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こんばんは、港町レイディーをようこそ。村田です。鶴田です。この番組は荒沢になって生まれ故郷の横浜に帰ってきた二人がアルコールを片手に浜団木や趣味の話に花を咲かせるレイディーです。
今回は横浜中華街の歴史について話していきたいと思います。ということで、鶴田くん、今日のお席は何ですか?
今日は、ちんたおビールです。あー、ちんたおビールね。村田くんも。うん、ちんたおビール。ちんたおビールです。
ビンゴとね、はい、この、中華街行ってきますよ。いいね。とりあえず乾杯しますか。はい、乾杯!
いいね、この軽い感じが。あー、久しぶりに飲んだかもしれない。うん、クソ暑いっすわ。うん。
来る途中、中華街の酒屋でちんたおビール買ってみました。あ、そっか、中華街の通っていくもんね。あ、そうそう。
いきますか、じゃあ。じゃあ、中華街の歴史ね。はい、ダダン。ダダン、何なんだ。もし台湾有事で台湾侵攻が起こったら、横浜中華街はどうなるんだろう。
横浜中華街の歴史。イエーイ!ちょっと待って、なんかどういう流れ今。え?ちょっと、あのタイトルを知っていってみましょうか。うん。
さてさて、過去何回か港町レイドでも中華街話してますけど、うん。がっつりちょっと中華街の歴史やろうかなと思ってまして、
ほう。はい、横浜中華街、年間2000万人以上が来ると言われていて、週末は。へー。もう激込みな中華街ですけど、
言ってますか、村田くん。ご近所の中華街。言ってるー。自分が言ってる話じゃないけどさ、こうやって収録日的にはさ、昨日か一昨日くらい火事あったよね。
あったあったあった。あれ、収まってた?収まってた。僕もニュースで見てたけど、うん。なんか証言によると、うん。あの、急に鍋から火が出たとか。
証言が。すげー言ってたもん。そりゃ火出てるじゃん。嘘やん。で、原因を調査中っていう記事を読んで、うん。フフってなっちゃった。
急に鍋から火が出た。鍋から急にね、まあまあ出る。あ、で、収まってよかったですね。収まってよかったけど、言ってるー。はい。
言ってるけど、実は中華を食べるよりもウイスキーを飲んでる会社の方が多い。あー。中華街と言ったらやはりね、バーも多いんですよね。うん。これもいろいろな歴史的な背景があったりするんです。あ、あるんだ、背景が。あるんですよ。
中華街もバー目当てで突入することが圧倒的に多いね。そうね。たくさんあるもんね。うん。
ちなみに、えー、横浜中華街にはどれくらいの店があるのかと。うん。あの、中華街のホームページがあって、そこを引用すると、うん。
えー、料理、雑貨、お土産、クリーニング、靴屋さんとかなど、うん。大消費者向けの総店舗数、約630店舗ですと。ほう。
そのうち中華料理が約200ぐらい。あれ、3分の1ぐらいってこと?うん。で、その後飲食が80とか。うん。あとはサービス業が170ぐらい。サービス業ってのは例えば占いとかだと。
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あー、なるほどね。めちゃくちゃ占い。はいはいはい。そう。あるね、占いね。というまあ、200、中華料理屋さん200、もっとあるのにもするんだけども、もうめちゃくちゃあって。
バーとかがその他飲食店に例えば入ってくる感じなのかな?そうね、その通り。あとラーメン屋とか。そうそうそうそう。めちゃくちゃ飲食店ありますよね。
確かになんかあの、かき氷屋とか。ああいうのとかから。もう含め。そうだね。うん。そうなんですよ。
でもとにかく、なんか世界で一番中華料理屋多いんじゃないかってぐらい詰まってる。めっちゃ多いね。中華っていいっすよね。僕めちゃくちゃ好きだよね。
中華うまい。うまい、外さないし。うん。早いじゃん。うん。いつも疑問なんだけど、なんであんなさ、たくさんバラエティがあんのにあの、めっちゃ早いじゃなかったら、すごくね?って思ったのに。
