1. もおちゃんの「なぜなに?」樹木図鑑📗
  2. キツネにだまされまいともがく..
2025-05-30 50:20

キツネにだまされまいともがく令和の時代に


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サマリー

キツネにだまされるという文化的な伝説を探求し、その影響や歴史を考察しています。そして、1965年以降、そうした話が次第に聞かれなくなったことに触れ、新しい価値観への移行が示唆されています。このエピソードでは、高度経済成長以降の日本社会における価値観の変化や家族関係の変遷について考察しています。特に、科学的な見地からの正解主義や経済中心の思考が人々の心の繋がりを疎外し、伝統的な食文化や家族の団らんが失われつつある様子を描写しています。令和の時代における人間とキツネの関係について、自然環境や文化の変化がどのように影響を与えてきたかを探っています。特に、拡大森林政策や農業の変革がキツネの生態に及ぼす影響、そしてそれに対する人々の意識の変化について考察しています。令和の時代において、騙されることへの懸念や不安が語られ、特に銀行での不思議な経験を通じて現代社会の複雑さが浮き彫りになります。リラさんのエピソードでは、キツネや狸に騙されるという日本の伝説を現代の視点で考えることが新たな気づきをもたらします。教育やプロジェクトにおいて新たな視点を得ることの重要性が述べられ、こだまこまちプロジェクトのメールマガジンの配信情報が紹介されています。

00:02
おすおす、おはようございます。
こんにちは、こんばんは。
こだまこまちプロジェクトのもおちゃんでございます。
今日はね、夜、メールマガジンのボリューム2、第2号をお届けしますからね。
もしよろしければ、こだまこまちのメールマガジン登録してみてくださいね。
キツネの物語の紹介
はい、今日はですね、キツネにだまされまいともがく令和の時代にっていうお話をしてみたいなと思っております。
キツネにだまされるっていう話って結構あるじゃないですか。
っていうか、どこかで聞きなじんだことがありますよね。
もおちゃんは今、あらほーな年齢に差し掛かっているんですけど、
そんな僕自身、キツネにだまされたっていうお話、
このですね、昔ながらのそんな話っていうものを耳にしたことがあります。
例えばですね、一体見たらですね、行きの道と帰りの道がなんか形が違ったとかですね。
それから、いやこれ面白いですよね。
そこにいないはずの人に出会ってしまったとかですね。
こういうのがキツネにだまされたなんていう風にして語り継がれているようなものがあったと思うんですよね。
たぶん、子どもたち、今の例えば小学生とかに聞いてみると、
キツネにだまされるっていう話を知っているよって、
こういう何ニュアンスがあるんだっていうことを知っている子どもたちって、
もしかしたら少ないかもしれないんですけど、どうですか。
そんな風に僕なんか思っちゃうんですけれど、
このキツネにだまされるっていうことが、実はずっとずっと言われ続けていたんです。
お、そらにゃん、今日もありがとうございます。
こんにちは。ゆっくりしていってくださいね。
いつもいつもありがとうございます。
今日はキツネさんのお話をしているんですよ。
生物学的な動物的な視点とかではなく、
やっぱりキツネという生き物たちが僕たち人間たちにどんな文化を作ってきてくれたのかとか、
どんな能力、どんな歴史を作ってきてくれたのかっていう、
そんな話に迫っていきたいと思っております。
何の話に何に役立つのかが全然わからないような話を今日もさせていただきたいと思いますけれども、
皆さん好きですね。
結構このシリーズ聞いてくださっている方がいらっしゃるみたいで、
もうちゃんも長らくこのスタンドFMやらせていただいてきましたけれども、
いつになく聞いてくださるなっていう感じがあってですね。
みんな実は中身のない話好きなんじゃないのっていう感じ。
それこそキツネに騙されたいのかなっていう感じがします。
前置きはさて置きですね。
今日はキツネに騙されないともがく令和の時代にっていう話なんです。
このキツネに騙されたっていうエピソードってどうですか?
ソラニャンは聞いたことありますか?
