まず最初、同人誌とジン。
盛り上がってますね。自信ネタっぽいですね。
もちろん歴史的にはジンはどっちかというと、
フェミニズムというか女性の権利というか、
エンパワーメント的な文脈があったりとかっていうのがあるんですよね。
それはジンについての本、タイトル何でしたっけ、
緑色の表紙の本があるんですけど、
ジンの歴史みたいな本が日本語で書かれてる本があるんですけど、
あれとか非常に面白いんじゃないかなと思います。
同人誌の歴史に関しては、
いとぽいどもオタクだし、みんなオタクだし、
インターネットのオタクたちもいろいろ言ってるんでいいんじゃないかなと思います。
語源とかシーンとか、商業的に云々とかそういうのは、
皆さんがわわ言ってるので、
いとぽいどとしては別にいいんじゃないの?
みんな作って楽しいからいいじゃんと思うんですけど、
いとぽいど萌えオタクでもある。
激萌え、萌え萌えでござるみたいな感じのオタクなんですけれども、
なんというか、おしゃれなやつというかシャラ臭いやつ。
アーティスティックなやつであったりとか、
いわゆるサブカルサブカルしていないジャンルというのも好きなんですよ。
好きというか、勉強しようと思ってリシューしているんですね。
しぶらく何年も、ジーンのシーン、アートブックのシーン、
例えばそれは東京アートブックフェアであったりとか、
あとはもちろん文振り、コミティア、
もちろんゼロ年代の批評とかを見て育ったキッズなので、
文振りとかはまさしくオーって感じなんですけれども、
両方見てきた側からすると、
あくまでも消費者としてこの2つの、
今この瞬間ですごい面白い違いがあって、
どっちがどっちとか、
弁図的に同心誌の中にジーンが入ってとか、
そういうのはどうでもいいんですよ。
そういうのはどうでもいいんです。
そういうのはどうでもなくて、
単純に本として読んで面白いかいなかっていうのじゃないですか。
普通に読み手としては。
なのでその話をしますよ。
作り手側の話は全くしません。
なんですけど読んでる側からすると、
ジーンの方がパーソナルな内容が多いんですよね。
だからちょっとなんか自分の日常を写真撮ってみて、
アートブック風に写真をやる。
これに関してはニューヨークのスケーターの文化とかが、
やっぱりそれに近いですよね。
それこそスニーズマガジンとかの界隈といいますか、
界隈って言ってもあれかもしれないですけれども、
その海外のスケータービデオみたいなところ、
あとグラフィティとか、
そういう文脈からよくわかんない謎の路上の写真とかいっぱい載ってて、
それでジーンですって売ってたりとかするじゃないですか。
外国の写真いっぱい載ってるから、
へーって結構読んだりするんですけれども、
買ったりもしますけども、
それに近いものがジーンという名前で、
結構自販物として出されてることは多いかなと思いますね。
だからめっちゃズバッて言うとブログなんですよね。
オタクの方はどちらかというと好きなものがあって、
自分じゃなくてね、
それはキャラクターであったりとか、
ストーリーであったりとか、
何か対象が明確にあるんですよ。
他者っていう客帯的な他者がめちゃくちゃあって、
あとは自分の好きな漢字名とか何でもいいんですけど、
それも主役があってですね、
自分と関係ない主役があって、
それについて書かれているようなものが多い印象があります。
例外ありますよ。
めちゃくちゃだって多種多様だからなんだけどね。
ジーンの方はどちらかというと結構パーソナルな内容の方が多いなっていう感じがします。
なので知り合いが作ったジーンとかは多分めちゃくちゃ面白いんですよ。
だけど全く知らない人のジーンとかは全然わからなかったりするんですよね。
そもそも文章がなかったりするんですよ、全くもって。
何か写真は作品なのかなっていう風に見ても、
作品的な写真でもない、
作品撮りの写真でもなかったりして、
ちょっとブログっぽいんですよね。
でもやっぱり本になってるとちょっとなんか楽しいじゃないですか。
結構物理的な本になってるって楽しいじゃないですか。
その楽しさっていうのはあるんじゃないかなと、
一般消費者としては思いますけれどもね。
なんで、言葉の定義とか史上がどうとかなんだろうな、
そういうのは板置いといて、
それぞれルーツもいろんな国であったりとかするんですよね。
いろんなカルチャーが通ってきたりもしますし、
どの機械を使って印刷してるかとかもちろんいろいろあるんですよ。
いろいろあるし、いろいろ語ることはできるんだけど、
今この瞬間普通に読み手として見るんだったら、
作り手に興味がある場合だったら、
人もいいんじゃないですかっていう感じじゃないですか。
買うときにね、本屋さんとかに、
インディベンデントなそういう出版物ですよね、
っていうのを扱ってる本屋さんで、
何かこう買ってみようかなって手に取ろうとするときは、
そういうような感覚で見るといいんじゃないかなと思いますね。
一方でやっぱり面白いのが、
同人誌を知った上でジンを見る。
ジンを知った上で同人誌を見る。
どちらかを知らない状態でどちらかを見る。
知った状態で見るってなると、
多分印象って全然違うと思うんですよね。
めちゃくちゃそれこそ女性向けジャンルの同人誌とかの、
すごい想定に凝ったやつとかを知ってると、
ジンを見たときにマジ?って思うかもしれないし、
逆にその逆だった場合は、
これって商業じゃないの?
