自然と人間の関係
おっすおっす!おはようございます。
こんにちは、こんばんは。
こだまこまちプロジェクトのもおちゃんでございます。
今日はね、朝から田んぼに行って草刈りをしていました。
あぜ道とかってね、あぜっていうのは田んぼを取り囲むようにしてできている道なんですけれどもね、
その道って、車が通れるようにですね、コンクリートで舗装されている場所もあるんですけど、
僕がやっている棚田、山の中の田んぼになるとですね、そこはもう土なんですよね。
土っていうことは、種が落ちれば草が生えてくる。
その草を丁寧に取り除くなんていうことをやっていました。
本当だったらね、草を取り除かずにそのまんま置いておく、生やしておくっていうことも、
僕としては美学として、それから哲学としてあるんですけれども、
この草を生やしておくことによって、根っこがですね、今度あぜを崩してしまうっていうこともあるんですね。
人はこうしてですね、自然の力を借りながら、また自然にここにいてもらっては困るという場所をですね、
人間の都合によって排除しつつ、
そうやってまた別の場所で自然の力を借りながら、この田んぼというものを作ってきたっていうことなんですよね。
何の話やねんってことなんですけれど、
今日はですね、そんな人が自然の力を借りてきたんだよねと、
でも一方で人は自然を排除してもきたんだよね、
なんていうね、そんな言葉も、あのこともお話ししつつやっていこうと思います。
よろしくお願いいたします。
薬膳の考え方
今日はですね、テーマとして料理を選んでみました。
っていうのはですね、料理というのは、この間、
ナオミさんと薬膳のお話をさせていただいたときに、
僕自身の料理感っていうものも、ぜひ聞いてほしいなって思ったので、
ちょっとお話をしてみようと思ったんです。
薬膳というものは、もう本当に昔から古来から伝わってきているものです。
中国の方では、ご飯を作る人、すごく地位が高かったんだそうですね。
お医者さんにはですね、確か4つぐらいの役割があるというか、
4つぐらいの役職があるんですね。
一つは、このご飯を作る人、これを職位と言ったんだそうですね。
それから、あと薬を使う人だったりとか、
あとメスを握ってね、手術をする下界さんみたいな、そういう人だったりとか、
あと誰だ、なんだったかな、忘れちゃったんですけど、
薬草の人だったかな、分かんないけど、
そんな感じでですね、役割がいろいろあったんですけど、
その中でも最高の位だったのが、この職位と言われているんですね。
まさにですね、この皇帝、王様たちの側近であり、
かかりつけのお医者さんであり、毎日の健康管理っていうのは、
その職位である、そのご飯を作る、ご飯を監修するお医者さんが
全部を取りまとめていた、なんていうことがあるんですよね。
だから僕は、結構料理をする時って、ちょっと誇らしげな気分もあるんですよね。
薬膳会では、台所は家庭の薬箱っていう言葉があってですね、
そこに立つ人たちはね、今はお母さんたちだけじゃないと思いますけれども、
そういった人たちは一人一人が家庭の健康を握っているんだと、
というようなことがあって、すごく昔からこの職位というのは重宝されてきました。
その考え方が日本に薬膳として入ってきて、日々のですね、食事、食卓に昇るわけなんですけれども、
毛ちゃんは風邪の薬膳師なんていう肩書きを自分で名乗っていたことがありました。
今はもう本当に肩書きいらんなって思ってね、いられないなと思ってやってないんですけど、
でも人にですね、ご飯を差し出す時、提供させていただく時っていうのは、
薬膳ですっていうのが一番わかりやすいかなって思っています。
ただ毛ちゃん的にはこの東洋医学で語り継がれている薬膳というものをですね、
さらに自分自身なりにアップデートしたというか、アレンジをしたというか、
自分にとってしっくりする形に消化させていったんですね。
これを風邪の薬膳と毛ちゃんは呼んでいます。
この風邪の薬膳っていうのは一体どんな意味を込めているのかっていうと、
風邪っていうのは自然というものでございまして、
その自然が自分たちのもとに風に乗せて運んできてくれたその時の食材を使うというようなことを、
毛ちゃん的にはイメージしています。
っていうのはですね、薬膳の世界では様々な料理に食材に効果効能があって、
その効果効能を組み合わせることによって一人一人に合ったお食事を提供するんですよっていう話になります。
風の薬膳の実践
昔の話だとね、昔を振り返ってみると、スーパーマーケットなんてないですし、
ビニールハウスでのですね、野菜の栽培とかっていうのもそんななかったと思いますので、
その時、その季節の時に手に入る旬の食材を使うっていうことが当たり前だったんですね。
しかしですね、時代がどんどん経つことによって農業の方も様々な革新が起こってきました。
1年を通していつでも人参が摂れるとかキャベツが摂れるとかジャガイモが摂れるとか、
そういうことが起こってくるわけですね。
