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TOKYO NORTH MOVEMENT 飛鳥山の窓から
東京都北区飛鳥山。暖炉のある小篠三宏さんの部屋には、未来を思う様々な人たちが遊びに来ます。情熱とアイディアが交錯した素敵なおしゃべり。さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
TOKYO NORTH MOVEMENT 飛鳥山の窓から
パーソナリティーを務めます小篠三宏です。今、私がいる場所は大寺飛鳥山にある邸宅の談話室。
こちらに北区内外の多彩な企業家、経営者を招きして、グラスを傾けながらじっくり楽しくお話しする。そんな雰囲気でお送りしたいと思います。
今月のゲストは、マルゲン飲料工業株式会社代表取締役、安倍貴昭さんをお迎えしております。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。安倍です。
安倍さんとは、もう何年?11年、12年くらいのお付き合いですかね。
東京商工会議所の墨田区の支部会長をお務めになられて、僕が北支部の会長に就任した。同期の会長ということなんですけども、
あの頃は安倍さん一番若い会長だったんですね。
そうですね。たまたまそのタイミングで、その時にはしばらく一番最年少でしたね。
残念ながら小篠さんの方が年上だった。
僕はちょっと上なんだけど、あの当時すぐに若い事務局長が来て、事務局長と会長の年を足すと北区が一番若かった。北支部が。
あんまりそんなこと考えたことないですね。
隣の文教区が百何十歳で、こっちがみたいなことでね。
結構来たく、これから若々しくやらなきゃね、なんて言ってたのを今思い出しました。
安倍さんは先ほどご紹介いたしましたように、マルゲン飲料工業株式会社ということで、これは主にどういう業務の?
おそらくお気になっている方々は、マルゲン飲料工業って聞いたことあるよっていう方の方が圧倒的に少ないのではないかなと思いますけど、
今の仕事はですね、いわゆる外食業務用の飲料、デザート、どちらかというと甘いものが中心ですけども、
飲食材を製造あるいは輸入をして販売をさせていただいている、B2Bの仕事です。
ただ、街の中に相当程度、当社の商品、知らないうちに出回っているので、
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ほとんどの方が、特に都会で健康で文化的な生活を営まれているとすると、
一度も口にしたことないという方は、ほぼいないんじゃないかなというふうに思います。
すごいね。僕は実は、毎朝、マズイっていう青汁に、
ありがとうございます。
安倍さんのところの乳酸菌のたっぷり入った野菜ジュース。
グリーンスムージー。
あれを混ぜてですね、私がこんなに健康でいられるのも、マルゲン飲料工業のおかげっていうね、
そういうキャッチができるんじゃないかというぐらい、愛飲をさせていただいているんですよね。
元々はですね、今年で108年経って、私4代目なんですけども、
家業で長くいろいろ仕事をさせていただいている中で、
元々は炭酸飲料をやっていた時代が結構長くてですね。
今申し上げたように業務用が中心なんですけど、
ここ10数年、いわゆるインターネット販売のような形のものもあるので、
私もね、もう楽天から育てていたりですね。
なので、小島会長のように、末端のお客様が、
末端って言うなよ。
末端ってごめんなさい。最終消費者のお客様。
最終消費者のお客様が直接手に取っていただくようなパターンも結構ありますね。
僕は先に安倍さんのことを存じ上げてっていうことですけども、
本当においしくいただいていますので、
ぜひ皆さんね、そういうネット販売からご購入をいただければなというふうに、
まず安倍さんの応援をしてからスタートしたいと思いますけどね。
ということですが、少しパーソナルなお話を伺っていきたいと思うんですが、
先ほど4代目というお話もありましたが、もうずっと墨田区出身ということですか。
はい。墨田区で生まれて育って、育てていただいて、
人生のほとんど墨田区にいます。
学校を卒業してすぐ家業を手伝い入ったんですけど、
先代の社長ともいろいろお話をしながら、
しばらく外の空気も吸ってきたらみたいなオプションのうちの一つとして、
アメリカに行かせてもらいました。
学校は東京で大学卒業させてもらったんですけど、
その後アメリカのミシガン州のカラマズというところに
州立のウェスタンミシガン大学というのがあって、
そこに行かせてもらって、2年弱で大急ぎでちゃんと学位を取って、
MBAを取らせてもらって、
その後しばらく見習いで合面授業をやっていた会社がアメリカにあって、
そのパートナーのところでしばらく見習いの仕事をさせていただいて戻ってきた。
合計アメリカにどのくらいいらっしゃったんですか?