もうちゃんは昔話とか民話とかそんな話の中で、
キツネに騙されたとか、キツネにつままれたようなとか、
そんな言葉をよく聞いたことがあります。
もうちゃん自身はこれキツネに騙されたなんていう経験があったわけではないんですけれどね。
昔から行きにはさ、もう簡単に行けた道だったのに、
帰りは草がボウボウ生えていて、
これはきっとキツネがここの道を馬鹿してなくしてしまったんだ、
なんていうような話があったりもします。
そうそう、ソラニャンありがとうございます。
ソラニャン、狸に騙された話はよく祖母がしてくれていました。
お、おばあさまは、ソラニャンのおばあさまは、
狸に騙されたっていう経験が終わりになったっていうことですね。
すごい、素敵ですね。
そうなんですよね。
やはり人を馬鹿す力を持っている動物といえば、
狐の他に狸も代表されるものですよね。
他にも実はいくつかあるんですけれども、
僕が今住んでいるのは高知県で、
この高知県の四国という場所には、
狐がめちゃくちゃ少ないんですね。
狐がすごく少なくって、狸がいっぱいいるんですね。
だから、狸に馬鹿されるっていう話はあっても、
狐に馬鹿されるっていう話は、
この四国では本当に珍しい話なんです。
空海と狐の伝説
昔々ですね、空海さんっているじゃないですか。
神言宗を開いた空海さんですね。
この空海さんをですね、狐が騙したっていう話があるんですね。
そしてその空海さんがめちゃくちゃ怒って、
四国中の狐を四国から追放したなんていう話があって、
それはもう本当に逸話なんですけども、
それからというものを四国には、
狐というものがすごくもう少なくなった、
寄りつかなくなったなんていう伝説もあるくらいなんですけども、
あの空海さんですら、この狐にですね、
すごく騙されたっていうようなね、
痛い目あったっていう伝説があるということなんですよ。
そらにゃんは狸の話は聞いたことがあるということですね。
ありがとうございます。
今日はなんで狐なのかというと、
狸にもですね、やはりそれなりの霊力、
妖力というんですかね、
あやかしの力というものはあるはずなんですが、
狐っていうのはですね、
日本ではもうものすごく昔から、
この狐が神聖なもの、
何か特別な力を持った生き物なんだっていう風に
言われ続けてきたんですね。
その文献をずっとずっとずっとずっと読み解いてみると、
一番古い文献っていうのはね、
ここに行き着くんですね。
それはですね、平安時代の千年頃にね、
西暦千年頃に活躍された
安倍の生命という方がいらっしゃいますよね。
恩明寺っていうね、あれですよ。
本当魔法使いみたいなことをするわけですけども、
あの恩明寺と言われている安倍の生命のお母さん。
お母さんは一体何者だったのかっていうと、
クズノハっていう方なんですね。
名前がついているんですけど、
このクズノハさんは、
実は狐だったんだっていう説があるんですね。
だから狐が生んだ子供だから、
人間ながらにしてですね、
恩明寺のね、恩明度、揚力、
なんかこうあやかしの力を操ることができたんだ、
っていうふうに言われているのが、
この平安時代の恩明寺までたどり着く話なんですね。
それからというものを、
その安倍の生命もですね、
なんかこう式神とかって言って、
動物を使わすなんていう話がありますね。
その代表がやっぱり狐だったんですね。
狐に実は神様を下ろす。
そして神様を下ろすことによって、
その狐が媒介となって、
狐がですね、
を自由に操ることができると、
ボディーガードなんかにしていた、
なんていう話が、
安倍の生命の界隈の話ではあるということなんです。
だから狐自身は、
すごく高尚な力を持っていて、
目には見えないような強い力を持っていて、
本当に力があるっていうのは、
神様とか精霊とかなんだけど、
そういった精霊とかの力が、
狐に宿るという形になっていると。
狐そのものがっていうよりも、
狐っていうのが、
そういう神様とかとつながることができる、
精霊とつながることができるような生き物として、
このようにですね、
言い伝えられております。
さすがですね。
だからお稲荷さん、
お稲荷さんっていうね、
稲荷神社なんていうのは、
日本各地にございますよね。
狛犬のところが狐になっていたりするんですよね。
この狐の、
お稲荷さんのところが、
実はその、
そうそう、
狐がこういうわけですね。
諸説あるんですけれど、
赤い狐と緑の狸の、
狐のお揚げがあるじゃないですか。
狐のお揚げは、
狐がですね、
大好物だったものっていうのが、
ネズミをああいう油揚げみたいにしたものだった、
っていうふうなことが言われていて、
よくお供え物でね、
そのネズミの油揚げっていうのを、
お供えしていたっていうことがあって、
あれを狐って呼ぶようになったっていう説があります。
一つの説ね。
なんですが、
僕はね、
ずっと昔、
あのお揚げ自体が、
狐を使ってるものなんだと思ってましたけど、
そうじゃなくて、
狐の神様へのお供え物として、
ずっと言われていた、
だからあれをお稲荷さんって呼んだりするんだそうですね。
ありがとうございます、ソラニャン。
というようなうんちくもちょっと挟みつつですけれども、
その狐というものがですね、
人を騙し、騙し、騙す、騙す、
いろんなことをやってきたわけですよね。
でもね、ある時を境に、
この狐に騙されたっていう話が、
なくなってしまった、
聞かれなくなってしまった、
という瞬間が、
やはりあるんだそうですね。
このね、
配信最近ずっとこの話をしているような気がするんですけども、
あるやっぱり一時、
あるこの瞬間をもって、
狐に騙されたという話が、
とんと聞かれなくなってしまった、
っていう話があるんですね。
1965年の変遷
そのね、時代っていうのが、
やはりここなんですね。
やっぱり何かありますね、
この時代に。
1965年の話ですね。
1965年というと、
今から約60年前です。
60年前の話ですよね。
2025年、そうですよね。
ほんとちょうど60年前ですね。
1965年の時代には、
やはり高度経済成長というのが、
日本を取り巻くんですよね。
この高度経済成長というものに、
差し掛かったあたりで、
狐に騙されたという話も、
とんと聞かれなくなってしまった、
っていうことがあるんだ、
そうですね。
ここまでいかがだったでしょうか?
いかがですか?
いかがだったでしょうか?
