現代の出版状況
オースオース、おはようございます。
こんにちは、こんばんは、こだまこまちプロジェクトのもおちゃんでございます。
いかがお過ごしでしょうか。
今日も僕はですね、山椒という作物、これのね、出荷のお手伝いというか、
出荷のですね、お仕事をさせていただいておりました。
はい、そうですね。
お、そらにゃん、お疲れ様です。
こんばんは、ということでありがとうございます。
よくぞいらしてくださいました。
ゆっくりしていってくださいね。
いや、昨日はね、お休みさせていただいたんですけれども、
今日は今日とて、またライブ配信していきたいなと思っている。
はい、今日はですね、
もーちゃん、久しぶりにテーマを一つ立てて、お話をしようと思っているんですよね。
全ての本を読むことができなかった、できない時代の、できない令和の時代に生きる、
僕が全ての本を読むことができる時代のことをですね、考えていくっていうそんなテーマなんです。
なんじゃそりゃーって感じですね。
今ね、日本では、日本だけで考えてですけど、
毎日200冊程度の本が出版されているんだそうです。
なんか電子書籍とかも考えるともっと多そうだし、
ほらブログとかさ、なんかそういうのも考えるとものすごく多そうですよね。
まあそんなさ中ですね、本という紙の本で出版されるのがだいたい200冊程度ってことですって。
いやーすごいよね、200冊1日に出るっていうだけでもさ、
1年間に何冊?1万冊くらいは出るのかな?
なんていう感じがあって、はーすげーなーと思いましたよね。
あ、ナオミさんこんばんは、ゆっくりしていってくださいね。
もーちゃんも今本を書かせていただいているんですけれど、
それも1万分の1冊になっていくのかなんていうこと思うんですけど、
多分ね、もっと多い気がするよね。
1日あたり約200冊、あ、年間ですね、約7万冊登場してるんですって、この世界で。
そうなんですって、すごいね。
そして1日あたり約192冊なんていうことになっているそうなんですけど、
でも多分自費出版とかもあるともっともっと多いような気がします。
そんな時代に僕たちは生きているとですね。
でさ、もーちゃんね、昔考えていたことがあったというか、
こういう子供時代だったんですけどね。
父が1ヶ月に1回500円をくれたんですね。
この500円は、あ、そうそう、ナオミさん年間7万冊出版されているんだそうですね。
無理だよね、全部読むなんてね。
っていうのが今の時代なんですよ。
子供の読書体験
で、もーちゃんは小学生の時だったかな。
1ヶ月に500円だったかな。
本を買うお金をもらえたんですよ。
500円って言い過ぎかな。
言い過ぎっていうか少なすぎかな。
本を1冊っていう感じですかね。
だからお小遣いの他に、またお菓子とか買うお金の他にですね。
その親に連れられて本屋さんに行って、
これを買うっていうその1冊をね、決めるっていう習慣があったんですよね。
これはね、とっても素敵な習慣だったなって思います。
僕もね、子供にね、してあげたいなって思ったりしますよね。
そんなもーちゃんはさ、いつも漫画を買ったり、コロコロコミックっていう雑誌を買ったりしてたんですよね。
あれさ、1冊は1冊じゃないですか。
だけどコロコロコミックってめちゃくちゃ分厚くて、
そのまま枕にしてもいいんじゃないかなっていうくらいさ、分厚いんですよね。
いやーこれはさ、1ヶ月間ずっと読み続けられるよねーなんていうふうに思ってました。
その時って僕自身が本を自由に買うことができず、
1ヶ月1ヶ月何を読むのかってことをじっと吟味をしてね、
これだ、これを読みたいなんていうふうにして選び取っていたような感じがありました。
そんな幼少期時代を過ごしていたんですね。
だから今考えるとですね、
えー月に1冊?もっとさ、多読でしょ?とかね、
もっともっとたくさんたくさん読めばいいじゃないかなんていう感じになりそうですよね。
だってさ、本にはいくらでもお金を使った方がいいよとかさ、言うじゃないですか。
確かさ、僕言われてたのが、月収の10分の1は書籍に当てろみたいなこと言われてた気がしますね。
なんで、初任給が確かその時って20万円ちょっとだったと思うんですけど、
そしたら2万円は本を買えというようなことを言われていたような気がしますね。
それは僕が新卒だった時代ですよ。
それから、あのー、
あーそうそうそうですよね、直美さん。
ついつい親が選んだ本を与えたくなります。
子供たちに選ばせるんじゃなくて、自分がね、これ読んだ方がいいよなんていう風にしてね、
子供に手渡すなんていうことがあったように思いますね。
てか、ありますよね。それはありますよね。
お金を出すのは親だからね。
なんて思ったりもするんですけれどもね。
こんな感じでさ、今は本当にたくさんの本に触れることができるようになったし、
もーちゃんのね、勤めてた学校ってすごく恵まれてて、
研究費っていうのがさ、年間2万円出てたんですよ。すごくないですか。
2万円は自分の研究のために使って良いということなんですね。
だからどこかに研修に出かけていくとか、それもOKだったし、
何か資格を取るっていうのにもその2万円を使っても良かったし、
はたまた本を買うっていうので2万円を使い切っても良かったなんて言って、
本当にね恵まれたような、そんな環境におりました。
本の歴史と影響
今みたいにたくさんの本を読むことができるよーなんていうね、
こういった時代になったのって実はいつぐらいからだったと思いますか?
