時間の感覚と文化
おっすおっす、おはようございます。こんにちは、こんばんは、こだまこまちプロジェクトのもおちゃんでございます。
今日はですね、僕は朝から一日を通して、樹木医、木のお医者さんになるための研修会に参加をしてきます。
なのでね、このね参加をさせていただくのはすごく楽しみにしていたので、一日しっかりと明けたいと思いまして、
今日のね配信は前日に収録をしたものとなりますので、ご承知をお聞いただけたらと思います。
まあ誰も困らないと思うんだけどね、ライブ配信ではなく収録でお届けをしたいと思っております。
先日、僕ですね、森の民と、それから砂漠の民と、海の民の時間間隔の違いっていうお話をさせていただいたんですよ。
住んでいる場所、まあそれがね地形がですね違っていることによって、僕たちに与えてくれる文化とか感覚とか感性っていうのがありますよねって。
砂漠の民っていうのはもうずーっとずーっと地平線まで見えていくような感じで、時間間隔もずーっとずーっと一直線につながっていくようなものなんですよね。
そして、森の民、僕たちのような森の民っていうのは、実はその輪廻転生というね、こう回帰的っていうんですよね。
くるくるくるくる回っていくような時間間隔の中におりまして、しかもこの回っていくっていうところの中には上向きの下向きの縦型の時間間隔っていうものも持ち合わせている。
だから、たった1分の中にすごく大切な意味が凝縮されていったりもするんですね。同じ1分でも何もなかったなって1分もあれば、すごかったよねって1分もあるみたいなそんな感じもありまして。
まあ時間間隔というのはいろいろあります。海には海の時間間隔寄せては返すというものもあったりするんでね。結構大らかです。
日本の時間感覚の変遷
さて、今日はですね、日本の中でこの時間というものがどのように移り変わってきたのかというようなことをお話ししたいと思っているんですね。
では始めていきましょう。この番組は色鉛筆でファンタジーの世界を描く色鉛筆画家の松梨花さんを応援しております。松梨花さん、いつもいつもありがとうございます。
さて、今日は時間のお話パート3とかそれぐらいでしょうかね。
ねえ、もーちゃんはファンタジー作家でございまして、様々な空想のお話などを日々日々自分の頭の中で、そして展開したものをですね、まとめたりとかしているわけなんですけれども、
その裏にはやっぱり取材をしている、調査をしているっていうことがありまして、この番組ではですね、もーちゃんが取材したこと、調査したこと、それからまた自分自身の経験に基づいたことをね、ギュッと込めて披露しているということなんですね。
もーちゃんは4年前ですかね、この高知県に東京から移住をしてきたんですね。そしたらね、ものすっごく時間の流れっていうのがゆったりだったんですよ。本当にゆったりで、あれって、確かになんかね、密度としてはですよ。密度としては、東京の密度めちゃくちゃ濃いんですよね。
1秒間の中で、1分間にしようかね、1分間の中で自分の中に飛び込んでくる情報量の多さ、めちゃくちゃすごかったですよ。
学校教員をしていて、その学校っていうのはね、もうとにかく音で満ち満ちているんですよね。だから向こうでね、先生先生って聞かれたら、こっちでも先生先生って呼ばれて、もういろんなところからもうめちゃくちゃいっぱいのですね、この先生コールの嵐を受けてね、それを一つ一つ対応していくので、本当に大変だったんですけど。
それだけ自分の中にですね、いくつものグローブですかね、キャッチャーミットみたいなものを構えてですね、いろんな情報を、よっしゃバチコーイみたいな感じでね、キャッチしていけるようにしてたような気がしています。
だから田舎と都会を比べて、もうちゃんが思うものなんですけど、時間の密度の濃さで言うとですね、都会はめちゃくちゃすごかったなって思ってます。まあ仕事にもよるんだと思うけどね。で、今田舎に行ったらですね、本当に空白の時間がめちゃくちゃあるんですよ。
でね、このラジオを収録している今日1日、雨が降ってたんですね。だから屋根があるところでね、もうちゃんはね、ハンモックに揺られながら読書をしたり、それから本の執筆をしたりしてたんですけど、そのね、外でハンモックに揺られているので、近くにですね、地域猫ですね、猫ちゃんがですね、やってくるんですね。
