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2025-05-29 09:16

238 貧しさは教育力という今時経験できない生育状況を語るw

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物質的に豊かになった時代。でも私の少女時代はものにあふれているわけではなく・・・・仕方なしにあるものを読んでいましたw

 

#教育 #昭和 #教科書 #遊ぶものがないから教科書読んでた

サマリー

このエピソードでは、貧しさが教育力に与える影響について、著者の自身の経験を通じて語られています。特に、限られたお小遣いの中で工夫して遊ぶことで、知識を得る力が育まれたことに焦点を当てています。

著者の育った環境
皆さん、こんにちは。今日も明日も授業道、黒瀬直美です。この番組では、中学校・高等学校の国語教育、働く女性の問題、デジタル教育についてゆるっと配信しています。
今日は238回、貧しさは教育力という今時経験できない生育状況を語るというタイトルでお届けしたいと思います。
先日、いろんな先生と話をしていて、どうやったら生徒が勉強するようになるかという話になりまして、そういえば、私がした話が今回の話です。
私は3人兄弟で、全部3姉妹で、自分が長女なんですね。それで父親がサラリーマン、母親が専業主婦です。
父親は大学を出てなくて、高校から就職して、2、3回転職を繰り返して、そしてサラリーマンとして安定した地位を築きながら、3人子供を育ててきて、
母はパートをちょろっとしながら、ほとんど専業主婦で娘3人を育ててきました。
そんなに裕福な家庭ではなかったので、小さい頃から物を丁寧に節約しながら使うということをずっとしつけられてきたし、むしろそれが当たり前だったので、
私は本当に自分ながら思うけれども、結構節約をしながら育ってきただけあって、やっぱりどうしても物を節約するということについては当たり前のようになっちゃっています。
でもその代わり、自分でお金を設けるようになってからは、欲しいものは買い、節約できるところは節約するというような生き方になってきたわけですけれども、
そういった私が小さい頃どうやって育ってきたかということをお話しすることによって、貧しさは教育力ということが実感できるんじゃないかと思うので、これをお話ししたいと思います。
まず私たちは兄弟だったんですけれども、3人もいるからとっても育てるの大変だったと思うので、当時お小遣いが、例えば小学校1年生は100円、月に100円、2年生で200円、3年生で300円でした。
だんだん上がっていって、6年生で600円で、中学生になったら月に1000円、高校生になったら月に1500円というふうにお小遣いをもらっていたと思います。
なので小さい頃は漫画が欲しかったんだけど、妹と合わせてお小遣いで400円になるから仲良しを買おうねとかいうふうにして、お小遣いが増えたらあなたはリボン、私は仲良しっていうふうに、本当に少ないお小遣いの中から本当に欲しいものを厳選して買っていました。
だから漫画一つ一つが本当に貴重で、隅から隅まで丁寧にお便りの欄まで、そしてペンフレンド募集っていうところの欄まで隅から隅まで買った雑誌を読む癖になってしまったし、それから雑誌を読んだ残りのお金、70円とか80円とかしか残らなかったんだけども、それを貯めて自販機でジュースを買うのが楽しみでした。
で、友達と外に出かけて遊ぶっていうのは、お金をかけない遊びに自然となりますので、工夫してゴム飛びとか鬼ごっことか、それから自然のものを使った遊びっていうふうに工夫しながら遊ぶということで、お金を全然使わないで外の遊び場でいろいろ工夫しながら、本当に工夫しながら遊びを発見していたと思います。
こういうのがやっぱりゼロからいろんなことを見出すっていう頭の訓練になっているんじゃないかと、そういうふうに思いますね。
そして一番私が自分自身学力がついたなって思うのは、することがないので、お金がないから、工夫して遊ぶ以外にすることがないので、新聞ぐらいしか読むものがないとか、
それからテレビとかも父親がよくプロ野球とか自分の好きなテレビをよく見てたから、私たちチャンネル権がなくて、アニメぐらいしか見させてもらわなかった。
だからテレビも自分たち面白くないから、なんか面白いことないかないかということでしょうがなしに教科書を読むとか、そういったことをやってましたし、暇で暇でしょうがなくてテレビも面白いのがないときには、家にある百科辞典を読んで過ごしていました。
百科辞典ってはっきり言って飽きないんですよね。パッと開いて面白いなと思ったところを読む、そして面白いなと思ったところを読んでいるうちに、また興味が湧いてきた言葉に着目してそれを引き直すというふうに。
あの時代、家庭には百科辞典というものがおそらく一揃いぐらいはあったんじゃないかと思います。百科辞典を読むというようなことをやってました。
それからまたまた暇な時にも、教科書を読むだけでは飽きたらず、母親にせびって、母親は参考書とか勉強のものだったら結構お財布がゆるかったので、これから町の本屋に行って世界史の参考書を買って勉強したいのでお金をくれと言ったら、母親はお金を出してくれて世界史の参考書を買いに行きました。
できるだけ安く、できるだけたくさんの文字が入っている本を買ってきて、私暇だったので世界史の参考書をずっと読んでました。
本当に当時はラジカセといって音楽を聴く機器も他のお友達のお家にはあったんだけれど、私の家は買ってもらえなかったし、だからラジオも聴けなかったし、父親がカープを聴くのに使っていたからラジオも聴くことはできないし、当然ラジカセとかもなかったし、
当然のことながらCDとかも当時ないし、スマホもないし、本当にやることがないからしょうがなしに教科書や参考書や百科事典を読んでいたっていうね、まあそういった時代でした。
だから私がアニメや漫画っていうのが好きだったのも、当時はそれぐらいしか娯楽がなかったっていうこともあったんじゃないかなと思います。
そうやってしょうがなしに教科書や参考書や百科事典を読むっていうので、知らず知らずの間になんか知識が増えていったり、要するに学校で教えてもらうような、そういった学術的なアカデミックな知識っていうのが自然と回数目に入っちゃうんで、なんとなく学びっていうものの基礎がそこで作られたんじゃないかと思うんですよね。
なので今でも百科事典を引くっていうことで、言葉と言葉を関連づける癖はあそこでついたんじゃないかと思いますね。探求っていう言葉もあるけれど、自然と深掘りしていくっていうような態度も養われたんじゃないかと思います。
でもそれって自分の興味関心とかっていうよりも、経済的にあまり恵まれてなかったからしょうがなしに植えていたそのものを満たす先が百科事典であり教科書であり参考書であるっていうような形になっていたと思うんです。
もしこれが音楽を聴くものを与えられたりとかしていたらそっちの方に自分のエネルギーがどーっと傾いていってしまっただろうと思うし、今のようにスマートフォンが手に入ったとしたらそちらの方にエネルギーをずっと取られていたと思うし、そういった意味では時代というものの流れでしょうがなしに教科書や参考書や百科事典を読む羽目にはなったけれども、
現代の教育と比較
おかげさまでそこそこを考える力とか学ぶ力っていうのはついたのかなと思います。
ということで私の貧しさは教育力だったっていう、そういった経験をお話ししました。
今の生徒を見ていると物に囲まれすぎてて、学ぶっていうことの面白さっていうものをあまり知らされないまま、味わうことができないまま成長していくような気がしてなりません。
一体どういうふうな状況が教育にとっていいのかなっていうのを折に触れて自分の生育力を思い出しながら考えることがあります。
それでは今日の配信はここまでです。聞いてくださりありがとうございました。またお会いいたしましょう。
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