まだ言ってませんけれども。
そういうことなんですよ。
やっぱりこの1965年というのは、
何かの節目のように思います。
そしてそこを皮切りに、
日本人や世界を取り巻く人たちも、
しっかりですけれども、
何か新しい価値観というものを、
学び始めたんでしょうかね。
そして今まさにまた、
その1965年に何が起こっていたのか、
っていうことに、
差し迫っていく僕たちがいて、
高度経済成長の影響
それよりも前の世界っていうものは、
どんなことが起こっていたんだろう、
っていうことをひも解きたくなる、
僕たちがいるということで、
こうやって聞いてくださっているんじゃないかと、
思うんですよね。
この狐に騙されるっていう話は、
まあまあまあまあ、
よく聞かれたわけです、
1965年まで。
でも1965年を境に聞かれなくなってしまった、
それは一体どんな社会の変化があったのか、
というお話ですね。
まず高度経済成長に入ったことによって、
人が変わっていくんですね。
やっぱりこの経済っていうものが、
唯一の尺度だと、
お金をやっぱり稼ぐとか、
物質的な豊かさっていうものを求めるようになっていったがために、
お金じゃない非経済っていうんでしょうかね、
お金ではない、
お金では買うことができないような、
そんなものっていうものが、
もう僕たちは包まれているっていう意識がなくなってきてしまったんですよね。
実際はそうじゃないよね。
経済活動っていうのはすべてがさ、
やっぱり自然環境の中から生まれているもののはずなんだけれども、
そうじゃない。
なぜかお金というものを買い替えにして作っていくことによって、
人との繋がりすらもお金で結びつくようになって、
心で結びつくっていうよりも、
お金で結びつくことの方が多くなっていったのが、
この時代でございます。
教育と家族の変化
そして2つ目はですね、
科学の時代に差し掛かってくるっていうことなんですよね。
もうね、これはもう経済にもすごく結びつくことですけど、
科学的に説明ができないことって、
それは間違いだよね、
みたいなことになってしまいます。
これと紐づいて、
やはり教育の方も変わってくるんですね。
教育もやっぱりどこかに正解があるよね。
正解がある教育っていうものが求められていきます。
やはりあの時代あたりにですね、
高度経済成長あたりに、
いかにしてですね、
効率よく多くのものを決まった時間内で、
作り上げることができるかとか、
多くの問題解決ができるかとか、
そういうことが求められていった時代、
これがね、やはり高度経済成長以降の教育になっていきます。
だからね、やはり知識変調って言うんですけども、
いかにしてどれだけ自分自身に知識があるか、
どれだけ自分がね、
効率よく手先器用にやっていけるかっていうことが、
もう一番の大事なことになっていくっていうような時代がありました。
だからね、
今まで正解もあったけども、
間違いでもあったかもしれないなんていうことがあるよね。
曖昧なとかあやふやなとか、
なんかちょっとそんなことで諦めがつくみたいな、
しょうがないかみたいなね。
キツネに騙されたけどしょうがないかみたいなね。
そんなふうにして収められていたものが、
そんなキツネに騙されるみたいなことが
科学的にあるわけがないでしょう。
あなたが間違ってるんでしょうとか、
人が間違ってるんでしょうとか、
何かが間違ってて何かが正解なんだっていうことがですね、
よく取り立たされて言われるようになってきました。
そしてですね、
やっぱり家族の関係性っていうものも変わってくるんですね。
まだですね、昔、
昭和の時代に差し掛かるぐらいまではですね、
茶舞台っていうものがですね、
すごく流行していたというか、
日本の独特の文化としてあったんですよね。
あ、りらさんこんにちは。
ありがとうございます。
ゆっくりしていってください。
今日はキツネさんのお話です。
茶舞台のお話でしたね。
茶舞台ってね、これすごくね、
特殊な日本の文化なんですね。
それまでですね、
日本人もしっかり、
どんな国も見ててもそうなんですけれども、
家族でみんなで一つの食卓を囲むなんていうことって、
なかなかなかったんですね。
一つは、床にとにかくお料理を並べまくって、
床置きで食べているっていう時代がありました。
でもさ、床に置くっていうのはちょっと良くないよね、
っていうようなことが言われてくるわけですね。
日本人はですね、
お料理なんか盛り、
お皿に取り寄せるとき、
盛り付けって言いますよね。
盛るって言うんですよね。
これを飾り付けとかって言わないんですよね。
よそった時に盛り付けって言うんですけど、
この盛るっていうのは、
山を意味してるんですね。
この山っていうのは何かっていうと、
自然環境の中でもやっぱり山の中には神様がいる。
なんか神聖なもの、
神聖な空気が流れているっていうことがあって、
この食事、お皿の中にも、
その自然への恵みっていうものを表現をして、
ここは命をいただくものでもありますから、
食材に対してのリスペクトっていうのが、
そこに詰め込まれるようになっていったんだ。
これが日本人の文化だったんですね。
そうするとですね、
やっぱり少しずつ高いところに置いていこうっていう話になっていくんですね。
やっぱりこれは昔からありましたけれども、
庶民なんか床置きで食べていたっていうこともあるんだけれども、
少し高いお膳、
少し高いお盆みたいなものに
取り分けられるようになっていったんですね。
お盆の上にお皿がいくつか並んでいて、
そこにお料理がこんもりと小高く盛り付けられているっていうようなことになっていきます。
だから一人一人にテーブルがあるような感じです。
わかりますかね?
