お茶摘みと物語の創造
おはようございます。こんにちは、こんばんは。
こだまこまちプロジェクトのもおちゃんでございます。
今日もおちゃんは、山の上でお茶摘みをしてまいりました。
お茶をね、こう一つ一つ葉っぱを取っていって、そして火の釜で炊いて、
そしてそれをもみほぐしてね、また干すなんていうことをやるんですけども、
まあそのね、過程がとても面白いんですよね。
お茶のさ、緑茶の新茶の香りがふっと香ってくる。
その瞬間がものすごく心地よくて、
このお茶っていうのは何度やってもいいなーなんて思っておりまして、
今年2回目のお茶摘みでした。
もうね、家には2年分くらいお茶の葉っぱのストックがある。
外でお茶をかぶる必要なんかもうないくらいあるんですけど、
でもまあそんなことはね、さておきですよ。
今日はですね、時空の狭間に落っこちて、なんていうお話をしていきたいと思っております。
もうちゃんはですね、こだまこまちプロジェクトという、
木の精霊ね、木を擬人化して精霊のキャラクターにするという取り組みを行っているわけでございます。
その中でもうちゃんは、世界観とかストーリーとか物語を作るっていうのが、
僕の代表としての担当役割なんですよね。
本日ですね、この話に寄せてと言いますか、
僕は今ファンタジーを作っているファンタジー作家でもありますので、
そんなファンタジー作家であるもうちゃん自身がですね、
全国つつうらうらを旅をしたり、それから現地の方々とお話をしたり、
そして本を読んだりですね、様々なところ、文献から引き抜いてきて、
そしてもうちゃんなりの世界観というものを作っている。
これがこの小玉小町の物語になるんですけれどもね。
こんにちは、いつもありがとうございます。
今日は時空の狭間に落っこちて、なんてお話をしてみたいなと思っておりますので、
よろしければゆっくりしていってくださいね。
そう、それでね、いろんなところ、全国つつうらうらあんやして集めた、
もうちゃん自身のこの経験値というか、経験科学に基づいたですね、
お話をしていきたいと思っております。
根も葉もないことを言っているんじゃないよということと、
スピリチュアルみたいな話に聞こえる人もいるかもしれませんが、
これはですね、もう本当に学問的なことを追求していったものなんですよね。
本当にその民族学とか人類学とか、あと文字には記述されていないけれども、
交渉文学とか伝承ってやつですね、そういったものを集めていって、
もうちゃん自身が一つの世界というものを紡いでいるというものなんです。
今日、時空の狭間に落っこちて、森と山と、それから日本人と異次元と、
みたいなそんなお話をしたいと思っておりますので、
よろしければ聞いていてくださいね。
山に上がる風習
でですね、もうちゃんね、空にゃんがいる前でお話ができることはまた光栄なんですが、
この前、道路のところでね、僕たちが可愛がっている、家族で可愛がっていた猫ちゃんが、
なんと車に轢かれてしまった。
そしてあの世に旅立ってしまった。
生後がもう3ヶ月、4ヶ月っていう、もう本当に土地派もいかないようなそんな年齢でですね、
月日で、それでもう行ってしまったっていうことがありましたっていうことをね、
空にゃんとも語らせていただいたんですね。
その時にもうちゃんが感じたこととか、あと空にゃんから聞いて、
なるほどって思ったことは、やっぱり車の運転の仕方だったわけですね。
空にゃんがこの前お話ししてくれたことは、そこに猫が一匹車の前に飛び出すっていうことがあると、
それは遠く目から見て何とかやり過ごすことができたって言ったら、
その一匹の猫を追いかけたもう一匹が飛び出してくる可能性がある。
だからこの2匹目に気をつけなくてはならないようなっていう話をね、教えていただいたんですけれども、
僕もですね、もうちゃんもこの可愛がっていたその一匹のですね、猫がこういったことにならなければ、
そういうお話にたどり着くことができなかった、そういう教えにたどり着くことができなかったんだなということがあって、
これは空にゃんが教えてくれたことであり、猫ちゃんが教えてくれたことでもあったのかなっていうことをまず思ったわけですね。
ここからなんですけれども、実はこのですね、山の中、森の中っていうのは、
僕たち日本人にとって、そしてまたこの動物たちにとってどんな場所であるのかっていう、そんなお話をしてみたいなと思っておりますね。
群馬県の方にですね、ある地域なんですけれども、ここではですね、山に上がるという風習があるんだそうです。
山に上がる、山に上がるってどういうことなのかっていうと、こういう時に使われる風習なんだそうですね。
もうお金がない、もう自己破産するしかない、もうここでは下界でお金を使って暮らすことができない、そんな時にですね、山に上がるっていうことを選択する人が出てくるんだそうです。
山に上がるというのはどういうことなのかというとですね、これも結構すごくすごいことで、山の中で生活をするってことなんですね。
つまり自分自身もう町の中で暮らすことができないから、山に上がってって山の中でひっそりと暮らすよって、そこに家でも建ててさ、そして山の中のものを様々に取って、それを食べながら生きていくなんていうことなんですよ。
そんなことができるのかっていうと、昔は結構できていたんだそうです。
例えば栗の木っていうものが昔はもっともっと多かった。今はそういったものも全部切られて、檜の木とか杉の木とかそういったものがどんどん植えられていってさ、人工林になっていったから栗の木っていうものがなくなっていったんだけど、栗の木がいっぱいある。
