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おすおす!
おはようございます。
こんにちは、こんばんは。
こだまこまちプロジェクトのもおちゃんでございます。
2月23日、日曜日の夜に収録をしております。
いかがお過ごしでしょうか。
僕が朝出かけようとすると、
いつも決まって飼っている犬が吠えるんです。
僕がカバンを持ち上げると、またジャケットを羽織ってジッパーをじーっと上げていくと、
それに反応して、わわわわわわ、吠えてくるんですね。
そして、僕の行く手を阻もうと、玄関の前ですっくと立って、
そして、わんわんわんわんって、とにかく泣き散らかして、僕の行く手を阻もうとするんですね。
すごくかわいいです。
泣くって言いますよね。
動物が泣く、犬が泣く、その時には口辺に鳥って書きますよね。
一方で、人が泣くっていう時には、さんずいに立つって書いて、泣くって書きますよね。
僕はね、ずっとこれなんでさんずいに立つなのかなって思ってたんですが、
まあ人が悲しみのあまり立ち尽くして、そしてさんずいは水を表すわけですから、
涙を流している、そんなイメージなのかなと思っていたんです。
しかしですね、一説によると、これはちょっと意味が違って、
もともとはさんずいに木が2本立っている。
そのさんずいに木が2本で、泣くっていう意味があったんだと。
まあこれって寂しいっていう字じゃないですか。
さんずいに林って書くのって。
なんですが、まあこれがいつの間にやら、木が2つ立っているっていうことで立つという風に変わったんだそうですね。
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じゃあなんで木が2つっていう風に書くのかというと、
その木がずっとずっといくえにも立ち並んでいるその様子、
これが涙がとめどもなく流れている。
次から次へと涙が流れている。
木が何本も立っている。連続しているっていうことが連続して涙が流れているっていうことに置き換えられて、
そしてこれが泣くという風に言われたんだそうです。
まあ泣くっていうのはさ、一度泣き始めたら咳を切ったようにね、
ドバッと次から次へとその涙がどこからか溢れ出し、自分の頬を伝っていきますよね。
今日はこの泣くっていうことをちょっと話してみようかなって思っています。始めていきましょう。
この番組は自然の中で育ち、自然の色の卵があることを知ってほしい。静岡県から。
日本、たった1%の幸せのニワトリの卵を届けたい。
お山の農園、ホームビルさんを応援しております。
ホームビルさん、いつもありがとうございます。
なんかこんな放送をね、させていただいて、なんか意味があるのかなとか思うんですけど、
いや、もーちゃんの放送、私に合ってるんだとか、いつも何か気づかせてもらえることがあるんだっておっしゃってくださる方がいるから、
自信を持ってというか、自信はないんだけど、まあ、今日も語っておこうかなって思っております。
今日は泣くっていうことなんだ。もしかしたら、どんな人にも経験があるかもしれない、
もーちゃんのエピソードをお話をさせていただきたいと思っています。
もーちゃんはこの前、お葬式に参列させていただいたんです。
そのお葬式は、もーちゃんの祖母にあたるね、おばあちゃんのお葬式でございました。
おばあちゃんとはもう20年近くお会いしていなかったので、まさかね、こういう形での再会になるなんてと思っておりました。
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そして、そのお葬式に参列をした際、周りの方々は涙を流していらっしゃったんですよね。
それはもう、毎日のようにお会いしていたり、仲睦まじかった方もいらっしゃったんですよね。
そんな方々は、やっぱり二度と会うことができないという、そんな局面に立ち会って涙を流す。
熱いものが頬を伝わっていくっていうことがあったんですね。
しかし、もーちゃんはどうしても涙を流すことができなかった。
自分のことが許せないんじゃないかっていうくらい、呆れてしまったんです。
なぜここで流す涙を持ち合わせていないのかと、これは関係の深さのことなのか、それとももうちゃんがただただ冷たい人間なのか、こんなこともありました。
僕の恩師の一人、僕はですね、今、高知県の山の中に住んでいて、このスタンドFMをお届けしております。
そんなもうちゃんを自然の中に誘ってくれた恩師がおります。
その恩師がみんながいる前で、自分の病気を告白したことがあったんですね。
その時、実は重い血液の病気なんです、と明るく報告をしてくれたことがありました。
私は笑顔の力でこの病気を乗り越えていくんだと、そうおっしゃってくださったんですね。
まだその先生は御存命だった時、僕は泣きました。
その告白を聞いた時と、僕の中から熱いながらも寒さむしいものが溢れて、それが目から溢れ出て、そして頬を伝っていったんです。
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しかし、その先生が天国へ旅立った時、お葬式に参列させていただいた時、やはり僕は涙を流すことができなかった。
僕の父は今、難病に犯されていて、いつその命の灯火が消えてしまうかもわからない、そんな状況におります。
父のお見舞いで病室に入った時、管をつけてようやく呼吸ができている、そんな弱り切った父を見て、僕は涙が溢れてそうになりました。
泣いてはいけない、ここでは泣いてはいけない、と涙をぐっと飲み込んだんです。
父はまだ幸いにも命つないでおりますが、まだ会える父に、なぜこんなにも涙が溢れ出そうになったのか。
