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スピーカー 2
二番経営 No.2の悲喜こもごも。この番組では、なかなか表に出ない組織の二番 No.2をテーマに、トップのビジョンの実現の仕方や、この仕事の面白さ・大変さなど、No.2の悲喜こもごもをリスナーの皆さんにお届けします。
スピーカー 1
こんにちは。株式会社オーツーパートナーズ、取締役の勝宮聖礼です。
スピーカー 2
現当社新しい経済編集長のしだらゆうすけです。二番経営第52回、今回もですね、トヨタ自動車シリーズをお送りするんですが、前回までのトヨタグループの創業者・豊田喜一郎編に続いて、今回はトヨタ自動車創業者の豊田喜一郎編ということになります。勝宮さん、よろしくお願いします。
スピーカー 1
はい、よろしくお願いします。
豊田さん、何回か前にお話したと思うんですけども、豊田幸さんというトヨタグループの創業者と、それから今にも続くトヨタ自動車を事業を起こされた幸さんの息子さんの喜一郎さん、この二人を創業者として扱っていくというお話になるんですけれども、一旦幸さんは前回4回、すごいですよね、波乱万丈という感じだったんですけども、
その中で本当に国のこと、社会効果のことを思ってですね、発明に人生をかけて織物、初期の機械化を果たしました。自分の名前までついた会社を作ってもらったんですけど、そこから追放されるっていうひどい目にもあいながら、後半のほうではもうご家族、演者ですね、そういう方たちが二番系人材として支えて中国進出まで果たす、そんなお話をさせていただいたと思います。
今日からトヨタ幸一郎編というのをスタートしようと思っていて、これも非常に面白い内容なんですけれども、ちょっと改めて、幸さんの話の中でですね、いろんな出来事があったんですけども、トヨタグループ創業記に見る、改めてのナンバー2の意義っていうんですかね、それをちょっと確認してみたいなと思うんですね。
トヨタ幸一さんっていう大発明家でもあり、事業を起こしてきたという方なんですけれども、改めてですね、トヨタさんに限らず考えると、トップっていうのはどういう人材なのか、要はナンバー2が支えるトップっていうのは何なのかっていうところなんですけども、過去の回でもですね、ナンバー2の意義とか役割とかっていうのをお話ししたことがあったんですけども、まずその一番手、トップなんですけども、
今回に関して言うとですね、そのトップっていうのは事業を進めていく、事業そのものというかですね、事業の塊、そういう存在だったと思うんですよね。日本のその食器っていうのを自動化していく、機械化していくっていう、これが国を飛ばせる一番重要なことだっていうので、それに邁進し続けるトヨタ幸一さんっていうのがいらっしゃいました。
そこの技術ですとか、その思いにですね、共感していろんな人たちが集まってきてですね、やっぱり一番大きいのは三井グループ含めたですね、大資本が入ってきて、トヨタ式食器株式会社っていう会社まで立ち上げるという状況になりました。
結果追放されるんですけども、その時にはその追放された理由っていうのは、その会社の経営をしていく上でトヨタ幸一さんがやり続けた研究っていうのが費用負担が大きくなっちゃうんで、ちょっとやめてくださいって言ったらもうやってられるかっていうので出てったっていう状況です。
スピーカー 2
話が違うみたいな。
スピーカー 1
話が違うって感じですよね。事業をやるために存在している。事業をやるために会社を作ったはずなのに、なんでそうなってんだっていうのが多分トヨタ幸一さんの部分だったんです。
つまりその事業家がナンバーワンであって、その当時の会社もそうなんですけどその経営者っていうのがナンバーツーになっている。これ事業家経営者って言葉を今あえて分けて使ってるんですけども、通常トップって経営者って言いますよね。
そういうイメージですね。
なのでその経営者を支える2番手っていう言い方があると思うんですけども、いろんなケースはあると思うんですけども、今回のケースで特にトヨタさんに限らず、会社のその創業期っていうのは事業家がナンバーワンで、それを支える経営人材っていうのはナンバーツーになるっていうことがあると。
スピーカー 1
要はその事業を進めるため、事業を起こすために経営っていう手段を用いるっていう感じですね。新しいものを生み出すためにはお金が要ります。だからお金を稼がなくてはいけないです。それを持続的に進めていくためには経営っていうのを回し続けるっていうことが重要になります。
そのときに経営っていうのが先に来てしまうと、儲けるっていうことが先に来ると、それによってやりたかった事業っていうのが止めざるを得なくなっちゃう。離さざるを得なくなっちゃうっていうようなことも起こる。
そういうアンマッチっていうのが、今回豊田幸さんに起きてきたことっていうのがすごく読み取れるんですね。
要はトップっていうのは事業をする塊なので、二番系人材っていうのはとにかくそれを支える。その事業を実現させるために何をしたらいいのかっていうのを盲目的に信じて支え続ける。