ちょっと足がついている高いお盆、
あれが一人一人に行き渡っていたという感じです。
さらにその頃ですね、
日本には儒教っていう考え方の文化が色濃く入ってきていたんだと思いますね。
これは中国だとか韓国の方では儒教というものがありますけど、
儒教っていうのはね、本当に上下関係というのを重んじるものなんですよ。
上下関係を重んじるってことは、
とにかく家ではお父さんが一番偉いとかね、
目上の人が一番偉いみたいな感じになっていて、
その家の中での偉さ順に、
そのお盆の配膳のですね、高さっていうものも決まっていた、
なんていう感じがあるわけです。
しかしですね、そんな時から始まっていって、
だんだんですね、この茶舞台というものが入ってくるようになってくるんですね。
茶舞台が入ってくるっていうのは、
やはり日本のですね、住環境、
住む環境が少しずつ変わってくるからってことですね。
そんなに広い部屋じゃなくなってくるということだったり、
それから部屋数がいっぱいあるっていうわけじゃなくなってくるわけですね。
昭和の時代になってきて、特に都市型の生活になってくるとですね、
田舎だとやっぱり広くって、一人一人にお膳が運び込まれて、
横並びで一列で食べるなんていうことだってできたはずなんですけど、
家がどんどん狭くなってくると、そういうこともできなくなってくるという時に、
一つのお膳でみんなで食べるんだっていうことがあったりします。
それまで一つ一つのお盆が独立していて、
ご膳が独立していて、そこが秩序が守られていたっていうね、
この儒教のね、上下関係を重んじるみたいなものがね、あったんだけども、
そこからみんなで食卓を囲むことができるような文化っていうものが出てきて、
そうなってくるとですね、少しずつなんですけど、
家族ってみんな平等なんだっていうことが、
コミュニケーションの希薄化
文化として少しずつですけれども、
緩やかになだらかに広まっていくようになっていくんですよね。
これ面白いよね。すごい面白いよね。
これがですね、やっぱり日本の文化の今の食文化をかなり支えているものであって、
同じ釜の飯を食うんだみたいな話だったりとか、
それから食事っていうのは一人でするもんじゃなくて、みんなでするもんだよね。
だけど最近そんな文化があったからこそ、
一人で食事をする、固食っていうのが問題になってくるということなんです。
もともと日本人って一人一人で食べていた、独立して食べていたなんていうことだってあったんですよね。
でも同一の空間で食べていたっていうこともありますけども、
これが茶具代というものが出てきて、さらにその時間が色濃くなってきたっていうことがあるんだそうですね。
こんな話をさせていただきましたけれど、ちょっと脱線をしましたね。
こんな感じでですね、
これまでみんなで何かをするというコミュニケーションがあったんですけど、
やっぱり働け、働け、お金を得るためにっていうような、
企業戦士なんて言葉が出てくるような時代にね、
差し迫っていくとですね、
親が帰ってくるのが遅いとか、
家族でみんなで食卓を囲むなんていうことが、
どんどん少なくなってきて、伝統的になされていたそこでのコミュニケーション、
言葉のやり取り、気持ちの交わし合いっていうのが、
もうなくなってきていくっていうのがこの時代になっています。
今田舎の方に来るとですね、
この高度経済成長っていうものの煽りを食ったんだろうけども、
でも食われ切らなかったっていう文化がまだちょっとあるような気がしております。
毛ちゃんが住むこの街はですね、びっくりなことに、
お昼になるとですね、12時のチャイムが鳴るんですよ。
それと同時にみんなが一斉に仕事を辞めるんですよ。
仕事をポンと置いてですね、それで家に帰るんですよ。
役場に勤めている人たちもほとんどの人が外に出るんですよね。
何をしに行くかというと、お弁当を買いに行くとかじゃなくて、
多分役場の中の半分ぐらいの人たちが家に帰るんですよ。
そして家に帰ってですね、家族と一緒にご飯を食べるんです。
ご飯を食べて一休みしてまた一時に出勤し直すという、
そういう文化がですね、あるんですよね。びっくりですよね。
これだけ家族で一緒にやっている伝統的なコミュニケーションというものが、
自然と人間の変化
まだ田舎の方では残っているんだっていう話を例としてさせていただきました。
またですね、こんなこともありますね。
資生館の変化って言うんですけども、生まれたり、それから亡くなったりしていくこの命っていうのはですね、
実はその自然の中の一人として亡くなっていく、自然の中での役割があって、
その役割を全うしたから亡くなっていくなんていうような、
この大きな大きな自然の中の巡りの中の話ではなく、
その人一人の人生の中だけで生死というものを考えるようになっていくんですよね。
これは本当に医療とかが発展していってですね、この自然の中で暮らすっていうことではなく、
病院の中で、病室の中で暮らして最後入院をするのかね、
そういうことが長らく入院をして命をつなぎ止めるみたいなこととかも結構あると思うんですよね。
こういうことがずっとずっと続いていくと、自然観というものも減っていくということです。
さらに最後にちょっと紹介させていただきたいのがですね、
こうやって人も変化をしているんですけど、実は狐側も変化をしているんだっていうことです。
狐側も実は変化をしてきているっていうことがあるんですね。
1956年頃からですね、日本の各地で木の伐採をどんどんしていって、新しい木をどんどん埋めていきましょうっていう政策が一気に行われていくんですね。
これを拡大森林政策っていう、拡大森林計画っていうのかな、ですけども、今ですね、高知県って83%が森なんですね、山なんですね、木で埋め尽くされているんですけれども、すごくないですか。
