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こんにちは。横浜で15年以上、犬の保育園の先生を行っている、なおちゃん先生と申します。
本日9月30日は、息子の9回目の誕生日になります。
私にとっては、初めての子供になります。
彼の9回目の誕生日ということで、少し誕生前後のことを振り返ってお話をしていきたいと思います。
またしても台本出しの一発撮りになりますので、長尺になりそうな予感です。
切り抜きところで、どうぞ止めていただいて構いません。
2009年に私は株式会社を設立しまして、2012年に結婚、2013年9月30日に第一子を出産いたしました。
私はですね、若い頃、20代の前半に最長で2年半生理が来ない時がありました。
私が配信をしている船旅ですね、世界一周の船旅、約3ヶ月間だったんですけれども、実はその間も一度も生理が来たことがありませんでした。
生理用品をトランクに積み込んで行ったんですけれども、結局一回も生理が来ることなく船内で売りさばいていたという証拠のたくましい過去がありました。
帰ってきて、これは異常だなと思って、病院に帰ることにしました。
その時に、婦人科の先生に言われたことは、私は子供ができにくい体かもしれないから、今からちゃんと治療しましょうということでした。
そこから、2週間に1回ぐらいだったかな、抗体ホルモンを打ち、低要領ピルをホルモン剤と一緒に接種する治療が始まりました。
ピルは色々種類があるんですけれども、当時のピルというのは副作用が強くて、また筋肉注射もホルモン注射もとても痛くて、私はすごく嫌だったんですね。
そもそも20代前半の女子が毎回、婦人科に行くたびにお尻に注射をされるというので、それだけで結構屈辱的なことですね。
そして、大学を卒業してすぐに私はイギリスに留学したんですけれども、イギリスに留学をして、それから帰ってきて、東京の犬の教育施設に就職をして、そこを辞めるまでの約2年半、3年近く、一度も生理が来なかったんですね。
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そして、私は忙しさと治療の辛さということでもないんですけれども、治療への抵抗感から、婦人科に行くこともありませんでした。
当時は彼氏もいなかったし、結婚なんて全く考えてもいなかったし、子どもも欲しいと思っていなかったんですね。
それから起業することになって、結婚することになったんですけれども、結婚する前に、私は旦那さんに、実はこういうことがあって、私は子どもができづらい方だと思うということを旦那さんに最初からお話をしていました。
旦那さんは、それで犬でもたくさん飼って、2人で過ごそうと言ってくれました。
ところがどっこいね。1年後に、結婚式が9月だったので、約1年後に息子が生まれました。
とはいえ、私は結婚してすぐに子どもを授かるということを意識していなかったんですね。
というのも当時は、まだ会社を起業したばかりで、3年目だったので、妊娠がわかったときには正直一番最初に思ったことは、会社をどうしようでした。
当時、私は1スタッフ以上に働いていました。
スタッフのほうは、現場のトレーニングや送迎、それから飼い主さんへの採用、それからトレーニング、夜勤とやっていたんですけれども、
営業でしたり、イベントの興行、イベントの主催、それから各種のいろんな利用者交流会などに顔を出すようになっていましたし、
とにかくこれからこれからというところでの妊娠が発覚したんですね。
本当に息子には申し訳なかったんですけれども、どうしよう、いつまで働けるだろう、そしていつから働けるだろう、
それが妊娠がわかったときの一番最初の気持ちだったことを今でも覚えています。
そんな母の気持ちとは裏腹に、息子はすくすくとお腹の中で本当に丈夫に育ってくれました。
私も若いということもあったので、まだ30代前半だったのでね。
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なので、もうフルに仕事をして安定期に入ってからは、友達と二人で伊勢島に旅行に行って、毎日一万歩以上歩いて、伊勢神宮に安山渓をしてきたことも今ではいい思い出です。
