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にゃおのリテラシーを考えるラジオ、読書と編集の千葉直樹です。
このチャンネルでは、読書とIT時代の読み書きソロ版を中心に、様々な話をしています。
今回のタイトルは、
本を語る
宇多田ヒカルの言葉
歌詞の魅力とその変化を考えてしまう、という話です。
最近、ネットフリックスで2018年に幕張メッセで行われた宇多田ヒカルのライブのビデオを見ました。
宇多田ヒカルはデビュー当時から大好きで、CDは大半を持っているくらいなのですが、
今は音楽をサブスクリプションで聴いていて、新しい楽曲を追うことが多くなっていて、前ほどは聴かなくなっていたのです。
でも、ライブのビデオを見て、宇多田ヒカル熱が戻ってきました。
外を歩くときなどは、宇多田ヒカルの曲ばかり聴いています。
そうすると、最近流行っているJ-POPの楽曲とどこが違うんだろう、と考えるようになりました。
今流行っている楽曲も好きなものはたくさんあるのですが、
若いアーティストの楽曲の歌詞は、なんだか言葉を詰め込みすぎではないかと思うことがあるのです。
歌詞には伝えたい思いを込めるものだと思うのですが、その表現が素直すぎるというか、普通の話し言葉の延長線上にあるという感じです。
そうすると、どうしても言葉数が多くなってしまうのでしょう。
メロディーの中に歌詞をギューギューに詰め込んだ感じになってしまっているのですね。
宇多田ヒカルの歌をそういう観点で聞いてみると、歌詞がきちんと詞になっていると思うのです。
それは本の宇多田ヒカルの言葉を読んでみると一層はっきりします。
使われている語彙がかなり文学的で、隠誘も多いのです。
説明的ではないイメージを描いていて、日本語の言葉が持つ響きを上手にメロディーに乗せているとも感じます。
中学生の頃、滝連太郎の花を聞いたり歌ったりしたときに、
日本語の美しいメロディーを感じてすごいなぁと思ったことがあります。
春の浦々の隅田川
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という歌ですね。
これ、ただ話すときのリズムやイントネーションがきちんとメロディーに乗っていますよね。
宇多田ヒカルの歌、言葉にはそういう美しさを感じるのです。
J-POPが歌謡曲と呼ばれていた時代には、専業の作詞家が歌を作るのが普通で、
今よりも詩的な表現がふんだんに使われていました。 宇多田ヒカルの歌詞はそういう流れを組んでいる感じがします。
最近の流行りの楽曲が直接的でわかりやすい表現を使うようになったのは、
詩の世界のちょっと難しい解釈みたいなものを避けているのかもしれません。
うがった見方かもしれませんが、ハイコンテキストな世界を理解できない人が増えている、または、
理解できない人が目立ちやすくなったのかもしれないと思ったりもするのです。 時代によって表現が変化するのは当たり前ですから、これは開古主義が過ぎる考え方かもしれません。
まあ、だからといって新しいJ-POPを聴かないということはありませんし、好きな曲もたくさんあるのですが、
宇多田ヒカルの歌を聴くとそんなことを考えてしまうのでした。 読書と編集では、ITを特別なものではなく、常識的なリテラシーとして広める活動をしています。
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今日もワクワクする日でありますように。 千葉直樹でした。
ではまた。