この豊田幸さんの場合には、それをしっかりと支えてくれる人材っていうのが外の方ではなくても家族、園長、あるいは中に引き入れた方しかそれができるという感じかなと思います。
スピーカー 1
でそれが逆になった場合に何が起きてるかっていうのも、同じように見えてきます。
これはどっちが悪いとかっていうところも、そのタイミングで起きるかもしれないんですけども、
それによる不幸であったり、あるいはそうなったからうまくいったみたいなケースとかも、
どころどころで見えてきますので、この事業家なのか、あるいは経営者なのかっていうのをですね、
間にも入れていきたいと思うんですけども、その視点で話を聞いてくださると、より楽しめるんじゃないかなと思います。
スピーカー 2
前回までのシリーズの佐吉編でもちょこちょこ息子さんなんで当たり前ですけど、エピソード自体出てきてました。
僕もすごい気になってました。
スピーカー 1
はいはい、そうですよね。
スピーカー 2
なかなか一般的な息子さんというより、壮絶な人生を一緒に、子供の頃からお父さんがいなくなっちゃったりとか、
戻ってきたりとか、そういうことも経験してると思うので、ちょっとすごく楽しみでございます、今回。
スピーカー 1
おっしゃる通りですね。
じゃあ、豊田喜一郎さんが登場するところなんですけれども、
まずですね、その前回までの豊田佐吉さんシリーズ、最後は佐吉さんが中国、上海に進出して、そこで暴食の事業を進めるという感じでしたと。
ただですね、中国に進出するってことができたのはなぜかと。
日中有効をして両国のためにっていう強い思いはあったんですけども、
当然ですね、そういうことをやっていくためには先立つものがないとできないです。
なんで中国に進出できたのか。
それは娘婿の豊田梨沙浦さんが大活躍をして、日本の本体、豊田暴食が経営的にめちゃくちゃうまくいったからっていうのが背景としてあります。
この豊田梨沙浦さんはもう孫子となき一番経営人材と、さっきのナンバー2経営者っていうのがまさに豊田梨沙浦さんのこととも言えると思うんですが、
中国に進出した1920年頃なんですけども、
この時代は豊田梨沙浦さんが活躍して非常に会社が発展させるときでもあったんですけども、
ただ世界的には第一次世界大戦が終わった直後で、
大不況で株価大暴落で大恐慌が発生しているという状況でした。
そういった危機にも直面しながら先手先手で手を打ちながら、
会社のキャッシュを守って事業を進められるように、あるいは早く手を引くですとか、
そういったことをうまく巧みに傾向を発揮しながら、そこを乗り切ったと。
これは豊田梨沙浦さんというのが、もともと伊東中での勝者マンで、
臨安勝者マンでしたので、世の中の動向を察知することに非常に長けていたと。
そういうバックグラウンドがあったからというのが言えます。
グローバルでやってた人ですもんね。
それが1920年ということなんですけども、
その1920年に豊田喜一郎さんはどんな状況だったか。
豊田喜一郎さんは1920年に東京帝国大学工学部を卒業して、
そのあとおそらく豊田幸さんに言われて、
そのあとすぐ豊田グループに入ってくるのではなくて、
スピーカー 1
東京帝国大学の法学部で聴講生を1年間しています。
おそらく会社経営をするにあたって技術系の勉強ばかりしていたので、
法律も抑えなさいと言われたんじゃないかなと思うんですけども、
豊田喜一郎さんは社会に出る直前の大学生の状態という感じですね。
そこの大学生なので、そこからの後でもいいんですけども、
東大に入ってるわけですよね。
スピーカー 2
そうですね。
スピーカー 1
なのでちょっと時間を遡って、どうやって東大に入っていったのか。
これらへんを軽く触れていきたいと思います。
幼少期に戻っていくんですけれども、
豊田喜一郎さんは、先ほどシェラーさんもおっしゃったように、
結構壮絶な状況で幼少期でしたね。
生まれたばかりのときに自分を産んでくれたお母さんが、
いなくなって出本してしまうという状況で、
祖父母に育てられるという状況でした。
そこから3歳のときに父親が再婚した朝子さんという方と再婚したんですけども、
そこに引き取られて、3歳からママ母のもとで育っていくと。
ただ別に小学校のとき成績がいいわけでもなくて、
家に帰ると5歳年下の妹と大人しく遊ぶ、ひたすら無口なところで、
ちょっと心配になっちゃうぐらい。
その心配を西川昭二さんという朝子さんの親戚の方に相談するみたいなことがありました。
っていうお話をしたと思います。
それが小学校で、中学校もそんな感じでずっと通っていたんですけども、
豊田幸さんは小学校までしか行けなかったんですよね。
スピーカー 2
そうですね。
スピーカー 1
小学校を卒業してすぐ大工の見習いになって、仕事せざるを得ないという状況で。
要は小学校、小卒で大発明家になっているわけですね、自分は。
なんで、学校なんかいらねえだろう。
俺は小卒でこんなになってんだけど。
だから俺の手元で紀一郎も育てっからっていう感じだったんですよ、幸さんは。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
それもありなんという感じだと思うんですけども、
それに対してこのお母さん、朝子さんがもう反対するんですね。
