1. 二番経営 〜組織を支えるNo.2の悲喜こもごも〜
  2. #23 井深大との出会い。そして..
2024-08-07 28:18

#23 井深大との出会い。そして伝説が始まった。ソニー・盛田昭夫論③

▼今回のトーク内容: 

幼少から父に仕事場に連れていかれる日々/重役会議にも同席/訳もわからず経営を学ばされる/経営の英才教育/偉そうにしない/人の動かし方/トップとしての責任の取り方/クラシック音楽など母から学んだ西洋文化/電気蓄音機との出会い/なんて素晴らしい音なんだ/中学生でラジオ受信機をつくる/1942年、大阪大学・理学部物理学科に進学/当時、戦時下/「原子力は兵器になる」と警鐘/日本が被爆/日米の技術力の差に絶望/卒業して海軍中尉として研究を継続/陸海軍合同の技術研究会が発足/そこで井深大と出会う/すぐに意気投合/戦況は悪化/家族との最後の挨拶として帰省/帰省中に終戦/軍の解体/24歳、東京工業大学で講師に

▼番組概要:

COOや副社長などの「組織のNo.2」。その仕事をテーマに、トップのビジョンの実現の仕方や、仕事の面白さ・大変さなど「No.2の悲喜こもごも」を語っていく番組。製造業に特化したコンサルティング企業、オーツー・パートナーズ取締役の勝見靖英と、幻冬舎「あたらしい経済」編集長の設楽悠介がMCを務める。毎週水曜日配信。

▼番組ハッシュタグ:#二番経営

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▼MC:

勝見 靖英(株式会社オーツー・パートナーズ 取締役)

1971年生。慶應義塾大学文学部卒。ジャパンエナジー(現ENEOS株式会社)、PwC、デロイトトーマツコンサルティング、日本IBMなどを経て、2015年7月よりオーツー・パートナーズに参画、2018年4月より取締役。製造業を対象とした戦略策定、業務改革、ERP/PLM等大規模システム導入等のプロジェクトを多数経験。プロジェクトマネジメント、チェンジマネジメントを得意とし、現在は経営企画/会計/人事総務/組織開発/IT/マーケティング広報等を管掌。HCMIコンソーシアム RX 推進人材・高度ロボットSI エンジニア育成事業技術委員会RX 推進人材育成分科会技術委員。

設楽 悠介(幻冬舎「あたらしい経済」編集長) ⁠⁠⁠https://twitter.com/ysksdr⁠⁠⁠

1979年生。明治学院大学法学部卒。マイナビを経て幻冬舎に。同社でコンテンツビジネス局を立ち上げ。電子書籍、コンテンツマーケティングなど新規事業担当。2018年にブロックチェーン/暗号資産専門メディア「あたらしい経済」を創刊。幻冬舎コミックスの取締役を兼務。「Fukuoka Blockchain Alliance」ボードメンバー。ポッドキャスターとして、Amazon Audible original番組「みんなのメンタールーム」や、SpotifyやAppleにてWeb3専門番組「EXODUS」など配信。著書に『畳み人という選択』(プレジデント社)。

▼ディレクター:

関岡 憲彦

▼プロデューサー:

野村 高文 ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://twitter.com/nmrtkfm⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

▼制作:

Podcast Studio Chronicle ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://chronicle-inc.net/⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

▼カバーデザイン:

松嶋 こよみ ⁠⁠⁠https://twitter.com/kymmtsm⁠⁠⁠

サマリー

株式会社オーツー・パートナーズの取締役である勝水瑞としだれゆうすけが、No.2の悲喜こもごもをテーマにしています。世界のソニーを作った盛田昭夫の育ちから学んでいます。森田強と井深勝の出会いから、技術研究会の発足までを描いています。井深大さんの伝説が始まります。このポッドキャストはソニー・盛田昭夫論③です。