そんなことが起こってくると何が始まってしまうのかっていうと、
人の中の季節感の欠如、季節感がわからなくなるなんていうことがあるんですよね。
お、そらにゃんこんにちは。今日もありがとうございます。
今日は僕はこれからちょっとね、町の体育館のお掃除に行くので、
少し早めに配信をさせていただいております。
時間合わせて来てくださってありがとうございます。嬉しいです。
そんな感じで一つ一つの効果、効能があるんだが、今はスーパーがあってさ、
それでスーパーに行けば何でも食材が手に入ってしまうものだから、
季節感で食材を選ぶよりも先に薬膳となった時には、
ちょっと体調悪いんだよねーなんて言って、
その人が頭痛がするなーとか、吐き気がするなーとか、
ちょっとめまいがするなーとか、
そういう体調とか、あと気分が優れない、気持ちが落ちてるなーとか、
そういうようなところで、食材を選んでしまいがちだよねーっていうことがあります。
なので、もーちゃん的にはですね、まず最初にこの自然の恵み、
自然のサイクルを考えて食材選びをしようねーっていうのが、
この風邪の薬膳の一番の根幹となるところなんです。
あ、そらにゃんありがとうございます。
メルマガの返信してたとこです。嬉しいです。
受け取ってくださってありがとうございます。
そう、こだまこまちプロジェクトのメールマガジン、
受け取っていただいている方、本当にありがとうございます。
今もですね、まだまだメルマガの読者募集をしております。
1週間に1度程度ですね、
僕たちのこだまこまちプロジェクトのお話をさせていただいておりますので、
もしよろしければご登録いただけたら嬉しいです。
完全無料、配信停止もいつでもどうぞというようなね、
軽いものでございますから、よろしくお願いいたします。
さて今、風邪の薬膳のお話をさせていただいてまいりましたけれども、
さらにですね、ちょっと深めて言うとですね、
もうちゃん的には、今自分自身で畑をやったり、
田んぼをやったりしているんですね。
そんな時に、自分の元にやってきた食材っていうものを、
最大限に使わせていただくというような意識を持っているんですね。
これどういうことなのかっていうと、
どこかに行ってですね、買ってしまえば簡単にいろんなものが手に入るんだけど、
この大きな大きな自然の流れ、この風が運んできてくれるものっていうものはですね、
今日自分の元に届く食材っていうものを極力ですね、
自分の力、もうちゃん自身の力ではなく、
自然が運んできてくれるものっていうものを使おうと思っているんですね。
もうちゃん自身がですね、手を加えて、大地に手を加えて畑を作っているので、
その時点で完全なる自然という、自然みたいなものではないような気もするんですけれども、
極力自分自身の意思や意図が入らないというようなことも目指しているっていうことなんです。
だからね、今日オクラが採れましたとかピーマンが採れましたって言ったら、
それがもうちゃんにとって一番今必要なエネルギーなんだ、
必要な栄養なんだっていうことを感じながら、
それを大事に使わせていただくっていうことなんです。
さらに言うとですね、ピーマンって捨てるところがマジでないんですよねっていうことを言うと、
そうだよねっていう人もいるし、そうじゃないよねっていう人もいる。
中のですね、種を取ってしまうっていう人がいたりとか、
ピーマンを割った時の中の綿を取ってしまって、
本当に周りの緑色の皮の部分だけを使うっていう、
そういう人たちもいらっしゃるんですけど、
この自然の中において必要じゃないものっていうのはないよねっていう、
そんな僕の哲学とか思想がありましてですね、
このピーマンも捨てるところがないと、
人参だって葉っぱから一番先っぽまで皮ごと全部食べられる。
じゃがいもだって皮は絶対剥かないとかね、
ごぼうだって皮は剥かないとかですね、
そういうことで極力やってるんですよね。
ただそこに農薬だとかそういうものがついてると、
どうしても気になっちゃうから皮は取りましょうねみたいな話になるけれど、
そんな思いもあって、僕自身は土作りから始めていて、
無農薬、無肥料、そして水をあげることもですね、
もーちゃん自身がやることはほとんどないというような形にしています。
日本っていうのはですね、
5日にいっぺんは大風が吹き、
10日にいっぺんは雨が降るという、
そういう場所でございますので、
そんな国の風土に合ったですね、
野菜っていうものが勝手に育つはずなんですよね。
なのでこの自然のサイクルとか恵みっていうものをですね、
極力信じて待つっていうことをさせていただいております。
そんな上手くいくの?なんていう感じがありますけれどもね。
でもこれは絶対に僕は言えるかなと思うのは、
今目の前にやってきたその野菜っていうのは、
自分自身に一番必要なものなんだっていうことは、
直感的に分かって、
しかもそれってものすごく美味しいんですよね。
