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2022-09-09 18:11

CDSネトウヨに反論できる(自由の相互承認)

多様性の価値を否定する御田寺圭氏の「正しさに殺されないために」という本についてその間違いを指摘しています.

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今日お話ししたいのは、CDSと書いてあります。まず、Can Do Statementでネトウヨに反論できるということです。
これは、トマノ一徳さんという哲学者の自由の相互承認という話をご紹介したいのですが、
これを話そうと思ったのは、昨日、正しさに殺されないために、ネトウヨの親分みたいな人がいるんです。
三田寺慶さんという人がいて、その人の本についてご紹介したら、台湾の阿部さんが、
それについては、トマノ一徳さんの本を読んですっきりしたということが前に書いてあって、
実は、僕が昨日いろいろ話したことに、トマノ一徳さんの話を入れるのは不完全だったなと思ったので、
ちょっと補足みたいな感じでお話をしてみたいと思うんですね。
それでちょっと聞いてみたいんですが、昨日の村スペ聞いた方いらっしゃいますか。
もしいらっしゃったら、ハートマーク、昨日の村スペ聞いてないという人、涙のマークでリアクションいただけますかね。
昨日もそんなに人が多かったわけじゃないんですが、聞いてくれている人はいますね。
涙の人もいますね、やっぱりね。
なので、少し復習で、何が問題なのかということを共有できないと、話がご理解いただけないと思うので、
それについて、まず昨日の復習ですけど、ご紹介してみたいと思います。
昨日は、正しさに殺されないために、という本についてご紹介しました。
これは、ミタデラ・Kという人が書いた本ですね。
本当に研究者としては、どこかに所属しているという感じでもないですし、
多分ネット上で書いているという意味で、まさにネトウヨという感じの人なんですね。
例えば、クライストチャーチのモスクの銃乱射事件で、
51人イスラム教徒を殺したテロリストのことを、
それを謀言の類として全て棄却できるわけではないと言っていて、
それどころか、それはまさに今多文化主義政策によって西欧各国で進行していることであると言って、
かなり多様性とかについて批判をしているんですね。
それについて、
要するに多様性がどうして最大の強みになっているのかというのは、
メディアも政治家も学者も著名人も、
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それをですね、多様性は最大の強さだと言っているけど、
それがどうして最大の強さをもたらすのかを説明したことは、
これまで一度もないというふうに彼は書いています。
これはもう本当に明らかな間違いで、
もういろんな研究があるわけですね。
いろんな根拠も示されています。
それを皆さんが一つ興味があって、
一冊本を読みたいというのだったら、
僕はその多様性の科学という本をご紹介したいと思っています。
そういう時には僕もいつもこの多様性の科学という本をご紹介しています。
この村滑でも紹介したことあるし、
多分ブログの方でも紹介したことあると思いますね。
それから実際この本には、
いろんな実証的な研究がたくさん紹介されています。
なので、要するに多様性が社会の強みになるということに対して、
根拠がないというこの三田寺さんの主張は、
本当にすごい基本的なところから間違っているというのが一つ。
それは昨日ちょっとはっきり申し上げたことですね。
それについてもう一点、彼が言っていることで、
上松里氏という、
2016年に神奈川県の相模市の障害者施設で、
19人の障害者を殺害した上松里氏というのがいるんですけど、
彼について三田寺さんは、
こんなふうに言っています。
彼は純然たる悪意によって恐慌に及んだのではなく、
世のため、人のために良かれと思ってそのような行動に出た。
これで引用終わりですけど、
こういうふうに非常に彼に対して、
同情的な雷散して言っているわけですね。
ここ少し長くなりますけど、
二箇所くらい三田寺さんの文章を引用しますね。
ちょっと以下引用です。
生きる価値のない人間は殺してしまえばよい、
という上松の主張を否定しながら、
しかしこの社会は上松に対して、
お前は生きるに値しない人間であると断じている。
上村の思想や行為を強く否定しながら、
同時に上松の思想や行為と同じ気欠によって彼をさばいている。
どんな人間でも、たとえ生産的でなくても、
生きる価値がある、生きてもよい。
社会は上松の教皇に対してそう応じた。
だが上松はその連帯の例外となった。
生きる価値がなく死ぬべき存在として、
我々とあの男、かがにはどんな違いがあり、