そして息子は27週くらいのときに鯖子になりました。
鯖子になったんですけれども、彼はおきゅーと針ですぐにひっくり返ってくれました。
とても娘とは違って素直な子だったなとそのときから思いますね。
娘は同じ週数で鯖子になったまま、同じふうに処置をしてもらっても全くひっくり返ることがなかったです。
私は座りは重い方ではなかったんですけれども、座ることができないくらいとにかく働いていました。
スタッフの前では気持ちが悪いとか、ちょっと横になりたいとかいうことを言ってはいけないと自分に聞かせていたので、
職場では気を張っていたのでほとんど体調の悪さ、気持ち悪さを感じていなかったんですけど、
帰るとぐったりと家事も何もすることなく玄関で倒れ込んで、
そのまま旦那さんが夜11時になって帰ってくるということもよくありました。
そんな感じの妊娠時代を過ごしていたんですけれども、とにかく10ヶ月までは普通に現場に立っていました。
妊娠、出産の予定日から3週間前になってやっと通常業務を離れましたね。
離れて、お腹も大きかったので動きづらいし、スタッフとかお客様もすごく心配してくださるんですね。
「なおちゃん先生、帰って休んだほうがいいんじゃないですか?」とか言って。
でも私はその時はそういう休むということができなかったんですね。
まだに休むということがとても下手くそな人間だなと思っています。
身体が悪くならないとなかなか自分に休むことを許可できないという性分の人間なんですね。
それで10ヶ月まで現場に立っていましたけれども、3週間前になってやっと休むことができました。
それでも夏場だったので、8月中旬ぐらいだったのでホテルで忙しかったりとか、
みんながんばってるかなという形で見に行ったりとか、スタッフの受け入れに行ったり、
あとは経理をちょっと見に行ったり、現場の事務処理なども少しやったり、
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たまにクレモンは行かないんですけれど、ちょっと難しい案件が来た時には私が出て行ったりということはしていました。
そして、本当は息子の出産予定日は10月6日だったんですね。
なんですけれども、9月30日に生むことになったか。
9月29日に私は里帰りをすることにしていました。
予定日前1週間は何があってもおかしくないので、実家で私は寝泊まりをすることにしていたんですね。
まだその時は子供が他にいなかったので、実家であげぜんついぜんという形で、
やっぱり寝ろうということで、荷物を持って旦那さんが送ってくれて、
うちの実家の両親と一緒にご飯を食べて、じゃあ旦那だけ帰ろうということで、
玄関までバイバイ、じゃあ何かあったら連絡するねと言って別れたんですね。
その時に、私のお腹に旦那がポンポンと手を当てて、早く出てこいよって言ったんです。
そしたらその5分後くらいですね、本当に彼が玄関のドアを閉めて、
その後、まだ玄関に私はいたと思います。だから5分どころじゃなかったのかな。
すぐに破睡しました。赤ちゃんってお腹の中で聞いてるんですね。
それでですね、私はすぐに旦那を呼び戻してって言って、旦那さんに呼び戻しまして、
産むことになっている3人に電話をして、すぐに病院に連れてってもらい、そのまま入院となりました。
9月29日の夜11時くらいだったと思います。
もともと個室を予約してあったので、そこで私は寝泊りすることになりました。
翌朝、9月30日の朝65分でしたので、お腹が痛くて目が覚めました。
私はお腹が冷えて、お腹を壊したのかなと思ってトイレに行かなきゃと思って起きたんですけれども、
トイレに行っても別に何も出てくるわけではない。
そしたら、看護師さん、助産師さんが、「あ、それ腎痛ですね。」って言うんですね。
え、これが腎痛なの?って。
腎痛を経験したことがある方であれば、もしかしたらお分かりになるかもしれないですけど、
最初まだ腎痛が弱い時は、あれ?何か模様をしちゃったかなっていう感じの痛みなんですよ。
そこから始まるんですよね。何かを出したいのは同じですからね。