栗の木っていうのはすごく優秀なんですね。まず栗の実ですね。意外な栗の実。あれって中を開けてみると、栗が出てきて食べられるじゃないですか。悪さへ抜けば。これが人にとっては貴重な澱粉になっていったんですね。
人の1年間で必要な澱粉。澱粉というのはつまりこれが炭水化物とかってなってって、ぶどうと人が生きていくためのエネルギーに変わっていくわけじゃないですか。こういったものを取っていくっていうことは本当に簡単だったそうなんですね。
さらに栗の木って優秀で、もちろん燃やせば薪にもなるし、栗の木には椎茸とかそういったキノコ類も生えてくるんだということで、とにかくこの栗の木っていうのは優秀だったと。栗だけじゃないんですね。松茸だとか他のいろんな平茸だとかさ、様々なキノコたちもあるし、あと獣も獲ることができたしね。
山の中で住む暮らしていくっていう心得さえあれば、実は町の中でお金を悪せく集めてね、そしてそれで何とかやっていくっていうよりも山の中で暮らす方が楽だったっていう時代があると。今山の中で暮らす方が絶望的に大変です。今言ったように人口林になっちゃって山の中に入ってたって食料がないからですね。
でも水とかも本当にいっぱいあったから、もう簡単に暮らせていたんだということなんですね。じゃあみんな山に上がればいいじゃんって。そうはいかないっていうのが人間の文化でね。山からどんどん降りていって、町の中で貨幣経済を回して生きていったっていう、そんな時代が日本にはあったんだそうです。
動物との不思議な関わり
じゃあまあね、どうしてお金が立ち行かなくなってしまって山に上がるのかって言うとですね、まあこれ一つはギャンブルですってしまうなんていうこともあったかもしれませんけれど、それ以上にですね、それ以上に実はその商売がうまくいかなくなってしまうっていうことがあるんだそうですね。
例えばね、昔、カイコっていうものを飼っていましたね。ガノ幼虫ですね。そのガノ幼虫が糸を剥く。その糸を紡ぐと絹になるんですよね。絹の糸になるんですよね。その糸をまた編んでいくと絹の織物になっていくっていう。こういった暮らしを営んでいる方々が結構いらっしゃったと。
でもそれが例えば火事にあったりとかして全部燃えちゃったとか、あとそのカイコの飼育がうまくいかなくなっちゃったとか、そんなことがあるとですね、もう商売上がったりというか、もう自分たちの家計を支えることができなくなっちゃったって言って、仕方なく山に上がるわっていうことが起こっていくなんてことだったんですね。
山に上がるっていうことは何を意味するのかというと、属世間、つまり僕たちが今生きているこの街とか都心の都会とかね、都心街、そういった街並みのところから一つ山を上がっていって、そこの中で暮らしていくっていうことなんです。
そこではやっぱり都心とか街とか村の中、中心地、市街地かそういったところと比べると全くもって流れている時間が違うんだっていうことをやっぱり感じるわけですね。
だからこそ山の中っていうのはゆったりと悠々自適に、そして食料さえ手に入ればいくらでも生きていくことができる、そんな暮らしが営むことができる、そんな時間、時の流れというものがそこにはあるんだというのをまずここで一つ抑えておいていただけたらと思います。
いかがでしょうか。山っていうのは結構ゆったりしてるよね。
僕たちも市街地にいて都心にいて都会にいて疲れたなと思ったら、ちょっと自然の中に入ってゆっくりしたいって思うじゃないですか。
ここがやっぱり都会と山の中、海とかそういったところでは時間の流れが違うんだなっていうことなんですね。
山の中ではさらに興味深い話があるんですね。僕の家族で面倒を見ている猫ちゃんたちも、この前みんないなくなっちゃったんですよね。
いきなりいなくなっちゃって、帰ってきたと思ったら何匹か足りない。
今9匹ぐらい家に住みついてるみたいな、8匹ぐらい住みついてるんですけど、前8匹いたのがみんな旅立ってしまって、帰ってきたら6匹ぐらいになっていて、2匹足りないぞみたいなことが起こっていて、
どうしたんだろう、何が起こったんだろうってすごく心配をしていたら、1週間後ぐらいかな、2匹帰ってきたんですよね。
今みんな8匹一緒に暮らしています。これを昔の人たちはどんなように考えていたのかっていうことなんですね。
とある山道を歩いていると、動物が穴にはまって落っこちてしまって、そこで命を引き取ってしまうなんていうことがあります。
馬で山道を歩いていると、馬が崖から転げ落ちたりとか、穴にはまったりとかして、そこで亡くなってしまうみたいなことが起こったりするんですって。
これは一体何でなのかっていうと、馬が足を踏み外したとか、馬が穴にはまってしまったんだというこの不良の事故として、今だったら捉えてしまいそうなものなんですが、
それを昔の方は、また昔の方の中の本当に一部の地域なんですけど、何をしていたのかっていうことですね。
群馬県の地域では、同じようにこうやって馬がはまってしまったら、馬を供養するためのお墓を建てるんだそうですね。
動物の尊敬と能力
でもこのお墓っていうのは、事故にあったから建てたのでしょうか?本当にそうなのかっていうと、実はそうではなく、人の身代わりになってくれたから、
だからその馬に敬意を払って、馬に感謝するという気持ちを込めて、実はそこにお墓を建てて、石碑を建てて祀ったんだっていう話があるんですよね。
この時に僕たちが受け取れるのは、動物への尊敬の眼差し、尊敬の念というものを、僕たちはそれをもって感じることができるっていうことなんですね。