理論あって、あの火力強い。作るときの。うーん。うん。だからさ。そこのスピード。そう、蒸し料理とかさ、これちょっとうまく温度調節してさ、いい感じに蒸さなくちゃとかあるけどさ、これ中華なんかさ、あの中華鍋でさ、もう超火力でさ、一気にバーみたいなさ、なんかイメージない?うーん、あるあるある。だから早いんだよきっと。
まあ、あとあれね、蒸し、小籠包とか。うん。わんじゅうは蒸すけど、一気に蒸すみたいな。でかい。あー、まあ確かにね。でかいやつ。あれはあれで早いのかな。うーん、そうだね。すごい手際になっていつも思いながら見てますけど。うん。まあこういったあの、食のイメージすごいありますけど。うん。これもう今の中華鍋の雰囲気も、だいたいね、戦後ぐらいからなんですよ。へー。1950年代以降ぐらい。うん。なんでそれ以前は、そんな感じじゃなかった。
この横浜中華街のエリアが。そう、なんかご飯屋さんばっかりとかじゃなくて。うん。小売店とか。うん。美容院っていうか洋服屋さんとか。うん。結構多かったらしい。そうなんだ。ちょっとそんな感じのことも話していければと思うんですけど。うん。なんで僕が中華街の歴史調べようかなと思ったきっかけなんだけど。それ大事。ちょっと冒頭で僕がちらっていた台湾とかの話があって。
うん。結構まあニュースとか、世界のニュースとか好きで聞いたりしてるんだけど。うん。よくやっぱりニュースで最近、中国はそのうち台湾に侵攻するんじゃないかという話題。うん。いわゆる台湾有事ってやつですね。うん。たまにもう話題で上がりますと。うん。で、ふとこう仮に侵攻がね、始まってしまった場合。うん。中華街ってどうなんだろうなって思ったんで。中華街。
横浜中華街のやっぱ雰囲気ってさ。うん。なんか、もしかしたら住んでる中華系の人の割合によって結構変わるんじゃねえかとか、ふと思ったんですよ。うん。なんか、だからそこから横浜中華街って中にいる中華系の人ってどこ出身の人多いんだろうとか。はいはいはい。住んでる人ってその中国大陸系それとも台湾系なのかとか。ああなるほどね。
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で、やっぱばゆーちゃんめちゃくちゃ気まずくてさ。うん。殺伐しちゃいそうじゃん。とか思ったの。うん。
でもよく考えてみたら、第二次世界大戦中のさ。うん。日本と中国とか戦った日中戦争の時とか。うん。さらにその前の新の時代の時の日清戦争とか。大阪の分ね。世界秘書家であると。まあその時も中華街あったからさ。
あれその時ってどうなったんだろうね。はいはいなるほどね。そうそう。そういうのをいろいろ調べていくと。うん。この先なんかその台湾維持みたいなのがあった時もどうなるかみたいなのが見えてくるんじゃないかなと思ったんですよ。
なるほどね。そこに興味を持ってもちょっと中華街の歴史を調べてみましたと。そこが見えてくれば、もしもの時の中華街での立ち振る舞いも完璧なものになる。
いやいや。完璧な立ち振る舞いを。いやいや全然できる。全然。そうそう。そんなことないですけど。そんなことない。純粋にちょっと興味。興味が湧いたとね。うん。
で、まあだから主にどんな人が住んでいるのかとか焦点を置きつつ、中華街がどう発展したのかなどをやっていきたいと思うんですけど。うん。なので本とかネットの記事書を読みながらまとめたことを話していこうと思います。
いいね。まあ特に本だとですね、タイトルが横浜中華街世界に誇るチャイナタウンのチリ歴史っていう。
チリと歴史の本。うん。読みました。清美さんという人が書かれたチクマブックスから出ているものが結構僕参考にしています。
うん。まあきっかけは結構その政治的な意味合いで僕これ調べ出してるんですけど。うん。
このポッテキャスト別になんか政治的主張をするつもりはないです。しないの?どっちの味方ですとか。そんな。味方とはね。どっちを支持しますみたいな。そんなことを別に言うつもりはない。
ただこういう歴史でこう作られてるんだみたいなことをたださえていければなと思います。ミナトマキレイでは中立だもんね。
そうそうそう。だいぶセンス良いよだから。そんな話入れたら。そう。
