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2025-02-17 10:36

『ごんぎつね』の最後の場面

『ごんぎつね』の最後の場面で「ごんは死んでいない」と読解する生徒が一定数いるという話… 一般的には「死んだ」と解釈されるごん “正しい読解"と"解釈の自由性"について考えさせられる問題 - Togetter [トゥギャッター]
https://togetter.com/li/2511372

ごんぎつね 全文
https://www.yanabe-e.ed.jp/01nankitiMap/nankiti_siryo/gon_zenbun.htm
 

サマリー

『ごんぎつね』の結末について、登場人物ごんの死に関する多様な意見が出されています。解釈の自由や文学の楽しみ方について考察され、具体的な描写から導かれる結末の象徴的な意味が語られています。

解釈の多様性
えっとね、こういう日記を撮り始めると、一気に連続してやりたくなってしまうものなんですけども、
こないだ、あのーなんだっけ、トギャッターっていうサイトですごい面白い記事を見かけて、
これは確かになんか考えさせれるなぁと思ったんだけど、あのー こういうタイトルでした。
ごんぎつねの最後の場面で、ごんは死んでいないと読解する生徒が一定数いるという話、
一般的には死んだと解釈されるごん、正しい読解と解釈の自由性について考えさせられる問題という、
まあなんか長いタイトルなんですけど、要はですねこれ、ごんぎつねだったじゃないですか。
小学校の教科書に載ってたごんぎつね、いたずら好きの狐が、実は最後、優しい側面もあって、いろいろ助けてくれたんだけど、みたいな話、覚えてますかね。
これ最後ね、あのー、ごんぎつねは、まあ死んだでしょっていうふうに僕は思ってたんですよ。
ほんと何の疑いもなく、ごんぎつねは死んだものと、僕は完全に思っていたんですよね。
だから死んでないっていう解釈があるって聞いて、あれそうだっけと思って、生きてるんだっけと思って、もう一回ごんぎつねを読んでみたんですよ。
あえてもう昔の作品だからネットでもいろいろ公開されてるんでね、サクッと読めるんですけど、読んでみたら、僕はやっぱ死んでるんじゃないかなと思うんですけどね。
ただね、でもね、確かにはっきりと死んでいるなんて書いてないんですよ。
主人公の標柱という人に歌えたところで終わっていると、その後ごんが死んだとは一切書いてないんですけど、
まあそれでも、まあやっぱその描写からして、ごんぎつねは死んでいる、ごんの死を指し示しているというのはほぼ間違いないんじゃないかなと、僕は思ったんですけど。
まあでもねこれ、解釈の自由ってのはほんと人それぞれなんで、生きていると思う人いても全然それはいいんですけども。
ただまあこれほとんどの人が死んでると思うんだろうなと、まあ普通そう思うんだろうなというふうに考えざるを得ないような描写だなとは思いましたけどね。
まあでもこれすごい面白いですよね。はっきり書いていないので、その明示されている情報、暗示されている描写、どっちを重視するかという問題なのかというか。
あと文学の楽しみ方っていうのはね、解釈とかって明らかに明示されている情報だけ拾い上げるものじゃなくてね、もうちょっといろいろ楽しみ方あると思うので、これ非常に興味深いなと思いました。
物語の概要
ちなみにごんぎつねのあらすじをね、一応説明するとどういう話かというと、もう昔の、昔々、いつなんだろう、昭和初期とか大正時代とかなのかな、
その地方の村ですかね、そこで、もっと前なのかな、江戸時代なのかな、大昔の日本でひょうじゅうというね、若者がその村に住んでいて、村にはごんぎつねといういたずら好きの狐がいたんですね。
もうちょっといろいろ悪さするんですよ、その狐は、人間のところまで来て。ある日ひょうじゅうというね、主人公が川で網川なんかで魚獲ってたんですよ、うなぎだとかいろんな魚獲ってて、で、獲れた魚をね、腰につけたビックとかに入れて、どんどん魚獲ってて、で、わりとたくさん魚獲れたみたいで、ひょうじゅうはそのビックを置いて、ちょっとどっかに出かけたんですよね。
で、その隙にごんぎつねがそのビックの中の魚を取っていたずらして、どんどん川に逃がしたりとか、あとうなぎは自分で持って帰ったりとかしてしたんですけど、まあそのシーンをまたひょうじゅうに見つかり、あのごんぎつねまたいたずらをしやがったなみたいな感じでね、まあ思われたんですけど、そのすぐ後にひょうじゅうのお母さんが亡くなってしまうんですね。
病気だか寿命だかわかんないんですけど。