とてもじゃないけど、この世の中にある本を全て読み切ることなんてできないよーなんていう時代は、
実はですね、日本では19世紀あたりから始まったっていうですね、
だからさ1800年代くらいですかね。1800年代あってるよね。
1800年代くらいになってようやく印刷技術がですね、
いろいろ整ってきて、もうこの世の中はたくさんの本で溢れるようになってきたっていうことですね。
じゃあさ、1700年代とかそういった時代にはどうだったのっていうと、
それまではですね、ありとあらゆる本を自分自身で手に取ることができたというか、
手に取ることが結構難しかったんですよね。
本一冊一冊がめちゃくちゃ高かったっていうことがありました。
本の歴史をですね、調べていくと、まず紙っていうのがすごく貴重でしたよね。
昔ってね、パピルスっていうエジプト文明の時にはね、
パピルスっていう植物由来の紙みたいなものを使っていたんですけど、
これがですね、まあ巻物なんだわ。
本じゃなくて巻物なんですよ。
っていうのはもうね、これね、どこに大事なことが書かれてるかっていうのがね、読めないんですって。
はーって思いますよ。巻物ってね、実際に開いたことありますか?
あれってさ、右手でくるくるくるくるって開きながら、
左手でですね、また閉じていくっていう作業があるんですよね。
今みたいにページ数とかが書いてあるわけじゃないので、
あれどこに書いてあったっけって、すごいもうサーチしなきゃいけないんですよね。
だからすごく非効率だったんですって。
しかもね、巻物って案外場所を取るんですよね。
だってそうだよね。だって芯があるじゃないですか。
あの芯の筒の真ん中のところ、空洞のところには何も書かれてないんですからね。
そりゃさ、その情報の収納スペースというのはかなり大変ですよね。
あ、そらにゃん、巻物、実物は読んだことないなぁということですね。
ありがとうございます。
僕はね、小学校で教員してた時に、巻物で絵巻物を書くっていう授業があったんですよ。
図工の授業でね。
今さ、その白紙の巻物なんていうのが売られてて、
それにですね、ずーっとね、自分で絵を書いていくんですね。
それって、今の本みたいにさ、物語の本みたいに1ページ1ページ分けて書くんじゃなくって、
ずっとなんか物語が続いていくような感じなんですよね。
切れ目がないというか、
そういうのをですね、作品として仕上げていたよなんていうことがあったので、
僕にとって巻物っていうのは、本物でないにせよですね、
よく馴染みのあるものだったりもするんですけど、
まあ、とにかく場所を取るとね。
それからですね、
あ、そうそう、面白そうでしょ、そらにゃん。
どうですか?新しい表現方法の一つとして。
もうずーっとさ、あれ何ですか、超重ギガとかって絵巻物なのかな?
ね、動物たちがさ、やんややんややっているあの絵って、
ずーっとこれ絵巻だったんですよね、たぶんね。
だからさ、どこまで行ってもどこまで行っても物語が続いていくみたいなね、
感じだったんじゃないかなって思います。
ね、そうそう、どこまでも書き進められちゃうよね。
だから紙っていうのはすごく限定的なものになりましたよね。
範囲が決まっていて、ページ数とかはサッと開きやすいけれど、
なんていう、そんなようなところでしょうかね。
それで、あとはそうですね、
竹刊とか木刊っていうものって聞いたことあるかな?