って感じで。ちなみにツルタは三国志、法戦記、キングダム、
宗典コロ、皇都流報とかめちゃくちゃ中華歴史物件好きです。おー。
あるね結構ね色々ね。めっちゃ好き。でも割と僕近代の中国史は弱いので。どこなんだろう。
台湾とかさ。うん。中華人民共和国とか全然覚えてない。三国志ぐらいじゃないとちょっとわかんないかもしれない。そう。三国志ってさあれ
200年とかの頃からあれ。おー。100何年とか200年ぐらいの時代の話だから。大層昔から。だいぶ昔。
なので今回調べにあたって一応簡単に調べたりはしてきてるので。そのことも話せればと思ってます。
でですね。いきなり今日イントロなんですけど僕なりの結論をはじめに言ってみますか。
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イントロで結論。一応ね。調べた感じだと台湾有事においては横浜中華街どうなるのかあんまわかんない。
あんまわかんないことがわかった。あんまわからないがわかったっていう。そう。というのはやっぱあの横浜中華街ってさ基本的に横浜開港の時からどんどんこう
発展してきてるわけね。うん。その時からやっぱ長い間形成した。独自の家境。家境ってあの中国出身の人が海外に行って海外に住んでる中華系の人を
家境って呼ぶんだけど。アメリカの家境とか日本の家境とか。うん。っていう独自のコミュニティとか文化とか結構育ってて。うん。
一概なんかその台湾系出身、大陸系出身だからこっちの支持団だとか。うん。
なんかそんな単純なね話じゃないんだよね。そういうもんでもない?そもそもやっぱ台湾とか中華人民共和国とかできたのって
1949年とか。うん。だからそれより前から中華街ってあってそこに住んでる中華系の人っているわけだからさ。うん。
単純にこうすごくこう対立があって避難し合うみたいな感じにはならないんじゃないかなと思ったんだね。うん。
まああの今後話していくんだけど。うん。中華街の中でも過去に結構たくさん大陸派とか台湾派で分かれて
衝突とか事件とかいろいろあったんだけど。あ、そうだね。その後いろいろ和解とかもあって。へー。
やっぱこう予感もしれない独自の中華の文化作ってるんじゃないかなと思ったから。うん。
まあわからんというか。うん。そう単純に衝突とか起きることはあんまないんじゃないかなというのが結論です。
なるほど。だから独自だから、諸外国でこういうことがあったからといって、単純にじゃあ日本の横浜中華街でも同じ感じになりそうだねとかって単純に言えるわけではない。
そう。っていう。そうそうそう。他の事例が単純に当てはまるようなそういう文化形成でもないよなっていうか。そう。
というのをこれからいろいろ歴史を話していくのを聞いてもらえると、その何単化分かってもらえるんじゃないかなと。
し、まあ逆になんかちょっと別の感想があれば教えてもらいたいなと思っちゃいますと。
ちょりますと。はい。ってことで長いイントロにはなっちゃってるんですけど、今日は残りの時間で初めの中華街の初期の話をしようかなと思います。
初期の話。開港から、開港が1859年。まあ1800年代ぐらいの中華街の話をちょっとざっとしようと思うんですけど。
開港が初期なのかやっぱり。うん。それまで基本的に鎖国市やからさ。外人あんまほぼいないみたいな。長崎の出島ぐらいみたいな感じだったんで。
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で、まあ1859年に横浜開港しますと。アメリカからイギリス、フランス、オランド、ロシアとかといろいろ通商条約を結んで、どんどん外国人が来て、外国人居留地っていうのを作ったよね。
あったね。住んでいいところみたいな。その一つが今の中華街のエリア。当時は横浜神殿っていう風に呼ばれる、まあもともと海だったところを埋め立てた場所でしたと。
ここ今の山下町であって、まあ中華街なんだけど。で、日本にやってきた欧米諸国の貿易省とか○○商会みたいなところは、通訳とか取引を日本で有利に進めるために、売弁という役職で中国人をたくさん連れてきましたと。
売弁?