盛田昭夫の幼少期と英才教育
スピーカー 2
二番経営 No.2の悲喜こもごも。
この番組では、なかなか表に出ない会社の二番、No.2をテーマに、
トップのビジョンの実現の仕方や、この仕事の面白さ、大変さなど、
No.2の悲喜こもごもをリスナーの皆さんにお届けします。
スピーカー 1
こんにちは、株式会社オーツー・パートナーズ取締役の勝水瑞でーす。
スピーカー 2
現当社新しい経済編集長のしだれゆうすけです。
二番経営第23回。
今回のテーマは前回に続きまして、世界のソニーを作った
盛田昭夫に見るNo.2論の第3回目になります。
スピーカー 1
はい、よろしくお願いします。
スピーカー 2
よろしくお願いします。
スピーカー 1
前回、ようやく盛田昭夫さんが生まれたという。
生まれました。
まだまだ先長そうなんで、どんどん進んでいきますね。
スピーカー 2
壮絶な血筋をね、感じる回だとね。
まだ聞いていなかったら、ぜひこの2回前から、
はじめから聞いていただければと思うんですけど。
ぜひお願いします。
スピーカー 1
盛田昭夫さん誕生してですね、
小学校の頃の話をしていきたいんですけれども、
この小学校の時にですね、
10歳から11歳っていう記録が残ってるんですけれども、
お父さん盛田首相、盛田の弊社ですよね。
10歳、11歳に盛田昭夫さんがなった時にですね、
会社の事務所とかお酒の醸造所に連れて行かれます。
それで、社会科見学するだけじゃなくてですね、
会社がどういう風に運営されてたのかっていうのを、
潰さに見せられたと。
具体的にはですね、重役会議の時に、
お父さんの隣にずっと座らされてですね、
その会議の時にずっとそこで話を聞かされると。
スピーカー 2
10歳、11歳って小学校5年生とかですよね。
スピーカー 1
そこで部下に対する口の聞き方とか、
ビジネス事業っていうのはどういうものかっていうのを、
盛田さんは知ったと言ってるんですけども、
とにかくそういう打ち合わせには必ず同席をさせていたと。
オーナー一族の会社ですので、
名古屋の方にご自宅があったんですけども、
そこにですね、自宅の方に部下の方が来て、
報告をするとかこともあったんですけども、
そういう時にもですね、
昭夫ちょっと来なさいって言って隣に座らせると。
もうそれぐらい実業家に育てようっていう風に、
お父様は決めてらしたと。
スピーカー 2
それでも真面目に聞いてたんですよね、おそらく。
スピーカー 1
そうですね。
お父様からお前は生まれた時から社長なんだといつも言われ、
一家の長になることを片時も忘れることを許されなかったという風に、
盛田さんは書かれています。
その時にですね、お父さんから言われた言葉として、
社長だからと言って周りの者に対して言われると思ったら大間違いだ。
自分がやると決めたこと、他人にやらせようと思うことを明確にし、
それに対して全責任を負わなければいけないという風にですね、
盛田さんから言われていたと、小学生の時に。
スピーカー 2
すごいセリフですよ。
スピーカー 1
えーっていう計画のレベルですけども、
何か会社に問題が起きた時に部下を叱ったり、
責任を誰かのせいという風に転化するというのは無益なことであるという風に、
この時に教えられたという風に盛田教授さんはおっしゃってます。
スピーカー 2
小学生で教わる内容かなっていうぐらいすごい。
スピーカー 1
恐ろしいですよね。
こんなことも盛田さん書かれてます。
何かを成し遂げようと思う時には、それが双方の利益になるという
共通の動機をうまく利用することが最も大切なのだということだった。
人は誰でも成功を望んでいるのだから。
人を使うことを覚えていくうちに、私は経営者にとって大切なのは認体と理解力であることを知った。
決して自分勝手な手段を用いたり、卑怯なことをしてはいけない。
こうした考え方はずっと私の中にあって、私の経営哲学の基礎になっており、