あの平安時代ぐらいはですね、確か日本でも使われていたと思うんですけど、
木の札、木刊というものにですね、書かれていたものがあるんですよね。
お、そらにゃんさすがですね、聞いたことありますね。
そらにゃん勉強家ですね。
そう、どこの国で取れた、何の作物なのかとかっていうのをですね、
都に税として運ばれるときに、ちゃんとそこに書いて記していたんですよね。
あとは竹刊っていうのは中国の方でもですね、かなり使われていて、
日本にも入ってきた、なんていう絵記冊があるんですけど、竹のですね、
札に字を書いていって、それを紐でつなぎ止めていく。
そしてそれを一つの文書として保管をしていく、なんていうことがあったんだそうです。
実は今の漢字の一冊とか二冊とかって言って、
冊っていう字あるじゃないですか。冊数の冊ですよね。
あれって実は竹刊とか木刊の木の札とか竹の札を紐を通してね、
一つのつづりにしたよっていうことが、実はこの文字の出来方なんですよね。
だからその竹刊で紐で結んだっていうのが、それが一冊なわけですよね。
今でいう本の一冊なんですよね。
しかしですね、この竹刊とか木刊っていうのはすごく場所を取るんだ。
本当に場所を取るんですよね。
今のですね、書物たちを考えるともう100倍はいかないんですけど、
もう50倍、60倍、70倍のスペースを取るというようなことになっていて、
もう実際ですね、図書館を開いたとしてもですよ。
昔から図書館っていうのはあったんですけど、
すべての本を読む時代
その中にですね、しまっておける情報量っていうのがそんなに多くなかったっていう時代があったんですって。
いやーこれはね、面白いよね。
だからさ、パピルスなんかはアレクサンドリア図書館だったかな。
世界最大の、しかも最古の図書館には70万巻物ぐらいあったそうなんですけど、
今の本で換算するとたったの7万冊ぐらいだそうですね。
だから相当な分量があったけど、実際本にするとすごく少ないという感じですね。
7万冊を読むことができるかって言ったらちょっと微妙ですけどね。
日本ではですね、でもね、全部を読むことができた時代が僕はあったと思うんですよね。
っていうのは識字率も結構高かったし、皆さんが本を読み書きできる、字を読み書きできるっていうようなところがあったから、
結構、そう今出ている本というものは、大体代表的なものはみんなが読むことができたよっていう時代があったと僕思うんですよね。
しかもですね、この本1冊っていうのがまあものすごくですね、貴重効果だったっていうのは、
何でかっていうと、印刷技術がなかったからなんですね。
だからね、本はね、写本って言って、とにかく手書きで全部写していたんだそうです。
写して写して写しまくって、そう書き写しですよね。
それで1冊作るっていうのは、まあものすごく労力がかかる、手間がかかる、そして費用もかかるっていうから、
まあ実はその庶民たち全員が受け取れたわけじゃないけども、
でも、一部の権力者たちはですね、そういった本も全部読むことができた人たちがいたのかなあなんていうふうに思います。
文化と共有
で、もうちゃんです。
今日の話、何でこんな話をしてるかっていうと、
大学時代に読んだですね、柳田邦夫先生、民俗学のですね、柳田邦夫先生が大読書歴っていう本をですね、書かれたんですね。
晩年に確か。
これはですね、本をですね、どうやって読んでいくかっていうことを書いた本なんですけど、
とにかくそこにはですね、世の中全ての本を読めた時代があったなんていうですね、1冊が書かれておりまして、
そんな時代ってどういう時代だったのかなあっていうことにすごく思いを馳せるんですね。
で、今言ったように全ての本を読むことができた時代っていうのは、もう一度振り返るとですね、とにかく印刷技術がなかったから、
写本ですね、とにかく写し書きをとにかくしまくっていたっていうことで、1冊と付き合っていく時間がめちゃくちゃ長かったんですよね。
しかもその1冊を手に入れるための値段っていうものもすごく高かっただろうし、本をもらったなんていうと、それはもう大事に抱き抱えてね、何度も何度も擦り切れるまで読んだ。
もう1回読んだらポイってしてしまうような、今みたいなことではなくって、もう何度も何度も何遍も読みまくった。