で、ずーっとその猫を見つめながら仕事をしたり、読書に勤しんでいたわけです。そしたらね、その猫、本当にね、興味深いなと思ったんですけど、マジで静かなの。
猫って歩くときもさ、本当に音もなく歩くしさ、それからびっくりしたよ。狩りの現場に出くわしちゃったんだけどさ、バッタがぴょんぴょん飛んでたわけよ。で、そのバッタをパッて取ってさ、食べるんですよ。びっくりしたよね。
バッタを取って食べるんです。でもそれも音一切ないんですよ。で、そのバッタを食べている音って、何回もわかんない、バリバリって音がしそうなものだけど、その音すらも立てない。すごく繊細に生きているのかなと思ったんですけどね。
すごいなーって、音を一切立てずに一日生きているのかーなんて思うとですね、この猫のですね、一日はすごく興味深かったです。で、何の話なのかっていうと、その猫がですね、すっごくゆったりした時間の流れに生きているんだなっていうことを感じたんですよ。
寝てんのよ。狩りをしてバッタを食べたと思ったら、その後ずっと僕のそばでね、寝てたんですよ。眠ってたんですよ。で、ずっと寝てんなーって、昼間もずっと寝て、夜も寝てって、こんなことしてるんだなーなんていうことを思っていると、スピッツのですよ、あのバンドのスピッツの猫になりたいっていう曲がすごく染みわたってきました。
猫になりたいっていうね、本当にね、その気持ちがすごく伝わってきました。そういう一日いいよねーなんて思ってね。だけどそのさ、猫はさ、その一日本当にまったりとした時間を過ごしていて、空白の一日だったと言っても過言ではない。
バッタを取った以外の事は何もしてないんだけど、でも彼らは彼らなりに彼女たちは彼女なりにですね、充実した一日だったって思えているのかなーって思うと、なんだかこの時間の密度っていうものによらないものを感じましたね。充実感っていうのは時間の密度によらないのかもしれないなーっていうのを感じたわけです。
日本は古来からですね、その時間の感覚っていうのが西洋の感覚とはちょっと違うんだよっていうことをですね、今日はもう一度強調してお伝えしたいと思っているんですね。
まず日本は濃厚文化でした。なので時間というものが生まれた時間感覚というものが生まれたっていうのは何から生まれたのかというと、この自然界の流れから生まれてきたんですね。別にですね、太陽が昇ったらとか太陽が沈んで月が出たらとか朝だとか昼だとか夜だとかそういうことではなかったと僕は思うんですよ。
もうちゃんはね、ただただ1日1日を過ごしていた。そんな中に弥生時代あたりからですよ。縄文時代の後期あたりからと言われておりますけれど、濃厚社会になっていった。この稲作ができてきたんですね。
すると何かを初めて自分たちで育てたり栽培をしたりするっていうことの中にはサイクルが生まれてくるんですね。
もみを撒く時間があったり、それから田んぼを耕すっていう時間があったり、それから稲を刈り取るという時間があったり、そしてまた来年の準備をするという時間があったり。
こういうくるくるとしたサイクルというものが生まれてきて、何となく1日の中でっていうよりも多くのですね、何日ものかけてそろそろこういうことやる作業やる季節だよねみたいな感覚で時間間隔というものが自然と身についていきました。
でもこれって時計の時間とは全然違うんですよね。毎年毎年暑くなってくるタイミングも違うだろうし、寒くなるタイミングも違うだろうし、雨が降るタイミングだって違うだろうし、そういう感覚を研ぎ澄ませながら生きていったので。
その当時の日本人っていうのはすごく自然感覚にも満ち満ち溢れていたんだろうなと。そして時間というものを自然の中に合わせていったっていうことなんですよね。
自分たちの暮らしの中に自然を引き込んでいったのではなく、自然の中に自分たちが入り込んでいくっていうような生き方をしていました。
それがですよ、鎌倉時代ぐらいになると時間の感覚っていうものをさらにですね、押し進めるようになっていくんですね。
不定時法と定時法
それはね、なんと不定時法っていうものが使われるようになってくるんですね。不定時法っていうのって聞いたことありますか?
