1. 寝落ちの本ポッドキャスト
  2. 198中島敦「李陵」(朗読)
2026-01-20 1:33:37

198中島敦「李陵」(朗読)

紀元前の二人の壮絶な人生。

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サマリー

中島敦の『李陵』は、漢の武帝の時代を背景に、悲劇的な運命に翻弄される李陵の物語を描いています。この作品は、勇気と信頼、戦の厳しさを通じて人間の内面を探ります。李陵は、凶悪な敵軍との接触や逃避行を経て、南へ撤退し、困難な状況を乗り越えようと奮闘する様子が強調されています。このエピソードでは、『李陵』が朗読され、李陵の戦闘とその後の運命が描かれています。特に、漢と李陵の関係や武帝が彼の処遇について考える様子が中心に据えられています。作品は、歴史的視点から武帝と彼の治世について思索する内容です。また、作品には幸福の定義、運命の因果、個人の罪と責任についての深い省察が織り交ぜられています。このエピソードでは、李陵の心の葛藤や苦悩が描かれ、彼は敵に従うか自らの命を絶つかの選択に直面し、愛する家族の苦しみに心を痛めます。物語は、李良の戦士としての苦悩と葛藤を描き、彼の祖父李公の死から始まる運命を語っています。李良は戦国の苦闘の中で複雑な思いを抱えつつ、自身の内面と向き合っています。『李陵』では、登場人物リリオが祖父の痛ましい生活や運命について深く考察し、絶望的な状況での意地や生きる意味が描かれます。物語は、リリオと祖父の関係や時代背景が持つ影響を通じて、個々の運命と選択についての哲学的な問いを投げかけます。物語の朗読では、主人公が過去に対する思いや故国への帰還の無理さを語り、彼の苦悩や友との別れの情景を描きながら、漢時代の出来事とその影響を探求します。

作品の紹介と背景
寝落ちの本ポッドキャスト。こんばんは、Naotaroです。このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
作品は青空文庫から選んでおります。ご意見ご感想、ご依頼は公式Xまでどうぞ。
寝落ちの本で検索してください。また別途投稿フォームもご用意しました。リクエストなどお寄せください。
それから、まだしてないよというそこのあなた、ぜひ番組のフォローをどうぞよろしくお願いします。
そして最後におひねりを投げてもいいよという方、概要欄のリンクよりご検討いただけますと幸いです。どうぞよろしくお願いします。
さて今日は、中島敦さんの李陵です。
何ですかね、この人は。三月期の人ですね。 なぜこの人はいつも中国を書くんだろうね。
路陣さんはわかるんですよ、中国の人だから。この人は日本人なのに中国の話を書くんだよね。
あらすじ。 作品について、漢の武帝の時代、郷土の大群と戦って囚われのみとなった悲劇の優勝、李陵を中心に
終年の歴史化、芝船、不屈の施設、祖部の運命的な生き方を 流魂の筆地で描く中島敦の最高傑作
意向として発表された最高傑作だそうです。 悠根であってんだろうか、この読み方は。調べてこよう。
悠根であってました。悠根とは雄大で力強く勢いがあり、淀みがない様子を表す言葉だそうです。
にして、悠根にして最高傑作だそうですよ。 今から最高傑作をお届けします。
彼の最高傑作を読み上げたいと思います。 文字数はですね、
えっと、37,000字なので
1時間半くらいかな。 1週間半いかないかな。
音声で聞いているとどんな漢字を読んでいるのかわからないところが多々あると思いますけど、 まあそういうもんだと思って受け取っていただければと思います。
もしね、実際にどういう漢字が使われているのかなと思ったら 1次修了に当たっていただければ
青空文庫にございますので、僕はこれを読み上げていますというのでね。 漢字が特に多いですね。
やっていきましょう。 国の名前、武将の名前、役職の名前、地利の名前、土地の名前とかが漢字で書いてあって、
それが馴染みがないので、どういう漢字だという感じ、そう、どういう漢字で書くんだという風になると思いますけど、
そういうもんだと思って受け止めていただければと思います。 はい、長くなりました。
やって参りましょう。どうかお付き合いください。 それでは参ります。
李涼 1 漢の武帝の転換2年秋9月
きとい李涼は細津五線を率い返済車両省を発して北へ向かった。 アルタイ山脈の東南端がゴビ座木に没船とする辺の広角たる丘陵地帯を縫って
北航すること30日。 昨冬は重雨を吹いて寒く、いかにも万里古軍来たるの感が深い。
幕北、春景山の麓に至って軍はようやく支援した。 すでに敵、郷土の勢力圏に深く進み入っているのである。
秋とは言っても北地のこととて馬小屋市も枯れ、二礼や川柳の葉ももはや落ち尽くしている。
木の葉どころか木そのものさえ、宿泳地の近傍を除いては容易に見つからないほどの、ただ砂と岩と河原と、
水のない川床との高梁たる風景であった。 極目陣営を見ず、稀に訪れる者とては荒野に水を求めるかもしかぐらいのものである。
徒骨と秋空を区切る縁山の上を高く狩りの列が南へ急ぐのを見ても、しかし小卒一堂誰一人として甘い海峡の情などにそそられるものはない。
それほどに彼らの位置は危険極まるものだったのである。 騎兵を主力とする強度に向かって、一体の騎馬兵をも連れずに歩兵ばかり、
馬にまたがる者は両党、その幕僚数人に過ぎなかった。 で、奥地深く侵入することからして無謀の極みというほかはない。
その歩兵もわずか五千。絶えて救援はなく、しかもこの春景山は最も近い関西の虚縁からでも優に1500里は離れている。
闘卒者、離領への絶対的な信頼と親睦とがなかったら到底続けられるような光雲ではなかった。
毎年秋風が立ち始めると決まって漢の北辺には駒に鞭打った氷監な侵略者の大部隊が現れる。
フェンリーが殺され、人民が掠められ、家畜が脱落される。 五元、作法、雲中、城谷、岩門などがその例年の被害地である。
大将軍英勢、兵器将軍各挙兵の武力によって、一時爆難に横手なしと言われた元首以後、
限定かけての数年を除いては、ここ30年来欠かすことなくこうした北辺の災いが続いていた。
各挙兵が死んでから18年。英勢が没してから7年。 策也孝、張波渡は全軍を率いて漏に下り、
後六軍序治医の策北に気づいた上昇もたちまち破壊される。 全軍の信頼をつなぐにたる称水としては、わずか2000年、
大援を遠征して武名を挙げた自治将軍李光麗があるに過ぎない。 その年、天環二年、夏、5月。
京都の侵略に先立って自治将軍が三万騎二将として主戦を出た。 敷居に政変を伺う京都の右県王を天山に討とうというのである。
武帝は李陵に命じてこの軍旅の主張のことに当たらせようとした。 美容級の部大伝に掌検された李陵は、しかし極力その役を免じられんことを怒った。
李陵は秘書軍と呼ばれた名将李光の孫。 裾に祖父の風有と言われた貴社の名手で、数年前から気取りとして政変の主戦、
朝駅にあって社を教え兵を練っていたのである。 年齢もようやく40に近い血気盛りとあっては、主張の役はあまりに情けなかったに違いない。
真が偏狂に失うところの兵は、皆、京都の一騎統戦の勇士なれば、根川区は彼らの一隊を率いて撃っていで、側面から強度の軍を建成したいという陵の探眼には武帝も頷くところがあった。
しかし、あいつづく諸法への覇兵のために、あいにく陵の軍に割くべき騎馬の余力がないのである。 李陵はそれでもかまわぬと言った。
確かに無理とは思われたが、主張の役などに当てられるよりは、むしろ己のために信命を惜しまぬ部下5,000とともに危うきを犯す方を選びたかったのである。
真、根川区は、将をもって衆を討たんといった陵の言葉を、派手好きな武帝は大いに喜んで、その願いを入れた。
李陵はにし、朝駅に戻って部下の兵を録すると、すぐに北へ向けて進発した。 当時、虚縁に躊躇していた京都都尉、魯博徳が見事の理を受けて陵の軍を中東まで迎えに出る。
そこまでは良かったんだが、それから先がすこぶるまずいことになってきた。
元来、この魯博徳という男は古くから各巨兵の部下として軍に従い、振興にまで包図られ、ことに十二年前には副派将軍として十万の兵を率いて南越を滅ぼした老将である。
戦闘の準備と展開
その後、法に挿して功を失い、現在の地位に落とされて西編を守っている。
年齢から言っても李陵とは親子ほどに違う。
かつては奉公をも得たその老将が、今さら若い李陵ごときの後陣を拝するのが何としても不愉快だったのである。
彼は陵の軍を迎えると同時に、都営使いをやって操縦させた。
今まさに秋とて、京都の馬は越え、火兵をもってしては騎馬戦を得意とする彼らの英宝には、いささか当たりがたい。
それ上、李陵と共にここに越年をし、春をもってから朱仙、張益の木、各五仙をもって出撃した方が得策と信ずるという序章文である。
もちろん李陵はこのことを知らない。武帝はこれを見るとひどく怒った。
李陵が伯徳と相談の上での上書と考えたのである。
我が前ではあの通り講演しておきながら、今さら偏地に行って急におじけづくとは何事ぞという。
たちまち使いが都から伯徳と陵のところに飛ぶ。
李陵は将をもって朱を討たんと我が前で講演したゆえ、汝はこれと協力する必要はない。
今京都が青河に侵入したとあれば、汝は早速陵を残して青河に馳せつけ、敵の道を遮れ、というのが伯徳への見事の理である。
李陵への見事の理には、直ちに幕北に至り、東は春景山から南は陵六水の辺までを偵察官房し、
もし異常な訓場、坂や江の鼓動に従って呪行状に至って死を休めようとある。
伯徳と相談してのあの場所は一体何たることぞ、という激しい質問のあったことは言うまでもない。
貨幣を持って敵地に徘徊することの危険を別としても、なお指定されたこの数千里の工程は、騎馬を持たぬ軍隊にとっては甚だ難しいものである。
徒歩のみによる工軍の速度と、人力による車の牽引力と、冬へかけての骨の気候等を考えれば、これは誰にも明らかであった。
武邸は決して養王ではなかったが、同じく養王でなかった随の養大や始皇帝などと共通した長所と短所と思っていた。
哀長日向李夫人の兄たる自治将軍にしてからが、兵力不足のため、一旦大縁からへ引き上げようとして、帝の激林に触れ、玉門館を閉じられてしまった。
その大縁遠征も、たかたか前歯が欲しいからとて思い立たれたものであった。
味方が一度言い出したら、どんなわがままでも絶対に通さねばならん。
まして李将の場合は、もともと自ら行うた役割でさえある。
ただ季節と距離等に相当に無理な注文があるだけで。
躊躇すべき理由はどこにもない。
彼はかくて、騎兵を伴う北西に出たのであった。
春景山の山間には十日余り留まった。
その間、日ごとに石膏を遠く走って敵陣を探ったのはもちろん、
付近の山川、地形を余すところなく図に移し取って、都へ報告しなければならなかった。
報告者は、貴下の陳保楽という者が身に帯びて、丹心都へ馳せるのである。
選ばれた使者は李陵に一遊してから、十頭に足らぬ少数の馬の中の一匹に打ち跨がると、一持当てて丘を駆け下りた。
灰色に乾いたバクバクたる風景の中にその姿が次第に小さくなっていくのを、一軍の将士は何か心細い気持ちで見送った。
十日の間、春景山の東西三十里の中には一人の戸兵をも見なかった。
彼らに先立って、夏のうちに天山へと出撃した自治将軍は、一旦右肩王を破りながら、その日と別の強度の大軍に囲まれて惨敗した。
官兵には十二六七を撃たれ、将軍の一心さえ危うかったという、その噂は彼らの耳にも届いている。
李光麗を破ったその敵の主力が今どのあたりにいるのか。