アメリカにいたのは3年弱ですね。
戻ってきてすぐ結婚して、
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この話をするといいかどうかなんですけど、
私、女房と出会ったのが16歳なんですよ。
何が言いたいかというと、ずっと一緒にっておかしいけども、
だったんですけど、アメリカに行った時に離れ離れになっちゃって。
3年半か。
ただ、3年全く会わないというのもいかがなものかというので、
全く会わなかったのは最長が1年2ヶ月ぐらいだったんですかね。
日本に帰ってくる機会があって、
1週間ぐらい戻ってきて、向こう帰って、
しばらくしたら、女房もお父さんお母さんも元気でしたので、
相談をして、アメリカに来てくれてですね。
学生寮で、男子と女子が混ざった寮だったんですけど、
1階と3階が男子で、2階と4階が女子でみたいなところにいて、
しばらく一緒にいて。
卒業して、先ほど言った見習いのインターンシップで
仕事させていただいてた時も、最後の3、4ヶ月は、
今だと別に大した話じゃないけど、結婚する前でしたけど、
結婚の約束はして、しばらく一緒に住んでましたね。
戻ってきて、すぐ結婚して、
今更考えると、結構今風だなと思うんですけど、
女房の実家が新宿で、
結婚してしばらくは、女房の実家の近くに住んでましたね。
そこが6年ぐらいかな。
住みたくから離れたのは合計で、10年まではないですけど、
9年前後、住みたくから離れましたけど、
それ以外は、住みたくにずっといます。
ある意味、大学を卒業して、
青春高期をアメリカですごく楽しく過ごしたという感じですかね。
楽しいことは楽しかったですし、
今思うと、とっても良かったなって思って、
臆せず申し上げますけど、
私、高校を卒業するまでは、
本当に全く勉強好きじゃなかったし、
私学の中高一科学校だったんですけど、
中学の2年生から3年生の時に、
慣れないかもしれない事件があって、
結果的には、ちゃんと進級させてもらいましたけど、
ギリギリで高校を卒業して、
当然、大学なんか受からないから、
浪人して、
そのちょうど浪人したぐらいの時から、
考え方がちょっと変わったかなって思ってて、
私、これ結構胸張っているんですけど、
大学はすごく勉強しました。
取らせていただいた授業は、ほぼパーフェクト。
一度も休んだことないし、
代理で誰かに退出して、出席取ってもらったなんて、
そんなことは一度もなくて、
そういう意味では、人が変わったようになんていう、
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大げさなもんではないですけど、
アメリカに行かせていただいた時も、
行っている間も、
本当に集中的に勉強した、
そういう意味では、いい経験だったし、
同時に、外から日本を見ることができる、
貴重な機会だったなというふうに思っています。
なるほど。
そして、そこでお父様の会社というか、
マルゲン飲料工業さんに戻られて、
会社を継承されるのは40歳の時?
そうですね。
何年になるんですか?