そして、朝6時くらいから腎痛が始まって、結局息子が生まれたのは、その日の夜23時49分でした。
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なぜ私がそんなに時間を覚えているかと言いますと、
朝9時、10時くらいから母親が駆けつけてくれたわけなんです。
いろんなポカリスエットだ、なんだかんだと持ってきてくれてね。
それで、私は実は立ち合い出産を旦那にお願いしていなくて、なぜか母親にお願いしていたんですね。
旦那さんは、できるとなら、あまり立ち合い出産に出る可能性はなかったんですよ。
それこそよく聞く話ですけど、立ち合い出産を見ると、その後妻のことを女として見られなくなるとか聞きますよね。
そういうことがわかったのかどうかは知らないですけど、
最初はどうしてもって言うなら立ち合うけどっていう感じだったので、
私も無理にとは言わないほうがいいかなと思って、
じゃあ、お母さんお願いって母親はびっくりしてたんですけど。
それで母が無人中から来てくれました。
ただ、あまりにも悲惨で私の分娩が進まなかったんですね。
夜9時頃になって旦那が会社から帰ってきて、母のいる病院に来たんです。
そこで旦那さんが、お母さんが朝からずっといらっしゃっているので、一度帰ってお休みされたらどうですかということで、
母は病院から実家も車で5分くらいのところなので、
じゃあそうしますということで、何かあったら連絡してねということで母は一度帰ったんですね。
時間はその頃かなり痛みが激しかったので、よく覚えていないんですけど。
旦那が怒ることになりました。
旦那にテニスボールを腰に当てて、もっと強く押して押してとか言って、
あまりにも強く押してもらったもので、次の日朝になっても今でも怒ってます。
私は呼吸が下手くそだったみたいで、吐くほうが多くて吸うことがあまりできなくなってしまって、
ちょっと下呼吸みたいな形になって、痛くて苦しいのにかつ口元にビニール袋を当てられるという、何の仕打ちだこれは。
本当に苦しかったのを覚えています。
それでですね、まだ終わらないの?まだ出てこないの?っていう感じで。
もう腎痛削除剤でも抵抗石灰でも何でもいいから早くこれを出してくれっていう感じで叫んでいましたね。
夜のたぶん11時くらいだったと思います。
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その頃になって、9センチ、子宮甲9センチとかって、あともうちょっとですとか言われてたんですけど、
力尽きてしまって私は、もう頑張れないかもしれないと思って泣いていたことを覚えています。
それで私の様子を見て、旦那が、あとどのくらいかかりますかねって聞いたんですね。
見に来た、婦人科の先生に。
そしたら、明日日付は変わるでしょうねって言われたんですよ。
その時に、私は冗談じゃないと思って、こんな痛いものを日付にまたいでたまるかと思って、
出てこーいって叫んで、もうなんか、本当は最後は生きんじゃいけないんですけど、出てこい出てこい出てこいって叫んだんですね。
そしたら息子もすごく頑張ってくれたみたいで、突然ね、全開ですってなったんですよ。
それで、よし全開だ、よし分泌室だっていうことで、分泌室に今度移動するんですね。
それで旦那は立ち寄りが全くなかったときに、お父さん、荷物を持って分泌室に行きますよって。
え、行くんですか?俺ですか?あなた以外誰がいるんですか?みたいな感じで、そこからいきなりバッタバタで。
私は当然、こんな痛くてうめいてるんだから、ストレッチャーとかで連れてってくれるんだと思ってたんですけど、歩けますか?って言うんですよね。
マジかよと。この病院で歩けって言うのかと思って、そしたら歩いた方が赤ちゃんが早く降りてくるんですよ。歩けますか?って。
もし歩けなければ車椅子出しますけどって言われたんです。
でも私ももう一個かも早くこの苦しみから逃れたいものだから、歩きます!って叫んで。
旦那もそっち向けでヨロヨロしながら、病院の廊下を伝えながら、
反対側に予算室さんに手を支えてもらいながら、分泌台にヨタヨタヨジ登ったのを覚えてます。
