってはまた泣くのでした。
けれども自分には女からこんな態度を見せつけられるのは、
これが最初ではありませんでしたので、
姉さの過激な言葉にもさして驚かず、
かえってその陳腐、無内容に凶が冷めた心地でそっと布団から抜け出し、
机の上の柿を剥いてその一切れを姉さに手渡してやりました。
すると姉さはしゃくり上げながらその柿を食べ、
「何か面白い本がない?貸してよ。」と言いました。
自分は漱石の我輩は猫であるという本を本棚から選んであげました。
「ごちそうさま。」
姉さは恥ずかしそうに笑って部屋を出て行きましたが、
この姉さに限らず、一体女はどんな気持ちで生きているのかを考えることは、
自分にとって身水の思いを探るよりもややこしく、
煩わしく、薄気味の悪いものに感じられていました。
内面的葛藤の始まり
ただ自分は女があんなに急に泣き出したりした場合、
何か甘いものを手渡してやるとそれを食べて機嫌を直すということだけは、
幼い時から自分の経験によって知っていました。
また妹娘のせっちゃんはその友達まで自分の部屋に連れてきて、
自分が例によって公平にみんなを笑わせ、
友達が帰るとせっちゃんは必ずその友達の悪口を言うのでした。
あの人は不良少女だから気をつけるようにと決まって言うのでした。
そんならわざわざ連れてこなければよいのに。
おかげで自分の部屋の来客のほとんど全部が女ということになってしまいました。
しかしそれは竹内のお世辞の惚れられることの実現では未だ決してなかったのでした。
つまり自分は日本の東北のハロルドロイドに過ぎなかったのです。
竹内の無知なお世辞が忌まわしい予言として生々と生きてきて、
不吉な啓蒙を呈するようになったのはさらにそれから数年たった後のことでありました。
竹内はまた自分にもう一つ重大な贈り物をしていました。
お化けの絵だよ。
いつか竹内が自分の二階へ遊びに来たとき、
ごじさんの一枚の灰色版の口絵を得意そうに自分に見せて、そう説明しました。
おや?と思いました。
その瞬間自分の落ちゆく道が決定されたように後年に至ってそんな気がしてなりません。
自分は知っていました。
それはゴッホの霊の自画像に過ぎないのを知っていました。
自分たちの少年の頃には、日本ではフランスのいわゆる印象派の絵が大流行していて、
洋画鑑賞の第一報、大抵この辺りから始めたもので、
ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ルナールなどという人の絵は、
田舎の中学生でも大抵その写真版を見て知っていたのでした。
自分などもゴッホの原色版をかなりたくさん見て、
タッチの面白さ、色彩の鮮やかさに教師を覚えてはいたのですが、
しかしお化けの絵だとは一度も考えたことがなかったのでした。
では、こんなのはどうかしら。やっぱりお化けかしら。
自分は本棚からもじり合いの画集を出し、
焼けた石銅のような肌の例のラフの像を竹市に見せました。
すげえなあ。竹市は目を丸くして感嘆しました。
地獄の馬みたい。
やっぱりお化けかね。
俺もこんなお化けの絵が描きたいよ。
あまりに人間を恐怖している人たちは、
もっともっと恐ろしい妖怪を確実にこの目で見たいと願望するに至る真理。
神経質なものに怯えやすい人ほど暴風のさらに強からんことを祈る真理。
ああ、この一群の画家たちは人間という化け物に痛めつけられ、
脅かされた挙句の果て、ついに幻影を信じ、
白昼の自然の中にありやりと妖怪を見たのだ。
しかも彼らはそれを道化などでごまかさず、見えたままの表現に努力したのだ。
竹市の言うように完全とお化けの絵を描いてしまったのだ。
ここに将来の自分の仲間がいると自分は涙が出たほどに興奮し、
僕も描くよ。お化けの絵を描くよ。地獄の馬を描くよ。
と、なぜか広く声を潜めて竹市に行ったのでした。
自分は小学校の頃から絵は描くのも見るのも好きでした。
けれども自分の描いた絵は自分の綴り方ほどには周囲の評判がよくありませんでした。
自分は土台人間の言葉を一向に信用していませんでしたので、
綴り方などは自分にとってただおどけなご挨拶みたいなもので、
小学校・中学校と続いて先生たちを凶器させてきましたが、
しかし自分ではさっぱり面白くなく、絵だけは、学校漫画などは別ですけれども、
その対象の表現に幼い我流ながら多少の苦心を払っていました。
学校の図画のお手本はつまらないし、先生の絵は下手くそだし。
自分は全くでたらめに様々な表現法を自分で工夫して試してみなければならないのでした。
中学校へ入って自分は油絵の道具も一揃い持っていましたが、
しかしそのタッチの手本を印象派の画風に求めても、
自分の描いたものはまるで塩紙細工のようにのっぺりして物になりそうもありませんでした。
けれども自分は竹市の言葉によって、
自分のそれまでの絵画に対する心構えがまるで間違っていたことに気がつきました。
美しいと感じたものをそのまま美しく表現しようと努力する甘さ、愚かしさ。
マイスターたちは何でもないものを主観によって美しく想像し、
あるいは醜いものに追うと思いをしながらもそれに対する興味を隠さず、
表現の喜びに浸っている、つまり人の思惑に少しも頼っていないらしいという
画法のプリミティブな虎の巻きを竹市から授けられて、
例の女の来客たちには隠して少しずつ自画像の制作に取り掛かってみました。
自分でもギョッとしたほど陰惨な絵が出来上がりました。
しかしこれこそ胸底にひた隠しに隠している自分の正体なのだ。
表は陽気に笑い、また人を笑わせているけれども、
実はこんな陰鬱な心を自分は持っているのだ。仕方がない。とひとかに肯定し、
けれどもその絵は竹市以外の人にはさすがに誰にも見せませんでした。
自分のおどけの底の陰惨を見破られ、急にケチくさく警戒すられるのも嫌でしたし、
またこれを自分の正体とも気づかず、やっぱり新宿校のおどけとみなされ、
大笑いの谷にせがれるかもしれぬという懸念もあり、
それは何よりもつらいことでしたので、その絵はすぐ押入れの奥深くしまい込みました。
また、学校の図画の時間にも自分はあのお化け式手法は秘めて、
今まで通りの美しいものを美しく描く式の凡庸なタッチで描いていました。
自分は竹市にだけは前から自分の痛みやすい神経を平気に見せていましたし、
今度の自画像も安心して竹市に見せ、大変褒められ、
さらに2枚3枚とお化けの絵を描き続け、竹市からもう一つの
お前は偉い絵描きになれ、という予言を得たのでした。
惚れられるという予言と偉い絵描きになるという予言と、
この二つの予言をバカの竹市によって額に刻みにせられて、やがて自分は東京へ出てきました。
絵画と自己表現
自分は美術学校に入りたかったのですが、
父は前から自分を高等学校に入れて末は管理にするつもりで、
自分にもそれを言い渡してあったので、
口答え一つできない立ちの自分はぼんやりそれに従ったのでした。
4年から受けてみようと言われたので、自分も桜と海の中学はもういい加減飽きていましたし、
5年に進級せず、4年終了のままで東京の高等学校に受験して合格し、
すぐに寮生活に入りましたが、その腐血と粗暴に癖悪して同家どころではなく、
医師に肺心順の診断書を書いてもらい寮から出て、上野桜木町の父の別荘に移りました。
自分には団体生活というものがどうしてもできません。
それにまた青春の感激だとか、和行道の誇りだとかいう言葉は聞いて寒気がしてきて、
とてもあのハイスクールスピリットというものにはついていけなかったのです。
教室も寮も歪められた性欲の吐き溜めみたいな気さえして、
自分の完璧に近いお道家もそこでは何の役にも立ちませんでした。
父は議会のないときは月に1週間か2週間しかその家に滞在していませんでしたので、
父の留守のときはかなり広いその家に別荘版の老夫婦と自分と3人だけで、
自分はちょいちょい学校を休んでされとて東京見物などをする気も起こらず、
過去自分はとうとう明治神宮の楠木正重の銅像も、戦学時の四十七史の墓も見ずに終わりそうです。
家で一日中本を読んだり絵を書いたりしていました。
父が上京してくると自分は毎朝早速さと登校するのでしたが、
しかし本郷仙台城の洋画家安田慎太郎氏の家塾に行き、
3時間も4時間も絶賛の練習をしていることもあったのです。
高等学校の寮から抜けたら学校の授業に出ても自分はまるで超高生みたいな特別な位置にいるような、
それは自分の悲我みかもしれなかったのですが、
なんとも自分自身で白々しい気持ちがしてきて、一層学校へ行くのが億劫になったのでした。
自分には小学校、中学校、高等学校を通じて、ついに愛好心というものが理解できずに終わりました。
好感などというものも一度も覚えようとしたことがありません。
自分はやがて画塾で、ある画学生から酒と煙草とインバイフと七夜と左翼思想とお知らされました。
妙な取り合わせでしたがしかしそれは事実でした。
その画学生は堀木正男といって東京の下町に生まれ、
自分より6つ年長者で私立の美術学校を卒業して、
家にアトリエがないのでこの画塾に通い、描画の勉強を続けているのだそうです。
ご縁貸してくれないか?
お互いただ顔を見知っているだけでそれまで一言も話し合ったことがなかったのです。
自分はヘド戻してご縁差し出しました。
おー吉野も、俺がお前におごるんだ。
よかちごじゃの。
自分は拒否しきれずその画塾の近くの法来町のカフェに引っ張って行かれたのが彼との交友の始まりでした。
前からお前に目をつけていたんだ。
それぞれそのはにかむような微笑、それが見込みのある芸術家特有の表情なんだ。
お近づきの印に乾杯。
吉野さん、こいつは美男子だろ?
惚れちゃいけないぜ。
こいつが塾へ来たおかげで残念ながら俺は第二番の美男子ということになった。
法来は色が浅黒く丹精な顔をしていて、
具学生には珍しくちゃんとした背広を着てネクタイの好みも地味で、
そして頭髪もポマードをつけて真ん中からぺったりと分けていました。
自分は慣れぬ場所でもあり、ただもう恐ろしく腕を組んだり解いたりして、
それこそはにかむような微笑ばかりしていましたが、
ビールを二、三杯飲んでいるうちに妙に開放されたような軽さを感じてきたのです。
僕は美術学校に入ろうと思っていたんですけど、
いやーつまらん。あんなところはつまらん。学校はつまらん。
我らの教師は自然の中にあり。自然に対するパトス。
しかし自分は彼の言うことには一向に敬意を感じませんでした。
馬鹿な人だ。Mは下手に違いない。
しかし遊ぶのにはいい相手かもしれないと考えました。
つまり自分はその時生まれて初めて本物の都会の魚太郎を見たのでした。
それは自分と形は違っていても、やはりこの世の人間の営みから完全に有利してしまって、
戸迷いしている点においてだけは確かに同類なのでした。
そして彼はそのおどけを意識せずに行い、
しかもそのおどけの悲惨に全く気がついていないのが自分と本質的に異色のところでした。
ただ遊ぶだけだ。遊びの相手として付き合っているだけだと常に彼を軽蔑し、
時には彼との交友を恥ずかしくさえ思いながら彼と連れ立って歩いているうちに、
結局自分はこの男にさえ打ち破られました。
しかし初めはこの男を好人物、
稀に見る好人物とばかり思い込み、
さすが人間恐怖の自分も全く油断をして東京の良い案内者ができたくらいに思っていました。
自分は実は一人では電車に乗ると車掌が恐ろしく、
歌舞伎座へ入りたくてもあの正面玄関の火の絨毯が敷かれてある階段の両側に並んで立っている案内状たちが恐ろしく、
レストランへ入ると自分の背後にひっそり立って皿の開くのを待っている9時の防衛が恐ろしく、
外にも感情を払うとき、ああぎこちない自分の手つき、
自分は買い物をしてお金を手渡すときには臨職故でなく、
あまりの緊張、あまりの恥ずかしさ、あまりの不安、恐怖にクラクラめまいして世界が真っ暗になり、
ほとんど反凶乱の気持ちになってしまって、
寝切るところかお釣りを受け取るのを忘れるばかりでなく、
買った品物を持ち帰るのを忘れたことさえしばしばあったほどなので、
とても一人で東京の街を歩けず、
それで仕方なく一日一杯家の中でゴロゴロしていたという内情もあったのでした。
社会との関係
それが堀木に財布を渡して一緒に歩くと、堀木は大いにねぎってしかも遊び上手というのか、
わずかなお金で最大の効果のあるような支払いぶりを発揮し、
また高い円卓は軽減して、電車、バス、ポンポン蒸気などそれぞれ利用し分けて、
最短時間で目的地へ着くという手腕をも示し、
インバイフのところから朝帰る途中には何々という寮邸に立ち寄って朝風呂へ入り、
湯豆腐で軽くお酒を飲むのが安いわりに贅沢な気分になれるものだと実地教育をしてくれたり、
そのほか屋台の牛飯、焼き鳥の安価にして需要に富むものたることを解き、
酔いの早く発するのは電気ブランの右に出るものはないと保障し、
とにかくその感情については自分に一つも不安、恐怖を覚えさせたことがありませんでした。
さらにまた堀木と付き合って救われるのは堀木が利き手の思惑などをてんで無視して、
そのいわゆるパトスの紛失するがままに、
あるいはパトスとは相手の立場を無視することかもしれませんが、
収録時中、くだらないおしゃべりを続け、
あの二人で歩いて疲れ、気まずい沈黙に陥る危機が全くないということでした。
人に接し、あの恐ろしい沈黙がその場に現れることを警戒して、
人間への恐怖
もともと口の重い自分が五行千土と必死のおどけを言ってきたものですが、
今この堀木のバカが意識せずにそのおどけ役を自ら進んでやってくれているので、
自分は返事もろくにせずにただ聞き流し、
時折、まさか、などと言って笑っておればいいのでした。
酒、煙草、引売符、
それは皆人間恐怖をたとえ一時でも紛らすことのできるずいぶん良い手段であることが
やがて自分にもわかってきました。
それらの手段を求めるためには、
自分の持ち物全部を売却しても悔いない気持ちさえ抱くようになりました。
自分には引売符というものが人間でも女性でもない白痴か狂人のように見え、
その懐の中で自分はかえって全く安心してぐっすり眠ることができました。
皆悲しいくらい地図にみじんもよくというものがないのでした。
そして自分に同類の神話観とでもいったようなものを覚えるのか、
自分はいつもその引売符たちから窮屈でない程度の自然の行為を示されました。
何の打算もない行為、
押し売りではない行為、
二度と来ないかもしれぬ人への行為。
自分にはその白痴か狂人の引売符たちにマリアの遠行を現実に見た夜もあったのです。
しかし自分は人間への恐怖から逃れ、かすかな一夜の休養を求めるためにそこへ行き、
それこそ自分と同類の引売符たちと遊んでいるうちに、
いつの間にやら無意識のある忌まわしい雰囲気を身辺にいつも漂わせるようになった様子で、
これは自分にも全く思いも受けなかったいわゆるおまけの付録でしたが、
次第にその付録が鮮明に表面に浮き上がってきて法力にそれを指摘せられ、
愕然としてそうして嫌な気が致しました。
旗から見て俗な言い方をすれば、自分は引売符によって女の修行をして、
しかも最近めっきり腕を上げ、女の修行は引売符によるのが一番厳しく、
またそれだけに効果の上がるものだそうで、
常に自分にはあの女達者という匂いが付きまとい、
女性は、括弧引売符に限らず、本能によってそれをかぎ当て寄り添ってくる、
そのような卑猥で不名誉な雰囲気をおまけの付録としてもらって、
そうしてその方が自分の求用などよりも酷く目立ってしまっているらしいのでした。
法力はそれを半分お世辞で言ったのでしょうが、
しかし自分にも重苦しく思い当たることがあり、
例えば喫茶店の女から稚拙な手紙をもらった覚えもあるし、
桜木町の家の隣の将軍の二十歳くらいの娘が、
毎朝自分の登校の時刻には用もなさそうなのに、
ご自分の家の門を薄化粧して出たり入ったりしていたし、
牛肉を食いに行くと自分が黙っていてもそこの女中が、
またいつも買い付けのタバコ屋の娘から手渡されたタバコの箱の中に、