で、その葬式のやってる様子をごんぎつねがあの遠くから見ていて、あのひょうじゅうのお母さん亡くなったんだと、自分が盗んだうなぎはもしかしたらひょうじゅうがお母さんに最後食べさせてあげたかったうなぎなんじゃないかと、お母さんはうなぎを食べたいと思いながら死んでいったんじゃないかというふうにごんぎつねは思って、
ちょっと自分のいたずらというか、自分の行いをだいぶ後悔したんですね。
で、それからというものをね、このごんぎつねはひょうじゅうの家にいわしを投げ込んであげたり、山田とえた栗を投げ込んだりとか、いろいろ罪滅ぼし的なことをしてあげるわけですよ。
で、ひょうじゅうはもうこれ誰がやってるのかわかんないので、まあ神様の仕業かなとか思ってたわけなんですけど、ある日ね、家の前の庭でなんだか庭仕事をしていると、またごんぎつねがね、ひょうじゅうの家に栗を届けてるところをたまたま見かけて、で、家に入るごんぎつねをひょうじゅうが追いかけて、で、ひなわじゅうでそのごんぎつねをドーンと打つわけですね。
で、きつねのほうを近づいてみると、そのかたわらにはたくさんの栗が置いてあって、それでひょうじゅうは、あ、ごんお前だったのかと、俺の家に栗を届けてくれたのは、みたいなことをそこで気づくわけですね。
で、最後ね、どんな描写かというと、ごんはぐったいと目をつぶったままうなずきました。ひょうじゅうはひなわじゅうをばたりと取り落としました。青い煙がまらず口からおそそく出ていました。
ここで終わりですね。なのでね、作品読むと、ほんと、名詞的に死んだなんて書かれていないんですよ。むしろね、うなずいた。ごんはぐったいと目をつぶったままうなずきました。とあるので、むしろね、物語が終わる時点では生きてるんですね。生きたまま終わってますね。
だから当然そのまま回復したのではないかとか、当たりどころがよかったんじゃないかみたいな、なんて解釈もね、もちろんありですよね。だから例えば、まあほとんどないと思うんですけど、テストとかでね、このごんぎつねはそのことをなりましたか?正しい方を選んでください。なんていう問いかけは、たぶんできないんじゃないかなと思うんですよ。これもどっちでもあり得るんでね。
名詞的にはね、むしろ生きてる方が有利。でも一方であらゆる描写が死を暗示しているという、そういう状況ですね、これね。なので、どっちを拾うかっていうのはもうそのひと次第ですね。行間を読むとかね、情景描写から解釈すると、まあ死んでるよりなんじゃないかなと僕は思うんですけど、でも最後のシーンでは生きてるんですよね。だから、まああなたはどっちだと思いますか?
理由とともに答えてくださいみたいな問いかけだといいんじゃないかなと思いますけどね。これはどっちも正解なので、このね、標準はひなわじゅうをばたりと取り落としました。青い煙がまだ頭口から細く出ていました。このばたりと取り落とす青い煙が細く出ていたとかね、この描写は死を予感させるとも言えるし、まああるいはこれをね、
ゴンの生命力とか、しぶとさだと呼んだっていうのもまあいいと思いますし、まあそれは自由ですよね。はっきりと書いてあること以外に材料を求めてどっちの結末になったかを考えられると一番いいんでしょうね。
これ小学校の教科書に載ってると思うので、このゴンギツネをどう読むかとかどう解釈するかによって、今後のその後の文学の正しみ方っていうのは関わってくるかもしれないんじゃないかと思いますけども、こういう文学作品って間違い探しじゃないので、ここにこう書いてあるからこれが答えですとはならないんじゃないかなと思いますよね。
その辺は評論文の読解とは全く違うはずなので、僕はなんか多分小学校の頃、ほんと何の疑いもなく直感的にまあこれ死んでるなと思って、で今改めて読んでみてもこの描写が暗示しているのは死だなと思うんですけど、真逆のこと考えて今にいた人も当然いて、これね、やっぱり両方読めるからこの作品って、
いいんだろうなと思いますね、ゴンギツネ。改めて読んでみてはっきりと書いてないっていうのがとてもいいなと思いました。やっぱり教科書に載るような昔の作品ってめっちゃいいですね。ちなみに僕が好きな教科書に載ってる国語の作品、えーっとね、ベスト3を発表すると、第3位がなんだっけな、名前はっきりと覚えないけど、
ちーちゃんの影送り。で、第2位が赤い実はじけた。第1位がね、道徳一なんですけど、心。夏目漱石の心ね。もう1個がハルデムンですね。ハルデムンはね、詩です。これ誰が書いたかちょっと思い出せないんですけど、めちゃくちゃいい詩ですね。
これは心かハルデムンかはね、ちょっと考えすぎがたいですね。いいっすよね、国語の教科書に載ってるやつ。僕ね、結構国語の教科書はね、大好きで、毎年4月に教科書配られると、あとの本までもう全部読んじゃうんですよ。いい作品載ってるからね。はい、ゴンギツネもめっちゃよかったです。はい、恋日記でした。
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