何とも返事のしようがなく黙っていますと、それからしばらくはただ夫の激しい呼吸ばかり聞こえていましたが、
「ごめん下さい。」と女の細い声が玄関でいたします。 私はそう見に冷水を浴びせられたようにぞっとしました。
「ごめん下さい、太谷さん。」 今度はちょっと鋭い誤聴でした。同時に玄関の開く音がして、
「太谷さん、いらっしゃるんでしょ?」とはっきり怒っている声で言うのが聞こえました。 夫はその時やっと玄関に出た様子で、
「何だい?」 と酷くおどおどしているような間の抜けた返事を致しました。
「何だいではありませんよ。」と女は声を潜めていい。
「こんなちゃんとしたお家もあるくせに泥棒を働くなんてどうしたことです。 人の悪い冗談をよして、あれを返して下さい。
出なければ私はこれからすぐ警察に訴えます。」 「何を言うんだ。しっけいなことを言うな。ここはお前たちの来るところではない。
帰れ。帰らなければ僕の方からお前たちを訴えてやる。」 その時、もう一人の男の声が出ました。
「先生、いい度胸だね。お前たちの来るところではない。」 とは出かした。
「呆れて物が言えねえや。他のこととは違うよ。 よその家の金をあんた。冗談にも程がありますよ。
今までだって私たち夫婦は、あんたのためにどれだけ苦労をさせられてきたかわからねえんだ。
それなのにこんな今夜のような情けねえことをして出かしてくれる。 先生、私は見損ないましたよ。」
「ゆすりだ。」と夫はいたけたかに言うのですが、その声は震えていました。
「強迫だ。帰れ。文句があるなら明日聞く。」
「大変なことを言いやがるな先生。すっかりもう一人前の悪党だ。 それではもう警察へお願いするより手がねえぜ。」
その言葉の響きには、私の全身鳥肌立ったほどのすごい憎悪がこもっていました。
「勝手にしろ。」と叫ぶ夫の声はすでに上ずって空虚な感じのものでした。
私は起きて寝起きの上に羽織をひっかけ、玄関に出て二人のお客に、「いらっしゃいまし。」と挨拶しました。
「いや、これは奥さんですか。」 膝切りの短い街灯を着た五十過ぎくらいの丸顔の男の人が、少しも笑わずに私に向かって、ちょっとうなずくようにえしゃくしました。
女の方は四十前後の痩せて小さい身なりのきちんとした人でした。
「こんな夜中にあがりまして。」とその女の人は、やはり少しも笑わずにショールを外して私にお辞儀を返しました。
その時、屋庭に夫は下駄をつっかけて外に飛び出ようとしました。
「夫、そいつはいけない。」 男の人はその夫の片腕をとらえ、二人は瞬時揉み合いました。
「放せ、刺すぞ。」 夫の右手にジャックナイフが光っていました。
そのナイフは夫の愛憎のものでございまして、確か夫の机の引き出しの中にあったので、
それではさっき夫が家へ帰るなりなんだが引き出しを引き回していたようでしたが、かねてこんなことになるのを予期してナイフを探し、ふとこに入れていたのに違いありません。
男の人は身を引きました。その隙に夫は大きいカラスのように二重回しの袖をひるがえして外に飛び出しました。
「泥棒。」と男の人は大声を上げ、続いて外に飛び出そうとしましたが、私は裸足で土間に降りて男を抱いて引き止め、
「およしなさいまし。どちらにもおけががあってはなりません。後の始末は私がいたします。」 と申しますと、そばから四重の女の人も、
「そうですね、父さん。きちがいに刃物です。何をするかわかりません。」と言いました。
「ちくしょう!警察だ!もう承知できねえ。」 ぼんやり外の暗闇を見ながら一人ごとのようにそうつぶやき、けれどもその男の人のそうみの力はすでに抜けてしまっていました。
「すみません。どうぞおわかりになって、お話を聞かせてくださいまし。」 と言って私は敷台に上がってしゃがみ、
「私でも後の始末はできるかもしれませんから、どうぞおわかりになって、どうぞ。汚いところですけど。」
二人の客は顔を見合わせ、かすかにうなずき合って、それから男の人は様子を改め、
何と仰っても私どもの気持ちはもう決まっています。 しかしこれまでの戦は一応奥さんに申し上げておきます。
