スピーカー 2
二番経営 〜組織を支えるNo.2の悲喜こもごも〜。
この番組では、なかなかおもてんでない会社の二番、No.2をテーマに、
トップのビジョンの実現の仕方や、この仕事の面白さ、大変さなど、
No.2の悲喜こもごもをリスナーの皆さんにお届けします。
スピーカー 1
こんにちは、株式会社オーツーパートナーズ取締役の勝宮すいでです。
スピーカー 2
県当社新しい経済編集長の滋賀隆之です。
二番経営第25回、始まります。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回のテーマは、前回に続きまして、
世界のソニーを作った盛田卿に見るNo.2論ということで、
これまで4回このシリーズやってきましたが、
それの5回目という形になっております。
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はい。前回はですね、戦争が終わって、海軍中尉の盛田さんが実家に戻って、
スピーカー 1
これから東高大の先生になるぞっていうので、状況準備をしていると。
そういう時にですね、
井深勝さんが東京の方で新しく設立された東京通信研究所というところの製品が朝日新聞のコラムに載って、
スピーカー 3
それを盛田さんが愛知県で見たところまでという感じだったと思います。
スピーカー 2
映画みたいなね。
そうですね。
本当にエピソードですよね。
スピーカー 1
おお、いるみたいな感じで驚いたっていうところなんですけども、
そこから今日はお話し続けていきたいと思います。
その新聞で本当に朗報に盛田さんも大興奮してですね、
すぐにそれを読んで手紙を書いてですね、
自分もその事業に協力をしたいというのをすぐ書き送りました。
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そしたら井深さんからすぐに返信があって、ぜひ来てほしいと。
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でも経営めっちゃ苦しくてお金がないですっていうのが届いたという感じですね。
その後すぐに盛田さんは愛知県から東京の方に上京して、
東京通信研究所がある日本橋を訪ねます。
この日本橋の場所っていうのは前回申し上げたように、
デパートのですね、一室なんですけれども、
被災をした後の状況ですから、もう本当にひどい状況ですね。
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窓ガラスがないようなところでした。
なんですけれども井深さんめちゃめちゃ一気一気と頑張って仕事をされていると、
事業員も喜んで仕事をされていたという状況だったそうです。
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そこに行ってですね、盛田さんは一旦その大学の講師の仕事をしながら、
無休でですね、この東京通信研究所の仕事を一緒にやっていくと。
そういう感じになります。
なんかよくありますよね、スタートアップとかで、
ちょっと手伝ってくれないって、今お金ないんだけどさって言って、
友達がこう手伝っていく、まさにそういう感じだったんじゃないかなと。
それで一緒にやっているとどんどんどんどん気持ちも盛り上がってきてですね、
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1946年の3月に改めて盛田さんも入る形での新会社を設立しようというふうに2人は決意をしたというところです。
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ここで決意をしたので、東京通信工業という会社が生まれて、
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ここからソニーが第一歩を歩みを始めますっていうのがスムーズにいく感じなんですけれども、
思い出していただきたい壮大な森竹。
ここで実は会社設立の本当に最大の課題と言ってもいい、森竹の後継ぎ問題というのがあります。
なので1946年の3月に、よっしゃ会社作りましょう、やりましょうというのを決めた後ですね、
その翌月4月に森田明雄さんは、
イブカマサルさんと、あとイブカマサルさんの義理のお父さん、前田多聞元文部大臣ですね。
前田さんっていうのが会社に関係してましたので、この3人で小菅谷ですね、森竹の創業の地の方に行きます。
そこで森田さんのお父さんにイブカマサルさんと前田多聞さんがですね、
この会社はこういうことをやりたいんだという夢を話して、
とにかくその新しい事業には森田明雄さんが絶対に欠かせないんだということをとうとうと説く話をしたんですね。
