スピーカー 2
二番経営 No.2の悲喜こもごも。
この番組では、なかなかおもてんでない会社の二番 No.2をテーマに
トップのビジョンの実現の仕方や、この仕事の面白さ、大変さなど
No.2の悲喜こもごもをリスナーの皆さんにお届けします。
スピーカー 1
こんにちは、株式会社オーツーパートナーズ 取締役の勝宮すいでです。
スピーカー 2
現当社新しい経済編集長のしだれゆうすけです。
二番経営 第22回始まります。
今回のテーマは、前回に引き続き、世界のソニーを作った盛田昭夫に見る
No.2論の第2回目となります。
スピーカー 1
はい、前回ちょっとイントロ的にですね、今のソニーさん、
それから盛田さんのイメージみたいなのもちょっとお話ししました。
今回はですね、盛田昭夫さんの老いたちみたいな感じで
お話ししていきたいと思います。
スピーカー 3
楽しみですね、これは。
スピーカー 1
まあ、会社を作ったところからお話しするっていうのもあるかもしれないんですけども、
今回盛田昭夫さんを語るにですね、老いたちというかですね、
もっと言うとご先祖様から語らないと話が繋がらないっていう風に
なるほど。
思いましたので、そこまでお話ししていきたいと思います。
盛田昭夫さんなんですけれども、前回お話ししたようにですね、
1980年代にですね、すごく日本で注目された経営者で、
経営者の域を超えてですね、いろんな発信をされていました。
調子にご自身の顔写真がドーンと出たメイドインジャパンっていう本。
これあの日本でも売られたんですけども、一番最初に売られたのは
アメリカで先行発売だったんですね。
最初アメリカで出そうと思って作られた書籍の日本語版逆輸入で売られた。
スピーカー 2
最近そんな本ありますかって話ですよね。
スピーカー 1
もうそうですよね。最初からアメリカ向けに書いてるっていう。
それからですね、1966年ちょっと遡るんですけど、
そこでは学歴無用論っていう本を出されてですね、
なんとか大学出身の新入社員を取るとかっていうところに対してですね、
なんかいろんな意見ぶん投げて、これもダイベストセラー。
今でも再編してますけども、すごく名調だと思いますね。
あと石原慎太郎さんと一緒に出したノートを言える日本という話もしました。
当時はですね、日本の政党力が非常に強い時代だったんですけれども、
国際的に活躍するビジネスマン、ビジネスリーダーの日本代表と言ってもいいような方ですね。
1999年にお亡くなりになったんですけども、
その年亡くなる直前にですね、日本の経営団連の副会長が内定されていたんですね。
なんで本当に名実とも日本のビジネス界のリーダー、そういう方でしたと。
そういう方ですごいですね、のマインディングと申し上げたように、
森田亜紀夫さんの老いたち、ご先祖からちょっとお話していきたいんですけれども、
まず森田家ですね。森田の森はなんですかね。
スピーカー 2
大森の森ですね。
スピーカー 1
大森の森ですね。
スピーカー 2
これ大森っていうのはちょっと、いろいろな誤解があるかもしれない。
スピーカー 1
大森の森の森田さん。
亜紀夫さんが生まれたのはですね、名古屋の白壁町というところだそうです。
ここはお屋敷町でですね、洋服な家っていうのがずっと並んでいる町なんですけれども、
森田家のベースっていうのは、そこの名古屋ではなくてですね、
愛知県の北半島の南部、小菅谷という場所。
で今、徳永市というふうな市にですね、組み入れられているんですけれども、
この小菅谷というのが森田家のベースです。
どんなベースかというと、森田家っていうのはですね、
1665年から続く酒造りのメーカーだったんですね。
1665年に初代森田旧財門がですね、酒造りを始めましたと。
そこから350年あわにわたって酒造業を営んでいたと。
今でも実はこの作り酒屋さんで作られた日本酒っていうのが売られていると。
そういう本当は名門だったんですね。
作り酒屋日本中たくさんあると思うので、
それの地の一つかなという感じなんですけれども、
そのすごさっていうのがですね、第11代森田旧財門さんの話になります。
いきなり11代って言われてもわからないと思うんですけども、
この方、森田旧財門、名前は森田明貴という方だったんですけども、
森田明雄さんのおじいさんのおじいさんにあたりました。
時代は江戸末期です。明治維新の10年前ということだったんですけども、