「ああ、どうぞおわかりになって、そしてゆっくり。」 「いやそんなゆっくりもしておられませんが。」と言い、男の人は街灯を脱ぎかけました。
「そのままでどうぞ。お寒いんですから、本当にそのままでお願いします。 家の中には火の気が一つもないのでございますから。」
「ああ、ではこのままで失礼します。」 「どうぞそちらのお方も、どうぞそのままで。」
男の人が先に、それから女の人が夫の部屋の六畳間に入り、腐りかけているような畳、破れ放題の障子、落ちかけている壁、
紙が剥がれて中の骨が露出している襖、片隅に机と本箱、それも空っぽの本箱、そのような高齢たる部屋の風景に接して、お二人とも息を飲んだような様子でした。
破れて綿のはみ出ている座布団を私はお二人に勧めて、 「畳が来たのをございますから、どうぞこんなものでもお当てになって。」と言い、それから改めてお二人にご挨拶を申しました。
「初めてお目にかかります。主人がこれまで大変なご迷惑ばかりおかけして参りましたようで、また今夜は何をどういたしましたことやら、あのような恐ろしい真似などをして、お詫びの申し上げようもございません。
何せあのような変わった気性の人なので。」と言いかけて言葉が詰まり、楽類しました。
「奥さん、誠に失礼ですが、いくつにお成りで?」 と男の人は破れた座布団に悪びれず大あぐらをかいて、肘をその膝の上に立て、拳で顎を支え、上半身を乗り出すようにして私に尋ねます。
「あの、私でございますか?」
「ええ、確か旦那は三十でしたね。」
「はあ、私はあの、四つ下です。」
「すると二十六。いやあ、これはひどい。まだそんなですか?」
「いや、そのはずだ。旦那が三十ならば、そりゃあそのはずだけど。驚いたなあ。」
「私も先ほどから。」と女の人は、男の人の背中の影から顔を出すようにして、感心しておりました。
「こんな立派な奥さんがあるのに、どうして大谷さんは、あんなに、ねえ。」
「病気だ。病気なんだよ。以前はあれほどでもなかったんだが、だんだん悪くなりやがった。」
と言って大きいため息をつき、
「実は、奥さん。」と、改まった口調になり、
私ども夫婦は中野駅の近くの小さい料理屋を経営していまして、私もこれも上州の生まれで、
私はこれでも片木の秋院のだったのでございますが、
堂楽家が強いというのでございましょうか。田舎のお百姓相手のケチな商売にも嫌気がさして、
かるこれ二十年前、この女房を連れて東京へ出てきまして、浅草のある料理屋に夫婦共に住み込みの方向を始めまして、
まあ人並みに浮き沈みの苦労をして少し宅配もできましたので、
今のあの中野の駅近くに昭和11年でしたか、
六畳一間に狭い土松木の誠にむさ苦しい小さい家を借りまして、一度の有効費がせいぜい1円か2円の客を相手の心細い飲食店を開業いたしまして、
それでもまあ夫婦が贅沢もせず地道に働いてきたつもりで、そのお陰か焼酎やらジンやらを割にどっさり仕入れておくことができまして、
その後の酒不足の時代になりましてからも、よその飲食店のように転業などせずに、どうやら頑張って商売を続けてまいりまして、
またそうなると悲喜のお客も向きになって応援をしてくだすって、いわゆるあの軍艦の酒魚がこちらへも少しずつ流れてくるような道を開いてくださるお方周り、
大米英戦が始まってだんだん空襲が激しくなってきてからも、私どもに足手まといの子供はなし、
故郷へ疎開などする気も起こらず、まあこの家が焼けるまではと思って、この商売に一つにかじりついてきて、どうやら理際もせず終戦になりましたのでほっとして、
今度は大ピラに闇酒を仕入れて売っているという、手短に語ると、そんな身の上の人間なのでございます。
けれどもこうして手短に語ると、さして大きな難儀もなく、われに運がよく暮らしてきた人間のように重いになるかもしれませんが、人間の一生は地獄でございまして、
魔物が人の家に初めて現れるときにはあんなひっそりとした、うゆいしーみたいな姿をしているもんなんでしょうか。
その夜から私どもの店は大谷さんに見込まれてしまったんでした。それから10日ほど経って、今度は大谷さんが一人で裏口から参りまして、いきなり100円紙幣を一枚出して、いやその頃はまだ100円といえば大金でした。