その話をもっと掘り下げて感じがえてみると、聞いてみると、こういう天末だったんだそうですね。
山の中、森の中という場所には時空の叫べがある。
その時空の叫べというのは、言い換えるならば、人とそれから精霊のその世界の間、叫べ、その継ぎ目だったりとか、
それからあの世とこの世を結ぶその境目、叫べだったりとか、
それからある人はこういう人と神様の世界の境界線だって言ったりとか、そういうことを言うわけですね。
この境界線、この穴っていうのは、確かに行き来ができる場所なんだけれども、
そこに人がはまってしまったら、もう二度とこっちの世界に戻ってくることができない。
あの世に行ってしまったら、つまりサンズの川を渡ってしまったら、二度とこっちの世界に戻ってくることができないというようなことが言われてますよね。
これが山の中でもいっぱいあるんだと、森の中でもいっぱいあるんだということなんです。
そして動物たちっていうのは、人間には持ち得ていない、人間にはない嗅覚だとか、そういったセンサーがあるということなんですよね。
これを人は人よりも一段早くキャッチすることができると。
そしてその穴というのは、その時空の裂け目、神様とあの世とこの世の結ぶこの裂け目っていうのは、誰かがそこに柱となってはまることでしか埋まらないんだっていう、こういう考え方があるんですよ。
だから動物たちっていうのは、実は人がそこにはまる前に、ご主人様がはまる前にその中に行って、そして自分がはまることで、自分が命がけでそこにはまってあげて、そしてその時空の裂け目っていうものを埋めていっているんじゃないかっていう、こういった説がまことしやかに昔から伝えられているっていうことがあります。
こうやって僕たちは動物たちに思いを馳せるわけですけども、動物が僕たちにない力を持っているっていうのは、もうこれ自命の利ですよね。
人間が我が物顔をして人の役に立たせるために動物たちを使う、酷使するなんていうことを、今普通にやっているかもしれないんですけども、でも考えてみると、人には持っていないようなそういう能力をいっぱい持っています。
人は空を飛ぶことができないけど鳥は飛ぶことができる。人は走ることができるけども、でも犬より早くは走れないとかね。人も木登りはできるけど、猿より器用には登れないよとかね。そういうことですよ。
今言っていたカネコミスさんの私の小鳥とスズトみたいな感じになっていきましたね。ということで、とにかく僕たちには持っていないようなそういう能力を持っている。
だから動物たちはそういうのを持っているんだっていうことで、まず人間よりも優れたものを持っているっていうそこのリスペクトっていうものが働くわけですね。
時空の狭間と人間
時には動物たちをいただいて食事をさせていただくっていうこともあるにせよ、僕たちは動物というものに憧れや尊敬の念、敬意を払うっていうことはやっているわけです。
そんな動物たちが持っている能力の中に人が感じることができないような異次元との世界のつなぎ目っていうものを持っていると、見ることができる。
どこにあるかっていうことを感じることができるんだっていうこういう考え方があるなと、そういう地域があるんだそうですね。
いやーこれ素敵な考え方だなって猛ちゃんは思いました。
ここでですね、もし人がハマってしまったらどうなるか、ここからは猛ちゃんの考察なんですけども、それをですね、山の中で迷ってしまって遭難してしまったとか、それから森とか山の中でハマり込んでしまうことによって人がそこから抜け出せなくなってしまってね、なんかこう怪我をしてしまって事故になってしまうなんていうこととかもよくあるんですけど、
実はこういった時空の狭間、時空の裂け目っていうのはですね、山の中、森の中もしかり、それから街中にもあるのではないかなと思ったりもするんですね。
僕たちはふとした瞬間にその時空の狭間を越えてしまうような時がある。
それは街中でもそうかもしれないし、森の中でもそうかもしれないし、そういった時空が歪むような場所がきっとあるんですよね。
その時空の狭間を越えてしまうとですね、異世界の方に行っちゃうんですね。
でも猛ちゃんたちはこの現実世界にあたかもいるように思えるんだけども、でもそんなところに行ったりとかすると、何で言うかわからないですけどもね。
自分が例えば病気を持ってしまうとか、それから事故に遭ってしまうっていう、そういう世界線に行ってしまうということが起こり得るのかもしれません。
そうなってくるとですね、動物と人間ってやっぱり固い絆で結ばれているみたいなところがあるような気がするんですね。
動物が人間のために生きているというふうには思いはしませんけれども、でもその絆っていうものを考えたときに、
動物たちが僕たちの身代わりになって、そういった事故とか、そういった病だとかに引き受けてくれているっていうことは考えてもいいんじゃないかなって思うのが猛ちゃんの世界観なんですね。
そう思うと動物たちにすごくありがたいなって思う気持ちも出てくるし、手を合わせたいなっていう気持ちも出てくるしね。
それ以上に身代わりになってくれているっていうことはですね、一体何を意味するのかっていうと猛ちゃん自身ですね、仏教の学校に昔勤めていたことがありまして、そこではお釈迦様の生き方なんていうことをですね、やっぱり学んだりするんですね。
その中でお釈迦様っていうのは何度も何度も生き返って、輪廻転生っていうんでしょうかね。