今、隠雲将軍甲村豪が西蛾策法の辺で防いでいる。
両と手を分かった老伯徳はその応援に馳せつけていったのだが、
という敵軍はどうも距離と時間等を測ってみるに、問題の敵の主力ではなさそうに思われる。
天山からそんなに早く東峰四千里の河南、オルドスの地まで行けるはずがないからである。
どうしても強度の主力は現在、領の軍の支援地から北方、湿気水までの間あたりに堪るしていなければならない環状になる。
李陵自身、毎日前山の頂に立って四方を眺めるのだが、東峰から南へかけてはただバクバクたる一面の閉鎖、
西から北へかけては樹木に乏しい丘陵星の山々が連なっているばかり。
秋雲の間に時としてタカかハヤブサかと思われる鳥の影を見ることはあっても、地上には一気の湖平をも見ないのである。
山峡のソリンの外れに兵舎を並べて囲い、その中に威爆を吊られた陣営である。
夜になると気温が急に下がった。
四卒は乏しい木々を織り取って耐えては弾を取った。
十日もいるうちに月は無くなった。
空気の乾いているせいか、ひどく星が美しい。
黒々とした山陰とそれぞれに夜ごと狼星が青白い光棒を斜めに引いて輝いていた。
十数日事なく過ごした後、明日はいよいよここを立ち退いて指定された進路を東南へ向かって取ろうと決したその晩である。
一人の歩匠が見るともなくこの乱々たる狼星を見上げていると、突然その星のすぐ下のところにすこぶる大きい赤黄色い星が現れた。
おや、と思っているうちにその見慣れぬ大きな星が赤く太い尾を引いて動いた。
と続いて二つ三つ、四つ五つ同じような光がその周囲に現れて動いた。
思わず歩匠が声を立てようとしたとき、それらの遠くの日はふっと一時に消えた。
まるで今見たことが夢だったかのように。
歩匠の報告に接したリリオは全軍に命じて明朝天明とともに直ちに戦闘に入るべき準備を整えさせた。
外に出て一応各部署を点検し終わると再び陣営に入り雷の如き歓声を立てて熟睡した。
緑鳥、リリオが目を覚まして外へ出てみると、全軍はすでに昨夜の命令通りの陣形を取り、静かに敵を待ち構えていた。
全部が兵舎を並べた外側に出、矛と盾とを持った者が前列に、強度を手にした者が後列にと配置されていたのである。
この谷を挟んだ二つの山はまだ行音の中に震感とはしているが、そこここの岩陰に何かの潜んでいるらしい気配が何となく感じられる。
朝日の影が谷間に差し込んでくると同時に、
李陵の試練
強度は全羽がまず朝日を配置した後でなければことを発しないのであろう。
今まで何一つ見えなかった涼山の頂から斜面にかけて、無数の人影が一時に湧いた。
天潮を揺るがす歓声とともに湖兵は山下に殺到した。
湖兵の戦闘が二十歩の距離に迫った時、それまで鳴りを静めていた艦の陣営から初めて呼声が響く。
たちまち扇動とともに発し、原に応じて数百の湖兵は一斉に倒れた。
艦発を入れず浮き足立った残りの湖兵に向かって、艦軍全列の自撃車らが襲いかかる。
強度の軍は完全に追えて山上へ逃げ登った。艦軍これを追撃して漁師を挙げること数千。
鮮やかな勝ちっぷりではあったが、執念深い敵がこのままで引くことは決してない。
今日の敵軍だけでもいう二三万はあったろう。
それに山上に並びていた二十十歩から見れば、紛れもなく前右の親英軍である。
前右がいるものとすれば八万や十万の小爪の軍は当然繰り出されると覚悟せればならん。
李陵は即刻この地を撤退して南へ移ることにした。
それもここから東南二千里の渋江城へという前日までの予定を変えて、
半月前に辿ってきたその同じ道を南へとって一日も早く元の虚遠祭、
戦闘と撤退
それぞれ千数百里離れているが、に入ろうとしたのである。
南行三日目の昼、漢軍の後方遥か北の地平線に雲のごとく黄陣の上がるのが見られた。
郷土起兵の追撃である。
翌日はすでに八万の戸兵が騎馬の快速を利して漢軍の前後左右を隙間なく取り囲んでしまっていた。
ただし前日の失敗に懲りたとみえ至近の距離にまでは近づいてこない。
南へ行進していく漢軍を遠巻きにしながら馬上から東野を行かけるのである。
リリオが全軍を止めて戦闘の隊形を問わせれば敵は馬を駆って遠く退き、白線を避ける。
再び行軍を始めればまた近づいてきて矢を追いかける。
行進の速度が一時中縮減ずるのはもとより、死傷者も一日ずつ確実に増えていくのである。
植えつかれた旅人の跡をつける荒野の狼のように、郷土の兵はこの戦法を続けつつ執念深く追ってくる。
少しずつ傷つけていった挙句、いつかは最後のとどめをさそうとその機会を伺っているのである。
かつ戦い、かつ尻どきつつ難航することさらに数日。
ある三夜の中で漢軍は一日の休養を取った。
負傷者もすでにかなりの数に上っている。
リリオは全員を転舵して被害状況を調べた後、傷の一箇所に過ぎる者には平成通り兵器を取って戦わしめ、
両層を被る者にもなお兵車を助け押さしめ、三層にして初めてレンに乗せて助け運ぶことに決めた。
輸送力の欠乏から死体はすべて荒野に行きするほかはなかったのである。
この夜、人中視察のとき、リリオはたまたまある視聴者中に男の服をまとうた女を発見した。
全軍の車両についていちいち調べたところ、同様にして潜んでいた十数人の女が探し出された。
往年関東の軍頭が一時に陸にあったとき、その妻子等が追われて西編に移り住んだ。
それら家婦のうち、遺職に給与するままに、返協守備兵の妻となり、あるいは彼らを得意とする娼婦となり果てた者が少なくない。
兵車中に隠れて、はるばる爆歩まで従い来たったのは、そういう連中である。
リリオは軍理に女を切るべく簡単に命じた。
彼女らを伴い来たった一つについては、一言の触れるところもない。
谷間のお家に引き出された女どもの感高い号泣がしばらく続いた後、突然それが夜の沈黙に飲まれたようにふっと消えていくのを、軍幕の中の少子一同は祝禅たる思いで聞いた。
翌朝、久しぶりで肉迫来襲した敵を迎えて、艦の全軍は思い切り開戦した。
敵の域、死体三千余。
連日の必要なゲリラ戦術に久しく苛立ち屈していた士気が、にわかに古いたった形である。
次の日からまた元の隆城の道に従って南方への対抗が始まる。
郷土はまたしても元の遠巻戦術に帰った。
五日目、艦軍は閉鎖の中に時に見入らされる焼沢地の一つに踏み入った。
水は半ば凍り、丁寧も萩を没する深さで、いけどもいけども派手しない枯れ足腹が続け、風上に回った郷土の一帯が火を放った。
作風は炎を煽り、真昼の空の下に白っぽく輝きを失った火は凄まじい速さで艦軍に迫る。
李寮はすぐに付近の足に向かえ火を放たしめてかろうじてこれを防いだ。
火は防いだが、訴状中の車高の困難は後々に絶した。
急速の地のないまま一夜デーネーの中を歩き通した後、翌朝ようやく丘陵地にたどり着いた途端に、先回りして待ち伏せていた敵の主力の襲撃に遭った。
陣場、入見られての白兵船である。
騎馬隊の激しい突撃を避けるため、李寮は車を捨てて山陸に、祖輪の中に戦闘の場所を移し入れた。
林間からの猛射はすこぶる甲を襲した。
たまたま陣頭に姿を現した全羽と、その親衛隊とに向かって一時に連動を発して乱射したとき、全羽の白馬は前足を高く上げて棒立ちとなり、正方をまとった腰はたちまち地上に投げ出された。
親衛隊の2機が馬から下りもせず、左右からさっと全羽をすくい上げると、全隊がたちまちこれを中に囲んで、素早く退いていった。
乱闘を数刻の後、ようやく必要な敵を撃退し得たが、確かに今までにない難戦であった。
残された敵の死体はまたしても数千を惨死たが、艦軍も千に近い戦車を出したのである。
この日、捕らえた頃の口から敵軍の事情の一端を知ることができた。
それによれば、全羽は官兵の手強さに共嘆し、己に二十倍する大軍をも恐れず日に日に難過して我を誘うかに見えるのは、あるいはどこか近くに副兵があって、それを頼んでいるのではないかと疑っているらしい。
前夜、その疑いを全羽が官部の署長に漏らして事を図ったところ。
最後の対決
結局そういう疑いも確かにあり得るが、ともかくも全羽自ら数万機を率いて艦の火星を滅し得ぬとあっては我々の面目に関わるという主戦論が価値を制し、
これより南四五十里は三夜が続くが、その間、力戦猛行し、さて兵地に出て一戦してもなお敗れ得ないとなったその時は、初めて兵を北に返そうということに決まったという。
これを聞いて、後尉、官延年、以下、官軍の幕僚たちの頭に、あるいは助かるかもしれぬぞという希望のようなものがかすかに湧いた。
翌日から、古軍の攻撃は猛烈を極めた。
領の原の中にあった最後の猛攻というのを始めたのであろう。襲撃は一日に十数回繰り返された。
手厳しい反撃を加えつつ、官軍は徐々に南へ移っていく。
三日経つと兵地に出た。
兵地戦になると、倍化される騎馬隊の威力に物を言わせ、郷土らは車任務に官軍を圧倒しようと掛かったが、結局またも二戦の死体を残して引いた。
後尉の言が偽りでなければ、これで古軍は追撃を打ち切るはずである。
たかが一兵卒のいった言葉ゆえ、それほど信頼できるとは思わなかったが、それでも幕僚一同、いささかほっとしたことは争えなかった。
その晩、官の軍公、官官というものが陣を出して郷土の軍に逃げ下った。
かつて長安とかの悪少年だった男だが、前夜石膏城の手ぬかりについて後尉、青安公、官縁年のために囚人の前で面場され、無事撃たれた。
それを含んでこの郷に出たのである。
先日谷間で山にあった女どもの一人が彼の妻だったとも言う。
官官は郷土の捕虜の授業をした言葉を知っていた。
それゆえ、孤児に逃げて前歩の前に引き出されるや否や、副兵を恐れて引き上げる必要のないことを力説した。
言う、官軍には後援がない。矢もほとんど尽きようとしている。
負傷者も続出して後軍は軟銃を極めている。
官軍の中心をなす者は李将軍及び青安公、官縁年の率いる各八百人だが、それぞれ木と城との志をもって印としているゆえ、
明日故紀の精鋭をしてそこに攻撃を集中せしめてこれを破ったなら、他は容易に壊滅するであろう云々。
前右は大いに喜んで熱く艦を偶し、直ちに北方への引き上げ命令を取り消した。
翌日、李将、官縁年、速やかに下れと執行しつつ、後軍の再生へは木城の志を目指して襲いかかった。
その勢いに官軍は次第に兵地から西方の山地へと押されてゆく。
遂に本堂から遥かに離れた山矢の間に追い込まれてしまった。
四方の山上から敵は矢を雨のごとくに注いだ。
それに応戦しようにも、今や矢が完全に尽きてしまった。
遮断所を出るとき、各人が百本ずつ携えた五十万本の矢がことごとく射尽くされたのである。
矢ばかりではない。全軍の闘争、暴撃の類も半ばは折れかけてしまった。
文字通り、破、折れ、矢、尽きたのである。
それでも歩行を失った者は車腹を切ってこれを持ち、軍李は石刀を手にして防戦した。
谷は奥へ進みに従っていよいよ狭くなる。
古卒は諸々の崖の上から大石を投下し始めた。
矢よりもこの方が確実に官軍の支障者を増加させた。
四肢と累積とでもはや全身も不可能になった。
その夜、李陵は少数単位の弁儀をつけ、誰もついてくるなと禁じて一人、幕営の外に出た。
月が山の階から覗いて谷間に渦高い屍を照らした。
春景山の陣を徹するときは夜が暗かったのに、またも月が明るくなり始めたのである。
月光と満地の下で片岡の斜面は水に濡れたように見えた。
幕営の中に残った将士は李陵の服装からして彼が単身敵陣を伺って、あわよくば禅羽と察し違える所存に違いないことを察した。
李陵はなかなか戻ってこなかった。
彼らは息を潜めてしばらく外の様子を伺った。
遠く山上の敵類から孤下の声が響く。
かなり久しくたってから音もなく帳を掛けて李陵が幕の内に入ってきた。
「ダメだ。」と一言吐き出すように言うと巨匠に腰を下ろした。