今の2、3000円にもそれ以上にも当たる大金でした。それを無理やり私の手に握らせて、頼むと言って、気弱そうに笑うのです。
もう既にだいぶ召し上がっている様子でしたが、とにかく奥さんもご存知でしょう。あんな酒の強い人はありません。酔ったのかと思うと急に真面目な、ちゃんと筋の通った話をするし、いくら飲んでも足元がふらつくなんてことはついぞい一度も私どもに見せたことはないのですからね。
人間30前後はいわば血気の盛りで酒にも強い年頃ですが、しかしあんなのは珍しい。
その晩もどこかよそでかなりやってきた様子なに、それから私の家で焼酎をたて続きに10杯も飲み、まるでほとんど無口で、私ども夫婦が何かと話しかけても、ただはにかむように笑って、うんうんと曖昧にうなずき、
突然何時ですかと時間を尋ねて立ち上がり、ああ、お釣りをと私が言いますと、いやいいと言い、それは困りますと私が強く言いましたら、にやっと笑って、それではこの次まで預かっておいて下さい、また来ますと言って帰りましたが、奥さん、
私どもがあの人からお金を頂いたのは後にも先にもただこの時一度きり、それからもうなんだかんだとごまかして3年間、一銭の金も払わずに私どものお酒をほとんど一人で飲み干してしまったのだから、呆れるじゃありませんか。
思わず私は吹き出しました。理由のわからないおかしさがひょいとこみ上げてきたのです。あわてて口をおさえて、おかみさんの方を見ると、おかみさんも妙に笑ってうつむきました。それから御弟子も仕方なさそうに苦笑いして、
いや全く、笑い事ではないんだが、あまりは呆れて笑いたくもなります。実際あれほどの腕前を他のまともな方面に用いたら、大臣にでも博士にでも何にでもなれますよ。
私ども夫婦ばかりでなく、あの人に見込まれてすってんてんになってこの様々に泣いている人間が他にもまだまだある様子だ。
現にあの秋ちゃんなど、大谷さんと知り合ったばかりに、いいパトロンには逃げられるし、お金も巻物もなくしてしまうし、今はもう長屋の汚い人部屋で、小敷みたいな暮らしをしているそうだが、実際あの秋ちゃんは、大谷さんと知り合った頃には、浅ましい位のぼせて、私たちにも何かと不意調していたもんです。
第一、御身分がすごい。
四国のある殿様の別家の大谷男爵の次男で、今は文持のため感動せられているが、今に父の男爵が死ねば長男と二人で財産を分けることになっている。
頭が良くて天才というものだ。
二十一で本を書いて、それが石川卓卜という大天才に書いた本よりももっと上手で、それからまだ十何冊高の本を書いて、年は若いけれども日本一の詩人ということになっている。
おまけに大学者で、学習院から一校、亭台と進んで、ドイツ語、フランス語、いやもう恐ろしい。
何が何だか秋ちゃんに言わせるとまるで神様みたいな人で、しかしそれもまたまんざらみな嘘ではないらしく、他の人から聞いても大谷男爵の次男で有名な詩人だということには変わりないので。
こんな、うちのババアまでいい歳をして、秋ちゃんと競争してのぼせやがって。
さすがに育ちのいいお方はどこか違っていらっしゃる、なんて言って、大谷さんのおいでを心待ちにしている手たらくなんですからたまりません。
今はもう家族もヘッタクレもなくなったようですが、終戦前までは女を駆得には、とにかくこの家族の感動息子という手に限るようでした。
変に女がクワッとなるらしいんです。
やっぱりこれはその、今流行りの言葉で言えば奴隷根性というものなんでしょうね。
私なんぞは男の、それもすでっからしときているのでございますから、たかが家族の、いや奥さんの前ですけれども、四国の殿さんものその又文家の、おまけに次男なんて、
そんなのは何も私たちと身分の違いがあろうはずがないと思っていますし、まずかそんな浅ましくクワッとなったりなどはしやしません。
ですけれどもやはりなんだかどうもあの先生は私にとっても苦手でして、もう今度こそどんなに頼まれてもお酒は飲ませまいと堅く決心していても、