甘みとか旨みっていうものをすごく感じる、
苦みも感じる、新鮮さをすごく感じるから、
こういったことを心がけています。
これが風の薬膳の心得の食材選び編っていう感じでしょうかね。
さらにもうちょっとお話をすると、
この料理、調理法っていうところもですね、
ちょっとこだわっているところがあります。
本来ですね、料理っていうのは、
自然の中でもう合わない者たちが、
合わないと出会うはずのなかった者たちが、
一緒になることじゃないですか。
例えばですね、カレーを作りますって言ったときに、
人参にジャガイモに、それからお肉を入れて、
カレー粉のいろんな香辛料を入れてとか、
そんなことをして玉ねぎを入れてなんて言うけど、
それぞれがそれぞれの野菜であって、
一つの場所で出会うなんてことはなかったはずなんだけど、
ここで出会っちゃうのが料理なんですよね。
この料理をするときに至って、
必ず必要になってくるものってやっぱりあれですよね、
火なんじゃないかなって思います。
この火っていうのがですね、
火の重要性
僕たち人類にどんな関わりを持ってきてくれていたのか、
ということをちょっとまずひも解いてみたいなと思いますね。
火ってさ、火を使えることによって、
人間は人間になったんだっていう話があるんですね。
火を使えなかった時、
当時というのは人は人ではなかった。
人は何を持って人になったのかというと、
火を使うことができるようになったからなんだっていうことって、
みんななんとなくどこかで聞いたことがあるような気がするじゃないですか。
火っていうのは自然界にあるもののはずなんだけども、
その自然界ではなかなか見られないもの。
これを人が使えるようになったことによって、
さまざまな食材の姿、形、硬さとか香りとか、
そういうものを操れるようになった。
変えることができるようになった。
つまりこれは自然界に手を加えることが、
よりできるようになったということが、
この火と人間の関係性なんですよね。
この火が使えることになったことによって、
何ができるようになったのかっていうと、
もちろん食事もできるようになったし、
あと農業とかで焼き畑農業とかができるようになったんですね。
焼き畑農業ってわかりますかね。
草っかでぐーっと生えた場所をですね、
一回火で全部燃やすんですね。
そんなことしたら自然破壊じゃないか、
なんて言われるかもしれませんし、
アフリカの方ではこの焼き畑農業が流行りすぎちゃって、
どんどん焼いてしまうものだから、
それが環境汚染につながってるとか、
それが地面がカラカラに乾いてしまうもとになっている、
なんていう話がどっかの教科書で読んだと思います。
この焼き畑農業っていうのは、
実はもともと大地を蘇らせるためにやるっていうようなことだったんですね。
一度この焼き尽くすことによって、
土の中のものとか土の上に出ているものすべてをですね、
もう根絶やしにして破壊していくんですね。
だけどそこに残るものっていうのは、
燃えた灰たちなんですよね。
その灰たちがまた土の中にいい栄養になってきて、
そこに新しい種が落っこちたりとかすると、
よく育っていくなんていうことがあります。
よく日本では花坂じいさんってあるじゃないですか。
花坂じいさんって灰を山の中で撒いていくことによって、
桜がどんどん咲いていくっていう、そういう逸話ですよね。
あれってすごく理にかなっているなと思っているのは、
灰っていうのは燃やしたものをですね、
やっぱり昔の人も自分の畑の中に混ぜたりとか、
山に返したりとかしてたんですよね。
そうすることによって、やっぱり一回亡くなってしまった、
その命っていうものが破壊されたものが、
また再生していくなんていうことがあります。
こんなことがあってですね、江戸時代とかになってくるとですね、
結構ですね、この喧嘩と火事は江戸の花なんていう話があって、
この火事、火がつくっていうことは、
もう江戸中が燃えてしまって大変なことになってしまうんだけれども、
しかしそこに一つの希望を見出していたっていう人たちもいたんだそうです。
それはね、変な話なんですけども、
今までものすごく稼いでて裕福だった人たち、
豪商とか商屋さんとかね、そういう人たちで、
しかもがめつくてね、もう他の人たちに全然施しも恵みはしませんみたいな、
そういう人たちがいたと。
でも江戸時代とかって木造の建物ばっかりだったので、
ひとたび火事が起こってしまうと、
どんどんどんどん燃え広がってしまいます。
だから燃え広がりを防ぐためにね、
ただの空き地とか原っぱ、広小路って言うんですけどね、
東京にも大崎広小路なんていう地名がまだ残っていますけども、
こういう広小路というものを作って、
そこでなんとか燃え広がらないように防ぐっていう、
なんでもない空き地を作っていたなんていうことはあります。
なんでけども、
あ、そうなんです、そうなんです。
ソランさんありがとうございます。
猫さんをお返しされたときもあれは炭でしたっけ?