全軍残死のほか道はないようだなとまたしばらくしてから谷に向かってともなく行った。
まんざ口を開くものはない。
ややあって軍李の一人が口を切り、昨年、
昨夜公張波渡が故郡のために生けぞられ、数年後に館に逃げ帰った時も、武帝はこれを罰しなかったことを語った。
この例から考えても、貨幣を持って閣まで郷土を侵害させた李陵であってみれば、
たとえ都へ逃れ帰っても天主はこれを偶する道を知り給うであろうというのである。
李陵はそれを遮って言う。
梁一個のことはしばらくおけ。
とにかく、今数十夜もあれば一応は囲みを挫出することもできようが、一本の山もないこの有様では、明日の天明には全軍が挫して幕を受けるばかり。
ただ今夜のうちに囲みをついて外に出、各地、頂上と散じて走ったならば、その中にあるいは返済にたどり着いて天主に群情を報告し得るものもあるかもしれん。
安全に、現在の地点は、低環山北方の山地に違いなく、去縁まではなお数日の工程ゆえ、整備のほどおぼつかないが、
とにかく今となってはそのほかに残された道はないではないか。
諸将梁もこれにうなずいた。
全軍の諸卒に各二将の欲しいと、一個の氷片とが分かたれ、車任務に車両将に向かって走るべき旨が含められた。
さて、一方、ことごとく艦人の正規をはたおし、これを切って地中に埋めた後、武器、兵車等の敵に利用され得る恐れのあるものも皆打ち壊した。
やはん、こして兵を起こした。
軍鼓の音もさんとして響かぬ。李亮は艦工医と共に馬にまたがり、創始十四人を従いで戦闘に立った。
この日、追い込まれた峡谷の東の区長を破って兵地に出、それから南へ向けて走ろうというのである。
早いつきはすでに落ちた。
恒例の不意をついて、ともかくも全軍の三分の二は予定通り峡谷の裏口を突破した。
しかしすぐに敵の騎馬兵の追撃に遭った。
徒歩の兵は大部分撃たれた、あるいは捕らえられたようだったが、
混戦に乗じて敵の馬を奪った数十人は、その駒に鞭打って南方へ走った。
敵の追撃を振り切って、四目にもぼーっと白い兵舎の上を逃れ去った部下の数を数えて、
確かに百人余ることを確かめ得ると、李亮はまた峡谷の入口の修羅場に取って返した。
身には数層を帯び、自らの地と帰り地とで銃油は重く濡れていた。
彼と並んでいた漢延年はすでに撃たれて戦死していた。
気化を失い全軍を失って、もはや天死にまみゆべき面目はない。
彼は歩行を取り直すと再び乱軍の中に駆け入った。
暗い中で敵味方もわからぬほどの乱闘のうちに、李亮の馬が流れ屋に当たったとみえてがっくり前にのめった。
李陵の戦闘と捕虜
それとどちらが早かったか、前にある敵を突こうと歩行を引いた李亮は、
突然背後から重量のある打撃を後頭部に食らって失神した。
馬から転落した彼の上に、生け捕ろうと構えた戸兵どもが、都へ旗へと織り重なって飛びかかった。
2.9月に北へ立った五千の漢延は、11月に入って疲れ、傷ついて将を失った四百足らずの敗兵となって返済にたどり着いた。
敗方は直ちに駅伝をもって長安の都に達した。
武帝は思いのほか腹を立てなかった。
本軍たる李功利の大軍さえ惨敗しているのに、
一、死体たる李亮の家軍に対した期待のもてよう道理がなかったから。
それに彼は李亮が必ずや戦死しているに違いないとも思っていたのである。
ただ、先頃李亮の使いとして幕北から、戦線異常な敷スコブル王政の方をもたらしたシン・ホラクだけは、
彼は吉報の使者として読み捨てられ、老となってそのまま宮古にとどまっていた。
なるべくどうしても自殺しなければならなかった。
哀れではあったが、これはやむを得ない。
翌、転換三年の春になって李亮は戦死したのではない。
捉えられて老に下ったのだという確報が届いた。
李陵の罪と議論
武帝は初めて角度した。
即以後、四十四年。
味方は既に六十に近かったが気象の激しさは壮時に超えている。
新戦の説をお好み、奉仕不激の類を信じた彼は、
それまでに己の絶対に尊心する奉仕どもに幾度か欺かれていた。
漢の誠意を絶頂にあたって五十四年の間訓練したこの大皇帝は、
その中年以後ずっと霊魂の世界への不安な関心に執拗に付きまとわれていた。
それだけにその方面での失望は彼にとって大きな打撃となった。
こうした打撃は生来活発だった彼の心に、
年とともに群心縁の暗い猜疑を植え付けていった。
離妻、性格、徴収等、上昇たるものは相次いで死罪に行われた。
現在の上昇たる高尊賀のごとき命を廃した時の、
己が運命を恐れて味方の前で手放しで泣き出したほどである。
黄骨官旧安が退いた後は、
味方を取り巻く者は寧心にあらずんば黒利であった。
さて、武帝は諸従心を召して離陵の処置について諮った。
離陵の身体は都にはないが、
その罪の決定によって彼の妻子、
県族、家財などの処分が行われるのである。
黒利として聞こえた一帝尉が既に味方の顔色を伺い、
合法的に法を曲げて味方の尉を迎えることに巧みであった。
ある人が法の権威に問いてこれを馴染ったところこれに答えて言う。
前首の是とするところがこれが律となり、
後首の是とするところこれが領となる。
当時の君主の尉のほかに何の法があろうぞと。
軍臣皆この定義の類であった。
上将、後尊が、
御子、大夫、都首、
大将、朝廷、
以下誰一人として味方の信道を犯してまで
領のために弁じようとする者はない。
口を決めて彼らは離陵の売国的行為を罵る。
離陵のごとき偏説官と肩を並べて朝に仕えていたことを思うと、
今更ながら恥ずかしいと言い出した。
平成の領尉の行為の一つ一つが全て疑わしかったことに意見が一致した。
領のいとこにあたる李官が大使の長を頼んで教師であることまでが
領への誹謗の趣旨になった。
口を噛んして意見を漏らさぬ者が結局領尉に対して最大の好意を持つ者だったが、
それも数えるほどしかいない。
ただ一人、にがにがしい顔をしてこれらを見守っている男がいた。
今、口を極めて離陵を懺悔しているのは、
数ヶ月前、李陵が都市するときに杯をあげてその行を盛んにした連中ではなかったか。
幕北からの使者が来て李陵の軍の健在を伝えたとき、
さすがは名称李公の孫と李陵の故郡奮闘をたたえたのもまた同じ連中ではないのか。
天として器用を忘れたふりのできる剣関連や、
彼らの天位を見破るほどに聡明ではありながら、
なお真実に耳を傾けることを嫌う君主がこの男には不思議に思われた。
いや、不思議ではない。
人間がそういうものとは昔から嫌になるほど知ってはいるのだが、
それにしてもその不愉快さに変わりはないのである。
家大夫の一人として長に連なっていたために彼もまた家紋を受けた。
そのとき、この男ははっきりと李陵を褒め上げた。
言う、陵の兵勢を見るに、親に仕えてこう、死と交わって死ん。
城に奮って身を変えりみず、もって国家の給に準ずるは誠の国主の風ありと云うべく、
今不公意してことひとたび破れたが、
身を全うし、最初休んずることをのみただ念願とする君側の姉人原が、
この陵の一室を取り上げてこれを古代売却しもって朝の壮名を覆うとしているのは、
いかんこの上もない。
そもそも陵の今回の軍たる五千人も見たぬ補卒を率いて、
深く敵地に入り、強度数万の死を本命に疲れしめ、
天戦戦利、や月未知極まるに至るもなお全軍空洞を張り、
白人を犯して死闘している。
部下の心を得てこれに支力を尽くさしめること、
いにしえの名称といえどもこれには過ぎまい。
軍破れたりとはいえ、その前線の後はまさに天下に懸賞するにたる。
主に彼が死せずして陵に下ったというのも、
ひそかに家の地にあって何事か勘に無垢にときしてのことではあるまいか。
柴銭とその影響
波入る軍心は驚いた。
こんなことの言える男が世に居ようとは考えなかったからである。
彼らは米紙をふろばせ、武帝の顔を恐る恐る見上げた。
それから自分らをあえて、
苦を全うし妻子を保つの真と呼んだこの男を待つ者が何であるかを考えて逃がりとするのである。
無効みずなその男、大使令柴銭が君善を知り属とすぐに、
苦を全うし妻子を保つの真の一人が、
戦と李陵との親しい関係について武帝への耳に入れた。
大使令はゆえあって自死将軍と激あり。
戦が陵を褒めるのはそれによって今度陵に先立って出塞して功のなかった自死将軍を脅し連がためであるというものも出てきた。
ともかくも、たかが西暦牧師をつかさるに過ぎる大使令のみとして、
あまりにも不尊な態度だというのが一同の一致した意見である。
おかしなことに李陵の家族よりも柴銭の方が先に罰せられることになった。
翌日彼は帝位に下された。
刑は旧と決まった。
品で昔から行われた肉刑の主たるものとして刑、義、鼻切る、非、足切る、旧の四つがある。
武帝の祖父、文帝の時、この四つのうち三つまでは廃せられたが旧刑の実はそのまま残された。
旧刑とは、男を男でなくする機械な刑罰である。
これを一に不刑とも言うのは、その傷が不朽を放つがゆえだともいい、あるいは不牧の実を生ざせるがごとき男となり果てるからだとも言う。
この刑を受けた者を円陣と称し、旧帝の勧元の大部分がこれであったことは言うまでもない。
人もあろうに柴銭がこの刑にあったのである。
しかし、後代の我々が式の作者として知っている柴銭は大きな名前だが、当時の大司令柴銭は病たる一文筆の利に過ぎない。
頭脳の名責なことは確かとしてもその頭脳に自信を持ちすぎた。
人付き合いの悪い男、議論において決して人に負けない男、たかだか強情我慢の偏屈人としてしか知られていなかった。
彼が不刑にあったからとて別に驚くものはない。
柴氏は元衆の司官であった。
後、秦に入り、秦に仕え、官の代となってから四代目の柴譚が武邸に仕えて、権限年間に大司令を務めた。
この譚が戦の父である。
専門たる律、歴、益のほかに道家の教えに詳しく、また広く儒、仏、法、明、書家の説にも通じていたが、それらはすべて一家の権を持ってすべて自己のものとしていた。
己の頭脳や精神力についての自信の強さはそっくりそのまま息子の戦に受け継がれたところのものである。
彼が息子に施した最大の教育は、書学の伝授を教えてのちに海外の大旅行をさせたことであった。
当時としては変わった教育法であったが、これが後年の歴史下柴戦に資するところのすこぶる大であったことは言うまでもない。
元法元年に武邸が東、泰山に登って天を祀ったとき、たまたま終南で病床にあった熱血寒柴譚は、天子初めて官家の法を立つるめでたき時に己一人従ってゆくことのできるのを嘆き、憤悟を発してそのために死んだ。
古今を一貫せる通史の編述こそ、彼の一生の念願だったのだが、単に材料の収集のみで終わってしまったのである。
その隣中の光景は息子、戦の筆によって詳しく四季の最後の章に描かれている。
それによると柴譚は己の又立ちがたきを知るや、戦を呼びその手を取って念ごろに収集の必要を解き、己大使となりながらこのことに着手せず、
謙君、忠臣の持席をむなしく地下に埋もれしめる不甲斐なさを嘆いて泣いた。
要しせば、汝必ず大使とならん。大使とならば我が論著戦と発するところを忘れるな、彼。
と云い、これこそ己に対する功の最大なものだとて、汝それを思いやと繰り返した時、戦は不死流停してその命に背かざるべきを誓ったのである。
父が死んでから二年の後、果たして柴譚は大使令の職を継いだ。
父の収集した資料と宮廷手蔵の秘察等を用いて、すぐにも不死僧伝の転職に取り掛かりたかったのだが、任官後の彼にまず課せられたのは小読みの改正という事業であった。
この仕事に没頭すること、ちょうど前四年。大書元年にようやくこれを仕上げると、すぐに彼は式の変算に着手した。戦、時に年四十二。