追われてきた人のように意外の時刻にひょいと現れ、私どもの家へ来てやっとホッとしたような様子をするのを見ると、つい決心も鈍ってお酒を出してしまうんです。
酔っても別に馬鹿騒ぎをするわけじゃないし、あれでお感情さえきちんとしてくれたらいいお客なんですがね。
自分で自分の身分を不意調するわけでもないし、天才だのなんだろうとそんな馬鹿げた自慢をしたこともありませんし、
アキちゃんなんかがあの先生のそばで私どもにあの人の偉さについて広告したりなどすると、
僕はお金が欲しいんだ、ここの感情を払いたいんだ、とまるっきり別なことを言って座をしらけさせてしまいます。
あの人が私どもに今までお酒の代を払ったことはありませんが、あの人の代わりにアキちゃんが時々支払っていきますし、
またアキちゃんの他にもアキちゃんに知られては困るらしい内緒の女の人もありまして、その人はどこかの奥さんのようで、
その人も時たま大谷さんと一緒にやってきまして、これもまた大谷さんの代わりに仮分のお金を置いていくこともありまして、
私どもだって商人でございますから、そんなことでもなかった日には、いくら大谷先生であろうが宮様であろうが、
そんなにいつまでもただで飲ませるわけには参りませんのです。
けれどもそんな時、たまの支払いだけではとても足りるものではなく、もう私どもの大存で、
なんでも小金犬先生の家があって、そこにはちゃんとした奥さんもいらっしゃるということを聞いていましたんで、
一度そちらへお勘定の相談に上がろうと思って、それとなく大谷さんのお宅はどの辺でしょうと尋ねることもありましたが、
すぐ勘づいて、ないものはないんだよ、どうしてそんなに器用もものかね、喧嘩別れは損だぜ、などと嫌なことを言います。
それでも私どもは何とかして先生のお家だけでも突き止めておきたくて、二、三度後をつけてみたこともありましたが、そのたんびにうまく巻かれてしまうのです。
そのうちに東京は大空襲の連続ということになりまして、何が何やら大谷さんが銭湯棒などかぶって舞い込んできて、
勝手に押入れの中からブランデーの瓶なんかを持ち出してグイグイたったまも飲んで、風のように立ち去ったりなんかして、
お勘定も何もあったものではなく、やがて終戦になりましたので、今度は私どもも大ピラで闇の酒魚を仕入れて店先には新しいノレンを出し、
いかに貧乏の店でも張り切って、お客への愛嬌に女の子を一人雇ったりいたしましたが、またもやあの魔物の先生が現れまして、
今度は女連れでなく、必ず二、三人の新聞記者や雑誌記者と一緒に参りまして、
何でもこれからは軍人が没落して、今まで貧乏していた詩人などが世の中からもてはやされるようになったとかいう、その記者たちの話でございまして、
大谷先生はその記者たちを相手に、外国人の名前だか、英語だか、哲学だか、なんだかわけのわからないような変なことを言って聞かせて、そうしてひょいと立って外へ出て、それっきり帰りません。
記者たちは狂ザメ顔に、あいつどこへ行きやがったんだろう、そろそろ俺たちも帰ろうかなどお帰り自託をはじめ、私は、
お待ちください。先生はいつもあの手で逃げるんです。
お勘定はあなたたちからいただきます。と申します。
おとなしくみんなで出し合って支払って帰る連中もありますが、大谷に払わせろ、俺たちは五百円生活をしているんだ、と言って怒る人もあります。
怒られても私は、いいえ、大谷さんの借金が今までいくらになっているかご存知ですか。もしあなたたちがその借金をいくらでも大谷さんから取ってくださったら、私はあなたたちにこの半分は差し上げます。
私はそのフランソア・ビヨンという大と夫の名前を見つめているうちに、なぜだかわかりませんけれども、とてもつらい涙がわいて出て、ポスターがかすんで見えなくなりました。
吉祥寺で降りて、本当にもう何年ぶりかで井の頭公園に歩いて行ってみました。
池の旗の杉の木がすっかり切り払われて、何かこれから工事でも始められる土地みたいに、変にむき出しのさむざむした感じで、昔とすっかり変わっていました。