その時に党首になられた方なんですけれども、
この方ですね、今で言ったら変革者、イノベーションの塊みたいな人で、
当時の江戸末期っていうのは日本は天保の大基金っていうのがあってですね、
お米がなくなりましたと、基金で植えてみんな食べるものもないっていうところ。
そこで作り酒屋さん、日本酒っていうのは当然お米で作りますんで、
お酒の原料の米っていうのはなかなか入手できないということで、
お酒を作るための米っていうのを節約しながらかつ生産効率を上げる、
かつ高品質な日本酒を製造するという技術をですね、確立させた方なんですね。
なのでずっと今までと同じような作り方じゃなくて、
そこでいろんな技術的な工夫を重ねてですね、新しい日本酒っていうのを作りましたと。
そのイノベーティブな技術革新っていうのはですね、
千田郡の首相大変革、国に益すること大なりっていうふうにめちゃめちゃ褒めた人がいました。
福沢諭吉さんがですね、なんか千田ですげえ奴いるぞって言って褒めて、
それを書籍にですね、残してるっていうぐらいすごかったと。
その時に新しい酒の作り方と合わせてですね、
お酒のブランドとして、根の日松というお酒のブランドもそこで誕生させました。
根の日松っていうのは、根はですね、子供の子の乃木坂の日にちの日に松茸梅の松、根の日松。
スピーカー 1
ググっていただいたら今でもこのブランドっていうのの日本酒を買うことができます。
確か大吟醸1万円ぐらいで純米が2000いくら、ちっちゃい瓶でですね、貼ったりします。
ちょっと私はアルコールを今飲まないので、味見ができないですけども、ぜひ。
スピーカー 2
今度飲んでみる?
スピーカー 1
これ飲んだ方がいいですっていう理由もちょっと後でおっしゃいたいと思います。
まあそういうお酒の大変革をしただけにとどまらずですね、
この11代目森田旧左衛門さんっていうのはどんどんどんどんクスクリザー会社の事業変革をしていきます。
多核化をしていくんですね。
お酒っていうのは醸造っていう技術で言うんですけども、
その技術を活用して味噌を作ること、あるいはお醤油を作るっていうことにどんどんどんどん事業を広げていったんですね。
で味噌作り醤油作りをして、それだけではなくてですね、知り合いと戦国船を3隻購入し、
船を買ってですね、愛知県の千田半島ですからそこから江戸に向けて航路開拓していく。
なんか作ってその場で地産地消でやるだけじゃなくて、
一大消費地である江戸を狙ってですね、そこに物流網っていうのを組み上げていったという感じです。
でその江戸航路を開拓してですね、行きは当然自分たちが作ったお酒、味噌、醤油ですね、乗せます。
それから親族にですね、お酢を作っている方がいたので、そのお酢も積んで江戸で売ります。
帰りはですね、江戸で当時肥料をですね、仕入れて持ってきて、でその肥料を千田半島で販売すると。
農地がいっぱいありましたんで、そこで売っていくということをやっていました。
日本酒、味噌、醤油、プラスお酢を積んでというこのお酢、親戚なんですけども、中野又財門という方です。
4代目中野又財門。何のこっちゃって感じなんですけど、中野家。中野家って何か今の三つ関数さんですね。
スピーカー 2
あ、そうなんだ。すごい。
スピーカー 1
なので今の三つ関数さんと親戚というか近い感じだと。三つ関数さん皆さんね、知ってますよね。
スピーカー 2
もうめっちゃ使いますよ。
スピーカー 1
プラスお酢入れた食品メーカーさん。
スピーカー 2
めっちゃ事業活ですね。
スピーカー 1
ですよね。
スピーカー 2
この話、どんどん拡大されてるし。
スピーカー 1
広がっています。
スピーカー 2
その領域もそうだけど、対象地域を広げていってる感じだから、もうすごい。
でもね、下田さん、まだまだなんですよ。
スピーカー 1
まだまだですか。
まだまだなんですよ。
この森田明貴さんすごくてですね、今度はですね、もめんどんやっていうのを買収します。
もうもめん、布ですね。
買収。
で、そっから作り境だったのが、その布を販売するっていう時期を始めるんですね。
で、どこで販売するか。愛知県の千田半島。
で、隣見るとですね、江戸で売るっていうことはしなかったんですけども、
静岡県の清水市ですね。
そこでもめんを販売するということを始めたんですけども、
スピーカー 1
その時に清水市っていうのを休じてた人がいます。