これは商業すぎないか?みたいなリアクションになったりとか、
結構様々だと思うんですよ。
でもそれって異文化コミュニケーションだなと思いますし、
トッポリはすごく感じてるのは、
ミックスカルチャーってすごい面白いことだと思うんですよね。
それこそゼロ年代、天年代の秋葉原とか、
地下アイドル、地下アイドルちょっと詳しくないですけれども、
そこにはかなりいろんなカルチャーがミックスしていて、
オシャレな感じ、イケてる感じになる。
見たことないものがどんどん生まれてきていて、
どんどんどんどんいろんなカルチャーが混ざってきて、
っていうのってできてると思うんですよ。
あの、デンパグミンクの古川みりんさんがね、
いろんな人のアーティストとかクリエイターさんとかのお部屋を写真、
自分の部屋ですよね。
実写を撮影して集まった写真集みたいなのがあって、
古川みりんさんのお部屋も載ってたんですけど、
マジでオタクで、本当に萌えタペストリーとかフィギュアとかマジでいっぱいあって、
ガチのオタクの部屋じゃんって思ったんですけれども、
そんな彼女が最近ツインテールの終わりにっていう辞典を出版されまして、
その中に当時の空き場にはすごいミックスカルチャー的な雰囲気があって、
いろんなイケてる人が面白いことやってやろうって集まってた雰囲気があったっていうような
文章が書かれてたんですよ。
なるほど、あの時代のあのなんか楽しさって、そういうことだったんだっていう。
いろんな、ここだったら何か新しいことできるかも、新しいことが作れるかもって思った、
いろんなイケてるクリエイターが集まってきていた。
いろんな文化が混ざっていたと。
それって本当にそうだなと思って。
すなわち、だから人みたいな、同人誌みたいなものも全部ミックスカルチャーでいいと思うんですよね。
ここから先に新しく生まれるものの方が面白い感じになるんじゃないかなと思いますし、
これはこういうスタイルだよねっていうような、ある種の伝統芸的なものもいいんですけれども、
やっぱり面白いのはミックスしていくことだと思うので、
そこから先の発展っていうのは非常に期待しています。
ただやっぱり面白くないものは面白くないですよ。
すごくこれ言っちゃなんですけど。
ブログで書くにはめちゃくちゃいい感じに読みやすいけど、
例えばブログの文章をそのまま本にしたものとかって正直なところ読めたもんじゃない。
それはなぜかというと内容がどうとか文章が上手い下手とかじゃなくて、
単純に文字感とか、
本で読むときの古党典のテンポ感とブログで読むときの古党典のテンポ感で全く違うので、
そこら辺をね、分かってる人はめちゃくちゃ書き分けるんですよ。
で、上手いんですよ。
やっぱ面白い、文章上手いんだなっていう、文章の人なんだなっていう人もいれば、
なんかそうじゃない人とかもいるので、
なんかね、昔の時代だったらやっぱりその想定がしっかりしてると気合が入っていて、
めちゃくちゃこう、遂行したやつ。
で、入ってないやつはもうちょっとラフなやつみたいな見分けもできたんですけど、
今もみんな想定綺麗だったりするのでそこの見分けつかないっていうところで、
同人誌とジンみたいなところがちょっとぐにゃってこう、
なんとなく切り分けられにくくなってきたっていうものなのかなっていうのは、
読み手的には思いますよ。
もちろん個別の事案なので、全くこれっていうことはできないんですけど、
どちらかというと、何かこう、コンテンツやものを作るっていうことに対して御修身している、
そういうのが大好きな、作られたものが大好きだったりとか、
作ること自体が大好きな人以外の人も作るようになったよねっていうところがあると思います。
そういったものに対して良いと判断するか良くないと判断するかは、
人それぞれの好みだし、時代の流行りなのかなとは思います。
レッドポイではよくわからん人が中身もなくダラダラ書いたよくわからんブログみたいなものを、
なぜか綺麗な体裁で本にしたものというのは全然イメージピンときてません。
これは多分慣れてないからと思います。
すなわち携帯小説に読みづらいって言っている上の世代の人と、
レッドポイでは今言ったコメントっていうのは多分同じなんじゃないかなと思います。
レッドポイでは読めない、読む能力がないってだけな気がしますけどね。
でも書き手は普通に同年代とか上の世代だったりして、へーって思ったりしますけど。
