音楽との出会い
こんばんは。今、2025年7月6日の10時前、夜10時前です。
なんかですね、今は。というか、今日の気づきとして、すごく、なんだ、なんか、やだな、うまく言おうとしてるのかな。
えっと、今の感じをそのまま言うと、ちょっとずーんとしていて。
それは、こう、自分が選んでこなかった道だけど、選びたかった道、選びたかった。
そして、その道を選ばないということで、私はすごくやっぱり言い訳をしてたんだなとか。
そして、その道をもう一度選ぶ、もう一度というか、新しくというか、今度こそ選ぶぞという前に、ちょっと震えているような、そんな気分です。
なんか、全然なんのこっちゃって感じなんですけど、私は本当にこう、自分の興味のあることとかを隠して隠して、興味がないふりをして、探求してるつもりだけど、すごく片手間で没頭してこなかったなって思ってます。
やってくれよかったのにっていうとも思う。
うーん、そういう後悔も今の気持ちの中にありますね。
やってくれば今頃もっと違ってたかもしれないのにっていうのは、なんか頭の声っぽいな。
まあ、それは良い子なしということでと言いたい。
まあ、それは置いといて。
本当は今何で撮ろうと思ったかっていうと、さっきまで見ていたテレビでN教のクラシックの番組がやっていて、私は結構小さい頃からクラシックも聞くのが好きで。
で、今日のたまたま今はテレビを、あの風呂上がってからテレビをつけた時にやってたのがペトリューシカでした。
ペトリューシカっていう人形たちが出てくる曲ですね。
でもなんか目が離せなくて、その耳に馴染みがあるのは本当にあの有名なフレーズぐらいで。
過去にも何回か聴いてるけど、本当今日も初めて聞くわみたいな歌手もたくさんあるんですけど。
なんか思ったのはすごく何でしょうね、やっぱ音楽って言葉じゃないんだなっていうことを改めて思うというか。
一応多分ストーリーとかあるんですよね。作曲者ストラウィンスキーが感じて表したかったことっていうのも彼自身あったと思うんだけど。
なんかその、それがなんであれ、受け止めての私は彼の中の真実を知るっていうことはあんまりできない、答え合わせすることはできないんですけど。
でもなんかその身を浸している、その時その時一瞬一瞬のハーモニーだったりとかそのリズムの中に身を浸して感じている中で、
なんかすごいこみ上げてくるような部分があったり。
なんて言うんでしょうね、すごいなんか光にあふれてるなって思う箇所があったり。
あとは本当に何でしょう、私はやっぱりこの中低音のユニゾンが好きだなっていう単純なその自分の好みを改めて刺激されてキュンってしたりとか。
なんかマンダラを感じたんですよね。
最近立体マンダラについて語られている動画を見かけて、その中で言われていた世界をマンダラで理解するっていう捉え方、言葉だったりその概念っていうのがこの数日私の中でも響き続けていて。
なんだったっけ、なんでそう思ったのかちょっと今なんだったっけって感じなんですけど。
その世界をマンダラで理解するっていう話は、物事、世の中を本当に理解しようと思えば全て善悪を超えてみる必要がある。
善悪を超えて全てはただそれぞれのありようのままに存在していて、それが相互に関連しながら一つのマンダラを描いているんだっていうふうに。
逆にそういう捉え方をしようとしなければ真に今の世界情勢を理解することはできないんじゃないかっていうことを話されていて。
音楽もそうだなって思ったんですね。
それぞれの楽器が受け持っているメロディやリズムがあってパートがあって、いわゆるスコアの縦だけじゃなくて横に向けても次々に推移していくフレーズ、展開していくメロディだったりそういったものがあるんですけど。
それらの一つ一つを解釈しようとか、このフレーズは今ペトリューシカがどうなってとか、このフレーズは今ムーア人が出てきてこういう動きをしてとか。
そういうふうに解釈できるものももちろんあると思うんですけど、なんか今日感じたのは私もそこまでペトリューシカのストーリーっていうのが思い出せなかったのもあるんですけど。
なんかひたすら展開していく絵を、なんていうんだろう、展開していく光の中にただただ自分の身を浸していく、ひたすら楽器たちが受け持つ音色の中に自分の身を浸していく、なんかそれだけでいいんだっていうふうに思えたんですよね。
そうそう、頭でこれは何のフレーズで、これは何を意味していてっていう解釈とかを抜きに、ただひたすら浴び続けるハーモニーを、リズムを、メロディーをっていう聞き方がすごい今の私に心地いいなって思って。
なんかそれがふとそのマンダラみたいだなって思うんです。
多分、確か。
最後に指揮の方が、指揮者の方が、曲が終わった後も本当にしばらくタクトを上げたまま静止していたんですね。
指揮者がタクトを下ろさない限り、演奏者たちもその楽器を下ろすことなくやっぱり静止をしているので、すごくその静かな時間というのが長くあったんですけど、
曼荼羅の理解