使ってましたね。
ありがとうございます。
そうなんですよ。
あれは炭でした。
灰でもよかったんですけど、炭を使わせていただきました。
炭を使うことによって香りとかっていうものも吸収してくれたり、
それからそこの炭輪で顕微鏡で覗いてみると、
たくさんの穴がいっぱいいっぱい開いていて、
その穴の中に無数のたくさんの微生物たちが住むことができて、
その微生物たちがですね、
またその亡くなった猫のご遺体を分解してくれる働きがあるみたいなことでですね、
炭を入れさせていただいたんですけれども、
ソランさんありがとうございます。
そんなところまで覚えていてくださって嬉しいです。
そんなですね、ちょっと話が飛んでいますけれども、
人っていうのはその火事っていうのにも思いを馳せていたというか、
希望を抱いていたところもあったんですね。
燃え広がってしまえば、そのがめつかった豪商商屋さんたちがのきなみ潰れていくと、
のきなみ潰れたらですね、今度今まで虐げられていた人たちが、
新しい商売をするチャンスが生まれたりしていくんですよね。
そんなことがあって、人っていうのは火っていうものをですね、
何かを壊したり何かを失わせたり何かを取り除いたりするためにも使うし、
またそこから新たな希望とか命とか芽吹き、芽生えっていうものを期待する希望でもあった、
希望の光だったんだっていうような、そんなお話逸話が残っております。
江戸時代の火事の影響
はい、ということでですね、今人間と火の関わりをちょっとお話をさせていただきました。
まあ今本当にボタン一つで火がつくっていうことになっても久しいですけれども、
実はそこは火っていうのは自然からの借り物なんだよねっていうことは忘れちゃならないことなんですよね。
火は人が文明によって作り出したかのように今思えてならないですね。
子どもたちの中でも教育会の中でよく取り出されて言われることがあります。
火が熱いことを子どもたちは知らない。
火を燃やすことでよって作られることがあるっていうことを子どもたちは知らなくて、
ボタン一つで火はついてしまったりとか、IHのね、オールデンカの家庭とかになると、
もう火を見たことがないから火をパッと触ってしまうなんていうね、
キャンプファイヤーとかした時に火をわっと触ってしまって大火傷してしまうなんていうような話はよく聞かれるものです。
本当にこのね、火というのは人が作り出したものであり、自然なものではなく、
なんかこう人には猛威を震わないんだっていうようなことをですね、
案に思ってしまっている節がどこかにあるような気もするんですけれどもね。
はい、あ、あつしさんこんにちは。お邪魔してますということでありがとうございます。
ゆっくりしていってください。初めましてですね。
そうです、そらにゃん、石油ストーブも減ってますよね。
そうですね、豆油を使うとか石油を燃やすとかっていうことも減っていて、
今もう暖房でPで終わってしまってね、それで暖を取れるっていうようなことはよくありますよね。
僕あつしさん、僕も初めましてですね。ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。
嬉しいです。はい、ここまでいかがだったでしょうか。
人間と人との関わり、そして今失われつつあるものっていう話をしてきました。
もうちゃん自身この火っていうのはですね、すごく料理をするときにですね、
気をつけているというか意識を向けているところがあります。
レシピにですね、どんなに弱火とか中火とか強火って書いてあったとしても、
もうちゃんはそのレシピのですね、弱火とか中火とか強火っていうものを無視してます。
何をしているのかっていうとですね、おき火っていうのを目指してるんですね。
あつしさんありがとうございます。今のお子さんはキャンプファイヤーや焚き火ってしなくなってしまったんですかね。
ありがとうございます。ご質問いただきまして、もうちゃんはですね、4年前まで小学校教員を11年間してきたんですね。
その時にちょっとその時の経験なんですけれども、子どもたちの実体験の量っていうものは極端に減ってます。
本当に減ってます。実体験っていうのはその料理をするっていうのも実体験だし、