でもそういう本って無限に一生同じ感じで出続けるっていうのもどうなのかなっていうのは、
なんか最近はっと思ったりもしますけれどもね。
別に良いとは思うんですけどね。
作ること自体はすごく尊いことだと思うんですけど、
商業出版ってなったときに、
それがそして本屋さんに並んでいる。
そんな本屋さんというのもそこまで新生死しなくてもいいのかな。
なんかちょっとミトポイが古い考えなのかもしれません。
なんかそんなことも最近は考えています。
そういうのも含め含めで、
何かこう読むものやコンテンツというものに対して、
新しく考えていかないといけない時代なんじゃないかなっていうのをなんとなく思っていますね。
今すごくすべてのことをオブラートに包んでいましたよ。
ぶっちゃけどう思ってるんですかっていうのは、
ミトポイをなんか捕まえて聞いてください。
相当な何かが出てくると思います。
冗談でございますけれども。
どうでもいいですね。ぶっちゃけて言うと。
どうでもいいの一言でございます。
面白いものは面白い。面白くないものは面白くない。
面白い人は面白い。面白くない人は面白くない。
これだけだと思います。
はい、次。
TwitterのAPIがなくなった後に生きようっていうテーマがあって、
やっぱりTwitterのツイートとか投稿された画像とかキーワード検索とかをAPIがあって、
めちゃくちゃそれ経由でいろんな面白いウェブブラウザアプリが作れた時代ってあるじゃないですか。
それこそリツイートの後の反応であったりとか、
ファボスターの話をするとあまりにも同人化しすぎるか。
いろいろあるわけですよ。
例えばちょっとした面白いアプリでも指定されたキーワードのツイートだけを抽出してきて、
それをカウントしてみたいなのもあるし、
今でこそ公式で実装されてしまいましたけどアナリティクスなものもありましたよね。
例えばポジネが判定みたいなやつもあったわけですよ。
マクドナルドっていうキーワードをついているツイートを全部クロールしてきて、
そこのポジティブネガティブ分析してグラフで出しますみたいな。
そういうのがあったりとか。
普通に指定のキーワード、ハッシュタグが含まれた画像をクローリングして、
その画像を上から振らせます。
JavaScriptとCSSでみたいな。
そういうのもあるわけですよね。
そういうのが全く使えなくなって、
そうか、いわゆるフラッシュの時代の終わりとかもあるとは思うんですけれども、
インターネット上で何かしら見せ方について編集するっていうものを
ただそこで書き込んでしまうとツイッターユーザーの感じに入ってしまうので、
なかなかまたその多角的な視点っていうのも難しいですよね。
どんどんどんどん人が孤独になっていくしかないっていう問題があって。
そうか、なるほどってなると、そこら辺の見方をまだ持っているうちに、
まだ正気を保っているうちに死にたいなって。
ゾンビになる前に殺してくれみたいな感じなんですけれども、
なんかそんな感じはありましたね。
だからとにかくいろいろなものをいろいろな角度で見て楽しんでめでてっていうのは
すごく大事なことだと思いますし、
でもそれって何というか結構和歌の世界に近いと思うんですよね。
お花そのものに何かいろいろなものの見方をしたりとか、見たてであったりとか、
そういうのがあると思っていて。
だからやっぱちょっと平安っぽいんですよね。
室町以降とかになっちゃうと、結構ソリッドになっていっちゃうというか、
これはこれすごいみたいな、結構資本主義的な感じになっちゃうんだけど、
なんかなんとなくワンチャン、ワンチャンマジちょっと花とかめでていいんじゃねみたいな感じを
いとっぽいら最近は思っていますね。
それで花屋さんに行くとかじゃなくて何て言えばいいのかな。
花鳥風月なんだと思いますけどね。
それでそのなんか日本文化っていうのを照らし合わせるっていうのも、
そこはちょっと突飛かなと思いつつも、
でもやっぱりバイブス的に純ジャパなので、
なんかなんだろうな、
まあ今日本は夏夏冬冬しかなくて四季とかないと思うんですけど、
今本当に春なのか夏じゃね冬じゃね。
朝夏で夜冬みたいな。
それが春と言うんですかって参観しようと言いますけれども、
そういうのがあると思うんですけど、
なんかね、ツイッターのAPIというのは平安時代だったんじゃないかっていう、