そしてさらにそれはですね、今はもうなくなっちゃった風習かなと思うんですけれども、他の人たちとですね、その読んだ本について語り合うっていう時間があったと思うんですね。
っていうのは、いまモーちゃんが何で廃れてしまった文化だっていう風に言ったかっていうとですね、今でもありますよ。
ビブリをですね、本をですね、こうやってみんなで共有し合うという文化はなくはないんだけど、読書会とかそういうところではあると思うんですけどね。
モーちゃんがね、めちゃくちゃ変わったなーって思った瞬間があって、この時代が。それはテレビをみんなが見なくなったっていうことなんですよ。
テレビを見ていた時代って僕たちは通ってるじゃないですか。
多分30代以上の人たちはですね、テレビをとにかく毎週欠かさず楽しみにしている番組があったに違いない。
そしてその番組を見て、次の日が学校とか会社の職場とかに行って、昨日のさ、見た?ミュージックステーションみたいなこととかさ、昨日のドラえもん見た?みたいな話をさして、
多分同じものを見ていた。そして同じもので共有をしていたなんていうね、時間を分かち合っていたなんていう時代があったんじゃないかなと思うんだけど、どうでしょう。
もうちゃんはそれがねあったんですよね。あんまりこう芸能人のことは分からなかったけど、ミュージックステーションでとにかくモーニング娘。が出るとかですね、好きなバンドが出るとかって言った時にはとにかくそれをね見てですね、次の日もうね語り合うなんていう習慣がありました。
ああ、ナオミさんありましたね。あったよね。いやあったでしょうね。ありましたよ。それから僕みたいなですね、ゲーム大好きなゲーマーたちもみんなが同じゲームしてたんですよ。
ゲームをですね、今みたいになんか全部やりきることができないなんてことはなくって、今発売されているゲームでみんなが手に届くものとか手に入れられるものって本当に限られてたんですよね。
ドラゴンクエストもしかり、ファイナルファンタジーもしかり、スーパーマリオもしかりなんですけど、次の日学校に行ったら、どこまで行った?どこまで行った?なんていうことを語っていってた時代でした。
いやーすげーな、あのボス倒したんかよ。いやー俺まだ倒せてないんだよ。ちょっと悔しいなと思いつつも、レベルいくつで倒した?とか弱点なんだった?とかそういうのを聞くんですよね。
そして学校でこういった会話が繰り広げられて、自分が生の情報で、他の勇者たちに聞いてるわけですよね。他の冒険家たちに攻略法を聞いて、よし家に帰ったらって言って勇者業に戻って。
それでゲームポチッとして、今日学んだ攻略法を試してみる。そしてボスが倒せたら次の日倒せたよーなんて言っていくと、もう次の日は教えてくれた人はまた次のボスを倒しちゃってる。どんどん差が開いていくなんていう時代がありましたね。
現代の情報社会
そらにゃん、そうだったんですか?男子のゲーム談義に耳をダンボーにして聞いてました。そらにゃん好きだったんですね。本当にね。やっぱりゲームの話するのは男子だったんですかね。やっぱりね。そんな感じがもうちゃんの世代もしますけどね。もうちゃんの方の地方もしましたけどね。
ナオミさんありがとうございます。攻略本も売ってましたもんね。そうそうそう。もう攻略本もものすごく楽しく読んでたなーっていう時代がありました。これがさ、ゲームがなかった時代っていうのはとにかく本を教養として本を娯楽としていた時代があってさ。
そして読んだ読んだって滝沢馬琴先生の南宗波里見八犬伝の新しい回読んだみたいな話が繰り広げられていた時代があったと思うんですよね。その時にさ、繰り広げられていた話ってきっともうね、すごかったと思うんですよ。興奮しっぱなしだったと思うんですよね。
楽しいんだよね。私あの人好きとか言ってさ、登場人物に恋をしちゃったりとかしてたと思うんですよね。いやー、こういう時代いいなと思うんですけど。何が言いたいかっていうと、話をしてシェアをすることによって一つの物語を共有していくというかね。
なんかこう一つのですね、なんて言うでしょうかね。ドラマがお互いの中に根付いていくみたいな感じがして、なんかより自分の中に物語が染み込んでいくっていうこともあるし、また同じ物語を共有している人たちってなんか仲良くなれるような気がしません?