どれだけの距離があるのか。
これで一箇所目終わりですね。
これは上松が、要するに死刑署になったということですね。
もう執行されちゃうのかな。
ちょっとその辺分かんないですけど。
死刑判決はもう出ています。
06:01
この上松は上告しないと言っているので、
これで死刑が決まったわけですね。
なので、要するに上松が障害者を殺したのと、
社会が上松を死刑署、死刑にするのと同じじゃないか、
ということを言っているんですね。
もちろんそれは間違っているわけですけどね、
この三田寺さんの主張ね。
もう一つ、もう一箇所引用しますよ。
今日、リベラルを票望する人々は往々にして、
原理原則的な自由の重要性を謳いながら、
その実、自分にとって都合の良くない類の自由に対しては、
極めて否定的、もしくは抑圧的である。
基本的人権を擁護する素振りを見せながら、
何かと理由をつけては望ましくない他者の権利を
解消化、あるいは無化してしまう。
無化はないに変化の果ですね。
無化してしまうと。
多様性を尊びながら、極めて画一的な価値体系への矯準を求める。
これで言い終わりですね。
要するに、端的に言ってしまうと、
矛盾しているじゃないかということを三田寺氏は言っているわけですね。
要するに、自由と言っても、そんなの全然自由を認めていないですよね。
上松が殺した障害者の人に対しては、
彼らにも生きる自由があったと言っておきながら、
彼らを殺した上松には、生きる自由を奪っているじゃないか
というようなことを言っているわけですね。
これに対して、僕昨日ですね、
前に自分で書いたブログの方を見ながら、
多様性を尊重する社会は全ての価値観を尊重するわけではないということを言いました。
これは本当にそういうタイトル。
2019年だったかな。
そういうふうに僕のブログで書きました。
多様性を尊重する社会は全ての価値観を尊重するわけではないという記事ですね。
これを読んでいただければ、
大体昨日言ったことはご理解いただけると思うんですが、
これだと僕一人が言っているというふうに誤解されても困るなと思ったんですね。
それで、安倍さんが昨日、
トマノ一徳さんの本を読んですっきりしたというふうに書いてあったので、
あっちの方を説明した方がよっぽど説得力があるようなと思ったので、
今日はそれをご紹介してみたいと思うわけです。
要するに、
トマノ一徳さんという名前を聞いたことがある人、
ハートマークでリアクションをいただけますか。
ない方、涙でお願いします。
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教育哲学者というふうにご本人はおっしゃっていると思います。
ハートマークをいただいています。ありがとうございます。
もちろん知らなくても全然いいんです。
日本語教育の文脈ではあまり物を書いたりとかしていないので、
いいんですけど、
僕が個人的に、
この自由の相互承認、
今日ご紹介するのは自由の相互承認という話なんですけど、
それをトマノさんの文章で初めて読んだのは、
どのような教育が良い教育かという、こういう本ですね。
これは講談社選書メチエというシリーズの中にあります。
そこで自由の相互承認というのが非常にわかりやすい形で書かれていました。
僕がさっきの、
多様性を尊重する社会は全ての価値観を尊重するわけではないという、
あのブログを書いたよりも前に読んでいたのか、その後に読んでいたのか、
あまり記憶が定かではないんですけど、
この本自体は、
すみません、今見てみたら前でした。
僕がこの本を読んだのは2018年ですね。
これ何でわかるかというと、
Kindleは自分が読んだところ、ハイライトしたところを一覧で見ることができる機能があって、
そこで見ると2018年に僕がこれを読んでいますね。
ブログを書いたのは2019年なので、
このブログを書いた時には自由の相互承認ということについては触れていないんですけど、
明らかにこれを時系列を考えると、
この本を読んでそれに影響を受けて書いた可能性が非常に高いと思います。
要するに自由の相互承認というのはどういうことかというと、
もう本当に文字通りそういうことなんですけど、
あなたが私の自由を承認する限り、私もあなたの自由を承認しますということですね。
これは逆にですね、あなたが私の自由を承認しないんだったら、
私はあなたの自由を承認できませんということですね。
なのでこれはですね、
僕は原点とかは見ていないんですけど、
このトマノさんのご主張によると、
ヘーゲルがそういうふうにはっきり言っているというふうに書いてあります。
ヘーゲルは哲学者ですよね。
ヘーゲルが亡くなったのは1831年ですよね。
なので基本的には200年くらい前からこういうことが言われているわけですよ。
要するにさっきの三田寺慶さんが書いている
