【スタートアップナウ】資金調達を実施されたばかりの企業家の人生や事業日も解くポッドキャスト。パーソナリティーのスタートポッドキャスト稲荷田です。
同じくパーソナリティーのスタートアップ大好きキャピタリスト中山です。本日は、スペシャル収録でビデオポッドキャストでお送りしています。
本日はですね、株式会社hacomono代表取締役CEOの蓮田健一さんにお越しいただきました。
hacomonoさんはウェルネス運動施設向けオールインワンマネジメントシステムhacomonoを提供されているスタートアップでして、
2025年1月シリーズDラウンドにて46億円を調達されました。これにより累計資金調達金額は120億円となります。
蓮田さん、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
蓮田さんありがとうございます。実は僕はですね、2021年頃から蓮田さんと接点を持たせていただいておりまして、当時まだ池袋にオフィスがあった頃に
オールスターサースファンドの楠田さんであったりだとか、もともとサンサンでご縁があった方々のきっかけで面談とかも実話させていただいてですね、
その時の記録も少し読み返したんですけれども、楠田さん経由でいただいた面談のフィードバックが画面にあふれんばかりの分量で書かれていらっしゃってですね、
こうやって一個人として向き合っていただけたっていうのがすごく印象的でありまして、
当時おそらくまだCAぐらいかなと思うんですけれども、そこからもうDまで来られて、これはぜひご取材したいなというところで強行させていただきました。
ご無沙汰です。ありがとうございます。
ご無沙汰です。あの面談はもう今でもめちゃめちゃ記憶に残ってます。
本当ですか。ありがとうございます。
もうインパクトがすごかったです。
そんなですか。
楠田さんの熱さと、もうとにかくマシンガントークで。
恥ずかしいですね。
それをじゃあちょっと活かして、こういった仕事もさせていただいて。
すごいキャリアチェンジですもんね。
確かにガラッと当時はもう本当にサンサンにいてですね、SaaSの営業をしていたんですけれども、
気づけばこうやって伝える方の仕事により一緒に焦点を当ててですね、やらせていただいております。
けどもう当時からチャレンジしたいオーラとか、もうマグマみたいなのがずっとあふれてたんで。
嬉しいです。
でかつね、サンサンでのキャリアっていうのもすごいなんか活かせるようなね、そんな経験してたんだろうなと思うんです。
ここでまたフィードバックもらえるとは思ってなかったので、とっても嬉しい気持ちがあります。
これも既に多分羽生田さんの人間的な素晴らしさもリスナーの方には伝わっているんじゃないかなと思いつつ、
まず前編ではですね、羽生田さんの老いたちだったり、創業までのプロセスを、
そして後編では箱物さんの事業や今後の展望なんかも伺いたいと思っておりますので、
ぜひ合わせてお聞きください。
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それでは橋田さん。
まずは橋田さんの人生やご経歴などを中心とした自己紹介をぜひ1、2分程度お願いできますでしょうか。
はい。
人生ですか。
はい。
人生からお伺いさせていただいております。
学生時代はもうサッカーばっかりやっていまして、大学までサッカーをやっていました。
学生時代に結構自分サッカー部で、当時野球部だった大親友がいて、その親友と途中から同棲というか2人で住むようになって、
彼は地方から来ていた人間だったんですけれども、
その彼は野球でプロを目指していたけれども、プロが難しいとなった時に企業化として挑戦したいと言っていて、
自分はサッカーだと多分この上行けないなと思っていた中で、その人の出会いというのは結構自分にとって大きくてですね、
その後学生時代もそうだし、社会人になってからもう5、6年ぐらいほぼ同棲みたいに一緒に住みながら、
日経新聞を読んだりとか、あと将来の事業コースを考えたりとかそういうのをしていて、