副案はとうに出来上がっていた。その副案による司書の形式は従来の司書のどれにも似ていなかった。
彼は道義的批判の基準を示すものとしては春秋を推したが、
事実を伝える司書としては何としても飽きたらなかった。もっと事実が欲しい。教訓よりも事実が。
茶伝や国語になるとなるほど事実はある。茶伝の序章の巧妙さに至っては簡単のほかはない。しかし、その事実を作り上げる一人一人の人についての探求がない。
事件の中における彼らの姿の描写は鮮やかであっても、そうしたことをしでかすまでに至る彼ら一人一人の身元調べの欠けているのがしばせんには不服だった。
それに従来の司書はすべて当代の者に既往を知らしめることが主眼となっていて、
未来の者に当代を知らしめるためのものとしての用意があまりに欠けすぎているようである。
要するにしばせんの欲するものは在来の司には求めて得られなかった。
どういう点で在来の司書が飽きたらぬかは、彼自身でも自ら欲するところを掻き上げてみて初めて反然する体のものと思われた。
彼の教長にあるモヤモヤと疎きしたものとを掻き表すことの要求の方が在来の司書に対する批判より先に立った。
いや、彼の批判は、自ら新しいものを作るという形でしか現れないのである。
自分が長い間頭の中で描いてきた構想が、死と言えるものか、彼には自信がなかった。
しかし死と言えても言えなくても、とにかくそういうものが最も描かれなければならないものだ。
政治にとって、公団にとって、中んづく己自身にとって。
という点については自信があった。
彼も講師にならって述べて作らぬ方針を取ったが、しかし講師のそれとは他文に内容をことにした述べて作らずである。
しばせんにとって、単なる変年帯の事件列挙は未だノベルの中には入らぬものだったし、
また後世、人の事実そのものを知ることを妨げるようなあまりにも道義的な談案はむしろ作るの部類に入るように思われた。
漢が天下を定めてからすでに五代、百年、始皇帝の半文化政策によって隠滅し、あるいは隠読されていた書物がようやく世に行われ始め、
文の起こらんとする機運がうつぼつとして感じられた。
漢の朝廷ばかりでなく、時代が死の出現を要求している時であった。
しばせん個人としては父の遺職による官撃が、学職、観察眼、筆力の充実を伴ってようやく根前たるものを生み出すべく発行しかけてきていた。
彼の仕事は実に気持ちよく進んだ。
むしろ会長に行き過ぎて困るくらいであった。
というのは初めの御邸本義から下院修身本義あたりまでは彼も材料を安倍して技術の正確厳密を置きする一人の技師に過ぎなかったのだが、
始皇帝を経て後遇本義に入る頃からその技術家の冷静さが怪しくなってきた。
皇王の治世と李陵の遭遇
ともすれば後遇が彼に、あるいは彼が後遇に乗り移りかねないのである。
皇王すなわち夜起きて帳中に飲す。
美人あり。名は具。
常に功せられて従う。
春明。名は水。
常にこれに帰す。
ここにおいて皇王すなわち陛下公害し、自ら死を作りて曰く、
力山を抜き、既成を追う。
じりあらず、すいゆかず。
すいゆかずいかんすべき。
ぐやぐや。
汝をいかにせん。
と、
歌うこと数決。
美人これにわす。
数王涙数行下る。
さよみななき。
よく仰ぎみるものなし。
これでいいのか?
戸柴戦は疑う。
こんな熱に浮かされたような書きっぷりでいいもんだろうか。
彼は作ることを極度に警戒した。
自分の仕事は述べることに尽きる。
事実彼は述べただけであった。
しかし、なんと正規はつらつたる述べ方であったか。
異常な創造的資格を持った者でなければ到底不能な技術であった。
彼は時に作ることを恐れるのあまり、
既に書いた部分を読み返してみて、
それがあるために史上の人物が現実の人物のごとくに躍動すると思われる軸を削る。
すると、確かにその人物ははつらつたる呼吸をやめる。
これで作ることになる心配はないわけである。
しかし、
戸柴戦が思うに、
これでは孔武が孔武でなくなるではないか。
孔武も始皇帝も祖の曹王も、みな同じ人間になってしまう。
運命の不条理と個人の反省
違った人間を同じ人間として記述することが何が述べるだ。
述べるとは、
違った人間は違った人間として述べることではないか。
そう考えてくると、
やはり彼は削った軸を再び生かさないわけにはいかない。
もど通りに直して、
さて一読してみて彼はやっと落ち着く。
いや、彼ばかりではない。
そこに書かれた史上の人物が、
孔武や、半海や、半蔵が、
みんなようやく安心して、
それぞれの場所に落ち着くように思われる。
調子の良いとこの武帝は、
誠に高まい活発な理解ある文教の保護者だったし、
大司令という職が地味な特殊な技能を要する者だったために、
半海につきものの、
宝刀飛襲の生還残部による地位、
あるいは生命の不安定からも免れることができた。
数年の間、
しばせんは充実した幸福といっていい日々を送った。
当時の人間の考える幸福とは、
現代人のそれとひどく内容の違うものだったが、
それを求めることに変わりはない。
妥協性はなかったが、
どこまでも陽性で、
よく論じ、よく怒り、
よく笑い、
中んづく論的を幹部なきまでに窃破することを、
最も得意としていた。
さて、そうした数年の後、
突然この災いが下ったのである。
薄暗い山室の中で、
不敬せ術後、
当分の間を風に当たることを避けねばならぬので、
中に火を起こして温かに保った密閉した暗室を作り、
そこに施術後の受刑者を数日の間入れて身体を養わせる。
暖かく暗いところが、
開口を買う部屋に居ているとて、
それを山室と名付けるのである。
ゴンゴを絶した混乱のあまり、
彼は呆然と壁に寄りかかった。
噴撃よりも先に驚きのようなものさえ感じていた。
残念なこと、
死を賜うことに対してなら、
彼にはもとより平静から覚悟ができている。
軽視する己の姿なら、
想像してみることもできるし、
武帝の気に逆らって、
リリオを褒め上げた時も、
まかり交われば、
死を賜うようなことになるかもしれぬくらいの懸念は、
自分にもあったのである。
ところが刑罰も数ある中で、
よりによって最も就労な休刑に遭おうとは。
浮かすといえば浮かすだが、
というのは、
死刑を予期するくらいなら、
当然他のあらゆる刑罰も予期しなければならないわけだから、
彼は自分の運命の中に不足の死が待ち受けているかもしれんとは考えてはいたけれども、
このような醜いものが突然現れようとは、
全然頭から考えもしなかったのである。
常々彼は、
人間には、
それぞれその人間にふさわしい事件しか起こらないのだ、
という一種の確信のようなものを持っていた。
これは、
長い間死実を扱っているうちに自然に養われた考えであった。
同じ逆境にしても、
公害の死には激しい痛烈な苦しみが、
軟弱のとには、
乾満な、
じめじめした醜い苦しみがというふうにである。
たとえ初めは一見ふさわしくないように見えても、
少なくともその後の対処の仕方によって、
その運命はその人間にふさわしいことがわかってくるのだと。
柴瀬は、
自分を男だと信じていた。
文筆の利ではあっても、
当代のいかなる武人よりも男であることを確信していた。
自分ばかりではない、
このことだけは、
いかに彼に好意を寄せぬものでも、
認めないわけにはいかないようであった。
それゆえ、
彼は自らの持論に従って、
車先の刑なら自分の行く手に思い描くことができたのである。
それが弱い五十に近い身で、
この恥ずかしめに遭おうとは。
彼は今、
自分が三室の中にいるということが夢のような気がしてきた。
夢だと思いたかった。
しかし、
壁によって閉じていた目を開くと、
薄暗い中に正気のない、
魂までが抜けたような顔をした男が三、四人、
だらしなく横たわったり座ったりしているのが目に入った。
あの姿が、
つまり今の己なのだと思ったとき、
応えずとも、
どごうともつかない叫びが彼の喉を破った。
通訓と反問との数日のうちには、
時に学者としての彼の習慣から来る施策が、
反省が来た。
一体今度の出来事の中で、
何が、
誰が、
誰のどういうところが悪かったのだという考えである。
日本の君臣堂とは根底から異なったかの国のこととて、
当然彼はまず武帝を恨んだ。
一時はその縁漫だけで一切他を変えりみる余裕はなかったというのが実際であった。
しかし、
しばらくの共乱の時期の過ぎた後には、
歴史家としての彼が目覚めてきた。
従者と違って、
先王の価値にも歴史家的な割引をすることを知っていた彼は、
皇王たる武帝の評価の上にも、
支援のために狂いを来たさせることはなかった。
何と言っても武帝は大君主である。
そのあらゆる欠点にもかかわらず、
この君がある限り、
漢の天下は微動だにもしない。
皇祖はしばらく置くとするも、
仁君文帝も、
明君啓帝も、
この君に比べればやはり小さい。
ただ大きいものは、
その欠点までが大きく映ってくるのは、
これはやむを得ない。
しばせんは、
極度の奮援のうちにあっても、
このことを忘れてはいない。
今度のことは要するに、
天の乗せる疾風暴雨壁壁に見舞われたものと思うほかはないという考えが、
彼を一層絶望的な行き通りへと勝ったが、
また一方、
逆に帝観へも向かわせようとする。
縁君が長く君主に迎え得ないとなると、
勢い、
君側の関心に向けられる。
彼らが悪い。
確かにそうだ。
しかしこの悪さはすこぶ福寿的な悪さである。
それに自強心の高い彼にとって、
彼ら精進派は冤婚の対象としてさえ物足りない気がする。
彼は今度ほど好人物というものへの腹立ちを感じたことはない。
これは関心や国利よりも始末が悪い。
自己認識と存在の苦悩
少なくとも片腹から見ていて腹が立つ。
良心的に安っぽく安心しており、
他にも安心させるだけ一層けしからんのだ。
弁護もしなければ反駁もせぬ。
真中反省もなければ自責もない。
上昇高尊賀のごときその代表的なものだ。
同じあゆ芸豪を断たとしても都衆。
最近この男は前任者王系を落とし入れて
真元御子大夫となり要せた。
のような奴は自らそれと知っているに違いないが、
このお人よしの上昇と来た日にはその自覚さえない。
自分に苦を全うし妻子を保つの真と言われても、
こういう手合いは腹も立てないんだろう。
こんな手合いは恨みを向けるだけの値打ちさえもない。
しばせんは最後に踏んまんの持って行きどころを自分に求めようとする。
実際何者かに対して腹を立てなければならんとすれば、
結局それは自分自身に対しての他はなかったのである。
だが自分のどこが悪かったのか。
理量のために弁じたこと、
これはいかに考えてみても間違っていたとは思えない。
方法的にも格別まずかったとは考えぬ。
ああいうに出せるにやまんじない限りあれはあれでどうしようもない。
それでは自ら代わり見て、
やましくなければ、そのやましくない行為がどのような結果を来たそうとも、
したる者はそれを感受しなければならないはずだ。
なるほど、それは一応そうに違いない。
だから自分も司会されようと、洋参に会おうと、
そういうものならあまんじで受けるつもりだ。
しかしこの休憩は。
その結果、かくなり果てた我が身のありさまというものは、
これはまた別だ。
同じフグでも足を切られたり、鼻を切られたりするのとは全然違った種類のものだ。
したる者の加えられるべき形ではない。
こればかりは身体のこういう状態というものは、
どういう角度から見ても完全な悪だ。
直言の余地はない。
そして心の傷だけならば、時とともに言えることもあろうが、
己が身体のこの醜悪な現実は死に至るまで続くのだ。
動機がどうあろうと、このような結果を招く者は、
結局悪かったと言わなければならん。
しかし、どこが悪かった?