清水の二郎町って聞いたことがあります。
清水を治めていた、ヤクザの親分ですね。
その清水の二郎町と交渉して、清水にも出店をしたということだそうです。
そこで江戸でその貿易というかですね、日本酒を売って味噌を売って醤油を売ってお酢を売って、
儲けて、で、もめんも売ってですね、稼いだお金をですね、
全部ですね、地元のインフラにぶち込みます。
道路を拡張して船の行き来をしますんで、港の補修、五眼工事、
こういったものにですね、どんどんどんどんお金を入れていくんですね。
インフラを整えるっていうことをしました。
自分たちは商売のためだったかもしれないんですけれども、
結果としてその街のためになるようなことっていうのをどんどんどんどん資材を通してやり続けました。
で、先ほどこの明貴さん、11代目森田旧三重門さんが家徳を継いだのが江戸末期ですので、当然明治に入っていくわけですね。
そうするとですね、さらにこの事業拡大っていうのは加速していきます。
スピーカー 2
まだ生きてるんですね。
スピーカー 1
日本酒から今度ワインを作り始めます。
ただこのワインっていうのは残念ながら、
葡萄を作っていくっていうことがうまくいかなくてですね、ワインの醸造っていうのは失敗したそうです。
スピーカー 2
チャレンジしたんだ。
スピーカー 1
チャレンジですよね。
で、このワインはダメだったんですけど成功した事業があって、これはですね、パンの製造です。
明治維新になって西洋からパンが輸入されるようになって、なんかこれ作れんじゃね?っていうことで作り始めましたと。
で、このパンの製造、今でも続いてます。
スピーカー 2
これも?
スピーカー 1
はい。どこで続いてるか。四季島製パンっていう会社、ご存知ですか?パスコですね。
スピーカー 2
あ、そうなんだ。
スピーカー 1
森竹のパン事業から進んでって、今四季島製パンパスコっていう会社になっています。
スピーカー 2
すごい。
スピーカー 1
すごいですよね。
スピーカー 2
だから本当にお米のお酒とパン、小麦のパンみたいなことですよね。だからすごい。だから時代にも合わせてる感じだなあ。
スピーカー 1
すごいですよね。で、この市作り酒屋のところからどんどん事業を進めていって、
間に今でも続く三菅さんとか四季島製パンさんっていう会社の名前が出てきてっていうところで、もうなんかすでにただものではない感じなんですけれども、
先ほど二良さんにこの日本酒ぜひ根の日末飲んでくださいって申し上げた理由があってですね、
明治維新を経てしばらく経って1900年にパリで万国博覧会が開かれましたと。
そこにこの酒造会社の日本酒とお醤油っていうのが出品されたらしいんですよ、パリに。
まだ日本が開国をしてしばらく経った10年ぐらいですかね。
それぐらいのタイミングでパリの万博にこの千田半島の造り酒屋の製品っていうのが出て、なんと金賞を取るっていう会場。
1900年ですもんね。
1900年ですね。まだこれ18世紀ですね、1900年ってね。
スピーカー 1
もうなんかすごい。で、すごいんですけども、先ほど福財吉さんが褒めたっていう話ありましたけれども、
それ以外にですね、井上薫っていう、これもあの長州藩で高杉晋作なんかと進行があって、
維新の志士ですね。その後に政治家になって外務大臣とか大倉大臣とかを務められた方、そういう方たちと進行があってですね、
新しい時代の人材をどんどん作んなきゃいけないと。
事業で成功すると時代、次の世代っていうのを考えるということで、
礼系義塾という私塾をその時に作られたそうです。
この後出てくる森田明雄さんが生まれたときにはもうこの義塾っていうのはなかったんですけど、
小学校に地元の小学校にも受け継がれていたそうです。
ちなみにこの礼系義塾の出身者っていうのが、いつか二番系でも扱いたいんですけども、
トヨタ自動車で忠孝の祖と呼ばれる石田大蔵さんという方がいらっしゃるんですけれども、
創業したてで景気気になったトヨタ自動車を救ったと言われる石田大蔵さんですね。
この方を排出したそういう学校である。
というのが森田明雄さんのおじいさんのおじいさんのお話なんですよ。
スピーカー 2
ちょっと待ってください。おじいさんとおじいさんがまずものすごいですね。
スピーカー 3
すごいですよね。
スピーカー 1
なんでですね、この昔のご先祖の話を長々としたかというと、