それから有名なラマーズ法ですね。ひひふーで、はいでは行きんでーって感じで、
もうその掛け声で3日目ぐらいで息子が出てきました。
もうその時の感想、第一の感想、終わったー。やっと出てきたー。
もうあれですよね、千と千尋の神隠しで、川の神様がね、お風呂に浸かって千尋にゴミを抜いてもらって、
最後スポーンって言って、お風呂からシューって抜けて、もう一回お風呂に入って、
最後、病気かなーって言うじゃないですか、あの心境ですね。
はぁー、終わったー、すっきりしたー、っていう感じだったんですね。
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その後ね、リアルなお話になりますけど、避けたところに割れたりとかね、
台湾に残っているのを中からグイグイ押されたりとかね。
非常にシュールなんですけど、赤ちゃんが綺麗に処置されて戻ってきて、
私のお腹の上にポンって置かれるわけですね。
その時、赤ちゃんですよーって置かれるんですけど、第一印象は、
あ、うちの子、猿顔じゃなくてエイリアンなんだっていうのが第一印象でしたね。
うちの子は目が大きいので、お猿というよりはグレーってありますよね。
両脇に人がいて手をつないでいる宇宙人、あの顔にそっくりだったんですよね。
なので、あ、うちの子グレーに似てるなーって驚きながら思いました。
下呼吸だったので、手とか唇がしびれているんですよね。
それでうまく抱っこができなかったのを覚えています。
で、分娩台の上になぜか2時間ぐらい放置されるんですよね。
その間に、旦那は明日も仕事だからとか言って、
いつの間にか来た母は、もうやることないからと言って帰っていきました。
それで私は個室だったんですが、自分の部屋に帰ったのが午前2時過ぎでした。
生まれたばかりの赤ちゃんは預かってくれて、お母さんを休ませるという病院も多いんですけど、
うちの病院は母子同室が原則なので、帰るときも赤ちゃんと一緒。
もういきなり赤ちゃんと一緒。
で、少し寝ようと思ったら、息子が泣き出すわけですよ。
でも私は眠いから動けないんですよね。眠いし疲れたし。
そしたら見回りに来た女三児さんが、
お母さん、赤ちゃん泣いてるけどおっぱいあげた?って言うんですよね。
はぁ?って思って。
え、私これだけ疲労困憊なのに、まだ何かやることあるの?と。
見なさいよまた時計を。2時よ。って感じだったんですけど、赤ちゃんは関係ないですよね、時間とかね。
俺はさっきこの世に出てきたんだと。
そういう感じなわけですよ。
自己主張の強い息子でしたね。未だにそうですけど。
ということで、かなり最初の授乳は大変でした。
授乳と教訓が合わない上に、私も初めての経験だったので、
本当に息子は寝るのが下手くそで、感触持ちだったんですよね。
上手くすれないと、ふんぞり返って泣く。
だから余計におっぱいを加えられない。
本当に大変でした。
それでしょうがないから、私は息子が寝てる間に作乳をして、
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それを少し本指に入れてあげたりしていたんですけど、
そうすると今度自分が寝てる暇がなくなるんですよね。
赤ちゃんが寝てるときに寝てくださいって言うんですけど、本当に寝れなかったです。
産後しばらく家に帰ってからも、横になって寝た記憶というのがほとんどなかったです。
1ヶ月ほど里帰りをしましたが、ほとんど背中をつけて寝た記憶は、
誰かが起きているときに息子を抱っこしていてくれる時間だけ、私は横になれるという感じでしたね。
赤ちゃんってすやすやと横になって寝てるイメージがあるんだけど、
赤ちゃんって結構寝ないんだなーってすごく思いました。
そんなこんな状態でしたけど、
前年の12月の暮れの、ベッドホテルが忙しいシーズンには、
息子を抱っこしながら現場に顔を出していました。
今思えばかなり無理をしたなーと思っています。
そのおかげで旦那さんは、
今日はほぼ育児。
お締め会からミルクをあげて寝かしつけ、全部やってくれていました。
まずみな嫁が職場に出てるから。