その、多分戸惑う人もいたんじゃないかぐらい長い時間が、なんとなくですけど私には、そのペトリューシカを痛むような、その死を痛むような時間、なんか祈りだったように思えて。
そうそうそう思い出した、マンダラ。
なので、あのとはいえ、その最後の瞬間がそのペトリューシカという登場人物の非合の死だったのかなに向けられた時間だったようにも感じられたし、それだけじゃなくて、
じゃあこの集まって演奏している演奏者の皆さん一人一人、この表現者一人一人が何を表現しているかというと、感じたのは単純にそのストーリーの中の、あのかわいそうな人形ペトリューシカのストーリー、ペトリューシカのかわいそうなストーリーというのを表現しているわけではなくて、
なんかもっと大きい、そのいわゆるペトリューシカだけに衝動が当てるのではなく、ペトリューシカを取り巻く踊り子やムア人や人形使いや、それらを含み、そのもっと周りの雑踏、道の辻、その国、人々のその、なんていうんだろう、雑踏の一息れ、足音、ざわめきとか、
なんかそうそうそういうもの、そういうのがマンダラで、それを表現しているっていう気がしたんですね。
ただ一人のなんかこう、登場人物のドラマではなくて、それは含まれている、その場のすべてを、この人たちは、それぞれ楽器が違うように見えて、
その世界のタペストリーを織りなすということで一致しているんだ、このマンダラを描くということに一致している。
彼らが描いているのは単純に一人の登場人物のドラマではなく、それを含んだ全体を、この音楽で、息で、音色で、それを集めることで、表現、作り上げようとしているんだ、生み出そうとしているんだと思った時に、
すごい、すごい仕事だなぁ。何て言うんでしょうね、言葉にできないけど、圧倒される思いがしましたね。
そうそう、そうやって途中で、これは決してペトリューしか一人ではなくて、彼を取り巻くその世界の、そしてその世界の移り様を、全体をマンダラとして描こうとしてるんだっていうふうに思った。
しかし一方でその最後、演奏が終わり、全ての音が消えたその後に、指揮の方が振り上げたタクトを、振り上げた手を下ろすまでの長い沈黙の時間というのが、とはいえ私はその最後、ペトリューしか一人に向けられた、
表現と沈黙
沈黙の時間だったように思われて、なんか、はぁーって思ったっていう。好きな曲を聴くのが好きなんですけど、知ってる曲とか耳に馴染みがある曲を聴く心地よさっていうのはもちろんあって、
でもこう、あんまり私の覚えにない、なんとなくは知ってる、で割と好きっていう曲ではあるんですけど、なんかそれだけじゃない、本当に全く知らない曲っていうものをじっと聴くっていう経験、体験もすごくいいなって思って。
なんかそれってこう、やっぱりもう頭の出る膜じゃなくて、本当にもうただただ体と一緒に聴くしかないなっていう気がして、すごいなって思ったっていう感じでした。
なんか今日はそんな感じですね。
そして私は本当に自分に没頭を許してこなかったし、なんかっていう一番最初の話に戻るんですけど、逆に没頭しない、なんだろうな、没頭しないことで自分の未熟さとか限界っていうのを見るのを避けられたっていう面もあったと思うんですよね。
やっぱり逃げてた。
逃げてた?
そうだな、目をそらすために利用したっていう言い方も近いかもしれない。
もういいかっていう気持ちと、とりあえずそういう気持ちがあったよね、あるよね、いるよねっていうことにただ気づくっていう。
なんかこれここで、いやそんなことはダメだ、もう私は逃げることをやめて進むのよっていうふうに思ったところで、
そうやってこう無理に意思の力を使おうとするとすぐになんか頭が、じゃあどうやってとか、何すんのとか、なんか張り切り出しちゃう気がするんで。
なんかとりあえず今はそういう、なんだろうな、棘に、棘が刺さっていることに気づいたっていうのを、棘を感じる、棘に気づく。
そして私はその棘ではなく、なんて言うんですかね、棘に気づいている方の意識でいるというか。
まあ差し当たって何をするっていうことであれば、なんかそれかなって感じですね。
そう、Doではない。Doをしようとすると頭が動いちゃう気がするから。
ただ見てる、感じてる、なんだろう、眺めている、眼差しを向けている、なんかそんな感じですかね。
でもそう、気づけてよかったなとも思うので、ちょっと今夜はその記念でもあるかなと思って撮りました。
気づく、てか、気づいてる。
そうですね、何はともあれっていう感じかな。
起きてるな、何が起きても、でもそれは起きてる側のことだから。
起きてるっていうのは自分の心の中の動きだったり、実際に身の回りの物理的なことでも。
起きてる、動いてる、感じてる、けどそれに気づいてるっていう意識自体が、なんかやっぱり心地いいなって私は思うので、
なんかそっちの方の気づいてるっていう意識の方により軸足を置いて過ごしてみようかなって思います。
そんな感じですね、今日は。
今まで聞いてくださってありがとうございました。
お会いできたら嬉しいです。
では。