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【エッセイ】人生、もう「本編」は終わった?|アディショナルライフという考え方
2026-09-09 15:20

【エッセイ】人生、もう「本編」は終わった?|アディショナルライフという考え方

人生には、「ここまでが本編だったのかもしれない」と感じる時期があります。


仕事、家庭、目標など、それまで自分を動かしてきたものが一段落したあと、そこから先をどう生きるのか。


このエピソードでは、そんな時間を「余生」ではなく、「アディショナルライフ」と捉える考え方について話します。


サッカーのアディショナルタイムは、本来の試合時間が終わったあとに加えられる時間です。


人生も同じように、ある地点までを本編と考えるなら、その先は予定されていた物語の続きをなぞる時間ではなく、自分で使い方を決められる時間として見ることができます。


何か大きなことを成し遂げなければならないわけではありません。


これまでの延長線上だけで考えず、やってみたかったことを試したり、興味の向く方へ進んだりする。


残り時間として数えるのではなく、新しく加わった時間として見ることで、人生の後半に対する感覚も少し変わるのではないか。


「本編が終わった」という感覚を終わりではなく、自由度が増える区切りとして考えるエピソードです。


このエピソードは、Webメディア「ねんごろ」で公開している記事をもとに制作しています。


元記事:

https://nengoro.com/essay/essay_12_additional-life/


YouTube:

https://youtu.be/ZankEJEkQjU


このエピソードの音声は、生成AIを利用して制作しています。

感想

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00:00
病気とかをきっかけにして、ふと自分の残り時間を意識する瞬間ってあると思うんですよ。
ああ、誰にでも訪れる感覚ですよね。 そうなんです。これを聞いてくださっているあなたにも、もしかしたら似たような経験があるかもしれません。
あの、別に明日すぐに人生が終わるってわけではないですし。 うん。
あと何年って、明確に決まっているわけでもないんですよね。 はっきりとした期限があるわけではないんですよね。
そう、そうなんです。それでも今まで当たり前に信じていた、自分にはまだ何十年も時間があるんだっていう無邪気な感覚が、以前のようには信じられなくなるというか。
わかります。 なんだろう、あの足元が少しふわっとするような感覚ですね。
ええ、決して先がないわけじゃない。でも先が長いとも限らない。そんなチューブラリンで曖昧な時間というものが、私たちの人生には確かに存在しますよね。
はい。
今回のミッションは、まさにこの曖昧な時間をどう捉えればいいのかを紐解くことです。
心理的なアプローチとか、人間が時間をどう感じるのかっていうメカニズム、それから文学的な視点も交えて、このチューブラリンな状態にある心の動きを分解していきましょう。
いろいろと考えてみたんですけど、最初にぶつかった壁が、そもそもこの曖昧な時間をどう表現すればいいのかっていう問題なんですよね。
言葉の問題ですね。
はい。既存の言葉だと、なんだかどでもしっくりこないんですよ。ちょっとここ整理してみましょうか。
そうですね。言葉というものは、私たちの自己認識をすごく強く規定しますから、そこはとても重要なポイントです。
例えば、余命っていう言葉を使うと、どうしてもあと何年とか何ヶ月みたいな時間の長さっていう数字ばかりが強烈に迫ってきちゃうじゃないですか。
時間の長さばかりが強調されてしまいますね。私たちが直面しているのは、単なる寿命のカウントダウンではなくて、もっと心理的なフェーズの変化なんですよね。
まさにそうなんです。じゃあ、余生はどうかって考えると、これもなんだかメインイベントはもう全部終わっちゃって、あとは消化試合というか。
おまけの時間みたいな響きがありますよね。
そうなんですよ。おまけの時間を過ごしているような響きがあって、でも実際にはその段階になってもまだ仕事はできるし、新しい趣味を始めることだってできるじゃないですか。
十分に活動できる状態ですよね。
自分には合わないサイズの服を無理やり着せられているような感覚というか、あなたは今日から余生の箱に入ってくださいって社会から言われているような気がするのに。
なるほど。
心の中ではまだ新しいことを始めたい衝動があるんです。この内面と外面のズレが苦しさを生んでいる気がします。
いや、合わないサイズの服というのは本当に確信をついた表現ですね。
本当ですか。
いえ、まさにそのズレが自分の好欲感みたいなものを低下させてしまうんです。まだ確実に続いている人生なのに、余生と呼ぶことで脳が自動的にもう新しい学習や挑戦のフェーズではないって判断してしまうんですね。
ああ、自分でブレーキをかけちゃうってことですね。
そうなんです。自分自身で少し早く人生の幕を引くスイッチを入れてしまうんです。さらに言えば老後という言葉もありますけれど。
03:06
はい、老後。よく使いますよね。
ええ。でも今回考えているこの時間は年齢だけで決まるものではありませんよね。
確かに。若くても病気をきっかけに先を意識することはありますし。
逆に年を重ねても先をずっと長く感じている人はいますからね。
つまり、人生の終わりが以前よりも少し近く感じられるようになった後にある、まだ確かに続いている時間にピタッとはまる新しい概念が必要だということですよね。
はい、その通りです。
そこで今回、全く違う分野からすごく面白いヒントを見つけたんです。
ほう、どの分野ですか?
サッカーのアディショナルタイムという視点なんです。
ああ、試合の前後半が終わった後に追加される数分間のことですね。
はい。アディショナルタイムに入るとスタジアムにいる全員がもうすぐ試合が終わるってわかっていますよね。
残された時間は決して多くないんです。
でもまだ試合は終わっていない。
そう、そこなんです。
主振が最後の笛を吹くまでは選手はボールを追うことができるし、シュートを打つこともできますよね。
残り時間が少ないっていうことと、もう終わったっていうことは根本的に違う状態なんですよ。
なるほど。終わりが近いことと、もう終わってしまったことは全く違うと。
ええ、ここからが本当に面白いところなんですけど、終わりの笛が鳴るまではまだ全力でプレイできる。この感覚、ものすごく腑に落ちたんです。
確かに、すごく前向きな捉え方ですよね。
村上春樹の小説の中に、歌は終わった、しかしメロディーはまだ鳴り響いているというような表現があるんですが、まさにそれに近い感覚ですね。
ああ、素敵な表現ですね。主旋律の演奏は終わったかもしれないけれど、空間にはまだその要因が確実に存在していて、私たちはその響きの中にいる。
