自然を知らなかった日本人
おっすおっす、おはようございます。こんにちは、こんばんは、こだまこまちプロジェクトのもおちゃんでございます。
昨日はお休みをいただきました。なぜかというと、スマートフォンが水没したから。
水没って言っても防水はついているのでね、別に壊れたわけでも決してないんですけれども、
なんとかスマートフォンもちゃんと乾いて、こうやってスマートフォンを使って配信ができるようになりました。
ということでですね、今日はですね、その昔、日本人は自然を知らなかった、なんていうね、お話をしてみたいと思うんですけれども、
まあこれ聞いて、どんな意味があんの?っていう話ですよね。
意味はない。
ねえ、これ意味があったら、ブリコラのサラダ仕立てではないと。
これを知って何かに生かすことができるとか、まあそういうことじゃないんですよ。
ブリコラのサラダ仕立て、まあいろんな話を知っておいてね、いつか誰かに話したり、まあいつか自分で気が付くことがあったり、
なんていうことがあればいいなと思って種をまかせていただいているというのが、このブリコラのサラダ仕立てでございます。
そうそう、今日もーちゃんはですね、その山椒のお仕事が終わったんですよ。
やったー!
今一時産業のですね、山椒組合っていうところで、今お仕事させていただいておりまして、
青み山椒ね、青い実の山椒、これ初夏の今の季節から旬だとかで出てくるんですけど、
私たちの住んでいる場所での山椒のシーズンは、もう今日でおしまい。
今日でおしまいで、それで全部もう出荷が終わったと。
そして今度はですね、乾燥実って言って、まあこれからですね、乾燥させて粉にしたりとかする。
そういうね、方に移っていくっていうような感じがありまして、
一つですね、一年で一番の繁忙期を超えたということで、ようやく晴れやかな気持ちでやらせていただいております。
でですね、この山椒を作るとか、まあその他の農業としてですね、作物を作っていくっていうこの営みっていうのは、
実は何なのかなと思うかっていうとですね、自然をコントロールしている人の営みだよね、なんていうことを思っているんですよね。
っていうのはですね、やはり今お米もそうですけども、とにかく値段を上げてで売っていきたいとか量を作って売っていきたいとかって言って、
そのためには肥料を使ったり農薬を使ったりして、まあそれが体に悪かったりせよね、悪いにせよ、そうでないにせよですね、
まあ様々な工夫をして人の手で自然というものを作り変えてコントロールしていって、そして作物を実らせていくなんていうことがありますよね。
まあこれはね、今の資本主義の社会の中でいたしかたないことでね、どうにかしてどうにかしてですね、こうやって作っていかなくてはならないので、
まあ仕方がないことですみたいなのも、まあね、僕たちはできる限りこう自然栽培をしていきたいよねーとかさ、自然のままがいいよねーなんていうことを言うじゃないですか。
じゃあこの自然って一体何なのかっていうことをですね、考えていく、ひも解いていくっていうのは今日のテーマなんですね。
昔ですね、ほんとその昔、自然というものはこの日本にはなかったんだよっていうお話から始めたいと思います。
いやちょっと待ってよと、日本ほど木がいっぱいでもりもりしてて、緑がねもっさもっさしている国なんてないでしょと、そんな風に言われてしまいそうですけれども、
実はですね、自然というのはこれ明治時代の後期に入ってきたものなんですね。
それまでには日本というものは自然というものなかった。自然というものを知らなかったんですね。
この自然っていう言葉がですね、実は日本で広まってきたのがこの明治時代の後期で、
その頃英語とか様々なですね、この言語というものが入ってくるというところだったわけですよ。
自然観の違い
で、この言語が入ってきた時にネイチャーとか、あとナチュレとかですね、こういう言葉がどうやって日本語で訳すのかって言った時に自然っていう言葉が入ってきたんですね。
じゃあこれね、昔はこの自然にあたる言葉がなかったのかっていうと、実はこういう言葉があるんですけども、
自然という言葉があるんですね。自然と書いて、同じ字なんですよ。漢字で自然と書くんですけど、自然と呼ばせてたんですね。
いやーこれですよ。自然自然自然自然と言ってたんですけど、自然という呼び方はなかった。
じゃあ自然と自然、どうしてこんなふうに区別されて読まれているの?親しまれているの?ということですね。
ここはですね、すごい深い深い意味があるということで、今日は皆さんでこれを探っていけたらと思うんですよね。
次年、日本っていうのはですね、今まで自然というものがなかったわけですね。