また歌舞伎を見に行って隣の席の人に、
また深夜の私伝で自分が酔って眠っていて、
また思いがけなく故郷の親戚の娘から思い詰めたような手紙が来て、
また誰かわからぬ娘が自分の留守中にお手製らしい人形を、
自分が極度に消極的なので、いずれもそれっきりの話でただ断片、
それ以上の進展は一つもありませんでしたが、
何か女に夢を見させる雰囲気が自分のどこかにつきまとっていることは、
それはのろけだのなんだのといういい加減な冗談でなく否定できないのでありました。
自分はそれを掘り木ごと着物にして着せられ、
屈辱に似た苦さを感じるとともに、インバヨフと遊ぶことにもにわかに興が覚めました。
掘り木はまたその見えぼうのモダニティから、
掘り木の場合それ以外の理由は自分には今もって考えられませんのですが、
ある日自分を共産主義の読書界とかいう、
RSとか言っていたか記憶がはっきりいたしません。
そんな秘密の研究会に連れて行きました。
掘り木などという人物にとっては共産主義の秘密会合も、
例の東京案内の一つくらいのものだったのかもしれません。
自分はいわゆる同志に紹介せられ、パンフレットを一部買わされ、
そうして神座のひどい醜い顔の青年からマルクス経済学の講義を受けました。
しかし自分にはそれはわかりきっていることのように思われました。
それはそうに違いないだろうけども、人間の心にはもっと訳のわからない恐ろしいものがある。
社会との関係
欲と言っても言い足りない。バニティと言っても言い足りない。
仏教と行くとこを二つ並べても言い足りない。
なんだか自分にもわからんが、人間の世の底に経済だけでない変に怪談じみたものがあるような気がして、
その怪談に怯えきっている自分には、いわゆる優位仏論を水の低きに流れるように自然に肯定しながらも、
しかしそれによって人間に対する恐怖から解放せられ、
青葉に向かって目を開き、希望の喜びを感じるなどということはできないのでした。
けれども自分は一度も欠席せずにそのRS…と言ったかと思いますが間違っているかもしれません。
なるものに出席し、同志たちが嫌に一大事のごとく怖ばった顔をして1プラス1は2というような、
ほとんど諸島の三十名いた理論の研究に受けているのが滑稽に見えてたまらず、
例の自分のおどけで会合をくつろがせることに努め、
そのためか次第に研究会の窮屈な気配もほぐれ、
自分はその会合になくてかなわぬ人気者という形にさえなってきたようでした。
この単純そうな人たちは、自分のことをやはりこの人たちと同じように単純で、
そして楽天的なおどけ者の同志くらいに考えていたかもしれませんが、
もしそうだったら自分はこの人たちを1から10まで欺いていたわけです。
自分は同志ではなかったんです。
けれどもその会合にいつもかかさず出席して、皆におどけのサービスをしてきました。
好きだったからなのです。
自分にはその人たちが気に入っていたからなのです。
しかしそれは必ずしもマルクスによって結ばれた信愛感ではなかったのです。
非合法。
自分にはそれがかすかに楽しかったのです。
むしろ居心地が良かったのです。
世の中の合法というもののほうがかえって恐ろしく、
それにはそこ知れず強いものが予感せられます。
そのからくりが不可解で、とてもその窓のないそこびえのする部屋には座っておられず、
外は非合法の海であっても、それに飛び込んで泳いで、
やがて死に至るほうが自分には一層気楽のようでした。
ひかげものという言葉があります。
人間の世においてみじめな敗者、悪徳者を指さして言う言葉のようですが、
自分は自分を生まれたときからのひかげもののような気がしていて、
世間からあれはひかげものだと指さされているほどの人と会うと、
自分は必ず優しい心になるのです。
そしてその自分の優しい心は、自身でうっとりするくらい優しい心でした。
また犯人意識という言葉もあります。
自分はこの人間の世の中において、一生その意識に苦しめられながらも、
しかしそれは自分の相交の妻のごとき好伴侶で、
そいつと二人きりでわびしく遊び戯れているというのも、
自分の生きている姿勢のひとつだったかもしれないし、
またそこに、すねに傷もつみという言葉もあるようですが、
その傷は自分の赤ん坊のときから自然に片方のすねに現れて、
頂頭に泳んで治癒するどころか、いよいよ深くなるばかりで骨にまで達し、
ゆなゆなの痛苦は千変万化の地獄とは言いながら、
しかし、これは大変奇妙な言い方ですけど、
その傷は次第に自分の血肉よりも親しくなり、
その傷の痛みはすなわち傷の生きている感情、
または愛情の囁きのようにさえ思われる。
そんな男にとって、例の地下運動のグループの雰囲気が変に安心で居心地が良く、
つまりその運動の本来の目的よりも、
その運動の肌が自分に合った感じなのでした。
堀木の場合はただもうアホの冷やかしで、一度自分を紹介しにその会合へ行ったきりで、
マルキシストは生産面の研究と同時に、
消費面の視察も必要だ、などと下手な洒落を言ってその会合には寄りつかず、
とかく自分をその消費面の視察の方にばかり誘いたがるのでした。
思えば当時は様々な方のマルキシストがいたものです。
堀木のように虚栄のモダニティからそれを受賞する者もあり、
ただ自分のようにただ非合法の匂いが気に入ってそこに座り込んでいる者もあり、
もしもこれらの実態がマルキシズムの真の信奉者に見破られたら、堀木も自分も劣化のごとく怒られ、
卑劣なる裏切り者として立ち所に追い払われたことでしょう。
しかし自分もまた堀木でさえも、なかなか序命の処分に合わず、
つとにも自分はその非合法の世界においては合法の紳士たちの世界におけるよりも、
かえってのびのびと、いわゆる健康に振る舞うことができましたので、
見込みある同志として吹き出したくなるほど過度に秘密メカした様々な用事を頼まれるほどになったのです。
また事実自分は、そんな用事を一度も断ったことはなく、平気で何でも引き受け、変にギクシャクして、
犬、同志はポリスをそう呼んでいました、
に怪しまれ、不審尋問などを受けてしくじるようなこともなかったし、笑いながらまた人を笑わせながら、その危ない、
その運動の連中は一大事のごとく緊張し、探偵小説の下手な真似みたいなことまでして、極度の警戒を持ち、
そして自分に頼む仕事は誠に厄介に取られるくらいつまらないものでしたが、
それでも彼らはその用事を盛んに危ながって力んでいるのでした。
金銭的困難
と、彼らが称する仕事を、とにかく正確にやってのけていました。
自分のその当時の気持ちとしては、遠いになって捉えられ、たとえ終身刑務所で暮らすようになったとしても平気だったのです。
世の中の人間の実生活というものを恐怖しながら、毎夜の不眠の地獄でうめいているよりは、いっそ牢屋の方が楽しいかもしれないとさえ考えていました。
父は桜木町の別荘では、来客やら外出やら、同じ家にいても三日も四日も自分と顔を合わせることがないほどでしたが、
しかしどうにも父が煙ったく恐ろしく、この家を出てどこか家宿でも、と考えながらも、
それを言い出せずにいた矢先に、父がその家を売り払うつもりらしいということを別荘版の牢屋から聞きました。
父の議員の任期もそろそろ満期に近づき、いろいろ理由のあったことに違いありませんが、もうこれきり選挙に出る意思もない様子で、
それに、故郷にひとむね隠居どころなど建てたりして東京に未練もないらしく、
たかが高等学校の一生徒に過ぎない自分のために定宅と召使いを提供しておくのも無駄なことだとでも考えたのか、
父の心もまた世間の人たちの気持ちと同様に自分にはよくわかりません。
とにかくその家は間もなく人手に渡り、自分は本郷森川町の千友館という古い下宿の薄暗い部屋に引っ越して、そうしてたちまち金に困りました。
それまで父から月々決まった額の小遣いを手渡され、それはもう二、三日でなくなっても、しかしタバコも酒もチーズも果物も、
いつでも家にあったし、本や文房具やその他、服装に関するものなど一切、
いつでも近所の店からいわゆる付で求められたし、
堀木にお蕎麦か天丼などご馳走しても父の秘域の町内の店だったら、自分は黙ってその店を出ても構わなかったのでした。
それが急に下宿の一人住まいになり、何もかも月々の定額の送金で間に合わせなければならなくなって、自分はまごつきました。
送金はやはり二、三日で消えてしまい、自分は立然とし、心細さのために狂うようになり、
父、兄、姉などへ交互にお金を頼む伝報と異彩文の手紙、その手紙において訴えている事情はことごとくおどけの虚構でした。
人に物を頼むのにまずその人を笑わせるのが定作と考えていたのです。
を連発する一方、また堀木に教えられ、せっせと七夜通いを始め、それでもいつもお金に不自由をしていました。
所詮自分には何の縁起もない下宿に一人で生活していく能力がなかったのです。
自分は下宿のその部屋に一人でじっとしているのが恐ろしく、今にも誰かに襲われ一撃されるような気がしてきて、
町に飛び出しては例の運動の手伝いをしたり、あるいは堀木と一緒に安い酒を飲み回ったりして、ほとんど学業もまた絵の勉強も放棄し、
高等学校へ入学して二年目の十一月、自分より年上の裕夫の夫人と上司事件などを起こし、自分の身の上は一変しました。
学校は欠席するし、学科の勉強も少しもしなかったのに、それでも妙に試験の答案の要領の良いところがあるようで、どうやらそれまでは故郷の憎しんを欺き通してきたのですが、
しかしもうそろそろ出席日数の不足など、学校の方から内密に故郷の父へ報告が言っているらしく、
父の代理として長兄がゆかめしい文章の長い手紙を自分によこすようになっていたのでした。
けれどもそれよりも自分の直接の苦痛は、金のないことと、それから例の運動の用事がとても遊び半分の気持ちではできないくらい激しく忙しくなってきたことでした。
連絡と孤独
中央地区といったか、何地区といったか、とにかく本郷、小石川、下谷、神田、あの辺あたりの学校全部のマルクス学生の行動隊隊長というものに自分はなっていたのでした。
武装放棄と聞き、小さいナイフを買い、今思えばそれは鉛筆を削るものに足りない華奢なナイフでした。
それをレンコートのポケットに入れ、あちこち飛び回っていわゆる連絡をつけるのでした。
お酒を飲んでぐっすり眠りたい、しかしお金がありません。しかもP等のことをそういう陰語で呼んでいたと記憶していますが、あるいは違っているかもしれません。
Pの方からは次々と息をつく暇もないくらい用事の依頼が参ります。自分の病弱な体ではとても勤まりそうもなくなりました。
もともと非合法の興味だけからそのグループの手伝いをしていたのですし、こんなにそれこそ冗談からコマが出たように嫌に忙しくなってくると自分は密かにPの人たちに
それは丘と違いでしょう。あなたたちの直径の者たちにやらせたらどうですか、というような忌々しい感を抱くのを禁ずることができず逃げました。逃げてさすがにいい気持ちはせず死ぬことにしました。
その頃、自分に特別な行為を寄せている女が3人いました。一人は自分の下宿している専有館の娘でした。
この娘は自分が例の運動の手伝いでヘトヘトになって帰り、ご飯も食べずに寝てしまってから必ず用線と万年筆を持って自分の部屋にやってきて
ごめんなさい、下では妹や弟がうるさくてゆっくり手紙も書けないんです。
と言って何やら自分の机に向かって1時間以上も書いているのです。
自分もまたシナンプルをして寝ておくればいいのに、いかにもその娘が何か自分に言ってもらいたげな様子なので、
例の受け身の奉仕の精神を発揮して、実に一言も口を聞きたくない気持ちなのだけれども、
クタクタに疲れ切っている体にうむと気合をかけて腹ばいになり煙草を吸い、
女から来たラウレターで風呂を沸かして入った男があるそうですよ。
あらいやだ、あなたでしょう。
ミルクを沸かして飲んだことはあるんです。
光栄だわ、飲んでよ。
はやくこの人帰らないかな、手紙だなんて見え透いているのに。
へのへのもへじでも書いているのに違いないんです。
見せてよ。
年にでも見たくない思いでそう言えば、あらいやよ、あらいやよ、と言ってその嬉しがることをひどくみっともなく今日が覚めるばかりなのです。
そこで自分は用事でも言いつけてやれと思うんです。
すまないけどね、電車通りの薬屋へ行ってカルモチンを買ってきてくれない?
あんまり疲れすぎて顔がほてってかえって眠れないんだ。
すまないね、お金は。
いいわよ、お金なんか。
喜んで立ちます。
要を言いつけるというのは決して女を処刑させることではなく、
かえって女は男に用事を頼まれると喜ぶものだということも自分はちゃんと知っているのでした。
もう一人は女子高等司令官の文化生のいわゆる同志でした。
この人とは例の運動の用事で、いやでも毎日顔を合わせなければならなかったのです。
打ち合わせが済んでからもその女はいつまでも自分について歩いて、
そしてやたらに自分に物を買ってくれるのでした。
私を本当の姉だと思ってくれていいわ。
その膝に身震いしながら自分は
そのつもりでいるんです。
と憂いを含んだ微笑の表情を作って答えます。
とにかく怒らせては怖い。
なんとかしてごまかさなければならんという思い一つのために
自分はよいよその醜い嫌な女に奉仕をして
そうして物を買ってもらっては
その買い物は実に趣味の悪い品ばかりで
自分は大抵すぐにそれを焼き鳥屋の親父などにやってしまいました。
嬉しそうな顔をして冗談を言っては笑わせ
ある夏の夜、どうしても離れないので
街の暗いところでその人に帰ってもらいたいばかりにキスをしてやりましたら
朝ましく狂乱のごとく興奮し
自動車を呼んでその人たちの運動のために秘密に借りてあるらしいビルの
事務所みたいな狭い洋室に連れて行き
朝まで大騒ぎということになり
とんでもない姉だと自分は密かに苦笑しました。
下宿屋の娘といい、またこの同志といい
どうしたって毎日顔を合わせなければならぬ具合になっていますので
これまでの様々な女の人のように
うまく避けられずついずるずるに
例の不安の心からこの二人のご機嫌をただ懸命に取り結び
もはや自分は金縛り同様の形になっていました。
同じ頃また自分は銀座のある大カフェの女級から思いがけの恩を受け
女性との関係
たった一度会っただけなのにそれでもその恩にこだわり
やはり身動きできないほどの心配やら
そら恐ろしさを感じていたのでした。
その頃になると自分もあえて堀木の案内に頼らずとも
一人で電車にも乗れるし、また歌舞伎座にも行けるし
またはかすりの着物を着てカフェにだって入れるくらいの
多少のずるずるしさを装えるようになっていたのです。
心では相変わらず人間の自信と暴力と怪しみ恐れ
悩みながら上辺だけは少しずつ他人と真顔の挨拶。
いや違う、自分はやはり敗北のお道家の苦しい笑いを伴わずには
挨拶できない立ちなのですが、とにかく無我夢中の
ヘドモドの挨拶でどうやらできるくらいの技量を
例の運動で走り回ったおかげ、または女のまたは酒
けれども主に金銭の不自由のおかげで習得しかけていたのです。
どこにいても恐ろしく帰って大カフェでたくさんの
推客または女級ボーイ達に揉まれ紛れ込むことができたら
自分のこの態度を追われているような心も落ち着くのではなかろうかと
10円持って銀座のその大カフェに一人で入って
笑いながら相手の女級に10円しかないんだからね
そのつもりでと言いました。
心配ありません。
どこかに関西の名もりがありました。
そしてその一言が奇妙に自分の震えおののいている心を
鎮めてくれました。
いいえ、お金の心配が得らなくなったからではありません。
その人のそばにいることに心配が得らないような気がしたのです。
自分はお酒を飲みました。
その人に安心しているので、かえっておどけなど演じる気持ちも起こらず
自分の自我ねの無口で陰惨なところを隠さず見せて
黙ってお酒を飲みました。
こんなのお好きか?
女は様々な料理を自分の前に並べました。
自分は首を振りました。
お酒だけか?
