祖母の死と葬儀
こんにちは、わたしはるかです。このチャンネルでは、36歳で自分のポンコツさんに絶望し、1週間会社に行けなくなったアラフォーOLの私が、7歳年下の夫や周りに頼りまくりながら、感情全解放して自分らしく生きていくあれこれをお伝えしていくチャンネルです。
すごいね、今日は久しぶりになってしまったんですけど、すごい久しぶりにお休みしている間、発信とかも休んでいて、で、なんかね、ちょっといろいろあって仕事も休んだりとかしたりしたんですけど、その間にね、いろんなことがあったので、まあそれをね、またいろいろ発信していきたいなっていうふうに思うんですけど。
一つのトピックとしては、祖母が亡くなりまして、祖母はね、103歳っていう大王女だったので、大王女だなっていう感じなんですけど、私自身も10年以上会ってなかったし、で、私はね、親子問題を抱えているというか、アダルトチルドレンダーっていう診断を受けたりもしているぐらい、
まあ母親との関係っていうのが自分の価値観とかに影響を及ぼしていて、それゆえにすごく生きづらいっていう問題を抱えていたので、まあそういうところでいくとね、まあ母親ももちろんその祖母との関係が同じというか、私以上にこじれているわけなんですよね。
だからまあ、なんていうのかな、祖母が亡くなって悲しいというよりは、一つの親子問題が一つの終焉を迎えたというか、そういうふうな感じに捉えているっていう感じですね。
で、私が亡くなったのが2週間前ぐらいかな。
葬儀、ちょっとね、葬儀場を抑えたりっていうのが難しかったりとかもして、葬儀は先週の週末から今週の頭にかけてっていう感じだったので、まあね、母親がもしをやらなきゃいけないっていうのもあって、私もね、なんかサポート。
精神的なサポートとかが多少できたらいいのかなと思って、私もね、大阪の方なんですけど、大阪の方行って、葬儀にもおつやとね、国別式と参列して、ちょっとね、遺品整理とかのお手伝いをちょっとしてっていうところで行ってきたんですけど。
このね、すごい祖母の葬儀の後、一人になってホテル泊まってっていう時にね、すっごい号泣したんですよね。
なんかさっき言った通り、別にその祖母の亡くなったこと自体は、別にこういう言い方したらよくないかもしれないですけど、別に悲しいとかそういう感じは全くなくて。
なんか、なんていうのかな、その根源、私の生きづらさは母親から来てるけど、その母親の生きづらさは祖母から来ててっていう、そこが発信点ではないけど、やっぱりその根源みたいなところだなっていうふうに思っていて。
だからその根源である祖母に対して母親が思うところとかね、そういうのを小さい時からいろいろ聞いてきたし、葬儀とかでもね、目の当たりにして改めて思うところがあって、すごい泣いた感じなんですよね。
なんか泣いてる時はいろいろ思い出して泣いてるから、何がそんなに悲しいのかっていうのも自分でもよくわからなかったんですけど、一通り泣いて何が悲しかったのかなっていうふうに思い返していくと、
私が祖母に対して思うことって、別に祖母に可愛がってもらった記憶とかも特にないし、どっちかっていうとそれよりも母の口から聞く祖母への愛憎みたいな、結構憎しみが多いんですよね。
結構祖母もトリッキーな人だったんで、憎しみが多くて、それでもやっぱり愛されたいっていうのが裏に隠れてるっていうのはやっぱり大人になるにつれてすごい分かって、そういう愛憎を渦巻く母の祖母への気持ちみたいなものを考えると、なんかこう泣けたっていうのもあったし、
私が祖母に対して思うことっていうのは、これ以上母親を苦しめないでほしいっていう気持ちなんですよね。
亡くなった時に何か声をかけるとしたら、そういうことだなっていうふうに私は思ってて。
でも苦しめないでほしいっていうのも、なんかちょっと違うのかなって思った時に、やっぱりもし極楽浄土というものがあるのであれば、そこで祖母自体が、やっぱり祖母自体も苦労してすごい辛かった人生なんだろうなというところは想像できるので、