むしろ自然というものは自分の体の中にあるもの、内側にあるものというふうにして、仏教の中の世界では言われてたわけです。
むしろですね、自然というものは自分を包み込むものであり、そして自分自身は自然の一員であり、そして自然というものは自分自身であり。
今自然というふうに言ってたけど、もう全部次年という言葉で言い換えてください。
あ、ソラニャンこんにちは。ゆっくりしていってください。今日は自然のお話です。
はい、だからそれを次年というふうに言ってたんですね。
自分は次年の中の一部分であり、自分の中にも次年があり、自分の外側というか自分自身は次年そのものの一部なんだというような考え方が日本では古来からあったんです。
一方でですね、海外の方では何が起こっていたのかというとですね、
まずこの自然というものを捉えたときに、今お話しさせていただいた日本人の古来から伝わっているこの自然、自然観ですよね。
この自然の見方というものとは全くのって違うと、180度違うと言ってもいいんじゃないかっていうくらいのものが海外にはあったということです。
お、ひみこさんこんにちは。ゆっくりしていってください。ありがとうございます。うれしいです。
そうなんですよ。海外では一体何があったのかというと、まずですね、前回のライブ配信でもちょっとお話しさせていただいたことを復習がてらお話をしたいと思います。
まず海外は砂漠の文化なわけですね。はい、砂漠?日本が森の文化だとすると森の民だとするならば、海外は砂漠の民と言ってもいい。
この砂漠というものには四季がないんですね。四季、自然、季節、この季節がですね、4つも巡り巡っていくっていうのは日本特有のものであって、他の国にはなかなかないものです。
あっても浮きと換気の2つ、オンとオフ、オン、オフ、オン、オフみたいな感じなんですよね。
このオン、オフ、オン、オフだと、これね、人間そこにいるとどうなるのかっていうと、自然に自分が合わせていくというような日本的な考えではなく、自分にいかに自然を合わせるかっていうような考え方になっていきます。
これも真逆ですよね。日本はこの四季という時間のサイクル、時間とも言わないですよね。時の流れ、時のゆったりとしたリズムがあるので、ここに自分自身をいかに身を委ねていくのかっていうのが日本的な生き方だったんですよね。
ありがとうございます。日見子さん、先日はもぐりんで失礼いたしました。楽しいお時間でした。ありがとうございます。聞いてくださってたんですね。嬉しいな。ありがとうございます。しかも楽しいなんて言ってくださって、今日も頑張ってみたいと思います。
四季というこの時間の流れの中に身をたゆたえる、これが日本的な考え方。しかし海外ではその逆であって、自分たちにこの激しいオンとオフしかないこの自然というものをいかにして合わせていくか、さらにこれを突き詰めて考えていくと、まず信仰というものがあるわけですよ。
信仰ですね。これは宗教観とでも言ってもいいかもしれませんけど、元祖このキリスト教ということの考え方はですね、神様がいろんな生き物たちを作った。そして大地を作っていった。この地球というものを作っていった。世界を作っていった。そして最後にこの地球すべてを管理するものとして人間を作った。そしてこの人間にすべてのものの管理を任せた。
そしてここにあるものはすべては人間そのものが利用していいんだというような考え方がそこの中に含まれていて、織り込まれていて、そのような聖書の中のこういった一節があり、それをキリスト教の方々が解釈をしていくんですね。
自然というものは僕たちが作り変えていいんだ。自分たちがコントロールしていっていいんだというようなことになっていき、どんどんどんどん開拓をしていくというような歴史観が生まれてくる。自然観が生まれていきます。だから海外の方にとってこの自然というものはですね、コントロールする対象なんですよ。
資本主義と文化の変化
自分の外側にあってそれをコントロールしたり、自分が利用していくというそういう対象として描かれているのが実はこの自然、海外で描かれている自然というものなんですよね。いかがでしょうか。ここまでバッチリ抑えましたか。どうですか。
日本はいかにしてこの日本的な考え方としては、この自然という中に自分のリズムを合わせていくかということです。そのためには自分の中にある自然というものも大切にしていくということが大事なわけですが、海外はですね、結構客観的にその自然というものを捉えて、自然というのは自分とは違うものであり、それをコントロールしていくというところから始まっているということなんですよね。