うちも飲もう。
秋の寒い夜でした。
自分はツネコといったと覚えていますが
記憶が忘れ確かではありません。
上司の相手の名前をさえ忘れているような自分なのです。
に言いつけられた通りに、銀座裏のある屋台のお寿司屋で
少しもおいしくない寿司を食べながら
その人の名前を忘れても、その時の寿司の混ぜただけはどうしたことか
はっきり記憶に残っています。
そして、青大将の顔に似た顔つきの丸坊主の親父が首を振り振り
いかにも上手みたいにごまかしながら寿司を握っているサーバも
眼前にあるように鮮明に思い出され
後年、電車などで果て見た顔だといろいろ考え
なんだ、あの時の寿司屋の親父に似ているんだ
と気がつき苦笑したことも再三あったほどでした。
あの人の名前も、また顔形さえ記憶から遠ざかっている現在なお
あの寿司屋の親父の顔だけは絵にかけるほど正確に覚えているとは
よっぽどあの時の寿司がまずく
自分に寒さと苦痛を与えたものと思われます。
もともと自分はうまい寿司を食わせる店というところに
人に連れられて行って食っても
うまいと思ったことは一度もありませんでした。
大きすぎるのです。
親指くらいの大きさにきちっと握れないのかしらと
いつも考えていました。
その人を待っていました。
本所の大工さんの2階をその人が借りていました。
自分はその2階で日頃の自分の隠うつな心を少しも隠さず
ひどい排他に襲われてでもいるかのように
片手で頬を押さえながらお茶を飲みました。
そして自分のそんな姿態が
かえってその人には気に入ったようでした。
その人も身の回りに冷たい小枯らしが吹いて
落ち葉だけが舞い狂い
完全に孤立している感じの女でした。
一緒に休みながらその人は自分より2つ年上であること。
故郷は広島。
私には主人があるのよ。
広島で床屋さんをしていたの。
昨年の春、一緒に東京へ家出して逃げてきたのだけれども
主人は東京でまともな仕事をせず
そのうちに詐欺罪に問われ
刑務所にいるなよ。
私は毎日何やらかやら差し入れしに
刑務所へ通っていたのだけれども
明日から辞めます。
などと物語るのでしたが
自分はどういうものか
女の身の上話というものには
少しも興味を持てない立ちで
それは女の語り方の下手なせいか
つまり話の重点の置き方を間違っているせいなのか
とにかく自分には常に馬自動風なのでありました。
わびしい。
自分には女の千万言の身の上話よりも
その一言のつぶやきの方に
共感をそそられるに違いないと期待していても
この世の中の女から
ついに一度も自分はその言葉を聞いたことがないのを
機会とも不思議とも感じております。
けれどもその人は
言葉ではわびしいとは言いませんでしたが
無言のひどいわびしさを体の外角に
一寸ぐらいの幅の気流みたいに持っていて
その人に寄り添うと
こちらの体もその気流に包まれ
自分の持っている多少トケトケした
陰鬱の気流と程よく溶け合い
皆底の岩に落ち着く枯葉のように
我が身は恐怖からも不安からも離れることができるのでした。
あの白痴の陰売婦たちの懐の中で
安心してぐっすり眠る思いとはまた全く異なって
第一あのプロステチュートたちは陽気でした。
その詐欺罪の犯人の妻と過ごした一夜は
自分にとって幸福だ。
幸福と恐れ
こんな大それた言葉を
何の躊躇もなく肯定して使用することは
自分のこの善色において再びないつもりです。
解放せられた夜でした。
しかしただ一夜でした。
朝目が覚めて跳ね起き
自分は元の軽薄な装えるおどけ者になっていました。
弱虫は幸福をさえ恐れるものです。
綿で怪我をするんです。
幸福に傷つけられることもあるんです。
傷つけられないうちに早くこのまま別れたいと焦り
例のおどけの縁膜を張り巡らすのでした。
金の切れ目が縁の切れ目ってのはね
あれはね解釈が逆なんだ。
金がなくなると女に振られるって意味じゃないんだ。
男に金がなくなると男はただ自ら意気承知にしてダメになり
笑う声にも力がなく、そして妙に悲願だりなんかしてね。
税には破れかぶれになり男の方から女を振る。
反狂乱になって振って振って振り抜くという意味なんだね。
金沢大事人という本によればね。かわいそうに。
僕にもその気持ちがわかるがね。
確かそんなふうの馬鹿げたことを言って
スネ子を吹き出させたような記憶があります。
長居は無用。恐れありと顔も現わず素早く引き上げたのですが
その時の自分の金の切れ目が円の切れ目というデタラメの方言が
後に至って意外の引っかかりを生じたのです。
それから一月。自分はその夜の恩人とは会いませんでした。
別れて日が経つにつれて喜びは薄れ
仮初めの恩を受けたことがかえってそら恐ろしく
自分勝手にひどい束縛を感じてきて
あのカフェのお感情をあの時全部スネ子に負担させてしまったという俗事さえ
次第に気になり始めてスネ子もやはり
下宿の娘やあの女子高等師範と同じく
自分を窮迫するだけの女のように思われ
遠く離れていながらも絶えずスネ子に怯えていて
その上に自分は一緒に休んだことのある女に
また会うとその時にいきなり何か劣化の如く怒られそうな気がしてたまらず
会うのにすこぶる臆空がある立ちでしたので
いよいよ銀座は軽円の形でしたが
しかしその臆空があるという立ちは決して自分の狡猾さではなく
女性というものは休んでからのことと
朝起きてからのこととの間に一つの塵ほどのつながりをも持たず
完全の棒極の如く見事に二つの世界を切断させて生きているという
不思議な現象をまだよく飲み込んでいなかったからなのでした
11月の末
自分は堀木と神田の屋台で安酒を飲み
この悪友はその屋台を出てからもさらにどこかで飲もうと主張し
もう自分たちにはお金がないのにそれでも飲もう飲もうよと粘るのです
その時自分は酔って大胆になっているからでもありましたが
よしそんなら夢の国に連れて行く
驚くな主治肉林という
カフェか
そう
行こう
堀木との出会い
というようなことになって二人自然に乗り堀木ははしゃいで
俺は今夜は女に夢乾いているんだ女級にキスしてもいいか
自分は堀木がそんな衰退を演じることをあまり好んでいないのでした
堀木もそれを知っているので自分にそんな念を負うのでした
いいかキスするぜ
俺のそばに座った女級にきっとキスしてみせるいいか
うんかまんだろ
ありがたい俺は女に夢乾いているんだ
銀座4丁目で降りてそのいわゆる主治肉林の大カフェに
ツネ子を頼みの綱としてほとんど無一文で入り
空いているボックスに堀木と向かい合って腰を下した途端に
ツネ子ともう一人の女級が走り寄ってきて
そのもう一人の女級が自分のそばに
そうしてツネ子は堀木のそばにどさんと腰をかけたので
自分はハッとしました
ツネ子は今にキスされる
惜しいという気持ちではありませんでした
自分にはもともと所有欲というものは薄く
またたまにかすかに惜しむ気持ちはあっても
その所有権と完全と主張し
人と争うほどの気力がないのでした
後に自分は自分の内縁の妻が侵されるのを黙ってみたことさえあったほどなのです
自分は人間のいざこざにできるだけ触りたくないのでした
その渦に巻き込まれるのが恐ろしいのでした
ツネ子と自分とは一夜だけの相手柄です
ツネ子は自分のものではありません
惜しいなぁと思いあがった欲は自分に持てるはずはありません
けれども自分はハッとしました
自分の目の前で堀木の猛烈なキスを受ける
そのツネ子の身の上を不憫に思ったからでした
堀木に汚されたツネ子は自分と別れなければならなくなるだろう
しかも自分にもツネ子を引き止めるほどのポジティブな熱はない
ああもうこれでおしまいなのだ
とツネ子の不幸に一瞬ハッとしたものの
すぐに自分は水のように素直にあきらめ
堀木とツネ子の顔を見比べニヤニヤと笑いました
ツネ子との愛情
しかし事態は実に思いがけなくもっと悪く展開せられました
ダメだと堀木は口をゆがめていい
さすがの俺もこんな貧乏くさい女には
並行しきったように腕組みしてツネ子をじろじろに眺め苦笑するのでした
お酒を
お金をない
自分は小声でツネ子に言いました
それこそ浴びるほど飲んでみたい気持でした
いわゆる俗物の目から見ると
ツネ子はスイカンのキスにも値しない
ただみすぼらしい貧乏くさい女だったのでした
案外とも意外とも自分には霹靂に打ち砕かれた思いでした
自分はこれまで例のなかったほど
いくらでもいくらでもお酒を飲み
ぐらぐら酔ってツネ子と顔を見合わせ悲しく微笑み合い
いかにもそう言われてみると
こいつは変に疲れて貧乏くさいだけの女だなと思うと同時に
金のない者同士の神話
かっこ貧乏の不和は
陳腐のようでもやはりドラマの永遠のテーマの一つだと
自分は今では思っていますが
そいつがその神話感が胸に込み上げてきて
ツネ子は愛しく
生まれてこの時初めて我から積極的に
微弱ながら恋の心の動くのを自覚しました
吐きました
前後不覚になりました
お酒を飲んでこんなに我を失うほど酔ったのも
その時が初めてでした
目が覚めたら枕元にツネ子は座っていました
本庄の大輝さんの2階の部屋に寝ていたのでした
金の切れ目が円の切れ目なんておっしゃって
冗談かと思っていたら本気か
来てくれないんだもの
ややこしい切れ目やな
ウチが稼いであげてもダメか
ダメ
それから女も休んで夜明け方
女の口から死という言葉が初めて出て
女も人間としての営みに疲れ切っていたようでしたし
また自分も世の中への恐怖
煩わしさ
例の運動
学業
考えるととてもこの上こらえて生きていけそうもなく
その人の提案に気軽に同意しました
けれどもその時にはまだ
実感として死のうという覚悟はできていなかったのです
どこかに遊びが潜んでいました
その日の午前
2人は浅草のロックをさまよっていました
喫茶店に入り牛乳を飲みました
あなた
ハローっておいて
自分は立ってた元からガマ口を出し
開くと銅線が3枚
周知よりも生産の思いに襲われ
たちまちの檻に浮かぶものは
専用館の自分の部屋
制服と布団だけが残されてある霧で
あとはもう
シチグサになりそうなものの
一つもない香料たる部屋
他には
自分の今着て歩いている
かすりの着物とマント
これが自分の現実なのだ
生きていけないとはっきり思い知りました
自分が孫ついているので
女も立って
自分のガマ口を覗いて
あら
たったそれだけ
無心の声でしたが
これがまた
陣と骨身に応えるほどに痛かったのです
初めて自分が恋した人の声だけに痛かったのです
それだけでもこれだけでもない
銅線3枚は土台お金ではありません
それは自分が
未だかつて味わったことのない奇妙な屈辱でした
とても生きておられない屈辱でした
所詮その頃の自分は
まだお金持ちのお坊ちゃんという種族から
脱し切っていなかったのでしょう
その時自分は
自ら進んでも死のうと実感として決意したのです
その夜
自分たちは鎌倉の海に飛び込みました
女は
この帯はお店の
お友達から借りている帯やから
と言って帯をほどき
畳んで岩の上に置き
自分もマントを脱ぎ
同じところに置いて一緒に受水しました
女の人は死にました
そして自分だけ助かりました
自分が高等学校の生徒ではあり
自殺未遂と逮捕
また父の名にもいくらか
いわゆるニュースバリューがあったのか
新聞にもかなり大きな問題として取り上げられたようでした
自分は海辺の病院に収容され
故郷から親戚の者が一人駆けつけ
様々な始末をしてくれて
そして国の父をはじめ
一家中が激怒しているから
これっきり消化とは義絶になるかもしれん
と自分に申し渡して帰りました
けれども自分はそんなことより
死んだツネコが恋しく
めぞめぞ泣いてばかりいました
本当に今までの人の中で
あの貧乏くさいツネコだけを好きだったのですから
下宿の娘から短歌を50文を書きつらねた
長い手紙が来ました
生きてくれよという変な言葉で始まる短歌ばかり50でした
また自分の病室に
看護婦たちが陽気に笑いながら遊びに来て
自分の手をキュッと握って帰る看護婦もいました
自分の左肺に故障のあるのを
その病院で発見せられ
これが大変自分に好都合なことになり
やがて自分が自殺補助罪という罪名で
病院から警察に連れて行かれましたが
警察では自分を病院扱いにしてくれて
特に保護室に収容しました
深夜保護室の隣の宿直室で
水の番をしていた年寄りの大回りが
間のドアをそっと開け
おいと自分に声をかけ
寒いだろこっちへ来てあたれ
と言いました
自分はわざとしおしおと宿直室に入って行き
椅子に腰掛けて火鉢に当たりました
やはり死んだ女が恋しいだろう
はい
ことさらに消えるような細い声で返事しました
そこがやはり忍状というもんだ
彼は次第に大きく構えてきました
はじめ女と関係を結んだのはどこだ
ほとんど裁判官のごとくもったいぶって尋ねるのでした
彼は自分を子供と侮り
秋の夜のつれづれにあたかも彼自身が取り調べの主人でもあるかのようによそい
自分からわいだんめいた十回を引き出そうという魂胆のようでした
自分は素早くそれを察し
吹き出したいのをこらえるのに骨を折りました
そんなおまわりの非公式な尋問には
一切答えを拒否しても構わないのだということは自分も知っていましたが
しかし秋の夜長に今日を添えるため
裁判官はあかまでも神妙にそのおまわりこそ取調べの主人であって
刑罰の刑長の決定もそのおまわりのおぼしめし一つにあるのだ
ということを堅く信じて疑わないようないわゆる誠意を表に表し
彼のすけべえな好奇心をやや満足させる程度のいいかげんな陳述をするのでした
うんそれでだいたいわかった
なんでも正直に答えるとわしらの方でもそこは手心を加える
ありがとうございますよろしくお願いいたします
ほとんど入心の演技でした
そして自分のためには何も一つも得にならない力演なのです
夜が明けて自分は署長に呼び出されました
今度は本式の取調べなのです
ドアを開けて署長室に入った途端に
おおいい男だこれはお前が悪いんじゃない
こんないい男に産んだお前のお袋が悪いんだ
色の浅黒い大学でみたいな感じのまだ若い署長でした
いきなりそう言われて自分は自分の顔の反面に
べったり赤痣でもあるような醜い副者のようなみじめな気がしました
この柔道家剣道の選手のような署長の取調べは実にあっさりしていて
あの深夜の老人さんの密かな執拗を極まる高職の取調べとは運命の差がありました
呪文が済んで署長は検事局に送る書類をしたためながら
体を丈夫にしなければいかんね血痰が出ているようじゃないかと言いました
その朝変に咳が出て自分は咳の出るたんびにハンケチで口を覆っていたのですが
そのハンケチに赤いあられが降ったみたいに血がついていたのです
けれどもそれは喉から出た血ではなく
昨夜耳の下にできた小さなおできをいじってそのおできから出た血なのでした
しかし自分はそれを言い明かさないほうが便宜なこともあるような気がふっとしたものですから
ただはいと副眼になり首相気に答えておきました
署長は書類を書き終えて
起訴になるかどうかそれは検事殿が決めることだが
お前の身元引受に電報か電話で
今日の横浜の検事局に来てもらうように頼んだほうがいいな
誰かあるだろお前の保護者とか保障人というものが
父の東京の別荘に出入りしていた諸賀骨董省の支部太という自分たちと同居人で
父の太鼓持ちみたいな役も務めていたずんぐりした独身の40男が
自分の学校の保障人になっているのを自分は思い出しました
その男の顔がことさらに目つきがひらめに似ているというので
父はいつもその男をひらめと呼び自分もそう呼び慣れていました
自分は警察の電話帳を借りてひらめの家の電話番号を探し
見つかったのでひらめに電話して横浜の検事局に来てくれるように頼みましたら
ひらめは人が変わったみたいな威張った口調でそれでもとにかく引き受けてくれました
おいその電話機すぐ消毒したほうがいいぜ何せ血痰が出てんだから
自分がまた保護室に引き上げてからお回りたちにそう言いつけている
署長の大きな声が保護室に座っている自分の耳にまで届きました
お昼過ぎ自分は細い麻縄で胴を縛られ
それはマントで隠すことを許されましたが
その麻縄の端を若いお回りがしっかり逃げていて
二人一緒に電車で横浜に向かいました
けれども自分には少しの不安もなく
あの警察の保護室もろうじゅんさんも懐かしく
ああ自分はどうしてこうなのでしょう
罪人として縛られるとかえってほっとして
そうしてゆったり落ち着いて
その時の追憶を今かくに当たっても
本当にのびのびした楽しい気持ちになるのです
しかしその時期の懐かしい思い出の中にもたった一つ
令官さんとの生涯忘れられる悲惨なしくじりがあったのです
自分は検事局の薄暗い室で
検事の簡単な取り調べを受けました
検事は40歳前後のものしずかな
もし自分が美貌だったとしても
それはいわば罪人の美貌だったに違いありませんが
その検事の顔は正しい美貌とでも言いたいような
聡明な性質の気配を持っていました
しない人柄のようでしたので
自分も全く警戒せずぼんやり陳述していたのですが
突然例の席が出てきて
自分はたもとから判決を出し
ふとその地を見て
この席もまた何かの役に立つかもしれぬと
浅ましい駆け引きの心を起こし
5本5本と2つばかり
おまけの偽の席を大げさに付け加えて
判決で口を覆ったまま
孤独と過去の影
検事の顔をちらっと見た間一髪
本当かい?