その彼は今子供とお出かけに行こうよという子供向けのメディアを作って企業化としてやっていて、自分よりだいぶ早く独立しているんですけれども、
自分にとって学生時代はサッカーの経験だけでなくそういう仲間との出会いというのがきっかけで、
後々考えるとそういうマインドセットというのが今につながっているのかなという学生時代でした。
社会人になってから自分はエンジニアとして10年ぐらい働くんですけれども、
私の父が電気工事屋というか東京電力で働いて、その後独立して電気工事屋として中小企業の親父みたいな感じでやってたんですけれども、
結構働き方もすごい自由で、かつ職人で、社員さんのまとめ方とかも自分の中ではかっこいい親父だなって感じでいて、
飲み合いに行ってもすごいモテるというとあれですけれども、年を重ねていってもすごい楽しく生活している親父で、
めちゃくちゃ素敵ですね。
そういう職人ってかっこいいなって昔ながらあったので、普通の就職というよりかは小さい企業でエンジニアとして働くというキャリアを選んで、
当時はシリコンバレーとかも出だしてたし、自分がたまたま読んだ天才プログラマーという本があって、
自分当時パソコンも触ったことなかったし、メールも打ったことなかったんですけど、なんかプログラマーかっこいいなと。
世界を変えている人たちがいるようだ、ぐらいの感じでプログラマーとしての人生を歩んで、
けれども全然できなかったので、もう1年ぐらいは他の同年代の人たちからしても落ちこぼれみたいな感じで、
そうなんですね。
途中から急に別れるようになってきて、そこから開発が楽しくなって、会社の中でも活躍できるようになって、
そこ小さい会社から次の会社に転職したときに、そこであるJさんという直属の上司に出会うことになるんですけれども、
その方が性格的にスティーブ・ジョブズみたいな人だったんですよ。
すごいビジネスのセンスもあるし、クリエイティブに対しても基準が高いし、
エンジニアリングのところも長けていると。
25、6歳ぐらいのときに初めて新規プロダクトを任せていただいて、初期のプロダクトを自分プラスもう1人ぐらいの少数で立ち上げたりする中で、
初めてプロダクトの開発っていうのを25歳、6歳ぐらいから経験させてもらって、
初期のお客様、いいお客様は作れてたんですけれども、プロダクトとしてあまりスケールしなかったんですよね。
ワークフローっていう、企業内の倫理とか形成さんをインターネット上で回すようなプロダクトを作っていて、
いいプロダクトだし、お客さんの評判もいいんだけどあんまり伸びない時期が続いて、
途中から伸びてきたっていうののきっかけが、アメリカで円論事件っていう、上場企業が会計の不正を起こして株価が大暴落して投資家に迷惑をかけると。
そこからアメリカでソックス法っていう法律ができて、上場企業をガバナンスちゃんとしようと。
それが日本にも来てJソックス法っていうのができて、そこからワークフローっていう分野が結構ワントハブからマストハブになって、
そこから売れるようになったっていうのがあるので、その時やっぱりプロダクトっていいものを作るだけじゃなく、
やっぱり時代の流れだったりとかタイミングとか、あと強いセールスとかその辺が何か必要なんだなみたいなのが経験して、
その後さっき話した父の会社がちょっと東電出身で下請けに頼っていたので、東日本大震災の原発の事故で父の会社は仕事なくなってしまって、
介護の事業を細々やっていたので、自分がその会社を継いで介護の事業として立て直しして、そこがちょっと黒字化できたタイミングで今の会社を立ち上げるっていうのは、
だいぶちょっと珍しい、たまたまなキャリアを歩んでいるっていうのが私個人の自己紹介になります。
ありがとうございます。先ほどもスティーブ・ジョブズの話も見たいなってところに出ましたけど、まさにコネクティング・ドッツを続けたような風に思っておりまして、
まず大学時代って、学部は青山学院大学で経営学部でいらした、だからプログラマー・エンジニアではなかったんですね。
ではなかったですし、もう全然大学も行ってなかったんです。
そうだったんですか、体育会のサッカー部。