とても面白い内容です。初めまして。マジか嬉しい。ありがとうございます。ミニョーリタチャンネルさんありがとうございます。フォローさせていただきます。嬉しいです。ゆっくりしていってください。
こういう自然感の始まりがあったので、なんか僕たちはいいのかな。これでっていうような思いが資本主義の中であるじゃないですか。それありますよね。それありますよね。
いっちーさん初めまして。こんにちは。よろしくお願いいたします。ありがとうございます。こちらこそです。よろしくお願いいたします。
嬉しいな。こんなにいっぱい聞いてくださってるな。そうなんですよね。
自然をいかにして自分たちで利用していくのかっていうことが海外の思想、西洋の思想だからこそ、その資本主義っていうのが、お金とかを追求していくと、経済を追求していくと、自然を守ることができないとか、自然を維持することができないなんていう話になっていく。
だから今さ、わざわざ持続可能なSDGsみたいなものがさ、こうやって出てきてるわけですよ。これがね、なかなか日本では当たり前でしょ、当然でしょって実は思っていたけれども、それってわざわざ言うべきことなんだなっていうのを実は一周回って海外は学んできたっていうことなんです。
そしてその波の中に私たちもいるっていうことなんですね。実は日本人っていうのは海外の方々に持続可能でこういうことだよっていうことを伝えられるような役目役割、そして力パワー能力っていうものはすでにあると思うんだけど、でもね文化っていうのは60年です。60年あればすっかり変わってしまいます。
山から離れてもう都会の中で人が60年暮らしていけばですね、そこで文化が一気に変わっていっちゃうんですね。今まで大事にされてきたもの、今まで山の中で森の中で動物と一緒に暮らしてきた、そういった文化っていうものがすっぽりなくなっていってしまって、いや虫怖いとかね。
土付きの野菜、土が付いてる野菜なんて汚い嫌だとかね。そういうことになってくるんですよね。綺麗に洗われている野菜じゃなきゃ嫌だよとかさ、形が整っているものじゃ嫌だよとかそういうことになっていくっていうのが、実はこの60年という結構長いようで短い、あっという間に変わってしまうそういう人の感覚なんですよね。
いや今こそ日本人ね、昔のこの自分たちに備わった感覚取り戻そうぜなんていうことを僕は思うわけですけれども、まあまあ僕はね何か信仰とか宗教とかやってるわけじゃないので、ただただ科学的な経験科学からこういったものを話させていただいているところでございます。さあさあさあさあ、それでです、そこでなんですけれども、このね、次年というものはとにかく日本の中にはずっとずっとあったが、
明治の後半になって初めてこの自然というものが言葉として入ってきた。言葉が入ってくるというのは概念が入ってくる。そしてこの明治の後半あたりからですね、どんどんどんどんこう西洋文化に追いつけ追い越せっていうものがあって、戦争の時代があってね、どんどん行こうぜ、発展していこうぜ、成長していこうぜ、拡大していこうぜっていう時代に突入していくっていうのが日本なんです。
そこで、この自然というものがですね、僕たちの心の中、精神の中にドバッと入ってきて、そして今までの次年というものがすっぽりなくなってしまうそんな瞬間がこの歴史の中であるんです。
これがですね、1960年代と言われています。僕はまだ生まれてません。生まれていません。
1960年代を生きてきた人にぜひ聞きたい。でも僕はこうやって文献を紐解いたり、人と話をしながらですね、こういった話を聞く1960年代、日本では一体何が起こっていったのかという話です。ここでですね、始まったのが新幹線です。そしてその後に高速道路が走ります。
そしてオリンピックが開催されます。この時代は何があったのかっていうと、高度経済成長期なんです。経済、みんながね、経済というものをすごく崇めていくようになった。お金って大事だよねって思うようになった。お金様っていうふうに言うようになった。お金というものはもっと昔からあって、お金のこと大事だよねっていうのはずっと文化としてはあったんだけれども。
しかしこの経済というものがあたかもこの世界を支配する神様のようにあがめるようになっていくんですね。だからその日本人がですね、めちゃくちゃ働くようになったっていうのはもうこの時期からなんじゃないかなと。
昔から日本人は勤勉でマメで一生懸命農作業をコツコツと堅実にやってきたっていうような歴史があった。だからこそこのですね、高度経済成長になった時にどんどんどんどんこの会社でのですね、ものづくりから始まって様々な経済活動っていうものがうまく回り始めた。うまく日本人にマッチした回り始めたんだということなんですけれども。