祖母自体が祖母のお母さんに会いたいっていう手紙も残ってたみたいで、祖母がお母さんに極楽浄土で会えるのならそれで幸せになってほしいし、そういうふうに幸せになったんなら、今度は祖母から母親が欲しがっていた愛情っていうのを与えてほしいなっていうふうに思ったんですよね。
母がそういうふうに極楽浄土に行く日が来るんだろうから、その時は母が欲していた愛情をあげてほしいなっていうふうに最終的に私の気持ちを言ったんですよね。
自己向き合う時間
それを肌と振り返った時に、なんかすごい悲しくなって、それは一つは、やっぱりその母の幸せっていうのは、やっぱり死ぬまでないのかなっていうふうに思ったっていう。
その幸せの尺度は人それぞれなので、別に母親が幸せだと思えば幸せだと思うんですけど、母親の言動を見る限り幸せそうではないなと。
日々いろんな工夫をして楽しく生きる工夫はしているけれども、自分の人生を振り返って幸せだったかって言った時に、すごい幸せだったっていう感じじゃないんだろうなっていうのも思ってね。
本当に幸せだって、いろんなものから解放されて、自分が愛されないっていう気持ちがすごい強い。親からも愛されない、子供からも愛されてないっていう気持ちがすごい強いから、
そういう気持ちから解放されるっていうのは、今世ではないのかもしれないなっていうふうに思うことがすごいね。
これは母親と私向き合ったというか、自分で母親の問題を何とかしようと思ってすっごいのを落とした時にもここに思い立ってめちゃくちゃ泣いたんですけど、
私自身はね、ずっとちっちゃい時から母親を幸せにしたいっていう気持ちで生きてきたから、それが間違ってたというか、それは人生においては自分を一番大事にすべきなんだけれども、そういうふうに思ってしまったっていうのもあるし、
でもそういう事実があるから、やっぱり母親が幸せになる時っていうのは今世では訪れないのかもって思ったことが悲しかったし、
じゃあ人のことがそんなに悲しいのかって思った時に、それだけじゃなくて、自分が思う幸せな実家とか、幸せな親からもらえる愛情、理想の家庭像みたいなものっていうのは、
今世では得られないものなんだなっていうことを改めて感じたことが悲しかったんだろうなっていうふうに思いますね。
自分と母親の関係は自分の考え方次第で変わっていけるけれども、どういう形に収まるか、例えば笑顔が絶えないとか、お互いをリスペクトしているとか、
そういった状態っていうのは自分だけの矢印ではどうにもならないことなので、相手からの矢印っていうところが、今まで欲してたものは私自身ももらえないっていうことを改めて再確認して。
一回そこは諦めて手放したって思ってたけど、一挙一石で捨てられるものではなくて、長年憧れていたものっていうのがないんだなっていうことを改めて感じた。
自分の人と同じあっても良かったもの、自分に与えられても良かったはずのものっていうのは、長年憧れていたものは手に入らないんだなっていうことを改めて感じて悲しかったのかなっていうふうに思いましたね。
個人的にはね、そうやって自分に向き合う時間っていうのがやっぱりなかなか取れないから、改めて葬儀自体は大変だったりとかもしたけど、そういう時間が取れたこと、すごく泣く時間とか、それに対してなんでこんな泣いたんだろうなって考える時間とかが取れたのはすごい良かったなって思うし、
やっぱり自分に向き合うっていうのは、自分で時間を作ったりとか、ある程度時間的な余白がないとできないなっていうふうにも改めて思ったので。
ちょっと今日はね、なんかこう久しぶりな上にちょっと分かりづらい話だなっていうふうには自分でも思うんですけど、でもやっぱりこう、生きづらさとか母親とかと向き合う上で、なんかこう避けては通れないことだなって思うし、自分の本当に本心みたいなものだなって思ったので、ちょっとね、残しておきたいなっていうふうに思いました。
また少しずつ反省していきたいなって思いますので、また聞いてもらえると嬉しいです。それではまた会いましょう。