なんかそんな感じをね考えていますね。
はい終わり。
次。
伝わるものを作ることと、
伝えたいことがあって、
それを伝えるために作るときの違いっていうのがあると思ってて、
いわゆるさっきYouTubeの編集の話のとこに、
分からやすいものを作るって言った話をしたと思うんですけど、
分からやすい伝わるものを作るっていうことと、
これをどうしても伝えたいから、
伝えるために作ろうっていうのって多分違うと思うんですよ。
伝えられるものしか作れないことと、
伝わるかどうかわからないけど作るっていうのって2つあると思ってて、
もちろんそれは分かりやすさみたいな話で言ってもいいですし、
とっつきやすさでもいいかもしれませんし、
共感なのか衝撃なのかとか、
不協なのか、
なんだろうな、
共有なのかとか、
なんかいろいろこう言い方があったり、
いろいろな物差しがあったり、
グラデーションだったりすると思うんですけど、
何かこう作り手として考えるっていう時に、
やっぱ伝わるものを作るっていうことを、
普通に考えるともうこれからの時代そうなっていってしまうっていうのはあると思うんですよね。
もうとにかくそもそもマーケットインしようよっていう、
プロダクトアウトじゃなくてマーケットインで作ろうよっていう話ですよ。
ビジネスっぽい人に分かりやすい言葉で言うとね。
でもそうじゃないような視点っていう、
それこそその並行思考でしたっけ、
なんか横にジャンプするやつね。
よく言ったりしますけれども、
そもそもその伝わるものを作るってなった時に、
伝わるっていう人たちをどこにやるか、
すなわちマーケットインで作る場合、
どこのマーケットインで作るかって話だと思うんですけど、
普通に生きてるとどんどんどんどんそれのレベルが低くなっていくと思うんですよ。
言葉選ばずに言うと思うんですけど、
めちゃくちゃレベル低くなると思うんですよね。
で、それなぜかというと、
マジのちびっこと、
本当になんだろうな、
うまくこう、
目も悪く、
意図っぽいのもすごく目が死ぬほど弱いので、
皆さんが思っている100倍弱い目が悪いんですよ。
すごくわかるんですけど、
物見づらいと全然わかんないんですよね。
認識ができない。
お年寄りになってくると目も悪くなるし、
耳も悪くなるし、
少し体力も落ちてくるっていう風になると、
体力落ちてくると脳のね、
活動もちょっとスローリーになってくるじゃないですか。
で、そういうお年寄りとかキッズと、
潔気盛んな20歳と、
なんかちょっとルサンチマンが溜まって
どうしようもなくなってきた40,50代とか、
で、なんかよくどうしたらいいのか全くわからない30代とか、
で、なんかちょっと何かトゲトゲしている60歳とか、
なんかいろいろあるじゃないですか、年代って。
もちろんその世代でキャラクターつけるのは
ナンセンスかもしれないですけどね。
でも若い人というと、
まあそういういろんな人がいるということですよ。
少なくとも今日ちゃんと
なんというか、寝れるようにぐらいの
希望感の話しか意図っぽいとはしていません。
ずっとね、初回から。
次。
完成しか出せないメディア。
なんかね、完成品しかね、
言えないっていうのって、
あんまり豊かじゃないかなと思っていて、
成長の過程を記せない
と思うんですよ。
完成しか出せないっていうのは。
人間って日常を生きているわけで、
何かこう更新したりとか停滞したりとか
足踏みしたり、3歩進んで2歩下がるみたいなことを
やっているわけなんですけど、
それも全部こう、
なんとなく日記に記すっていうことをできるじゃないですか。
昔の時代は見る人も少なかったし、
見る人もある程度信頼できたのでそういうのも全部書いていたので、
なんとなく面白かったし、
遡って見てみると、やっぱりこうユニークだったりするわけですよ。
なんだけど、
インスタグラムかな、インスタグラムが出てその加工して
いい感じに見せるっていうふうになった瞬間に、
なんとなくそれがやりづらくなっちゃったよね。
でもさ、マジでさ、いつも思うんだけどさ、
例えばめちゃめちゃおしゃれっぽい海洋植物があって
写真撮るじゃん。
その写真を撮っているさ、
そのフレームの中に入っていないところってさ、
別にぐちゃぐちゃしてるじゃん。
普通に生きてるんだったら埃も埋まってるしさ、
あと、なんだい、