それはさ、同じアイドルが好きって言っている人たち同士はすごく仲良くなれるような感じがあってさ、これが本を通して繰り広げられていた時代があったんだよね、なんて思うんですよ。
そしたら、今みたいにはいては捨てるようにですね、情報がこういっぱいいっぱいあってさ、で、今ね、その情報をとにかく右から左へどんどんどんどん入れ込んでいくなんていうような時とかさ、あと情報はただで手に入るなんていうこの時代においてさ、まあ昔の時代から学ぶことっていっぱいあるよなーってもうちゃんは思うんですよね。
なんかその何を手に取るかっていうことはまあ選択肢があんまなかったかもしれませんけれども、一つの選択肢をさ、一つの情報とか一つの物語をさ、もうさ、隅から隅まで暗記をするほどさ、自分で楽しんで友達と語り合ってさ、そして自分の血肉に変えていった、もうソランジで言えるくらいになっていたんじゃないかなーなんて思ったりもします。
そうですね、ナオミさん、不便の楽しさとでも言うべきものなのかもしれませんね。
はい、だからまあね、そういった時代にはそういった時代のまあ楽しみ方があったんだろうなーって思うとかと、あとね、やっぱりさ、あの映画見たーっていうことで語り合える場とか、あの本読んだーって言って語り合える場ってあったらいいよねーって。
もうちゃんなんかはこれ思ったんですよねー。はい、でね、実はそれがさ、僕たち人間がこうやって人類たるべく、人類たるゆえんというか理由で、まあこれはね、最近すごく有名になった話ですけれども、僕たちって物語、フィクション、虚構、ここにないもの何かを共有することができるっていうことでチームを作ってきましたねと。
例えば、お金っていうものはさーっていうことで、今目の前にいくらっていうお金がなかったとしても、どこかでお金が動いているから必ず自分元にやってくるよーなんて言われたりとかさ、ね、あとは国が扱ってるお金とかって目の前で見えなかったとしてもっていうこと、だけどそのお金のことを信じていけるから、お金の価値っていうものを信じていけるから、なんだかこうお金というものが自分たちのところに来たりとかした。
わけじゃないですか、とかとか、あとは政治的なこともそうだしさ、それから宗教的なこと、信仰的なこともそうだしさ、なんだかここにないような、松さんこんばんは、ゆっくりしていってくださいね、ありがとうございます。
今日はですね、すべての本を読むことができた時代の話をしています。
なんじゃそりゃーって感じですけどね。
アホミルさんこんばんは、ゆっくりしていってください。
ありがとうございます。
今日はすべての本を読むことができた時代のお話をしております。
はい、そうですよね。
そしたらさ、何を話したんでしたっけ、今ね。
すべての本を読むことができた時代があったんですよね。
そういった時代ではみんなが語り合うことができたわけですけど、とにかくこのね、皆さんでその一つの物語を共有するということで、神話を信じていて、この日本の民族っていうものが生まれていったりとかですね。
あとは木の伝説とか地域に残っている伝承とかそういうのを信じることで、なんだかこの集落の人たちの結束力が高まったりとかしてきたのかなーなんて思ってね。
それを思うとさ、今その情報がいっぱいあって、もういくらでもなんていうことがあるけど、ただその情報のことも吟味しつつですけれども、みんなで共有をしていくということで、なんか仲が深まるってことがあるのかもしれないなーって思うと、このスタンドMは最強だなって思ったりもします。
あ、ナオミさんそろそろ失礼しますね。娘迎えに行ってきます。ということで、ナオミさんありがとうございました。貴重なお時間をいただきました。いってらっしゃいませ。気をつけてね。
まだね、6時半明るいかな。明るいですけどね。帰ってくる頃には暗くなってきてるのかなと思いますので、気をつけていってらっしゃい。
著者の物語作成
今日はですね、もうちゃん本を書いているので、こんな話をさせていただいたので、最後にちょろっと本のことをお話ししてみようかなと思います。
この本こそね、なんかそうなったらいいなーって思うんです。そうかそうか、自分で出した本を読書会みたいなものを開いたりすればいいのかなーなんて思ったりもするんですけどね。
これで結構、教員だった時代にあった話だなーって思いましたね。教員として発売した本があった人がですね、読書会っていうのを自分で計画をしていくんですよね。