外で遊んで自然の中でゴロゴロするとか、あと川遊びをするとか水遊びをするっていうことも実体験ですけど、
こういう機会がうんとなくなっております。もちろん火遊びなんかももちろんないんですね。
どんどん減っていって、学校の中では実体験って詰めるのかっていうと、それがなかなか詰めなくてですね、
学校の施設の中で教科書とか動画とかを見て学ぶんです。分かった気にはなるんです。
でも全部がイメージの世界の話で本当にこうマッチで火を起こしたことがあるっていう子なんていうのは本当に少ないですね。
理科の実験っていうものもかなり減っていってると思います。
もうちゃんが勤めていた学校は理科の先生がものすごく頑張っていて、
毎日実験か観察か何かをする全ての時間が絶対にその実体験の時間が入るなんていうことがあってね。
小学校ではもう今やってない解剖なんかもやってました。こんな感じがありましたね。
ありがとうございます。でキャンプファイヤーとか焚火に関して言うと、移動教室とか臨間学校とかそういう時にキャンプファイヤーとかはやるんですけれどもね。
そうですね。やりますね。そういう時にはやるかなと感じですね。
子供の頃は火遊びして叱られたもんです。ソラニャンありがとうございます。
ソラニャン叱られてた。結構いい感じで遊んでましたね。素敵です。
実体験の減少
何の話だったっけ。そうそうそう。料理をしていた時の話ですよね。
冷え加減の話をしていたんですけど、おき火っていう考え方があります。
このおき火っていうのって何かっていうと、焚火とかをした後ですね。
焚火ってゴーゴーゴーゴー燃えるじゃないですか。
あの後火が静まって燃えかすしかないんだけど、何かところどころにまだ赤くちょっとフーフーフーフー内場とかで仰げば火が燃えそうな火が吹き出しそうなそんな状態のことをおき火と言います。
確かに強い火がゴーって出てはいないんだけれども、火は安定してるんですよね。
だから十分熱くて、そのところに鍋とかを置くとなかなかいい感じなんですよね。
結構炭火とかっていうのはそれを体現したものだと思っておりまして、炭って多くの火をゴーゴーゴー出るものじゃなくて、チリチリチリチリずっと燃え続けてくれるものなんですけれども、
ああいう状態をガスコンロでも表現をするということを考えています。
そうすると何をするかというと、チチチチチボってガスコンロを点くじゃないですか。
そしたら横から見て、その横から火が鍋とかフライパンの底に点くか点かないかそのギリギリのライン、そこを目指すんですね。
ギリギリ点かないっていうところを目指しています。
そうすると大体のガスコンロでいうと中火よりも弱くなりますね。
料理と火の関係
完全に弱いトロトロ火ではないんだけど、ちょっとだけそこから上げるっていうようなぐらいになっていきます。
するとすごい時間かかるんですよ、料理するのに。
全然見えないとか、煮物とかだったらいいのかなと思うんですけど、全然焼けないとか火が通らないみたいな話が出てくるんですけど、
この弱火っていうのが、弱火というかおき火って僕は呼びますね、あえてね。
っていうのが結構大事なような気がするんですよね。
っていうのは生き物たちが生きられない温度っていうのが確実に存在するからなんですね。
たぶんこの100度の熱湯の中に入ったら人間だって暑くてもう無理じゃないですか。
でもこの世の中、長野県の野沢温泉っていうところに行った時とかにですね、すっげー暑い温泉が湧いているわけですよ。
その温泉の温度って確か60度とか70度とかそんなんだったんですよね。
結構暑いよね。
普通のお風呂のお湯が50度いかないでしょ、40何度とかでしょ、ということを考えるとものすごく暑いんですよ。
でもこの暑いけども中に入っていようと思えばいられるような温度感っていうのが、
実はその生き物が生き物でいられる時間帯なんじゃないかな。
生き物は生き物でいられる温度なんじゃないかなっていうことを思うんです。
つまり命を失わないでいられるっていうそういう温度領域なのかなと思うんですね。
これが100度、120度、揚げ物をするみたいな温度になってくると、もうその中では生き物たちは生きることができないじゃないですか。
っていう風になった時にですよ。
っていう風になった時に猛ちゃんはできる限り煮るとか炊くとか蒸すとか、