でもお父さんっていうのは、なんせ小学校の時から会社の会議に息子を呼ぶようなお父さんでしたから、
で、あの半大の学校に進んだ時もですね、経済学とか経学を学ばないって言ってちょっと落胆したぐらい、
自分の後継ぎって決めていた、そういうお父さんなんですけれども、
その時にですね、イブカさんと前田さんから言われて、お父さんこういうふうに答えられます。
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私は今日が後継ぎとして課長となり、課業を続けてくれることをずっと望んでいたと。
そういうのも最初にパッと言ってですね、
しかし息子が自己を磨くため、あるいは自分の能力を活用するために他のことをしたいというのなら、そうするべきだと思う。
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森田さんを見ながらですね、笑って、お前は自分の一番好きなことをやりなさいと言ったという、
そこで認めたって感じなんですけれども、
よく子供の進路について、親がですね、そうじゃなくてもちゃんと働きなさいとか、こういうふうにしたらいいんだっていうのを言って、
それに反発する、子供がいてみたいなやりとりっていうのはもうお決まりのパターンであると思うんですけれども、
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20何年間、後を継がせるためにですね、
もう英才教育を徹底的に叩き込んだ息子、まだちょっと継ぐには早いけどっていうところで、
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東京で大学の先生やって、そこから戻ってきなさいという万全の状態で家族会議までやって決めた、
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それのほんと数ヶ月後にですね、こっちやりたいって言い始めたっていうのはもう結構お父さんとしては、
スピーカー 1
もうなんか気持ちぐちゃぐちゃだったんじゃないかなと思うんですよね。
まあそれでも認めたと。
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なんか、もちろん今でもこういうことってあると思うんですけれども、
時代背景とかこの森丈の大きさとかを考えると、ある意味寛大だったなって気がしますね。
もっとダメだっていうような形、家が強いじゃないですか、現代よりも思うので。
それはなんか感じますね。
スピーカー 1
なんか言葉以上の英断というか、決断をお父さんはされたんじゃないかなという。
スピーカー 2
確かに。
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そこで認められた後にですね、1946年の5月、晴れて東京通信研究所っていうその元々の組織を、
組織改編して東京通信工業株式会社、いわゆる今のソニーですね、これが設立されます。
東京に戻って会社作ったとき、資本金は19万円だったそうです。
ただ、ものづくりの会社っていうのはどこもそうなんですけども、すぐに使い果たしちゃって、
その後、森田県に借金をどんどん申し入れて、お父さんはいつまでも返済迫らずですね、ずっと貸し続けたそうです。
スピーカー 1
それが借金からだんだん出資をしていただくって形に変わっていってですね、
最終的に森田さんのお父さんっていうのがソニーの大株主になって、
結果的に一番親孝行だったんじゃないかっていうことを後でご本人がおっしゃられてるという感じですね。
ただ会社作ったんですけども、森田昭雄さんは東京工業大学の講師として東京に来て、
そこでお給料をもらっている状態でしたので、そのときにやっぱり本業に専念したいわけですよね。
なのでそのときに東京工業大学で講師の職を実施したいというところではあったんですけども、
一応恩師の紹介でついた仕事ですので、なかなか断るのは難しいというところもあったようです。
なのでそのときに時代背景として職業軍人が人にものを教えるっていうのは、
ちょっと風潮としてよろしくないっていう雰囲気が出始めて、そういう制度というか法律が決まりそうだったらしいんですね。
なのでその情報を聞きつけてですね、東京工業大学の学長のところに行って、
なんか軍人が人に教えるのは良くないと、私はちょっと辞退をさせていただきますって言って、
なんか上手いこと言って退官することができたと。
会社に専念なんですけども、新しい東京通信工業株式会社、新会社の体制なんですけども、
ここでソニーの創業者、社長なんですけども、ここで井深勝さんがつきそうなんですけども、