この高知県の面積のうち83%が森林で、17%くらいしか何もないところがないっていうことなんですよね。
もうすごいことですよね。
そんな中でですね、この木をよく見てみるとですね、同じ木ばっかなんですよね。杉とかヒノキとか、そういう決まった木ばっかりが生えています。
こういう木がどんどん育っていくと何が起こるのかっていうとですね、その中で木の実っていうものがなくなっていったりするんですね。
それでですね、その中で住んでいた狐、狐の中でもやっぱり綾香市の力が強かったものっていうのは老狐ですよ。
やっぱり年を送っていたですね、狐なんですね。おじいさん狐、おばあさん狐の方がやっぱり霊力が強かったっていうことなんですけども、そういった狐たちがいなくなってしまうんですね。
そうすると何が起こるのかっていうとですね、今度木がばっさり切られて新しい木が植えられていくんですけど、その木たちがまだ小さいものだから山の中に光がわーっと差し込むんですね。
するとですね、その中からどんどんどんどん草がぼうぼうぼうぼう生えてきます。草がいっぱい生えてくると何が生まれるのかっていうと、今度そこにね野ネズミがね住み始めるんですよね。
ネズミがわーっと大量繁殖するっていうことがあります。そうなったら大事な作物をですね、ネズミにかじられてしまうとかっていうことがいっぱいあって、じゃあこのネズミを駆除するためにどうすればいいかって人が今度考え始めるんですね。
そうしたときにそうだと、ネズミの天敵はキツネなんだっていうことに行き渡ってですね、養殖したキツネ、若いキツネたちをですね、とにかく離してネズミ退治に向かわせるなんていうことが起こってきます。
でもね、このキツネたちっていうのは野生のキツネではないこと、それから人が育てたものであり、それから若いキツネであることっていうことがあって、そのキツネたちが持っている力っていうのがどんどんどんどん薄れていっているっていうことがあるんだそうです。
というような感じで、この1956年の話をしましたけれども、ちょうど1965年に差し掛かるあたりになるまでですね、人も変わっていったし、それからキツネ側も自然界側もどんどん変化をしていって、あやかしの力を失ってしまったキツネたちがいて、そしてあやかしの力っていうものを信じなくなってしまっていた人間たちがいるっていうことなんです。
キツネと環境の影響
いかがでしょうか。ここまでキツネと人間のこの関係を歴史的にお話をしてみたんですけれども、ここまで抑えていただけましたでしょうか。
リラさんありがとうございます。もうちゃん明日音楽ライブに出るよ。おめでとうございます。出演決定ですね。リラさんはスタエフとかでも歌を歌ったりされることがありますよね。
リラさんの歌声に癒される方、勇気づけられる方、励まされる方がいらっしゃると思いますので、明日ご生会をお祈りしております。ステージに立って歌うなんていうのは本当に素敵なことだと思います。頑張ってください。楽しんできてくださいね。ありがとうございます。
あ、そらにはありがとう。人が育てた動物に狩りを任せてもね、そうですよね。このキツネさんたちのね、キツネさんたちもいい迷惑って感じかもしれませんけど、野に放たれたキツネたちがそういう仕事をしていくっていうことなんですよね。
ここまでですね、僕、もーちゃんはこうやって歴史を交えてキツネと人の関係というものを話させていただきました。そらにゃんのおばあさまは狸にバカされたことがあるよっていうお話をしてくれましたよね。
これすごく素敵な経験だなと思いました。っていうか、こうやって何か訳がわからないことが起こった時に、キツネにバカされたんだとか、狸にバカされたんだ、騙されたんだっていう風に言って、ちゃんちゃんで終わらせることができるっていうことが、実はそれまでの日本人が持っていた力だったんじゃないかって、もーちゃんは思うんですね。
今はさ、白黒はっきりつけようよとかさ、とにかく正解がどこかにあるような感じで毎日過ごしていると思うんですけれども、そうではない。正解なのか不正解なのか、科学的なのか非科学的なのか全然わからないんだけども、でも不思議なことが起こっちゃった。
今まで大事にしていたネックレスがなくなってしまって、どこに行ってしまったんだろう。きっとキツネにバカされて持ってかれてしまったのかなとかね。昨日まであったお酒が全部なくなってしまってるんだけども、キツネがバカされて全部持ってかれてしまったのかとかね、全部自分で飲んだんだろうと思うんですけども。
こういうことをですね、キツネにバカされたよね、狸にバカされたよねっていうことで、もうちゃんちゃんで終わらすことができた。曖昧なままで済ますことができたっていう力が実は日本人にはあったのではないかなって思いました。
そうですか、そらにゃん。面白いから何回も何回も話してもらってましたね。懐かしい。おばあさまからそういう話を伺ったのに羨ましいですね。本当に羨ましいです。素敵だなぁ。なんかこういうさ、昔の話というか、昔というか貴重な機会ですよね。
僕ね、今話を聞いてみたい方がいらっしゃるんですけども、この町はですね、つい10年くらい前まで土層がOKだった町なんだそうですね。すごくないですか。仮想でしょ、やっぱり。でも土層がOKだった町なんだそうですね。
でですね、その土層のどこでやってたかっていうと、やっぱり山の中なんだそうですね。山の中腹とかね、森の奥深くにその一戸一帯を埋めていくっていうことをされていたんだそうです。そしてそこにはやはりお墓参りっていうことでね、毎日、シーズンごとに通うなんていうことがあったんだそうなんですけれども。
でも、だんだん年が重ねていくにつれて、やっぱり森の中に入っていくことが難しいとか、山を上がっていくことが難しくなっていって、そしてその山の中とか森の中に埋められていたそのご遺体をですね、今度ね、町の中というか平地のですね、墓地に移すなんていう仕事をしているんだっていう方がいらっしゃるんですね。