坊やを背中からおろして、池の旗の壊れかかったベンチに二人並んで腰をかけ、家から持ってきたお芋を坊やに食べさせました。
坊や、きれいなお池でしょ。
昔はね、このお池にコイトトやキントトがたくさんたくさんいたのだけれども、いまは何にもいないわね。つまんないね。
坊やは何を思ったのか、お芋を口の中いっぱいにほおったまま、ケケッと妙に笑いました。
若子ながらほとんどアホーの感じでした。
その池の旗のベンチにいつまでいたって、何の拉致のあくことではなし、私はまた坊やを背負ってぶらぶら吉祥寿の駅のほうへ引き返し、にぎやかな泥田街を見てまわって、
それから駅で中野駅の切符を買い、何の種類も計画もなく、いわば恐ろしい間の縁にスルスルと吸い寄せられるように電車に乗って中野で降りて、
昨日教えられた通りの道筋を歩いて行って、あの人たちの小料理屋の前にたどり着きました。
表の戸は開きませんでしたので、裏へまわって勝手口から入りました。
御邸主さんはいなくて、おかみさんひとり、お店の掃除をしていました。
おかみさんと顔があった途端に私は、自分でも思いがけなかった嘘をスラスラと言いました。
「あのおばさん、お金は私がきれいにお返しできそうですの。こんばんか。でなければ明日。とにかくはっきり見込みがついたのですから、もうご心配なさらないで。」
「おやまあ、それはどうも。」と言っておかみさんはちょっとうれしそうな顔をしましたが、それでも何か不倫をうちないような不安な影がその顔のどかやらに残っていました。
「おばさん、本当よ。確実にここへ持ってきてくれる人があるのよ。それまで私は人質になってここにずっといることになっていますの。」
「それなら安心でしょう。お金が来るまで私はお店の手伝いでもさせていただくわ。」
私は坊やを背中からおろし、奥の六畳間にひとり遊ばせておいてくるくると立ち働いてみせました。
坊やはもともとひとり遊びには慣れておりますので、少しも邪魔になりません。
また頭が悪いせいか人見知りをしないたちなので、おかみさんにも笑いかけたりして、私がおかみさんの代わりにおかみさんの家の廃棄物を取りに行ってあげている様子にも、
おかみさんからアメリカの缶詰の殻をおもちゃ代わりにもらって、それを叩いたり転がしたりして、おとなしく六畳間の隅で遊んでいたようでした。
お昼ごろ、御邸主がお魚や野菜の仕入れをして帰ってきました。
私は御邸主の顔を見るなり、また早口に、おかみさんに言ったのと同様の嘘を申しました。
御邸主はきょとんとした顔になって、
「ええ、しかし奥さん、お金ってもんは自分の手に握ってみないうちは当てにならないもんですよ。」
と案外静かな教え悟すような口調で言いました。
「いいえ、それがね、ほんとに確かなのよ。だから私を信用して、おもて沙汰にするのはきょう一日待ってくださいな。
それまで私はこのお店でお手伝いしていますから。」
「お金が返ってくれば、それはもう何も。」と御邸主は一人ごとのように、
「なにせ今年もあと五六日なんですからね。」
「ええ、だから、それだから、あの私は…。」
「あ、おや?お客さんですわよ。いらっしゃいまし。」
と私は店へ入ってきて三人連れの職人風のお客に向かって笑いかけ、それから小声で、
「おばさん、すみません。エプロンを貸してくださいな。」
「あ、美人を雇いあがった。こいつはすごい。」と客の一人が言いました。
「誘惑しないでくださいよ。」と御邸主はまんざら冗談でもないような口調でいい。
お金のかかっている体ですから。
「百万ドルの銘馬か?」ともう一人のお客はげびたしゃれを言いました。
「銘馬も。メスは半年だそうです。」
と私はお酒の缶をつけながら負けずにげびた受け答えをいたしますと、
「謙遜するなよ。これから日本は馬でも犬でも男女同犬だったさ。」
と一番若いお客がどなるように言いまして、
「姉さん、俺は惚れた。一目惚れだ。がしかし、お前は子持ちだな。」
「いいえ。」と奥からお神様は坊やを抱いて出てきて、
「これは今度私どもが親戚からもらってきた子ですの。
これでもうやっと私どもにも後継ぎができたというわけですわ。」
「金もできたし。」と客の一人がからかえますと御邸主はまじめに、