実は初代の現ソニーの社長は前田多聞さん。
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井深勝さんの義理のお父さんです、元文部大臣ですね。
専務に井深勝さん、森田京さんは取締役ということで新体制ができました。
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そこでスタートしていくわけですけれども、最初はボロボロのデパートの部屋で始まったんですけども、
スピーカー 3
そこからですね、そこがボロボロだったのでデパートも回収するということで追い出されてですね、
品川の御殿山っていうところへ移っていくそうです。
スピーカー 1
でもそこも本当ボロボロの工場だったみたいで。
スピーカー 2
そうなんですね。今だとね、すごい高級な場所になってますけどね。
スピーカー 1
会議ですけどね。そこの工場の横にある事務所なんですけども、雨が降るとですね、雨漏りがすごくて傘さして仕事をしていったという記載もありました。
それでも夢多くですね、新しいこの会社で何を作るかというのをずっと考えているんですけども、
その時にですね、森田さんがおっしゃっているのが、
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井深さんと私が描いていた新しい会社の構想は、時代に先駆けた独創的な新製品を生産することだ。
この時代に先駆けた独創的な新製品っていう言葉は、その後のソニーの会社の方針を示すようなところっていうのはもう最初から考えられたことだなと思います。
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いろんなものをトライしていくんですけれども、日々の日銭を稼ぐような仕事と将来どういうものを作っていくのかって考えている時にですね、
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当時のNHK、当時のNHKはまだGHQが管理していたそうなんですけども、そのNHKからミキシング装置っていう音の調整の装置を受注してですね、
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それの納品行った時にNHKのオフィスをパッと井深さんが見たそうなんですね。
スピーカー 2
そしたらその時にアメリカ製のテープレコーダーっていうのが置いてあったそうです。
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その時に日本人誰もテープレコーダーを知らない音を録音する機械ですよね。
それをパッと見た瞬間にもうこれだということで、井深さんはもう我が社の税金はテープレコーダーを作るというのを決めてですね、
その時に社員を集めてこれからテープレコーダーで行くぞと言ったらですね、
そのテープレコーダーを売弾する前にいろんなものを思いついてですね、次これやるぞ、我が社これだっていうのを何回もやってたみたいで相当社員の方たちがうんざりしてたみたいなんですけども、
スピーカー 3
これぞど本命ということで説得するためにですね、わざとNHK行ってそのテープレコーダー借りてきて、
スピーカー 1
みんなに見てもらってですね、これはすごいんだっていう話をして、社員一同、ほとんど技術者集団ですからみんなでこれは確かにすごいとみんなで作っていこうということを合意します。
ただですね、そこからこう行けばいいんですけれども、森田さんのご実家からいっぱいお金借りています。
森田さんのお父さんもですね、ただお金だけ出してるわけじゃなくて、おめつ契約も送り込んでですね、会計係の方を送り込んできました。
なんかわけわかんないもの開発してお金ばっか使い上がってっていうことにならないように会計係の方を送り込んでたんですけども、その方技術者じゃないので、
こんなわけわかんない装置にこれからまたお金をかけて開発するなんてありえないでしょうということで反対されてたそうなんですけども、
スピーカー 3
当時ご飯を食べるところとかお店とかも終戦直後ですのでほとんどないんですけども、闇の料理屋っていうのがあったらしいんです。
スピーカー 1
そこに連れてってもうひたすら接待をしてですね、社員なんですけども、
ずっとテープレコーダーがいかにすごいのかと、革新性とか競争優位性っていうのをうわーっと聞かせて最終的にOKをもらって、
スピーカー 1
会社としてオフィシャルに開発スタートというふうになりました。
ここでなんか思うのは、オーナーというかお金いっぱい出してくれてるところからのおめつ契約ってことではあるんですけれども、