僕たちが今、普通に使っている時間、時計っていうのは定時法っていうものなんですよね。定まった時間の方法っていうので定時法と言います。
この定時法っていうのは誰にとっても1秒は1秒、1分は1分、1時間は1時間、世界中にどこに行ってもその長さは変わらないよっていうことだし、1年を通して全く同じ時間の長さっていうものがそこに発生していく。
だから時計っていうのはいつも同じように回っていきますよね。正確に言うとね、山の上の方で回っていく時計と山のふもとで回る時計の速さって違うんですよ。
新幹線に乗っている時の時間の進み方と新幹線じゃなくて普通に歩いている時の時間の流れっていうのは違うんですよね。
高速移動をしている時とそうじゃない時とか、あと高いところにいる時と低いところにいる時に流れている時間っていうものは微妙に違うんだっていうふうに言われてますけれど、そういったことも全部含めて1つの基準があって、
イギリスのグリニッジ天文台ですかっていうところが基準となって、この時計の感覚、時計の時間というものはどこ行っても同じようになっているっていうことがあります。
でも、でも、でも、日本は古来は違ったんですよね。不定時法っていうのを使ってた、これは読んで字のごとくですね、時間が定まっていないっていうことなんですよね。
これ何かって言うと、これめちゃくちゃ面白いなぁと僕思うんですけどね。初めて聞いた時すごくうなずいた。まずね、日本人は昼と夜っていうこの2つの時間を分けて考えていたって言うんですよね。
それで太陽が出ている時の時間、それを昼とする。そして太陽が沈んでからの時間、これを夜とする。この夜と昼の時間を2つに分けた。そして昼でその時間を6等分する。夜は夜で6等分する。
そうすると何が起こるのかというと、毎日毎日、昼の長さって変わるじゃないですか。昨日が、この放送を撮っているのは今日なんですけど、月日でしたね。だから一番地球の中でね、昼が長いというね、そういう時間だったはずなんですけれど。
そういった日もあれば、当時って言って、もうすごく日が短い時間だってありますよね。だけどそんなことはどうだって言うんですよ。日本人にとっては。その太陽が出ている時が昼で、太陽が沈んでいる時が夜です。だから時間の流れが違うんですよね。長さが違うんですよね。
月日に近づけば近づくほど、その6等分した、昼を6等分した時間の1つの長さ、これを一刻というふうに言うんですけど、この一刻の時間が長くなる。そして夜の時間は短くなる。
そしてその逆、当時になれば昼の時間は短くなるのでね、一刻も短くなり、そしてその分夜の時間が長くなるというような感じで、不定時法っていうのは、毎日毎日時間の速さが、時間の流れる感覚っていうものが違うんだっていうことですよね。
毛ちゃんたちってやっぱり自然の中の一人なのでね、この考え方っていうのは結構しっくりくるんじゃないかなって、僕なんかは思うんですけどどうでしょうか。
いやいやいやいやいや、時計の中で生きてきたからさって、僕たちはそんな生き方できませんよっていう方もいらっしゃるかもしれませんけれど、なんとですね、この不定時法っていうのはずっとずっと使われてって、明治時代の初期の頃、1872年まで使われたということなんですね。
定時法が入ってきたのは実は江戸時代の話なんですね。西洋からこの小読みのこと、それからこういう定時法という考え方っていうものは入ってきていたんですよ。もうとっくに。
とっくに入ってきたんだけど、だけどそれを採用しなかったんですよね。日本人ってすごいよね。今まで不定時法でやってきたんだから不定時法でやっていく。むしろこの不定時法を強めるような動きがね、そこで起こってきたんですよ。
それはね、和時計っていう時計を作るんですよね。定時法の時計ではなく、西洋式のああいうアナログ時計でね、カチカチカチカチって言っていくようなね、一周回って1時間みたいな時計ではなくて、不定時法という時計を生み出すんですよ。
これはね、重りによってその夜の長さと昼の長さの違いっていうのを調節することができたんですよね。重りの長さを変えることによってメトロノームのような感覚ですけど、メトロノームってさ、重りを上の方に上げると確かカチカチカチカチってゆっくり流れますよね。リズムがね。
日本の時間感覚の変遷
でも、重りを下の方に下げるとカチカチカチカチカチカチカチってすごく早くリズムを刻みますよね。こんな感じを時計に採用してですね、それをうまく使って昼の時間の長さと夜の時間の長さを実現したんですってすごいよね。
