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2022-12-21 23:21

#5-1 アートとは?ちまたとは?NPOクリエイティブサポートレッツ久保田瑛さんが一周廻って浜松に戻ったいきさつ!

ゲストプロフィール

久保田瑛。92年生まれ浜松市出身。大学時代、シェアハウスに住みながら他拠点生活を送る。重度の知的障害がある弟、久保田壮(たけし)との生活の中で、家族と社会、私と公の狭間で揺らぎながら生きる。障害福祉サービス、アートプロジェクト、文化センター事業などを行うアートNPO、認定NPO法人クリエイティブサポートレッツスタッフ。

認定NPO法人クリエイティブサポートレッツ:http://cslets.net
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ニューコモン商会のラジオローカリアンズ
東京から静岡の地元に戻り、企業、今は田舎で生活する二人がローカルで暮らすことで見えてきたちょっと未来や楽しい友人をコモン共有地として発信する番組です。
Uターンや地方のローカルな今をお伝えしていきます。
少し久しぶりで機会が空いてしまいましたけど、今日はまたゲストをお呼びしております。
NPO法人クリエイティブサポートレッツの久保田瑛さんです。よろしくお願いします。
NPO法人クリエイティブサポートレッツのスタッフの久保田瑛と申します。
今は福祉を軸にしたネイバーフードシティを進めるまちづくり事業を担当して進めています。
クリエイティブサポートレッツは20年間続くアートNPOでして、福祉障害がある方の重度の知的障害がある方の福祉サービス事業や様々なアートプロジェクトか文化事業などを行っているNPOです。
私の母がそこの代表でして、弟が重度の知的障害があって、そのNPOが20年前に誕生したという経緯があります。今日はよろしくお願いします。
素晴らしい、スマートなセッションでございます。
1000回ぐらい言ってるんじゃないかって、ヨドミナイ。
クリエイティブサポートレッツは浜松にいろんな活動されていて、アートNPOであり福祉事業所でありということだと思うんですけど、これ多分行かないとちょっとわからないかもしれない。
なかなかこれ説明しだしちゃうとまたすごい時間かかる。1時間、2時間いっちゃうんで、ぜひそこはクルベスだし、ちょっと今日の話聞いて興味湧いた方はホームページとか情報貸しもかなり。
ぜひホームページとか、あと観光ツアーも月一でやってますので、ぜひ観光に来ていただけたらと。
アクセスしていただいて。
もう3つ入ってるもんね、アート、福祉、観光ってそんなにやれるのかっていうね。
まちづくり事業めちゃくちゃ。
何やってるんだって感じですね。
かなり言葉だけだとなかなか捉えどころがないかもしれないんで、ちょっと調べてアクセスしてもらえたらいいと思うんですけど、今日はレッツもそうなんだけど、どちらかというとあきさんにフォーカスした話を聞いていきたいなと思うんで、その辺よろしくお願いします。
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イエーイ!
結構聞いてくれてるっていうことなんでね。
めっちゃ聞きましたよ。
ありがたいですね。
あれですよね。
どこの生まれですか?
私は静岡市、生まれは静岡市ですね。
父と母は静岡市の出身の人なので、生まれは静岡市で、でももう3歳ぐらいで浜松にみんなで家族全員が引っ越してきて、もう気持ち的には浜松生まれ浜松育つみたいな感じです。
どんな子供だったかっていうのをね、いつも紐解きながらちょっと聞いてく感じなんで、今回もそんな感じでいいですか?
どんなお子さんだったんですか?
これいつも聞きながらめっちゃアバウトやなと思いながら聞いてるんですよ。
めっちゃアバウトだね。
めっちゃアバウトです。
でもそうですね、最初の自己紹介にもあったんですけど、4歳下に重度の知的障害がある弟がいて、なのでもうほんと結構小さい頃から、自分と家族みたいな生活のところで、結構狭間で揺れてたような子供でした。
結構センシティブな子だったりとか、小学校のとき若干不登校になりかけて転校してとか、そういうこともあったりとかして、子供自体はいじめられてとかそういうことじゃないんですけど、いろんなものを感じ取るタイプで。
感じ性が豊かだった。
そうですね、よく言えば。
朦朧に受けちゃうというか。
そうですね。
あと弟が生まれて、結構いろんな知的障害だけではなく、後進後外列とかいろんな病気というか障害を持っていて、手術をする期間が長かったので、4歳ぐらいから5歳ぐらいまでは結構親戚の家をてんてんと預けられるみたいな。
いられないから預けてって。
その辺も結構影響するよね、小さいときに。
そうなんですよね。
母はずっと入院してて、手術のためにずっと弟と入院してて。
父は和食の料理人だったので、京都に修行に行っててみたいな感じで。
家族。
家族みんなバラバラみたいな。
なるほどね。
そういうのもあったりして。
もうその当時はNPOはあった?