亡くなってからまた生まれ変わって、また亡くなってから生まれ変わって、そうやって動物としてですね、何度も何度も転生をしていって、その最後に人間として生まれて、お釈迦様としての悟りを開いていったなんていうことが一説としてありまして。
その時にですね、うさぎだった時にはですね、自分から火の中に飛び込むとかですね、ライオンだったとか獅子だった時には崖から飛び降りてとか、そして自分の命を投げ出して差し出して人の役に立っていったなんていうようなことがあってね。
そんなことも考えていくと、動物たちがそうやって僕たちに何かを伝えてくれているっていうことを考えてみてもですね、不思議なことではないのかななんて、これは伝承かもしれないしね、逸話かもしれないんだけども、そうやって解釈するっていうのも僕たちが動物たちと生きていくための、暮らしていくための一つの手立てなんではないかななんていうことを思ったりもするんですね。
じゃあね、ここまでいかがでしょうか。もう20分話をさせていただきましたけれども、動物たちが僕たちの身代わりになってくれて、時空の裂け目に落ちていっているっていうこともあるんだよ、あり得るんだよっていうことです。
なんかそんなことを思うとですね、猛ちゃんこの間その一匹の猫が旅立って行きましたけれど、その猫のことを考えると、僕はそれからすごく夜道運転するのを気をつけるようになったんですよね。
もしかしたら猫ちゃんが時空の狭間に柱となってくれたことによって、猛ちゃん自身が気をつけて運転することができるようになって、この世界でまだ命を繋いでいくことができているっていうことなのかもしれないななんていうことを思うと。
ありがたいなって思う気持ちでいっぱいですね。でもありがたいっていう気持ち以上のものがあってさ、あまりこの配信でポンと言えるような言葉じゃないんですよ、本当は。
っていうようなことがあります。ここまでが前半戦でございます。いかがですか?ついてきていただけてますか。これは猛ちゃんのファンタジーの世界でもありながらですね、民族学とか伝承とかそういったものを集めて語り継がせていただいております。
神様の世界の境目
続いてですね、神様の世界とか森の中にそういった境目っていうものがあるのかどうかっていう話をもうちょっとさせていただこうと思いますね。
あ、そらにありがとうございます。身代わり、先に見せてくれる。うちの子たちを見てて感じていることですが。続きがありそうですね。
先に見せてくれてるっていうことなのかな?なんていうこともちょっと思ったんですよね。そうやって解釈することで浮かばれる自分の思いっていうものもなんかあるのかな?なんていうことを思ったりもします。
ここから先の話はですね、土地とかそういった実際に歩いてみないとわからない。でも確かに歩いてみると確かにそうかもしれないなっていうようなことをお話しさせていただいてみたいと思います。
あ、そらにありがとうございます。はい、今の話から受け取っている情報量がすごすぎてコメントするには言葉が追いつかないです。ありがとうございます。
でもコメントしようとしてくださっているっていうことが本当にありがたいなと思いました。
確かに情報量が凄まじいですよね。っていうのは、毛ちゃん自身の経験だけじゃないものがいっぱい多文に織り込まれているからですね。
伝承っていうのは本当にもう100年単位、200年単位、200年単位っていうのかな?何十年、100年単位で語り継がれてきているものですよね。
そうやって人が動物の死とか動物との生き方とか付き合い方っていうのをずっと考察して解釈をし続けてきたっていうことをお伝えしているので、毛ちゃん一人の情報量ではないので、それ自身を受け取ってくださってまた答えようとしてくださっているそらにゃんには本当に頭が上がりません。
本当にありがとうございます。この境目っていうのはどこの辺にあるのかっていうことなんですけど、日本にはめちゃくちゃこの境目となる場所があるんだよっていう話があって、それからまた見つかっていない境目もいっぱいあるんだよっていう話をしてみたいと思っております。
今ですね、僕もこのラジオで何度か何度かお話しさせていただいているんですが、今この時代に差とか先ってつく、そんな地名の持っている土地、ここは神様の住む世界とそれから僕たちが住む世界の境界線なんじゃないかっていう説がありますというお話ですね。
例えばですね、なんとか先とかってありません?天ヶ崎とか浄ヶ崎とか三崎とかですね、室戸三崎とかね、そういうところはですね、この差という文字には実は境目っていう意味が込められているんですね。
神社と異世界の境界
あの世とこの世の境目だったり、神様と人間界の境目だったりっていうことです。だからこの三崎っていう場所はこの海の隔てた場所にありますよね。だから、陸地とそれから人が立ち入ることができない、その中でも生きていくことができない、そんな海とのこの境目のことを三崎って言ったり、なんとか先っていう風に言ったりするんですよね。
で、ここの中からには神様がいるよと人は立ち入ることができないからね、なんていうお話なんです。
またはたまたですね、この坂ですね、坂道、なんとか坂って言ったりしますよね。この坂道のこの一番てっぺんのところっていうかでね、この坂道自体が実は異世界につながるそのルートなんだよっていう話もあります。
これはね、もう坂のさっていう文字があるからね、このさっていうものがやっぱり境目っていう意味なんですよね。
ただのこの坂道、登坂っていうだだけじゃないんだよっていう話なんですが、これよくよく考えてみるとね、神社とかお寺とかそういうのって必ずと言っていいほど階段登りません?