しかもですね、夜と朝の昼の時間の境目にはこの2つの振り子を使って勝手に切り替わるような機械仕掛けっていうものを作ってですね、もうこれ現代の科学ではこれをね、やるってねすごく難しいことなんだそうですね。量産をしたりとかするのってすごく難しいぐらいのたくさんの部品を使って成し遂げていたらしいです。
余談が過ぎますけれども、余談ではないんですけどね。こういった努力をしてですね、定時法に流されず不定時法でいくんだっていうことをね、やり続けてきたんですよ。
ただ1872年、明治時代っていうのは1868年から始まっているので、それから4年後のことをですね、やっぱり日本がね、欧米列強に追いつけとか、それから貿易とかですね、海外との貿易のこととかを調整するためにですね、やっぱり時計というものを合わせていく必要があるようになった。
そこで定時法っていうものが生まれたんですね。生まれたというか採用されるようになってきたんですよね。しかもね、このね移行期間はたった23日間だったって言うんですよ。
自然の中に合わせていくっていうこういう考え方から自然を自分たちのに合わせていくんだっていう考え方に変わっていったんだそうです。
結構これはまた面白いなぁと思うのがね、このやっぱ貿易とか発展とか発達っていう話になると、こう自然からちょっと切り離されたというか距離を取るようなことになっていくんだなぁとか、僕たちの自然感覚がちょっと淀むというか濁るっていう感覚になっていくんだなぁっていうことをすごく思うんですよね。
今回だって貿易とかのために、海外と付き合っていくために変えていったっていうことが一つあるでしょ。それからもう一つ大きな理由があったんだそうですね。
それはね、それまで使っていた不定時報、対因対用歴っていう小読みを使ってたんですけど、それを使うとですね何が起こるかっていうと、なんとね3年に一度13月まであるあるんですってそういう小読みってすごくないですか。
3年に一度13月があるんですって。すごいよね。今はさ対用歴っていうのを使うから4年に一度2月の29日が登場するうるう年っていうので収まってるじゃないですか。
1日調節するっていうので収まっているんだけど、当時の対因対用歴っていうのはなんとうるう月っていうのがあって、1ヶ月まるまる幻の1ヶ月っていうのが登場するようになるんだそうです。そうなってくると何が起こるかっていうとね。
これまた興味深いですよ。僕的には。お給料をその年は1ヶ月多く払わなきゃいけなくなるんですよ。12ヶ月でお進んでいくはずのものが3年に一度13ヶ月っていうことで1ヶ月分多く給料を払わなきゃいけない年が出てくるっていうことなんですね。
これ結構驚きですよね。何か得なのかな何なのかな。そうすると税金の計算も変わってくるだろうし、それからねこれも大変だったんですよね。借金を返す返済するっていうその機会も1ヶ月分多くなるじゃないですか。
だからさ、借金を取り立てる側はちょっとラッキーな年があるわけですよ。1ヶ月分多くもらえたとかね。家賃収入とかもいいよね。1ヶ月分多くもらえるなんていうのもあってね。いいよね。
そういったものを整えるっていう意味があってね。そのお給料をやっぱり13ヶ月分出すっていうのは会社にとってもいろんな機関にとっても大変なことだったみたいで12ヶ月で揃えましょうっていうことがあって。
この対応歴から対応歴っていうのに変わって定時法っていうものを採用したんだそうですね。やっぱりこのお金かとか経済かとか発展とか発達かって思いました。
不定時法とその影響
そうなってくるとなんか僕たちのやっぱり自然感覚時間感覚っていうのが少しこう鈍ってくるのかなぁなんていうことをちょっと思ったんですよね。そしてですね。
海外のそのやっぱり時間感覚っていうのは砂漠の民が生み出した時間感覚でございますかな。いつでもずっと平坦な時間が続いているよどこまでもっていうような感覚なんですよね。
一直線に行って。だけど日本人っていうのはこれはね日本と西洋で真っ二つに分けるわけじゃないんですけれど、でも日本人が強く持っていたのは1秒間の中の深さだったはずなんですね。
これを表す文化背景っていうのがやっぱりあるんですよ。
それはね、間ってやつですね。間って書いて、間ってやつなんですけど、茶道とか花道とかあとね、武道とかやっていても間をとっていくっていうこの間にこそ何かすごく大きな意味があるように感じてきません?