まだないか。
そうですね。2000年に立ち上がったので、弟が生まれたのが1996年なので、4年間ぐらいは手術とか、母も専業主婦をやりながら暮らしてて。
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もともと美大出身で建築系だった母が、弟が生まれたことを経緯にバリキャリーの人だった。
ステップアップをしていくのを目指せた母が、弟が生まれたことを経緯にそれがガラッと変わって、今みたいな預けるところとか当時はなかったので。
もう家に入るしかないみたいな。
家に入るしかないみたいな中で、母がアートと出会って、障がいのある人の表現とかっていうのを出会って、最初はお母さんたち5人と、5人ぐらいのお母さんたちと一緒に共同で立ち上げたNPOを。
そうなんですか?
そうなんです。
一人じゃないんですか?
一人じゃないです。
その同じような境遇というか、障がいのある子があるお宿っていう。
でも本当こう、家にいると煮詰まっちゃうから、お母さんたちも子供も一緒に勉強する場所に行く。
煮詰まっちゃう。
煮詰まっちゃう。
煮詰まるよね。
今、母のメタの話してますから、私の自分の話じゃない。
いやいやいや、超絶あるです。
煮詰まるよね。
そうだよね。
そうですね。
でもそういう、5人で作ったNPO。
今、5人の方たちというか、残りの4人の方たちも一緒にやってるんですか?
そうですね、今ちょっと語弊がありましたね。
最初はお母さんたちとの共同団体みたいな感じで、NPOでもなかった。
全身みたいな形ってことか。
そうですね。
2004年にNPO化するんですけど、
でもだんだんやっぱり、アートと表現みたいなところだと、
一般のお母さんたちとかは、
どうだったんですかね、なかなか母の言葉を借りて、今しゃべってるだけなんですけど、
折り合いがつかなかったりとか、
あと結局みんな、自分のお兄ちゃんお姉ちゃんとかがいて、
その子たちの塾の送り迎えとか、
だんだんライフスタイルが変わってくると、
やっぱりそういう、居場所の活動みたいなのからちょっと離れていくのがあったみたいですね。
その4年間を経て、今度はもうお子さんでNPOとして。
そうですね、あの母がみどりさんっていうんですけど、
みどりさんがNPO化して、
ガッツリ、今度はアートと表現と障害のある方とみたいな感じで、
方針を振って助成金取って活動していくみたいな感じに変わっていった。
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それが始まった2004年で、あきさんは何歳ぐらい?
私はですね、小2?小2、3?
いや、そうですね、たぶん2004年で、小学校だったんですね。
その活動に呼ばれたっていうよりも、
単純に楽しいし土日行くところもないし、
友達とかとの遊びとか、フォートボールとかいろいろやってたんですけど、
フォートボール?
ちょっと地元の浜松にもわかんないかもしれないですけど、
ゴールが人のやつ?
そう、ゴールが人のやつ。
懐かしい。
懐かしい。
フォートボールとかやってたんですけど、
そういうのの狭間にこの活動は遊びに行ってて、
当時は障害のある方とかってあんま思わず、
普通に一緒の友達みたいな感じで、
みんなで絵描いたりとか音楽のセッションしたりとかっていうのに、
小さい頃から一緒にやってますね。
どんどんどんどん大きくなっていって、多感な時期に突入していくわけですよね。
そうですね、自分のアイデンティティみたいなところが、
ちょうど小学校、高学年ぐらいから出てくるじゃないですか。
自分とは何だ?何がやりたいんだ?夢は何だ?
その時に私も単純に絵とか描くのが好きだったりとかしたので、
美大に行こう、美術のほうに行きたいなって思ってたんですけど、
一緒の講座に行ってる、レッツで関わってる子たちと、
一緒のお絵かき講座とかにも一緒に行ってたんですけど、
先生が魚の絵を描けっていう、絵を描こうみたいなテーマの時に、
私はちゃんとデッサン、教えてもらった通りにデッサンをして描いてる横で、
絵の具がグシャー!
すごいボディーペインティングパパーン!みたいな子たちがいて、
魚とは?