そうです、そうです。
先ほどいただいた父さんの機器がお父様のところで現れたというところなんですけど、これはお父様からご相談をいただいたって形じゃないですか、
どういう話の切り方で実際に継承といいますか、参画していくことになったんですか。
そうですね、父はもう昔から、なんか私ついてくれたらいいなと思っていたみたいなんですけど、
私がもう全くその気もなかったですし、そんな話もなくて。
なので父ももうそこを諦めていって、会社を畳むって話を聞いたときに、
もう自分、ほんと若い頃から堂楽息子というか、全部親に助けられて、サッカーも自由にやらせてもらっていたし、
海外旅行とかもすごい好きだったんで、そういうのも親のお金で活かしてもらっていたし、
バイトも大したバイトしてないのに、なんか変な話、いい車乗せてもらったりとか、
父が中小企業の社長だと結構ベッドを持っていたりとか、クルーザーみたいなのを持っていたりしていたので、
学生時代から船舶の免許を持っていたりとか、ほんと今思ってもバカ息子みたいな感じだったんですよ。
そんな父が苦しくなっていって、というショックもあって、当時もう結婚していたので妻に相談して、
当時いた会社もIPOも経験してストックオプションを持って、特に使う予定がなかったので、
それを行使して父の会社にお金を入れて、子供も生まれたばっかりだったんだけど、ちょっとやりたいというのでキャリアをリセットするつもりで。
それはなかなかストックオプションのお金も使う予定がなかったとはいえ、
たぶん決して安くない金額で経験も取られているところだと思いますし、
そこの意思決定はすごい。それはやっぱり昔からいつか自分も継ぐかもしれない。
まさに今このタイミングだと思われたということですか。
そうですね。当時はもう本当、父の会社を助けたいし、自分独立したいという思いはありましたけれども、
まだまだその事業が、IT会社でやっていた事業はすごい上手くいっていたし、
次の新プロダクトも作って、次の展開をやっていたので、今じゃないなと思っていたので、
もうたまたまと勢いですね。
そこで2年間近くですかね。
そうですね。2年ちょっとぐらい。
周りから見たら2代目社長という見られ方の仕入れを苦労もされたかなというふうに思っているんですけれども、
そのあたりはどんな感じでしたか。
そうですね。まず入れたお金は正直もうすぐなくなっちゃったんですよ。
そうなんですね。
なんか会社のお金ってこんなにすぐなくなるんだな。
ピュッてなくなっちゃう。
で、やっぱり資金繰りの大切さと、
なんかよくこう、PL成り立っているのに黒字倒産するみたいな話ってあんまり理解できなかったんですけど、
こういうことかっていうところとかも分かってきて、
なんかこう介護の事業をやっているときに、
介護保険っていう制度の中で動くので、
キャッシュフローがすごい後ろにくるんですよ。
最初に従業員がお客様にサービス提供して、
いろんな申請書を書いて、2ヶ月後ぐらいにお金が入ってくる。
っていうなんかこう、キャッシュフローの厳しいビジネスモデルが介護業界なんですよね。
あと、事業を成り立たせるために、
それ以外の介護のレンタルとか、物販とか、
ECサイト立ち上げたりとかしてたんですけれども、
そこもやっぱり結構資金繰りやっぱり難しくて、
仕入れがあったりもするし、在庫管理があったりもするし、
仕入れ先に、例えば月末のお金が払わなきゃいけないのに、
2週間後に500万足りないみたいなザラであって、
個人で、銀行の借り入れもストップしてるので、
キャッシュカードとかのローンとか、消費者金融とか、
そういうのもつかなきゃいけないぐらいで、
家族の妹とか、その親族とかにも相談してみたいなぐらい、
日の車だったので、結構これ無理かもなと思いながらやっていて、
私も経営者としても全然未熟だし、介護の知識なんかもないし、
もうやれることといって、朝神社行ってお参りするぐらいですね。
という感じでしたね。
授業としてそこまで大きく変わらない中、
そこからどう黒字化というか立て直すっていうのはできたんですか?