ずっと何か書作を繰り返し続けるっていうよりも何もないこの空白の時間にこそすごく大きな意味があるように思えてくる。そしてこの間があるっていうのは一見するとですね、なんか不完全なようにも思えるんですよね。
だってさ、流れるように1から10までスーッとスーッと進んでいくっていうのが段取りが良いって言われるじゃないですか。間がある、間が空いてしまうなんていうのはなんかこう不完全っていうような感じがしますよね。今のやっぱりこの令和の時代においてはさ。
さらにですよね、ショート動画をさ、隙間時間で見ているような僕たちですよ。隙間時間があればすぐにSNSをチェックするような僕たちですよ。そういう時間だとさ、間がどんどんなくなっていくんですよね。
たった1秒であっても無駄にしないなんていうような意識があって、自分たちのさ、その1日の暮らしっていうのを完璧に近づけようとするっていうようなことが僕たちの中に何かほのかに芽生えてきているような気がします。
もうちゃんなんかはすごくするんだよね。テクノロジーにさ、仕事を任せて自分が楽になるはずなのにさらに仕事を受け込むみたいなねことだってあるじゃないですか。前にもうちゃんこの放送でも言ったけど、AIに仕事を任せられるんだったら任せて自分たちは自然の中に入っていくっていう時間を作ろうよなんていう話をね提案させていただいたんですけど、多分そうはならないよね。
僕たちってね、AIに仕事を任せたらさらに大きな他の仕事っていうものを自分たちで引き受けまくっちゃうみたいなところがあるように思うんですよね。
やっぱり僕がこの集落に移住をしてきてですね。神様のお祭りっていうのがあると、この神様をお祭りするその時間っていうのは全然誰にとっても一円の得にもならんのですね。
ならんのですけど、なんか自分たちその時間をちゃんと空けてその神祭っていうものをやる。儀式なんですよ。大事なことなんですよ。神様のために時間を使うっていうことが意味がないことだっていうことは言えない言わないというか言えないですよね。何かしら意味があるような感じがします。
そんな日常の中にですね、大きく間を取るっていうことに何かすごく大きな意味があるような気がしてます。意味があってもなくてもいいんです。意味を取るとも取らなくてもいいんですけど。
とにかくこの何にもならないようなその間っていうのを何にもならないって言い方がいいのかな?儀式においていいのかな?ちょっとそれは不適切なような気がするんですけど。なんかこう経済活動何にも発生しない。なんかこう自分にめちゃくちゃ得があるわけでもないっていうね。
発展とか発達とか成長とかっていうことがもしかしたら成長あるかもしれませんけどそういうことがない。ニュアンス汲み取ってくださいよ。そういったものがさ自分たちの中にポコンとある。そんな前になんか神祭の時間とか儀式の時間っていうのも僕たちはすごく大切にしてきているよねなんて思うんですよね。
ほら散歩をするだとかさ散歩に目的はいらないんだよ。ダイエットのために散歩をするとかさ植物を観察するために散歩をするとかそういうこともいらないんですよね。ただただ歩き散らすのが散歩ですから空白の時間なんですけれども。
日本人はそういうのが実は昔は得意だったんだよっていうことですね。真っていうものに美しさを見出していたし、真っていうものに心の安らぎっていうものを見出していたし、一見すると不完全に見えてしまうようなそのなんかこの段取りの悪さにも見えてしまうようなその空白の時間静寂の時間が実は日本人にとってはすごく大事なものだった。
んだよねっていうことです。さらにもう一つね言うと今その消費社会ですよね。都会に行くとさ本当に消費することが多くてお金でどんどん買ってそれでご飯を食べてそしてどんどん捨ててみたいなそういうようなことが起こっていると思いますし。
モーチャーも高知県でねそういう仕事じゃそういう生活暮らしっていうものを完全に抜け出せてはいないよなあっていう立場で話させていただきますので、自分のことを棚にあげているわけじゃないですよなんですけど、この時間をですね考えたときに消費社会の時間を考えたときにですね。