過去においても随分役に立ったし、未だに自分のためになっていると思っている。
これはもう経営者になってから登場を思い出してなんですけれども、
めちゃくちゃ英才教育ですよね。
スピーカー 2
本当にそうですね。
スピーカー 1
お前はトップだから偉いから、なんかそう偉そうなんじゃなくて、
どうやって人を動かしていくのかとか、
そのトップとしての責任の取り方みたいなのを、
お父さんっていうのはずっと背中というか、それこそど正面から見せていたと。
そういう感じですよね。
スピーカー 2
前回の話でもありましたよ。
高級住宅街でテニスコートもあって、みたいな感じだと、
仕事できないボンボンみたいに育つこともあるじゃないですか。
おそらく前回の話を聞いていただくとわかるんですけど、
お父さんのお父さん、ちょっとそういう感じだったんですよね。
それで業績下がってて、会社潰れそうになっていたのを、
あきおさんのお父さんは何とか再建して復活したっていうのがあるから、
自分の息子はそう甘やかすまいっていうのはあったのかもしれないなって思いましたね。
スピーカー 1
そうですね。きっと会社が傾いちゃったってことだけじゃなくて、
いろんな人に迷惑をかけたとか、
自分の会社があるいは我が家が金コンデとかっていうこと以上の責任感だったりというのを
そのお父様は感じられて会社を再建して、
そういう責任ある立場の人間になるべくして生まれたお前は、
ちゃんと最初から分かっとけよっていうのをやったんでしょうね。
まあ何かやったんでしょうねっていう、
この小学校の時から経営トップとしての英才教育を受ける人って、
一番最初の回で申し上げた2番経営なのか、ナンバー2なのかって、
私がちょっと疑問を持ったっていうのは、この辺で何かわかっていただけると思うんですけど、
森田明雄さんもトップ中のトップとして生まれ育っているんですよ。
なのでちょっと細かいところもですね、皆さん共有しながらというふうに思っていました。
スピーカー 2
ナンバー1のある意味英才教育を受けてきているってことですよね、ここまで。
スピーカー 1
そうですね。そんな幼少期を過ごしてきたんですけれども、
当然お父さんが仕事イベントでもそこに付き合わされてはいるんですけれども、
お母様とのコミュニケーションと音楽の影響
スピーカー 1
家庭の中でですね、お母様とのコミュニケーションっていうのが圧倒的に多い状態でしたと、森田県の中ではですね。
で、そのじゃあお母様っていうのはどういう方かっていうと、
当時の私族の出身、武士、武家のお嬢さんで、17歳でこの森田県に突入できたということだそうです。
もの静かで優しく芸術を愛する女性、伝統をもじながら新しいものを前向きに取り入れる、
進んだところを持っていたというのが森田さんが残している言葉です。
武家の方なんですけれども、女性はこうだから、男性はこうだから、家庭はこうだからとかっていうことだけじゃない何かっていうものを意識されて、
その例の一つとして、お母様はクラッシック音楽がすごくお好きだったそうです。
西洋文化、普段着物を召されてたんですけれども、森田さん家のお家っていうのは西洋風の家具だったりとか、
そういうものもあるようなお家で、そこに機械式の蓄音機があってですね、レコードでクラッシック音楽が常に流れてる。
素敵ですね。
素敵ですよね。森田少年も当然音楽は好きになったんですけれども、音楽よりも好きになったもの、それを音楽を鳴らしている機械式の蓄音機ですね、そこを見るわけですね。
さらにですね、機械式蓄音機っていうのが進んでいくと、今度は真空管っていうのを技術として使った電気蓄音機、当時電蓄と言ったらしいんですけれども、
その電気蓄音機っていうのを聞いた時に、なんて素晴らしい音なんだっていうことにめちゃくちゃ感動したらしいんですね。
そのなんか電築っていうのが世の中にあるんだ、すごいなと思っていたところでですね、いろんな雑誌とかを見ると、どうやら素人でその電築を作った人がいるらしいって言って、