そして、なぜ他の方のお葬式の時には涙を流せなかったのか、僕はずっと不思議でならなかったんですね。
僕は小学校の教員をしていました。
11年間という長い長い年月、子供たちと過ごさせていただいたんですね。
僕が教師になる時に一番最初に名前を覚えた子がいたんです。
僕が一番最初に持った生徒、クラス、その中の出席番号一番の男の子でした。
その男の子が卒業する時、僕は涙を流しながらその卒業を祝ったんですよね。
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いつでも会えるのにさ、なんだかいつでも会えるのにもう会えない気がして、それって寂しさだったんだと思います。
でもある時、その子が急に天国へ旅立ったんですね。
僕がこれまでで子供たちの中で一番最初に名前を覚えた男の子が、若くして天国のはしごを登っていきました。
その時、僕はやっぱりお葬式に立ち会ったんですが、泣き崩れる保護者のお二人を見ながら、僕はそこで流す涙を持ち合わせていなかったんです。
僕にとって特別な一人であったに間違いないのですが、なぜ流す涙を持ち合わせていないんだろうと自分を責めたりもしました。
ともすれば、僕は一人暮らしを始めた時に最初に住み始めたその部屋、その部屋は僕にとって社会に出た時の、言ってしまえば一つの小舟なんです。
小さな舟です。この小さな舟から僕の社会人の生活を始めていこうと思ったんですね。
その舟とお別れをする時、僕はワンワン泣きました。
実はこのスタンドFMを始める前、もう一つチャンネルを持っていたんですね。
もう消えてしまいましたけど、その時に僕は最後にその部屋で部屋へのお別れをチャンネルに撮ったものがあったんです。収録したものがあったんですね。
もうリアルタイムでワンワン泣いて、もうぐっと堪えきれなくて、それでお別れしたんです。
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その部屋はまだありますよ。もう二度とその部屋に入ることはないとしても、まだその部屋はこの世界にあるんです。取り壊されたりもしていないんです。
なんで僕は二度ともう会うことができないそんな人たちに対して涙が流せず、まだ会えるよっていう状況下で涙を流すんでしょうか。
こういうことってご経験あります?
最近わかったことがある。それは亡くなった人ほど僕との距離が近いんだってことです。
これまで一度たりとも思い出さなかった人が天国へ旅立った。
そんな時にその人のことを身近に感じる。自分の中にその人がふと存在するかのように感じる。
今日お話をさせていただいたもうこの世の中にはこの世にはいない人たち。
なんで今日僕はその人たちのことをお話することができたんでしょうか。
おばあちゃんや恩師やそして僕の初めて名前を覚えた生徒。
なんでその子たちのことを今思い浮かんで話すことができたのでしょうか。
もう二度と本当にもう二度と根性では会うことができないそんな人たちは僕の中に息づいているんだなっていうことがわかりました。
寂しくないのかな。だから涙が流れなかったの。泣く寂しいっていうこと。
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自分の中にその人がいてくれれば寂しくないのかな。わからんです。
でもさ、そういうことあるよね。
涙をしている人、声を上げてわんわん泣いている時以上に声を上げず、涙を流さず、
ただじっとじっとその人の体温を温もりを感じるっていうこと。
その人に思いを馳せるということ。自分の体の中で思い出が駆け巡るっていうこと。
その人との過ごした景色が思い浮かぶということ。
それが自分の中に息づいた時寂しさを超えるのかもしれません。
最近読んだ本の中にこんな一節がありました。
悲しみというのは愛と書いて悲しみと読ませることもあるんだということ。
それは自分がその人に愛を注いだ証なんだということ。悲しみというのは愛の証なのだということ。
そして美しいと書いて悲しみと読ませることもあるのだと僕が読んだ本に書いておりました。
美しいと書いて悲しみ。それは人がじっと涙も流さずその人との思い出に胸を馳せながら日々を生きていく決心をしたその人の姿に贈られる言葉なのではないか。
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美しいと書いて悲しみです。
いかがだったでしょうか。最後まで聞いてくださったあなたぜひいいねやフォローで足跡を残していってくださいね。
今僕がたどり着いている現在地での答えです。
泣きたい時に泣けないそんな時が僕にはいっぱいあります。
でも僕は決してその人との別れ別離をないがしろにしているわけではなくその人のことで頭がいっぱいになる胸がいっぱいになってはいるんです。
お葬式へ参列をするとその人の家をじっと見つめます。
その人との思い出が胸を駆け巡るんですよね。
そうしているうちに自分の中にその人が息づいてきてその方から学んだことやその方が生きてきた人生の一部を僕の中に根付かせることができてそしてなんだか不思議その方が
僕のことをいつでも見守ってくれているような気がして応援をしてくださっているような気がして
そこにはいないはずなのにもうこの世にはいないはずなのにでも僕の力になってくれるそんなことを実感しているんですね。
お時間が来たので今日はこの辺にしたいと思います。
お相手はこだまこまちプロジェクトのもうちゃんでございました。
またお会いできることを楽しみにしております。
今日も素敵な一日をお過ごしくださいませ。
あなたとあなたの大切な人に森の精霊の子が子が訪れますように。