つまりですね、お墓を暴くっていう仕事ですよね。
これすごいことだなと思いました。
僕、もーちゃん、これを聞いたときにもっと話を伺いたいなと思いつつですね、ここからは想像の域になるんですけども、やはりこの土葬の文化があって、それはやっぱり山の中、森の中にね、安置していくっていうことがあったときっていうのは、やはりまだまだ狐に騙されるっていうことができていた時代なのかなぁなんて思いますよね。
やっぱりこう思うのがちょっと羨ましいなって思います。
なんか、のほほんとしてますよね、能天気ですよね、というのがあったら失礼なのかもしれませんけどもね。正解でもない、不正解でもない、でもなんか大切なものがあるかもしれない、そんなような感じで、ふわっとした感じで、その話をね、終えておくことができるようなところがあってさ。
やっぱりこう1965年を境にして、狐に騙されるなんていう話がなくなったり、狐に騙されたんだよなんていうことを言うもんならさ、多分もういじめになっちゃったりとかさ、お前何言ってんの?みたいな強烈なツッコミが入りそうなさ、そんな時代じゃないですか。
そうしたらさ、もうなんていうかね、人は正解を求めていくようになるのかなとか、やはり今ね、令和のこの時代においてさ、この令和の時代においてさ、きついに騙されない、なんか何か自分が損をしないと一生懸命こうもがいているような感じがしてきてですね。
何か正解がないかと思って、さまざまな方々の発信を追いかけたりとかですね、ノウハウを追いかけたりしていくっていうこの時代っていうのがあるのかなと思います。
でもね、一方でこんな話を持ってまして、もうちゃん最近、最近っていうかもうちゃんのことをフォローしてくださっている方とかフォロワーさん、フォローさせていただいている方々の多くはですね、なんかこう自分の心の中とか心理の探求をされている方々が非常に多いような気がしております。
心理の探求をしている方々はですね、きついに騙される力っていうものをもう一度取り戻そうとしているのかなって思ってます。
きついに騙されるっていうのはすごくいい意味で言っているんですけど、自然を感じられるとかですね、曖昧なところなんだけども、その曖昧な自分も良しとしようかとか、迷ってる悩んでるんだけど、そういう自分と付き合って生きていこうかっていうようなね、そんな配信をされている方々が非常に多くて。
桃ちゃんはそんなことを今思っているんですよね。この心の正義になってきたのかなって、一回そのやっぱりお金の正義物質のことが一番の価値だっていうふうに言われているような時代があったと思うんですけれども、それがまた一周回ってですね、今度やっぱり心でつながっていきたいよねとかっていうような時代が来たのかなぁなんて思ったりもしております。
はい、ここまで35分ぐらい話させていただきましたけれども、なんとリラさんが騙された話をしたいです。騙されたっていうのは人に騙されたとか詐欺にあったとかじゃなくて、狐に騙された、狸に騙されたっていうお話でしょうかね。
心の探求と令和の時代
ちょっとリクエストいただいているので、ここから一つ区切りをもって後半戦というかスペシャルトークというか、そんな感じでリラさんとちょっとお話ししてみましょうかね。リラさん。
じゃあ招待しますね。ありがとうございます。コラボ開始。
おっ、ご無沙汰しております。リラさん。
はいはいはいはい 画面でないの画面が出ない
聞こえてる聞こえてます聞こえてます大丈夫で あの今もうちゃんの配信を久しぶりにこんにちは皆様リーダーと申します
アイディアさんこんにちはこの前もね何回かこう一緒にコラボさせていただいてき ました
なるほど恋は聞こえてるけどアイコンが出ないって言ってますね 音声が入ってるんだったら大丈夫ですはい ok です
今日のそのこんにちはそらさんどこかでチラチラ見たここへもうちゃんのお部屋 におられる件聞いて聞いたことあるかなリラリラ間違った
そらさんのことはねうーん 専用のネットってますはい
実際に騙されたってまぁこと私の島根県の住んでいる場所は田舎なので 失念やた抜きや生地やサルや
まあ本当に出るんですよはいちょっと金普通にそれの中で今日のまあタイトルもう ちゃんの話を聞いてて思ったんですけど
4,5年前なんですけど 本当に騙されたとしか思えような実はがあるんですけど聞いてくれる
ぜひお願いしますこんな話が聞けるなんて最高ですね あのとある日に銀行に行ったんですよ一番最寄りのはい
でお金を卸そうと思って私通帳でその頃は卸してたんで 自分の通帳を出していくらかな4,5万書いて卸そうと思ったその出した通帳がですね
なんと 全く知らない誰かの通帳を持っていたんです
ちょっと this 日
アーチパーティー ネイ何起こってんですか
要自分でもワーってなってん ん
ズズズズズどいうことと思ってスゴボってたんでしょ はーい
で自分が通帳ちゃんと思ってたんでしょ 自分の通帳の入れるキャスカードカードてか入れ物の中にその人の入ってたの
全然見知らぬ、おじさんげな名前でね、それが。
それで慌てて家に父と母に電話して、「何々さんっていう人知ってる?」って言ったら、「知らん。」って言って。
でも、「そういう通知は私持ってるよ。」って言ったら、「はぁ?」って言って。
慌てて、その銀行の受付のお姉さんに、「この通知は私持ってたんですけど、何でしょうか?」って言ったんですよ。
受付のお姉さんも、「何ですかこれ?」みたいな。
で、「ちょっと調べます。」って言って、「防犯カメラも全部調べあげますので、お客様はお客様の通知でお金を下ろされたらいいと思います。」って言って預けたんですね。
で、後日連絡がありました。銀行さん。
全くわかりません。意味が。
自分の通知は持ってたんですね?
