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寝落ちの本ポッドキャスト。
こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。
ご意見ご感想は、公式Xまでどうぞ。
さて、今日はですね、坂口安吾さんの敬語論というエッセイを読んでいこうかと思います。
皆さんは敬語は正しく使えていますか?
最近は文章をサイトに投げ込むと正しい敬語に直してくれるみたいなサービスもあるみたいですけど、
それだけみんな敬語の使い方で迷うことがあるということかもしれません。
それでは参りましょう。
坂口安吾 敬語論
インドの昔に学者が集って相談した。
どうも俗人どもと同じ言葉を使ったんじゃ学問の尊厳に関わる。
学者は学者だけの特別な言葉を使わなければならぬ。
そこでその頃のインドの俗語、パーリ語というを用いないことにして、
学者だけの特別な言葉を作った。
これをサンスクリット、文語と称するのである。
また近世においては国際間に共通の言葉がなければならぬというので、
ラテン語をもとにしてエスペラントというものができた。
こういう人為的な作物と違って現在使われている言葉は自然発生的なもので、
時代時代の変化を受けつつ今日に及んでいるもの。
日本文法などというものは近世のもの。
まず言葉があって後に文法というもので分類整理したに過ぎない。
言葉は時代的なものである。
生きているものだ。生活や感情が直接こもっているものだ。
だから生活や感情によって動きがあり、時代的に変化がある。
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えーと、それはと考える。
それはねえと考え込む。
それはねえのねえなんかいらねえじゃないかと怒ったって無理だ。
標準語というものを固く定めて、
これ以外の崩れた言葉を使うなと言っても、
これが文章上だけの問題ならとにかく。
日常の言語生活においては、
人間の感情、趣味などが言葉をはみ出し、
言葉を引きずるようになり、
自ら崩れざるを得ない。
そうだわ、とか、だわよ、遊ばせ、
というような女性語は流行の衣装や化粧と同じような
一種の装飾的な自己表現でもある。
女性にユニフォームを定めて、
これ以外のいかなる衣服も用いてはならぬ。
そういう社会制度を望まれる人種は、
女性語を禁じて標準語を強制すべきであろうが、
そのような社会制度が不当である限り、
女性語の禁止も無用のことであろう。
つまり、言葉というものは、
言語だけの独立した問題ではなくて、
それを用いる人間の思考や教養が、
言葉の根本的なエネルギーを成しているのである。
そのエネルギーが、
言葉を時代的に変化せしめていくもので、
言葉の向上を望むなら、
教養の向上を望む以外にではない。
ザーマス夫人というのがある。
木座の見本だというので、
漫文、漫画に封死され、
世間の笑い者になっているから、
自粛するかと思うと、そうじゃない。
白釈夫人でも重役夫人でもない、
クマさん、ハッザンのおかみさんが、
途端にザーマスをやり出して、
人に笑われてトクトクとしている。
人に笑われることによって、
自らも白釈夫人の威厳を
身につけたごとくに心得ているらしい。
要するに、言葉の問題は、
教養自体が問題なのだ。
ヨーロッパに女性語がないというのは間違いだ。
フランスにも女性語はある。
学校で先生が出血をとる。
はい、と答えるに、
男の学生はプレザンと答え、
女性の学生はプレザントと答える。
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語尾に余計なものがつくこと、
日本の〇〇和世のことしである。
よしんば言葉に変化はなくとも、
女性的な欲要は男性とは別であり、
女性の欲要もまた、
個性によってそれぞれの相違があり、
かかる表現上の相違と、
言葉自体の相違と、
本質においては異なるものではないはずだ。
本質とは何か。
すなわち思考や教養である。
敬語の問題もまた、
女性語と同じことだ。
お茶碗だ、お箸だ、
食器にまでおの字をつけてはけしからん。
なぜけしからん?
なぜけしからんって言ったって、
食器におの字をつけてうやまう必要があるか?
なるほど、必要はない。
しかし、言葉は必要の問題であるか?
しからば、茶碗や箸などという言葉に、
必ずそうでなければならぬ必要や、
必然性があるのであるか?
これはどうもないらしい。
なぜ箸と呼ばねばならぬか?