その話を聞くと、その家にいてどうやって作ったんですかっていうのを聞いて、いろいろこう機械いじりっていうのを始めると。
当時ラジオを作るっていうことが世の中で流行り始めていたみたいで、それを作り始めて、この時は中学生の森田明雄少年なんですけれども、
このラジオを作りながらですね、これこそ自分がやるべきことだって言って、めちゃめちゃハマりまくって、電子工学を勉強してラジオ自身機作りっていうのを一生懸命していたと。
それが中学校時代だったそうです。この辺で何となくソニーのおもとみたいなものがありますよね。
スピーカー 2
そうですよ、そこの現体験じゃないですか、まさに蓄電なんて、ウォークマンですよね、先は。
スピーカー 1
もうそこにつながっている感じなんですけども、あまりにもラジオ作りとかにはまっちゃったので、
もう勉強もしないで、電子工学なんで、数学とか理科みたいなものは得意だったんですけども、それ以外からきしだめで、学年で180番、ちょっと何人の学年だったかわかんないですけども、すごい成績悪いと。
当時、旧正第八高等学校っていう名門校が高校であったらしいんですけども、そこの理科ですね、理数系の勉強をするところに入学したいっていうふうに宣言をして、宣言したんですけど180番なので、
最初は現役の時に落ちちゃって浪人しました。いわゆる高校浪人ですね。
スピーカー 2
そういうことか。
高校進学と経済学部への失望
スピーカー 1
中学校3年生の現役でだめだったので、1年間浪人をして猛勉強しのど勉強したそうですけども、そこで晴れてですね、主謀の旧正第八高等学校理科に入学しましたと。
この時に、我ながら快挙だと確固たる決意があれば何事も可能だという私の哲学は未だに変わらないと。
スピーカー 2
その高校受験でめっちゃ成績悪かったのに頑張ってなんとかなったっていうのが、大人になっても支えになってたということだそうです。
スピーカー 1
浪人して入っただけあってですね、その旧正第八高等学校にはですね、将来の恩師になるような先生とも出会ったと。
物理学の服部先生、服部教授という方にも出会ってですね、訓導を受けていくんですけれども、
高校をどんどん進んでいって、これからの進路をどうするかっていう時にこの服部先生に相談をしたら、
自分の知ってる先生で、大阪帝国大学に浅田先生っていうのがいるから、よかったらちょっと見学に行ってきなさいって言って、
大阪に行ってですね、その相手の地下半島、名古屋から大阪に行って、この浅田教授のところですね、訪問するんですね。
そしたらですね、めちゃめちゃなんか冗談好きな、明るくてですね、当時大学の教授って社会的な階層としてものすごい高い、
偉い方たちだったんですけども、全然そんな選ぶらなくてですね、1回の学生に向かってすごく優しくですね、話して喜ばせてくれたと。
しかも研究に生き生きとしてですね、もうとにかく楽しんでると。
そういう浅田教授に出会っても、自分ここしかないっていうふうに決めて、大阪帝国大学っていうのを自分の進路に選んだそうです。
当時その八高という名門校に行って、おそらく中学校の時よりはバランスよく勉強されてたんだと思うんですけども、
スピーカー 2
東京大学にも京都大学にも行けたのかもしれないんですけども、その班大を選んだのは、もうとにかくこの浅田先生のところに行きたかったからっていう1年で班大に行ったそうです。
スピーカー 1
1942年4月にですね、無事に大阪帝国大学理学部物理学科に入学することができました。
スピーカー 2
無事にですね、受かって帝国大学に入ったんですけれども、その時にですね、名門大学に入って、めでたいんですけども、
スピーカー 1
お父さんはですね、ちょっとなんか失望してるんですよね。なぜか、経済学部じゃない。
経営者になるはずだろうと、当時経営学部っていうのがあんまりなかったのかもしれないですね。
なので経営者になるために、なんで理学部行ってんだーみたいな感じですと。