ものしずかな美貌でした
令官さんと
いえ、今思い出してもきりきり迷いをしたくなります
中学時代にあのバカの竹市から
わざわざと言われて背中をつかれ
地獄に蹴落とされたその時の思い以上と言っても
決して過言ではない気持ちです
あれとこれと2つ
自分の生涯における演技の大失敗の記録です
検事のあんなものしずかな分別にあうよりは
いっそ自分は10年の慶応を言い渡された方が
ましだったと思うことさえ時たまあるほどなのです
自分は奇想悠々になりました
けれども一向に嬉しくなく
世にもみじめな気持ちで
検事局の控室のベンチに腰掛け
引き取り人のひらめが来るのを待っていました
背後の高い窓から夕焼けの空が見え
鴨目が女という字みたいな形で飛んでいました
第三の式
1
竹市の予言の一つは当たり一つは外れました
惚れられるという
名誉でない予言の方は当たりましたが
きっと偉い絵描きになるという祝福の予言は外れました
自分はわずかに粗悪な雑誌の
無名の下手な漫画家になることができただけでした
鎌倉の事件のために
高等学校からは追放せられ
自分はひらめの家の2階の3畳の部屋で寝起きして
故郷からは月々極めて奨学の金が
それも直接に自分宛ではなく
ひらめのところに密かに送られてきている様子でしたが
しかもそれは故郷の兄たちが
父に隠して送ってくれているという形式になっていたようでした
それっきり
あとは故郷とのつながりを全然断ち切られてしまい
そうしてひらめはいつも不機嫌
自分が愛想笑いをしても笑わず
人間というものはこんなにも簡単に
それこそ手のひらを返すが如くに
変化できるものかと浅ましく
いやむしろ滑稽に思われるぐらいのひどい変わりようで
出ちゃいけませんよ
とにかく出ないでくださいよ
そればかり自分に言っているのでした
ひらめは自分に自殺の恐れありと睨んでいるらしく
つまり女の後を追ってまた
海へ飛び込んだりする危険があると見て取っているらしく
自分の外出を堅く禁じているのでした
けれども酒も飲めないし
タバコも吸えないし
ただ朝から晩まで2階の3畳のコタツに潜って
古雑誌なんか読んで
アホ同然の暮らしをしている自分には
自殺の気力さえ失われていました
ひらめの家は大久保の伊仙の近くにあり
諸賀骨董廠、清流宴、だなどと
看板の文字だけは相当に牙っていても
人棟2個のその1個で店の間口も狭く
店内はほこりだらけでいい加減なガラクタばかり並べ
もっともひらめはその店のガラクタに頼って
商売しているわけではなく
こっちのいわゆる旦那の秘蔵のものを
あっちのいわゆる旦那に
その所有権を譲る場合などに活躍して
お金を儲けているらしいのです
店に座っていることはほとんどなく
大抵朝から難しそうな顔をして
そそそく里出かけ
留守は十七八の小僧一人
これが自分の見張り番というわけで
暇さえあれば近所の子供たちと外で
キャッチボールだとしていても
2階の居候をまるでバカか
キチガイくらいに思っているらしく
お腹臭いことまで自分に言い聞かせ
自分は人と言い争いのできない人たちなので
疲れたようなまた感心したような顔をして
それに耳を傾け
服従しているのでした
変わりゆく人間関係
この小僧はしぶたの隠し子で
それでも変な事情があって
しぶたはいわゆる親子の名乗りをせず
またしぶたがずっと独身なのも
何やらその辺の理由があってのことらしく
自分も以前自分の家の者たちから
それについての噂をちょっと聞いたような気もするのですが
自分はどうも他人の身の上には
あまり興味を持てない方なので
深いことは何も知れません
しかしその小僧の目つきにも
妙に魚の目を連想させるところがありましたから
あるいは本当にひらめの隠し子
でもそれならば
二人は実に寂しい親子でした
夜遅く二階の自分には内緒で
二人でお蕎麦などを取り寄せて
無言で食べていることがありました
ひらめの家では
食事はいつもその小僧が作り
二階の厄介者の食事だけは別に横前に乗せて
小僧がサンドサンド二階に持ち運んできてくれて
ひらめと小僧は
階段の下のじめじめとした
四畳半で何やらカチャカチャ
サラコバチのフレアの音をさせながら
忙しげに食事をしているのでした
3月末のある夕方
ひらめは
思わぬ儲け口にでもありついたのか
または何か他に策略でもあったのか
その二つの推察が
共に当たっていたとしても
おそらくはさらにまたいくつかの
自分などにはとても推察の届かない細かい原因も
あったのでしょうが
自分を貝殻の珍しくお蕎麦など
豊かに招いてひらめならぬ
マグロの刺身に御馳走の主
自ら感覚し賞賛し
ぼんやりしているイソウロにも少しくお酒をすすめ
どうするつもりなんです
一体これから
自分はそれに答えず
宅上の皿から畳いわしをつまみ上げ
その小魚たちの銀の目玉を
眺めていたら
酔いがほのぼの発してきて
遊びもあっていた頃が懐かしく
堀木でさえ懐かしく
つくづく自由が欲しくなり
自分がこの家へ来てからは
同居を演ずる張り合いさえなく
ただもうひらめと小僧の別種の中に身を横たえ
ひらめの方でもまた
自分と打ち溶けた長話をするのを避けている様子でしたし
自分もそのひらめを追いかけて
何かを訴える気などは起こらず
ほとんど自分は
間抜け面のイソウロになりきっていたのです
奇想猶予というのは
善か難犯とかそういうのの合うものには
ならない模様です
だからまああなたの心書き一つで構成ができるわけです
あなたがもし会心して
あなたの方から真面目に私に相談を申し掛けてくれたら
私も考えてみます
ひらめの話し方には
いや
世の中の全部の人の話し方には
このようにややこしく
どこか網路を通して逃げ腰とでも言ったみたいな
微妙な複雑さがあり
そのほとんど無益と思われるくらいの厳重な警戒と
無数と言っていいくらいの小うるさい駆け引きと
いつも自分は陶若し
どうでもいいやという気分になって
おどけで茶化したり
または無言の思考で
いわば敗北の態度を取ってしまうのでした
この時もひらめが
自分に向かって大体つけるように
簡単に報告すれば
それで済むことだったのを
自分は後年に至って知り
ひらめの不必要な用心
いや世の中の人たちの不可解な見え
お体裁になんとも隠うつな思いをしました
ひらめはその時ただこう言えばよかったのでした
官律でも私律でも
とにかく7月からどっかの学校へ入りなさい
あなたの生活費は
学校へ入ると国からもっと十分に送ってくることになっているのです
ずっと後になって
わかったのですが
事実はそのようになっていたのでした
そして自分もその言いつきにしたかったでしょう
それなのにひらめの
いやに用心深く持って回った言い方のために
妙にこじれ
自分の生きていく方向もまるで変わってしまったのです
真面目に私に
相談を持ちかけてくれる気持ちがなければ
しようがないですが
どんな相談?
自分には本当に何も見当がつかなかったのです
それは
あなたの胸にあることでしょう
例えば?
例えばって
あなた自身これからどうする気なんです
働いた方がいいんですか?
いや
あなたの気持ちは一体どうなんです?
だって学校へ入ると言ったって
そりゃあお金が要ります
しかし問題はお金でない
あなたの気持ちです
お金は国から来ることになっているんだから
となぜ一言言わなかったのでしょう
その一言によって
どうですか?
何か将来の希望とでも
いったものがあるんですか?
一体どうも
人を一人世話しているのは
どれだけ難しいものだか
世話されている人には分かりますまい
あーすみません
それは実に心配なものです
私も一旦あなたの世話を引き受けた以上に
あなたも生半可な気持ちでいてもらいたくないのです
立派に後世の道をたどるという覚悟のほど
見せてもらいたいのです
例えばあなたの将来の方針
それについてあなたの方から私に
真面目に相談を持ちかけてきたなら
私もその相談には応ずるつもりでいます
それはどうせこんな貧乏な平目の援助なのですから
以前のような贅沢を望んだら
当てが外れます
しかしあなたの気持ちがしっかりしていて
将来の方針をはっきり打ち立て
そして私に相談をしてくれたら
私はたといわずかずつでも
あなたの後世のためにお手伝いしようとさえ思っているんです
わかりますか?私の気持ちが
未来への模索
一体あなたはこれからどうするつもりでいるんです
ここの2階に置いてもらえなかったら
働いて
本気でそんなことを言っているんですか?
今のこの世の中に
たとえ帝国大学校を出たって
ああいいえ
サラリーマンになるのではないんです
それじゃあ何です?
画家です
思い切ってそれを言いました
ええ?
自分はその時の
首を縮めて笑った平目の顔の
いかにもずるそうな影を忘れることができません
形別の影にも似て
それとも違い
世の中を海にたとえると
その海の千尋の深さの箇所に
そんな奇妙な影が頼っていそうで
何か大人の生活の奥底をちらと
覗かせたような笑いでした
そんなことでは話にもならん
ちっとも気持ちがしっかりしていない
考えなさい
今夜一晩真面目に考えてみなさいと言われ
自分は追われるように2階に登って
寝ても別に何の考えも浮かびませんでした
そして明け方になり
平目の家から逃げました
夕方間違いなく帰ります
先の友人のもとへ将来の方針について
相談に行ってくるのですから
ご心配なく本当に
と要請に鉛筆で大きく書き
それから浅草の堀木正男の住所姓名を記して
こっそり平目の家を出ました
平目に説教さられたのが
悔しくて逃げたわけではありませんでした
むざしく自分は平目の言う通り
気持ちのしっかりしていない男で
将来の方針も何も
自分にはまるで見当がつかず
この上平目の家の厄介になっているのは
平目にも気の毒ですし
そのうちにもし毎日
自分にも八分の気持ちが起こり
志を立てたところで
その厚生資金を
あの貧乏な平目から月々援助するのかと思うと
とても心苦しくて
いたたまれない気持ちになったからでした
しかし自分は
いわゆる将来の方針を
堀木ごときに相談に行こうなどと
本気に思って平目の家を出たのではなかったのでした
それはただわずかでも
束の間でも平目に安心させておきたくて
その間に自分が
少しでも遠くへ逃げ延びていたいという
探偵小説的な策略から
そんな大きい手紙を置いたというよりは
いやそんな気持ちも
かすかにあったに違いないのですが
それよりもやはり自分は
いきなり平目にショックを与え
彼を混乱とおわくさせてしまうのが
恐ろしかったばかりにとでも言った方が
いくらか正確かもしれません
どうせバレるに決まっているのに
その通りに言うのが恐ろしくて
内面の葛藤
必ず何かしら飾りをつけるのが
それは世間の人が嘘つきと呼んで
癒しめている性格に似ていながら
しかし自分は自分に利益をもたらそうとして
その飾り付けを行ったことは
ほとんどなく
ただ雰囲気の強ざめた一辺が
窒息するくらいに恐ろしくて
後で自分に不利益になるということがわかっていても
例の自分の必死の奉仕
それはたとい歪められ
微弱で馬鹿らしいものであろうと
その奉仕の気持ちからつい
一言の飾り付けをしてしまうという場合が
多かったような気もするのですが
それもまた世間のいわゆる正直者たちから
大いに情勢られるところとなりました
そのときふっと記憶の底から浮かんできたままに
堀木の住所と姓名を
陽線の端にしたためたまでのことだったのです
自分は平見の家を出て新宿まで歩き
懐中の本を売り
そしてやっぱり途方に暮れていました
自分はみんなに愛想がいい代わりに
友情というものを一度も実感したことがなく
堀木のような遊び友達は別として
一切の付き合いは
ただ苦痛を覚えるばかりで
その苦痛をもみほぐそうとして
懸命におどけを演じて
かえってヘトヘトになり
わずかに知り合っている人の顔を
それに似た顔をさえ往来なので
見かけてもぎょっとして
一瞬めまいするほどの不快な旋律に襲われるありさまで
人につかれることは知っていても
人を愛する能力においては
欠けているところがあるようでした
もっと自分は
世の中の人間にだって
果たして愛の能力があるのかどうか
そのような自分に
いわゆる親友などできるはずはなく
その上自分は
ビジットの能力さえなかったのです
他人の家の門は
自分にとってあの神極の地獄の門以上に
薄気味悪く
その門の奥には恐ろしい竜みたいな
生臭い鬼獣がうごめいている気配を
誇張でなしに実感せられていたのです
誰とも付き合いがない
どこへもたずねていけない
堀木
それこそ冗談からコマが出た形でした
あの置き手紙に書いた通りに
自分は浅草の堀木を訪ねていくことにしたのです
自分はこれまで
自分の方から堀木の家を訪ねていったことは
一度もなく
大抵電報で堀木を自分の方に呼び寄せていたのですが
今はその電報量さえ心細く
それに落ちぶれた身の被神から
電報を打っただけでは堀木は来てくれぬかもしれぬと
考えて
何よりも自分の苦手の訪問を決意し
ため息をついて死伝に乗り
自分にとってこの世の中でたった一つの
頼みの綱はあの堀木なのか
堀木なのかと思い知ったら
何か背筋の寒くなるような
凄まじい気配に襲われました
堀木は在宅でした
汚い梅雨道の奥の
二階屋で堀木は
二階のたった一部屋の六畳を使い
下では堀木の老婦母と
それから若い職人と三人
下駄の鼻を塗ったり叩いたりして
製造しているのでした
堀木はその日
彼の都会人としての新しい一面を
自分に見せてくれました
堀木はそういうチャッカリ性でした
田舎者の自分が愕然と目を見張ったくらいの
冷たくずるいエゴイズムでした
自分のようにただ止めどなく
流れる太刀の男ではなかったのです
お前には全く呆れた
親父さんからお許しが出たかね
まだかい
逃げてきたとは言えませんでした
自分は霊によって誤魔化しました
今にすぐ堀木に気付かれる
に違いないのに誤魔化しました
それはどうにかなるさ
おい笑い事じゃないぜ
中国するけど
バカもこの辺でやめるんだな
俺は今日は用事があるんだがね
この頃バカに忙しいんだ
用事ってどんな?