ただ、ここでですね、自分の中にあった自然というものがなくなり、代わりに経済というものが入ってきたということがあるわけでございます。はい、いかがですか。こうやってですね、日本の考え方思想というものが一気に変わった変換点というのが1960年代に訪れたということなんですね。
出稼ぎと農村文化の変化
今、僕はですね、高知県の山奥に住んでおりまして、そこでですね、様々に集落のおじいちゃんおばあちゃんからお話を聞くんです。そのやっぱり1960年代あたりの頃でしょうかね。
あの、その頃ですね、何が起こったのかっていうと、出稼ぎがめちゃくちゃ増えたんですね。これまで集落の中でみんなで農作業をしていたっていうこの文化がやっぱり明治の時代に入ってからもまだまだあったんですよね。
で、その中ではお金というものはあんまり使われずにですね、それよりもブツブツ交換とか、いっぱい大根取れたからね、これ大根どう?とかっていうこういう交換、じゃあじゃあさ、うちでちょっとお米取れたからどう?とか交換するというようなこの文化が結構あったんですけど、ここに来てですね、子供たちがどんどん出稼ぎに行くようになっていった。
で、たまの休みにちょっと帰ってくるくらいになっていって、農村の文化っていうのはそれでどんどん廃れていくわけですね。
そうなっていくと、どんどんこの田舎というところにも経済というものが入り込んできて、どんどんどんどん入り込んできて、この農業、季節とともに生きていく、四季とともに生きていく、自然とともに自然とともに生きていくというような世界観がなくなっていくということですね。
あ、はい、実田さんありがとうございます。高度経済成長期は海外文化が入ってきた時期なのかな?面白いですね。ありがとうございます。嬉しいです。
いや、日本というのはずっと海外に学んでいこうとしてきた文化だと僕は思っています。
例えばその古くはですね、中国ですよね。中国から学ぼうと言って、県随市、県投市、昔のですね、中国に人を派遣してですね、留学生とか行って派遣して、そして文化を持ち帰ってきてもらうなんていうようなことがありました。
それから何ですかね、その次は韓国とか朝鮮半島からもたくさんの技術とかが入ってきてますよね。
日本のお米作りっていうのは、古事記とか神話の話ではですね、神様が、ににぎのはやのみことという、農業の神様が伝えたことになっておりますが、古くはですね、その中央線半島の方から回ってきたんだっていうような説がありますよね。
それからその後もどんどんやっぱり海外欧米に追い越せだったんですけども、日本ってね、ちょっともしかしたら自信がない国だったのかもしれないなと誇りはあるんだけどね。
だけどやっぱり海外から学んでいかなきゃっていうような、それこそ勤勉だったのかもしれませんね。
人から学んでいこうっていうものがいっぱいあったんだと思います。
その時に高度経済成長期にやっぱりオリンピックをうちでやる、開催するっていうような時にですね、うちは日本は世界に誇るべき文化があるんだっていうふうに言うんですけど、
その世界に誇るべき文化っていうのは、この西洋の文化の中でうちは進んでるよっていうようなことを見せようとしたんじゃないかなと僕は思うんですね。
日本からのずっとある古来からの文化文明、京都とか江戸とかさ、はたまた農村の方で培われてきた文化文明を伝えていくっていうよりも、うちも車バンバン走ってるぜとか、うちも高速道路、新幹線走ってるぜみたいな、そういうことで人たちみんなに技術をアピールしようとしてきたっていうことなんじゃないかなと思いますね。
それにありがとうございます。季節というものの基準も変わってしまったかもしれないですね。はいはいはい。季節というものの基準って、それはもうちょっと詳しくもしよかったら教えていただけたら嬉しいんですが、その日本ってこの今、春夏秋冬の春夏秋冬の4つだとかって言われてるけど、実はもっともっとあるんですよね。
24世紀なんていう言葉もあるし、もっともっとあるんですよ。本当はもっと24以上も季節っていうのがあって、2週間に1遍ぐらい暦が変わるんですよね。
虫がうごめくみたいなとか、月が出るとか、そういう感じでどんどん草が発芽するみたいな、よくわかんないけども、僕はあんまり詳しくないんですけども、そういう文化があって、それがまあ今四季とかっていうふうにふっとまとめられてしまってとかね、様々ありますよね。
面白い内側から外側に移行したのですね。そうです。ありがとうございます。がっていただきまして嬉しいな、これ。そんなことがね、実はあったわけですよ。