持ってたんですよ。
で、その名前の人から通知がないっていう連絡もないと。
じゃあ、50万入っとったんですよ、それ。
おお。もらってよかった?
通知を届けると1割もらえたりするんですかね?
知らないよ。わかんない。
でも、年もわからんし、銀行さんもお手上げ。
でも事件じゃないんで、警察は関わりませんので、これで終わりにしますということで無事終了したんですけど、
なんかしばらくモヤモヤしてて。
で、今日ももちゃんの配信を聞いて、これは狐か狸になんかバカされたんだわと思って。
日本の伝説の再考
じゃない?
すごい話ですね。
でしょ?
平成狸合戦ポンポコみたいにですね、街の中にも狸や狐は入り込んでいるのかもしれませんね。
それか綾香しか?
綾香しか。
いやいやいやいや、この話も興味深いですよね。
現代の生活においてで、しかも銀行だよ。
だから間違いなんかあるわけがないし、
銀行口座は誰か、その人が作ったっていう記録はあるんですかね?
ある。あるんだよね。
あるんですね。
なぜその通帳が入っていたのか。
わかんないのよ。
わからないね。
このわからないものを、狐にバカされたんだね、狸にバカされたんだねっていうことで、
トントンとちゃんと収められるかどうかっていうか。
ほんとね。そうなんよ。
そうですよ。
で、りなさんはそれができるというね。
なんか納得した。今日のもーちゃん、このためにもーちゃんに出会ったようなものだと思って。
もーちゃんに出会ったのはちょうどこの時期だ、1年前の。
あ、そうかそうか。
もうちょっと前だ、2月ぐらいだもの。
はいはい。
そっかそっか。
嬉しい。
嬉しいですね、こうやってお話ができて。
いいエピソードを言えてくれました。ありがとうございます。
たおりますね。
はい、ありがとうございます。
明日はね、4時半から30分ライブに出ます。
30分も歌えるんですか?
長いんよ。
長いよ。
30分は長いだろ。
長いよ。
長いです。だけちょっと4曲ぐらいに絞って、
自分のリサイタルじゃないから、まあ無理せんようにやろうかって言って相方とね。
あ、2人で歌えるの?
2人で、はい。
いいですね、いいですね。
で、スタイフライブもするけん。
あ、じゃあ生で聴けるってことですね。
生で聴けるよ。
で、アーカイブも残しますんでね。
いいですね。
で、前後何組もおられるんでね。
はいはいはい。
ちょっと本当は全部撮りたいけど、
ちょっと他の人の音源はさすがに許可取れないんで、
自分たちの出番のとこだけ流そうかなと思ってます。
わかりました。
じゃあ明日の4時半から5時くらいまで。
全然練習、練習しないといけないのにね、全然してない。
これからですか、じゃあね。
ありがとう、もーちゃん。
はい、楽しんでください。
ありがとうございます。
どうも、失礼します。
ありがとうございました。
リラさんでした。
いかがだったでしょうか。
まさか本当にきついにバカされたエピソードを聞くことができるなんて。
いやこれね、昔の人たちは道に迷ったとか、
雨が降る前と後では空間ができ方が違うとか、
風が吹き方が違うだとか、
あとなんですがね、あったはずのものがなくなったとか、
そういうことがですね、農村の中で起こっていたわけなんですけれども、
これがですね、都市の生活とともに、
このキツネっていうものがね、
なんかやっぱり銀行とキツネってすごくかけ離れたような感じがやっぱりしますよね。
ここでキツネの話がもう出てこなくなっちゃうわけですよ。
でもやっぱりキツネに騙されたのかななんて言うと、
それだけでちょっとほっこりするような気分になっていたかもしれない。
そんなところが実は日本人にはあって、
現代社会の変化
あえてキツネに騙されたんだっていうふうに言うことができるような力っていうものがあったのかななんて思ったりもしています。
はい、いかがだったでしょうか?