おいおい座布団の糸を切らないでくれよ
自分は話をしながら
自分の敷いている座布団の
とじ糸というのかくくりひもというのか
あのフサのような四隅の糸の一つを
無意識に指先でもて遊び
ぐいと引っ張ったりなどしていたのでした
堀木は堀木の家の品物なら
座布団の糸一本でも惜しいらしく
恥じる異論もなく
それこそ目に角を立てて自分を咎めるのでした
考えてみると堀木は
これまで自分との付き合いにおいて
何一つ失ってはいなかったのです
堀木の老母が
おしるこを二つお盆に乗せて持ってきました
あ、これは
と堀木は真からの高校息子のように
老母に向かって恐縮し
言葉遣いも不自然なくらい丁寧に
すみません
すみません
おしるこですか
豪気だなぁ
こんな心配はやらなかったんですよ
用事ですぐ外出しなきゃいけないんですから
いいえ
ああ、でも
せっかくのご自慢のおしるこ
もったいない
いただきます
お前も一つどうだい
お袋がわざわざ作ってくれたんだ
ああ、こいつはうめえや
豪気だなぁ
自分には分からないものでした
決してその貧しさを軽蔑したのではありません
自分はその時それを
まずいとは思いませんでしたし
また老母の心尽くしも身にしみました
自分には貧しさへの恐怖感はあっても
軽蔑感はないつもりでいます
あのおしること
それからそのおしるこを喜ぶ堀木によって
自分は都会人のつましい本性
また
うちと外をちゃんと区別して営んでいる
東京の人の家庭の実態を見せつけられ
うちも外も変わりなく
ただのべつ幕なしに
人間の生活から逃げ回っているばかりの
薄ばかの自分一人だけ完全に取り残され
堀木にさえ見捨てられたような気配に狼狽し
おしるこの
はげたぬりばしを扱いながら
たまらなくわびしい思いをしたということを
記しておきたいだけなのです
悪いけど俺は今日は
用事があるんでね
堀木は立って上衣を着ながらそう言い
失敬するぜ悪いけど
その時
堀木に女の訪問者があり
自分の身の上も急転しました
堀木はにわかにかっ気づいて
ああいやすみません
今ねあなたの方へおうかがいしようと
思っていたんですがね
この人が突然やってきて
ああいやかまわないですさあどうぞ
よほど慌てているらしく
自分が自分の敷いている座布団を外して
堀木との再会
裏返しにして差し出したのを
ひったくってまた裏返しにして
その女の人に勧めました
部屋には堀木の座布団のほかには
客座布団がたった一枚しかなかったのです
女の人は
痩せて背の高い人でした
その座布団はそばにのけて
入口近くの片隅に座りました
自分はぼんやり
二人の会話を聞いていました
女は雑誌社の人のようで堀木に
カットだか何だかを兼ねて頼んでいたらしく
それを受け取りに来たみたいな
具合でした
急ぎますので
ああできていますもうとっくにできています
これですどうぞ
電報が来ました
堀木がそれを読み
上機嫌のその顔がみるみる見学になり
ちぇお前これはどうしたんだい
ひらめからの電報でした
とにかくすぐに帰ってくれ
俺がお前を送り届けるといいんだろうが
俺には今そんな暇はねえや
家出していながらその呑きそうな面ったら
お宅はどちらなのですか
大久保です
ふいと答えてしまいました
そんなら社の近くですから
女は甲州の生まれで28歳でした
5つになる女児と
高円寺のアパートに住んでいました
夫と私別して
3年になると言っていました
あなたは
ずいぶん苦労して育ってきたみたいな人ね
よく気が利くわかわいそうに
初めて
男めかけみたいな生活をしました
静子
というのがその女記者の名前でした
が新宿の雑誌社に
勤めに出た後は
自分とそれから茂子という5つの女児と2人
おとなしくお留守番ということになりました
それまでは母の留守には
茂子はアパートの管理人の部屋で
遊んでいたようでしたが
気の利くおじさんが遊び相手として現れたので
大いにご機嫌がいい様子でした
1週間ほんのぼんやり
自分はそこにいました
アパートの窓のすぐ近くの電線に
ヤッコダコが1つひっからまっていて
春のほこり風に吹かれ
それでもなかなかしつっこく電線に
からみついて離れず
何やらうなずいたりなんかしているので
自分はそれを見るたびに苦笑し
責めんし夢にさえ見てうなされました
お金が欲しいな
いくらくらい
たくさん
金の切れ目が円の切れ目って
本当のことだよ
馬鹿らしいそんな古臭い
そう
しかし君には分からないんだ
このままでは僕は
逃げることになるかもしれない
一体どっちが貧乏なのよ
そしてどっちが逃げるのよ
変ね
自分で稼いでそのお金で
お酒や
煙草を買いたい
絵だって僕は堀木なんかよりずっと上手なつもりなんだ
このような時自分の脳裏に
自ら浮かび上がってくるものは
あの中学時代に描いた竹市の
いわゆるお化けの数枚の字画像でした
失われた傑作
それはたびたびの引っ越しの間に
失われてしまっていたのですが
あれだけは確かに優れている絵だったような
気がするのです
その後さまざま描いてみても
その思い出の中の一品には
遠く遠くを呼ばず
自分はいつも胸が空っぽになるような
だるい喪失感に悩まされ続けてきたのでした
飲み残した一杯のあぶさん
自分はその永遠に
償いがたいような喪失感を
こっそりそう形容していました
絵の話が出ると自分の眼前に
その飲み残した一杯のあぶさんが
ちらついてきて
あああの絵をこの人に見せてやりたい
そして自分の画才を信じさせたい
という焦燥にも耐えるのでした
ふふふ
どうだか
あなたは真面目な顔をして冗談を言うからかわいい
冗談ではないのだ
本当なんだ
あああの絵を見せてやりたい
と空転の反問をして
ふいと気を変え諦めて
漫画さ少なくとも漫画なら
堀木よりは上手いつもりだ
その誤魔化しの同家の言葉の方が
かえって真面目に信じられました
そうね
私も実は感心していたの
司儀学校にいつも書いてあっている漫画
ぜひ私まで吹き出してしまう
やってみたらどう
私の社の編集長に頼んでみてあげてもいいわ
その社では子供相手のあまり名前の知られていない
月刊の雑誌を発行していたのでした
あなたを見ると
大抵の女の人は
何かしてあげたくてたまらなくなる
いつもおどおどして
それでいて滑稽かなんだもの
時たま一人でひどく沈んでいるけれども
相様が一層女の人の心をかゆがらせる
静子に
そのほかさまざまなことを言われて
おだてられても
それがすなわち男めがけの汚らわしい特質なのだと思えば
それこそいよいよ沈むばかりで
一向に元気が出ず
女よりは金
自分から逃れて自活したいと密かに念じ
工夫しているものの
かえってだんだん静子に頼らなければならぬ羽目にあって
家での後始末やら何やら
ほとんど全部この男まされの
公衆女の世話を受け
一層自分は静子に対し
いわゆるおどおどしなければならぬ結果になったのでした
感情の深淵
静子の取り計らいで
平目堀木
それに静子
三人の会談が成立して
自分は故郷から全く絶縁せられ
そして静子と天下晴れて同棲ということになり
これまた静子の奔走のおかげで
自分の漫画も案外お金になって
自分はそのお金でお酒もタバコも買いましたが
自分の心細さ
鬱陶しさはいよいよ募るばかりなのでした
それこそ
沈みに沈み切って
静子の雑誌の毎月の連載漫画
金田さんと太田さんの冒険を書いていると
ふいと故郷の家が思い出され
あまりの和びしさに
ペンが動かなくなり
うつむいて涙をこぼしたこともありました
そういう時の自分にとって
かすかな救いは茂子でした
茂子はその頃になって
自分のことを何にもこだわらずに
お父ちゃんと呼んでいました
お父ちゃん
お祈りをすると神様が何でもくださるって本当?
自分こそ
そのお祈りをしたいと思いました
ああ我に冷たき意思を与えたまえ
我に人間の本質を知らしめたまえ
人が人を押しのけても
罪ならずや
我に怒りのマスクを与えたまえ
うーん
そう
茂ちゃんには何でもくださるだろうけれども
お父ちゃんにはだめかもしれない
自分は神にさえ怯えていました
神の愛は信じられず
神の罰だけを信じているのでした
信仰
それはただ神の無知を受けるために
唸られて審判の台に向かうことのような
気がしているのでした
地獄は信じられても
天国の存在はどうしても信じられなかったのです
どうしてだめなの?
親の言い付けにそむいたから
どう?
お父ちゃんはとてもいい人だってみんな言うけどな
それはだましているからだ
このアパートの人たちみなに
自分が行為を示されているのは
自分も知っている
しかし自分はどれほどみんなを恐怖しているか
恐怖すればするほど好かれ
そしてこちらは好かれると好かれるほど恐怖し
みなから離れていかねばならぬ
この不幸な病癖を
しげこに説明して聞かせるのは
至難のことでした
周囲との関係
しげちゃんは
一体神様に何をおねだりしたいの?
自分は
何気なさそうに和党を転じました
うーん
しげこはね
しげこの本当のお父ちゃんが欲しいの
ぎょっとしてくらくらめまいしました
自分がしげこの敵なのか
しげこが自分の敵なのか
とにかくここにも自分を脅かす恐ろしい大人がいたのだ
他人
不可解な他人
しげこの顔がにわかにそのように見えてきました
しげこだけはと思っていたのに
やはりこの者も
あの不意に阿部を叩き殺す牛のしっぽを持っていたのでした
自分はそれ以来
しげこにさえおどうどしなければならなくなりました
しけまー
いるかい
堀木がまた自分のところへ訪ねてくるようになっていたのです
あの家出の日に
あれほど自分を寂しくさせた男なのに
それでも自分は拒否できず
かすかに笑って迎えるのでした
お前の漫画はなかなか人気が出ているそうじゃないか
アマチュアには怖いもの知らずの
クソ特許があるからかなわねえ
しかし油断すんなよ
デッサンがちっともなってやしねえんだから
お師匠みたいな態度をさえ示すのです
自分はあのお化けの絵を
こいつに見せたらどんな顔をするだろう
と例の空転の耳も代をしながら
それは言ってくれるな
ぎゃっという悲鳴が出る
堀木はいよいよ得意そうに
夜あたりの才能だけでは
いつかボルが出るからな
夜あたりの才能
自分には本当に苦笑のほかはありませんでした
自分に夜あたりな才能
しかし自分のように
人間を恐れ避けごまかしているのは
例の俗言の触らぬ神に
いたたりなしとかいう
例理高滑の書生君を
巡邦しているのと同じ形だということになるのでしょうか
ああ人間はお互い何も相手はわからない
まるっきり間違って見ていながら
無理の親友のつもりでいて
自分に気づかず相手が死ねば
泣いて長寿なんかを呼んでいるのではないでしょうか
堀木は何せ
それは静子に押して頼まれて
しぶしぶ引き受けたに違いないのですが
自分の家での後始末に立ち会った人なので
まるでも自分の後世の
大恩人か
月下標準のように振る舞い
もっともらしい顔をして自分にお説教めいたことを言ったり
また深夜酔っぱらって訪問して泊まったり
また五円
決まって五円でした
借りて行ったりするのでした
お前の女道楽もこの辺で寄せんだね
これ以上は世間が許さないからな
世間とは一体何のことでしょう
人間の複数でしょうか
どこにその世間というものの実態があるのでしょう
けれども何しろ
強く厳しく
怖いものとばかり思ってこれまで生きてきたのですが
しかし堀木にそう言われてふと
世間というのは君じゃないか
という言葉が
舌の先まで出かかって堀木を怒らせるのが嫌で
引っ込めました
それは世間が許さない
世間じゃない
あなたが許さないんでしょう
そんなことをすると
世間からひどい目に遭うぞ
世間じゃない
あなたでしょう
今に世間から葬られる
世間じゃない
葬るのはあなたでしょう
汝は汝個人の恐ろしさ
怪奇
悪辣古田抜き性
妖魔性を知れ
などと様々な言葉が胸中に巨大したのですが
自分はただ顔の汗を半ケチで拭いて
冷やせ冷やせ
と言って笑っただけでした
けれどもその時以来自分は
世間とは個人じゃないか
という思想をめいたものを
持つようになったのです
そうして世間というものは
個人ではなかろうかと思い始めてから
自分は今までよりは多少
自分の意思で動くことができるようになりました
静子の言葉を借りて言えば
自分は少しわがままになり
おどおどしなくなりました
静子の言葉を借りて言えば変にケチになりました
また静子の言葉を借りて言えば
あおり静子を可愛がらなくなりました
無口で笑わず
新たな生活の始まり
毎日毎日静子の思いをしながら
金太さんと太田さんの冒険やら
また呑気な父さんの歴然たる
阿竜の呑気和尚やら
また折角ピンちゃんという
自分ながら訳のわからぬ
やけくその大の連載漫画やらを各社のご注文
ぽつりぽつり静子の社の他からも
注文が来るようになっていましたが
全てそれは静子の社よりももっと下品な
いわば三流出版社からの注文ばかりでした
に応じ
実に実に陰鬱な気持ちで
ノロノロと
自分の絵の運筆は非常に遅い方でした
今はただ酒代が欲しいばかりに書いて
そうして静子が社から帰ると
それと交代にぷいと外へ出て
高円寺の駅近くの屋台やスタンドバーで
安くて強い酒を飲み
少し陽気になってアパートへ帰り
見れば見るほど変な顔をしているね
お前は
呑気和尚の顔は
お前の寝顔からヒントを得たのだ
あなたの寝顔だって
ずいぶんおふけになりましたよ
四十男みたい
お前のせいだ吸い取られたんだ
水の流れと人の実はさ
何を食うか
川端柳さ
騒がないで早くお休みなさいよ
それともご飯を上がりますか
落ち着いていてまるで相手にしません
酒なら飲むがね
水の流れと人の実はさ
人の流れといや
水の流れと
水の実はさ
歌いながら
静子に衣服を脱がせられ
静子の胸に自分の額を押し付けて眠ってしまう
それが自分の日常でした
して
そのあくる日も同じことを繰り返して
昨日に変わらぬしきたりに従えばよい
すなわち
荒っぽい大きな喜びをよけてさえいれば
自然また大きな悲しみもやってこないのだ
行く手をふさぐ邪魔な石を
引き返れば回って通る
上田敏役の
ギーシャルルクローとかいう人の
こんなシークを見つけたとき
自分は一人で顔を燃えるくらいに赤くしました
引き返る
それが自分だ
世間が許すも許さぬもない
葬るも葬らぬもない
自分は犬よりも猫よりも劣等な動物なのだ
引き返る
のそのそう動いているだけだ
自分の飲酒は
次第に量が増えてきました
公園地駅付近だけでなく
銀座の方にまで出かけて飲み
外泊することさえあり
ただもうしきたりに従わぬよう
バーでブライカンのふりをしたり
片っ端からキスしたり
つまりまたあの上司以前の
いや、あの頃よりさらに悲惨で
やひな酒飲みになり
金に急して静子の衣類を持ち出すことになりました
ここへ来て
あの破れた薬庫雑魚に苦笑してから
一年以上経って
葉桜の頃
自分はまたも静子の帯やら
お金を作って銀座で飲み
二晩続けて外泊して三日目の晩
さすがに具合悪い思いで
無意識に足音を忍ばせて
アパートの静子の部屋の前まで来ると
中から静子としげこの会話が聞こえます
なぜ
お酒を飲むの
お父ちゃんはね
お酒を好きで飲んでいるのではないんですよ
あんまりいい人だから
だから
