00:01
リオンの妻 第2話
思わず私は吹き出しました。
理由のわからないおかしさがひょいっとこみ上げてきたのです。
慌てて口をおさえて、おかみさんの方を見ると、
おかみさんも妙に笑ってうつむきました。
それから、ご丁主も仕方なさそうに苦笑いして、
いや、まったく笑い事ではないんだが、
あまり呆れて笑いたくもなります。
実際、あれほどの腕前を他のまともな方面に用いたら、
大臣にでも博士にでも何でもなれますよ。
私ども夫婦ばかりでなく、
あの人に見込まれてすってんてんになって、
この寒空に泣いている人間が他にもまだまだある様子だ。
現にあの秋ちゃんなど、
大谷さんと知り合ったばかりにいいパトロンには逃げられるし、
お金も着物もなくしてしまうし、
今はもう長屋の汚い人部屋で小敷みたいな暮らしをしているそうだが、
実際、あの秋ちゃんは大谷さんと知り合った頃には浅ましいくらいのぼせて、
私たちにも何かとふいちょしていたものです。
第一、ごみ分がすごい。
四国のある殿様の別家の大谷断釈の字なんで、
今は文持のため感動せられているが、
今に父の断釈が死ねば長男と二人で財産を分けることになっている。
頭が良くて天才というものだ。
二十一で本を書いて、
それが石川卓卜という大天才の書いた本よりももっと上手で、
それからまた十何冊高の本を書いて、
歳は若いけれども日本一の詩人ということになっている。
おまけに大学者で学習院から一高、低台と進んで、
ドイツ語、フランス語、いやもう恐ろしい。
何が何だか秋ちゃんに言わせるとまるで神様みたいな人で、
しかしそれもまたまんざらみな嘘ではないらしく、
他の人から聞いても大谷断釈の字なんで有名な詩人だということに変わりはないので、
こんなうちのバーバーまでいい歳をして秋ちゃんと競争してのぼせあがって、
さすがに育ちのいいお方はどこか違っていらっしゃる、
なんて言って大谷さんのおいでを心待ちにしている手たらくなんですからたまりません。
今はもう家族もへったくれもなくなったようですが、
終戦前までは女を口説くにはとにかくこの家族の感動息子という手に限るようでした。
03:02
変に女がクワッとなるらしいんです。
やっぱりこれはその今流行りの言葉で言えば奴隷根性というものなんでしょうね。
私なんぞは男のそれもすれからしときているものでございますから、
たかが家族の、いや奥さんの前ですけれども四国の殿様のその又文家のおまけに字なんなんて、
そんなのは何も私たちと身分の違いがあろうはずがないと思ってますし、
まさかそんな浅ましくクワッとなったりなどしやしません。
ですけれどもやはりなんだかどうもあの先生は私にとっても苦手でして、
もう今度こそどんなに頼まれてもお酒は飲ませまいと固く決心していても、
追われてきた人のように意外の時刻にひょいっと現れ、
私どもの家へ来てやっとほっとしたような様子をするのを見ると、
つい決心も鈍ってお酒を出してしまうんです。
酔っても別に馬鹿騒ぎをするわけじゃないし、
あれでお感情さえきちんとしてくれたらいいお客なんですがね。
自分で自分の身分を不意調するわけでもないし、
天才だろうなんだろうとそんなパカげた自慢をしたこともありませんし、
あきちゃんなんかがあの先生のそばで私どもにあの人の偉さについて広告したりなどすると、
僕はお金が欲しいんだ。ここの感情を払いたいんだ。
とまるっきり別なことを言って座をしらけさしてしまいます。
あの人が私どもに今までお酒の代を払ったことはありませんが、
あの人の代わりにあきちゃんが時々支払っていきますし、
またあきちゃんの他にもあきちゃんに知られては困るらしい内緒の女の人もありまして、
その人はどこかの奥さんのようで、その人も時たま太谷さんと一緒にやってきまして、
これもまた太谷さんの代わりに仮分のお金を置いていくこともありまして。
私どもだって商人でございますから、そんなことでもなかった日には、
いくら太谷先生であろうが宮様であろうが、そんなにいつまでもただで飲ませるわけには参りませんのです。
けれども、そんな時たまの支払いだけではとても足りるものではなく、
もう私どもの大存で、何でも小金屋に先生の家があって、
そこにはちゃんとした奥さんもいらっしゃるということを聞いていましたので、
一度そちらへお勘定の相談に上がろうと思って、
それとなく太谷さんにお宅はどのへんでしょうと尋ねることもありましたが、
すぐ勘づいて、「ないものはないんだよ。どうしてそんなに気をもむのかね。
喧嘩別れは損だぜ。」などと嫌なことを言います。
06:00
それでも私どもは何とかして先生のお家だけでも突き止めておきたくて、
二、三度後をつけてみたこともありましたが、そのたんびにうまくまかれてしまうのです。
そのうちに東京は大空襲の連続ということになりまして、
何が何やら、太谷さんが銭湯棒などかぶって舞い込んできて、
勝手におしれの中からブランデの瓶なんかを持ち出して、
ぐいぐい立ったまま飲んで、風のように立ち去ったりなんかして、
お勘定も何もあったものでなく、やがて終戦になりましたので、
今度は私どもも大ピラで闇の酒魚を仕入れて、店先には新しいのれんを出し、
いかに貧乏の店でも張り切って、お客への愛嬌に女の子を一人雇ったりいたしましたが、