ちょっとした階段があったり、ちょっとした坂道があったりとかして、その上におやしろが建てられている。これはですね、洪水から守るためとかそういうこともあるかもしれないし、虫たちから守るためとかそういうこともあるかもしれないんだけど、
実はですね、この坂とか段差を設けることによって、ここは人間の住む場所とそれから向こう側の世界との境目なんですよっていうことを実は案に示しているものなんですね。
僕たちは、僕はですね、今住んでいるのは高知県のとある町、片田舎の町なんですけれども、ここにはですね、お山があって、そのお山は守玄堂の山なんていうふうに言われておりまして、中にですね、おやしろがいくつかあるわけですね。
その中でですね、やっぱりこう見ていると必ず階段を登っていきますね。山の中にあるんですよね、しかもね。山の中にあって、それだけでもやっぱり異世界のルートなんだなと思うし、その山の中にある神社もまたその段差があったりとかするんですよね。
そこからですね、さらに興味深いなと思うのが、僕が住んでいる町にある山のことを横倉山と言うんですけど、この横倉山にはある時代に亡くなった天皇のお墓があるというふうに言われております。天皇、安徳天皇と言われております。
天皇はですね、戦争が終わった時にですね、天皇の人間宣言とかって言って、その天皇は人間と同じものなんですよっていうことを言って、そして国民の象徴っていうふうに言われるようになったという戦はありますけれども、本当にこの昔、本当に昔っていうのは神話の世界の人だったわけですね。
この横倉山に眠られているのは、兵器物語のあの時代の安徳天皇という天皇なんですね。源氏がさ、どんどんどんどん西の方に西の方に兵器を追いやっていきますよね。そしてその兵器は追われるようにして、本州の先っぽの山口県の下関というところにようやくたどり着くわけですね。
そこで戦いがあった、断納羅の戦いというものでした。そこで兵器は滅亡する、源氏にやられてしまうなんていうことがあるわけですけれども、その前にですね、実は天皇はですね、身代わりを立てて別ルートで逃げていったんじゃないかっていう説があるわけですね。
これはかなり誠しやかというか、かなり確証が取れるものじゃないかということで、その逃げてきた天皇が最後に行き着いたのが、僕たちが住んでいる町の横倉山という場所で、ここでですね、暮らしていて、20何歳かな、そういったところまで生きてですね、病気のため亡くなってしまうなんていうことがあります。
この山で亡くなったので、安徳天皇の両母、つまりお墓がですね、そこにあるんですね。この安徳天皇のお墓っていうのは、ここにやっぱりあるだろうということで、毎年宮内町、国のですね、儀式を管轄するその機関がですね、研究調査にですね、やってくるんですよね。
だから本当にこれは確かな話なのかななんて思っているんですけども、さてさて前置きは長くなりました。この両母、つまり天皇が眠られている、その安徳天皇が眠られているお墓に至る道です。これはですね、山の中にあるんですけども、山の中にあるにもかかわらず、そこはね、石段で積まれていて、そのですね、両母に行くまでに、長い長い階段をですね、登っていかなくてはならないんですね。
そしてこの階段はさらにですね、やっぱり天皇が眠っている。天皇はもう神話の方ですから、すごいわけですね。神様のですね、使いなわけですよね。神様そのものなんですよね。
そしてそこの眠られているそのお墓、つまりあの世っていうところへの道はですね、階段で結ばれているわけですけど、九の字の階段なんですね。九の字の階段ってちょっとイメージできますでしょうかね。平仮名の九ってありますよね。
ああいう形に真っ直ぐではなく、一回斜めに行ってまた斜めに折れるというような構造をしている。こういう階段で結ばれているんですね。一体なぜそんなことをしたのでしょうか。登坂がきついからちょっと蛇行させるようにしたんでしょうか。
この階段ということを考えているとですね、別のところ、もう一つのですね、安徳天皇のお墓はそこだけども、安徳天皇を祀る神社、この神社もですね、そこに至るまでにものすごい長い階段があって、その神社に至るまでの道も九の字になっているということなんですね。
一体これはなぜなのかというと、やっぱりね、大事なものっていうものは直接は見せないっていう、そういう日本人のですね、何か美徳というか、そういうものがあるんだそうですね。やっぱり神様の世界というのを、あの世というものを直視することができないように、階段をわざわざカーブをつけてですね、ねじ曲げて作っているなんていう説があります。
ということでですね、やはりこの神様の世界、あの世の世界というものはあって、そこは段差だとか、そういった山坂道、坂道の上にあるということなんですよね。
そういったことを考えるとですね、猛ちゃんたちを取り巻いている自然の中にも、町の中にもですね、ちょっとした坂があったり山があったり丘があったりね、すると思いますし、神社とかお寺とかの数って日本のコンビニの数よりも多いなんていうふうに言われていますよね。そういうところってちょっと小上がりになっているはずなんですね。そういったところが多いと思いますね。