ええ、全てがその瞬間に消えるわけではないんです。
なので、この時間を単なる余りではなくて、アディショナルライフと呼んでみるのはどうでしょうか。
アディショナルライフ、いいですね。言葉の枠組みを余製からアディショナルライフに変えるだけで、残された時間が消化次第からまだプレイ可能なグラウンドへと劇的に変化しますね。
はい。でもちょっと待ってください。少し引っかかる部分もあって。
何でしょうか。
サッカーのアディショナルタイムって、常に劇的なシュートを狙いに行くわけじゃないですよね。
ええ、決まりますね。
例えば、リードしているチームがあえて前は攻めずに、後ろでパスを回しながら時間を消費する。いわゆる時間稼ぎの戦術を取ることもあるじゃないですか。
ありますね。セーフティーな戦い方です。
人生のアディショナルライフにおいても、無理に新しいことを始めずに、毎日をただ静かにやり過ごしていくっていう選択はありなんじゃないでしょうか。
もちろんありです。その時間稼ぎ自体は決して否定されるべきものではありません。
06:01
ああ、よかった。ちょっと安心しました。
静かに暮らすことや日常の平穏を維持することも一つの立派な選択ですからね。常に何かをし続けなければならないというルールなんてありません。
無理に走り続ける必要はないってことですね。
ただ、ここで私たちが直視しなければならないのは、本当はまだプレイしたい、やってみたい気持ちがあるのに、もう今更だと自分で勝手に終わらせてしまっていいのかという問いなんです。
ああ、なるほど。本当は前を向きたいのにってことですね。
そうです。もう一度ボールを蹴りたいという気持ちが心のどこかに残っているのに、余生だからとか時間がないからという理由で、自ら時間稼ぎのパス回しだけを選んでしまう。それは本当の意味での選択とは言えないのではないでしょうか。
確かに。終わりが近いという事実は変えられないにしても、笛が鳴るまでにどう動くかは、まだ自分次第で選べるってことですね。
ええ、その通りです。
そして、このアディショナルライフっていう時間の捉え方がわかると、私たちが普段使っている言葉の意味がまるで違って見えてくるっていうのがすごく興味深いんです。
言葉の質が変わるという部分ですね。
はい。特に、いつかという言葉の意味の変化についてです。
人間って、自分の未来が無限にあると錯覚している時と、有限であると認識した時で、目標設定とか動機づけの質が劇的に変わることがわかっているんです。
そうなんですよね。先が長いと思っている間は、自分のやりたいことを、いつかやるっていう未来の棚に置いておくことができるじゃないですか。
ええ、仕事が落ちてからとかですね。
そうやって未来へ保留している間は、決して辞めたわけではないので、諦めた気にならないし、心理的な負担を感じずに自分を納得させられるんですよ。
でも、残り時間を意識し始めると、そのいつかが急に頼りになる。
そうなんです。未来の棚の土台が急にグラグラしてくるんですよね。
未来の長さが誰にもわからないのは、実は病気をしようがしまいが同じ条件なのに。
ええ、誰も明日のことはわかりませんからね。
でも、有限性を肌で感じた瞬間、数年後でもできるかもしれないっていうそのいつかが、以前とは全く違って聞こえるようになる。
先延ばしにするための魔法の言葉だったいつかが、突然効果を失ってしまうんです。
そして、いつかと対になっている今さらという言葉も同様に形を変えますよね。
今さらですか?
ええ、今までは本当はやってみたかったけど今さら始めても遅いしなとか、周りに迷惑をかけるかもしれないし、とやらないための立派な言い訳として使っていました。
ああ、ある意味、傷つかないための防具みたいなものですよね。
そうです。また別の機会があるかもしれないと見送ることで、失敗や変化のリスクを回避できるんです。
でも、アディシュナルライフのペースに入ると、この防具が突然自分に究極の二択を突きつける灰に変わる気がします。
問いますと。
今さらやるのか?それともこのままやらずに永遠に終わるのか?っていう究極の問いです。
失敗するかもしれないし、思っていたほど楽しくないかもしれない。でも自分の心の中にあるやってみたいっていう衝動は消えていないんですよね。
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まさにそこですね。そして、この究極の選択を前にしたとき、多くの人が陥りがちなのがレガシーの罠なんです。
つまり、成果や遺産の穴ですね。
成果や遺産。でもちょっと待ってください。
そう言われると、なんか急いでいちかの棚からやりたかったことを全部回収して、何か有意義なことを始めなきゃいけないようなものすごいプレッシャーを感じませんか?
ああ、焦りを感じてしまうんですね。
はい。これを聞いているあなたの中にも、もしかしたら焦りを感じる人がいるかもしれません。
ええ。でも実はそこがレガシーの罠の入り口なんです。人間は社会的な動物ですから、自分が生きた意味や証を共同体に残したいという欲求を持っています。
はい、ありますね。
時間が限られてくると、この欲求が暴走しやすくなるんです。自分がこの世からいなくなった後にも残るような意味のあることをしなければ、と思い込んでしまう。
ああ、文章を書くとか、大きな仕事を成し遂げるとか。