この高度経済成長期を境に僕たちの暮らしはどんどん変わっていったと言っても過言ではありません。テレビとかさ、クーラーとかさ、それから冷蔵庫とかさ、洗濯機とかさ、そういうものもさ、みんな家庭に1台ずつ出てくるようにもなってくるしね。
っていうようなことがあります。日本人の自然っていうのは、でも今でも残ってるんですよ。自然という言葉はこのね自然所っていう作物ご存知ないですか。自然所っていうのはさ、あのとろろ芋みたいなもので擦り下ろすとネバネバーってするアレなんですけど、自然所っていうのはね。
じゃあさ、長芋とかヤマトイモって言われているような他のお芋と何が違うんだよ。全部ヤマイモみたいにヌメヌメしてるやつでしょって一括りにされてしまいそうなんですけど圧倒的に違うんですね。全部今僕が言った自然所もそれから長芋もヤマトイモも全部ヤマイモの中のグループの中の一つ一つの品種です。
でもこの自然所というのは栽培してないんですよね。栽培ではなくて。そうです。イッチさんその自然所です。あ、そうそう72個、72個に分けられるとも言いますね。それそれそれが言いたかった。イッチさんありがとう。そうですそうです。
自然所はですね、栽培をしてなくってただ単に山の中に生えてるんですよ。自生してるっていう言い方って通じますかね。勝手に生えてると。動物に置き換えると野生ってやつですね。これが自然所っていうやつですね。
自然所って別の書き方をすると、この今イッチさんが伝えてくれたこの所っていう字ですね。この字もが今一般的ですけど、生まれるとか生きるとかこれで自然所、自然所っていう風にも読むんだそうで、もう自然に生えているもの、自然に生きているもの、これを自然所という風に言ってたんですね。
だからまさに人が手を加えない手つかずのものっていうような意味がそこには込められているんだよっていうことですね。
あ、空にありがとうございます。カレンダー、時計中心な感じ社会のベースというのかな。伝えにくいな。ありがとうございます。
これですよ。この時間って話がもうどんどん膨らんできますね。時間とかっていうのって日本人の中には実は存在してなかったよねっていうことは僕はいつも声を大にして言いたいなと思っています。
で、今僕が普段日々生活をしているとそれすごく感じるんですけど、農業をやっている人たちっていうのは朝明るくなる前から行くわけですけど、でもちょっと日の出がね日が昇ってきたなと思ったらすっと起きてもう仕事に行くと。
それ時計を見ているわけじゃないんですよね。もう日が沈みそうになったらはいおしまいとかって言って帰っていくなんていうことがあって。もう時計なんか見てないよねっていうことですね。
そういった自然の中での時間間隔って言うんですね。で、時っていう言葉ってじゃあ語源はどこにあるのかっていうことですよ。時って何ですか。時って何ですかっていうことなんですが、もともと時は月から出てきてます。月なんですよね。月です。
月が満ち欠きするように月が昇って沈むようにこの月というのがを見て人はこれまで日本人は特にですね。ずっとずっとこの時間の流れ時間と言うんでしょうかね。時の流れというものを感じていたんだということなんですね。風流だよね。
これが大陰歴ってやつですね。影って書くやつですよね。でもこれが太陽歴に変わってきてお日様が昇るとかそのお日様の周期によってこの時計の時間の間隔っていうものが作り変えられてきていって。さらにこの工場の仕事っていうものがどんどん広がっていくにつれて。
みんなで同じ時間を共有しなきゃダメだよねって言って時計というものが大活躍されてみんなどこに行っても時計を見て行動するようになったということでございます。手を加えていない自然を太陽でなくて月。
これは何かこう手を加えていないものがいいもののようにして捉えられがちなんですけど。ここがですね。すごく今の僕たちを葛藤に導いてくれるようなですね。葛藤に導くやって何が正しいのとかって言っていくような感じになっていくと思います。
手を加えないのがいいんだ。だから人はいない方がいいんだとかって言って人が生きていることを悪にするっていう考え方はもう行き過ぎかもしれないけども、これ今年やかにある話です。
人が適切にそこに入っていって、それで何かこう自然の中でうまく付き合っていくというか、自然の中で自分がその流れとかに身を委ねていくような感覚。これも一ついいよねとか。
例えば僕が今住んでいる里山というところは、自然と動物と植物とそれから人がみんなが一緒になって過ごすことができる場所というふうに言っておりまして、ここには適切に人の手が加わっているんですよね。
自然との関わりの比較