学校超大事ですわ。
ということで、ずっと必死の説得をして中学校に上がって、
中学校だけじゃなくてそこから先も絶対に進学させたほうがいいというのをコンコンと説いて、
当時中学校って5年生まであったらしいんですけども、
通常は中学校の5年生のとき、あるいは4年生ぐらいから受験勉強をして、
高校に進むっていうのが一般的だったんですけども、
中学校の5年の最後まで佐吉さんがうんと言わなかったので、
5年生ギリギリまで。
そうなんだ。
ようやくじゃあいいよ、高校行ってと。
そしたらもう受験勉強する期間ほとんどないので、
全く勉強が間に合わなくて、
当時愛知県の名古屋に住んでいたんですけども、
名古屋の第8高等学校っていうところを受験して失敗をします。
ちなみにこの名古屋の第8高等学校、旧姓第8高等学校っていうのは、
以前ソニー界でやった森田競さん、高校浪人したっていう話があったんですけども、
森田競さんがチャレンジして、一回受験失敗したのもこの名古屋の第8高等学校。
超名門校なんですね。
そこに失敗をして浪人をして、
もう勉強をして、
翌年、名古屋の第8高等学校ではなくて、
木一郎さんは仙台にある第2高等学校というところに合格をします。
要は親元の名古屋を離れて、遠く仙台に行くと。
スピーカー 1
非常に貴重な重要な情報を提供してくれるような仲間たちもここでできたということになります。
なるほど。
そんな高校生活を送って、1917年東京帝国大学工学部機械学科に無事合格して入学をしています。
入学したときの学生時代の木一郎さんの評価というのがあって、
これは熊部和夫さんという後の東京大学の教授の方が言ってるんですけども、
口数が少ない学友との付き合いもあまり行わない一種の変人というふうに言われます。
コミュニケーション苦手な状況っていうのは、
高校に行って仲間はできたんですけど、大学に行っても変わらなかったという感じですね。
ただその二高の同級生がかなり東京大学と一緒に進んでいますので、
その二高時代の親友たちとはもう仲良くしてるけれども、
他の人、大学からの友達とはなかなか話さないという、そんな状況でした。
ただ目すべからずところでは実に有弁で、
相対した談話のときたくさんの調子を前にしたときと、
まるで人間が違うという評価があって、
スイッチ入るとすごい演説じゃないですけども、
心を打つような話をするという方だった。
それもピンとこないので、後に語り継がれるエピソードがあるので、
軽く触れてみたいんですけれども、
東京大学は東京都文教区本郷にあるんですけれども、
その本郷は今でもそうですけども、
結構大きいお屋敷とも言ってもいいような、
その校庭が結構立ち回るエリアでした。
この時代も同様で、
その屋敷町を数人のクラスメイトと散歩をしていたらしいですね。
そのときには第一次大戦後、デモクラシー思想が世の中にあって、
学生もそういうのを感化受けてるみたいなんですけども、
その大邸宅を見ながら、
ある学生がこんな大邸宅を独占するとはけしからん。
こんな贅沢が存在するから貧民屈が後をたたんのか。
貧民害みたいなのが当時日本にもあったようなんですけども、
そういうことを言ったわけですね。
みんなそうだそうだと。こんな金持ちがいるからいかのだ、
みたいなことを学生が打ってるところで、
急にずっと黙った木一郎さんが、
それは違う!って言い始めて、
この邸宅は一丁一石に築かれたものとは僕は思わない。
この家の主の並々ならぬ努力の結晶だと思う。
平等もいいが、ひとつ間違えると悪い平等になる。
能力と努力は本来平等を足り得るものであるが、
しかも平等を足り得ないのが現実だ。
能力と努力の差がつくことが現実の姿だ。
この邸宅がその一つだ。
しかしそれかといって、この家の人たちが自ら築いたものであっても、
財を独占することはいけない。
能力があっても、いかに恵まれない人がたくさんあるその人たちに、
財力を分けてチャンスを与えることをするのは正しい。
そこに社会の向上があり、人々の平和が生まれる。
これが真のデモクラシーだ。
結構今、長いのを大和様が言ったんですけど、
今風に言うと、
SNSで炎上してるところで、
いきなりグーの音も出ない正論を
すごくカッコよくスポーンと入れる。
スピーカー 2
そんな感じなんですよね。
頭いいですよね。チープな例えですけど。
めちゃくちゃ頭いいですよね。
これもちょっと言うべきなんでしょうね。
高額納税者からもっと税金あげるのかみたいな話になった時に、
こういう話で出てくるわけじゃないですか。
出ますよね。
まだ答えが出てないぐらいの、
現代のイシューでもあるし、
スピーカー 1
それが右と左で揺れてるのが今みたいな状況の中で。
スピーカー 2
今これツイッターで誰かの発言に書いても、
スピーカー 1
別にそうだよなって思っちゃうみたいな。
おそらく大邸宅を見て、
豊田幸さん、豊田喜一郎さんの家が大邸宅であったか、
でも名古屋のお屋敷町に住み暮らしていたと思うんですよね。
ただその時に、
かなり苦労して、
死ぬほど頑張っている両親をずっと見続けているわけですよね。
だから、
いきなり大金持ちでそんな状態じゃないと、
一朝一夕に気づかれたものとは思わないっていうのは、