そうです。誰かに影響を与えるといったことですね。
自分が存在した証を残すことで、存在が消えることへの不安を和らげようとする、防衛本能みたいなものでしょうか。でもそれに囚われてしまうと、せっかくのアディショナルライフがめちゃくちゃ窮屈になりませんか?
その通りです。
残されたわずかな時間まで、どれだけの成果を出せたか、っていうKPIみたいな定義で測ることになってしまう気がして。
そこが一番の問題なのです。何かを残すことを目的にしてしまうと、結果が出ないことや形にならないことは全て無駄な時間になってしまいます。
それは辛いですね。
心理的な解放をもたらす本当の鍵は、何を残すかではないんです。自分がやりたいことをやった結果として、たまたま何かが残ることはあるかもしれない。でも何も形に残らなくていい、という視点の転換ですね。
何も残さなくていい。やってみたいからやる。言葉で言うのは簡単ですけど、これってすごく大きな解放感がありますよね。
そうですね。
つまり立派なことをする必要はないってことですよね。これまでの人生はずっと、これをやったら将来の役に立つかとか、誰かのためになるかっていう基準で選択をしてきたじゃないですか。
ええ。常に意味を求めてきましたからね。
周りを優先して、自分のことはそのうちやろうと我慢してきた私たちが、誰かの役に立たなくてもいい、成功する見込みがなくてもいいから、ただ自分のために時間を使う。
これまで社会的責任や将来への備えに縛られていた分、その呪縛から解放された時の自由度は測り知れません。
うーん、確かに。
そのうちがいつ来るかわからなくなった今、今までと同じように自分の気持ちを後回しに続ける必要があるのか、理由はやってみたいからだけで十分なんです。
すごく腑に落ちました。でも、成果を求めずに、ただやってみたいからっていうだけの理由で行動を起こした時、そこには一体何が残るんでしょうか。形には残らないとしたら、私たちの心に何が手に入るのか。
12:08
そこがこのテーマの最も興味深いポイントです。結果として残るのは、成功したとか誰かに評価されたという外部からの承認ではありません。
では何が残るんでしょうか。
ずっとやってみたかったけど、もう今さらだと諦めていた。それに、もう一度手を伸ばせたという経験です。
手を伸ばせた経験。
その経験自体が、やれた、できたという静かで隠しな感覚として心に残るんです。
やれた、なんだかひらがなの柔らかい感覚ですね。思ったほどうまくいかなかったとしても、プロみたいに立派にできなかったとしても、手を伸ばせたこと自体がやれたに変換されるんですね。
そうです。そして一つでもやれたという経験ができると、人間の心は不思議なもので、自然とじゃあ次も何かやってみようかなという小さな希望を生み出します。
次もやってみようかなですか。
はい。来月やってみたいこと。今度行ってみたい場所。人生の意味を見つけ直すような大げさなものではなく、ただ次があるという感覚。これだけで現在という時間の見え方は全く違ってきます。
日常の延長にある小さな好奇心に従うだけ、これなら体調が悪い日や何もしたくない日があっても罪悪感を感じなくて済みますね。
もちろんです。ただしここで注意していただきたいのは、これは心理学的な効果を狙って無理やり動けという脅迫観念ではないということです。
動けない日は後ろでパスを回して時間稼ぎをしてもいいんですよね。
その通りです。休む時間も静かに過ごす時間も決して無駄ではないんです。重要なのは本当は心の中にまだやってみたい気持ちがあるのに、やったところで何になるんだとか、どうせ先は長くないしと、自分の気持ちごと自分自身で先に終わらせてしまわないことなんです。
ああ、自分で自分の可能性に蓋をしないと。
ええ、やらなければならない。ではなく、ちょっとやってみてもいいか。その軽やかさが大切なんです。
アディショナルライフは残り時間を成果で埋めるための時間じゃないんですね。誰かに証明するためでもない。大げさに人生を変える必要なんてどこにもなくて、そういえばあれやってみたかったなぁと思い出して、まあちょっとやってみるかと動いてみる。それくらいで十分なんですね。
はい、十分豊かになります。
人生の残り時間は本当のところは誰にも正確にはわかりません。だから急いで生きる必要はない。せっかく残された自分だけのアディショナルライフなんですから、やりたいことまで自分で先に終了の笛を吹いて終わらせる必要はないんですね。
その通りだと思います。
今日のディープダイブを通して私たちがいかに普段の言葉とか成果っていう呪縛に縛られているかを痛感しました。最後にリスナーのあなたに少し考えてみてほしいんです。
サッカーの試合でもアディショナルタイムに入った後の方がこれまでの90分の重圧からふっと解放されて、今までで一番自由で劇的で美しいプレーが生まれることってありますよね。
15:04
ええ、よくある光景です。
もし今私たちがいつかやらなきゃとか、何か成果を残さなきゃっていうプレッシャーから完全に解放されたとしたら、あのあなたがこの自分だけのアディショナルタイムで最初に蹴ってみたいボールは一体どんなボールでしょうか?
15:20

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