二文字もあるなんて贅沢だ。
は、ではいかんか。
し、ではいかんか。
つまり敬語などツッツキ、
言葉の合理性などということを言い出すと、
言葉全体を新たにメートル方式に作り上げない限り、
合理化の極まる果てはないのである。
敬語に表される階級概念は、
民主主義時代にふさわしからぬと申しても、
球体依然とある生活様式があり、
観念があるからには仕方がない。
言葉だけ変えてみたって、
実質的には何らの意味もなさない。
生活の実質的なものが、
自ら言葉を選び育てるのであるから、
問題はその実質の方である。
イギリスの笑い話に、
小説の第一行目から、
人の注意を引くために、
つまりイギリスには、
公爵婦人の使わない言葉というのが存在するわけであろう。
上流の言葉、下流の言葉。
日本とても同じことだ。
インドの哲学者のごとくに、
日本にも学者の言葉というものがないわけではない。
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これもすでに言葉の階級性ではないか。
生活や趣味や教養に差があれば、
自ら選んで用いる言葉も異なる。
敬語も同じ性質のものに過ぎない。
フランスには、
お前呼びというのがある。
フランスには、
あなたのほかにお前という言葉が存在し、
恋人、夫婦、親友などは、
お前呼びという特権を協力することができる。
他人を呼ぶには、
あなたと言って、
丁寧に分けて、
隔てておくのである。
お前などという言葉が存在するのはけしからん、という。
人を呼ぶには、
常にあなたでなければならぬ。
そんなことを力説してみたって、
人を差別する気持ちがあって、
相手を自分よりいやしいもの、
低いものに見る観念がある以上、
言葉の上でだけあなたと呼んだって、
何のまじないになるというのか。
人を見るに差別の観念がなければ、
人を呼ぶ言葉は、
自ら一つになるに決まっているし。
人を呼ぶのに、
有の一語しかなくとも、
差別の観念のある限り、
有の一語も発音のニュアンスに、
いろいろと思いが現れるはずで。
やっぱり根本の問題は、
言葉の方にあるのではない。
女房をお前と呼ぶのは、
男尊女卑の悪臭だというが、
必ずしも男尊ではなく、
親密の表現でもあり、
他人行儀といって、
他人のうちは丁寧なものだが、
友達も親密になると、
言葉が存在になることも、
日本もお前呼びと同談であり、
女房をお前と呼ぶのも、
むしろ親しさの表現の要素が多いであろう。
日本の場合、
女の方が亭主をあなたと呼ぶのが、
女肥の証拠だというのも一概にそうも言えない。
男言葉と女言葉の確然たる日本で、
男女二つの呼び方が違ってくるのは当然で、
あなたと呼ぶことが嬉しいという、
日本の女性心理には、
日本の言語の慣例を利用して、
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愛情を自然に素直に表出しているに過ぎないと見る方が、
正当ではないかと思う。
言葉という表面に現れているものだけを突き回して、
それだけ改めたって無駄なことだ。
その奥にあり、
敬語という形となって現れた、
日本的生活の歪みというものを突き止めて、
それを論じることが必要である。
お客をもてなすに、
つまらないものですが、とか、
お口に合いませんでしょうが、とかと、
妙に卑屈なことを言う。
敬語という業界を操る調本人というのは、
そんな風な日本的生活にあるのだろうと私は思う。
今日はうちの連中が腕によりをかけた料理で、
とか、これは自慢の家庭料理で、とか、
その食べ物の性格について、
己の信ずるところをはっきり言えばそれでよい。
不適だと思ったら不適。
相手の味覚がそれをどう受け取るとしても、
味覚の好悪というものは好き好きで論外である。
お世話だ年子だと無意味なものを取ったり送ったり、
公伝だの公伝返しだのと、
すべての人間の心情に即さざる形式が生活の危機を成しており、
生活が心情に即していないのだから、
言葉が心情に即さなくなる。
つまり物自体を的確に表現することが生活の主要なことではなくて、
儀礼的に言葉を操ることに主たる工夫があるから、
空虚な内容を敬語化なんかで取り繕う必要も生まれてくるわけであろう。
お役人様という言葉には、
その言葉に即した生活が現に存しているのだし、
親分全と、
お若い人だの、
お若いお若いなどという、
みんな言葉に即した生活が実在して、
その生活が実在する限り、
その言葉には、
のっぴきならぬものがあり、
いのちがあるではないか。
お百姓という、
百姓じゃ軽蔑しているようだし、
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農夫というと、
学問の書籍の中の言葉みたいで窮屈すぎるし、
あたらずさわらず、
軽蔑の意を補う意味において、
おの字を植え付ける。
お百姓のおの一字に、
複雑怪奇な心理的葛藤が含まれ、
そしてそういう心理的葛藤が、
日本人の生活に実在するところから、
怪奇なる敬語が現れる次第であって、
根はあくまで、
生活が言葉を生んでくるだけだ。
葛藤の女房が、
途端にザーマスとやりだした裏には、
それに相応した心理上の生活があってのせいだ。
娘が青年に、
足を拭いてくださらない?と言ったり、
おみやしを拭きあそばして!と言ったり、
足を拭いてよ!と言ったり、
それに即した生活があってそういうのであり、
生活あってのことだ。
戦争中の商人は、
おめえ何が欲しくって俺の家へ来たんだい?