スピーカー 2
まあまあそうなるか。
百歩譲って理学部に行っても、手造業だから農業系だったりとか、家具だったりとか。
スピーカー 1
そういうところに行くんだったらわかるけど、いや物理学って、みたいな感じでお父さんを持ってガーンと失望したということだそうです。
ただまあやめろとかそういうことはおっしゃらなかったみたいなんですけどね。
それでまあ無事にですね、お父さん失望されながらではあるんですけども、班大に入っていくんですけれども、
その年1942年です。1942年っていうのはもう日本は戦時化。
1939年に日中戦争、1941年には太平洋戦争が始まっている時代です。
日米で開戦してもう1年経ったところなんですね。
なので研究室ですね、もう軍の研究施設にちょっと編入される。
帝国大学ですね。なんですけれども、そこで大学生格を送ると。
とにかく浅田教授のもとでっていうことで入ったので、講義はほとんど出なくてですね、浅田研究室の実験にもひたすら没頭していたということだそうです。
浅田先生の授業と実験室、他の授業、他の先生の一切出ないぐらいハマっていたので、どんどんですね、助手が勤まるぐらいになっていたそうなんですね。
この浅田先生っていうのはキャラもすごくいいですし、こういう科学的なことっていうのは何でも答えられるっていう定評のある方だったらしくですね。
いろんなメディアからの問い合わせって非常に多い方だったそうです。
この浅田先生はですね、新聞にコラムを書く、そういうお仕事も受けることになられたみたいですね。
そこで研究とか技術の解説っていうのを連載されていたそうです。
ただあまりにもですね、この浅田教授忙しいことが多かったので、森田教授さんっていうのが浅田教授の代わりにですね、そのコラムを執筆することがあったそうです。
その執筆したある回にですね、原子力エネルギーの理論を解説するっていう回があったそうです。
その時にですね、扱い方次第では原子エネルギーを使って非常に強力な武器を作ることも可能であるっていうふうに森田教授さんは書かれたそうです。
その時にもう原子力っていうことですので、終戦は原爆を受け止めることで終わったわけですけれども、当時そのコラムを書いた森田教授さんから見ると、当時の日本の化学技術では爆弾を作るにはあと20年はかかるっていうふうに思われたそうです。
もちろんアメリカの化学技術がどれだけ進んだかどうかはわからない1回の学生だったんですけども、
スピーカー 2
日本で20年だからアメリカがいくら進んでいったとしても10年か5年かそれぐらいの間隔だったそうです。
スピーカー 1
なので1945年に日本に原爆投下された時、森田教授さんは本当にびっくりしたそうです。
原爆を受けることで日本は敗戦決まったわけですけれども、それ以上の絶望感を森田教授さんはわかるだけ感じたと。
スピーカー 2
テクノロジーの差みたいなのをどんだけ進んでんだよっていう。戦ってた相手だけどってことですよね。
スピーカー 1
その前から薄々と感じていた技術の差とか、ちょっと厳しいなっていうところもあったんですけれども、その被爆を受けることでですね、それが確信になったと。
スピーカー 2
でもそこに着目してるのがやっぱりすごいですね。
そうですね。
実際その前にこれ書いてるわけですもんね。
スピーカー 1
そうですそうです。そこもなんかすごいなというふうに思います。
当時その浅田研究室っていうのは海軍の仕事が非常に多くなってですね、海軍の方と士官の方と接触することも多くなったそうです。
当時は戦時化ですので、大学を出たらですね、みんな徴兵されていた時代ですね。
なので大学出た後どうなるかっていう進路を考えるときにですね、通常はとにかくみんなですね、徴兵されていってしまうので、物理学を勉強していたそんな学生っていうのは大体最前線のですね、海軍であれば船に乗せられてレーダー装置を操作するとか、電波探知機を操作するとか、最前線の戦艦に乗せられる。