魚とは?魚じゃないの?せいなの?みたいな。
あともうめちゃくちゃ描き込んで、お花いっぱい描いて、
もう紙破れるぐらい描きまくる子とか全然いて、
先生がその子たちの素晴らしいわねって言われた瞬間に、
なんだこれは?という感じとか、
でも自分から見ても、やっぱそのパワーみたいなものは圧倒的だったので、
自分がこのツキハキまで描いてる、面白いとも思ってないデッサンをしてる横で、
本人たちはその友達たちというか、
障害があるんですけど、
メンバーたちはすごい生き生きと描いてて、
いやこれは同じ土俵で表現とかって、
揚げられたら負けるぞみたいな、
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小学校ぐらいの、高学年ぐらいの、
感じでいたんだね。
そうですね、感じたので、
でもアートとか表現に関わるのはすごく好きだったし、
私自身が絵描いたり、その時は絵描いたりとか、
あと文化祭とかそういうのを企画したりとかってもともと好きだったので、
将来はそういう仕事に就きたいなと思って、
高校の時とかはアートマネージメントとか文化政策の専攻で、
ちょっと進学したいなって感じで思ってます。
でも高校の頃からそれだけビジョンをしっかり持ってるとかって言って、
結構珍しいような気もしますよね。
出来すぎですよね。
ほんと出来すぎだと思う。
出来すぎっていうか、
なんかちょっと、あれじゃなくて頑張りすぎだった気がしますね。
今からはもっと。
今からはもっと自分で振り返ってもらう。
思います、思います。
切実な的な感じ?
なんかやっぱこう、健常の自分みたいな。
やっぱ弟とすごい近いので、兄弟で。
弟が障害があって、私は普通って言われてて、
普通の自分に何か出来ることみたいなのを、
考えたら終えないみたいな。
そういうとこがちょっと真面目でしたね。
周りに結構大人が多かったので、
アーティストさんとかもよくいっぱいいて、
いろんな価値観に触れてたので、
そういう意味ではひねたこともあったかもしれません。
ひねたことね。
普通って言われることの苦しさというか、
苛立ちみたいなものって、
なんかあるかもしれないですよね。
しかもそれが自分が興味あるアートの領域で、
全く追いつけない才能みたいなのが、
見せつけられちゃうわけだよね。
そうですね。
土俵がそもそも違うっていう感じなんですかね?
そんなことないですよね。
難しいよな。
やっぱなんか、
誰に評価されるわけでもなく、
本当に自分のルーティン的に、
かかざるを得ない衝動みたいなのが、
あるわけですよね。
飯食べたいって言ったら同じってことですよね。
やっぱそれを真横で見ると、
特に今だったら、
大人になった今だったら、
違うふうに見えたのかもしれないんですけど、
やっぱ子供の時は、
この衝動が私にあるんだろうって思って。
なるほどね。
そこはぐるぐる考えてるもんね。
飯食べたいっていう、
本当に飢えてる時の衝動みたいなものが、
ある種、絵を描くとかっていうような行為として、
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現れると、
それは確かにすげえパワーですよね。
そうですね。
それに全勢力かけられないもんね、なかなかね。
なんかやっぱ、携帯一枚通しちゃうっていうか。
そうなんですよね。
すごいな。
そうですね。
あと関わっている、
NPO自体に関わってくださってたアーティストさんたちも、
すごい面白い方が多かったので、
音楽家の方だったりとか、
音楽家もフリーな、
フリーの本当にコンセプチャルアートの、
ピアノを急に燃やしちゃうとか、
そういうことがあったね。
ピアノを急に燃やしちゃう。
もう一回噛んで。
結構自分の学校で教えられている教育と、
レッツで見るものが全然違うから、
周りのいろんな人に、
これは何?これは何?みたいな。
なんかそれが面白い。
教具としてはすごい特殊。
特殊感。
アーティストとか、
いろんな活動とか表現とかを、
高校まで勉強して、
じゃあ大学行きました。
それで触れて、
そこからある程度の価値観が、
揃ったところから勉強して、
こういうのもあるんだなとか、
ああいうのもあるんだなって。
普通だとすると、
それがまだ固まりきってないときに、
家帰ればドーンってなってて、
学校行けば勉強しなさいってなってて、
でまたレッツ行くと、
またドーンってなってるわけでしょ。
そうなんです。
すげえ。
すごいよね。
国際称ですね。
そんな感じで。
でもほんとそんな感じがですね。
だからその中で、
アイデンティティって何だろうみたいなのを、
考えざるを得なかったっていうのがあるよね。
そうですね。
それめちゃくちゃハードだな。
毎日結構大変。
疲れそうな。
自分のアイデンティティを形成するっていうときに、
そこまで極端に毎日揺さぶられるっていうのは、
すごい想像絶する。
でも私自分で、
かといってめっちゃアートが好きみたいな子供だったわけでもなくて、
普通にさっき言ったポートボールとか、
小学校の時から中学バスケ部やってて、
部活入ってるんですけど、
めっちゃ部活にやってるみたいな打ち込んでる時期とかもあって、
その辺のバランスみたいなのは、
どっちかに偏るとしんどいなっていうのは、
当時から若干思ってて。
なるほど。
ちょっと分散してる感じが。
なるほど。
今でも中学、
しかもバスケ部めちゃくちゃ怖いバスケ部で、
先輩たちがめちゃくちゃ怖かったんですけど、
でも逆にギャル文化に触れて、
はーって思ったりとか。
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ギャル文化ね。
ルーズソックス全然先輩たち履いてた世代だったので、
バスケして試合出た後に、
ルーズソックスいちいち直しに来たりとかして、
めんどくさい。
中学校でみたいな感じとか。
でもそれでもバスケ部を辞めずに、
今でもその当時の友達とか、
全然境遇は違うんですけど、
浜松で会ったりとか、
全然今してるんで。
かといって、
アーティストとかいろんな人に出会ったから、
そっちのアートの世界にどっぷりのめり込んで、
もう家で自分で描いてみたいなタイプじゃない?