なので、本当に息子は小さいときも旦那にすごく懐いていました。
9月30日に生まれて、翌年の4月からはもう保育園に入りました。
生後6ヶ月ということで、かわいそうだという声もあったんですが、
私は自分が犬の保育園をやっていたもので、
プロに預けることに何が不安があるんだと思っていたんですね。
かつ、私は早く職場に復帰したい。
自分の会社がどうなっているのか、
それがすごく気になってしまっていたんです。
そのためかどうかわからないですけど、
息子は保育園時代、2歳くらいまでは本当に体が弱くて、
月に1回はお密ですと呼び出しを行っていました。
そのたびに母を召喚して、お迎えに行ってもらって、
今思うと、私がちゃんと息子を見ていなかったせいで、
息子からのSOSだったのかなと思います。
今は本当に体の丈夫になってくれて、本当によかったなと思っています。
そして、息子は大きくなってくれました。
彼のことで大変だったことは、
本当に小さい赤ちゃんの頃にフンドケーレンというものがあって、
泣きすぎて呼吸困難になってしまうんですね。
チアモーゼを起こしてしまうんです。
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泣くときに多分息を吐くことが多くなりすぎて息を吸えないんでしょうね。
あるとき泣きすぎてしまって、
そのまま呼吸が止まって顔が真っ赤に赤ちゃんとなるじゃないですか。
赤くなったあと紫になって、そのまま蒼白になって意識を失ってしまったんです。
そういったことが何度かありました。
救急車を呼んだこともありました。
保育園に6ヶ月で入院するときに、
中1校のところにフンドケーレンがありますというふうに書いたぐらいでした。
フンドケーレンは大きくなると視点に治るもので、
そんなに心配することはないですと言われたんですけど、
やっぱり大石ということもあって、すごく私は心配しました。
彼も今年で9歳。
9つというのは最後のある意味、
子供時代の一つの区切りですね。
10でつになるとつだちと言って、
1つ2つ3つと数えられる時代は9歳までなんですね。
最後の親が親とたくさん関わる時代の最後の1年を
これからも大切に過ごしていきたいなと思っています。
今、彼はとても元気でとても明るく物打ちせず、
誰とでもすぐに仲良くなって優しくて、
とても私が見てもとても健やかに成長していると思います。
人の話を聞かないのも私そっくりですね。
そして、彼の天性の明るさ、
誰とでも仲良くなれる能力。
小さい頃から親元ではなくて、
知らない人とすぐに仲良くなってしまう。
知らないお父さんお母さんの方が自分をかまってくれるというのが分かって、
すぐに他の子とか子の親御さんと仲良くなってしまうような息子でした。
私は彼の一番のファンでありたいと思っています。
彼の進む道がどのようになるかは分かりませんが、
彼の一番いいところを一番理解できて、一番近くで応援する、
そんな人物でありたいと思っています。
前に立って、ああしなさい、こうしなさい、こっちに行きなさい、
これはやめておきなさいということはなるべくしたくないなと思っています。
なぜなら、子どもの人生は親の人生ではありません。
子どもが何を選択するかは子どもの意思で、
親ができることは世界の広さを見せること、
選択肢の幅を与えてあげること、
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もちろん危ないことや倫理的にいけないことに関しては
親が教える必要があると思います。
けれど、それさえクリアをしていれば、たくさんのことをして、
たくさん失敗して、そしてたくさんの人に応援される人生、
生きるんでほしいなと思っています。
でも、一番のファンは私でありたいなと思っています。
息子くん、今日まで9年間、すくすくと育ってくれてありがとう。
小さい頃は、あんまり仕事仕事ばっかりで、きちんと向き合ってあげられなくてごめんね。
あなたが私を母親という生き物にしてくれました。
そして、私はたくさんのことを学ばせてもらいました。
息子くん、お誕生日おめでとう。そして、生まれてきてくれてありがとう。
母より