そういう仕事っていうのが待ってるっていうのが一般的だったようなんですね。
戦争の最前線に連れて帰れるっていう未来が待ってるのかというふうに漠然と思ったところは、その士官の方のですね、もう今その海軍委託学生っていうのを選ぶ道もあるよと。
これは海軍委託学生なので、大学卒業したら海軍への永久就職っていうのが絶対条件になると。
通常だと徴兵されて何年間お勤め終わったら、民間人に戻ることができるんですけれども、この海軍委託学生っていうのは永久に軍人になる、職業軍人になる制度。
ただその代わり研究活動を続けることができる。なので軍人にはなりたくないけど、最前線に行って辛い思いをするんであれば、軍人だとしても研究を続けられた方がいいっていうふうに堀田協さんはこの時考えられたんですね。
なのでその海軍委託学生という選択をしてですね、大学生でありながら海軍の一員として軍人としてですね、勤務をしながら学生の活動をするというふうになってきました。
で当時その大学に席がありながら海軍ですね、航空技術省という海軍の中でも技術を色々突き詰めていくところっていうのが横須賀にあったそうなんですけども、そこの勤務を命じられてそこにですね、班大から離れて移動をしてですね、いろんな研究開発をしていました。
当時ですね、ずっとそこの横須賀で研究活動をしなきゃいけなかったんですけども、いろんな理由をですね、無理矢理こさえて、当時の東京の理科学研究所に行ったり、班大の浅田研究室に行ったり、あそこでこういう研究をしたいですっていうことを無理矢理ですね、出張の理由をつけて班大に日本に戻ったりとかしていたということだそうです。
まあ、班大にいながらですね、こんな研究をしましたというふうに軍に報告書を出して、それを卒論にするような感じでやってたみたいです。ただ、相当無茶な出張申請だったみたいで、後でなんかボコボコに怒られたりとか、終戦後もうあんなのもありえなかったんだよ、俺のさらに上官どんだけ怒られたかって言って、だいぶ詰められたみたいですけど、かなり破天荒な感じだったみたいですね。
そこからですね、海軍委託学生っていうのをやりながら、無事大学を卒業します。卒業する前に職業軍人になるために4ヶ月間の訓練ですね、軍人になるためのフィジカルを鍛えるような訓練も受けてですね、1945年3月ですね、正式に職業軍人になります。
その時には訓練を受けた後ですので、海軍の技術中尉ですね、いきなり司官になりましたと。正式な海軍の中尉になって、配属されたところがですね、当時今の神奈川県の寿司市にある海軍の高熱兵器部というところにですね、配属になったそうです。そこで研究活動をしていくと。
研究活動をしながらですね、いろんな若手の、自分は中尉ですので、自分より下の科士官とかもいるわけですね。そういった人をまとめ役雑用係みたいなこともしていたそうです。ただ、人をまとめて雑用係するっていうのは、いろんな人をマネジメントしていくってことですので、それは小学校から組織を聞いてマネジメントするってことはお父さんから連鎖教育を受けてますんで、そのスキルがここで役に立ったっていうことをちょっと書かれていますね。
終戦前の出来事
スピーカー 1
ということで、ここまでで大学入ってっていうところだったんですけども、そこから職業軍人になって研究を日々続けていくんですけども、そこの中でですね、1945年になってくるんですけども、陸軍と海軍、森田さんが所属していたのは海軍なんですけども、陸軍、海軍合同で、かつそこに民間の企業も加えた戦時の科学技術研究会っていうのが発足されたそうです。
要は兵器の技術っていうのをどんどん突き進めていくために、陸軍も海軍、あるいは民間の技術も全部入れて、いろいろこうやっていこうと戦える兵器を作っていこうっていう研究会が作られたそうなんですね。
で、その民間の企業からも来ていたので、そこの中に日本測定機っていう会社があったそうなんですけども、そこの日本測定機という会社で常務をされていて、この研究会に来ていたのがもう一人のソニーの創業者、井深勝さんだったんですね。