だんだん劣化していくっていう感覚が僕たちの中にあるような気がするんですね。
僕はそのすごく詳しいわけじゃないですけどお金の話でも減価消却っていう考え方がありますよね。不動産だとか車だとか大きな機械とかを買ったときにそれが毎年毎年劣化していくということでその分価値がめべりしていくんだっていうような感覚というかそういった考え方を持っていますよね。
日本文化における間の重要性
だから僕たちは物を持っているとどんどんそれが価値が落ちていくんだっていう考え方をしがちだと思います。そして価値がゼロになったらもうそれを捨ててもいい手放してもいいなんていう感じで思うんですけど、じゃあ日本人はどうだったのかっていうともちろん古くなってどうにもならなくなってしまったものを手放すことだってあったでしょう。
だけどね古くなれば古くなるほど熟成していくんだっていう考え方も持っていたんですよね。だから人もそうで老いっていうのは実はそれは熟成の証なんだっていうことでその何か退化をしていくとかできないことが増えていくじゃないですかどうしても運動能力だとかさ。
頭の回転だとかさそういうのがどんどんどんどん何か劣化していくようにも感じてしまうような心があったかもしれないけどでも実はそれはすごい熟成なんだっていうことですね。
だから日本人もそうですし儒教なんていうねその考え方ではやっぱりこう年上の人たち名上の方々はすごくこうおもんじましょうっていうね考え方があったっていうのはもう本当に熟成の極みっていうことなんですよね熟成成熟っていう言葉でもなりますかね逆に言うと人のとっては熟成っていうとなんかやだね成熟って感じだね成熟をしていくっていう感じですね。
ただ食べ物とかそれから何ですかね。
食べ物もそうあと食べ物ですよ本当それこそですね今もうちゃんの近くでは梅がいっぱい取れたんですよねその梅をさつけ込むんですよ。
時間が経てば経つほど味わいが深くなっていくこれはもう熟成の証ですよね。
ワインなんかもそうかなと思うんですけどもとにかくこれが熟成だと思います。
こういう干したりとかつけるとかっていうその食文化っていうのを日本人はずっと紡いできたんだよね続いてけてきたんだよねって思います。
時間が経てば経つほど美味しくってそれを超えられるようなものをすぐ作ることができるかといったらそうではできそんなことはすぐにはできないよとやっぱり時間をかけて作ったものっていうものは良いものだよねっていうことがこの静寂の文化で成熟の文化熟成の文化にはあるような気がしているんですよね。
道具だってそうですさあ企業に作られたものね木でできた手道具ってすごいいっぱい僕んちの倉庫にも残っているんですけれどもそういったものでもう作り直すことできないよねとかねこれ失われてしまったらもうダメだよねとかむしろ使えば使うほど味が出てるよねなんていうことをさ思うとさ何がこの熟成の文化成熟の文化っていうのは素敵だなぁって思うんですよね。
だから年を重ねるごとになんかやっぱりあると思うなんか足踏みをずっとしているように思うかもしれないでも足踏みをしていて全然成長してないなーって思ったそんな自分がいたとしてもですよいたとしてもですね僕たちはね必ず成熟に向かっているんですね。
むしろ足踏みをしていて全然前に進んでないじゃないかっていうのっていうのはやはり西洋的な時間的な考え方のようにも思うんですよね。
このずーっとずーっとまっすぐまっすぐ進んでいかなきゃいけないって思っているそんな時間感覚が自分の中にどこかにあると僕たちってこうね一体何やってんだろうみたいなことを思ったりすると思うんですよね。
ただ僕たちは年を重ねるごとに時間を重ねるごとに確実に何か一つ深くなっていくものがあるでしょ染み渡っていくものがあるでしょそうするとさこれまでの時間過ごしてきた時間っていうことにもなんかこう味わいがじわっとにじみ出てくるような気がしております。
それでねやっぱり時間って不可逆なもの松間に戻ることができないようなもののようにも思っていますけれど僕たちはくるくるくるくる回るこの時間の中で僕たちは生きているっていうことなんです。