その次にやるのが焼くとか炒めるとかなんですけど、
煮る、炊く、蒸す、この辺りでですね、何とか料理をしていきたいなって思っているんですね。
もうとろ火ですよ。
で、なんかこう肉を焼く、魚を焼くなんて言った時とかにはどうしてもやっぱりしっかりと焼きたいなっていう思いがある。
そんな時には弱火でずっとやってって最後の方にちょっと中火ぐらいまで持ってって、
でもそこからまた下げていくっていうね。
最後にちょっと中までしっかり火を通すというか水分を飛ばすというか、
そんなような工程を差し挟んで弱火の方にまた持っていくなんていうことをしています。
これがですね、実はその生き物とか食材の中にある命を絶やさないでいられる方法なのかなって猛ちゃんは直感的に思っております。
で、これはですね、古来から伝わっているやっぱり日本人のですね、持っているなんていうか食材とか食べ物への哲学っていうものがあるわけです。
日本の食文化の哲学
それを大事にしているんですけど、前も少しお話をしました。猛ちゃんたち人間はご飯を食べるときに何を食べているのかっていうことですね。
その食材を食べていて栄養をとっているなんていうふうにふと言われてしまうかもしれませんけれども、
古来日本人は栄養というような考え方よりもまず先にあったのがこの考え方だったんです。
それは生命エネルギーをとっている。
その生命エネルギーというのは言い換えるならば魂であったりとか、またそこに含まれる霊的なものだったりとか、
目には見えないそういう力がそこには宿っていて、それを僕たちの心の中とか体の中に取り入れるっていうようなものがありました。
厚木さんありがとうございます。
火加減マニアですね。嬉しいです。
いろいろ試してみてですね、結局お肉とかも弱火でじっくり焼くのがおいしいのかなとか、できる限りですね、
ガスとかよりも炭火の方がおいしいんだなとかっていうことに気がついてですね、
七輪とかをですね、買ってきてですね、その上で魚を焼いたりするようになりました。
かなり時間はかかるんですけどね、グリルで焼くってめちゃくちゃ早いですよ、やっぱり。
なんですけど、そんな感じでやってます。
そうですね。
何の話だったっけ?忘れた。
火加減の話をしていて、コンログリルの方が早いっていう話だったっけ?
中には魂っていうものが入ってるよっていう話でしたね。
そのことを日本では昔からこの古代語というか和語、日本の言葉として身というふうに呼んでたんですね。
あの三魂とかっていうのは、身っていうのは魂っていう意味なんですよね。
だから三魂っていうのは別にその魂を丁寧に言おうとしているっていうよりも、魂があるからこそ勝手に丁寧になるようなものであって、三魂の身なんですよね。
あとお野菜って言ったりとかそういう時、多分折ってつけますけど、漢字で書こうと思ったらやっぱりこの恩中の恩ね。
やっぱり三魂の身っていうふうに書いたりすると思うんですね。
これ昔は平仮名だったので、どういう字だったのかっていうことはよくわかりませんけれども、この魂とか身っていうものが食材の中にはあるんだと。
そしてそれを包み込んでいる見た目ですね。
皮だとかさ、果実の部分だとかさ、そういうものっていうものは空と言われていたんですね。
だからこれは僕たちの体の中にも当てはまることができてですね。
僕たち魂、三魂というものがあって、そしてそれを包み込むものが体なんですね。
体っていうのは空っぽの箱っていう意味なんだそうですね。
その空っぽの箱の中に魂があるから、僕たちは生きているんだよと。
この世の中でやっているんだよみたいな、ちょっとスピリチュアルみたいな話になっていきますけれども、本当にこの日本の中ではそういう伝承とかっていうものが伝わってきていました。
はい、そうですそうです。
命といういただくというお話をありがとうございます。
そうなんですそうなんです。
だからこの命っていうものをいただくっていうことを考えたときに、食材の中にあるその生命とか魂というものをどのようにして扱っていくのかっていうことがめっちゃ大事だよねっていうお話をしてきました。
さらにですね、料理とか火を通すとかっていうことってどうも人が自然を作り変えていくっていうような営みに聞こえます。