その研究会で二人は初めて会うことになります。
軍事技術研究会ですね。
その時に井深勝さんと森田強さん、13歳の差がありました。森田さんが24歳で、井深さんが37歳ですね。
歳がそれだけ一回り以上離れてるんですけども、最初からめちゃめちゃ気が合ったそうです。
その時に井深さんはしょっちゅう図書の研究所に訪問していましたし、森田さんも日本測定機という会社が、もともと東京にあったんですけれども、戦時下で疎開をして長野県に研究所を作っていたそうなんですけど、そこにも出張して、二人は信仰を高めていったと。
その時には井深さんの思考の新鮮さ、独創性に非常に感銘を受け、ぜひこの人と一緒に仕事をしたいと思うようになったというふうに森田さんはおっしゃってます。
いろんなアイデアをその時に披露してくれて、それを事業の中でやっている井深さんのいろんな実績に触れて、森田さんはそういうふうに思うようになったそうです。
二人が出会ったのは1945年の3月ですね。そこから進行は終戦の直前の8月まで、約5ヶ月間10回ぐらいしか会っていないそうなんですけども、その中で二人とも何かお互いに対して思うものがある状態で高まっていったと。
そこで創業者と出会ったんで、じゃあそこから会社作れっていう感じになったらいいんですけども、当然森田競さんまだ軍人です。戦争中の状態ですので、そこで戦時間の研究というのはずっと続いていくわけですね。
1945年の8月頃になってくると、まだ終戦とか原爆投下の前段階なんですけれども、やっぱり形勢がかなり不利だっていうことが見えてくるんですね。
特に森田競さんは技術士官でもあったので、本当に技術の違いだったりとか、そういうところを見てちょっと厳しいかなと。戦局も不利だなということで研究所に勤務していたんですけれども、一旦帰省して家族と最後の挨拶をしたいというふうに申し出てですね。
みんなそんな感じになってたらしいんですよ。もう最後玉砕。
スピーカー 2
もうやばいからじゃあっていう覚悟を決めたってことですよね。
スピーカー 1
日本中がみんなそうなったので、最後会ってそれでも国のために玉砕をしますぐらいの雰囲気だったみたいなんですね。
記録によると8月10日にっていうことだったんですけども、帰省をする許可が出て名古屋のご実家のほうに帰省をしました。
そこで1週間ぐらい過ごしている間に終戦を迎えることになりました。
実家で終戦を迎えたものの、しばしの休息中でしたので、
終戦だったとしてもその後自分が働いた研究所がどうなるのかわからない状態でしたので、すぐに名古屋から図志のほうに戻って研究所に行って命令を待つ感じだったんですね。
とりあえずアメリカ軍が来て何をされるか全くわからない状態ですので、みんな怯えてる感じなんですけれども、
とりあえずこの研究した結果とか、備品とか機械っていうのは全部処分しろっていう命令が出たので、
それもひたすら燃やしたりですとか壊したりということをやり続けます。
そしてそこの処分が終わったらですね、今度は職員をもうお家に返しなさいと任務を解くと。
歌手館だったりとかそこで働いたスタッフたちっていうのを結構学生が同品されたりしていたようなので、女学生も多かったようなので、それを責任持って自宅に返すっていうことを大森田さんは仕事としてなさったそうです。
これでようやく落ち着いたところで自分にも規制の許可っていうのが出て、そこで任務を解かれるという感じになったそうです。
それで名古屋のご自宅ですね、短い間に仕事に戻ってもう一回戻ってくるって感じだったんですけども、その時にはですね、森田卿さんには他に兄弟がですね、お二人いらっしゃいます。
二人の弟さんもいたんですけども、皆さんですね、認管してたんですね、軍。
明雄青年の進路決定
スピーカー 1
なんですけどもこれは本当に奇跡的だと思うんですけども、全員ですね、無事に三兄弟ともですね、自宅に戻ることができたと。怪我もなくですね。