いい人はお酒を飲むの
うーんそうでもないけど
お父ちゃんはきっと
びっくりするわね
お嫌いかもしれない
ほらほら箱から飛び出した
せっかちピンちゃんみたいね
そうね
静子の
心から幸福そうな低い笑い声が聞こえました
自分がドアを細く開けて
中を覗いてみますと
白うさぎの子でした
ぴょんぴょん部屋中お羽もあり
親子はそれを追っていました
幸福なんだこの人たちは
こういうバカ者がこの二人の間に入って
今に二人をめちゃくちゃにするんだ
ちつましい幸福
いい親子
幸福を
ああもし神様が
自分のようなものの祈りでも聞いてくれるなら
一度だけ
生涯に一度だけでいい
祈る
自分はそこにうずくまって合唱したい気持ちでした
そっとドアを閉め
自分はまた銀座に行き
それっきりそのアパートには帰りませんでした
その前に自分はまたも
男めかけの形で寝そべることになりました
世間
どうやら自分にもそれが
ぼんやりわかりかけてきたような気がしていました
個人と個人の争いで
しかもその場の争いで
しかもその場で勝てばいいのだ
人間は決して人間に服従しない
奴隷でさえ奴隷らしい卑屈なしっぺ返しをするものだ
だから人間には
その場の一本勝負に頼るほか
生き延びる工夫がつかんのだ
大義名分らしいものを唱えていながら
努力の目標は必ず個人
個人を乗り越えてまた個人
世間の難解は個人の難解
王者は世間でなくて個人なのだ
と世の中という大会の幻影に怯えることから
多少解放せられて
以前ほどあれこれと
再現のない心遣いすることなく
いわば差し当たっての必要に応じて
幾分図々しく振る舞うことを
覚えてきたのです
公園中のアパートを捨て
京橋のスタンドバーのマダムに
別れてきた
一本勝負だけいってそれで十分
つまり一本勝負は決まって
その夜から自分は乱暴にも
そこの二階に泊まり込むことになったのですが
しかし恐ろしいはずの世間は
自分に何の着替えも加えませんでしたし
また自分も世間に対して
何の弁明もしませんでした
マダムがその気だったら
それで全てがいいのでした
自分はその店のお客のようでもあり
恐怖と用心
店主のようでもあり
走り使いのようでもあり
親戚の者のようでもあり
自分はそうしたはずなのに
世間は少しも怪しまず
そしてその店の常連たちも
自分をようちゃんようちゃんと呼んで
ひどく優しく扱い
そしてお酒を飲ませてくれるのでした
自分は世の中に対して
次第に用心しなくなりました
世の中というところは
そんなに恐ろしいところではない
と思うようになりました
つまりこれまでの自分の恐怖感は
春の風に百日漬の売金が何十万
前頭には目のつぶれる売金が何十万
朝鮮のつり革には海鮮の虫がうようよ
またはお刺身
牛豚肉の生焼けには
サナダムシの幼虫やらジストマやら
何やらの卵などが必ず潜んでいて
また裸足で歩くと足の裏から
ガラスの小さい破片が入って
その破片が体内を駆け巡り
目玉をついて失明させることもあるかという
いわば科学の迷信に
脅かされていたようなものなのでした
それは確かに
何十万もの売金の浮かび泳ぎ
うごめいているのは
科学的にも正確なことでしょう
と同時にその存在を完全に
目察さえすれば
それは自分と未人のつながりもなくなって
たちまち消え失せる
科学の幽霊に過ぎないのだということをも
自分は知るようになったのです
お弁当箱に食べ残しのご飯三粒
一千万人が一日に
三粒ずつ食べ残しても
すでにそれは米何票を無駄に捨てたことになる
とか
あるいは一日に花紙一枚の節約を
一千万人が行うならば
何が行くかなどという
科学的統計に自分はどれだけ脅かされ
ご飯を一粒でも食べ残す旅ごとに
また花をかぶ旅ごとに
山ほどの米
山ほどのパルプを空飛するような錯覚に悩み
自分が今重大な罪を犯している
みたいな暗い気持ちになったものですが
しかしそれこそ科学の嘘
統計の嘘
数学の嘘で
三粒のご飯は集められるものでなく
掛け算割り算の応用問題としても
誠に原始的で低能なテーマで
気のついていない暗いオベンジョの
あの穴に人は何度に一度片足を踏み外して
落下させるか
または小線電車の出入口と
プラットホームのヘリとのあの隙間に
乗客の何人中の何人が足を落とし込むか
そんなプロバビリティを
計算するのと同じ程度に馬鹿らしく
それはいかにもあり得ることのようでもありながら
オベンジョの穴を跨ぎ損ねて
怪我をしたという例は少しも聞かないし
そんな仮説を
科学的事実として教え込まれ
それを全く現実として受け取り
昨日までの自分を愛おしく思い
笑いたく思ったくらいに自分は
世の中というものの実態を少しずつ知ってきた
酒と人間関係
というわけなのでした
そうは言ってもやはり人間というものが
まだまだ自分には恐ろしく
店のお客と会うのにもお酒をコップで
一杯ぐいと飲んで変わらなければいけませんでした
怖いもの見たさ
自分は毎晩それでもお店に出て
子供が実は少し怖がっている小動物などを
かえって強くギュッと握ってしまうみたいに
店のお客に向かって
酔って拙い芸術論を
吹きかけるようにさえなりました
漫画家
ああしかし自分は大きな喜びも
また大きな悲しみもない無名の漫画家
いかに大きな悲しみが後でやってきてもいい
荒っぽい大きな喜びが欲しいと
内心焦って湧いても
自分の現在の喜びたりや
お客と無駄事を言い合い
お客の酒を飲むことだけでした
京橋へ来てこういうくだらない生活を
すでに1年近く続け
自分の漫画も子供愛での雑誌だけでなく
駅売りの粗悪でひばいな雑誌などにも
自分は上司生きた
上司生きた
というふざけ切った匿名で
汚い裸の絵など描き
それに大抵ルバイアットのシークを挿入しました
無駄な
お祈りなんか寄せったら
涙を誘うものなんか
かなぐり捨てろ
まあ一杯いこう
いいことばかり思い出して
余計な心遣いなんか忘れっちまいな
不安や恐怖もて
人を脅かすやからは
自らの作りし
大それた罪に怯え
死にし者の復讐に備えんと
自らの頭に絶えず儚いをなす
呼べ
酒満ちて我ハートは喜びに満ち
今朝さめてただに香料
いぶかし
人様さの中
様変わりたるこの気分よ
たたりなんて
思うことやめてくれ
遠くから響く太鼓のように
何がなしそいつは不安だ
へひったことまでいちいち
罪に感情されたら助からんわい
正義は人生の死神たりとや
さらば血にぬられたる戦場に
暗殺者の喫茶器に
何の正義か宿れるや
何処に指導権利ありや
如何なる英知の光ありや
麗しくも恐ろしきは
浮世なれ
か弱き人の子は
背負い切れぬにおばをあされ
どうにもできない情欲の
身につけられたばかりに
善だ悪だ罪だ罰だと呪われるばかり
どうにもできないただ
まごつくばかり
抑え砕く力も意志も
授けられぬばかりに
どこをどううろつき回ってたんだい
何批判検討
再認識
むなしき夢をありもしない幻を
酒を忘れたんで
みんな苔のしやんさ
のうだこれ
果てもない大空をごらんよ
この中にぽっちり浮かんだ天じゃい
この地球が何で
自転するのが明るもんか
自転後転反転も勝手ですわい
至るところに
思考の力を感じ
あらゆる国にあらゆる民族に
同一の人間性を発見す
我は異端者なりとかや
みんな聖教を
読み違えてんのよ
でなきゃ常識も知恵もないのよ
生き身の喜びを禁じたり
酒を止めたり
私そんなの大嫌い
けれどもその頃
自分に酒を止めようとすすめる少女がいました
いけないわ毎日
お昼から酔っていらっしゃる
バーの向かいの
小さい煙草屋の十七八の娘でした
よしちゃんといい
色の白い刃のある子でした
自分が煙草を買いに行く度に笑って
忠告するのでした
なぜいけないんだ
どうして悪いんだ
あるだけの酒を飲んで人の声を
消せ消せってね
昔ペルシャのね
悲しみ疲れたるハートに希望を持ち来たすは
ただ美君をもたらす玉牌なれ
ってね
わかるかい
わかんない
この野郎キスしてやるぞ
してよ
ちっとも悪びれずに下唇を突き出すのです
バカ野郎
体操かね
しかしよしちゃんの表情には明らかに
誰にも汚されていない少女の匂いがしていました
年が明けて玄関の夜
自分は酔って煙草を買いに出て
その煙草屋の前のマンホールに落ちて
よしちゃん助けてくれと叫び
よしちゃんに引き上げられ
右腕の傷の手当てをよしちゃんにしてもらい
その時よしちゃんはしみじみ
飲みすぎますわよ
と笑わずに言いました
自分は死ぬのは平気なんだけど
けがをして出血して
そして不愚者などになるのはまっぴらごめんの方ですので
よしちゃんに腕の傷の手当てをしてもらいながら
酒ももういい加減に酔わそうかしら
と思ったのです
やめる
明日から一滴も飲まない
本当?
うんきっとやめる
やめたらよしちゃん
僕のお嫁になってくれるかい
しかしお嫁の件は冗談でした
餅よ
餅とは
もちろんの略語でした
もぼだのもがだの
その頃いろんな略語が流行っていました
よしゲンマンしよう
きっとやめる
そうしたら来る日
自分はやはり昼から飲みました
夕方ふらふら外へ出て
よしちゃんの店の前に立ち
よしちゃんごめんねー
飲んじゃった
結婚とその影響
あらいやだ酔ったふりなんかして
はっとしました
酔いも冷めた気持ちでした
いや本当なんだ
本当に飲んだんだよ
酔ったふりなんかしてるんじゃない
ふんふんふん
見ればわかりそうなもんだ
今日もお昼から飲んだんだ
許してね
お芝居がうまいのね
芝居じゃないよ馬鹿野郎
キスしてやるぞ
してよ
いやいやいや
僕には資格がない
お嫁にもらうのもあきらめなくちゃならん
顔を見なさい赤いだろ
飲んだんだよ
そりゃ夕日が当たってるからよ
勝子を立てだめよ
ゲマンしたんですもの
飲んだなんて嘘嘘嘘
薄暗い店の中に座って
微笑しているよしちゃんの白い顔
ああ汚れを知らぬ
ヴァジニティは尊いものだ
自分は今まで自分よりも若い少女と寝たことがない
結婚しよう
どんな大きな悲しみがそのために
後からやってきてもよい
荒っぽいほどの大きな喜びを生涯に一度でもいい
諸女性の美しさとは
それは馬鹿な詩人の
甘い感傷の幻に過ぎぬと思っていたけれども
やはりこの世の中には生きてあるものだ
結婚して春になったら
二人で自転車で青葉の滝を見に行こう
とその場で決意し
いわゆる一本勝負でその花を盗むために
ためらうことをしませんでした
そうして自分たちはやがて結婚して
それによって得た喜びは必ずしも
大きくはありませんでしたが
その後に来た悲しみは生産といっても足りないくらい
実に想像を絶して大きくやってきました
自分にとって世の中はやはり
そこ知れず恐ろしいところでした
決してそんな一本勝負なので
何から何まで決まってしまうような
生優しいところでもなかったのでした
2
堀木と自分
互いに軽蔑しながら付き合い
そうして互いに自らをくだらなくしていく
それがこのいわゆる
固有というものの姿だとするなら
自分と堀木との間柄も
まさしく固有に違いありませんでした
自分があの京橋のスタンドバーの
マダムの擬狂心に従り
女の人の擬狂心なんて
言葉の奇妙な使い方ですが
私自分の経験によると少なくとも
都会の男女の場合男よりも女の方が
その擬狂心とでも言うべきものを
たっぷりと思っていました
男は大抵おっかなびっくりでおていさえばかり飾り
そうして吉でした
あのタバコ屋の吉子を
難遠の妻にすることができて
そうして月時隅田川の近く
木造の2階建ての小さいアパートの
開花の一室を借り2人で住み
酒はやめてそろそろ自分の定まった
職業になりかけてきた漫画の仕事に精を出し
夕食後は2人で映画を見に出かけ
帰りには喫茶店などに入り
また花の鉢を買ったりして
いやそれよりも自分を真から信頼してくれている
この小さい花嫁の言葉を聞き
動作を見ているのが楽しく
これは自分もひょっとしたら
今にだんだん人間らしいものになることができて
悲惨な死に方などせずに
済むのではなかろうかという
甘い思いをかすかに胸に温め始めていた
矢先に堀木がまた
自分の眼前に現れました
よーしきまー
おや
しかもいくらか分別臭い顔になりやがった
今日は
高円寺女子からのお知事さんなんだがね
と言いかけて急に声をひそめ
お勝手でお茶の支度をしている
吉子の方を顎でしゃくって
大丈夫かいと尋ねますので
構わない
何を言ってもいいと自分は落ち着いて答えました
実際吉子は
信頼の天才と言いたいぐらい
京橋のバーのマダムとの間はもとより
事件と記憶の重圧
自分が鎌倉で起こした事件を知らせてやっても
常々ことの間は疑わず
それは自分が嘘が上手いからという訳ではなく
時には明らさまな言い方をすることさえあったのに
吉子にはそれが
みんな冗談としか聞き取れぬ様子でした
相変わらずしょってやがる
なに大したことじゃないがね
たまには高円寺の坊やも遊びに来てくれ
っていうご伝言さ
忘れかけると会長が羽ばたいてやってきて
記憶の傷口をそのくちばしで突き破ります
たちまち過去の恥と罪の記憶が
ありありと完全に展開せられ
わーっと叫びたいほどの恐怖で
座って折れなくなるのです
飲もうかと自分
よしと堀木
自分と堀木
形は二人似ていました
そっくりの人間のような気がすることもありました
もちろんそれは
安い酒をあちこち飲み歩いている時だけのことでしたが
とにかく二人顔を合わせると
みるみる同じ形の同じ毛並みの犬に変わり
後折のちまた
おかけめぐるという具合になるのでした
その日以来
自分たちは再び休校を温めたという形になり
京橋のあの小さいバーにも一緒に行き
そしてとうとう
高円寺の静子のアパートにも
その泥水の二匹の犬が訪問し
宿泊して帰るなどということにさえ
なってしまったのです
忘れもしません
蒸し暑い夏の夜でした
堀木は日暮れごろ
ヨレヨレの浴衣を着て月時の自分のアパートにやってきて
今日ある必要があって夏服を仕入れしたが
その仕入れが老母に知れると
誠に具合が悪い
仕入れ出したいからとにかく金を貸してくれということでした
あえにく自分のところにも
お金がなかったので
霊によって吉子に言いつけ
吉子の衣類を七夜に持って行かせてお金を作り
堀木に貸してもまだ少し余るので
その残金で吉子に焼酎を買わせ
アパートの屋上に行き
隅田川から時たまかすかに吹いてくる土木臭い風を受けて
誠に薄汚らない農業の宴を張りました
自分たちはその時
喜劇名詞
悲劇名詞のあてっこを始めました
これは自分の発明した遊戯で
名詞にはすべて男性名詞
女性名詞中性名詞などの別があるけれども
それと同時に
喜劇名詞悲劇名詞の区別があって
叱るべきだ
例えば寄仙と寄謝はいずれも悲劇名詞で
手電とバスはいずれも喜劇名詞
なぜそうなのか
それのわからぬ者は芸術を断ずるに足らん
喜劇に一個でも悲劇名詞を差し挟んでいる
劇作家は既にそれだけで落題
悲劇の場合もまた叱り
と言ったようなわけなのでした
いいかい
と自分が問います
トラ
トラジディ悲劇の略
とホリキがゴンカに答えます
薬は?
粉薬かい?
がん薬かい?
注射
トラ
そうかなホルモン注射もあるしね
いや断然トラだ
針が第一よお前立派なトラじゃないか
よし負けておこう
しかし君
薬や医者はね
あれで案外米
コメディ喜劇の略
なんだぜ
死は?