己のどこが。
どこも悪くなかった。
己は正しいことしかなかった。
我ありという事実だけが悪かったのである。
呆然とした虚脱の状態で座っていたかと思うと、
突然飛び上がり、傷ついた獣のごとくうめきながら、
暗く暖かい部屋の中を歩き回る。
そうした仕草を無意識に繰り返しつつ、
彼の考えもまた、いつも同じところをぐるぐる回ってばかりいて、
気欠するところを知らないのである。
我を忘れ、壁に頭を打ち付けて血を流したその数回を除けば、
彼は自らを殺そうと試みなかった。
死にたかった。
死にたどんなによかろう。
それよりも、数等恐ろしい恥辱が追い立てるのだから、
死を恐れる気持ちは全然なかった。
なぜ死ねなかったのか。
獄舎の中に自らを殺すべき道具のなかったことにもよろう。
しかしそれ以外に何かが内から彼を止める。
はじめ彼はそれが何であるかに気がつかなかった。
ただ凶乱と不満との中で、
絶えず発作的に死への誘惑を感じたにもかかわらず、
一方彼の気持ちを自殺の方へ向けさせたがらないものがあるのを漠然と感じていた。
何を忘れたのかははっきりしないながら、
とにかく何か忘れ物をしたような気のすることがある。
ちょうどそんな具合であった。
許されて自宅に帰り、そこで禁止するようになってから、
はじめて彼は自分がこの一月、
凶乱に取り紛れて斧が必勢の事業たる収支のことを忘れ果てていたこと。
しかし表面は忘れていたにもかかわらず、
その仕事への無意識の関心が彼を自殺から阻む役目を隠々のうちに務めていたことに気がついた。
十年前、隣住のとこで自分の手を取り、
泣いて異名した父のそくそくたる言葉は今なお辞呈にある。
しかし今、疾痛三端を極めた彼の心の中にあってなお、
李陵の苦悩
収支の仕事を重たたしめないものはその父の言葉ばかりではなかった。
それは何よりもその仕事そのものであった。
仕事の魅力とか仕事への情熱とかいう楽しい体のものではない。
収支という使命の自覚には違いないとしても、
さらに好然として自ら応じする自覚ではない。
恐ろしく我の強い男だったが、
今度のことで己のいかに取りに足らないものだったかをしみじみと考えさせられた。
理想の豊富のと威張ってみたところで、
所詮己は牛に踏みつぶされる道端の虫キャラのごときものに過ぎなかったのだ。
我は惨めに踏みつぶされたが、収支という仕事の意義は疑えなかった。
このような浅ましい身となり果て、自信も自信も失い尽くしたのち、
それでもなお、世に流られてこの仕事に従うということはどう考えても楽しいわけはなかった。
それはほとんど、いかに愛しくとも、
最後までその関係を立つことの許されない人間同士のような宿命的な因縁に近いものと彼自身には感じられた。
とにかくこの仕事のために自分は自らを殺すことができるのだ。
それも義務感からではなく、もっと肉体的なこの仕事とのつながりによってである。
ということだけははっきりしてきた。
遠ざの盲目的な獣のうめき苦しみに変わって、より意識的な人間の苦しみが始まった。
困ったことに自殺できないことが明らかになるにつれ、
自殺によっての他に苦悩と恥辱とから逃れる道のないことがますます明らかになってきた。
一個の女王二人大使令柴銭は、転換三年の春に死んだ。
そしてその後に、彼の書き残した詩を続ける者は、知覚も意識もない一つの書写機械に過ぎん。
自らそう思い込む以外に道はなかった。
無理でも彼はそう思おうとした。
終始の仕事は必ず続けなければならん。
これは彼にとって絶対であった。
終始の仕事の続けられるためには、いかに耐えがたくとも生きながらえねばならん。
生きながらえるためには、どうしても完全に身を亡き者と思い込む必要があったのである。
五月のうち、柴銭は再び筆を取った。
喜びも興奮もない、ただ仕事の完成への意思だけに夢中たれて、
傷ついた足を引きずりながら目的地へ向かう旅人のように、とぼとぼと行を継いでゆく。
もはや大司令の役は免ずられていた。
いささか後悔した舞艇が、しばらくのうちに彼を抽象例に取り立てたが、感触のちゅっちょくのごときは彼にとっても何の意味もない。
以前の論客柴銭は一切口を開かずなった。
笑うことも怒ることもない。しかし決して肖然たる姿ではなかった。
むしろ何か悪霊にでも取り憑かれているような凄まじさを、人々は感目せる彼の風貌の中に見てとった。
夜寝る時間も申しんで彼は仕事を続けた。
一刻も早く仕事を完成し、その上で早く自殺の自由を得たいと焦っている者のように柴銭らには思われた。
戦いと友情の芽生え
生産の努力を一年ばかり続けた後、ようやく生きることの喜びを失い尽くした後も、なお表現することの喜びだけは生き残り得るものだということを彼は発見した。
しかしその頃になってもまだ彼の完全な沈黙は破られなかったし、風貌の中の凄まじさも全然和らげられはしない。
行を続けていくうちに患者とか縁度とかいう文字を書かなければならぬところに来ると、彼は覚えず呻き声を発した。
一人、居室にいる時でも夜、症状に予報になった時にでも、ふとこの屈辱の思いがきざしてくると、たちまちカーッと焼き骨を当てられるような熱い疼くものが全身を駆け巡る。
彼は思わず飛び上がり、気勢を発し、呻きつつ辺りを歩き回り、さてしばらくしてから歯を食いしばって己を落ち着けようと努めるのである。
3. 乱軍の中に気を失った李陵が、十四を灯し十分を絶えた前右の長棒の中で目を覚ました時、とっさに彼は心を決めた。
自ら首をはねて恥ずかしみを免れるか、それとも今一応敵に従っておいて、そのうちに気を見て脱走する。
敗軍の責を償うに足る手柄を土産として、か、この二つのほかに道はないのだが、李陵は後者を選ぶことに心を決めたのである。
前右は手図から李陵の名はを説いた。その後の敗軍も定調を極めた。
祖帝皇前右として先代の栗子前右の弟だが骨格のたくましい巨岩射箋の中年の偉丈夫である。
数代の前右に従って勘と戦っては来たが、まだ李陵ほどの手強い敵に遭ったことはないと正直に語り、陵の祖父李公の名を引き合いに出して陵の前線を褒めた。
虎を格殺したり、岩に矢を立てたりした秘将軍李公の行名は今もなお古地にまで語り伝えられている。
陵が降宮を受けるのは彼が強き者の子孫であり、また彼自身も強かったからである。
食を分ける時も競争者が美味を取り老弱者が余り物を与えるのが郷土の風であった。ここでは強き者が恥ずかしめられることは決してない。
皇将李陵は一つの給露と数十人の持者等を与えられ貧客の礼をもって偶数られた。
李陵にとってきいな生活が始まった。
家は重町給露、食物は鮮肉、飲み物は楽勝と重乳と乳作酒、着物は狼や羊や熊の革を綴り合わせた鮮旧、牧畜と狩猟と攻略とこの墓に彼らの生活はない。
一望災害のない高原にも、しかし川や湖や山々による境界があって、
前右直轄地のほかは左建王、右建王、左六里王、右六里王以下の諸王皇の領地に分けられており、
牧民の移住は各々その境界の中にかけられているのである。
城郭もなければ田畑もない国。村落はあってもそれが季節に従い、水草を追って土地を買える。
李陵には土地は与えられない。
前右帰化の諸将とともにいつも前右に従っていた。
好きがあったら前右の首でも、と李陵は願っていたが容易に機会が来ない。
たとい前右を打ち果たしたとしても、その首を持って脱出することは非常な機会に恵まれない限りまず不可能であった。
墓地にあって前右と差し違えたのでは、郷土は己の不名誉をうやむやのうちに葬ってしまうこと必要ゆえ、おそらく勘に聞こえることはあるまい。
李陵は辛抱強くその不可能とも思われる機会の到来を待った。
前右の幕下には李陵のほかにも漢の後人が幾人がいた。
その中の一人、
英立という男は軍人ではなかったが、帝霊王の位をもらって最も重く前右に用いられている。
その父は故人だが、ゆえあって英立は漢の都で生まれ成長した。
武邸に仕えていたのだが千年、
強立といい李延年の地に座するのを恐れて逃げて郷土に帰したのであれ。
血が血だけに古風に馴染むことも早く、相当の細物でもあり、
常に蘇帝皇前右の威厄に賛じて全ての画作に預かっていた。
李陵はこの英立をはじめ漢人の下って郷土の中にあるものとほとんど口を聞かなかった。
彼の頭の中にある計画についてことを伴にすべき人物がいないのと思われたのである。
そういえば他の漢人同士の間でもまた、
互いに妙に気まずいものを感じるらしく相互に親しく交わることがないようであった。
一度、前右は李陵を呼んで軍略上の子協をこうたことがある。
それは統合に対しての戦いだったので、李陵は心よくお長い意見を述べた。
次に前右が同じような相談を持ちかけたとき、それは漢軍に対する策略についてであった。
李陵ははっきりと嫌な表情をしたまま口を開こうとしなかった。
前右も強いて返答を求めようとしなかった。
それからだいぶ久しくたった頃、第上軍を攻略する軍隊の一生として難航することを求められた。
このときは漢に対する戦いには出られない旨を言ってきっぱり断った。
時後、前右は李陵に再びこうした要求をしなくなった。
待遇は依然として変わらない。
他に利用する目的はなく、ただ死を偶するために死を偶しているのだとしか思われない。
とにかくこの前右は男だと李陵は感じた。
前右の調子、左建王が妙に李陵に好意を示し始めた。
好意というより尊敬といったほうが近い。
二十歳を越したばかりの素家ではあるが勇気のある真面目な青年である。
強き者への賛美が実に純粋で強烈なのだ。
はじめ李陵のところへ来て騎車を教えてくれという。
騎車といっても、木のほうは陵に劣らぬほどうまい。
ことに、ラバを刈る技術に至っては遥かに陵をおしのいでいるので、李陵はただ車だけを教えることにした。
左建王は熱心な弟子となった。
陵の祖父李公の社における入心の技などを語るとき、万俗の青年は瞳を輝かせて熱心に聞き入るのである。
よく二人して狩猟に出かけた。
ほんのわずかな友回りを連れただけで、二人は獣王に。
荒野を疾苦しては、狐や狼やカモシカやオオトリやキジなどを射た。
ある時など夕暮れ近くになっても矢も突きかけた二人が、
二人の馬は友のものを遥かに駆け抜いていたので、一群の狼に囲まれたことがある。
馬にムチ打ち全速力で狼群の中を駆け抜けて逃れたが、
その時李陵の馬の尻に飛びかかった一匹を後ろにかけていた青年左建王が腕刀を持って見事に胴斬りにした。
あとで調べると二人の馬は狼どもに噛み刺されて血だらけになっていた。
そういう一日の後、夜天幕の中で今日の獲物を厚物の中にぶち込んで、ふうふう吹きながらすするとき、
李陵は穂陰に顔をほてらせた若い蛮王の息子に、ふと友情のようなものをさえ感じることがあった。