またもやあの魔物の先生が現れまして、今度は女連れでなく、
必ず二、三人の新聞記者や雑誌記者と一緒に参りまして。
何でもこれからは軍人が没落して、今まで貧乏をしていた詩人などが世の中からもてはやされるようになったとかいう、
その記者たちの話でございまして、
太谷先生はその記者たちを相手に、外国人の名前だか英語だか哲学だか、
なんだかわけのわからないような変なことを言って聞かせて、
そうしてひょいっと立って外へ出て、それっきり帰りません。
記者たちはきょうざめ顔に、
あいつどこへ行きやがったんだろう、そろそろ俺たちも帰ろうか、
など帰り自託をはじめ、私は、
お待ちください、先生はいつもあの手で逃げるのです。
お勘定はあなたたちからいただきます、と申します。
おとなしくみんなで出し合って支払って帰る連中もありますが、
大谷に支払わせろ、俺たちは五百円生活をしているんだ、と言って怒る人もあります。
怒られても私は、
いえ、大谷さんの借金が今までいくらになっているかご存知ですか。
もしあなたたちがその借金をいくらでも大谷さんから取ってくださったら、
私はあなたたちにその半分は差し上げます、と言いますと、
記者たちもあきれた顔をいたしまして、
なんだ、大谷がそんなひでえ野郎とは思わなかった。
今度からあいつと飲むのはごめんだ。
俺たちには今夜は金は百円もない。
明日持ってくるから、それまでこれを預かっておいてくれ、
と異性よく該当を脱いだりなんかするのでございます。
記者というものは柄が悪いと世間から言われているようですけれども、
大谷さんに比べるとどうしてどうして、正直であっさりして、
大谷さんが男爵の御次なんなら、記者たちの方が皇爵の御僧侶くらいの値打ちがあります。
大谷さんは終戦後は一段と酒量も増えて妊娑が険しくなり、
09:01
これまで口にしたことのなかったひどく下品な冗談などを口走り、
また連れてきた記者を谷間に殴って掴み合いの喧嘩を始めたり、
また私どもの店で使っているまだ二十歳前の女の子を
いつの間にやら騙し込んで手に入れてしまった様子で、
私どもも実に驚き全く困りましたが、
すでにもうできてしまったことですから泣きに入りの他はなく、
女の子にも諦めるように言い含めてこっそり親御のもとに返してやりました。
大谷さん、何ももう言いません。
拝むからこれっきり来ないで下さいと私が申しましても、
大谷さんは闇で儲けているくせに人並みの口を聞くな、
僕は何でも知ってるぜ、
とげすな脅迫がましいことなどを言いまして、
またすぐ次の晩に平気な顔をして参ります。
私どもも対戦中から闇の商売などして、
その罰が当たってこんな化け物みたいな人間を
引き受けなければならなくなったのかもしれませんが、
しかし今晩のようなひどいことをされては、
もう詩人も先生もへったくれもない泥棒です。
私どものお金を五千円盗んで逃げ出したんですからね。
今はもう私どもも仕入れに金がかかって、
うちの中にはせいぜい五百円か千円の現金があるくらいのもので、
いや本当の話、売り上げの金はすぐ右から左へ
仕入れにつぎ込んでしまわなければならないんです。
今夜、私どものうちに五千円などという大金があったのは、
もう今年もおみそかが近くなってきましたし、
私が常連のお客さんのうちをまわってお金錠をもらって歩いて、
やっとそれだけ集めてまいりましたのでして、
これはすぐ今夜にでも仕入れの方に手渡してやらなければ、
もう来年の正月からは私どもの商売を続けてやっていかれなくなるような、
そんな大事な金で、
女房が奥の六畳間で勘定して戸棚の引き出しにしまってあったのを、
あの人がドマの椅子席で一人で酒を飲みながらそれを見ていたらしく。
急に立って、つかつかと六畳間にあがって、
無言で女房を押しのけ引き出しをあけ、
その五千円の札束をわしづかみにして、
二重回しのポケットにねじ込み、
私どもがあっけに取られているうちに、
さっさとドマに降りて店から出て行きますので、
私は大声をあげて呼び止め、
女房と一緒に後を追い、
私はこうなればもう、「泥棒!」と叫んで、
往来の人たちを集めて縛ってもらおうかとも思ったんですが、
とにかく大谷さんは私どもとは知り合いの間柄ですし、
それも無言すぎるように思われ、
12:00
今夜はどんなことがあっても、
大谷さんを見失わないようにどこまでも後をつけて行き、
その落ち着く先を見届けて、
穏やかに話して、あの金を返してもらおうと、
まあ、私どもも弱い商売でございますから、
私ども夫婦は力を合わせ、
やっと今夜はこの家を突き止めて、
堪忍できぬ気持ちを抑えて、
金を返してくださいと、
おんびんに申し出たのに、
まあ、なんということだ。
ナイフなんか出して刺すのだなんて、
まあ、なんという。
またもや訳のわからぬおかしさがこみ上げてきまして、
私は声を上げて笑ってしまいました。
大谷さんも顔を赤くして少し笑いました。
私は笑いがなかなか止まらず、
ご停止に悪いと思いましたが、
なんだか奇妙におかしくて、
いつまでも笑い続けて涙が出て、
夫の詩の中にある文明の果ての大笑いというのは、
こんな気持ちのことを言っているのかしらと、
ふと考えました。