このね、やっぱり自然への関わり方っていうものが行き過ぎてしまうと何が生まれるのかっていうとですね、Aという食材とBという食材を合わせてCという料理を作るみたいなことが生まれてくるんですね。
これ何かというとですね、ちょっとちゃんと言えるかな。
例えばそうですね、カレーライスの話をしようかなと思うんですけれども、あそこにやっぱりお米がありますけど、お米の中に人参とかジャガイモとか玉ねぎとか様々な香辛料を全部詰め込んでぐにゃぐにゃに火をかけてですね、とろとろになるまで煮込んで、そしてそれを混ぜて混ぜて混ぜて、そしてカレーのルーというものが出来上がってくる。
それっていうのはもうここには人参とかジャガイモとかそのお肉だとかそういったものは入っていて感じられるけれども、それらがそれらとして存在感を示すものでは決してなくですね、カレーライスはカレーライスっていう風になっていくっていうことですね。
だから様々なものを組み合わせて新たなものを作っていくっていうことです。
これを言い換えるならばですね、文化って言うんですよね。
そう、自然の反対は実は文化っていうことでも言えるのかなと思っておりまして、火とかそういったものを使うことによって新たなものを作り出すっていうことで文化って言われるんですけれども、日本人古来の作り方とかっていうのはですね、食材と食材を完全に混ぜ合わせないっていう哲学があるんですね。
日本語の中でレシピとかを見ていると混ぜるっていう言葉って和食の中にあるのかなってちょっと思ったりもします。
もうちゃん的には少ないなって思ってますね。
本当にこの日本の文化のことを学んで、この和食とかのレシピを書かれている方って混ぜるとは言わず、和えるという風に言ってます。
その通りです。
素晴らしいです。
和えるですね。
和えるってどういう意味なのかっていうと、日本の和の国の和ですよね。和合の和なんですね。
ここっていうのは何となくこの一緒にいるんだけれども、それぞれの存在感っていうものが引き立っているような状態なんです。
例えばほうれん草のごま和えを作りますって言った時に、ほうれん草にごまをパラッと最後にこうやってかけたりすると思うんですけども。
そういった時にぐちゃぐちゃになるまでごまを全体に行き渡らせるまで混ぜますかって言ったら、たぶんしないんだよね。
ちょっとごまを上に乗せてちょっと軽くサッサッサッサって散らばらせるぐらい。
それってごまがいっぱいのところもあれば、ごまが少ないところもある。
これでいいんだよっていう感じですね。
だから同じ料理を食べていても、ごまが多いところもあればそうじゃないところもあって、一口一口味わいが実は違うのが日本の食卓だったんじゃないかとモウちゃんは思うんですよね。
これっていろんなことがありますよ。他にもね。
でも和えるっていうことってありますよね。
よくうちこんなの作っちゃうんですけど、無限キャベツとか無限ピーマンとか作るんですけど。
これ何かというと無限キャベツってキャベツにシラスを混ぜたりとか、それから塩昆布を混ぜたりとかするんですけど。
今混ぜるって言っちゃったけど、和えるに言い換えますね。和えるんですけど。
それをぐちゃぐちゃに混ぜて全体に塩昆布を行き渡らせるとか、全体にシラスを行き渡らせるんじゃなく、
なんとなくこうバサッと置いて、そのキャベツの中をシラスが泳いでいる感じ、塩昆布が浮いている感じっていうのを表現をします。
これが実は大事なことであって、人が最後まで全部手を加えて均質に混ぜるっていうのは、実は西洋の文明文化なんですね。
自然を作り変えていく、作り変えていってもいいんだっていう文化がそこの料理の中にも哲学として反映されていると思うちゃんは考えています。
でも日本の料理とかっていうのはそうじゃなくてですね、実は自然任せでいいんだっていうことなんですね。
自然との調和
土を山とか山盛りに砂山をゴーンと置いておくとですね、雨で打たれて砂山がどんどんどんどん流れていったりとかですね、それから風でどんどん削れていって、
やがてそのもっこりした、こんもりした砂山はなくなっていって、砂浜の中にどんどん空いていた穴がですね、埋まっていくっていうような現象が起こったりします。