「色もでき、借金もでき。」と呟き、それからふいと御帳をかえて、
「何しますか。寄せ鍋でも作りましょうか。」と客に尋ねます。
私にはその時あることが一つわかりました。
私は奥で揚げ物をしているご邸主のところへ行き、
大谷が帰ってまいりました。
「あってやってくださいまし。
でも、すれの女の方に私のことは黙っていてくださいね。
大谷が恥ずかしい思いをするといけませんから。」
いよいよ来ましたね。
ご邸主は私のあの嘘を半ばはあやぶみながらも
それでもかなり信用してくれたもののようで、
夫が帰ってきたことも、
それも私の何か差し金によってのことと単純に我転している様子でした。
「私のことは黙っててね。」と重ねて申しますと、
「その方がよろしいのでしたらそうします。」と気さくに承知して土間に出て行きました。
ご邸主は土間のお客を一あたりざっと見渡し、
それからまっすぐに夫のいるテーブルに歩み寄って、
そのきれいな奥さんと何か双子と巫女と話を交わして、
それから三人揃って店から出て行きました。
もういいのだ。バンジュが解決してしまったのだと、
何故だかそう信じられてさすがに嬉しく、
コンガソリの着物を着たまだ二十歳前くらいの若いお客さんの手首を
だし抜けに強く掴んで、
飲みましょうよ。ね、飲みましょう。クリスマスですもの。
3.ほんの三十分。いえ、もっと早いくらい。
親と思ったくらいにご邸主が一人で帰ってきまして、
私のそばに寄り、
奥さん、ありがとうございました。お金は返していただきました。
そう、よかったわね。全部?
ご邸主は変な笑い方をして、
ええ、昨日のあの分だけはね。
これまでのが全部でいくらなの?
ざっとまあ、大まけに負けて。
二万円。
それだけでいいの?
大まけに負けました。
お返しいたします。
おじさん、あすから私をここで働かせてくれない?
ね、そうして。働いて返すわ。
ええ、奥さん、とんだオカルだね。
私たちは声を合わせて笑いました。
その夜十時過ぎ、私は中野のお店を置いてましまして、
坊やを背負い、五金居の私たちの家に帰りました。
やはり夫は帰ってきていませんでしたが、
しかし私は平気でした。
あすまたあのお店へ行けば、夫に会えるかもしれない。
どうして私は今までこんないいことに気づかなかったのかしら。
昨日までの私の苦労も、
所詮は私が馬鹿で、こんな明暗に思いつかなかったからなのだ。
私だって昔は浅草の父の屋台で客足代は決して下手ではなかったのだから、
これからあの中野のお店できっとうまく立ち回れるに違いない。
現に今夜だって私はチップを五百円近くもらったんだもの。
御邸主の話によると、
夫は昨夜あれからどこか知り合いの家へ行って泊まったらしく、
それからけさ早くあの綺麗な奥さんの営んでいる京橋のバーを襲って、
朝からウイスキーを飲み、
そしてそのお店に働いている五人の女の子にクリスマスプレゼントだと言って、
むやみにお金をくれてやって、
それからお昼頃にタクシーを呼び寄せてどこかへ行き、
しばらくたってクリスマスの三角棒やら仮面やらデコレーションケーキやら、
紙面帳まで持ち込んできて、
司法に電話をかけさせ、
お知り合いの方たちを呼び集め、
大宴会を開いて、
いつもちっともお金を持っていない人なのにと、
バーのマダムが不審がって、
そっと問いただしてみたら、
夫は平然と昨夜のことを洗いざらいそのまま言うので、
そのマダムも前から大谷とは他人の中ではないらしく、
とにかくそれは警察団になって騒ぎが大きくなってもつまらないし、
返さなければなりませんと真面目に言って、
お金はそのマダムが立て替えて、
そして夫に案内させ、
中野のお店に来てくれたのだそうで、
中野のお店の御邸主は私に向かって、
大概そんなことだろうとは思っていましたが、
しかし奥さん、
あなたはよくその方角に動きがつきましたね。
大谷さんのお友達にでも頼んだんですか。
とやはり私が初めからこうして帰ってくるのを見越して、
このお店に先回りして待っていたもののように考えているらしい口ぶりでしたから、
私は笑って、