人が手を加えることによって、そこで生きることができる動物とか生き物というものがやっぱりまた増えていくっていうこともあって。これ面白いのが、今、西洋対東洋、日本対欧米みたいな感じで話をわかりやすいので進めてきたんですけど、欧米の中にも、実はこの日本と同じようなシンパシーを感じるような考え方っていうものがあるんですね。
これはネイティブアメリカンという方々ですかね。そういった民族の方々がずっとずっと自分たちが持っていた考え方が感じ方があります。
時間とウルウド子の調整もある意味、太陽中心なのでしょうか。
ウルウド子って時間調整っていうことですよね。太陽だけを追いかけていくと少しずつ時間がずれるから、4年に1回はこうやって1日儲けていきましょうなんていう話になったっていうことですよね。
イッチさんのこの角度に僕も答えていけたらいいんですけども、研究しときます。ありがとうございます。太陽中心なのでしょうかね。そうだかもしれませんね。
インディアンの話をしようとした。ネイティブアメリカンの話ですよね。ネイティブアメリカンの中の話で、この自然というものがやっぱりあってね。
この自然の中には少しずつ一つ一つにやっぱりスペリットが宿っているんだっていうことです。これは日本の中のこの精霊信仰っていうんでしょうかね。アニミズムっていうものってすごく打ちかしいものですね。
この考え方が日本でもあるんですけど、僕たちご飯を食べる。これご飯を食べてる時に一人一人やっぱり考えているものが違って栄養をとっているっていう人もいますね。だから何を食べててもいいんだけど栄養さえ取れてればOKなんだっていう人はですね。
お菓子のカロリーバーみたいなやつとかさ、そういうのとかを食べてればOKとかサプリメントを食べていればOKなんていうふうになる考え方ですよね。なんですがインディアンのネイティブアメリカンの方々や日本では古来から何を言っていたのかっていうと食事というものは実をとっていくものなんだっていうことなんです。
実っていうのは何かって言うと、見たまってかって言うじゃないですか。魂のことを丁寧に言うのに実っていう字、恩、恩中の恩ですよね。なんていうのをつけたりするんですけど、この実っていうのが魂っていう意味だったり、神様の実だったり、精霊という意味だったり、それから命そのものだったり、こういった実というものなんですよね。
そしてその実を僕たちは体の中に入れて、その生命のエネルギーを持って、僕たちはまた新しい命を自分の中に取り入れることによって活動していくんだっていうようなことが言われておりました。
だからネイティブアメリカンの方々も、それから日本の方々も同じようにそれを言うと思うわけですね。でも日本ではですね、でもではないよね。日本ではその実を包んでいるものを殻と言うんですね。殻と言うんですね。だからお米一粒食べていて、お米が自分の中で入ってきていいなって思うけれど、日本人はお米一粒の中に実っていうものが入っていて、その実を包んでいる白いお米は、
殻なんですよというような考え方がありました。そしてネイティブアメリカンの方に話を戻すとですね、そのネイティブアメリカンの方々は自然の適切に手を入れていくというか、人の役割って何なのかっていうとですね、これはそのネイティブアメリカンの方々はキリスト教徒がそういう信仰ではなかったわけですよ。
もう一番最初です。本当に初期の初期の初期ですよ。そうではなかったんですね。もうネイティブアメリカンの方々は何を大事にしていたかというと、私たちの使命、人間だけができる使命というのは、すべての生き物や植物たちをお世話することができるんだっていうことだったんですよ。コントロールするという言葉はここにはなくて、お世話をするっていうことだったんですね。
人がいて救われる動物がいる。人がいて救われる虫がいる。鳥がいる。生き物がいる。そして植物がある。そして人がいて救われるその土があるっていうことだったんですね。本当に自分自身が自然の中に一体となって暮らしている人たちは自分のことを卑下しないんですね。
自分自身はこの自然の中にあって悪影響も害でしかないみたいなそういう言い方ではなく、私たちはこの中でこの自然というものを大切にしていくそういう考え方があるよっていうことをネイティブアメリカンの方々は思っていたわけです。これは日本とはほんの少し違うような気もしますね。
日本はさ、もっともっと包まれているっていうような感覚だけれども。でも僕ね、このネイティブアメリカンから学ぶことってすごくあると思うんですよね。そして海外の方々も今こそネイティブアメリカンから学ぶこともあるし、日本人から学ぶこともあるし、みたいなことを今僕は思っているところでございます。