転換三年の明けに強度がまたもや岩門を犯した。
これに報いるとて、翌四年、漢は自治将軍李功利に騎六万、穂七万の大軍を授けて作法を置いてしめ、
穂卒一万を率いた強度都尉魯伯徳にこれを助けしめた。
家族の悲劇
引いて陰武将軍康尊豪は騎一万、穂三万をもって岩門を、
幽激将軍関節は穂三万をもって五原をそれぞれ侵発する。近来にない大北伐である。
禅吾はこの法に接するや、直ちに富壮、老陽、畜原、志在の類をことごとく処ごすい、
ケルレン川北方の地に移し、自ら十万の聖騎を率いて李功利、老伯徳の軍を水南の大草原に向かい打った。
連戦十四日。漢軍は遂に支離族のやむなきに至った。
李良に支持する若干左謙王は別に一隊を率いて東方に向かい、陰武将軍を迎えて散々にこれを破った。
漢軍の左翼たる関節の軍もまた得るところなくして兵を引いた。北伐は完全な失敗である。
李良は例によって関東の戦いには陣頭には現れず、水北に支離届いていたが、
左謙王の戦績を密かに気遣っている己を発見して愕然とした。
もちろん全体としては漢軍の成功と京都の敗戦等を望んでいたに違いないが、
どうやら左謙王だけは何か負けさせたくないと感じていたらしい。
李良はこれに気が付いて激しく己を責めた。
その左謙王に打ち破られた甲村豪が都に帰り、子卒を多く失って功がなかったとの過度で老に繋がれた時、妙な弁解をした。
敵の捕虜が京都軍の強いのは、漢から下った李将軍が常々兵を練り軍力を授けてもって漢軍に備えさせているからだと言ったというのである。
だからといって自分が負けたことの弁解にはならないから、もちろん陰雲将軍の罪は許されなかったが、これを聞いた武帝が李良に対し激怒したことは言うまでもない。
一度許されて家に戻っていた李良の一族は再び獄に治められ、今度は李良の老母から妻、子、弟に至るまでことごとく殺された。
軽薄なる世人の常とて、当時老生、李良の家は老生の出である、の主体不良、皆李家を出したことを恥としたと記されている。
この知らせが李良の耳に入ったのは半年ほど後のこと。返協から出し去れた一貫卒の口からである。
それを聞いた時、李良は立ち上がってその男の胸倉をつかみ、荒々しくゆすぶりながら事の真偽をいまいちお確かめた。
確かに間違いのないことを知ると、彼は歯を食いしばり思わず力を両手に込めた。男は身をもがいて苦悶のうめきを漏らした。
李良の手が無意識のうちにその男の陰光を訳していたのである。李良が手を離すと男はばったり地に倒れた。
その姿に目もやらず、李良は張房の外へ飛び出した。
めちゃくちゃに彼は脳を歩いた。激しい息通りが頭の中で渦巻いた。老母や幼児のことを考えると心はやけるようであったが涙は一滴も出ない。
あまりに強い怒りは涙を枯渇させてしまうのであろう。
今度の場合には限らぬ。今まで我が一家はそもそも官からどのような扱いを受けてきたか。
彼は祖父の李公の最後を思った。
李良の成長と戦いの始まり
李良の父、東郷は彼が生まれて数ヶ月前に死んだ。李良はいわゆる遺腹の児である。
だから少年時代までの彼を教育し鍛え上げたのは有名なこの祖父であった。
名将李公は数児の北伐に対抗を立てながら、黄身側の官名に妨けられて何一つ御所に預からなかった。
部下の諸将が次々に釈意広報を得ていくのに、連結な将軍だけは方向は愚か、終始変わらぬ製品に甘んじゃなければならなかった。
最後に彼は大将軍英勢と衝突した。
さすがに英勢にはこの老将をいたわる気持ちはあったのだが、その馬鹿の一軍李が虎の尾を借りて李公を恥ずかしめた。
奮撃した老名将はすぐその場で陣営の中で自ら首をはねたのである。
祖父の死を聞いて声を上げて泣いた少年の日の自分を梁は未だにはっきりと覚えている。
梁の叔父、李公の次男、李冠の最後はどうか。
彼は父将軍の惨めな死について英勢を恨み、自ら大将軍の屋敷に赴いてこれを恥ずかしめた。
大将軍の尾に当たる兵器将軍各巨兵がそれを行き通って、艦船級の梁の時に李公を射殺した。
武帝はそれを知りながら兵器将軍をかばわんがために李公は鹿の角に触れて死んだと発表させたのだ。
柴戦の場合と違って李梁の方は簡単であった。憤怒がすべてであった。
李良の悩みと決意
無理でももう少し早くかねての計画、前右の首でももって故郷を脱出するという実行をすればよかったという悔いを除いては、
ただそれをいかにして表すかが問題であるにすぎない。
彼は戦国の男の言葉、「故地にあって李将軍が兵を教え、艦に備えていると聞いて陛下が激怒され云々。」を思い出した。
ようやく思い当たったのである。
もちろん彼自身にそんな覚えはないが、同じ艦の交渉に李書というものがある。
元災害統一として慶公城を守っていた男だから、これが京都に下ってから常に国軍に軍力を授け兵を練っている。
現に半年前の軍にも前右に従って問題の交渉号の軍とではないが艦軍と戦っている。
これだと李良は思った。同じ李将軍で李書と間違えられたに違いないのである。
その晩彼は単身李書の町幕へと赴いた。一言も言わぬ。一言も言わせぬ。ただの人差しで李書は倒れた。
翌朝李良は前右の前に出て事情を打ち明けた。
心配はいらん。と前右は言う。
だが母の大塩氏が少々うるさいから、というのは相当の老齢でありながら前右の母は李書と習慣系があったらしい。
前右はそれを承知したのである。
京都の風習によれば父が死ぬと長子たる者が亡き父の最小の全てをそのまま引き継いで斧が最小とするのだが、さすがに聖母だけはこの中にはいらない。
産の母に対する尊敬だけは極端に男尊女卑の彼らでも持っているのである。
今しばらく北方へ隠れていてもらいたい。
おとぼりが冷めた頃に向かおうやるから。と付け加えた。
その言葉に従って李良は一時従者どもを連れ、西北の東漢山、
学林達般嶺の麓に身をよけた。
間もなく問題の大塩氏が病死し、前右の帝に呼び戻された時、李良は人間が変わったように見えた。
というのは、今まで漢に対する軍略にだけは絶対に預からなかった彼が、自ら進んでその相談に乗ろうと言い出したからである。
前右はこの変化を見て大いに喜んだ。
再会と変化
彼は李を吾皇王に任じ、小野川娘の一人を目合わせた。
娘を妻にという話は以前にもあったのだが、今まで断り続けてきた。
それを今度は躊躇なく妻としたのである。
ちょうど朱仙町駅の辺を攻略すべく南に出ていく一軍があり、李は自らこうてその軍に従った。
しかし西南へととった進路が、たまたま春景山の麓をよぎった時、さすがに李の心は曇った。
かつてこの地で己に従って戦死した部下どものことを考え、
彼らの骨が埋められ、彼らの血の染み込んだその砂の上を歩きながら、今の己が身の上を思うと、
彼はもはや難攻して官兵と戦う勇気を失った。
病と称して彼は一人北方へ馬を返した。
翌太子元年。
祖帝公禅右が死んで、領と親しかった左賢王が後を継いだ。
孤六孤禅右というのがこれである。
郷土の右向を謳る李の心は未だにはっきりしない。
母、最初属滅された恨みは骨髄に徹しているものの、
自ら兵を率いて官と戦うことができないのは、先頃の経験で明らかである。
再び官の血を踏む前とは誓ったが、この郷土の底に課して朱聖へ休んじていられるかどうかは、
親禅右への友情をもってしてもまださすがに自信がない。
考えることの嫌いな彼は、
イライラしてくるといつも一人春明を飼って荒野へ飛び出す。
終点一壁の下、カツカツと蹄の音を響かせて、
草原と鳴く丘陵と鳴く狂気のように馬を駆けさせる。
何十里かぶっ飛ばした後、馬も人もようやく疲れてくると、
荒原の中の小川を求めてそのほとりに下り、馬に水かう。
それから己は草の上に仰向けに寝転んで、
心よい疲労感にうっとり見上げる壁楽の清さ、高さ、広さ。
ああ、我も天地間の一竜子のみ。
なんぞ、また関都、古都、阿蘭野都、ふとそんな気のすることもある。
ひとしきり休むとまた馬にまたがり、がむしゃらに駆け出す。
終日乗り疲れ、幸運が楽器にくんずる頃になってようやく彼は幕営に戻る。
疲労だけが彼のただ一つの救いなのである。
しばせんが両親のために弁じて罪を得たことを伝えるものがあった。
李涼は別にありがたいとも気の毒だとも思わなかった。
しばせんとは互いに顔は知っているし、挨拶をしたことはあっても特に交わりを結んだというほどの間柄ではなかった。
むしろ嫌に議論ばかりしてうるさい奴だぐらいにしか感じていなかったのである。
それに現在の李涼は他人の不幸を実感するにはあまり自分一個の苦しみと戦うのに懸命であった。
余計なスワートまでは感じなかったにしても特にすまないと感じることがなかったのは事実である。
はじめ一概に野火滑稽としか映らなかったコチの風俗が、しかしそのうちの実際の風土、気候等を背景として考えてみると決して野火でも不合理でもないことが次第に李涼に飲み込めてきた。
暑い非覚醒の古服でなければ昨冬の冬はしのげないし、肉食でなければコチの寒冷に耐えるだけの精力を蓄えることができない。
固定した家屋を築かないのも彼らの生活形態から来た必然で、頭から低級と懸し去るのは当たらない。
肝心の風をあくまで保とうとするならコチの自然の中での生活は一日といえども続けられないのである。
かつて仙台の祖帝公禅宇の言った言葉を李涼は覚えている。
漢の人間が二言目には小野賀国を礼儀の国だと言い、強度の行いをもって金銃に近いとみなすことを難じて禅宇は言った。
肝心の言う礼儀とは何ぞ。
醜いことを表面だけ美しく飾り立てる虚色の優位ではないか。
李を好み人を妬むこと、漢人と古人といずれか鼻肌色。
色にふけり罪を貪ること、またいずれか鼻肌色。
上辺を剥ぎ去れば卑怯何らの違いはないはず。
ただ漢人はこれを誤魔化し飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ、と。
漢書以来の骨肉愛憾内乱や後神殿の廃石廃棺の後を礼に率いてこう言われた時、李涼はほとんど返す言葉に急した。
実際、武人たる彼は今までにも、反作な礼のための礼に対して疑問を感じたことが一切ならずあったからである。
確かに古族の添やな正直さの方が美名の陰に隠れた漢人の陰厳さより遥かに好ましい場合がしばしばあると思った。
諸家の俗を正しき者、古族を癒しき者と頭から決めてかかるのはあまりにも漢人的な偏見ではないかと主宰に李涼はそんな気がしてくる。
例えば、今まで人間には何の他にあざながなければならぬものとゆえもなく信じきっていたが、考えてみればあざなが絶対に必要だという理由はどこにもないのであった。
彼の妻はすこぶる大人しい女だった。
未だに主人の前に出るとおぞおぞして毒に口も聞けない。