そうですね。ポイントが3つぐらいある気はしていまして、
これ授業の特性としては、やっぱり従業員なんですよね。
サービス提供するのが従業員なので、やっぱりお客様満足度とか、
地域の中で評判を得るっていうのが結構ポイントだったので、
結構組織作りというか、理念系みたいなところは、
結構後から振り返るとすごい重要だったなと。
従業員の方が長く働いて、従業員の方が地域でいい評判を作って、
そこから口コミでお客様が来るみたいなところを、
当時ちょっと自分が勉強していた経営塾が、
稲森和夫さんの経営のスタイルというのを教えてもらうところだったので、
そこを先輩経営者とかに教えてもらいながらやったっていう、
自分、人本主義経営って言ってるんですけれども、
人を活かした経営の組織作りっていうのは結構最終的に、
お客さんが非常に増えたっていうところ。
2つ目やっぱりファイナンスとか財務のところは、
途中で借り替えだったりとか、
トラクション出てくると多少銀行さんも返済能力を見てくれたりするので、
経営のスイッチが変わってきたところの中で、
ファクタリングとかも含めてなんですけれども、
とにかくお金のところをなんとかしのげたっていうところ。
3つ目のところは、地域連携というかステークホルダー連携の
巻き込み力っていうのはすごいポイントだったかなと思ってまして、
介護の中でも老人ホームとかデイサービスみたいな
施設型の事業ではなかったので、
訪問介護とかケアプランを作ったりっていうサービスだったので、
結構お客様が自然と来るとか、
今やるお客様に対してクロスセルをするっていうところで、
介護タクシーのサービスを立ち上げたりとか、
クロスセルをいろいろ立ち上げたんですけれども、
その時に結局お客さんのニーズとか、
お客さんのフェーズって介護の場合は、
やりたいからやるっていうよりは困った瞬間に来るので、
行政連携しておくと、
やっぱりここにお願いした方がこの点とこの点いいよとか、
地域のデイサービスとかと連携した時に、
ここは特に重度の高いお客さんに得意だよみたいなのが、
ステークホルダー連携っていうのが積極的にあって、
この3つは今振り返っても非常に立て直しの重要なポイントだったなと思っています。
今いただいた3つはまさに博物さんとしてもだいぶ活かせているポイントが。
めっちゃ得意なケースタイル、その3つだなと思っています。
これはトスマの会社を退任されてから、
2013年に当時マチイロという形で博物さんを創業されて、
そこから博物さんのプロダクトリリースしたのは2019年なのに、
結構な時間差があるなと思うんですけれども、
この辺り、最初は受託から始められた理由だったりだとか、
どのタイミングでプロダクトリリースした理由みたいなところをいただけますか。
結構作るの得意だったので、その後の会社をやっている時から結構相談を多くもらっていたんですよ。
例えば、昔の仲間とかで伝通とかにいるような仲間とかが、
うちのお客さんで困っているんだよと。
そういう相談をいっぱいもらっていて、
手を挙げれば自宅っぽい仕事ができるかなという感覚を持っていく中で、
自分としては自宅というモデルではなくて、
伴奏型のものをやりたいなと。
言われたものを作るというよりかは、
自分も授業が好きだし、いろんな仮説を考えるのが好きなので、
我々からの提案型でやって、月額とかのモデルで、
好きなものを一緒に作ろうみたいなモデルを。
結構いい企業さんを2社3社一緒にやれる会社ができてきまして、
最初はそういうのをやりながら、ただ我々はプロダクトを作るつもりなので、
将来そこでやったのをプロダクト化させてもらいます、
みたいなお話を企業の経営者と一緒にやりながらやっていたので。
そこから握っていたんですね。
そうです。
お客様は企業からもらいつつも、
基本的にはプロダクト作りを前提とした伴奏型の月額サービスというので、
やっていたのが5年、5、6年。
ただその過程でも、結構何個もプロダクター作ったんですよ。
プロダクト4に出して、結構キャッチなのを作ると、
1回跳ねるんだけど、ちょっとチャーンレートが高かったりして、
もしくは時代がちょっと早すぎたりして、そこまでスケールしなかったので、
そこまでエクイティというのはつけずに、仮にベッド自己資金でやって、
箱物に関しては結構初期からの業界の評判だったりとかリアダプターがついたので、
そこで2019年に初めてエクイティをやるという、
だいぶ粘って粘ってやったという感じです。
粘り粘ってこその今の急成長があるかと思うと、
非常に大事な時期を過ごされたんだなということを思います。
ありがとうございます。
そうしましたらちょっと箱物さんの話にも移ってきましたので、
後編ではそんな橋田さんが展開される事業を掲張りしながら、
今後の展望なんかも伺っていきたいなというふうに思っております。
橋田さん、そしてお聞きいただいたあなたもありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。