文化の変化と持続可能性
ミニオリタさんありがとうございます。そもそもウルード氏も忘れていました。知るきっかけ楽しいですね。見たまイコールみ、みになる。そうなんですよ。そうなんですよ。だから僕たちも体のことをみって言いますもんね。
そうそうそう。だから僕たちっていうのはね、その食べ物の中に入っている身っていうものが大事なんですよっていうことを昔からすごくそれってことは言い伝えとして伝承としても言われてきたよってことですね。いや、こういう文化がなくなってきてしまっておりますよね。
話は1960年代に戻るんですけど、1960年を境にもうこれがなくなってきてしまっているということでございまして、そこから日本はどんどんどんどん自然から離れていくというか、自然というものが自分の中からなくなっていき、そして自然から離れていくっていう生き方を選んでいくようになってしまったのかなというのが今の現在地です。
そして海外の方々は、今持続可能だとかって言ってるからなのか、それとも稼げるからとか、お金になるからだとかそういうことなのかなと思うんですけども、そういうこともあるかなと思うんですけど、今本当に日本の中に入ってきていて、入ってきて、この日本の中の手つかずとは言わないけども、豊かな日本人が今まで先祖様が守ってきた自然の中に入ってきて、
守ってきた自然というものをどんどんこう場所を買っていったり抑えていったりしているっていうことがあるなと思います。
昨日なんですけど、僕、夜珍しくニュースを見ていて、テレビを見ていてですね、富士山の見えるリゾートホテルを中国の方が買ったんだという話だったんですね。
富士山がそこからバーンと一望できる、すごい景色なんだって言って、でもさ木って成長しますよね。
でね、やがてね、富士山が見えなくなっちゃったんですよね。
そしたらこの木を切りたいって言って、その土地の所有者さんにですね、掛け合っていったんだそうです。
でもね、やっぱり土地の所有者さん、その木ってすごく大事なものだから切りたくないっておっしゃったんですね。
そしたらですね、その中国のオーダーさんは自らですね、業者を呼んでそこをバツッと切ったりとか、
あと木にですね、穴を開けて除草剤を流し込むとか、そういうことをして木を排除するっていうようなことをしていったんだそうです。
全部排除しきれる前にですね、今回逮捕されてしまったということだったんですけれども、こういうこともありました。
僕たちって本当にこう、今まさにですね、お金というものがなかった時代から、なかったわけじゃないけども、
そういう文化が僕たちのことを支配してなかったその時代からずっとずっと守ってきた、
先祖様が守ってきたその森とか山とかっていうものをどんどん今手放そうとしてしまっているっていうのがこの現在地なんですね。
そらにはなんちゅうことを、これね、僕ね見た時にすごいねショックだったんですね。
あの切るとかっていうのは、まあね、あるのかなと思って、除草剤を流し込んじゃうっていうのは、これはね、やばいなと思いましたね。
経済活動と自然の関係
言葉はちょっとわずいかもしれないけど、やばいなと思いましたね。
結構SNSとかを見てて、僕なんかは結構農業とかさ、庭いじりとか土いじりをするから、
どんどんこの農業テクニックみたいなものとかがいっぱい入ってくるんですよ。
で、その中に竹で今困っている人たちがいっぱいいると、竹はどんどんどんどん増えていくからね。
だからその竹を一本一本切るなんて大変だから、じゃあどうやったら簡単に竹を根絶やしにすることができるのかっていうような、
もうライフハックみたいなですね、動画とかが流れてくるんですね。
それはもう本当におぞましくって、竹にドリルで穴を開けて、そのドリルで穴を開けたところに除草剤を流し込んですね。
これで除草剤を流し込むとその竹は枯れるんですけど、竹っていうのは根っこでつながっているんですよね。
新しく何かこう種を落として増えるっていうよりも根っこでつながってて、根っこでどんどん増えていくんですね。
だからその根っこが除草剤によってもし枯れて犯されてしまったら、周りから生えてくる竹の子はもう食べることができないですね、みたいなことがあって。
いやでもね、こういうのってさっき言ったことですよ。
僕はそれまずいと思うし、やんないでほしいと思うし、今すぐ殴り込みに行きたいぐらいの気分になるんですけど。
でも自然というものは管理する対象なんだって、最初の話に立ち返りますけど、思っている人たちはいるんですよね。
そういうふうに思っている人たちにとってはそれは正義です。