しかし彼らの間に出来た男の子は少しも父親を恐れないでよしよしと李涼の膝に這い上がってくる。
その子の顔に見入りながら数年前長安に残してきた、そして結局母や祖母と共に殺されてしまった子供の面影をふと思い浮かべて李涼はわれ知らず無禅とするのであった。
涼が京都に下るよりも早く、ちょうどその一年前から漢の駐郎将祖部が故地に引き止められていた。
元来祖部は平和の施設として捕虜交換のために使わされたのである。
ところがその副志望がたまたま京都の内紛に関係したために施設団全員が捕らえられることになってしまった。
禅は彼らを殺そうとはしないで死をもって脅かしてこれを下らしめた。
ただ祖部一人は幸福を我縁じないばかりか恥ずかしめを避けようと自ら剣を取って斧が胸を貫いた。
昏倒した祖部に対する恋の手当というのがすこぶる変わっていた。
血を掘って穴を作り、雲花を入れてその上に勝者を寝かせてその背中を踏んで血を出させたと感情には示されている。
この荒良事のおかげで不幸にも祖部は半日昏厥した後また息を吹き返した。
祖帝公禅はすっかり彼に惚れ込んだ。
数春の後ようやく祖部の体が回復すると、例の金神エイリツをやってまた熱心に下りを進めさせた。
エイリツは祖部が徹下の針に遭いすっかり恥をかいて手を引いた。
その後祖部が穴倉の中に遊兵された時、扇毛を雪にはして喰らいもって上をしのいだ話や、
遂に北海、ヴァイカルコのほとり、人なき所に移されてお羊が父を出さば帰るを許さんと言われた話は、
時節十九年の彼の名と共にあまりにも有名だからここには述べない。
とにかくリリオが悶々の余生を墓地に埋め合おうとようやく決心せざるを得なくなった頃、
祖部はすでに久しく北海のほとりで一人羊を牧していたのである。
リリオにとって祖部は二十年来の友であった。かつて時を同じようにして利中を務めていたこともある。
堅い地で捌けないところはあるにせよ、確かに稀に見る黄骨の死であることは疑いないとリョーは思っていた。
転換元年に祖部が来たりたってから間もなく、武の老母が病死した時もリョーは養老までその葬を送った。
祖部の妻が夫の再び帰る見込みなしと知って去って竹に貸した噂を聞いたのは、リョーの北伐出発直前のことであった。
その時リョーは友のためにその妻の腐縛を痛く生き通った。
しかし、はがらずも自分が郷土に下るようになってからのちは、もはや祖部に会いたいとは思わなかった。
武が遥か北方に伝えて顔を合わせずに住むことはむしろ助かったと感じていた。
ことに己の家族が履行されて再び館に戻る気持ちを失ってからは、いっそこの間接を持した牧養者との面接を避けたかった。
コロクコ全羽が父の後を継いでから数年後、一時祖部が生死不明との噂が伝わった。
父全羽がついに降伏させることのできなかったこの腐屈の患者の存在を思い出したコロクコ全羽は、
祖部の安否を確かめるとともに、もし健在ならば今一度降伏を勧告するようリリオに頼んだ。
リョーが、武の友人であることを聞いていたのである。
思えずリョーは北へ向かった。
コジョスイを北に遡り、シッキョスイとの合流点からさらに西北に森林地帯を突っ切る。
まだ所々に雪の残っている川岸を進むこと数日。
ようやく北海の青い水が森と野戸の向こうに見え出した頃、
この地方の住民になる定霊族の案内人はリリオの一行を一見の哀れな丸太小屋へと導いた。
小屋の住人が珍しい人声に驚かされて弓矢を手に表へ出てきた。
頭から毛皮をかぶったヒゲボウボウの熊のような山男の顔の中に、
リリオがかつてのイチュウキュウカン素子系の面影を見出してからも、
先方がこの古服の体感を前にきとい理性系と認めるまでにはなおしばらくの時間が必要であった。
祖父の方ではリョーが強度に疲れていることも全然聞いていなかったのである。
感動がリョーのうちにあって、今まで仏との会見を避けさせていたものを一瞬圧倒して去った。
二人ともはじめほとんどものが言えなかった。
リョーの友回りどもの給料はいくつかあたりに組み立てられ、無人の郷が急ににぎやかになった。
用意してきた主食が早速小屋に運び入れられ、夜は珍しい鑑賞の声が森の長寿を驚かせた。
滞在は数日にわたった。
尾野が古服を的に至った事情を話すことはさすがにつらかった。
祖父の苦しみと運命
しかしリリオは少しも弁解の調子を交えずに事実だけを語った。
祖父がさりげなく語るその数年間の生活は全く惨憺たるものであったらしい。
何年か以前に京都の汚犬王が寮をするとてたまたまここを過ぎ、祖父に同情して三年間続けて衣服、食料等を給与してくれたが、
その汚犬王の死後は凍てついた大地から野ネズミを掘り出して上をしながらければならない始末だという。
彼の生死不明の噂は彼の養っていた畜群が兵道どものために一匹残らずさわられてしまったことの過伝らしい。
寮は祖父の母の死んだことだけは告げたが、妻が子を捨てて竹へ行ったことはさすがに言えなかった。
この男は何を目当たに生きているのかとリリオは怪しんだ。
いまだに神に帰れる日を待ち望んでいるのだろうか。
祖父の口裏から察すれば今さらそんな期待は少しも持っていないようである。
それでは何のためにこうした惨憺たる日々を絶えしのんでいるのか。
善うに幸福を申し出れば重く用いられることは受け合いだが、それをする祖父ではないことは初めからわかりきっている。
寮の怪しむのは、なぜ早く自ら生命を絶たないのかという意味であった。
リリオ自身が希望のない生活を自らの手で断ち切り得ないのは、
いつの間にかこの地に根を下ろしてしまった数々の恩愛や義理のためであり、
また今さら死んでも確別観のために義を立てることにもならないからである。
祖父の場合は違う。
彼にはこの地での経類もない。
観長に対する忠心という点から考えるならば、
いつまでも絶望を持して荒野に植えるのと、
直ちに絶望を焼いて後に自ら首をはねるとの間に別に差異はなさそうに思われる。
初め捕らえられた時、いきなり自分の胸を刺した祖父に、
今となって急に死を恐れる心がきざしたとは考えられない。
リリオは若い頃の祖父の堅い授業、滑稽なくらい強情な痩せ我慢を思い出した。
善うは映画を絵に、極度の困窮の中から祖父を連ろうと試みる。
絵に釣られるのはもとより苦難に絶えずして自ら殺すこともまた善うに、
あるいはそれによって象徴される運命に負けることになる。
祖父はそう考えているのではなかろうか。
運命と意地の張り合いをしているような祖父の姿が、
しかしリリオには滑稽や精神には見えなかった。
想像を絶した困苦、絶望、骨幹、孤独を、
しかもこれから死に至るまでの長い間を平然と消殺して生かせるものが意地だとすれば、
この意地こそは誠に凄まじくも壮大なものと言わねばならん。
昔の多少は大人げなく見えた祖父の痩せ我慢が、
かかる大我慢にまで成長しているのを見てリリオは驚嘆した。
しかもこの男は自分の行いが勘にまで知られることを予期していない。
自分が再び勘に迎えられることはもとより、
自分がかかる無人の地で困苦と戦いつつある勘は居るか、
強度の善うにさえ伝えてくれる人間の出てくることも期待していなかった。
誰にも見とられずに一人死んでゆくに違いないその最後の日に、
自ら借りみて最後まで運命を消殺し得たことに満足して死んで行こうというのだ。
誰一人、己が事跡を知ってくれなくても差し支えないというのである。
リリオの葛藤
リリオは、かつて仙台善うの首を狙いながらその目的を果たすとも、
自分がそれをもって強度の地を脱走しえなければ、せっかくの行いは虚しく、
勘にまで聞こえないであろうことを恐れて、ついに結婚の機を握り出しえなかった。
人に知られざることを憂えぬ祖父を前にして、彼は密かに冷や汗の出る思いであった。
最初の感動が過ぎ、二日三日と経つうちに、
リリオの中にやはり一種のこだわりができてくるのをどうすることもできなかった。
何を語るにつけても己の過去と祖父のそれとの対比がいちいち引っかかってくる。
祖父は偽人、自分は売国度とそれほどはっきり考えはしないけれども、
森と野と水との沈黙によって多年の間鍛え上げられた祖父の厳しさの前には、
己の行為に対する唯一の弁明であった今までの我が苦悩のごときは、
ひとたまりもなく圧倒されるのを感じないわけにはいかない。
それに気のせいか、日にちが経つにそれ、祖父の己に対する態度の中に、
何か負者が貧者に対するときのような、
己の優越を知った上で相手に寛大であろうとするものの態度を感じ始めた。
どことはっきりは言えないが、どうかした表紙にひょいとそういうものの感じられることがある。
ボロをまとうた祖父の眼の中に、ときとして浮かぶかすかな憐憫の色を、
豪奢な長急をまとうた憂うをリリオは何よりも恐れた。
十日ばかり滞在した後、リリオは旧友に別れて小前と南へ去った。
食料衣服の類は十分森の間抜き小屋に残してきた。
リリオは前有からの異色たる幸福感覚についてはとうとう口を切らなかった。
祖父の答えは問うまでもなく明らかなのであるものを、
何も今さらそんな感覚によって祖父をも自分をも恥ずかしめるには当たらないと思ったからである。
南に帰ってからも祖父の存在は一日も彼の頭から去らなかった。
離れて考えるとき、祖父の姿はかえって一層厳しく彼の前にそべえているように思われる。
リリオ自身、共同への幸福という己の行為を良しとしているわけではないが、
自分の故国に尽くした後と、それに対して故国の己に報いたところ等を考えるなら、
いかに無情な批判者といえども、なおそのやもうえなかったことを認めるだろうとは信じていた。
ところが、ここに一人の男があって、いかにやもうえないと思われる事情を前にしても、
断じて自らにそれはやもうえんのだという考え方を許そうとしないのである。
飢餓も、寒苦も、孤独の苦しみも、祖国の冷淡も、
己の季節がついに何人にも知られないだろうというほとんど確定的な事実も、
この男にとって平成の節儀を改めなければならぬほどのやもうえの事情ではないのだ。
祖部の存在は彼にとって崇高な勲会でもあり、苛立たしい役務でもあった。
時々彼は人を使わせて祖部の安否を飛ばせ、食品、牛、羊、銃銭を贈った。
祖部を見たい気持ちと避けたい気持ちとが彼の中で常に戦っていた。
数年後、今一度リリオは北海のほとりの丸木小屋を訪ねた。
その時途中で雲中の北方を守る英兵らに会い、
彼らの口から近頃漢の辺境では大衆以下利民が身の白服を着けていることを聞いた。
帰郷と新たな出発
人民がことごとく服を白くしているとあれば天使の門に沿いない。
リリオは武帝の報じたのを知った。
北海のほとりに至ってこのことを告げた時、祖部は南に向かって豪酷した。
同国数日、ついに朝白に至った。