安徳天皇の伝説
あとは何かの先っぽですね。なんかの海とか、それから山の先っぽだったりとかします。あとこれはですね、昔の東京の地図、縄文時代とかの東京の地図を見ているとですよ。っていうのはこの辺は海だったんじゃないかみたいな、そういう地図があるんですけれども、縄文時代に縄文改新というのが起こります。
それは地球が温暖化することによって氷が溶けてですね氷河が溶けて地球の海の高さがぐぐぐっと上がっていったという時代がありました。海がぐぐぐっと上がっていくと今まで陸地だった場所が海に飲み込まれていくっていうことなんですね。
東京もですね、結構これ海だったっていうふうなことがわかっていまして、渋谷とか新宿だとかそういうところもですね、結構水が張られていた場所が多かったんじゃないかっていうことを言われています。
で、そういったところのですね境目のところに見事に神社やお寺ってものが立っていて、昔の地図をひも解いてみるとですね、この水のところと山のところの陸地の境界線のところにですね、神社やお寺神社かなが多いからこれがね立っているんだなーっていうことはねすごくよく感じていただけると思います。
ということでですね、そういうところにこそこの時空の狭間というものがあるんじゃないかなというのをですね思っているんですね。そしてそういうところは人がなかなか立ち入らないようにした方がいいよということでね、結界を張ってそれでここから先は神社の境台。境台っていうのは境の内側って書きますからね。これまたすごい名前ですよね。とかっていうふうにしたりとかして。
人が立ち入ることとか人が簡単にそこに入っていてね、なんかわいわいわいわいどんちゃん騒ぎするなんていうことができないようになっています。そこはもしかしたら安全な場所であり、ある意味で危険な場所でもあったかもしれないわけですね。危険な世界への入り口でもあるかもしれない。危険というかあの世への入り口なのかもしれないということなんです。
そういった意味でですね、日本にはたくさんのこの時空の狭間だと認定されたですね、場所があって神社やしろがどんどん建てられていったわけですけれども、でもこれ全部が立ってきれているわけじゃないと思うんですよね。
全然そうじゃないですよね。だってまだまだ見つかっていない時空の狭間ってありそうじゃないですか。そういった場所を探してくれているっていうのが実は動物たちなんじゃないかなっていうことを思うわけです。おっと、ナオミさんやっほー。
明日ですね、明日ナオミさんと朝9時からだったっけね、こちらのチャンネルでライブ配信コラボさせていただきますので、よろしければ聴いてください。ありがとうございます。はい、明日よろしくお願いいたします。こちらこそです。
はい、猫が鳴いております。そうなんですよ。猫のさ、挙動とかを見てるとさ、どこを見つめてるんだろうって思ったりとかすることありません?それからなんで今泣いてんだろうって思うこととかありません?これ犬もそうだし、他のものもそうなんだけど、なんか見えてないものが見えているんじゃないだろうかっていうことを思うことってよくあってさ、そう思うと動物たちの見えている世界っていうのは人間たちが見えているもの以上のものがきっとあるのではないだろうかっていうのが、
猫ちゃんの思うところでございます。はい、いかがだったでしょうか。こうやってですね、日本語の語源なんかも探っていくとますます面白いんですね。
例えばですね、この神社とこの神社にですね、よく飾るそういう木があります。その木はですね、サカキって言うんですけど、サカキって神棚に収めたりしますよね。このサカキっていうのはですね、なんだか炎のような形をしていて、火を灯したような形になる。だから火の代わりなんだなんていうことを言う人もいるんですけども、このサカキっていうのの語源を調べるとですね、ゆかりを調べると、
サカキって示す辺に神様と書いてサカキってやるんですね。神がいる場所だと示す木なんですね。で、サカキの由来は境木から来ていると、境目となる木から来ているというようなことも言われています。何の境目かっていうともうわかりますね。
人と神様のこの世界を隔てる場所です。だからですね、人が亡くなると、昔ですね、死人絵という絵を描かれたんだそうですね。特に役者さんたちですね。役者が亡くなると、その追悼の意味を込めて浮世絵でですね、一人一人のですね、絵を描くんですけども、その死人絵、亡くなった役者さんたちの持ち物の一つに、このサカキの枝を持たせるんだっていうことがあります。
木と神話の関わり
このサカキの枝を持たせて亡くなったその役者さんへの花向けとして、そのサカキの枝を持ってあの世に旅立っていくということなんですね。だからこの木を持っていることによって、やっぱり神様へ導いてくれるというようなものがここには隠されているということなんです。