なんとなくこう、
おしゃれな部屋を撮ってるアカウントとかあるじゃん。
でも生活とかしてるはずなんですよ。
だから生活のものは全部こうぎゅって隠してるのか、
それかそこで生活してないかとかですよね。
もしくは全く生活がクッソヘタクソっていうのも全然あると思っていて、
で、なんとなくなんですけど、
全部きれいじゃなくていいと思うんですよね、
いとっぽいとは。
全部きれいなものをしてしまうと、
可能性をなくしてしまっている
ということもあると思っていて、
もちろんきれいなコンテンツ、
自分の生活、ライフ、人生みたいなものを
コンテンツにする、もちろんそれもあると思いますし、
日常切り売りする、いろんな言い方があると思うんですけど、
なんとなくきれいじゃなくていいんじゃないかな、
もっと汚いものいっぱい見たいです。
汚いというか生活感あるものとか見たいですよね。
そっちの方が面白い気がしていて、
情報があるんですよ、そもそも。
映っているものが一つしかないと、もちろんそこにフォーカスして見やすいのかもしれない、
わかりやすいのかもしれないですけど、
そこに映っている情報ってシンプルじゃないですか。
いわゆるきれいにするということはそぎ落としているんですよね。
情報を伝えたい情報だけに絞ってフォーカスして、
他全部切り捨てている、いわゆるトリミングしている、きれいにお掃除しているというわけなんですよ。
でもですね、
面白い情報もなくなっている可能性もあって、
わかりやすくすると、
めっちゃ言葉を選ばずに言うと、
読み手側がある程度のリテラシがあって頭が良ければ、
情報はあったほうがいいんですよ。あればあるほどいいんですよ。
ただ、読み手側が頭が悪かったりとか、
体調が悪かったり、コンディションが悪かったりとか、
適当に寝ながら見てたりとかすると、
それは情報がいっぱいあるとどう見ていいのかわからないから見づらいというのはあるじゃないですか。
でもね、
これが外国語で書いてあったらそれをわかりやすくしてくれ、頼むって
いとぽよ思っちゃいますよ。もちろんそれを
翻訳したりAIでとかそういうアプローチもあるのかもしれないですけどね。
ただですね、我々は母語を使って、
日本語を使って日本語のコンテンツもたくさんあるわけですよ。
少なくとも日本語コンテンツにおいては、
きれいにしてもらうと逆に見るとこなくなるから、
なめてもらっちゃ困るっていう気持ちに結構いとぽよ
毎回なるんですよね。
それをきれいにしてるかっていうと、いとぽよはそうじゃない可能性もあると思っていて、
そもそも情報がない人の可能性も全然あると思うんですよ。
多分そっちの方が多いんですよ。
つまんない人が出すものはつまんないですよ。情報がないんですよ。
そこにいろいろな情報が含まれてない。面白みがないんですね。
地味豊かじゃないっていう場合もあって、
つまんない人の方がわかりやすいものを作れるって可能性もあると思ってるんですよね。
でもそれってつまんない人がつまんない人同士でコミュニケーションしてるだけなんですよ。
でもこれのつまんない人の
いとぽいど的な観点でつまんないというだけですよ。
例えば元気な子たちが
「うぇーい!今日どうする?コンビニで何か食べちゃう?めっちゃよくない?」
ってキャッキャッキャッキャッってやってるじゃないですか。
それをいとぽよができるかというとできないんですよね。
できないからつまんないってふたくされてるだけなんですよ。
こんなのピーピーキャーキャー鳴いてるだけなんですよ。
本当に本当に悲しいのは
いとぽいどちゃん。あなただけなんだよ。
そういう真実なんですね。
終わりです。
もうおしまい。
おしまいなんです。
すべてが終わってしまいました。
再開します。
始めます。終わらせません。
終わりやって感じですけど。
わかりやすいものとか完成したものしか出せないものって
見る側にとってもちょっとあれかもしれないし
作る側にとっても
成長の可能性をついばんでいる可能性もあって
ちょっとあれなんだよな。
綺麗にしすぎるとよくないっていう。
こんな澄んだ水には住めないよみたいなね。
そういう話の可能性もあるんだよな。
かといって、わかりやすくなるってことは
他の人が評価しやすくなるってことなんですよ。
商人とか評価を高評価たくさんもらうとか
すごい反響もらうとかっていうのは絶対にわかりやすい方がいい。