売弁は売が買い物の売に弁が立つっていう。口がうまいの。売弁っていう制度とか役割のものがあるんだけど、これは欧米諸国化すると異なる文化の東洋において買い付けとか取引とかを有利に進めるために使う方法みたいな。
やっぱ東洋の化学貨品に通じる中国人を専属バイヤーとして雇ったのね。日本であのお茶とか糸とかなんかそういうの。
あーキートとかね。
そう、キートとかね。
で、こういう通訳とかで連れてきた中国人の人たちは、これ以外にもコックとか使用人とか荷物運びとかで中国人がやってきます。
これが横浜への佳境、中華系の人の起源と言われてます。
へー。
で、徐々にその佳境という言葉にちょっと追いついていくけど、佳境の人たちは増えていって、当時の中国はまだ王朝の、秦という国の王朝があったんで、
新都の貿易とかが盛んになってきた1874年とか、そのぐらいの頃に徐々に徐々に今の中国エリアに佳境の人が住むコミュニティが増えてきました。
大体この頃1000人ぐらいの人が住んでた。
これは多いのかな。
えーとね、欧米人の人と大体同じぐらい。
で、この時どこ出身の人が多かったかっていうと、どこから来たのかと。
言うと、関東省、今の香港とか、マカオとかの近く、中国で言うと南の方の出身の人が多かったですと。
ここからよく来てました。
で、なんでその中華系の人って、あの、中華街エリアに住み始めたのかっていうと、結構説としてあるのは、横浜神殿って埋め立て地で、結構なんと、停止地帯で、
欧米諸国の人たちはそこにあんま住みたくなかったんだよね。
水はけが悪いとか。
欧米諸国の人たちはやっぱ、丘の上の山とかに住んだ。
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あー、あの辺ね。
そう。
そこに住んでたんで、
あの、そういう住み分け、欧米系の人と中国系の人で住み分けが行われた結果、
中華エリアに中華の人が住んだと言われてます。
で、どんどん佳境の人たちは増えていって、
欧米人たちよりもどんどん多くなっていって、
だいたい、えっとね、開港から、開港が59年でだいたい1,892年ぐらい。
まあ、30年ぐらいには、1,000人だったものが3,500人ぐらいになったり。
して、で、1,800年代の末に、日清戦争って、日本と清が戦争するんで、
その時に一回、あの、ガッとみんな本国に引き上げるから、人口減るんだけど、
ただ、日清戦争が終わると、すぐまた戻ってきたりしてます。
で、1,900年代、ほんと直前の、1,889年とかあたりには、
日本で、外国人居留地っていう制度が廃止されて、
まあ、どこにでも、どこにでもって言うと、あれか、あるかもしれないけど、住めるようになりましたと。
だから、日本人の人たちも入るし、中国人の人たちも、ちょっと外に出てくる、みたいな。
ふうにしてって、なんか例えば、磯焼き小蛇町とかあたりで、商売とかして、
でかいシウマイとか、店頭販売するようになってしまいます。
なんか、めちゃくちゃ名物だったらしいよ。
そうなの?