あとね、桜っていう木がありますよね。もちろん皆さん大好きな桜。あの桜のさっていう字もなんかすごく気になりません?そう思ってくると。というふうにして調べていくとですね、結構面白いですね。桜のさっていうのも実は神様のことを表しておりまして、あれは神様との境目というか、神様自身のことを表しているのかなと思うんですけども。
さというのは稲の神様のことらしいんですね。穀物の神様です。昔から桜の花が咲き始めたら、そこで田植えを始めるとか、もみをまき始めるとか、田植えをし始めるといいよとかね、そういうふうに言われていたことがあったんだそうです。
じゃあ桜の蔵は何なのかっていうと、神様がいる場所のこと、鎮座させおわしますところですね。蔵というんですね。だから稲の神様、穀物の神様がいる場所っていうふうな意味で桜っていうふうに名前が付けられたというふうに言われています。こうやって木にはですね、神様が宿るっていうのは昔からすごく言われていたことでございます。
あとよくわかるのは、松の木ですよね。松っていうのは何を待っているのかっていうと、神様を待つ木なんですね。松っていうのはくねくねくねくね伸びていって、一本として同じ形をした木なんかないんですね。くねくねくねくね具合がそれぞれ一本一本がすごく独創的であります。
その独創的な松の木っていうのがですね、もうね、もうそこに神様が降り立ってくるっていうことを暗示しているわけですね。だから松の木は大切にするし、松は千年以上生きるなんていうことも言われたりもしていますし、特に松の木っていうのは山のてっぺんのですね、てっぺんは風がよく吹いたりとかするし、水もですね、あんまりこう溜まっていかないので地面が乾いていくんですね。
そういう過酷な環境にこそ松の木っていうものは生えるんです。つまりそこには人が立ち寄らないこと、立ち寄ったって意味がないこと、用がないところ場所なんですね。そういうところには松の木がいっぱい立っていて、そこは神様がいる場所なんていうふうに言われたりもしております。
はい、ということでございました。さらにやっぱり木の形とかも見ているとですね、窓木なんていうことがあって、これね、これ本当に今最後に大事な話なんですけども、窓木っていうのは枝がですね、交差するようになってしまって、しかもその枝と枝がくっついちゃったりとかしてですね、そこに1個の空間、窓のような形の空間が空いている木なんですね。
この窓木は向こう側とこちら側の世界っていうのは全然違う異次元の世界、異空間につながる場所だっていうことなんですね。そのですね、向こう側は神様の世界だよなんていうことがあって、この窓木というものを切ってしまうと何かこう災いが起こるなんていうことがあります。
これ塞ぐなんていうことがですね、さっきの動物たちの役目として持っているかもしれないよなんて話はしちゃったんですけども、でもこの木をですね、やっぱり大切にしなくては、そうですね、やっぱり切ってしまうっていうことは、この入り口をなくしてしまうことであって、それからもしその時にですね、自分自身が向こう側の窓木のゲートの向こう側に世界に行ってしまったとしたら、自分自身が帰って来られなくなっちゃうっていうこともあるんでしょうかね。
ということでですね、そういった木を切ってしまったら何か災いが起こるなんていうことを言われています。
あーそうそう、窓木、ナオミさんそうなんです。窓の木と書いて窓木ですね。
あ、さらにありがとうございます。盆栽、松のイメージ、なんかありそう。ありそうですよね。
そうそうそう、だからね、この松っていうのもすごく特別な言い伝えというか伝承があって、大きな松にはですね、やっぱり神様が宿るよなんて話がありますよね。
そうそうそうそう、ナオミさんありがとうございます。
あちらとこちらの世界の境目はとても曖昧なんですね。
その通りだと思います。
もう本当に日本人のその境目ってすごく曖昧だなぁと思っておりまして、
家を一つ見てもね、縁側を作ってさ、この外の世界とうちの世界の間っていうのを作るじゃないですか。
こういう感じで、家の中ですらも外、外の世界ですらも家というふうにしてたりとか、
あとお庭を見てても尺径なんていうふうに言ってですよ。
あの庭の中だけで景色を完結させるのではなく、その向こうに見える山とかそういうところまで含めて自分の庭の景色とするなんていうことがあって、
日本人ってね境界線を引くときもあるんですけども、この結構緩やかでいつでもこの境界線を取っちゃうようなんていうことがあります。
もうちゃん自身はですね、今、地区150年の古民家に住んでおりますけども、古民家をすごいたくさん見てきたんですよ。
そういった古民家たちっていうのは、今の新地区の家とかマンションとかとは全く違う作りをしてますね。
これはね、確かにね、表すと5LDKとか、この間僕見たのは10LDKとかそういう場所なんですよ。
10LDKってどんだけ部屋あんねんと思ってね、その古民家に行ってみたらですね、びっくりしたのがですね、確かに10LDKにやろうと思えばできるんだけど、