という調子で、
敬語などは自然になくなっていたのである。
近頃は商売がたきも現れて、
お世辞の必要があって、
いらっしゃい、
毎度あり、
などという言葉も聞かれるようになったが、
格の如く簡単に、
言葉というものは生活に即しているものなのである。
もしも敬語というものがなく、
汝何を我に欲するや、
という一語しかない場合、
戦争中の日本商人は、
仏頂面に客をねめ回してその言葉を言い、
終戦後の今日は揉み手をして、
にこやかにそれを言うであろう。
敬語の代わりに揉み手とにこやかがあるわけで、
そこに実質的な何ら代わりもありはせぬ。
日本商人の敬語が悪いと言うなら、
揉み手もにこやかも悪いと言うだけのことである。
言葉というものは、
それが使用されているうちは、
そこに命があるものだ。
10年ぐらい前から、
ラジオや新聞の天気予報に、
明日は晴れがちのお天気です。
とやるようになったが、
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だいたい古来の寛容から言えば、
何々しがちというのは、
悪い方向に傾いていくときを言うのであって、
病気しがちだとか、
貧乏しがちだとか言う。
決して丈夫になりがちだの、
金を儲けがちだのとは言わないものだ。
天気の場合は曇りがちとは言ったものだが、
晴れがちなんて寛容はなかったはずだ。
けれどもこうして、
ラジオや新聞に報じられているうちには、
それが現行のものとなり、
実在してしまうから仕方がない。
言葉の場合などは、
寛容が絶対だという法則はないのであるから、
いずれは文法に、
〇〇がちの寛容のうちで、
晴れがちだけが不規則というようなことになって、
言葉の方に文法を動かしていく力がある。
言葉とはもともとそういうもので、
文法があって言葉ができたわけではなく、
言葉があって文法ができたのである。
それは文法に合わない、
とか何とか学者先生が叫んでみたって、
文法の空文と違って、
言葉にこもる命というものは、
死んだ法則の生死上からざるものなのだ。
だから敬語拝勢などと、
現に行われている言葉の命ある力に向かって、
新規則を立てて束縛しようとしたって、
何の効果があるものでもない。
生活さえ改まれば、
言葉は簡単に改まるのだ。
言葉を改めようという努力などは、
未尽も必要ではない。
見たまえ、戦争中の商人に向かって、
ありがとうと言ってくれと頼んだって、
言ってくれるものじゃない。
国民酒場の親父に向かって、
旦那、すみませんがもう一杯なんとか、
と頼んでいるのはお客の方で、
だめだやうるせえな、
と言っているのは親父の方なのである。
誰が言葉を変えようと命令したわけでもない。
ひと朝生活が変わるや、
一瞬にして言葉は変わっているのである。
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機械な敬語やなんやら横行し、
日本の言葉が民主的でないというなら、
日本人の生活がまだ民主的でないという
印に過ぎないものだ。
敬語廃止運動が起こるとすれば、
新生活とか生活改善運動の一部として
行われる以外に意味はない。
全日本人の言葉を
法則を定めで統一しようとすれば無理であるが、
あるきっかけを与えて、
自然の変化を促し待つことは不自然ではない。
まず新聞を開いてみたまえ。
ある人を○○氏と呼び、
○○さんと呼び、
○○君と呼び、
犯罪者は呼び捨てではないか。
個人が勝手に用いているザーマスなどの敬語などは、
明明勝手で罪のないものであるが、
こうして一つ、
新聞的表現を法則化して
押し付けてくる新聞語などは、
もっと厳しく批判する必要がある。
お偉方も犯罪者も先般も、
みんな一様に○○氏と呼んだらどうだ。
新聞の任務が純粋に報道に留まるだけならともかく、
多少とも啓蒙的役割を帯び、
またそれを自覚しているとすれば、
自分の在り方にもっと自覚的でなければならぬ。
そして新聞用語というものに対しても、
組織的な研究機関があって、
その選定に深い考慮を払い、
また世間の批判に耳を傾けて、
善処すべきであろうと思う。
そういう改善のきっかけとなる力は、
文部省の教科書などより、
はるかに新聞の方が強力だ。
それもつまり、言葉自体の問題ではなく、
文部省は我々の生活の中には参加しないが、
新聞は直接我々の血肉とつながる生活の一部であるからである。
1998年発行 筑波書房 坂口安吾全集 06
より読み終わりです。
すごく敬語の話をしてくれましたが、
後半なんだか、新聞と文部省の話になってましたね。
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うーん、なんともコメントしづらいな。
それでは今日はこの辺で終わりにしたいと思います。
また次回お会いしましょう。
おやすみなさい。