こんなちっちゃい会社でもですね、トップが独自的に何かやるっていうのを決めてすっぱしるんじゃなくて、
みんなの合意を得て進めていくっていうこのスタイルですね。
そしたらここの考え方っていうのは結構井深さんがそうだったらしくてですね、
この後もずっと大きくなってもですね、独自的に何かを決めると、
スピーカー 3
次はこれ作るぞっていうのが突拍子もないものが来るっていうことはあったんですけど、
上から人を押さえつけるっていうようなことは一切されなかったのが井深まさるさんだったっていうことです。
スピーカー 1
そういうのがなんかこういうところにも加害しれるなというふうに感じました。
スピーカー 2
そうですよね。立場的にはだって役員で決めれちゃうみたいな話。
スピーカー 1
そうですね。やっちゃえばいいのにって感じ。
スピーカー 2
なのにってことですよね。
スピーカー 1
で、いよいよ開発というふうになったんですけれども、
テープレコーダーのですね、そのレコーディングする機械の部分っていうのは、
軍事部品なんかをこう作ってた腕っこ機の技術者がたくさんいますので、
レコーダーはめちゃめちゃみんなもうこれをあげたら作れるっていうのがパパッとこう分かる感じだったんですね。
まあそれもすごいですよね。
なんですけども、テープレコーダーってテープが必要になってきますよね。
スピーカー 2
で、そのテープの部分の知識っていうのが全くなかったそうです。
スピーカー 1
そのメンバーで。なので本当にゼロからの開発になったのと、
あとテープレコーダーっていう商材を選んだ時にですね、
スピーカー 3
レコーダーを売ってもですね、当然使うためにはテープが必要になってくるわけですから、
テープもちゃんとこう開発して商品として出すことでですね、
スピーカー 1
レコーダー売った後テープが持続的に売れるという形のビジネスモデルっていうのも、
スピーカー 3
その時に考えついたっていうこと。
スピーカー 1
なのでやっぱりテープもですね、自社でしっかり作るっていうことがとても大事だったと。
なので新しい人材もどんどん入れながらですね、
スピーカー 3
ゼロ版っていう素材を使ったり、
それだとちょっと弱いので、普通の紙に磁器の素材を塗布して使ったり、
スピーカー 1
あるいはプラスチックっていうのは当時なかなか少なかったところではあるんですけども、
スピーカー 3
それを入手してようやくですね、いいテープっていうのを作ることができたと。
スピーカー 1
で、その時にですね、森田さんが言ったのは、
我々はついにテープ産業を日本に作ったのだったっていうセリフがあるんですけども、
スピーカー 3
まさにこれまでなかったテープレコーダーでかつ、
スピーカー 1
その録音用のテープ、磁器テープっていうのを日本で初めて作って、
もう産業がこっから生まれたんだっていう、
そういう感覚ではなかなか普通持てないと思うんですけども、
それを生んだと。
もう紙でやってたっていうところとかも、なんか笑っちゃうぐらいなんですけども、
スピーカー 3
もう本当にゼロから開発したっていう感じ。
スピーカー 3
1、技術者に過ぎなかったのに企業の大成功を夢見ていたのであるっていう言葉が残っています。
スピーカー 1
このテープレコーダーを売るためにですね、とにかくその価値がわかる人っていうのを見つけなきゃいけないんですよね。
スピーカー 3
これ必要だっていうふうに。
スピーカー 1
その時にですね、とにかく誰がこの価値を感じてくれるのか、ニーズを理解してくれるのかっていう
その売るっていう行為がとても大事だというふうに森田さんは思いました。
スピーカー 3
そういう人たちに価値を届け、理解をしてもらうっていう役割が我が社には必要であろうと。
ここで森田さん、私は自分がこの小企業のセールスマンの役割を果たさなければならないと考える。
スピーカー 1
私は販売の方を受け持っても幸い革新的な製品の設計と開発に全勢力を傾けてくれる
井深氏という天才がいるということを思うわけですね。
スピーカー 3
なるほど。
スピーカー 1
2人とも超一級の技術者だったわけですよね。
で、片っぽが折れて技術者2人だけだともう立ち行かないと。
もう役割を考えなきゃいけないっていうのを先に気づいて自分がやろうというふうに森田さんは判断をされました。
スピーカー 2
まさにここがちょっと二番系っぽくなってくるところの話ですね。
スピーカー 3
ですよね。まさにそうです。
スピーカー 1
で、ずっと売れないでも売ることを考えなきゃということでやってた時にですね、先ほどニーズの話があったんですけども、
スピーカー 3
戦後っていうのはですね、いろんな領域でみんな戦地に行って亡くなられた方が多かったので、専門家がとにかく即していたそうです。
その専門家の一つにですね、即帰者。
スピーカー 1