全部襖が取れていれば一つの部屋なの。一つの部屋なんだけど、その後には細かく仕切れるようになっていてレールがあってね、
そこに襖とか建具を建てていくと一つ一つ部屋を区切ることができますよみたいなことで、
隣の部屋との境は襖一枚みたいな感じでね、普段はその襖を全部取ってあるから一つの部屋なんだけど、これは10LDKですなんていうことを言ってて、
とにかくこのね、今のその建築のさ、建築というか、不動産屋さんの言い方では、あれはしきれない。
そんなようなですね、間取りがあるなあなんていうことを思ったりもしていますね。
本当にだから曖昧だよね。
そうそうそうなんですよ。小民家の図面で確かに小さい部屋だらけですね。
そうなんですよ。ここ部屋みたいな2畳で一つの部屋なんて本当にあるのって、今ないよね2畳1間なんてね、
作ろうと思ってもないと思うんですけど、それが平気であるのがこの小民家ですね。
1畳1間っていうのはちょっとまだ僕は見たことがまだないんですけど、2畳で1間、2畳あんてよく言ったものですよね。
昔そのお茶を飲ませていただく茶室を2畳あんなんて言ったりもした。
2畳あればお茶を立ててさ、お客様をおもてなししてさ、そこで心を休めることができるなんていう、
そういう畳のお部屋のことですけれども、2畳あんなんてよく言ったものだなあなんて思いますよね。
本当にそうです。そう思うとさ、明日の直美さんとのお話に畑を託すようですけれども、
食べ物と自分との境目、それから土と自分との境目っていうものもどこにあるのかなってわからなくなることがよくあります。
自分の中にその食べ物が入ってきた瞬間に自分の一部となるのでしょうか。
ということは自分の口というものが境界線なのでしょうか。
それとももっともっと前の段階からこの土の中に種が落ちた瞬間から実はそれが自分の体の中に入ってくるということが決まっているならば、
その土もまた種もまたその時点から自分の一部なのでしょうか。
なんていうこともね、ちょっと考えてしまいますね。
直美さん、そうですか。地元の小民家に最近出入りしてますがよくわかります。
すごいですね。地元の小民家出入りされてますが、小民家っていいですよね。
部屋がたくさん確かにあるんですけど、開放感があるというか、どこまでも繋がっているような感じがあって、
すごく僕的には心地よいんですけれども、今新築を建てようとすると何部屋必要かとかっていうところから設計士さんにお願いをしたりするもんで、
こういった小民家みたいな話にはなかなかならないんだろうなっていうことを思ったりもしております。
ということで、ちょっと今日はですね、そういった時空の狭間の話から、こういった空間は境界線は淡いよね、なんていう話になっていきましたけれども、いかがだったでしょうか。
古民家と境界線の考察
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こうやって毛ちゃん、毎日のようにですね、こういった民族学、人類学、そして日本の交渉、伝承ですか、口伝いで伝わってきたものだとか、そういったものを紐解きながらですね、
毛ちゃん自身ファンタジー作家として、これを世界観を編んでいってですね、こだまこまちプロジェクトというものを作っておりますので、
もしよろしければ、番組の概要欄にですね、メールマガジン、これをですね、大募集しております。今度はやっと2回目ですね、2回目の配信を金曜日あたりにしようと思っておりますので、ご興味ある方はぜひご登録いただけたら嬉しいなと思います。
そしてそしてそして、明日の9時から、ナオミさん、分かりやすいです。ありがとうございます。
はい、ベロから読み解く未病チェックということでですね、ナオミさんとですね、一緒に薬膳のお話をね、させていただけたらなと思っております。
はい、ナオミさんは食薬膳師さんでございまして、毛ちゃん自身も風邪の薬膳師として名乗らせていただいております。
はい、薬膳というところをですね、切り口にどんなお話し合いができるのかなということで、初めてのコラボレーション楽しみにしておりますね。
ナオミさん、明日よろしくお願いいたします。
明日9時からこのチャンネルです。
ということで、お時間をいただきありがとうございました。
今日コメントをいただきましたのは、ナオミさんとソラニャンです。
明日お二人のコラボ楽しみにしています。楽しみです。いろいろ教えてくださいということで、本当にありがとうございます。
毛ちゃんこそですね、ナオミさんから教えていただきたいことがいっぱいいっぱいありますので、よろしくお願いいたします。
ということで、お時間をいただきましてありがとうございました。
お相手は、こだまこまちプロジェクトの毛ちゃんでございました。
またお会いできることを楽しみにしております。
今日も素敵な一日をお過ごしくださいませ。
あなたとあなたの大切な人に森の精霊のご加護が訪れますように。