だってそこが竹ではびこっていて、人のためにある土地を人が使えなくなってしまったら、それは神様の意向にそぐわないことじゃないですか。
人のために全てが与えられているのに、人が利用できなくなったら、それは神様の意向に反することだっていうふうになったりとかすると、それはもう疾患とかそういうことになっていきますよね。
まあこれお金の話だけじゃない何かがやっぱりそこにあるなって思いますね。
あ、ハラペコハッチさんこんにちは。嬉しいです。ゆっくりしていってください。
ミノリタさん、よくって何もよくならないんだなあって。
本当にね。でね、その日本人って僕すごい素敵だなと思う文化があるんです。
それが樽を知るっていう文化なんですね。
やっぱりこのくらいで自分はいいなって思うっていうことが大事ですね。
もっと自分はできるはずとかもっと成長できるはずとかもっと欲しいとかってなったときにすごく自分自身を見失ったり、また自分自身を見失うというか自分の中にあるそれこそ自念を見失うってやつですよね。
自念を見失うっていうことがあるような気がしますね。
僕たちにはやっぱりまだ遺伝子のDNAのどこかに自念というようなものがあってさ、その自念というものをどこか探してるんですよね。
だから僕たちは休みの日になると山の中に行きたいと思うし森の中に行きたいと思うし、時には海に抱かれたいと思ったりするじゃないですか。
でもそういうことっていうのはやっぱり自分の中にあるこの自念というものが呼んでるんですよね。
こうしようとしてるんですよね。だからこれ気づけようって言ってるような気が僕はしています。
だけど何か時にその欲とかそういうものには目にくらんでしまってどんどんどんどん開発とかをしていってしまう。
今そのAIとか僕もAIを使うので人のこと言えないんですけども、AIを使ったりとかするのにはたくさんの情報処理するからデータセンターが必要だってなってですね。
この前ですね、北海道の方で今まで誰も切り開いてなかった森っていうものを全部切り開いてですね、そこにめちゃくちゃ大きなデータセンターを作るんだっていうようなことが決まって今ますます進んでおります。
僕の仲間もですね、それに1枚噛んでいて、やだ、それやることは仕方がないかもしれない。人間がね、これから経済活動をしていくためにも、それから発展していくためにも大事かもしれない。
だけどその前にここって本当に立てていい場所なのかっていうことを調査しましょう。徹底的にって言ったのが僕の仲間でね、僕にいろいろそういった情報を教えてくださっているっていう方もおりますので、
みのりたさんがさっきおっしゃってくださった欲って何も良くならないんだなあっていうこと本当にね、欲によって僕たちっていうのは成長もしてくるし豊かになってきたしっていうことがあるだけだけど、ここから先は何かこう満足したからここらへんでいいかなとか、他の人に譲ろうかなとか、そういうことができていくっていうことが大事なのかなって思いました。
日本人と自然の関係
なんかこんな話をしてしまったけど、すいません、なんか説教っぽくなってしまいまして。ということでですね、今日はその昔日本人は自然を知らなかったという話をさせていただきました。何の役に立つのかわからないお話でしたね。
でもですね、これが日本の中でまことしやかに言われてきたこと、まことしやかというか本当にこれが日本の中で失われてしまった文化としてあったんですね。
これは僕が足を使って調べて、そして本を読んで調べて、そしてまあ確からしいことをお話しさせていただいております。
というようなことでございました。このシリーズ結構ね、なんかご好評いただいているようで、今日も最大10名の方が聞いてくださって本当にありがとうございます。
そしてコメントをいただいたのがですね、嬉しいですね。いつもありがとうございます。そらにゃん、ひみこさん、そしてみにょりたさん、いっちさん、それからはらぺこはちさんですね。本当にありがとうございました。
また、もうちゃんのファンタジー作家としてのこの自然の見方、この世界の見方っていうものをまた伝えさせていただけたらなと思っております。
今日は聞いてくださってありがとうございました。お相手はこだまこまちプロジェクトのもうちゃんでございました。またお会いできることを楽しみにしております。
今日も素敵な1日をお過ごしくださいませ。そうそう、もうちゃんの配信の後、この後の概要欄のところにメールマガジン置いておきますので、もしよかったらご登録いただけたら嬉しいです。ありがとうございました。
あ、みにょりたさん、ハートプレゼントありがとう。嬉しい。マジか。嬉しいです。ありがとうございます。