森田家もですね、名古屋も空襲は受けているんですけれども、会社の名古屋事務所っていうのは被災して燃えたらしいんですけども工場ですね、その千田半島にあった工場も自宅も爆撃による被害もなかったということで、
戦時下ではあったんですけども、かなり恵まれた状態で一周戦を迎えることができたということが言えると思います。
で、ここで軍人を解かれてですね、自宅に帰ってきてですね、森田明雄青年が、そこで家族会議が始まるわけです。
終戦になったと。長男帰ってきたと。じゃあどうするか。家業っていうのはずっと申し上げているように、代々続いた作り酒屋で多角形をしているところ。
じゃあ明雄が戻ってきて家業を継ぐかというとですね、まだ24歳。お父さんバリバリ現役ですと。ちょっと継ぐのはまだ早いかなという結論になったんですね。
なので、いつか継ぐのは間違いないけれども、今じゃなくてもよかろうっていう風な結論になっていたそうです。
じゃあどうするかなという風に思ったところですね、先ほど浪人して高校に入ったって言いますが、でその高校で恩師に会った。
でその恩師は服部先生という方なんですけども、この服部先生ですね、実は東京工業大学ですね、今の東高大で教授をしていて教える人が足りないんだと。
お前ちょっと手伝ってくれないかということで東高大の講師をやってくれないかっていう手紙が来たんですね。
スピーカー 2
で家業を継がなくていいと、自分の好きな研究を教えることができます。教えることが好きだったかどうかわからないですけども、そこに研究に近いところにまた行けるということで、すぐに開学して東京に行きますということを宣言した。これが24歳1945年8月でしたと。
すごいなぁ。まだソニーが全然できてないんですけど。
スピーカー 1
全然できてないですね。
スピーカー 2
ただその大学在学中に結局その軍施設の研究者になるってことを決めなければ、いぶかさんとも出会ってない可能性もあるから、そこが結構ターニングポイントというか、この先だけ繋がるのは感じますね。
あともう壮絶な24歳。
スピーカー 1
24歳。
スピーカー 2
もうここまでで十分なんかその戦争で。
ここからソニー作るってちょっともう考えられないくらい経験。
スピーカー 1
だいぶお腹いっぱいな感じになる。
スピーカー 2
お腹いっぱいな感じしますよ。
入軍と浅田研究室
スピーカー 1
軍に入ったので、いぶかさんともちょっと出会った接点があったんですけども、なんで軍に入ったかというと、班大の浅田研究室にいたからなんですよね。
浅田研究室に行ったのは八高時代の恩師が浅田先生のところ行ってみって言ったからなんですよね。
そうですね。
八高っていうのはわざわざ浪人して入ったところなんですよね。
だから彼が当時、いやなんか自分はここの高校でいいとかっていうふうに言って現役で他の高校に行ったらまた違う人生だったかもしれないですよね。
スピーカー 2
いや本当にそうですよ。
スピーカー 1
いろんなものが重なってここまで紡がれてきてるっていうのが。
スピーカー 2
いやすごいな。
スピーカー 1
はい。
スピーカー 2
じゃあちょっとここから先の話はまた次回。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
ということで。
いやーめちゃくちゃ面白かったな。ありがとうございます。
2番K、ナンバー2の引きこもごもここまでお聞きいただきましてありがとうございました。
気に入っていただけましたらぜひフォローをお願いいたします。
番組への感想もお待ちしております。
ここまでのお相手は、しだれゆうすけと、
スピーカー 1
勝宮セレでした。ありがとうございました。
スピーカー 2
ありがとうございました。
28:18

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