その有様を見ながらリリオは次第に暗く沈んだ気持ちになっていった。
彼はもちろん祖部の同国の親しさを疑うものではない。
その純粋な激しい悲嘆には心を動かされずにはいられない。
だが自分には今一滴の涙も浮かんでこないのである。
祖部はリリオのように一族を売り癖られることこそなかったが、
それでも彼の兄は天使の行列に際してちょっとした交通事故を起こしたために
また彼の弟はある犯罪者を捉ええなかったことのために
共に責を負って自殺させられている。
どう考えても漢の長から拘禁されていたとは承知がたいのである。
それを知っての上で、今目の前に祖部の純粋な通告を見ているうちに
以前にはただ祖部の強烈な意地とのみ見えたものの底に
実は例えようもなく清烈な純粋な漢の国土への愛情。
それは義とか説とか他から押し付けられたものではなく
押さえようとして押さえられぬ根根と常に湧き出る
最も新鮮な自然な愛情が称えられていることをリリオは初めて発見した。
リリオは己と友とを隔てる根本的なものにぶつかって
いやでも己自身に対する暗い懐疑に追いやられざるを得ないのである。
祖部のところから南へ帰ってくると、ちょうど漢からの使者が到着したところであった。
武帝の使徒、将帝の即位とを奉じて方々当分の友好関係を。
常に一年とは続いたことのない友好関係だったが結ぶための平和の施設である。
その使いとしてやってきたのが計らずもリリオの友、老生の陣立成ら三人であった。
その年の二月、武帝が奉じてわずか八歳の大使仏良が暗いおつぐや
異常によって受注法者問い、各校が大柴大将軍として祭り事を助けることになった。
各校はもとリリオと親しかったし、左将軍となった上官傑もまた良の故人であった。
この二人の間に良を呼び返そうとの相談が出来上がったのである。
今度の使いにわざわざ良の昔の友人が選ばれたのはそのためであった。
前有の前で使者の表向きの用が済むと盛んな主演が張られる。
いつもは英立がそうした場合の接待役を引き受けるのだが今度はリリオの友人が来た場合とて彼も引っ張り出されて宴に連なった。
陣立成は良を見たが郷土の大関連の並んでいる前で官に帰れとは言えない。
席を隔ててリリオを見ては目配せをししばしば己の当官を撫でて安にその意を伝えようとした。良はそれを見た。
先方の伝えんとするところもほぼ察した。しかしいかなる仕草を持って答えるべきかを知らない。
公式の宴が終わった後でリリオ英立らばかりが残って牛首と幕戯等を持って官司をもてなした。
その時陣立成が良に向かって言う。官では今や大謝礼がおり番民は大変の人生を楽しんでいる。
新帝は未だ幼少のこととて君が呼吸たる各志望上官省宿が首相を助け天下のことを用ることとなったと。
立成は英立をもて完全に個人になりきったものと見なして事実それに違いなかったがその前ではあからさまに良を説くのをはばかった。
ただ各公と上官県との名を挙げて良の心を引こうとしたのである。良は黙して答えない。
しばやく立成を熟視してから己が紙を撫でた。その紙も追計とてすでに中国の風ではない。
ややあって英立が服を変えるために座を退いた。
初めて隔てのない調子で立成が良のあざ名を呼んだ。
将棋よ、他年の苦しみはいかばかりだったか。各志望と上官省宿からよろしくとのことであったと。
その二人の安否を問い返す良のよそよそしい言葉に追っかぶせるようにして立成が再び言った。
将棋よ、帰ってくれ。風紀などは言うに足りぬではないか。どうか何も言わずに帰ってくれ。
祖母のところから戻ったばかりのこととて、立成も友の切なる言葉に心が動かぬではない。
しかし考えてみるまでもなくそれはもはやどうにもならぬことであった。
帰るのは安い。だが、また恥ずかし目を見るだけのことではないか。いかん。
言葉半ばにして英立が座に帰ってきた。二人は口をつぐんだ。
甲斐が三時で別れ去るとき、陣立成はさり気なく良のそばに居ると、
訂正でついに帰りに言い泣き屋をいま一度尋ねた。良は頭を横に振った。
丈夫再び恥ずかしめられるあたわずと答えた。
その言葉がひどく元気のなかったのは英立に聞こえることを恐れたためではない。
後五年、承定の四元六年の夏、このまま人に知られず北方に休止すると思われた祖母が偶然にも甲斐に帰れることになった。
甲斐の天使が上林園中で居た狩りの足に、祖母の白書がついていた云々というあの有名な話は、
もちろん祖母の死を主張する善悟を切破するための出鱈目である。
十九年前、祖母に従って故地に来た上景という者が、
監視にあって祖母の生存を知らせ、この嘘を持って武を救い出すように教えたのであった。
早速北海の上に使いが飛び、祖母は善悟の帝に連れ出された。
李陵の心はさすがに動揺した。
再び艦に戻れようと戻る前と祖母の偉大さには変わりなく、
したがって陵の心の下とたるに変わりはないと違いないが、
しかし天はやっぱり見ていたのだという考えが李陵を痛く打った。
見ていないようでやっぱり天は見ている。
彼は祝禅として恐れた。
今でも己の過去を決して非なりとは思わないけれども、
李陵の心の葛藤
なおここに祖母という男があって、無理ではなかったはずの己の過去をも恥ずかしく思わせることを堂々とやってのけ、
しかもその後が今や天下に検証されることになったという事実は何としても李陵には応えた。
胸を掻きむしられるようなむめしい己の気持ちが善望ではないかと李陵は極度に恐れた。
別れに臨んで李陵は友のために宴を張った。
言いたいことは山ほどあった。
しかし結局それは戸に下った時の己の志がなへんにあったかということ。
その志を行う前に故国の一族が戮せられてもはや帰るに良しなくなった事情とに尽きる。
それを言えば愚痴になってしまう。
彼は一言もそれについては言わなかった。
ただ縁丈縄にして耐えかねて立ち上がり、参かつ謳うた。
万里を行き過ぎ砂漠を渡る。
君のため将となって郷土にふるう。
道急絶し死人句だけ。
死守滅びなすでに落つ。
老母すでに死す。恩に報いんとほするもまた何処にか帰らん。
唄っているうちに声が震え涙が頬を伝わった。
めめしいぞと自ら叱りながらどうしようもなかった。
祖父は十九年ぶりで祖国に帰って行った。
柴銭はその後も詩詩として書き続けた。
このように生きることをやめた彼は書中の人物としてのみ生きていた。
現実の生活では再び開かれることのなくなった彼の口が
露中蓮の絶誕を借りて初めて烈々と火を吹くのである。
あるいは御師匠となって骨が眼をえぐらしめ、
あるいは林少女となって親王を失し、
あるいは大使団となって泣いて経過を送った。
その屈言の鬱憤を除してそのまさにべきなり身を当然として作るところの
解散の符を長々と引用した時、
柴銭にはその符がどうしても己自身の作品のごと聞きがして仕方がなかった。
功を起こしてから十四年。
不敬の災いに遭ってから八年。
都では不幸の悟空が起こり、
令太子の悲劇が行われていた頃、
不死僧伝のこの著述がだいたい最初の構想通りの通しが一通り出来上がった。
これに増法・解散・崇高を加えているうちにまた数年が経った。
四季百三十巻。
五十二万六千五百字が完成したのはすでに武帝の奉迎に近い頃であった。
烈伝。
第七十大司公辞書の最後の筆を置いた時、
柴銭は木に寄ったまま呆然とした。
深いため息が腹の底から出た。
目は帝禅の縁寿の茂みに向かってしばらくはいたが、
実は何者も見ていなかった。
虚ろな耳で、それでも彼は庭のどこからか聞こえてくる一匹の蝉の声に耳を澄ましているように見えた。
喜びがあるはずなのに気の抜けた漠然とした寂しさ、不安の方が先に来た。
完成した著作を館に収め、父の墓前にその報告をするまではそれでもまだ気が張っていたが、
それらが終わると急にひどい虚雑の状態が来た。
憑依の去った不捨のように身も心もぐったりと崩れ、
まだ六十を出たばかりの彼が急に十年も年を取ったように老けた。
武邸の奉迎も、省庭の即位も、かつての崎の大司令しばせんの抜け殻にとっては、もはや何の任務も持たないように見えた。
前に述べた陣立政らが故地に履領を訪ねて再び都に戻ってきた頃は、しばせんはすでにこの世にいなかった。
歴史の影響と結末
祖父と別れた後の履領については何ひとつ正確な記録は残されていない。
元兵元年に故地で死んだということのほかは、すでに早く彼と親しかった小六湖禅雲は死に、
その子、小炎帝禅雲の代となっていたが、その即位に絡んで佐賢王、兀六里王の内分があり、
縁司や英立らと対抗して履領も心ならずもその紛争に巻き込まれたろうことは想像に堅くない。
関所の郷土殿には、その後履領の故地で設けた子が右脊問いを立てて禅雲とし、
古漢や禅雲に対抗してついに失敗した旨が記されている。
先帝の御法二年のことだから履領が死んでからちょうど十八年目にあたる。履領のことあるだけで名前は記されていない。
1968年発行 門川書店 門川文庫 履領三月記 帝司 明神殿
より独領読み終わりです。
いやー大変でしたねー。
すごいですねー。
三国志好きなんだけど、これだけ漢字多いと大変でした。
各巨兵って出てきたので、これの人は多分紀元前の人ですね。
みんな知ってると思う三国志ってあれ西暦200年ぐらいなんですよ、この話なんですよ。
漢字の漢と書いた後漢、後ろの漢の時代なんですよね、三国志って。漢が崩れていってどうなるでわちゃわちゃしていくんですけど、
今の読み上げた話は前漢の時代ですね、もっと前、紀元前100年ぐらいの話ですね。
日本がまだ卑弥呼とかやってるより前の時代の話だから大陸ってのはすごいですよね。
しっかしまあ難しかったな。
あと皆さんもね、音で聞いてるとどの漢字が当てられるかわからないでしょう。
いちいち全部漢字も難しいしね。
気になった方は原本一時資料に当たってみてください。
SpotifyやAppleの読み上げ、AI読み上げでは正しい漢字は変換されていないと思います。
リリオの話と柴瀬の話ね。
柴瀬ね。
という話でした。
いかがでしたでしょうか。
わけわかんなくて寝てたらいいと思います。
難しかったなこれ。
もうこれでこの人のお話はほぼ全部読んだんじゃないか。
リリオ三月記。
弟子だけ読んでないかな。弟子と書いて弟子ね。弟のことも弟子。
これだけこの人は読んでないかも。
もう中国のこと好きすぎだろこの人。
よし終わりにしていこう。
無事に寝落ちできた方も最後までお付き合いいただけた方も大変にお疲れ様でした。
といったところで今日のところはこの辺で。また次回お会いしましょう。
おやすみなさい。
01:33:37

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