しかもそこにですね、自分自身、著者自身も行くというようなところがあってさ、そうしていくとなんだか学びが深まるみたいなことがあったんですね。
まあそれはさ、実用書なんですけどね。なんだろうね、この物語、私はこう読んだよ、私はこう読んだよ、僕はこう読んだよ、みたいなものが共有できるっていうのも一つ楽しいことなのかなーなんて思ったりもするんだよね。
あとは、そう、出版記念パーティーみたいなのって開くんですか?結構皆さん開いてるような気がするんですけれど、そういう世界線もあるのかーなんて思うと、別になんかパーティーしたいのかな、わかんないですけど、
でも、まあ披露宴みたいなものですよね。こういう本書きました、こんな思いで書きました、みたいなことをお伝えするっていうのはあるっていうのも悪くないのかなーなんて思ったりもするわけですけれども。
どんな本を書いてるのかっていうと、もーちゃんは今物語をマジで書いてます。自分で言うのもなんですけども、超夢があるなと思っています。
なんか久しぶりに坊ちゃんはそういった本というか物語に出会ったなーっていう感じがあって、とにかくなんか自分で書いてて笑っちゃうんだよね。
マジかこの展開はとかさ、マジかこのセリフはとかさ、そういうのを聞きながら笑っちゃうんですけどね。
今書いている本には動物たちがいっぱい出てきます。はい、動物たちがいっぱい出てくる本なんですね。
物語っていうのはもともと人だけで進んでいくものではなくて、何かこう人を超えた人知を超えたものだったり、動物たちっていうのがそこにですね、いるっていうこと。
でやっぱりね、進んでいくっていうのは物語で、もーちゃんその考え方を大切にしているのでね、こうなんかヒューマンストーリーっていうのもあるだろうなと思うんだけど、もーちゃんが書こうとしたのは今回はとにかく物語ですね。
はい、そらにありがとうございます。自分が最高に好きなのが出てくるの嬉しいですね。
嬉しいですね本当に。そしてね、やっぱりこうやって書いていると思うのがさ、今まで話をさせていただいた人がやっぱり出てくるんですよね。
その人の一言とかが出てきたりします。フィクションですけど、フィクションですけどやっぱり出てきて、この一言紡いだことの裏側には、例えばね、ホーンビルさんの送ってくださったあの卵の味が隠れてたんだなーとか、
そらにゃんがくれたあの言葉が入ってたんだなーとか、なんかいろんなことを感じますね。松さんが喋ってくれたペットのですね、お話が入ってるんだなーとかですね、いろんなことがあって一つの言葉になっているなーって思っております。
松さんね、動物のことをね、お話ししてくださってますよね。本当に素敵な配信をありがとうございます。
ということで30分経ちましたね。今日はこの辺にしたいと思います。本日は全ての本を読むことができない、令和の時代に生きる僕が全ての本を読むことができた時代に生まれたなら、なんて話をさせていただいております。
本の文化と価値
おーちゃんはとにかくあの本読んだでしょーとか言って、どうだったーなんていうことをね、やっぱりね、言いますね。そして多分さ、写本をするくらいだったらと言ったらあれなんですけど、写本をする文化が普通にあるんだったら、やっぱりタイムスリップしてその時代になったとしたら、自分で本を書くだろうなーなんて思ったりもします。
全部手書きだったっていうのはさ、字がとっても美しかったり読みやすかったりする人の本の価値ってすごく高いのかなーってちょっと思ったりもするし、本それ自体が伝統工芸品みたいなすごくこう価値のあるものな感じがするなーなんていうのも思うと面白いよね。
まあ今本当に本にね、囲まれて生活ができるような時代であるっていうことがすごくありがたいなーと思いつつ、はい、あのいっぱいいろんなものをね、出すことができて、とにかくアウトプットアウトプットのこの時代だからこそですね、自分の中で吟味をしてからこうやって出すっていうこともまたそういったタイミングもあるのはいいのかなーなんてことを思って、今日は一つ自分のねまとめをしてみました。
はい、ありがとうございました。
それでは、今日コメントをくださった方のお名前をお呼びしたいと思います。
松さん、そらにゃん、なおみさん、ホームビルさんでございました。
ありがとうございました。
あなたとあなたの大切な人に森の精霊のご加護が訪れますように。
今日もありがとうございました。
またお会いいたしましょう。