磯焼き所に出たシウマイとか。
めっちゃでかくて、
すげーっつって。
どんどんどんどん。
横浜のシウマみたいなの、そこでちょっと有名になってきて。
へー。
で、中古街も、今のさ、メインの大通りあると思うけど、
お店は違えど、結構にぎわいようになってきます。
道場からあの道はあったんだ。
うん、あった。
へー。
あのルートは、ほんと昔から、埋め立て地のとき、
斜めになってるってやつよね。
そうそう、あれがおもとになって作られてる。
で、当時の家境の人たちの代表的なお仕事は、どんなものをしてたかっていうと、
三馬刀っていう、呼ばれる仕事のくふりがあって、
三つの刃は、把握するの。
うん。
刃。
うん、把握の刃に?
いとおは刀。
うん。
三馬刀って言って。
まあ、三つの刃物というか、三つの刀。
うん。
それは、包丁の料理人。
うん。
髪を切る利用士。
利用士。
あとは、仕立て屋さん。
仕立て屋さん。
あ、服屋さん。
服か。はいはいはい。
この三つが、中学系の人のメインなお仕事でやってました。
当時、日本ってそんな料理とか、洋服とか三馬刀とか、あんま文化なくて。
なかったか。
文化というか、技術というか、西洋風なね。
三馬刀による日本での技術の、日本人の技術の発展みたいな。
うん。
に、こう、やっぱ。
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貢献したというか。
へー。
あったそうです。
で、この時って中華街っていう名前では全然呼ばれてなくて。
うん。
なんて呼ばれてたの?
昔はですね、南京町と呼ばれてたんですよ。
南京町。
南京って南の京って、中国にも南京って。
あるね。
町があるけど、南京町と呼ばれてて。
で、あの、この前村田くんが言った神戸のさ。
中華街の町。
そこ今、南京町って多分呼ばれてると思うんだよ。
そうだったかな。なんかそうだったかな。
昔はそう、なんか横浜も神戸も南京町とか呼ばれてたんだけど。
へー、横浜は中華街。
中華街に変わって、神戸は今も引き続きそれを使ってるらしい。
なるほどね。
そっか、一応ここ中華街って呼んでた気もするけど、南京町とも。
うん。
南京町っていう南京の名前は、昔なんか江戸時代のさ、長崎で貿易してた時に、結構その南京エリアから中国人が来てて。
うん。
当時は日本の人たちは、中国の人たちとか来たものを南京山って呼んでたんだ。
南京山。
南京山って、山は村田さんの山って感じでね。親しみを込めて。南京山、南京山って。
その名残で南京、南京、南京っていう言葉が当時は結構主流でありました。
へー。
なぜ当時そもそも南京って言ったんだ?
南京エリアから来てたからじゃない?中国人の人とか。
あー、じゃあ地名はちゃんと知ってたのか。相手方の。
中国っていう言葉はまだなかったから、彼らのことをなんて言うんだろうって言ったら、あれは南京山南京山って呼んでたのが、それが名残で残ってると。
いうのが、大体1800年代の中華街でございますと。
次は、大体1900年代初めから、戦時中とか戦後くらいの中華街の話をしようと思います。
まずは、イントロってことですね。
徐々にわかり始めてる感があるんだけど、でも最後、古通本の最終的な結論のように、結果わからないに至っていくんだよ。
この時まだ、そもそも中華自民共和国も台湾もないからね。
あ、1100年代。
ここから先に徐々に。
まだこの時の中国人の人の気持ちは、自分たちは真の国の人って感じるから。
あー、なるほどね。
でもこの後、真の国が侵害革命っていう革命で崩壊して、中華民国がこの次の回でやるけど、ができて、さらにその中で戦って台湾と中華自民共和国に分かれていくみたいな。
めちゃめちゃ詳しくなっちゃうね。
もう詳しくなっちゃいますよ。
楽しみだな。
そんな感じで終わりますか。
じゃあまあ、そろそろ花も満開ということで。
今日おしまいにしますか。
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はい、ではまた次の港町レイドでお会いしましょう。
さよなら。