ねえ、そりゃもう、
とだけ答えておきましたのです。
そのあくる日から私の生活は今までとはまるで違って、
ウキウキした楽しいものになりました。
早速電発屋に行って髪の手入れもいたしましたし、
お化粧品も取り揃えまして着物を縫い直したり、
また奥さんから新しい白旅を2足もいただき、
これまでの胸の中の重苦しい思いがきれいに拭い去られた感じでした。
朝起きて坊やと二人でご飯を食べ、
それからお弁当を作って坊やを背負い、
中野にご出勤ということになり、
大晦日、お正月、
お店のかき入れ時なので、
つばき屋のさっちゃんというのがお店での私の名前なのでございますが、
そのさっちゃんは毎日目の回るくらいの大忙しで、
二日に一度くらいは夫も飲みにやってまいりまして、
お化粧は私に払わせてまたふっといなくなり、
夜遅く私のお店を覗いて、
帰りませんかとそっと言い、
私も頷いて帰り自宅を始め、
一緒に楽しく家事をたどることもしばしばございました。
なぜ初めからこうしなかったのでしょうね。
とっても私は幸福よ。
女には幸福も不幸もないもんです。
そうなの?
そう言われるとそんな気もしてくるけど、
それじゃあ男の人はどうなの?
男には不幸だけがあるんです。
いつも恐怖と戦ってばかりいるんです。
わからないわ、私には。
でもいつまでも私こんな生活を続けていきとうございますわ。
つばき屋のおじさんもおばさんもとてもいいお方ですもの。
バカなんですよ、あの人たちは。
身中もんですよ。
あれでなかなか欲張りでね、
僕に飲ませておしまいには儲けようと思っているんです。
そりゃしょうがないですものと当たり前だわ。
だけどそれだけでもないんじゃない?
あなたはあのおかみさんをかすめたでしょう。
昔ね。
親父はどう?気づいてるの?
ちゃんとしてるらしいわ。
色もでき借金もできといつかため気まじりに言ってたわ。
僕はね、キザのようですけど死にたくてしようがないんです。
生まれた時から死ぬことばかりを考えていたんだ。
みんなのためにも死んだほうがいいんです。
それはもう確かなんだ。
それでいてなかなか死ねない。
変な怖い神様みたいなものが僕の死ぬのを引き止めるのです。
お仕事が終わりですから。
仕事なんてものはなんでもないんです。
傑作も雑作もありゃしません。
人がいいと言えば良くなるし、悪いと言えば悪くなるんです。
ちょうど薄息と低息みたいなもんなんです。
恐ろしいのはね、この世の中のどこかに神がいるということなんです。
いるんでしょうね。
え?
いるんでしょうね。
私にはわかりませんわ。
そう。
10日20日とお店に通っているうちに、
私には椿屋にお酒を飲みに来ているお客さんが一人残らず犯罪人ばかりだということに気がついてまいりました。
夫などはまだまだ優しい方だと思うようになりました。
また、お店のお客さんばかりでなく、道を歩いている人みなが、
何か必ず後ろぐらい罪を隠しているように思われてきました。
立派なみなりの50年配の奥さんが椿屋のお買手口にお酒を売りに来て一生300円とはっきり言いまして、
それは今の相場にしては安い方ですので、
おかみさんがすぐに引き取ってやりましたが水酒でした。
あんな上品そうな奥さんさえこんなことを企まなければならなくなっている世の中で、
我が身に後ろぐらいところが一つもなくて生きていくことは不可能だと思いました。
トランプの遊びのようにマイナスを全部集めるとプラスに変わるということは、
この世の道徳には起こり得ないことでしょうか。
神がいるなら出てきてください。
私はお正月の末にお店のお客に怪我されました。
その夜は雨が降っていました。
夫は現れませんでしたが、
夫の昔からの知り合いの出版の方の方で、
そしてその明る日の明け方、私はあっけなくその男の手に入れられました。
その日も私は、上部屋はやはり同じように坊やを背負ってお店の務めに出かけました。
中田のお店のドマで、夫が酒の入ったコップをテーブルの上に置いて一人で新聞を読んでいました。
コップに午前の日の光が当たってきれいだと思いました。
誰もいないの?