これだけでもストーリーになるような偉人の方なんですけども、
森田明雄さんっていうのはずっとですね、地元のこのおじいさんのおじいさんである
11代森田旧財門の偉業をですね、聞かされて育ってるんですよね。
スピーカー 2
そういうことか。そうですよね。
スピーカー 1
この町、この村を作ったのはあんたのご先祖さんなんだよ。
あんたのご先祖さんっていうのはここのスーパーヒーローなんだよ。
あんたはその地を継いでるんだよっていうことをずっと言われ続けてるんですよ。
スピーカー 2
もちろん家族内でもそういう当時からの話を引き継がれてると思いますし、
町に出てもみんなに言われるみたいなとこありますもんね。
みんな知ってるその町の人たちだと語り継がれてる。
そういうことか。だからそういう意味では間接的に影響を受けてる。
スピーカー 1
なんかおじいさんのおじいさん、ちょっとだいぶ前かもしれないんですけども、
まだ時代の改造として余韻が残ってる。
そういうご先祖さんだと思うんですよね。
このご先祖さん、偉大なご先祖さんっていうのが第11代でした。
森武っていうのは当然その後も続いていくわけですよね。
今度は12代、13代って続きます。
11代がもう偉大すぎたからの反動かもしれないですけども、
第12代森武、第13代森武っていうのはそんなに良くなかったみたいです。
どうやら財を成してますので、そこから美術工芸品とか骨董品のコレクターになってたんですね。
スピーカー 1
神秘感がどんどん高まっていてですね。
会社の経営は番頭さんとかに任せて、
自分たちは美しいものを見るとか、絵画とか美術工芸品を集めるっていうことを、
スピーカー 2
この2代にわたってですね、やり続けたと。
スピーカー 1
当然そうすると会社の事業っていうのはどんどんどんどん衰退していくという状況です。
12代、13代でそういう状態になってですね、ようやく14代、
つまり森田明雄さんのお父さんの代になってくるんですけれども、
まずですねそのお父さんっていうのは、
二十歳の頃にですね、ちょっとあんまり良くなかったっていう12代、
森田明雄さんのお父さんのおじいさんにあたる方ですね、
が亡くなられましたということで、
当時ですね、森田明雄さんのお父さんは慶応義塾大学の理財家、
今の慶応大学の経済学部ですね、在学中だったそうです。
その時におじいちゃん死んだからちょっと戻ってきなさいと、
あんたあと通がないといけんよって言われて、東京から戻されたんですね。
その時は学生さんでしたし、地元ではですね、すごい名家ですので、
普通に金持ちのボンボンじゃないですけれども、そういう感じで言いましたと。
あんた継ぐんだよって戻って、家の状態を見たらもうびっくりですね。
家はもう美術工芸品だらけで倒産寸前になっちゃって。
スピーカー 2
そうか、間の二代で。
スピーカー 1
そうです。親父、じいちゃん何してくれてんねんみたいな感じになってと。
もうその状態で自分は慶応大学の二年生か三年生だったんですけれども、
もうそのまま学生を続けるってことを諦めてですね、
直ちにその実家に戻って会社の再建に取り掛かります。
もう二十歳そこそこの学生がですね。
そこで何をやったか。
もう神秘眼を鍛えたですね、二代にわたって美術工芸品が山のようにありましたんで、
それをガンガン売りまくるんですね。
そのやっぱり見たては良かったみたいでですね、ものすごい良いものが多かったので、
結構なお金になったそうです。
美術品を一気に売却して、負債を歓済してですね。
工場もですね、稼働してなかった状態なんですけれども、
それを再建させるっていうことを一気にやったそうです。
これで何年ぐらいでその再建完全になったかわからないんですけれども、
森田明雄さんが生まれた時にはですね、
もう昔の繁栄を取り戻して森田家っていうのはものすごい家にまた戻ってたということですので。
お父さんもすごいですね。
お父さんもすごいですね。
芸者としての手腕が半端ないと。
スピーカー 2
だってスタートアップ起業するぐらいの年、
というか在学中にしかもやばい状態の会社をついでちゃんと再生するっていう。
スピーカー 1
最初から背負ったもののマイナスからのスタートっていうのを
パパパパパッとこなしていくという感じですね。
その森田明雄さんが生まれた時に昔の繁栄を取り戻してた、どれぐらいかというと、
先ほど森田明雄さんが生まれたのは名古屋の高級住宅地、