牧師も王将もしっかりじゃね
大出来
そして生はトラだな
違うそれも米
いやそれでは何でもかんでも
みんな米になってしまう
ではねもう一つ大雑音するが
漫画家は
米とは言えませんでしょ
トラトラ大悲劇名詞
なんだ大トラは君の方だぜ
こんな下手なダジャレみたいなことになってしまっては
つまらないのですけど
しかし自分たちはその遊戯を
世界の猿にもかつて損しなかった
スコブルキノキいたものだと得意がっていたのでした
またもう一つ
これに似た遊戯を当時自分は発明していました
それはアントニウム
大義語のあてっこでした
黒のアントは白
けれども白のアントは赤
赤のアントは黒
花のアントは
自分が飛ぶとホリキは口を曲げて考え
えっとカゲツという料理屋があったから
月だ
いやそれはアントになっていない
むしろシノニム
同義語だ
星とスビネだってシノニムじゃないか
アントでない
うんわかった
それはね蜂だ
あそこで話すのだよモチーフだ
誤魔化しちゃいけない
わかった
花にムラクモ
月にムラクモだろう
そうそう
花に風
風だ
花のアントは風
まずいなそれは何が武士の文句じゃないか
お里が知れるぜ
いや美話だ
なおいけない
花のアントはね
あ待てよなんだ女か
ついでに女のシノニムは
象物
君はどうもポエジーを知らんね
それじゃあ象物のアントは
牛乳
これはちょっとうまいな
その調子でもう一つ恥
オントのアント
恥知らずさ流行漫画家上司生田
ホリキマサオは
この辺から二人だんだん笑えなくなって
焼酎の匂い特有の
あのガラスの破片が
胸に充満しているような
陰鬱な気分になってきたのでした
生え切るな
俺はまだお前のように
長めの地獄など受けたことがねえんだ
ギョッとしました
ホリキマサオは内心
自分を真人間扱いしていなかったのだ
自分をただ
身底ないの恥知らずの
アホの化け物の
いわばイケる屍としか返してくれず
そうして彼の快楽のために
自分を利用できるところだけは利用する
しかしまたホリキが自分をそのように
見ているのももっともな話で
自分は昔から人間の資格のないみたいな
子供だったのだ
やっぱりホリキにさえ軽蔑すられて
死闘なのかもしれないと考え直し
罪のアントニムは何だろう
これは難しいぞ
と何気なさそうな表情を
よそうというのでした
法律さ
ホリキが平然とそう答えましたので
自分はホリキの顔を見直しました
近くのビルの明滅するネオンサインの
赤い光を受けて
ホリキの顔は鬼刑事のごとく
威厳ありげに見えました
自分はつくづく呆れ返り
罪ってのは君そんなもんじゃないだろう
罪の対義語が
法律とは
しかし世間の人たちはみんなそれくらいに
簡単に考えて済まして暮らしているのかもしれません
刑事のいないところにこそ
罪が蠢いていると
それじゃあなんだい神か
お前にはどこか
やそ坊主臭いところがあるからな
嫌味だぜ
まあそんなに軽く片付けるなよ
もう少し二人で考えてみよう
これはでも面白いテーマじゃないか
このテーマに対する答え一つで
その人も全部がわかるような気がするんだ
まさか
罪の案とは善さ
善良なる市民
つまり俺みたいなもんさ
冗談はよそうよ
しかし善は悪の案とだ
罪の案とではない
うーん違うと思う
善悪の概念は人間が作ったもんだ
人間が勝手に作った道徳の言葉だ
うるせえな
それじゃあやっぱり神だろ
神神何でも神にしておけば間違いない
腹が減ったな
今舌でよしこがそろ豆を煮ている
おーありがてえ
好物だ
両手を頭の後ろに組んで仰向けにゴロリと寝ました
君には罪というものがまるで興味ないらしいね
そりゃそうさ
お前のように罪人ではねえんだから
俺はどう楽はしても
女を死なせたり
女から金を巻き上げたりなんかはしねえよ
死なせたのではない
巻き上げたのではない
と心のどこかでかすかな
けれども必死の抗議の声が起こっても
しかしまた
いや自分が悪いのだとすぐに思い返してしまう
この州壁
自分にはどうしても正面切手の議論ができません
町中の隠蔽な酔いのために
自分を懸命に抑えてほとんど一人ごとのように言いました
しかし牢屋に入れられることだけが罪じゃないんだ
罪の案とがわかれば
罪の実態もつかめるような気がするんだけど
救い
しかし神にはサザンという案とがあるし
救いの案とは苦悩だろうし
愛には憎しみ
光には闇という案とがあり
告白
罪と祈り
罪と食い
罪と告白
罪と
あーみんなシノニムだ
罪の対語はなんだ
罪の対語は蜜さ
蜜のごとく天しだ
腹が減ったな
何か食うものを持ってこいよ
君が持ってきたらいいじゃないか
ほとんど生まれて初めてと言っていいくらいの激しい怒りの声が出ました
よーし
何かしてこいよ
議論より実地見弁
罪の案とは蜜豆
いや空豆か
ほとんど路列の回らぬくらいに酔っているのでした
勝手にしろ
どっか行っちまえ
罪と空腹
空腹と空豆
いやこれはシノニムか
でたらめを言いながら起き上がります
罪と罰
ドストエフスキー
ちらっとそれが頭脳の片隅をかすめて通りはっと思いました
罪と罰をシノニムと考えず
アントニムとして置き並べたものとしたら
罪と罰
絶対に愛通ぜざるもの
ひょうたん愛入れざるもの
罪と罰をアントとして考えた
ドストの青みどころ
腐った池
乱魔の奥底の
あーわかりかけた山だ
などと頭脳にソンマトウがくるくる回っていたときに
おい飛んだ空豆だ来い
小力の声も顔色も変わっています
小力はたった今フラフラ起きて
下へ行ったかと思うとまた引き返してきたのです
なんだ
異様にさっき立ち2人
屋上から2階へ降り2階からさらに階下の
自分の部屋へ降りる階段の中途で
小力は立ち止まり
見ろと小声で指差します
自分の部屋の上の小窓が
開いていてそこから部屋の中が見えます
電気がついたままで
2匹の動物がいました
自分はぐらぐらめまいしながら
これもまた人間の姿だ
これもまた人間の姿だ
激しい呼吸とともに胸の中でつぶやき
吉子を助けることも忘れ
階段に立ち尽くしていました
小力は大きい咳払いをしました
自分は一人逃げるように
また屋上に駆け上がり寝転び
雨を含んだ夏の夜空を仰ぎ
その時自分を襲った感情は
怒りでもなく嫌悪でもなく
また悲しみでもなく
もの凄まじい恐怖でした
それも墓地の幽霊などに対する恐怖ではなく
神社の杉木立で薄衣の御神体に
会った時に感じるかもしれないような
死の後の言わさぬ古代の荒々しい恐怖感でした
自分の若しらがは
その夜から始まり
いよいよ全てに自信を失い
いよいよ人をそこ知れず疑い
この世の営みに対する一切の期待
喜び共鳴などから
永遠に離れるようになりました
実にそれは自分の生涯において
決定的な事件でした
自分は真っ向から眉間を割られ
そうしてそれ以来その傷は
どんな人間にでも接近するごとに痛むのでした
同情はするが
お前もこれで少しは面白いだろう
もう俺は二度とここへは来ないよ
まるで地獄だ
でも
よしちゃん許してやれ
お前だってどうせろくなやつじゃないんだから
失敬するぜ
気まずい場所に長く留まっているほど
丸抜けた堀木ではありませんでした
自分は起き上がって一人で焼酎を飲み
それからおいおい声を放って泣きました
いくらでもいくらでも泣けるのでした
いつの間にか背後に
よし子がその豆を山盛りにした
仲間との交流と感情
お皿を持ってぼんやり立っていました
なんにもしないからって言って
ええ
何も言うな
お前は人を疑うことを知らなかったんだ
お座り豆を食べよう
並んで座って豆を食べました
ああ信頼は罪なりや
相手の男は
自分に漫画を書かせては
わずかなお金をもったいぶって置いていく
30歳前後の無学な子男の商人なのでした
さすがにその商人は
何も言っては来ませんでしたが
自分にはどうしてだか
その商人に対する憎悪よりも
最初に見つけたすぐその後に
大きい咳払いも何もせず
そのまま自分に知らせにまた屋上に引き返してきた
堀木に対する憎しみと怒りが
眠られぬ夜などにむらむら起こってうめきました
許すも許さぬもありません
よし子は信頼の天才なのです
人を疑うことを知らなかったのです
しかしそれゆえの悲惨
神に問う
信頼は罪なりや
よし子は怪我されたということよりも
よし子の信頼が怪我されたということが
自分にとってその後長く
生きておられないほどの苦悩の種になりました
自分のようないやらしくおどおどして
人の顔色ばかり伺い
人を信じる能力がひび割れてしまっている
者にとって
よし子の無垢の信頼心は
それこそ青葉の滝のようにすがすがしく思われていたのです
それがひとようで
黄色いお水に変わってしまいました
見よ
よし子はその夜から自分の一品一生にさえ
おどけを言うようになりました
おいと呼ぶとびくっとして
もう目のやり場に困っている様子です
どんなに自分が笑わせようとして
おどけを言っても
おろおろしびくびくし
やたらに自分に敬語を使うようになりました
果たして無垢の信頼心は
罪の源泉なりや
自分は人妻の犯された物語の本を
いろいろ探して読んでみました
けれどもよし子ほど悲惨な犯され方をしている
女は一人もないと思いました
土台これは天然物語にも何にもなりません
あの子男の商人とよしことの間に
少しでも恋に似た感情でもあったなら
自分の気持ちもかえって助かるかもしれませんが
ただ夏のひとよ
よし子が信頼してそうしてそれっきり
しかもそのために
自分のみけんは真っ向から割られ
声がしゃがれて若しらが始まり
よし子は一生おろおろしなければならなくなったのです
大抵の物語はその妻の行為を
男は許すかどうか
そこに重点を置いていたようでしたが
それは自分にとってはそんなに苦しい
問題ではないように思われました
許す許さぬ
そのような権利を留保している夫こそ
幸いなるかな
とても許すことができると思ったなら
何もそんなに大騒ぎせずともさっさと妻を離縁して
新しい妻を迎えたらどうだろう
それができなかったら
いわゆる許して我慢するさ
いずれにしても夫の気持ち一つで
四方八方が丸く収まるだろうに
という気さえするのでした
つまりそのような事件は
確かに夫にとっては大いなるショックであっても
しかしそれはショックであって
いつまでも尽きることなく打ち返し
打ち寄せる波と違い
権利のある夫の怒りでもって
どうにでも処理できるトラブルのように
自分には思われたのでした
混乱と飲酒
けれども自分たちの場合
夫に何の権利もなく
考えると何もかも自分が悪いような気がしてきて
怒るどころかおこごと一つも言いず
またその妻は
その所有している稀な微室によって
侵されたのです
しかもその微室は
無垢の信頼心という
たまらなく可憐なものでした
無垢の信頼心は罪なりや
唯一の頼みの
微室にさえ疑惑を抱き
自分はもはや何もかも訳が分からなくなり
赴くところはただアルコールだけになりました
自分の顔の表情は
極度に癒しくなり
朝から焼酎を飲み歯がボロボロにかけて
漫画もほとんどY画に近いものを書くようになりました
いえはっきり言います
自分はその頃から
春画のコピーをして密売しました
その頃は
焼酎を買うお金が欲しかったのです
いつも自分から視線を外して
オロオロしている吉子を見ると
こいつは全く警戒を知らぬ女だったから
あの証人と一度だけではなかったのではなかろうか
また堀木は
いやあるいは
自分の知らない人とも
と疑惑は疑惑を産み
去りたて思い切って
それを問いただす勇気もなく
例の不安と恐怖にのたうちまわる思いで
ただ焼酎を飲んで酔っては
内心をおろかしく一喜一憂し
上辺はやたらにおどけて
そうしてそれから吉子に
忌まわしい地獄の合部をくわえ
泥のように眠りこけるのでした
その年の暮れ
自分は夜遅く泥水して帰宅し
砂糖水を飲みたく吉子は眠っているようでしたから
自分でお勝手に行き
砂糖壺を探し出し蓋を開けてみたら
砂糖は何も入ってなくて
黒く細長い紙の小箱が入っていました
何気なく手に取り
その箱に貼られてあるレッテルを見て
そのレッテルは爪で半分以上
もぎ剥がされていましたが
幼児の部分が残っていて
それにはっきり書かれていました
DIAL GR
自分はその頃もっぱら焼酎で
催眠剤を用いてはいませんでしたが
しかし不眠は
自分の寿命のようなものでしたから
大抵の睡眠薬にはおなじみでした
GRのこの箱一つは
確かに血糸量以上のはずでした
まだ箱の封は切っていませんでしたが
しかしいつかはやる気でこんなところに
しかもレッテルをかき剥がしたりなどして
隠していたのに違いありません
かわいそうに
あの子にはレッテルの用字が読めないので
爪で半分かき剥がして
これで大丈夫と思っていたのでしょう
お前に罪はない
自分は音を立てないように
そっとコップに水を満たし
それからゆっくり箱の封を切って
全部一気に口の中に放り
コップの水を落ち着いて飲み干し
電灯を消してそのまま寝ました
三昼夜
医者は過失のみなして警察に届ける猶予をしてくれたそうです
覚醒しかけて一晩先につぶやいた上言は
家へ帰るという言葉だったそうです
家とはどこのことを指していったのか
当の自分にもよくわかりませんが
とにかくそう言ってひどく泣いたそうです
不幸と孤独
次第に霧が晴れて
見ると枕元に平目がひどく不機嫌な顔をして座っていました
この前も年の暮れのことでしてね
お互いもう目が回るくらい忙しいのに
いつも年の暮れを狙ってこんなことをやられた日には
こっちの命がたまらない
平目の話の聞き手になっているのは
京橋のバーのマダムでした
マダムと自分は呼びました
うん、何?気がついた?
マダムは笑い顔を自分の顔の上にかぶせるようにして言いました
自分はポロポロ涙を流し
よしこと別れさせて
自分でも思いがけなかった言葉が出ました
マダムは身を起こしかすかなため息を漏らしました
それから自分はこれもまた実に思いがけない滑稽とも
アホらしいとも形容に苦しむほどの出現をしました
僕は女のいないところに行くんだ
アッハッハッハッとまず平目が大声を上げて笑い
マダムもクスクス笑い出し
自分も涙を流しながら赤面の手になり苦笑しました
うん、その方がいいと平目はいつまでもだらしなく笑いながら
女のいないところに行った方が良い
女がいるとどうもいけない
女のいないところとは良い思いつきです
女のいないところ
しかしこの自分のアホ臭い上言は
後に至って非常に殷算に実現されました
ヨシ子は何か自分がヨシ子の身代わりになって
毒を飲んだとでも思い込んでいるらしく
以前よりもなお一層自分に対してオロオロして
自分が何を言っても笑わず
そしてろくに口も聞けないような有様なので
自分もアパートの部屋の中にいるのが鬱陶しく
安い外へ出て
相変わらず安い酒を飲むことになるのでした
しかしあのJRの一見以来
自分の体がめっきり痩せ細って手足がだるく
マンゴの仕事も怠けがちになり
平目があの時見舞いとして置いていったお金
平目はそれを渋滞の志ですと言って
いかにもご自身が出たお金のように指定させ出しましたが
これも故郷の兄たちからのお金のようでした
自分もその頃には平目の家から逃げ出したあの時と違って
平目のそんなもったいぶった芝居を
自分から見抜くことができるようになっていましたので
こちらもずるく全く気づかぬふりして
神妙にそのお金のお礼を平目に向かって申し上げたのでしたが
しかし平目たちがなぜこんなややこしいからくりをやらかすのか
分かるような分からないような
どうしても自分には変な気がしてなりませんでした
そのお金で思い切って一人で
南伊豆の温泉に行ってみたいなどしましたが
とてもそんな悠長な温泉巡りなどできる柄ではなく
吉子を思えば和びしさ限りなく
宿の部屋から山を眺めるなどの
落ち着いた心境には花々遠く
土寺にも着替えずお湯にも入らず
外へ飛び出しては薄汚い茶店みたいなところへ飛び込んで
焼酎をそれこそ浴びるほど飲んで
体具合を一層悪くして寄居をしただけのことでした
東京に大雪の降った夜でした
自分は酔って銀座裏を
ここはお国を何百里
ここはお国を何百里と小声で繰り返し繰り返し
呟くように歌いながら
なおも降り積もる雪を靴先で蹴散らして歩いて
突然吐きました
それは自分の最初の滑血でした
雪の上に大きい日の丸の旗ができました
自分はしばらくしゃがんで
それから汚れていない箇所の雪を両手ですくい取って
顔を洗いながら泣きました
ここはどこの細道じゃ
ここはどこの細道じゃ
哀れな土寺の歌声が
幻聴のようにかすかに遠くから聞こえます
不幸
この世には様々な不幸な人が
いや不幸な人ばかりと言っても過言ではないでしょうが
しかしその人たちの不幸は
いわゆる世間に対して堂々と抗議ができ
また世間もその人たちの抗議を容易に理解し同情します
しかし自分の不幸は
全て自分の罪悪からなので
誰にも抗議のしようがないし
また口ごもりながら一言でも抗議めいたことを言いかけると
ひらめならずとも世間の人たち全部
よくもまあそんな口が聞けたものだと明けで帰るに違いないし
自分は一体どこに言うわがまま者なのか
またはその反対に気が弱すぎるのか
自分でもわけがわからないけれども
とにかく罪悪の塊らしいので
どこまでも自らどんどん不幸になるばかりで
防ぎ止める具体策などないのです
自分は立ってとりあえず何か適当な薬をと思い
近くの薬屋に入ってそこの奥さんと顔を合わせ
瞬間奥さんはフラッシュを浴びたみたいに首を上げ
目を見張り棒立ちになりました
しかしその見張った目には驚愕の色も嫌悪の色もなく
ほとんど救いを求めるような
慕うような色が現れているのでした
ああこの人もきっと不幸な人なんだ
不幸な人は人の不幸にも敏感なもんだからと思ったとき