夫は私の方を振り向いてみて、
うーん、親父はまだ仕入れから帰らないし、
ばあさんはちょっと今までお勝手の方に行ったようだけど、いませんか?
ゆうべはおいでにならなかったの?
来ました。椿屋のさっちゃんの顔を見ないと、この頃は眠れなくってね。
十字席にここを覗いてみたら、今しがた帰れましたというのでね。
それで?
泊まっちゃいましたよ、ここへ。雨はざんざん降ってるし。
私も今度からこのお店にずっと泊めてもらうことにしようかしら。
いいでしょう、それも。
そうするわ。あのお家をいつまでも借りているのは意味ないもの。
夫は黙ってまた新聞に目を注ぎ、
やあ、また僕のわぐちを書いている。エピキュリアンの二世貴族だってさ。
こいつは当たっていない。神に怯えるエピキュリアンとでも言ったらよいのに。
さっちゃん、ごらん。ここに僕のことを妊婦人なんて書いていますよ。
違うよね。僕は今だから言うけれども、去年の暮れにね。
ここから五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やにあのお金で久しぶりのいいお正月をさせたかったからです。
妊婦人でないから、あんなこともしでかすのです。
私は格別嬉しくもなく、
妊婦人でもいいじゃないの。私たちは生きていさえすればいいのよ。と言いました。
1950年発行。新庁舎。新庁文庫。美音の妻。
より独了。読み終わりです。
なんなんですか、こいつら。
ったくもう、なんか白黒つけられない、
このグラデーションな人間関係、しかも男女のね、がもうたくさん出てきて。
いやーね、本当に。
詩人が椿屋の狼とできてたのも嫌だし。
あなた一回かすめたでしょうとか言ってたもんね。
でもまあそれもあれか。できてたというよりは、気の迷いで一回だけ、一晩だけみたいな感じ?
ただの肉体関係者だということですか?
なんなんですかね、もう本当にこういうの見えてくると嫌になってくるわ。
話の中でも嫌だ。フィクションなのに嫌になってくるわ。
現実世界でもあるんですよ、たくさん見てると。もう本当に。本当に。
まあ僕は勘の鈍いタイプですから、自分からわざわざ観察して、
あの二人怪しいんじゃないかっていう目で見てないんで、気づかないことが多いですけど。
余計なね、有識者たちがね、僕に耳に打ちするんですよ。
あの二人ああだわよとか。
余計な知恵を与えないでくれよ。
ポカーンって生きてたのに。
一度そういう情報が入るともうこっちもそういう目で見ちゃうからさ。
ねえ、昔あの二人なんかあったの?みたいな。
今はそういうふうにはあんまり見えないけど、
そう聞かされているとちょっとそういうふうにも見えてくるなみたいなね。
いや、なんか読み終わった本の話でもしようかと思ったけど、いいわ。
次回のお尻に言うことにしましょう。
美音の妻ね、改めて自分の読み上げを聞き直して噛み締めようかな。
一回じゃ無理だな。一回読み上げただけじゃちょっとあれですね。
最初のあらすじみたいなのが入ってこないわ。
さっちゃんも男に襲われちゃってるしね。
なんかそれを一文でさらっと書いてるけど、消化しきらんですね。
何回か聞き込んでいるうちに分かってくるかなっていうことも結構あるんでね。
また自分で振り返ってみよう。
よし、応援しよう。
無事寝落ちできた方も、最後までお付き合いいただいた方も大変にお疲れ様でした。
といったところで、今日のところはこの辺で。また次回お会いしましょう。
おやすみなさい。