相模原の19人殺した上松の話にこれを当てはめて考えてみるとですね、
上松は19人を殺したわけですよ。
12:01
殺されちゃった人から見ると、
そうしたら呼吸する自由すら奪われてしまったわけですよね。
なので明らかに上松は殺した人の自由を承認しなかったわけですね。
だからこそ社会は上松の自由を承認しないということになるわけです。
なのでそういうことはですね、
要するに三田寺が言っているような
社会が自由を尊重していると一見きれいごとを言っている社会が
上松のような人間の社会、自由を奪わないのは矛盾しているというのは
全く間違っているわけですね。
要するに社会がお互いの自由を承認しているのは
それは相手が自分を殺す自由まで承認はしていないわけですよ。
あくまでもお互いの自由を承認し合う限りにおいて
お互いの自由を承認するというそれだけの話なので
ですからこういう上松のようなテロリストですよね。
それとかニュージーランドで51人殺したムスリムを殺した
そういうテロリストたちの自由は承認しないわけです。
でもこれはもう200年前から確立している根本原理なので
そういう意味でこの社会が間違っているという三田寺の主張も
それは真実ではないわけですね。
なのでもうちょっと分かりやすい形で
ヘーゲルを引用しているところがありました。
これは2021年の9月に
トマノさんが書いた記事ですね。
記事のタイトルが
自由を相互承認できる市民を育む新しい学校の姿とは
こういうタイトルで
第55回オンライン進歩レポート前半活動報告
というタイトルになっているものです。
ここでトマノさんが書いている言葉をそのまま引用してみますけど
以下引用です。
この市民社会、民主主義社会の根本原理について
ヘーゲルは自由の相互承認と言っています。
お互いを対等で自由な存在として認め合うことを
ルールとした社会を作ること以外に
自由に平和に生きる術はない
というヘーゲルの言葉は
今日の視点でも非常に優れた考え方です。
これで引用は終わりですけど
こういうふうにトマノさんは書いているわけですね。
すみません、僕も鉄学というのは全然あまり興味ないです。
はっきり言うとあまり興味ないです。
役に立たない鉄学は興味がないですね。
だけど役に立つ鉄学はもちろん興味があります。
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そういう意味でこのヘーゲルのこともできれば原点
これから当たってみたいと思うんですけど
とりあえず今日は昨日の話をしたことに
ちょっと足りなかったことがあったので
ご紹介してみました。
それで鉄学の役に立つか役に立たないかという意味で
この鉄学の入門書として
これも何週間か前にご紹介したんですけど
武器としての鉄学という
そういう本が僕にとってはとても面白かったです。
これは行動中心アプローチみたいな感じで
その鉄学を学ぶと何ができるようになるのか
ということで
そういう観点から書かれている本なんですね。
今日のその本にヘーゲルが載っていたかというと
ちょっとあまり覚えていないんですけど
少なくとも自由の相互承認という形では
ちょっと載っていなかったと思うんですけどね。
でも少なくともこの行動中心アプローチ的に
Can Do Statement
CDSを今回の件に当てはめてみると
やっぱりネトウヨに反論できる
つまり多様性の価値を認めないネトウヨに反論できる
そういうCDSのために
このヘーゲルを紹介しているトマノさん
トマノさんの書いている自由の相互承認という考え方は
非常に役に立つのではないかと思います。
最後に聞いてみますけど
リスナーの皆さんも
ネトウヨがよく言っている多様性なんかに価値がないという
しかもその前提になっている
お互いの相手の自由を認めない
要するに上松が死刑になったことを例にして
自由とか多様性とか言っている人も
結果的には本当はそんなものを認めていないんだという
そういうよくあるネトウヨの反論に対して
皆さん反論できそうだと思う人は
ハートマークでリアクションいただければと思います。
すみませんちょっと噛みまくってしまいましたけど
まだちょっとそれにはうまくつながらないという方は
涙のリアクションをいただければと思います。
今日はこのCDSとして
多様性の価値を否定するネトウヨに反論できる
そういうことでお話をしましたけど
それにつきまして感想とかコメントとかありましたら
ぜひこのムラスペのハッシュタグ付きで
ご共有いただければと思います。
それでは本日も良い一日をお過ごしください。
本日ハナキンがありますので
ハナキンで皆さんにお会いできることを楽しみにしております。
18:04
そして冒険は続きます。
18:11

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