最後まで聞いてくださったあなた、ぜひいいねやフォローで足跡を残していってくださいね。
今日はですね、なんとまた不思議で何の役に立つのかがわからないような、
キツネに騙されないともがく、そんな令和の時代にという話をさせていただきました。
僕たち本当に何かこう正解、価値を届けなきゃいけないと思って、
毎日配信をしているのかなと思ったりとかする時があるんですけども、
でもモウちゃんの周りの人たちはそうじゃない人たちもいっぱいいるなぁって思ったりもしてですね、
なんか心のモヤモヤがちょっとわからないんだよねとかさ、
あとはこういうことに気が付きましたみたいなことをさ、言ってくださっている方々がいて、
モウちゃんはそういう方々の配信を聞くと、ちょっと心がほぐれるような感じがするんですよ、気持ちがね。
それはやはりキツネに騙されているっていうようなこと、バカされているっていうようなこと、
ちょっと言い方はアレかもしれませんけども、
そういう自分自身っていうものとうまく付き合おうとされているのかなぁなんて思ったりもしているところです。
そうだよね、確かに何か今話してて思ったことが最後にあったりちょっと取り付け加えますけど、
モウちゃん自身、小学校教員をしておりました。
小学校教員をしていたときにですね、子どもたちの取り巻く環境っていうのがどんどん変わっていき、
子どもたち自身も変化をしてきたと思っているんですね。
もちろん子どもたちは子どもたちらしさというものは今も昔も変わらぬものがありながら、
やはりその子どもたちが何か例えば、うちの子たちもそうですけど話せなくなったとかですね、
それから落ち着かないとか、席に座っていられないとか様々なことがあって、
多分それ昔だったらあんまり気にすることなく、
何かそういうこともあるよねみたいなふうにおやむやで終わっていて、
ゆくゆく大人になっていく過程で何となくまた馴染んでくるようなものがあったように思うんですけども、
今ってその学年の中、今まさにその子をどうにかしなくてはならないというようなことがすごく言われるようになって、
その子に診断名をつけようとするとかですね、また別の場所に学級を移して取り出して、その子だけ別の教育を受けさせるとかですね、
何かそういった曖昧にせずしっかりと区切って分けてとか、しっかりとその人に名前をつけてとか、そういうことが繰り広げられているんだろうなと思います。
こういったことって科学が発達してきたからとか、医療が発達してきたからとか、教育が発達してきたからとかっていうこともあるんでしょうけども、
その裏にはこの自然の中でのこのうやむやで終わらせても大丈夫という、そういうようなこともまた変わってきている、移り変わってきていることなのかなと思っていますね。
はい、そらにゃんありがとうございます。場面観目症っていつの時代からあったんだろうって気になってます。
これ確かにそうですよね。場面観目症の発見っていうのがおそらくあったと思うんですよね。
場面観目症っていうのは人前で話せなくなっちゃったり、話せなくなるどころか力が入らなくなったり、ものを考えることもできなくなるっていう子もいます、人もいます。
人前というか、ある特定の自分の、そういった場面に出くわすとっていう感じなんでしょうかね。
なんですけど、この名前がつくとか、その症状というものが起こるっていうことには、やはりそのことの発見っていうものがあると思うんですね。
日常の中に、なんかこううまくというか、なんとなくあるもの、ありふれたものの中ではさ、わからないものっていっぱいあるというか、気にもしなかった、気にも止めなかったというものがいっぱいあると思うんですよね。
教育の視点の重要性
そこら辺に転がっている石を見てさ、この石はさ、チャートっていう石だよねとか、これは石灰岩だよねみたいなことって、別に気にならなければ気にならなかったで、全部同じ石で終わってたものがあったと思うんですよ。
でも名前がつくっていうことはですよ、そこになんかあれ、別の石だぞとかってね、別の草だぞ、別の花だぞっていうことをね、ふと気がついた瞬間があったと思うんですよね。
だから場面監督賞というもの自体は名前がつく前からずっとあったはずなんですけど、いつの頃からかそれをこの名前をつけるようになったということなんですよね。
きっとね、教育の世界ってそういうもんです。僕もちょっと調べてみようと思いますね。ありがとうございます。ということでお時間をいただきましてありがとうございました。
本日21時から、21時ちょっと過ぎると思うんですけど、メールマガジンですね、こだまこまちプロジェクトのメールマガジンの第2号を配信させていただきたいと思っております。
こだまこまちのメールマガは番組の概要欄とそれからコメント欄のところに貼り付けておきますので、もしよろしければまだ登録しないよという方がいらっしゃいましたら受け取っていただけたらと思います。
このこだまこまちプロジェクトの世界観の裏側にはどんな裏付けとかそれから背景があるのか、それをお話をしているのがこの放送でございますので、
合わせて聞いていただけますと、このももちゃんが作っているファンタジーの世界というものをより楽しんでいただけるんじゃないかと思っております。ありがとうございます。
ということでお時間が来ましたので今日はこの辺にしたいと思います。お相手はこだまこまちプロジェクトのももちゃんでございました。
またお会いできることを楽しみにしております。今日も素敵な一日をお過ごしくださいませ。あなたとあなたの大切な人に森の精霊のご加護が訪れますように。今日はソラニャンコメントいただきありがとうございました。リラさんも上がっていただきありがとうございました。明日の音楽祭のご盛会をお祈りしております。
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