ふとその奥さんが松葉杖をついて危なかしくなっているのに気がつきました
駆け寄りたい思いを抑えて
なおもその奥さんと顔を見合わせているうちに涙が出てきました
すると奥さんの大きい目からも涙がポロポロと溢れて出ました
それっきり一言も口を聞かずに自分はその薬屋から出て
よろめいてアパートに帰り
吉子に塩水を作らせて飲み黙って寝て
あくる日も風邪気味だと嘘をついて一日いっぱい寝て
夜自分の秘密の確決がどうにも不安でたまらず
起きてあの薬屋に行き
薬物依存の始まり
今度は笑いながら奥さんに
実に素直に今までの体具合を告白し相談しました
お酒をおよしにならなければ
自分たちは憎しんのようでした
アル中になっているかもしれないんです
今でも飲みたい
いけません
私の主人もていべのくせに金を酒で殺すだ
なんて言って叫びたりになって自分から寿命を縮めました
不安でいけないんです
怖くてとてもダメなんです
お薬を差し上げます
お酒だけはおよしなさい
奥さん
二房陣で男の子が一人
それは千葉だかどこだかの遺大に入って
まもなく父と同じ病にかかり
休学入院中で
家には中風のシュートが寝ていて
奥さん自身は五歳のおり
小児麻痺で片方の足が全然ダメなのでした
は松葉杖をことこととつきながら
自分のためにあっちの棚こっちの引き出し
いろいろと薬品を取りそろえてくれるのでした
これは増血剤
これはビタミンの注射液
注射器はこれ
これはカルシウムの醸剤
異常を壊さないようにジアスターゼ
これは何
これは何と五六種の薬品の説明を
愛情を込めてしてくれたのですが
しかしこの不幸な奥さんの愛情もまた
自分にとって深すぎました
最後に奥さんが
これはどうしても
なんとしてもお酒を飲みたくて
たまらなくなったときのお薬といって
素早く紙に包んだ小箱
モルヒネの注射液でした
酒よりは害にならぬと奥さんもいい
自分もそれを信じてまた一つには
酒の酔いもさすがに不潔に感じられてきた
矢先でもあったし
久しぶりにアルコールというサタンから
逃れることのできる喜びもあり
何の躊躇もなく
自分は自分の腕にそのモルヒネの注射をしました
不安も焦燥もはにかみも綺麗に除去せられ
自分ははなはな陽気な脳弁下になるのでした
そしてその注射をすると
自分は体の衰弱も忘れて
漫画の仕事に精が出て
自分で書きながら吹き出してしまうほど
珍妙な趣向が生まれるのでした
1日1本のつもりが2本になり
4本になった頃には
自分はもうそれがなければ
仕事ができないようになっていました
薬屋の奥さんにそう言われると
自分はもうかなりの中毒患者になってしまったような気がしてきて
自分は人の安心にじずにもろく引っかかるたちなのです
このお金は使っちゃいけないよと言っても
お前のことだものなぁなんて言われると
なんだか使わないと悪いような
期待にそむくような
変な錯覚が起こって
必ずすぐそのお金を使ってしまうのでした
その中毒の不安のため
かえって薬品をたくさん求めるようになったのでした
頼むもう一箱
勘定は月末にきっと払いますから
勘定なんていつでも構いませんけど
警察の方がうるさいのでね
いつでも自分の周囲には
何やら濁って暗く
うさん臭い日陰物の気配が付きまとうのです
そこをなんとかごまかして
頼むよ奥さん
キスしてあげよう
奥さんは顔をあからめます
自分はいよいよつけ込み
薬がないと仕事がちょっともはかどらないんだよ
僕にはあれは強制剤みたいなもんなんだ
それじゃあいっそホルモン注射がいいでしょ
バカにしちゃいけません
苦悩と孤独
お酒かそうでなければあの薬か
どっちかでなければ仕事ができないんだ
お酒はいけません
そうでしょ
僕はねあの薬を使うようになってから
お酒は一滴も飲まなかった
おかげで体の調子がとてもいいんだ
僕だっていつまでも
下手くそな漫画などを書いているつもりはない
これから酒をやめて
体を治して勉強して
きっと偉い絵描きになってみせる
今が大事なとこなんだ
だからさ
ねえお願い
キスしてあげようか
奥さんは笑い出し
困るわね
中毒になっても知りませんよ
コトコトと松葉税の音をさせて
その薬品を棚から取り出し
一箱はあげられませんよ
すぐ使ってしまうんだもの
半分ね
ケチだなあ
まあ仕方がないや
家へ帰ってすぐに一本注射をします
痛くないんですか
吉子はおどおど自分に尋ねます
そりゃ痛いさ
でも仕事の能力を上げるためには
いやでもこれをやらなければいけないんだ
僕はこの頃とても元気だろう
さあ仕事だ仕事仕事
とはしゃぐのです
深夜薬屋の扉を叩いたこともありました
寝巻き姿でコトコト松葉税をついて出てきた奥さんに
いきなり抱きついてキスをして
泣く真似をしました
奥さんは黙って自分に一箱手渡しました
薬品もまた焼酎同様
いやそれ以上に
忌まわしく不潔なものだとつくづく思い知った時には
すでに自分は完全な中毒患者になっていました
誠に恥ずらずの極みでした
自分はその薬品を得た絵ばかりに
またも春夏のコピーを始め
そしてあの薬屋のフグの奥さんと
文字通りの醜い関係をさえ結びました
死にたい
いっそ死にたい
もう取り返しがつかないんだ
どんなことをしても何もしても
ダメになるだけなんだ
恥の上乗りをするだけなんだ
自転車で青葉の滝など
自分には望むべくもないんだ
ただ汚らわしい罪に浅ましい罪が重なり
苦悩が増大し強烈になるだけなんだ
死にたい
死ななければならぬ
生きているのが罪の種なのだ
などと思い詰めても
やっぱりアパートと薬屋の間を
半狂乱の姿で往復しているばかりなのでした
いくら仕事をしても
薬の使用量も従って増えているので
薬代の借りが恐ろしいほどの額に上り
奥さんは自分の顔を見ると涙を浮かべ
自分も涙を流しました
地獄
この地獄から逃れるための最後の手段
これが失敗したら
あとはもう首をくくるばかりだ
という神の存在をかけるほどの決意を持って
自分は故郷の父宛に長い手紙を書いて
自分の実情一切を
女のことはさすがに書けませんでしたが
告白することにしました
しかし結果は一層悪く
待てど暮らせと何の返事もなく
自分はその焦燥と不安のために
かえって薬の量を増やしてしまいました
今夜
十本一気に注射し
そうして大川に飛び込もうと
密かに覚悟を決めたその日の午後
ひらめが悪魔の勘で嗅ぎつけたみたいに
堀木を連れて現れました
お前は滑血したんだってな
堀木は自分の前にあぐらをかいてそう言い
今まで見たこともないくらいに
優しく微笑んでみました
その優しい微笑がありがたくて
嬉しくて
自分はつい顔を背けて涙を流しました
そうして
彼のその優しい微笑一つで
自分は完全に打ち破られ
葬り去られてしまったのです
自分は自動車に乗せられました
とにかく入院しなければならぬ
あとは自分たちに任せなさいと
ひらめもしんみりした口調で
それは慈悲深いとでも形容したいほど
物静かな口調でした
自分にすすめ
自分は意思も判断も何もない者のごとく
ただ目覚めそう泣きながら
いいだくだくと二人の言いつきに従うのでした
吉子も入れて四人
自分たちはずいぶん長いこと自動車に揺られ
あたりが薄暗くなった頃
どこかの大きい病院の玄関に到着しました
サナトリウムとばかり思っていました
自分は若い医師の家に
物柔らかな定調の診察を受け
それから医師は
まあしばらくここで精養するんですね
とまるではにかむように微笑していい
ひらめと堀木と吉子は
自分一人を置いて帰ることになりましたが
吉子は着替えの衣類を入れてある
風呂敷包みを自分に手渡し
それから黙って帯の間から
薬と使い残りのあの薬品を差し出しました
やはり強制剤とばかり思っていたのでしょうか
いや、もういらない
実に珍しいことでした
勧められてそれを拒否したのは
自分のそれまでの生涯において
その時ただ一度といっても過言でないくらいなのです
自分の不幸は拒否の能力のないものの不幸でした
勧められて拒否すると
相手の心にも自分の心にも
永遠に修善し得ない
知られらしいひび割れができるような恐怖に
脅かされているのでした
けれども自分はその時
あれほど半狂乱になって求めた
モルヒネを実に自然に拒否しました
吉子のいわば神のごとき無知に打たれたのでしょうか
自分はあの瞬間
すでに中毒で亡くなっていたのではないでしょうか
けれども自分はそれからすぐに
あのはにかむような微笑をする若い石に案内され
ある病棟に入れられてガチャンと鍵を下ろされました
脳病院でした
女のいないところへ行くという
あのJRを飲んだ時の自分の愚かな上言が
まごとに奇妙に実現されたわけでした
その病棟には男の狂人ばかりで
人間失格の告白
看護人も男でしたし
女は一人もいませんでした
今はもう自分は
罪人どころではなく狂人でした
いいえ
断じて自分は狂ってなどいなかったのです
一瞬間とも狂ったことはないのです
けれども狂人は
大抵自分のことをそういうものだそうです
つまり
この病院に入れられたものは鬼畜
入れられなかったものはノーマルということになるようです
神に問う
無抵抗は罪なりや
堀木のあの不思議な美しい微笑に自分は泣き
判断も抵抗も忘れて自動車に乗り
そしてここに連れてこられて狂人ということになりました
今にここから出ても自分はやっぱり狂人
いや
灰人という刻印を額に打たれることでしょう
人間失格
もはや自分は完全に人間でなくなりました
ここへ来たのは初夏のころで
鉄の格子の窓から病院の庭の小さい池に
赤いスイレンの花が咲いているのが見えましたが
それから美月たち
庭にコスモスが咲き始め
思いがけなく
ふるさとの長兄が平目を連れて
自分を引き取りにやってきて
父が先月末に異界ようで亡くなったこと
自分たちはもうお前の過去は問わぬ
生活の心配もかけないつもり
何もしなくていい
その代わり
いろいろ未練もあるだろうがすぐに東京から離れて
田舎で療養生活を始めてくれ
お前が東京でしでかしたことの後始末は
だいたい渋太がやってくれたはずだから
それは気にしないでいい
と例のきまじめな緊張したような口調で言うのでした
ふるさとの産画が眼前に見るような気がしてきて
自分はかすかにうなずきました
まさに灰人
父が死んだことを知ってから
自分はいよいよふぬけたようになりました
父がもういない
自分の胸中からひとときも離れなかった
あの懐かしく恐ろしい存在がもういない
自分の苦悩の壺が空っぽになったような気がしました
自分の苦悩の壺がやけに重かったのも
あの父のせいだったのではなかろうかとさえ思われました
まるで張り合いが抜けました
苦悩する能力をさえ失いました
長兄は自分に対する約束を正確に実行してくれました
自分の生まれて育った町から
汽車で四五時間南下したところに
東北には珍しいほど温かい海辺の温泉地があって
その村外れの
真数はいつつもあるのですが
かなり古い家らしく
壁は剥げ落ち
柱は虫に喰われ
ほとんど修理のしようもないほどの防護庫を買い取って自分に与え
六十に近いひどい赤毛の醜い女中を一人つけてくれました
それから三年と少し経ち
自分はその間にその鉄という老女中に
数度変な侵され方をして
主人公の苦悩
時たま夫婦喧嘩みたいなことを始め
胸の病気の方は一心一体
痩せたり太ったり血痰が出たり
昨日鉄にカルモチンを買っておいでと言って
村の薬屋にお使いにやったら
いつもの箱と違う形の箱のカルモチンを買ってきて
別に自分も気に留めず
寝る前に十条を飲んでも一向に眠くならないので
おかしいなと思っているうちに
お腹の具合が変になり
急いで便所へ行ったら猛烈な下痢で
しかもそれから引き続き三度も便所に通ったのでした
不審に絶えず薬の箱をよく見ると
それはヘノモチンという下剤でした
自分は仰向けに寝てお腹に湯担保をのせながら
鉄に小言を言ってやろうと思いました
これはお前カルモチンじゃない
ヘノモチンという
言いかけてうーっと笑ってしまいました
胚神はどうやらこれは喜劇名詞のようです
眠ろうとして下剤を飲み
しかもその下剤の名前はヘノモチン
今は自分には幸福も不幸もありません
ただ一切は過ぎてゆきます
自分が今まで阿鼻共感で生きてきた
いわゆる人間の世界において
たった一つ真理らしく思われたのはそれだけでした
過去の回想
ただ一切は過ぎてゆきます
自分は今年27になります
白髪がめっきり増えたので
大抵の人から40以上に見られます
あとがき
この式を書き綴った狂人を私は直接には知らない
けれどもこの式に出てくる
京橋のスタンドバーのマダム島式人物を
私はちょっと知っているのである
小柄で顔色の良くない
目が細く吊り上がっていて鼻の高い
美人というよりは美青年といった方がいいくらいの
堅い感じの人であった
この式にはどうやら昭和5,6,7年
あの頃の東京の風景が主に映されているように思われるが
私がその京橋のスタンドバーに
友人に連れられて2,3度立ち寄り
ヘイボールなど飲んだのは例の日本の軍部が
そろそろ露骨に暴れ始めた
昭和10年前後のことであったから
この式を書いた男には
お目にかかることができなかったわけである
しかるに今年の2月
私は千葉県船橋市に疎開しているある友人を訪ねた
その友人は私の大学時代のいわば学友で
今は某女子大の講師をしているのであるが
実は私はこの友人に
私の身内のものの縁談を依頼していたので
その用事もあり
かたがた何か新鮮な海産物でも仕入れて
私の家の者たちに食わせてやろうと思い
ニックサックを背負って
船橋市へ出かけていったのである
船橋市は泥海に臨んだかなり大きい町であった
新住民たるその友人の家は
その土地の人に諸番地を告げて訪ねても
なかなかわからないのである
寒いゆえにニックサックを背負った肩が痛くなり
私はレコードの定金の音に惹かれて
ある喫茶店のドアを押した
そこのマダムに見覚えがあり
訪ねてみたらまさに10年前の
あの橋橋の小さいバーのマダムであった
マダムも私をすぐに思い出してくれた様子で
互いに大げさに驚き笑い
それからこんな時のお決まりの
例の空襲で焼け出された
お互いの経験を問われもせんのに
いかにも自慢らしく語り合い
あなたはしかし変わらない
いえもうおばあさん
体がガタピシです
あなたこそは若いわ
どんでもない
子供がもう3人もあるんだよ
今日はそいつらのために買い出し
などとこれもまた久しぶりで会った
者同士のお決まりの挨拶を交わし
それから二人に共通の知人の
その後の消息を訪ね合ったりして
そのうちにふとマダムは口調を改め
あなたは洋ちゃんを知っているかしら
という
それは知らないと答えると
マダムは奥へ行って
三冊のノートブックと
山葉の写真を持ってきて私に手渡し
何か小説の材料になるかもしれませんわ
と言った
私は人から押し付けられた材料で
物を書けないたちなので
すぐにその場で返そうと思ったが
山葉の写真
その機械さについては
端書きにも書いておいた
その写真に心を惹かれ
とにかくノートを預かることにして
帰りにまたここへ立ち寄りますが
何町何番地の何々さん
女子大の先生をしている人の
家をご存じないかと尋ねると
やはり新住民同士知っていた
時たまこの喫茶店にもお見えになるという
すぐ近所で会った
その夜
友人とわずかなお酒を組み交わし
止めてもらうことにして
私は朝まで一睡もせずに
例のノートに読みふけた
その式に書かれてあるのは
昔の話ではあったが
しかし現代に人たちが読んでも
かなりの興味を持つに違いない
下手に私の筆を加えるよりは
これはこのままどこかの雑誌社に頼んで
発表してもらったほうが
なお有意義なことのように思われた
子供たちへの土産の解散物は
ひものだけ
私はリュックサックを背負って
友人の元を持し
例の喫茶店に立ち寄り
昨日はどうも
このノートはしばらく貸していただけませんか
ええ、どうぞ
この人はまだ生きているんですか
さあ、それがさっぱりわからないんです
10年ほど前に京橋のお店宛に
そのノートと写真の小包みが送られてきて
写真は洋ちゃんに決まっているんですが
その小包みには洋ちゃんの住所も
名前さえも書いてなかったんです
空襲のとき他のものに紛れて
これも不思議にたつかって
私はこの間初めて全部読んでみて
泣きましたか
ああいいえ、泣くというより
ダメね、人間もああなっては
もうダメね
それから10年とすると
もう亡くなっているかもしれないね
これはあなたへのお礼のつもりで
怒って起こしたのでしょう
作品のまとめ
多少誇張して書いてあるようなところもあるけど
しかしあなたも相当ひどい被害を被ったようですね
もしこれが全部事実だったら
そして僕がこの人の友人だったら
やっぱり脳病院に連れて行きたくなったかもしれない
あの人のお父さんが悪いんですよ
何気なさそうにそう言った
私たちの知っている洋ちゃんは
とても素直でよく気が利いて
あれでお酒さえ飲まなければ
ああいいえ
飲んでも神様みたいな
いい子でした
1952年発行
新調者
新調文庫
人間失格
より独了
読み終わりです
はい
読み終わりました
都合3日間ぐらいかかったかな
途中風邪ひきまして
後半部分はそんなに
声質が良くないかもしれません
すいません
チャップリンも悲劇こそが喜劇だと言ってましたね
あまり多くを語ることはございません
これで終わりにしましょう
無事に寝落ちできた方も
最後までお付き合いいただいた方も
大変にお疲れ様でした
といったところで
今日のところはこの辺で
また次回お会いしましょう
おやすみなさい
02:55:54

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