時間の感覚と自己探求
だから同じところを生きているようにも思えるかもしれないけれどそれはきっと成熟のプロセスなんだよねって思います。
なんかねもうちゃん自身もなんだろう今何やってんだろうとか同じことでまた悩んじゃってんなーとかそういうことって結構思うことあるんですけどねなんですけどそういったくるくるくるくる回っているときにそっかでも大丈夫なんて思ったりもしております。
いかがだったでしょうか。最後まで聞いてくださったあなたぜひいいねやフォローで足跡を残していってくださいね。
まあ今日もですね聞いたからどうっていう話ではないのですけれどもなんとなく日本で生きていてなんかこの時間の間隔っていうのが自分に合わないなーとかそういう人もいると思うし
もうちゃんも今となっては東京の時間間隔では生きることはできないなーなんてことを思っておりましてそう思うといいよね。
昔は違ったのかなんていうことを思ったりとかむしろこの定時法っていう今の時計の間隔時計の時間が生まれて日本で受け入れられたのはまだ200年も経ってないのかなんていうことを思うとさ
150年も経ってないのかって感じですよね150年くらいかなんていうことを思うとさまあ大したことじゃないのかもしれないよねちょっと自分がまたね解体されて解きほぐされて
じゃあちょっと自分にとっての時間間隔が合う場所を探してみようかなって思えるヒントになるかもしれないそんなきっかけになるかもしれないしねなんかいいよねだからねこうやって昔のことやっぱり考えたり思い出したりして
なんかこう現代に位置付けていくっていうのはねいいような気がしておりますということでお時間をいただきましてありがとうございましたさてではですねこれを聞いてくださっている頃にはですねもうちゃんは樹木医の研修に行ってきます
高知県がですね樹木医さんを増やしたいって思っているんでそうです東京にはね1500人ぐらい今樹木医さんがいらっしゃるということなんですけど高知県にはですね住人もいないんですよね今ねでもね日本で一番樹木医を必要としている県が僕はねこのね高知県だと思っています
なぜならばなぜならばです高知県というのは日本で一番森林の面積率が多い県だからですだからさそのいっぱい木があるからさその木一本一本に思いを馳せていきたいじゃないかということでねもうちゃんは樹木医になりたいと思っているんですよね
そして樹木医の研修を受けたりとか樹木医になって培ったその知見というものはこだま小町プロジェクトの物語とか世界観というところに必ず還元をしていってですねそしてまた皆様にお伝えをしていきたいと思っております
今僕たちが生きているこの世界では自然というのが一つのカテゴリーになり下がってしまったと思うんですねいや僕たちって自然とは切っては切り離せない環境には関係性にあってさ僕たちは自然の一部であって自然の中で生きているっていうことがもちろん大事なことだったのに僕たちはそれを切り離して自然はただのカテゴリー分野の一つっていう風に捉えてしまって
おります科学だって自然から生まれているものだしねスピリチュアルだって自然から生まれているものだしね文学だって自然から生まれているものだし英語だって何だって全てのものがそうなはずなんですけれどもでも自然は自然として学ぶみたいな風に切り離されているように思いまして
もうちゃんはそこにですねすごく違和感を感じているところなんですねだからこそ皆さんが受け取りやすい形でですねこの自然というものとの接点を作っていただけたらなぁと思ってこのこだまこまちプロジェクトという活動をしておりますこだまこまちプロジェクトのメールマガジンというものを毎週1回ですね配信をさせていただいております
もしよろしければ番組の概要欄にリンクを貼り付けておきますのでこちら覗いてみていただけますと嬉しいですということでお時間をいただきましてありがとうございましたお相手はこだまこまちプロジェクトのもうちゃんでございましたまたお会いできることを楽しみにしております今日も素敵な一日をお過ごしくださいませ
あなたとあなたの大切な人に森の精霊のご家具が訪れますようにでは行ってきます