早く即帰をする人も同様で、即帰者はどんなところにいたか、国会ですとか、あと裁判所にもいらっしゃったわけですね。
今でもいらっしゃるかもしれないですけども。
そこで裁判の記録をですね、判事だったり弁護士、検事が話すことっていうのをずっと記録する係の人がいました。
これがかなり専門家が少なくてですね、少ない即帰者っていうのが過重労働をしていたと。
スピーカー 3
そこにですね、ここに登場してくるんですね、初代社長の前田多聞さんがですね、ここにニーズあるぞということで着目して、
スピーカー 1
最高裁判所にですね、35キロのレコーダーを持って行って、こういうものだっていうふうに売り込んだら、速攻で20台売れた。
スピーカー 2
すごい、多聞さんが聞いてくるんですね、ここで。
ここで聞いてくるんです。
スピーカー 3
政府とかね、行政機関らしいということでやりました。
スピーカー 1
で、このG型というその35キロのテープレコーダー。
なんとかニーズを見つけてですね、そういう大きい組織に売ることができたんですけども、やっぱり大きくてなかなか売りにくいというところもありましたので、
その後、製品の改良をしていきます。
当然、大きくて重いというところがあったので、ここでですね、その井深さんが当時のギルシャのリーダーに、もうちょっと小さくなんないかなと。
あそこにあるトランクに入るぐらいの、そういうサイズにしてもらいたいんだ。
スピーカー 3
ちょっと考えてみてくれないかということを、当時のギルシャのトップにですね、声をかけて、そこで開発が進みます。
で、そこで生まれたのが2代目ですね、エッジ型と言われるもの。
スピーカー 1
こちら重さが13キロ、値段が8万4千円と。
重さは3分の1、値段は半額というようになりました。
エッジ型っていうのは、その重さと価格だけではなくてですね、もう一つ日本の製造業で画期的なことをやっています。
実は日本で初めて工業デザインを導入したのが、このエッジ型のテープレコーダーというものだそうです。
シェラーさんのお手元にこの白くの写真が写ってると思うんですけども、これのどの辺が工業デザインかっていうのはちょっとわかんないんですけども、
スピーカー 3
その時に工業デザインを担当された方っていうのが柳根美さん、通称で柳総理さんと言われるんですけれども、
スピーカー 1
ちょっとおしゃれな家具とか好きな方はバタフライスツールとかエレファントスツールとかっていうのが有名で、
あと柳総理コレクションみたいなやつで鍋とか夜間とかうちにもありますけれども、ものすごいなんかおしゃれな、でも機能的なっていうデザインですね。
スピーカー 3
その方が実はデザインしたのはこのエッジ型というものだそうです。
スピーカー 2
いやおしゃれ、いや僕実はこれ皆さんももしあれだったらね、ネット検索しながら見ていただいて、
なんかG型テープレコーダーをまずさっきの見ると本当になんて言うんですかね、ある意味武骨だし大きい箱みたいな感じで、
スピーカー 3
それこそ昔の軍とかに置いてそうな感じですよね、なんかそのままの。
スピーカー 2
ただそのエッジ型はトランクみたいになってるというかちょっとおしゃれなんですよね、デザインも入ってるんですよね。
スピーカー 1
そうなんですね。で、おしゃれなところっていうのと、あと先ほどイブガマサルさんが技術者のトップにですね、トランクに入るぐらいの大きさで軽くなればっていうことを言ったんですけども、
実はこの指示の出し方もなんか普通にやってるようで、ちょっと工夫があってですね、技術者の方にもっと小さく作ってくれとか、もっと軽くしてくれとかっていうのではなくて、
あのトランクに入るぐらい指示が絶妙で、そうすると技術者がイマジネーションそこから働かせるんですね。
スピーカー 3
で、そういうものを具体的な周りにあるものでその技術者が新しい画期的なものが作れるようなガイドのパスを出していくっていうのが絶妙に上手かったのが天才技術者イブガマサルさんだったっていうのがあるようです。
スピーカー 1
このおしゃれでポータブルなレコーダーっていうのがですね、どこで売れたかっていうと、実は学校に注目してですね、売っていきます。
当時視聴覚教育っていうのがですね、終戦直後ですね、始まったみたいなんですけれども、その学校とかの予算で買える金額だったそうなんですね。
で、あとこのサイズ持ち運びもできるということでですね、どんどんどんどんニーズが高まっていって、その後もこのレコーダーっていうのをいろんなものを出していってですね、ヒットしていくと。そんな感じになっています。
もうちょっとこのテープレコーダー編を続けていきたいんですけれども、このテープレコーダーが売れることでですね、オフィスもですね、もうあのしっかりと構えるようになったんですけれども、