結構バランス取りながら。
ある種中途半端にどっちも行ってたんですよね。
学校もうちたちそっちも行ってた。
アートは好きだから、
アーティストではないけど、
アートマネジメントとか、
そういうことを勉強しようと思って、
大学に進んだっていう感じ。
ちょうど2008年ぐらいの時に、
うちのNPOがタケシ文化センターっていう実験事業をやって、
それがオルタナティブな場を作るっていうプロジェクトだったんですけど、
今、弟の名前がタケシって言うんですけど、
そのタケシさんがいろんな問題行動をするんですね。
タッパーにいつも石をなられてガシャガシャ鳴らしたりとか、
机のものは全部投げ倒すとか、
紙は絶対破るとか、
絶対破る。
うちの子供ですね。
そうなんですよね。
本当にそれが学校とかだと問題行動って言われてるんですけど、
誰がその問題って提起するんだっていう話もありますよね。
それが当時のアーティストさんたちが、
逆にタケシさんを全校庭する場所っていうのが、
オルタナティブな場所になるんじゃないかっていうので、
タケシが破っていい紙量産したり、
審判台の椅子のカフェ作って、
タケシさんは投げ倒せない、届かないんだけど、
すごい上にカフェがあるとか、
それ見てみたかったね。
そうなんです。
今の百合の木通りの文仙堂っていう本屋さんの跡地を借りて、
やってたんですけど、
半年くらい、
正味1年くらいやったんですけど、
5,000人近くの人が会場してて、
今でもつながってる方が多くて、
子供から大人までいろんな人が来て、
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そこからやりたいこと、
立ち上げる企画が生まれたりとか、
いろんなことが起こって、
それにちょうど私、高1くらいだったので、
部活の剣道部だったんですけど、
剣道部の帰りに先輩とか連れて、
ちょっと寄ってきましょうよって。
寄ってくる。
お茶一緒に飲んで、
先輩とプリクラ交換して帰るみたいな。
ハイブリッドな。
すごい。
でも自分的には、
それの何がアートなのかがわからなくて。
当時。
そうなんです。
絵学とか、
音楽のワークショップをするとかは、
まだアートだって言われて、
理解ができる方向性が入ってある。
繁重に入ってるよね。
入ってるよね。
美術館とかでもあるよねみたいな。
飾ってあるよね、確かにね。
当時の2000年代後半の、
いろいろアートプロジェクトが出てきた場所。
結構ニンチなアートなんですけど、
オルタンテルな場所がアートだ、
みたいなことを言うので、
すごい、
ある種の特殊な例だったので、
全然わかんない。
しかもタケシ文化センターっていう名前が、
すごいやっぱムカついて、
なんでアウキ文化センターはないんだよ。
怒りが。
怒りが。
本当にその時、
来てるアーティストさんに、
いや、なんでアウキ文化センターはないんですかって、
ずっと言いまくって、
面白がられて、
ニヤニヤこう。
もうつっかかってきたぞ。
つっかかってきたぞって言われて、
話して、
結局、
もうこんなのアートじゃない。
私はもっと東京に行って、
ちゃんとしたアートを見て、
ちゃんとしたキューエーターかディレクター、
箱本とか電通道とか行ってるんだ、
みたいな気分になって、
言ってて恥ずかしいですけど、
東京に進学しようと思って、
その辺がもう原動力だったってことで、
その当時のね。
行きました。浪人しましたね、それで。
次回へ続く。
23:21

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