えっとですね、これね、
たまたまというか、
仙台の社長、病気だったんですけど、
具合が悪いことは分かって、
それでも頑張って治療を2年近くしてたんですが、
亡くなったのは68歳で、ちょっと若かった。
若かったですね。
若かったので、
私ももうすでに十数年、
一緒に仕事をした時代があったので、
それなりに年ごとは理解はしていたし、
しばらくすると、
ちゃんと責任を持って経営をしていくような
立場になるのかなと思っていましたが、
ちょっと早かったんですね。
というのは、
先々代は逆に長生きで88歳まで生きていたので、
そこのインターバルが8年しかないんですよ。
先々代がいなくなって、
仙台がいなくなるまでの間で8年しかない。
つまり、ご先代の社長さんが主体的に
お入りになったのは8年ぐらいだと。
社長としてしたのが8年ぐらいだと。
実は、先々代の社長は、
私のおじいさんになりますけど、
いろんなご縁があったんだと思いますけど、
もちろん一生懸命製料輸出作る仕事を
戦後、焼け野原になっちゃった後、
立ち直しをしてスタートし、
順調にして、
先代の社長、私の父が学校を卒業して、
先代が20代後半ぐらいの時に、
もう自分は任せると言って、
違う仕事をし始めて、
信用組合の立ち上げをやったんですね。
地域の信用組合、
企業機関を立ち上げて始めたので、
そっちにも99%仕事をしてて、
先代の社長は20代の後半ぐらいから
責任を持ってずっとやってたんですね。
私は、そんなこともあって、
先代の社長が残念ながら、
いなくなっちゃったので、
若干、まだまだっていうところのタイミングでしたけど、
40歳になってすぐに、
引き継いで社長をやらせていただいて、
という感じでしたね。
大体2000年とか?
2002年ですね。
なかなか経済状況、
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いろいろ厳しいところで、
継いだという感じだったんじゃない?
そうですね。
そんなに悪い様子ではなかったですけど、
飲料水の業界とか、
食品の業界って、
比較的景気に左右されない。
比較的ですよ、比較的。
ついこの前のコロナの時みたいなことって、
今まであんまりなくてですね。
ただ、長い会社の歴史の中では、
関東大震災で全部ぼっかれちゃった時もあるし、
もちろん戦争の間に、
みんなで持って逃げなきゃいけない時もあったし、
そういう意味からすると、
大したことなかったコロナですけど、
それでもちょっと厳しかったんですけど、
それよりも前の、
例えば、リーマンショックの時代みたいな、
マブルが弾けましたみたいなところでは、
あまり大きな影響なく、
順調に徐々に業界を拡大できたかなと。
それなりに頑張った仕事をさせていただきました。
そうすると、事業生計っていうことも、
わりとスムースにお父さんがされてたことを、
引き継ぎながら、
それを拡大していくっていうイメージだったのかな?
そうですね。まさにその通りで、
千鶏社長の弟が、
実はついこの前まで現役で仕事を一緒にしてくれてて、
その支えもあったし、
それからしばらくして、
私の弟が違うところでお仕事をしてましたけども、
兄貴一人じゃ頼りないっていうふうに思ったのかな?
戻ってくるっていうふうに判断してくれて、
私二人弟がいるんですけど、
そのうちの一人は今一緒に仕事をしてくれています。
安倍さんは、先ほどもずっと住み抱くということで、
実はその四代にわたって、
全部男の兄弟がちゃんといらっしゃって、
長男がついているっていう、
非常にある意味珍しい。
そうですね。
もう本当にそれがありがたいことだと思いますね。
当然なことながら、自分で選んだことを。
ごめんなさい、選んだというのは仕事をという意味ではなく、
それぞれの親がいて、上手く男で。
ただ、今の時代だから男が引き継ぐっていうのも、
必ずしもそうでもないかもしれないし、
それが全て良かったかどうか分かりませんけども、
非常に上手く今までの男ができたから。
確かに性別アトム学として、
私たちみたいな同族企業っていうのは、
家族仲良くないと続かないところがあるから。
そうですね。
そういう意味では、畑から見てても、
素晴らしいご家族が、
ずっと主体的に運営されているなという感じがしますけどね。
また、この辺でちょっとお時間になってきましたので、
次はですね、戦後のマルゲン飲料工業さんの発展から、
そして、もう少し安倍さんがどういう形で
こういう仕事を広げていってきたか、
そんなことをお伺いしていきたいと思います。
また、次週もよろしくお願いいたします。
はい。ありがとうございます。