これって道路とかを見ていてもそうで、車がいっぱいいっぱい通って道路がですね、ボコボコしてしまっているっていうところには何が起こるのかというとボコッと空いた穴のところにですね、どこからともなく風でですね、土が飛んできて土がですね、そこを埋めてくれるんですよね。
そしてそこから草とかが生えてきちゃうからまた人間たちは邪魔だとかって言ったりもするんですけど、自然界の中では自然と長い時間かけてこの等圧、等速、そして等間隔というかですね、そういう感じで同じ圧力になったり同じ速さになったり同じその高さになったりとかっていうことがですね、結構起こってくるんですね。
っていうことを料理の中でもぜひ取り入れてみたいなって思ったのがもうちゃんなんですね。
で、あえるっていうことは重力に従ってですね、勝手にその混ざりきってないっていうね、このあえただけの乗せただけのものがパラパラっと落ちていくなんていうこと、これもね、すごく自然の中の世界観を表現しているんです。
はい、いかがだったでしょうか。
まあね、まだまだあるんです。
あとはね、包丁の使い方とか食材の切り方とかね、そういうことも実は風の食卓、風の薬膳の中ではもうちゃんは哲学として持っていてですね、こういったものを大事にしてますよってことがあるんですけど、ちょっとここまでで40分ぐらいお話をしたので、そろそろ掃除に行かなくてはいけないので、この続きはまたにしたいなと思っておりますが。
はい、いかがだったでしょうか。
今日は風の食卓、日本にかすかに残る食材へのリスペクトなんてお話をさせていただきました。
まあ、これ第1弾としましょうかね。また明日とか明後日とか続き話せたらいいな。
もうちゃんは自然のお医者さんとして自然環境のお世話を結構させていただいて、そして地区150年の古民家に住みながら畑や田んぼをやらせていただいて、自分たちで食べるものぐらいは自分たちで作ろうぜっていう、まあそういうような暮らしをやらせていただいております。
そんな暮らしの中にどっぷりと身をたゆたえているところでですね、もうちゃん自身の中でほのかにこの哲学めいたものがですね、出てきておりまして、それでその風の食卓、風の薬膳、まあ今まで言われてきた薬膳とか、その令和の時代で言われてしまう薬膳というのは、とにかくスーパーマーケットに行って手頃にいろんなものが手に入るから、それで薬膳作れるんですよっていう話になっております。
そのさらに一歩、そのさらに一歩先に何があるのかなっていうと、やっぱりこの自然へのリスペクト、その食材一つ一つへのリスペクトがあって、そこに思いを馳せていくと、自ずと自分の台所への心構えというか、姿勢っていうものにつながっていくのかな、なんていうことを思っている次第でございます。
次回の予告と感謝
いかがだったでしょうか。最後まで聞いてくださった方は是非、いいねやフォローで足跡を残していってくださいね。
厚木さん、最後まで聞いてくださってありがとうございました。お腹が空いてきましたっていうことで。
お昼ご飯召し上がらなかったですか。まだだったんでしょうかね。
おいしいものを召し上がってくださいね。
もしよかったら次の回でもさらに風の食卓の第2弾っていうのをお話しさせていただけたらなって思います。
今度は食材の切り方とか食材のその装い方っていうもの、それからあとフライパンの中でその食材をどのように並べていくのかっていうこと、これも結構風の力とか空気の力を借りてやっているなっていうことがありますので、
ぜひぜひ聞いていただけたら嬉しいなと思っております。
ということでお時間をいただきありがとうございました。
空にゃん、こちらこそありがとうございました。
お相手は、児玉こまちプロジェクトのもおちゃんでございました。
最後にお知らせをさせてください。
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無料でございますし、それからもおちゃんが今手がけているこの児玉こまちプロジェクトの裏側のお話をさせていただいております。
ファンタジー作家、児玉こまちプロジェクトのもおちゃんでございました。
またお会いできることを楽しみにしております
今日も素敵な一日をお過ごしくださいませ
あなたとあなたの大切な人に森の精霊のご加護が訪れますように
あつしさんお疲れ様ですおかげさまでした
それではもーちゃんはお掃除に行ってきます